聴罪司祭が科す
償いは、悔い改める者の個人的状況を考慮しながら、当人の霊的助けになることを目指すものでなければなりません。また、犯した罪の重さと性質にできるだけ相応するものであるべきです。償いには、祈り、寄付、慈善のわざ、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、とくにわたしたちが担わなければならない苦しみを忍耐強く受容することなどがあります。キリストはお一人でわたしたちの罪をただ一度で完全に償ってくださいましたが
58、このような償いは、そのキリストにわたしたちが似た者となれるよう助けてくれます。わたしたちはこの償いによって、復活されたキリストとの共同の相続人となることをゆるされます。キリストと「ともに苦しむ」(ローマ8∙17)からです
59。
「しかし、わたしたちの罪のために果たす償いは、キリスト・イエスによるものであるから、わたしたちのものでないということではありません。なぜなら、わたしたち自身では何もできませんが、『わたしたちを強めてくださるかた』の協力によって『わたしたちはすべてができる』からです60。わたしたち自身は何も誇るものを持ちませんが、わたしたちの栄光はキリストの中にあります。そのキリストの中でわたしたちは……罪を償い、『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』のですが61、それはキリストの力から出たものであり、キリストによって父にささげられ、キリストを通して父に受け入れられるのです」62。
La
penitencia que el confesor impone debe tener en cuenta la situación personal del penitente y buscar su bien espiritual. Debe corresponder todo lo posible a la gravedad y a la naturaleza de los pecados cometidos. Puede consistir en la oración, en ofrendas, en obras de misericordia, servicios al prójimo, privaciones voluntarias, sacrificios, y sobre todo, la aceptación paciente de la cruz que debemos llevar. Tales penitencias ayudan a configurarnos con Cristo que, el Único, expió nuestros pecados
71 una vez por todas. Nos permiten llegar a ser coherederos de Cristo resucitado, “ya que sufrimos con él”
72:
«Pero nuestra satisfacción, la que realizamos por nuestros pecados, sólo es posible por medio de Jesucristo: nosotros que, por nosotros mismos, no podemos nada, con la ayuda “del que nos fortalece, lo podemos todo”73. Así el hombre no tiene nada de que pueda gloriarse sino que toda “nuestra gloria” está en Cristo (…) en quien nosotros satisfacemos “dando frutos dignos de penitencia”74 que reciben su fuerza de Él, por Él son ofrecidos al Padre y gracias a Él son aceptados por el Padre»75.