[1066]
信条の中で教会は、聖三位と被造物全体にかかわる「神のみ心による秘められた計画」(エフェソ1∙9 参照)とを宣言します。すなわち、御父は「ご自分のみ心の神秘」を、世の救いとご自分のみ名の栄光のために、愛する御子と聖霊とを遣わすことで果たされます。これがキリストの神秘であり1、一つの計画、慎重に整えられた「営み」に沿って歴史の中で明示され、実現されたものです。これを聖パウロは「秘められた計画」(エフェソ3∙9)と呼び、その後、教父たちが「人となられたみことばの営み」または「救いの営み」と呼んでいます。
[1067]
「人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのみわざは、旧約の民のうちに神の偉業によってかたどられましたが、主キリストは、おもに、その幸いの受難と、死者の国よりの復活と、栄光ある昇天より成る過越の神秘によってこれを成就され、この過越の神秘によって、『わたしたちの死を死によって打ち壊し、生命を復活によって回復されました』。十字架上に眠るキリストのわき腹より、たえなる秘跡である全教会が生じたのです」2。したがって、典礼において教会が祝うのはとくにこの過越の神秘です。キリストはこれによってわたしたちの救いのわざを成し遂げられたからです。
[1068]
教会が典礼において告げ知らせ祝うのは、このキリストの過越の神秘です。それは、信者たちがこの神秘を生き、世にあってそれをあかしするためです。
「事実、典礼によって、とくに聖体の神聖なる犠牲において『われらのあがないのわざが行われる』のですから、典礼は信者が、キリストの神秘と真の教会の本来の性格とを、生活をもって表し、他の人々にも示すために大いに役立つものです」3。
[1069]
「典礼」という語はもともと「公共の事業」、「公衆の名で、あるいは公衆のために行われる奉仕」という意味を持っています。キリスト教の伝承では、神の民が「神のみわざ」4に参与することを意味しています。典礼によって、わたしたちのあがない主、大祭司であるキリストは、教会の中で、教会とともに、教会によって、わたしたちのあがないのわざを続けられます。
[1070]
新約聖書の中で「典礼」の語は神を礼拝する祭儀のほかに
5、福音の告知
6や愛の実践
7の意味でも用いられています。これらすべては、神と人々への奉仕です。典礼祭儀において、教会は、唯一の「典礼執行者」
8であるキリストに倣う者であり、キリストの祭司職(礼拝)、預言職(告知)、および王職(愛の奉仕)にあずかっています。
「したがって典礼は、当然キリスト・イエスの祭司職の行使と考えられるもので、典礼においては、人間の聖化が感覚的なしるしによって示されるとともにまた、おのおののしるしに固有な方法で実現されます。そしてイエス・キリストの神秘体、すなわち、その頭と肢体とによって、公的礼拝全体が行われるのです。したがって、典礼祭儀は、すべて、祭司キリストとそのからだである教会のわざなのですから、他に卓越した聖なる行為であって、その効果に対して、教会の他のいかなる活動にも、同等の理由や程度でこれに匹敵するものはありません」9。
[1071]
キリストのわざである典礼は、キリストの教会の行為でもあります。典礼は教会をキリストによる神と人間との交わりの見えるしるしとして形成し、表します。典礼はまた、信者を共同体の新しいいのちに引き入れます。典礼は、すべての者が「意識的、行動的にこれに参加し、実りを得る」10ことを含みます。
[1072]
「聖なる典礼は、教会の全活動を果たすものではありません」11。典礼以前に、福音宣教、信仰、および回心がなければなりません。それがあってこそ、典礼は信者の生活にその実を結ぶことができます。その結ばれる実とは、霊に従う新しい生活であり、教会の使命を生き、その一致のために奉仕することです。
[1073]
