[101]
神は、限りない慈悲によって人間にご自分を啓示するため、人間のことばで語られます。「実際、かつて永遠の父のみことばが、人間の弱い肉をつけて、人々に似たものとなったように、人間の用語で表された神のことばは、人間の話に酷似するものとなっています」68。
[102]
聖書のあらゆることばを通して、神はただ一つのことばを語られます。それは唯一のみことばであり、その中でご自分のすべてを説明なさいます
69。
「思い出してください。聖書の初めから終わりまで述べられているのは、神の一つの同じみことばです。すべての聖書記者の口から響き出るものは、一つの同じみことばです。そのみことばは、初めから神のもとにおられる神として時間的な存在ではないから、音節を必要となさいません」70。
[103]
それゆえ、教会は主のからだを崇敬するのと同じように、聖書をつねに敬ってきました。教会は、神のことばとキリストのからだの食卓から受ける生命のパンで、たえず信者を養っていきます71。
[104]
教会は聖書の中に、つねにその糧と力を見いだします72。なぜなら、聖書の中で、単なる人間のことばではなく、神のことばそのものを受け取っているからです73。「聖書において、天におられる父は、深い愛情をもって、つねにご自分の子供たちと会って、互いに語り合うのです」74。
[105]
神が、聖書の作者です。「聖書に含まれ、かつ、示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものです」。
「尊き母なる教会は、旧約および新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なるもの、正典であるとしています。なぜならそれらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会に伝えられているからです」75。
[106]
神は、人間である聖書記者に霊感を授けました。「神は、聖書の著作にあたって、固有の能力と素質を持った人間を選んで、これをお使いになりました。それは神が彼らの内に、また彼らによって働く間に、彼らが、神が望むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として書くためです」76。
[107]
霊感によって書かれた書は、真理を教えます。「それゆえ、霊感を受けた作者、つまり、聖書作者が断言していることは、聖霊から断言されたこととすべきであり、したがって、聖書は、神がわたしたちの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教えるものであるといわなければなりません」77。
[108]
とはいえ、キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「ことば」の宗教であって、そのことばは、「記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです」78。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、「聖書を悟らせるために」聖霊によってわたしたちの「心の目を開いて」79くださることが不可欠です。
[109]
聖書の中では、神は人間的な表現で人間に話されます。したがって、聖書を正しく解釈するには、人間の著者たちが実際に主張しようと意図したことと、神が著者たちのことばを通してわたしたちに示そうとされたこととに留意しなければなりません80。
[110]
聖書記者たちの意図を発見するために、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時普通であった感じ方、話し方、物語り方を考慮する必要があります。「実際、種々の方式での歴史的な、あるいは預言的な、あるいは詩的な書において、またその他の表現形式において、真理は違った方法で語られ、かつ表現されています」81。
[111]
しかし、聖書は霊感によって記されたものですから、これを正しく解釈するには、前述のものに劣らず重要な、もう一つの解釈原理があります。それなしには、聖書は「死んだ文字」にとどまるでしょう。「聖書は、それが書かれたのと同じ霊の光のもとに読まれ、解釈されなければなりません」82。
第2バチカン公会議は、聖書を、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するため、三つの基準を示しています83。
[112]
①
「聖書全体の内容と一体性」に特別な注意を払うこと。なぜなら、聖書は異なる書から成り立っていても、神の計画の一貫性のゆえに一つだからです。その計画の中心とも心ともいうべきもの、それはイエス・キリストであり、イエスの死と復活以来、それが明らかにされたのです
84。
「キリストの心とは85キリストの心を知らせる聖書を指しています。この心は受難の前には閉じられていました。すなわち、聖書の意味は、明らかでなかったのです。しかし、聖書は受難後に開かれました。なぜなら、キリストの受難後、聖書の知識を持っている人々は預言をどのように解釈すべきかを考察し、識別できるからです」86。
[113]
②「教会全体の生きた伝承」に従って聖書を読むこと。教父たちの教えによると、聖書は、文字どおりに読むよりも、教会の心で読むほうがまさっています87。事実、教会はその伝承に神のことばを生き生きと保ち続けており、さらに、「霊が教会に与える霊的意味に従って」88聖書を霊的に解釈する力を聖霊が教会に与えるのです。
