[1]
神は、無限に完全、他によることのない至福そのものであって、ただいつくしみによる計画から、ご自分の至福ないのちにあずからせる人間を自由に創造されました。したがって、いつ、どこでも、人間に親身に心を配り、呼びかけ、人間が全力を尽くしてご自分を求め、知り、愛することができるよう助けておられます。神は、罪によって四散したすべての人をご自分のただ一つの家族、教会のうちに呼び集めておられます。そのため、時が満ちたときに、御子をあがない主、救い主としてお遣わしになりました。神は御子のうちに、御子によって、すべての人を招き、聖霊において、ご自分の子とし、したがってご自分の至福のいのちの相続人となるように呼びかけておられます。
[2]
この呼びかけが世界中に響きわたるよう、キリストはご自分で選んだ使徒たちに福音を告げ知らせる任務を与え、彼らを派遣されたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ 28∙19-20)。この使命を受けた使徒たちは、「出かけて行って、至るところで宣教し〔まし〕た。主は彼らとともに働き、彼らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しに」(マルコ 16∙20)なりました。
[3]
神の助けにより、キリストの呼びかけに耳を傾け、これに自由に応じた人々が、今度は、キリストの愛に駆られ、世界の至るところで福音を告げ知らせるようになりました。使徒たちから受けたこの宝は、後継者たちによって忠実に守られました。すべてのキリスト者は信仰を告げ、兄弟姉妹として分かち合いのうちに信仰を生き、典礼と祈りの中で祝いながら、この宝を代々に伝えていくように招かれています使徒言行録2・42参照。。
[4]
教会は、人々を弟子とし、人々が信仰によってイエスのみ名によっていのちを得るためにイエスを神の子として信じるように助け、またその生き方を導き、教えて、キリストのからだを築くために力を尽くしています。これらはまとめて、早くから、カテケージスと称されていましたヨハネ・パウロ2世『要理教育に関する使徒的勧告』1(Catechesi tradendae: AAS 71 [1979] 1277-1278)参照。。
[5]
「カテケージス(要理教育)は、一般的にいって、児童、青年、大人の信仰教育で、これは信者をキリスト教的生活に導くために、普通は組織的かつ体系的に行われるキリスト教教理の教授を特徴としています」同18(loc. dt., 1292)。。
[6]
カテケージスは、教会の司牧的使命に属する多くの要素を含んでいます。実際、カテケージスはそのような要素と混同されるものではないにしても、それらの要素はカテケージスの準備となったり、結果として生まれてくるものであるという点で、カテケージス的な側面を持っています。それは次のようなものです。すなわち、福音の最初の告知ないし信仰を起こさせるための宣教的説教、信じる理由の探究、キリスト者の生活の経験、秘跡の挙行、キリスト教共同体への完全な参加、使徒的かつ宣教的あかし、などです同18(loc. cit., 1292)参照。。
[7]
「カテケージスは教会の生活全体に固く結ばれています。地理的拡大および数的増加だけでなく、いやそれにもまして、教会の内的成長と神の計画への対応は、主としてカテケージスに依存しています」同13(loc. cit., 1288)。。
[8]
教会の刷新の時期はまた、カテケージスの全盛期でもあります。教父時代の盛期には、聖なる司教たちが聖務のかなりの時間をこれに割いているのが見られます。たとえば、エルサレムの聖チリロ、聖ヨハネ・クリゾストモ、聖アンブロジオ、聖アウグスチヌスやその他の多くの教父たちで、これらの人々のカテキズムは依然として模範的なものです。
[9]