典礼はまた、聖霊において御父にささげられるキリストの祈りにあずかることです。キリスト者の祈りのすべては、まさに典礼のうちにその源と到着点とを見いだします。典礼によって、内なる人間は、愛する御子において「わたしたちをこの上なく愛して」(エフェソ2∙4)くださった御父の愛に根を下ろし、礎を持つのです12。生活が、「どのようなときにも、〝霊〟に助けられて」(エフェソ6∙18)導かれ、すべての祈りによって内面化されるのは、同じ「神の偉大なわざ」なのです。
[1074]
「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉です」13。したがって、典礼は神の民の優れたカテケージスの場一です。「要理教育は典礼的かつ秘跡的な全行為に内的に結ばれています。イエス・キリストは、秘跡、とくに聖体において、人間改造のために完全に働かれるからです」14。
[1075]
典礼によるカテケージスは、キリストの神秘に導き入れること(ミュスタゴギアμυσταγωγία)、すなわち、見えるものから見えないものへ、意味するものから意味されるものへ、「秘跡」から「神秘」へと導くことを目指します。このようなカテケージスは地域と地方で作成される要理書によって行われるべきです。本書では、多様な典礼様式や文化を持つ全教会に役立つことを意図して15、全教会に根本的で共通な神秘としての典礼と、その表現としての典礼(第1部)について述べ、続いて七つの秘跡と準秘跡(第2部)について述べていきます。
[1076]
聖霊降臨の日、聖霊を注がれた教会は世に姿を現しました1。聖霊が与えられたことで、「神秘の分配」の新しい時代が始まります。それは、教会の時代であり、その間に、キリストはご自分の教会の典礼を通して「〔ご自分〕が来られるときまで」(一コリント11∙26)その救いのわざを現し、現在化し、分け与えられるのです。キリストはこの教会の時代の間、ずっと、ご自分の教会の中で、また教会とともに、この新しい時代に固有な新しい方法で生き、働かれます。すなわち、諸秘跡を通して働かれるのです。これが、東方教会と西方教会の共通の伝承が「秘跡による救いの営み」と呼ぶところのゆものです。それは、教会の「秘跡の」典礼の執行に際してキリストの過越の神秘の実りを分け与えること(あるいは分配すること)によって行われます。したがって、まずこの「秘跡による分配」を説明することが重要になります(第1章)。こうして、典礼の本性とその本質的な面とがより明らかにされるでしょう(第2章)。
[1077]
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1∙3-6)。
[1078]
祝福(賛美)とは御父を源とする神的働きで、いのちを与えるものです。神の祝福は、ことばとたまものとが一体となったもの(εὐよく-λογίαいうこと〈エウ - ロギア〉)です。人間が神を賛美する(祝福する)という表現は、感謝を込めて創造主を礼拝し帰依することを意味します。
[1079]
時の始めから終わりに至るまで、すべての神のみわざは祝福なのです。最初の創造を述べる詩から天上のエルサレムで歌われる賛歌に至るまで、聖書記者たちは救いの計画を神の尽きることのない祝福として告げています。
[1080]
創造の初めから、神はいのちある者、とくに男と女を祝福されました。ノアおよびすべての生き物と交わされた契約は、地を「のろわれたもの(悪くいわれたもの)」とした人間の罪にもかかわらず、繁殖の祝福を新たにします。そして、アブラハムに至って初めて、神の祝福は死に向かいつつあった人類の歴史に浸透し、これをいのちに、その源に戻らせることをはかり、この祝福を喜んで受け入れた「信じる者の父」であるアブラハムの信仰によって、救いの歴史が始まったのです。
[1081]
神の祝福は、驚くべき救いをもたらす出来事に現れます。イサクの誕生、エジプト出国(過越と脱出)、約束の地の付与、ダビデの選び、神殿における神の臨在、清めの流滴と「わずかな残りの者」の帰国など。選ばれた民の典礼を織り成す律法の書、預言書、および詩編は、このような神の祝福を想起させると同時に、それにこたえる賛美と感謝の祝福の祈りなのです。
[1082]
