[1020]
自分の死をイエスの死に結びつけるキリスト者は、死をキリストのもとへ行き、永遠のいのちに入ることとみなします。教会は臨終のキリスト者に、これを最後としてキリストのゆるしのことばを唱え、力を与える塗油によって信仰を固め、旅路の糧としての聖体のキリストを授けた後、愛情のこもる確信をもって臨終者にこう語りかけます。
「キリスト者の魂よ、あなたを造られた全能の父と、あなたのために苦しまれた生ける神の子イエス・キリストと、あなたのうちに注がれた聖霊とのみ名によってこの世を去りなさい。今日、平安のうちに憩い、聖なるシオンで神と神の母おとめマリア、聖ヨセフ、諸天使、神のすべての聖人とともに終わりなくとどまりなさい。……あなたを地のちりから造られた創造主のもとへ戻りなさい。願わくはあなたの霊魂が肉体を離れるとき、マリアと諸天使、諸聖人が急いであなたを出迎えてくれますように。……願わくはあなたのあがない主に対面できますように」 『病者の塗油(親範版)』 「臨終の人のための祈り」 146-147(Ordo Unctionis infirmorum eorumque pastoralis curae, Ordo commendationis morientium, editio typica [Typis Polyglottis Vaticanis 1972] 60-61)。。
[1021]
人生というものはキリストのうちに現された神の恵みを受け入れることも拒否することもできる期間ですが、死はこれに終止符を打つのです2テモテ1・9-10参照。。新約聖書は、裁きについて再臨されるキリストとの最終的出会いを背景に語っていますが、各自が死の直後にそれぞれのわざと信仰とに応じて受ける報いについても、繰り返し明言しています。貧しいラザロのたとえルカ16・22参照。や回心した犯罪人に向けた十字架上のキリストのことばルカ23・43参照。は、新約聖書の他の箇所と同じように2コリント5・8、フィリピ1・23、ヘブライ9・27,12・23参照。、霊魂の最終的な行く末がそれぞれに異なることを語っていますマタイ16・26参照。。
[1022]
人は死んだらすぐ、人生におけるキリストとのかかわり合いについての私審判の結果に基づき、その不滅の霊魂において永遠の報いを受けます。それは、清めを経た上で天の至福に入るか
第2リヨン公会議「皇帝ミカエル・パレオログスの信仰告白」 (DS856)、フィレンツェ公会議『ギリシア人のための教令』 (Decretum pro Graecis : DS1304)、トリエント公会議第25総会『煉獄についての教令』 (Decretum de purgatorio : DS1820)参照。、あるいは直接に天の至福に入るか
第2リヨン公会議「皇帝ミカエル・パレオログスの信仰告白」 (DS857)、ヨハネス22世大勅書『ネ・スペル・ヒス』 (Ne super his:DS991)、ベネディクトゥス12世憲章『ベネディクトゥス・デウス』 (Benedictus Deus: DS1000〜DS1001)、フィレンツェ公会議『ギリシア人のための教令』 (DS1305)参照。、あるいは直ちに永遠の苦しみ(罰)を受けるか
第2リヨン公会議「皇帝ミカエル・パレオログスの信仰告白」 (DS858)、ベネディクトゥス12世『ベネディクトゥス・デウス』 (DS1002)、フィレンツェ公会議『ギリシア人のための教令』 (DS1306)参照。の、いずれかです。
「わたしたちは生涯の夕べに、愛について裁かれるでしょう」十字架の聖ヨハネ『勧告と訓戒』 (S. Juan de la Cruz, Avisos y sentenaas, 57 : Biblioteca Mistica Carmehtana, v. 13 [Burgos 1931] 238)。。
[1023]
神の恵みと神との親しい愛のうちに死に、完全に清められた人々は、キリストとともに永遠に生きます。この人々は永遠に神に似た者となります。神を「ありのままに」(一ヨハネ3∙2)、「顔と顔とを合わせて」(一コリント13∙12)見るからです
黙示録22・4参照。。
「わたしは、使徒的権威をもって次のことを宣言します。神がどのようなかたであるかを考えると、すべての聖人……や、キリストの聖なる洗礼を受けた後に死のときに清めるべきものを何も残さずに死んだ信者……、あるいは、死のときないし死後に清めるべき何かを持っていたとしても死後その浄化を終えた信者の霊魂は……、たとえ自分の肉体の復活や公審判の前ではあっても、救い主であるイエス・キリストの昇天以後は、これまでも、現在も、これからも、キリストとともにある天国、天の国、天上の楽園における、聖なる天使たちの交わりに受け入れられましたし、受け入れられていくのです。わたしたちの主イエス・キリストの受難と死以来、このような霊魂は、いかなる被造物の仲介もなく、顔と顔とを合わせて神の本性を直観しましたし、また直観するのです」ベネディクトゥス12世『ベネディクトゥス・デウス』 (DS1000)。『教会憲章』,第49項参照。。