カテケージスを通しての奉仕は、つねに諸公会議から新しい力をくみ取りました。中でもトリエント公会議はそのみごとな例を示しています。すなわち、この公会議はその憲章と教令の中で、カテケージスをとくに重要視し、トリエントの名を冠する『ローマ・カテキズム』が編集されるきっかけとなりました。これはキリスト教教理の要約書として第一級の著作です。同公会議はさらに、注目に値するほど、教会内でカテケージスの組織化を引き起こしました。その後、聖ペトロ・カニジオ、聖カロロ・ボロメオ、聖トゥリビオ・ド・モグロベホ、聖ロベルト・ベラルミノなどの聖人司教、神学者のおかげで、数々のカテキズムが次々に刊行されました。
[10]
ですから、教皇パウロ6世によって「近代の一大カテキズム」とみなされた第2バチカン公会議に従って起こった運動の中で、教会のカテケージスが新たに注意を引いたのは驚くにあたりません。このことは 1971 年の『カテケージス一般指針』、福音宣教(1974 年)とカテケージス(1977 年)にささげられたシノドス、これらに対応する使徒的勧告『福音宣教(エヴァンジェリイ・ヌンチアンディ)』(1975 年)、『要理教育に関する使徒的勧告(カテケジ・トラデンデ)」(1979 年)によって裏づけられています。1985 年の臨時シノドスは、「信仰および道徳に関するカトリック教理を網羅するカテケージス、または概説書が作成される」臨時シノドス最終報告「神のみことばで世界の救いのためにキリストの神秘を祝う教会」 (Ecclesia sub Verbo Dei mystena Christi celebrans pro salute mundi. Relatio finalis II, B, a, 4 [Citta del Vaticano 1985] 11)。ことを要望しました。教皇ヨハネ・パウロ2世は、「この要望が普遍教会と部分教会の真の必要にまったくかなっている」ヨハネ・パウロ2世「臨時シノドス閉会式におけるあいさつ(1985年12月7日)」 6(AAS 78 [1986] 435)。ことを認めて、シノドスへの賛同を表明し、シノドスの教父たちの要望の実現に全力を注いだのです。
[11]
本書の目的は、信仰と道徳に関するカトリック教理の本質的、基本的内容を、第2バチカン公会議と教会伝承の全体に照らして、有機的、体系的に説明することにあります。その主要な源泉は聖書、教父、典礼、教会教導権の教えです。このカテキズムは、「それぞれの国で作成されるカテキズムもしくは要約書の基準のようなもの」臨時シノドス最終報告(op. cit., 11)。として役立つことを目指しています。
[12]
本書は、主としてカテケージスの責任者、すなわち、まず教会の信仰の教導者、司牧者としての司教にあてられています。神の民を教える責務を果たすための道具として提供されたのです。司教を通して、カテキズム編纂者、司祭、カテキスタにもあてられています。さらに、すべての信徒のためにも有益な書物となるでしょう。
[13]
本書の構造は、洗礼のときの信仰宣言(信条)、信仰の諸秘跡、信仰に基づく生活(おきて)、信じる者の祈り(主の祈り)の四つの「支柱」を軸としてカテケージスを展開する、カテキズムの主要な伝統に従っています。
[14]
信仰と洗礼によってキリストに属する人々は、洗礼の際に表明した信仰を人々の前で告白しなければなりませんマタイ10・32、ローマ10・9参照。。そのため、カテキズムはまず、神が人間に語りかけ、ご自分を与えられる啓示と、人間が神にこたえる信仰とは何かを説明します(第1部)。信条は、神がすべての善の創造主、あがない主、聖化の主として人間に与えてくださったすべての恵みを要約し、これを洗礼の「三つの章」を軸に展開していきます。すなわち、全能の父、創造主である唯一の神と、その御子であるわたしたちの主、救い主イエス・キリストと、聖なる教会における聖霊への信仰が説明されます(第2部)。
[15]
カテキズムの第2編は、キリスト・イエスと聖霊によって一度決定的に成就した神の救いが、教会典礼の聖なる行為(第1部)のうちに、とくに七つの秘跡(第2部)のうちに、どのようにして現在化されるのかを説明します。
[16]
カテキズムの第3編は、神の姿にかたどって造られた人間の究極目的である至福を示し、また、それに至る道、神のおきてと恵みに助けられた、正しく、自由な行動(第1部)、すなわち神の十戒によって展開された二重の愛のおきての実践(第2部)を説明します。
[17]