教会の典礼の中で、神の祝福は全面的に明らかにされ、伝えられます。すなわち、御父は創造と救いのすべての祝福の泉ならびに目的として認められ、礼拝されます。わたしたちのために人となり、死んで復活されたみことばにおいて、御父はわたしたちを祝福で満たし、みことばによって、わたしたちの心にすべてのたまものの最高のもの、聖霊を注がれます。
[1083]
こうして、御父がわたしたちに与えられる「霊的祝福」への信仰と愛の応答である、キリスト教典礼の次の二面が分かってきます。すなわち、一方では、教会はキリストに結ばれ、聖霊に動かされて2、礼拝と賛美と感謝により、「ことばではいい尽くせない贈り物」(二コリント9∙15)のゆえに神を祝福します。他方、教会は神の計画が完全に成就するまで、「神がお与えになった供え物」をたえず御父にささげ、その供え物の上に、教会の上に、信者たちとすべての人々の上に聖霊を遣わしてくださるよう懇願します。それは、祭司キリストの死と復活に一致することによって、また聖霊の力によって、この神の祝福が「神〔の〕輝かしい恵みをたたえる」(エフェソ1∙6)いのちの実を結ぶようになるためです。
[1084]
「御父の右に座し」、教会であるご自分のからだに聖霊を注がれた今、キリストは恵みを分かち与えるために制定された諸秘跡を通して行動されます。秘跡とは、人間であるわたしたちの力でもとらえられる感覚的なしるし(ことばと行い)であり、キリストの働きと聖霊の力とによって、しるしが表す恵みを効果的に与えるものです。
[1085]
教会の典礼にあって、キリストはおもにご自分の過越の神秘を示し、実現されます。この世に生きておられた間、イエスはご自分の過越の神秘を教えによって予告し、行動によって先取りしておられました。ご自分の時が到来すると3、イエスは「ただ一度」だけ死んで、埋葬され、死者の中から復活し、御父の右にお座りになりました(ローマ6∙10、ヘブライ7∙27、9∙12 参照)。歴史の中でこれだけが過ぎ去ることのない出来事です。これは、人類の歴史に起こった実際の出来事ですが、比類のない出来事です。歴史の他のあらゆる出来事は一度起これば過ぎ去り、過去の中に飲み込まれてしまいます。これに反して、キリストの過越の神秘はただ過去の出来事にとどまるものではありません。ご自分の死によって死を滅ぼされたからであり、さらに、キリストの存在のすべて、またあらゆる人々のために行い苦しまれたすべてが、神の永遠にあずかり、こうして、すべての時にまたがって、そのうちに現存させられるからです。キリストの十字架上の死と復活の出来事は永続し、いっさいをいのちに引き寄せます。
[1086]
「したがって、キリストは、ご自分が御父より遣わされたと同じく、聖霊に満たされた使徒たちをお遣わしになりました。それは、彼らがすべての造られた者に福音をのべ伝えるためだけではありませんでした。すなわち、神の御子がご自身の死と復活によって、わたしたちをサタンの力と死より解放し、御父の国に移されたことを告げるためばかりでなく、彼らが告げた救いのわざが、全典礼生活の中心である犠牲と諸秘跡を通して、彼らによって行われるためでもありました」4。
[1087]
このように、復活したキリストは使徒たちに聖霊を与えながら、聖とするご自分の権能を彼らにゆだねられました5。使徒たちは、キリストの秘跡的しるしとなったわけです。同じ聖霊の力によって、使徒たちはこの権能を後継者たちにゆだねます。この「使徒継承」が教会の典礼活動全体を支える土台であり、それは叙階の秘跡によって伝えられます。
[1088]
「このような〔キリストの救いのわざを分配し、与えるという〕偉大なわざを成就するため、キリストは、つねにご自分の教会とともにおられ、とくに典礼行為に現存しておられます。キリストはミサの犠牲のうちに現存しておられます。それは、『かつて十字架上でご自分をささげられた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として』司祭のうちに現存するとともに、またとくに、聖体の両形態のもとに現存しておられるのです。諸秘跡のうちにキリストは、ご自身の力をもって現存しておられます。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリストご自身が洗礼をお授けになるのです。キリストはご自身のことばのうちに現存しておられます。それは、聖書が、教会の中で読まれるときは、キリスト自身が語られるからです。なおキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも、現存しておられます。『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18∙20)と約束されたからです」6。