[1024]
至聖三位一体とともにあるこの完全ないのち、また至聖三位、おとめマリア、諸天使、諸聖人とのこのいのちの交わりが、「天国」と呼ばれます。天国とは、人間の究極目的、その内奥にある願望の実現であり、この上ない至福の状態なのです。
[1025]
天国で生きるとは、「キリストとともにいる」
ヨハネ14・3、フィリピ1・23、1テサロニケ4・17参照。ということです。選ばれた人々は「キリストのうちに」生きるのですが、キリストのうちに真の自分という存在を、つまり自分の固有の名前を確保します。いや、むしろ見いだすのです
黙示録2・17参照。。
「いのちとは、キリストとともにいることです。キリストのおられるところ、そこにみ国があるからです」聖アンブロジウス『ルカ福音書講解』(Expositio evangelii secundum Lucam 10, 121 : CCL 14, 379 [PL 15, 1927])。。
[1026]
イエス・キリストは、死と復活とによって、わたしたちに天国を「開かれました」。至福者たちのいのちは、キリストが成し遂げられたあがないの実を余すところなく享受することにあります。キリストは、ご自分を信じ、み旨に忠実であった人をご自分の天上の栄光に加えられます。天国とは、キリストに完全に合体したあらゆる人のこの上なく幸せな共同体なのです。
[1027]
神との幸せな交わり、キリストに結ばれたすべての人との幸せな交わりの神秘は、理解と想像をはるかに超えるものです。聖書はこれについて、いのち、光、平和、婚礼のうたげ、王国のぶどう酒、父の家、天上のエルサレム、楽園などの表象で語っています。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」(一コリント2∙9)。
[1028]
神は超越的存在ですから、ありのままに見ることができるのは、ご自分の神秘を自ら人間に直接にお見せになるとき、また、その能力を人間にお与えになるときだけです。天上の栄光に包まれた神を観想することは、教会によって「至福直観」と呼ばれています。
「あなたの栄光、あなたの幸福は何とすばらしいものでしょう。あなたは、神を見ることをゆるされ、あなたの神である主キリストのおそばで救いの喜びと永遠の光とにあずかる光栄を受け、……天の国で正しい人々、神の友である人とともに、あなたの獲得した不死の喜びを味わうでしょう」聖キプリアヌス『書簡』 (S. Cyprianus Carthagimensis. Epistula 58, 10 : CSEL 3/2, 665 [56, 10: PL 4, 367-368])。。
[1029]
至福者たちは天の栄光のうちにあって、他の人々や全被造物に対する神のみ旨を喜んで果たし続けます。彼らは、すでにキリストとともに統治しており、キリストとともに「世々限りなく統治する」(黙示録22∙5)ことになるのですマタイ25・21,23参照。。
[1030]
神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみを受けます。
[1031]
教会は、永遠にのろわれた人たちの苦しみとはまったく異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、
煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、とくにフィレンツェ公会議
フィレンツェ公会議『ギリシア人のための教令』 (DS1304)参照。とトリエント公会議
トリエント公会議第25総会『煉獄についての教令』 (DS1820)、同第6総会『義化についての教令』規定30(Decretum de iustificatione : DS1580)参照。で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の箇所
たとえば、1コリント3・15,1ペトロ1・7。に基づいた、清めの火というものを取り上げています。
「ある種の軽い罪に関して、審判の前に清めの火があることを信じなければなりません。その根拠は、真理であるかたが、もしだれかが聖霊に対して冒瀆のことばを口にすれば、この世でもあの世でもゆるされない、といわれたことにあります(マタイ12∙32)。このことばから、ある罪はこの世で、他のある罪はあの世でゆるされうる、と解釈することができます」聖グレゴリオス1世『対話』 (S. Gregorius Magnus, Dialogi 4, 41, 3: SC 265, 148 [4, 39: PL 77, 396])。。
[1032]
この教えはまた、すでに聖書が述べている死者のための祈りの慣行にも基づいています。「そういうわけで、〔ユダ・マカバイ〕は死者が罪から解かれるよう彼らのためにあがないのいけにえをささげたのである」(二マカバイ12∙45)とあります。教会は当初から死者の記念を重んじ、死者のために祈り、とくにエウカリスチアのいけにえをささげていました