カテキズムの最後の部分は、生活における祈りの意義と重要さについて論じます(第1部)。これは、主の祈りの七つの願いを簡潔に解説して閉じられます(第2部)。実に、この七つの願いには、わたしたちが希望すべき、また天の御父がわたしたちに与えようとされるすべての善が見いだされるのです。
[18]
本書は、カトリック信仰全体を有機的に提示するものです。したがって、一貫性のある全体として読まなければなりません。本文の枠外にある多くの参照箇所(同じ内容を論じる他の項の参照箇所を示すイタリックの数字)と巻末のテーマ別索引 * は、各テーマが信仰の全体とどのように関連しているかを明らかにします。*2002年1月17日に開催された常任司教委員会の第7号議案において「早期の出版が求められているため、初版は『索引』をつけずに出版する」と決議されました。
[19]
しばしば、聖書の箇所は文字どおり引用されず、注に出典を指示する「参照」だけの場合があります。このような箇所を深く理解するには、聖書自体を読むのが適当です。これら聖書の典拠は、カテケージスの研究を助けるものです。
[20]
小字が使用されている幾つかの箇所は、歴史的、護教的な備考、あるいは補足の教理的説明です。
[21]
教父、典礼、教導権の教え、あるいは聖人伝から取った小字の引用は、教理的な解説を豊かにするためのものです。しばしば、これらの引用箇所はカテケージスに直接役立たせるために選ばれました。
[22]
各テーマ単位の終わりに、一連の短い文で教えの要点を集約しました。これらの「要約」は、各地域でカテケージスを行う場合、総括的で暗記できる文章を作成するための助けになるでしょう。
[23]
本書は教理の説明に重きを置いています。信仰の知識を深める一助となることを意図しているのです。まさにそのことから、この信仰が成熟し、生活に根を下ろし、あかしとなって輝き出るように方向づけられていますヨハネ・パウロ2世『要理教育に関する使徒的勧告』20-22,25doc. cit., 1293 1296. 1297-1298)参照。。
[24]
本書はその目的からいっても、カテケージスの対象となる人々の多様な文化、年齢、霊的成熟、社会的・教会的立場の相違に適応する説明と教授法を提示するものではありません。こうした不可欠な適応は、それぞれに適したカテキズム作成のとき、それにも増して、信徒を教育する人々によってなされるべきです。
「教える者は、イエス・キリストによって万人を照らすために、すべての人に対してすべてのものにならなければなりません……。とくに、自分にはただ一つの種類の人々だけがゆだねられ、だから、ただ一つの同じ方法で、いつも同じ方法で、すべての信者に等しく教え、真の敬神の心を培ってよいと思い込んではいけません。知ってほしいことは、ある人々は、イエス・キリストにおけるいのちの点で、新生児のような者であり、ある人々は青少年のような者であり、そして、他の人々は成熟した人のような者であるということです……。みことばの奉仕職に召された者は、神秘、信仰の教え、道徳上の規則を伝えるにあたって、自分のことばを聴衆の精神と知力に合わせなければなりません」『ローマ・カテキズム』序文11(Catechismus Romanus seu Catechismus ex decreto Concilii Tridentini ad parochos, Pn V Pontifids M,(mmi lussu ed. P. Rodriguez, [Citta del Vaticano Pamplona 1989] 11)。。
[25]
この序論を結ぶにあたり、『ローマ・カテキズム』がうたう次の司牧原理を述べるのは時宜にかなっているでしょう。
「使徒が模範を示してくれた、終わることのない愛をすべての教理と教えの目的にするというのが、確かによりよい方法です。信じ、希望し、行うべきことを説明するときには、わたしたちの主の愛がいつも現れるようにしなければなりません。申し分のないキリスト教的なすべての徳行は、初めから終わりまで、ただ愛によって貫かれていることを、一人ひとりが悟るためです」同序文10(op. cit., 10)。。