[1089]
「事実、神に完全な栄光が帰せられ、人が聖化されるこのような偉大なわざにおいて、キリストは、ご自分の最愛の花嫁である教会をつねにご自身とともにあらしめ、教会は自らの主を呼び、主によって永遠の御父に礼拝をささげるのです」7。
[1090]
「地上の典礼において、わたしたちは天上の典礼を前もって味わい、これに参加しています。この天上の典礼は、旅するわたしたちが目指す聖なる都、エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、至聖所と真の幕屋の祭司として、神の右に座しておられます。わたしたちは、天軍のあらゆる軍勢とともに、主に栄光の賛歌を歌い、諸聖人の記念を尊敬して、彼らの交わりにあずかることを望み、われらの生命なる主が現れ、わたしたちも主とともに栄光のうちに現れるときまで、救い主、われらの主イエス・キリストが来られるのを待ち望むのです」8。
[1091]
典礼の中で、聖霊は神の民の信仰の教導者、新約の諸秘跡という「神の傑作」の作者です。教会における聖霊の望みとわざは、わたしたちが復活したキリストのいのちを生きることにほかなりません。聖霊が自ら呼び起こした信仰の応答をわたしたちのうちに見いだされるとき、真の協力が実現されます。この協力によって、典礼は聖霊と教会との共同のわざとなります。
[1092]
キリストの神秘の秘跡による分配の中で、聖霊は救いの営みの他のときと同じようなしかたで働かれます。すなわち、教会をキリストとの出会いに備え、信じる会衆にキリストを思い起こさせ、ご自分の変化させる力によってキリストの神秘を現在化させ、最後には、交わりの霊として、教会をキリストのいのちと使命とに結びつけます。
[1093]
聖霊は、秘跡による救いの営みの中で、旧約の予型を成就します。キリストの教会は「イスラエルの民の歴史と旧約を通してくしくも準備され」9ましたので、教会の典礼は、以下のような旧約の礼拝形式を、かけがえのない一つの構成要素として維持しています。
⸺とくに、旧約聖書の朗読。
⸺詩編の祈り。
⸺もっとも大切にしているのが、キリストの神秘のうちに実現した救いの出来事と象徴的なことがら(約束と契約、エジプト脱出と過越、王国と神殿、バビロニア捕囚と帰国)の記念。
[1094]
以上のように、旧約と新約とを結び合わせながら10、キリストご自身のカテケージス11、そして使徒たちや教父たちのカテケージスが行われています。旧約聖書の文字に隠されていたキリストの神秘を明るみに出す形式のこうしたカテケージスは、「予型論的カテケージス」と呼ばれています。それは、旧約の出来事、ことばと象徴の中でキリストを告げていた「前表(予型)」に基づいて、キリストの新しさを示すからです。このように、キリストを基にして、真理の霊によって読みなおすとき、前表(予型)の意味が明らかにされます12。たとえば、ノアの洪水は洗礼による救いの前表であり13、雲と紅海の横断もまた、同様です。岩からわき出る水はキリストの霊的たまものの前表でしたし14、砂漠のマナは「天からのまことのパン」(ヨハネ6∙32)である聖体の前表でした。
[1095]
以上の理由で、教会は、とくに待降節と四旬節、わけても復活徹夜祭で、救いの歴史のすべての重大な出来事を典礼の「今日」という場に立って読み直し、追体験します。しかし、それが実際に効果あるものとなるためには、教会の典礼が表現し体験させている救いの営みを「霊的に」理解できるように、カテケージスを通して信者を助けることが必要です。