第2リヨン公会議「皇帝ミカエル・パレオログスの信仰告白」 (DS856)参照。。それは死者が清められて、神の至福直観に至ることができるためです。教会はまた、死者のために施し、免償、償いのわざを勧めています。
「死者を助け、追悼を行いましょう。ヨブの息子たちが父親のいけにえによって清められたのならヨブ1・5参照。、わたしたちはなぜ、死者のための供え物が死者に何らかの慰めをもたらすことを疑うのでしょうか。ためらわずに、死んだ人々を助け、彼らのために祈りをささげましょう」聖ヨアンネス・クリュソストモス『コリントの信徒への第1の手紙講話』 (S. Ioannes Chrysostomus, In epistulam I ad Corinthios homilia 41, 5 : PG 61, 361)。。
[1033]
わたしたちは自由意志をもって神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分自身に対して大罪を犯すならば、神を愛することはできません。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません」(一ヨハネ3∙14-15)。キリストが戒めておられるように、もし貧しい人や小さい人の大きな困窮を顧みないならば、わたしたちはキリストから離れることになります。彼らは主の兄弟だからですマタイ25・31-46参照。。痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせずに、大罪を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。自ら神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態を、「地獄」ということばで表現するのです。
[1034]
イエスはしばしば、消えることのない火マタイ5・22,29,13・42,50、マルコ9・43-48参照。の「ゲヘナ」について話されました。それは、生涯の終わりまで信じることも回心することも拒み続ける人々のために残されたもので、そこでは霊魂も肉体もともに滅ぼされうるのですマタイ10・28参照。。イエスは深刻なことばで、「人の子は天使たちを遣わし、……不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」(マタイ13∙41-42)と述べ、また、「のろわれた者ども、わたしから離れ、永遠の火に入れ」(マタイ25∙41)という宣告を下すことを予告しておられます。
[1035]
教会は、地獄の存在とその永遠性とを教えています。大罪を犯したまま死ぬ人々の霊魂は、死後直ちに地獄に落ち、そこで、地獄の苦しみ、「永遠の火」「クイクムクエ」信条(Symbolum "Quicumque":DS76)、コンスタンティノポリス教会会議(543年) 「オリゲネス破門宣告」 7,9(Anathematismi contra Origenem:DS409;411)、第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (DS801)、第2リヨン公会議「皇帝ミカエル・パレオログスの信仰告白」 DS858)、ベネディクトゥス12世『ベネディクトゥス・デウス』 (DS1002)、フィレンツェ公会議『ヤコブ派のための教令』(Decretum pro lacobitis : DS1351)、トリエント公会議第6総会『義化についての教令』25条(DS1575)、パウルス6世『神の民のクレド』,第12項(loc. cit., 438)参照。に耐えなければなりません。そもそも、人間はただ神のうちにおいて、自分が造られた目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができるのですが、地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということなのです。
[1036]
地獄に関する聖書の主張と教会の教えとは、人間が自分の永遠の行く末のことを考えながら自由を用いなければならないという
責任遂行への呼びかけであると同時に、
回心を促す招きでもあります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、いのちに通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7∙13-14)とキリストはいわれました。
「主も忠告されたように、わたしたちはその日も時も知らないのですから、たえず警戒を怠ってはならないのです。わたしたちの地上生活一回限りの行程を終えた後、主とともに婚宴に入り、祝された人々のうちに数えられることがゆるされるよう心掛け、また、怠惰な悪いしもべのように、『嘆きと歯がみのある』外のやみの中へ、永遠の火の中へ離れ去るように命じられることのないよう警戒しなければなりません」『教会憲章』,第48項。。