[114]
③信仰の類比89に留意すること。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。
[115]
古くからの一つの伝統に従えば、聖書のことばの意味は、文字どおりの意味と霊的意味との二つに区別することができます。後者は寓意的、道徳的、天上的意味とに細分されます。これら四つの意味は根本的には一致し、教会の中にあって聖書を読むとき、読書を豊かにするものです。
[116]
文字どおりの意味。これは聖書のことばが表している意味で、正しい解釈の規則に従う聖書解釈によって考案されます。「聖書のすべての意味は、文字どおりの意味を土台にしています」90。
[117]
霊的意味。神の計画の一貫性のおかげで、聖書の文だけではなく、また、文が語ることがらや出来事もまた、別のことを示すしるしでありえます。
①寓意的意味。わたしたちは、聖書に示されているさまざまな出来事がキリストに関連づけて何を意味しているかを認めることによって、これらの出来事の意味をより深く理解できます。たとえば、紅海の通過はキリストの勝利を意味し、またそのことから、洗礼を意味します91。
②道徳的意味。聖書に記されている出来事は、わたしたちを正しい行動に導くはずです。それらは「わたしたちに警告するため」(一コリント10∙11)に書かれました92。
③天上的意味。ことがらや出来事の永遠の意味を考えることもできます。それらの出来事は、わたしたちを天の「祖国」に導くもの(ギリシア語でアナゴゲーἀναγωγή)です。たとえば、地上の教会は天上のエルサレムのしるしです93。
[118]
中世のある二行詩は、これら四つの意味を次のように要約しています。
「字義は出来事を、寓意的意味は何を信じるべきかを、道徳的意味は何を行うべきかを、天上的意味はどこに向かうべきかを教える」94。
[119]
「このような諸原則に従って、聖書の意味を深く理解し、説明するために努力し、いわば、準備的な研究によって、教会の判断が熟するようにするのが聖書解釈者の任務です。実際、聖書解釈に関するこれらすべてのことは、結局は神のことばを保存し、解釈する神的命令と使命とを果たす教会の判断のもとにおかれています」
95。
「もし、カトリック教会の権威がわたしをそう促すのでなければ、わたしは福音を信じはしないでしょう」96。
[120]
どの書が聖書のリストのうちに入れられるべきかを教会に識別させたのは、使徒伝承です97。その完全なリストが聖書の「正典」と呼ばれます。それは旧約聖書四十六書(エレミヤ書と哀歌を一つに数えれば四十五)と新約聖書二十七書からなります98。
旧約聖書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記上・下、列王記上・下、歴代誌上・下、エズラ記、ネヘミヤ記、トビト記、ユディト記、エステル記、マカバイ記一・二、ヨブ記、詩編、歳言、コヘレトの言葉、雅歌、知恵の書、シラ書(集会の書)、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、バルク書、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。
新約聖書:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書、使徒言行録、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一・二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一・二、テモテへの手紙一・二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一・二・三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。
[121]
旧約聖書は、聖書の欠くことのできない部分を成しています。その諸書は霊感によって書かれ、永続する価値を持っています99。なぜなら、古い契約は決して無効になったわけではないからです。
[122]
実際、「旧約の経綸は何よりもまず、万物のあがない主キリストの到来を準備し、預言的に知らせるために立てられました」。「不完全かつ一時的なことも含んでいますが」、旧約聖書の諸書は人を救う神の愛の教育法をよく示しています。それらの書は、「神に関する崇高な教えと人間生活に関する有益な知恵と祈りのすばらしい宝を納め、かつまた、わたしたちの救いの神秘を秘めています」100。
[123]
キリスト者は旧約聖書を神の真のことばとして敬います。教会は、旧約聖書が新約聖書によって無効にされたとしてこれを退ける考え(マルキオン主義)を、いつも強硬に排斥してきました。
[124]
「神のことばは、すべての信じる者にとって救いのための神の力ですが、そのことばは、新約聖書においてとくに優れた方法で示され、そしてその力を発揮しています」101。新約聖書の諸書は神の啓示の決定的真理をわたしたちに伝えます。その中心的内容は、人となられた神の御子イエス・キリスト、そのわざ、教え、受難、栄光化、そして聖霊の働きに基づくキリストの教会の発足です102。
[125]
福音書は、「わたしたちの救い主である託身のみことばの生涯と教えとに関するおもな証言ですから」103、全聖書の中心となるものです。
[126]