[1037]
神は、だれ一人地獄に予定してはおられません
第2オランジュ教会会議「結びのことば」 (Conclusio:DS397)、トリエント公会議第6総会『義化についての教令』17条(DS1567)参照。。自分の意志で、神から離れる態度(大罪)を持ち続け、死ぬまでその態度を変えない人だけが地獄に落ちるのです。教会はエウカリスチアの典礼と信者の日々の祈りとの中で、「一人も滅びないで皆が悔い改める」(二ペトロ3∙9)ことを望まれる神のあわれみを祈願します。
「わたしたち⸺奉仕者と全家族⸺のこの奉献を快く受け入れ、あなたの平和を日々わたしたちに恵み、永遠の滅びから救い、選ばれた者の群れに加えてください」 『ローマ・ミサ典礼書』第1奉献文(ローマ典文)。。
[1038]
「正しい者も正しくない者も」(使徒言行録24∙15)、すべての死者の復活が、最後の審判の前に行われます。そのとき、「墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活していのちを受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る」(ヨハネ5∙28-29)のです。そのとき、キリストは「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来〔られます〕。……すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置〔かれます〕。……こうして、〔正しくない人たち〕は永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠のいのちにあずかる」(マタイ25∙31-33,46)のです。
[1039]
真理であるキリストを前にしたとき、一人ひとりが神とどのようにかかわったかが明らかになります
ヨハネ12・48参照。。最後の審判では、各自がそれぞれの生涯中に行ったよいこと、怠ったこと、またその最終的結果までが明らかにされます。
「悪人が行うすべての悪は記録されています。しかも、彼らはそれを知らないのです。神が黙しておられない日が来ます(詩編50∙3)。……キリストは左側にいる人たちに向かってこういわれるでしょう。わたしはお前たちのため、地上にわたしの哀れな貧しい者たちを置いた。わたしは彼らの頭であり、天で父の右に座していた。しかし、地上ではわたしの肢体が飢えていた。お前たちがわたしの肢体である人々に何かを与えていたなら、それは頭であるわたしに届いたであろう。わたしの哀れな貧しい者たちを地上に置いたとき、わたしは彼らを、お前たちのよい行いをわたしの宝庫に納めるための代理業者としたのだ。ところが、お前たちは彼らの手に何も預けなかった。だから、お前たちはわたしのもとでは何も持たないのだ」聖アウグスティヌス『説教』 (Sermo18,4. 4 : CCL 41, 247-249 [PL 38, 130-131])。。
[1040]
最後の審判は、キリストの栄光の再臨のときに行われます。御父だけがその時と日をご存じで、それを決定されるのも御父です。そのとき神は、御子イエス・キリストを通して、全歴史に対する決定的な宣告を下されます。わたしたちはそのとき、創造のすべてのわざと、救いの計画のすべての究極の意味を知ります。そして、摂理が感嘆すべき方法で万物をそれぞれの究極目的に導かれたことを理解します。最後の審判は、神の正義は被造物が犯したあらゆる不正に打ちかつこと、また、その愛は死よりも強いこと雅歌8・6参照。を明らかにします。
[1041]
最後の審判の教えは、神が人間に「聞き入れる時、救いの日」(二コリント6∙2)をまだ与えておられる間に、回心するようにと促します。また、神への聖なる畏敬を起こさせ、神の国の正義を行うように促し、「ご自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられる」(二テサロニケ1∙10)ために来られるキリストの再臨の「祝福に満ちた希望」(テトス2∙13)を告知します。
[1042]
世の終わりに、神の国は完成します。公審判の後、正しい人々は肉体も霊魂も栄光を受けてキリストとともに永遠に統治し、全宇宙が新たにされるでしょう。
「その教会は、天の栄光において初めて完成を見るのです。すなわち、万物の回復の時が来て、全人類とともに全世界⸺それは人間に密接に結ばれ人間を通して自己の目的に到達します⸺もまたキリストにおいてまったく建て直されるのです」『教会憲章』,第48項。。
[1043]
人類と世界を変革するこの神秘的な刷新を、聖書は「新しい天と新しい地」(二ペトロ3∙13)と呼んでいます黙示録21・1参照。。それは、「あらゆるものが、天にあるものも地にあるものも、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ1∙10)という神の計画の最終的な実現です。
[1044]
この新しい世界黙示録21・5参照。、天上のエルサレムで、神は人の間に住まわれます。そして、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ〔います〕。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦も〔ありません〕。最初のものは過ぎ去ったから」(黙示録21∙4)です黙示録21・27参照。。
[1045]
人類にとって、この完成は創造のときから神が定めておられた人類一致の最終的な実現で、旅する教会はこの一致の「秘跡のような」『教会憲章』,第1項。ものでした。キリストに結ばれた人々は、あがなわれた者たちの共同体、神の「聖なる都」(黙示録21∙2)、「小羊の妻である花嫁」(黙示録21∙9)を形づくります。この共同体はもはや、人間の地上における共同体を破壊し傷つける罪、汚れ黙示録21・27参照。、自己愛などによって損なわれることはありません。神が選ばれた人々にご自分を無限に示される至福直観は、幸福と平和と交わりの、尽きることのない泉です。
[1046]
宇宙について、啓示は、物質的世界と人間との間に神の定めに基づく深い一体性があることを明らかにしています。
「被造物は、神の子たちの現れるのをせつに待ち望んでいます。……被造物も、いつか滅びへの隷属から解放される、という希望を持っています。……被造物がすべて今日まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、からだのあがなわれることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(ローマ8∙19-23)。
[1047]
したがって、見える宇宙もまた一新されるよう定められています。それは、復活されたイエス・キリストに結ばれた人々の栄光にあずかることによって、「宇宙自体がその最初の状態に復帰して、もはや何の障害もなく、正しい人々に奉仕するため」聖エイレナイオス『異端反駁』 (Adversus haereses 5, 32, 1 : SC 153, 398 [PG 7, 1210])。なのです。
[1048]
「わたしたちは地と人類の完結の時を知らないし、宇宙がどのように変えられていくのかも知りません。罪によって醜く変形した世界の様相は確かに過ぎ去ります。しかし、神によって新しい住居と新しい地が用意され、そこには正義が支配し、その幸福は人間の心にある平和への願望をすべて満たし、また超えるものであることをわたしたちは教えられています」『現代世界憲章』,第39項。。
[1049]
「しかし、新しい地に対する期待は、現在この地を開拓する努力を弱めるものであってはならず、かえってそれを励ますものでなければなりません。この地上において、すでに新しい世をいくらか予表している新しい人類家族の共同体が育っています。したがって、地上の進歩は、キリストの国の発展とははっきり区別されなければなりませんが、人間社会の向上に寄与することができる限り、神の国にとっても重要なのです」『現代世界憲章』,第39項。。
[1050]
「人間の尊厳、兄弟的交わり、自由など、すなわち人間の本性と努力のよき実りであるこれらすべての価値あることを、わたしたちは主の霊において、また主のおきてに従って地上に広めた後、それらをあらゆる汚れから清められたもの、光り輝くもの、変容したものとして再び見いだすでしょう。それはキリストが『永遠普遍の国』を父に返すときです」
『現代世界憲章』,第39項。『教会憲章』,第2項参照。。そのとき、神は
永遠のいのちの中で「すべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となられるのです。
「永続する真のいのち、それは御父にほかなりません。御父が御子によって、聖霊のうちに、万物に例外なく天のたまものを注いでくださいます。御父のあわれみのおかげで、わたしたち人間もまた、永遠のいのちの変わらぬ約束を受けました」エルサレムの聖チリロ『洗礼志願者のための教話』 (S. Cyrillus Hierosolymitanus, Catecheses illuminandorum 18, 29: Opera, v. 2, ed. J. Rupp [Monaci 1870] 332 [PG 33, 1049])。。
[1051]
人間は死のとき、生者と死者との裁き手であるキリストが行う私審判で、自分の不滅の霊魂において、永遠の応報を受けます。
[1052]
「〔わたしたちは〕キリストの恩恵をもって死ぬすべての魂が、死を超える永遠において神の民であることを信じます。これらの魂がその肉体と再び一致する復活の日に、死は決定的に征服されると信じています」パウルス6世『神の民のクレド』,第28項(loc. cit., 444)。。
[1053]