福音書の成立には三つの段階を区別することができます。
①イエスの生涯と宣教。教会が断固として主張し続けることですが、「教会は四福音書の歴史性をためらわずに断言し、神の子イエスが人間の間で生を送り、彼らの永遠の救いのため天に上げられる日まで、実際に行いまた教えたことを、それらの福音書が忠実に伝えていることを主張します」。
②口伝。「使徒たちは、主の昇天後、キリストの栄えある出来事に教えられ、真理の霊の光に照らされる、確信を与えられて持っていたいっそう深い理解をもってキリストの言行を聴衆に伝えていました」。
③福音書。「聖書作者は四福音書を書くにあたって、口伝と書き物とによって伝えられていた多くのことがらの中から選択し、あることがらを総合し、あるいは教会の事情に留意しながら説明し、そして宣教の形式を保ちながら、イエスに関して、つねに真理と真実とをわたしたちに知らせるようにしました」104。
[127]
四福音書は教会の中で一つの卓越した位置を占めていますが、そのことは典礼が払う崇敬とそれがあらゆる時代に聖人たちに及ぼした比類のない影響力とによって示されています。
「福音書以上に優れ、貴重で、光に満ちた教えはほかにありません。わたしたちの主であり師であるキリストが、そのことばによって教え、行いによって実現したことを見、心に銘記してください」105。
「念禱の間に、わたしの霊魂を養っているのは何よりも福音書です。その中に、わたしの哀れな霊魂に必要なすべてを見いだします。そこに新たな光、隠された、神秘的な意味をいつも発見します」106。
[128]
教会はすでに使徒時代から107、またその後の伝承の中でたえず、予型論を用いて二つの契約の間に見られる神の計画の一貫性を明らかにしてきました。この予型論は旧約時代の神のわざのうちに、時が満ちて人となられた御子において神が実現されたことの前表を見分けます。
[129]
したがって、キリスト者は旧約聖書を、死んで復活されたキリストに照らして読むのです。この予型論的な読み方によって、旧約聖書のくみ尽くすことのできない内容が明らかになります。しかし、旧約聖書は、主ご自身によってあらためて確認されたように108、それ自体で啓示としての価値を保っていることを忘れるべきではありません。実際、新約聖書もまた、旧約聖書に照らして読まれる必要があります。古代教会のカテケージスは、たえず旧約聖書を活用しています109。古くからいわれているように、「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」110ために、新約聖書は旧約聖書の中に隠され、旧約聖書は新約聖書の中で明らかにされるのです。
[130]
予型論は、「神がすべてにおいてすべてになられる」(一コリント15∙28)ときの、神の計画の完成に向かう力強い歩みを示すものです。ですから、たとえば、族長たちの召し出しやエジプト脱出は、神の計画の中のそれぞれの段階を示しているので、固有の価値を失ってはいません。
[131]
「神のことばは、教会にとっては支えと気力となり、教会の子供にとっては、信仰の力、魂の糧、霊的生命の清く尽きない泉となるような威力と性質を持っています」111。「キリスト信者には、聖書に近づく多くの機会が与えられなければなりません」112。
[132]
「したがって、聖書研究はあたかも神学の魂のようなものでなければなりません。ことばの奉仕職、すなわち、司牧的説教、要理教授、各種のキリスト教教育、この中で、典礼中の説教は特別の地位を占めるべきですが、これらは、聖書のことばによって、健全な栄養と聖なる活力を与えられます」113。
[133]
教会は「すべてのキリスト信者……に、しばしば聖書をひもといて、『イエス・キリストの崇高なる知識』(フィリピ3∙8)を学ぶよう、特別にまた強く勧めます。『実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことです』」114。
[134]
聖書全巻は、一冊の書です。この一冊の書、それはキリストなのです。「聖書全巻はキリストについて語り、聖書全巻はキリストにおいて完成するからです」115。
[135]
「聖書は神のことばを含んでおり、それは霊感によるので、真に神のことばなのです」116。
[136]
聖書の作者は神であり、聖書記者に霊感を与えながら、彼らのうちにあって、彼らを通して働かれます。こうして、神は彼らの書が救いの真理を誤りなく教えることを保証しておられます117。
[137]
霊感によって書かれた聖書を解釈するにあたっては、まず、神がわたしたちの救いのために聖書記者を通して啓示しようとされたことに留意しなければなりません。霊に由来するものは、霊の働きによってしか十分には理解されないのです118。
[138]
教会は、旧約聖書の四十六書と新約聖書の二十七書を、霊感によるものとして受け入れ、敬います。
[139]
四福音書が中心的位置を占めますが、それはイエス・キリストを中心としているからです。
[140]
新約・旧約聖書の一貫性は、神の計画と啓示との一貫性に由来します。旧約聖書は新約聖書を準備し、新約聖書は旧約聖書を成就します。両者は相互に照らし合います。両者とも、神の真のことばです。
[141]
「教会は主の聖体と同様に、聖書をつねに尊敬し……てきました」119。この二つはキリスト者の全生活の糧であり、規範です。「あなたのみことばは、むたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」(詩編119∙105)120。