「わたしたちは天国においてイエスとマリアとともに、集められた人々の群れが天の教会を形成していることを信じます。彼らがそこで永遠の幸福のうちに神をそのままに見、そしてそれぞれの形で、栄光のうちにキリストが行使される支配のもとに聖なる天使たちに結び合わされ、わたしたちのために執り成し、その兄弟的配慮をもってわたしたちの弱さを助けていることを信じます」同29(loc. cit.,444)c。
[1054]
神の恵みと親しい交わりのうちに死んでも完全に清められていなかった人々は、永遠の救いは保証されているとはいえ、神の喜びに入るために必要な聖性を得られるよう、死後、清めの苦しみを受ける必要があります。
[1055]
教会は「聖徒の交わり」によって、神が死者たちをあわれんでくださるように願い、また、死者のために祈り、とくに聖なるエウカリスチアのいけにえをささげます。
[1056]
教会はキリストに倣い、「地獄」とも呼ばれる悲しくて嘆かわしい永遠の死というものがあるということ聖職者聖省『カテケージス一般指針』69(Directorium catechisticum generale : AAS 64 [1972] 141)参照。を信者に思い起こさせます。
[1057]
人間は神と一致することによってのみ、創造された目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができます。地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということです。
[1058]
教会はだれ一人滅びることのないように、「主よ、〔わたしが決して〕あなたから離れることのないようにしてください」『ローマ・ミサ典礼書』聖体拝領前の祈り。と祈ります。確かにだれも自分で自分を救うことはできませんが、これと同じく確かなことは、神は「すべての人々が救われること」(一テモテ2∙4)を望んでおられ、神には「何でもできる」(マタイ19∙26)ということです。
[1059]
「すべての人は裁きの日に、自分が行ったことを報告するために自分の肉体をもってキリストの法廷に出頭することを、聖なるローマ教会は固く信じ、強く主張します」第2リヨン公会議「皇帝ミカエル・パレオログスの信仰告白」 (DS859)。トリエント公会議第6総会『義化についての教令』16条(DS1549)参照。。
[1060]
神の国は世の終わりに完成します。そのとき、正しい人々は肉体も霊魂もともに栄光を受け、キリストとともに永遠に統治し、物質界自体も一新されます。そのとき、神は永遠のいのちの中で「すべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となるでしょう。
[1061]
信条は、聖書の最後の書と同じく黙示録22・21参照。、ヘブライ語のアーメンで終わります。この語は新約聖書の祈りの結びに頻繁に見られます。同じように、教会もアーメンで祈りを結びます。
[1062]
ヘブライ語のアーメンは、「信じる」と同じ語源から派生しています。この語源には、堅固さ、信頼性、忠実という意味合いが含まれています。だから、「アーメン」という語は、わたしたちに対する神の忠実と神へのわたしたちの信頼とを表す際に使われるのです。
[1063]
預言者イザヤの書には、「真実の神」、文字どおりでは「アーメンの神」、すなわち約束に忠実な神という表現が出ています。「この地で祝福される人は、真実の神によって祝福される」(イザヤ65∙16)のです。キリストはしばしば、「アーメン」の語を用いマタイ6・2,5,16参照。、時には、重ねて二度いわれましたヨハネ5・19参照。。ご自分の教えの信頼性、神の真実に基づいたご自分の権威を強調されたのです。
[1064]
したがって、信条の最後の「アーメン」は、冒頭の語「わたしは信じます」を追認しているわけです。信じるとは、神のことば、約束、おきてに「アーメン」ということにほかなりません。限りない愛、完全な忠実の「アーメン」である神にまったく信頼することです。ですから、キリスト者の日常生活は、洗礼のときの信仰宣言のあの「わたしは信じます」への「アーメン」になるでしょう。
「あなたの信条が、あなたにとって一つの鏡であってほしいと思います。その中で自分の姿を見つめてください。信じていると宣言しているすべてのことを、本当に信じているかどうかを見るためです。また、毎日、あなたの信仰を喜びとしなさい」聖アウグスティヌス『説教』 (Sermo, 58, 11, 13: PL 38, 399)。。
[1065]
イエス・キリストご自身が「アーメン」です(黙示録3∙14 参照)。わたしたちに対する御父の愛の決定的な「アーメン」なのです。そして、御父へのわたしたちの「アーメン」を引き受け、成就なさいます。「神の約束は、ことごとくこのかたにおいて『然り』となりました。それで、わたしたちは神をたたえるため、このかたを通して『アーメン』と唱えます」(二コリント1∙20)。
「キリストによってキリストとともにキリストのうちに、
聖霊の交わりの中で
全能の神父であるあなたに、
すべての誉れと栄光は、
世々に至るまで
アーメン」 『ローマ・ミサ典礼書』奉献文の結びの栄唱。。