[1096]
ユダヤ教典礼とキリスト教典礼。今日でもなおユダヤ教徒が大切にしている彼らの信仰と宗教生活とをよく知ることは、キリスト教典礼のある部分のよりよい理解に役立ちます。ユダヤ教徒にとってもキリスト教徒にとっても、聖書はそれぞれの典礼の本質的部分です。神のことばを宣言し、このことばに応答し、賛美の祈りと生者・死者のための取り次ぎの祈りとをささげ、神のあわれみに訴えるため、聖書が用いられます。ことばの典礼は、その本来の構造としてはユダヤ教の祈りを起源としています。時課の祈り(聖務日課)や他の典礼文、さらに、「主の祈り」をはじめとするわたしたちのもっとも大切な祈りの形体もが、ユダヤ教の祈りと類似しています。感謝の祭儀の奉献文もまた、ユダヤ教伝承の形式に着想を得ています。ユダヤ教典礼とキリスト教典礼との関係、また両者の内容の相違は、とくに過越祭のような典礼暦上の大祝日に顕著に表れます。キリスト教徒とユダヤ教徒は過越祭を祝いますが、ユダヤ教徒は将来に向かう歴史的出来事としての過越を祝い、キリスト教徒はキリストの死と復活とによって成就された過越を、その決定的完成を将来に向けて待望しながら祝うのです。
[1097]
新約の典礼では、すべての典礼行為、とくに感謝の祭儀や諸秘跡の挙行が、キリストと教会との出会いの場となっています。典礼集会は、神の子らをキリストの唯一のからだを集める「聖霊の交わり」によって一つに結ばれます。この交わりは人間的、人種的、文化的および社会的近縁関係を超越するものです。
[1098]
集会はキリストとの出会いに自らを準備し、準備のできた民とならなければなりません15。この心の準備は聖霊と会衆、とくに奉仕者たちとの共同のわざです。聖霊の恵みが目覚めさせようとしているものは、信仰、回心、御父のみ旨への従順です。これらの心構えは、典礼の中で与えられるその他の恵みを受ける前提であり、典礼から生じるはずの新しいいのちの実の前提でもあります。
[1099]
聖霊と教会とは協力して、典礼の中にキリストとその救いのわざとを表します。第一義的にはエウカリスチアでの、類比的にはその他の諸秘跡での典礼は、救いの神秘の記念祭です。聖霊は教会の生きた記念(過越の出来事を生き生きと想起させてくださるかた)です16。
[1100]
神のことば。聖霊はまず典礼集会において神のことばにいのちを与えて、救いの出来事の意味を想起させてくださいます。神のことばが告知されるのは、それを受け入れて生きるためです。
「典礼行事にとって、聖書はもっとも重要なものです。聖書から朗読が行われ、これが説教によって説明されます。聖書から詩編が歌われ、聖書の息吹と感動から典礼の祈りや祈願や聖歌がわき出たのであり、また聖書から行為のしるしはその意義を受けるのです」17。
[1101]
聖霊は朗読者と会衆に、それぞれの心のあり方に従って神のことばを霊的に理解させます。聖霊は典礼を形づくることばと行為と象徴とを通して、信者と役務者たちを御父のことばであり姿であるキリストとの生きた交わりに導き入れ、こうして一同は、典礼の中で聞き、観想し、行っていることの意味を、それぞれの生活のうちに具現することができるようになります。
[1102]
「救いのことばによって……信者の心に信仰を養うのです。そしてこの信仰によって信者の集まりが始まり、また育つのです」18。神のことばの告知は教えることにとどまらず、神とその民との契約を目指す同意と誓約としての信仰の応答を求めます。また、聖霊こそ信仰の恵みを与え、これを強め、共同体の中で成長させます。典礼集会は何よりも、信仰の交わりなのです。
[1103]
アナムネシス(Ἀνάμνησις記念)。典礼祭儀は人類の歴史の中に介入された神の救いのわざをいつも反映します。「啓示の経給は互いに関連したわざとことばをもってなされ、……ことばはわざを表示し、その中に含まれている神秘を明らかにします」19。ことばの典礼で、聖霊は会衆に、キリストがわたしたちのために行われたすべてのことを「想起させます」。諸教会のそれぞれの典礼行為とさまざまな伝統的祭儀に応じて、典礼は、程度の差こそあれ、アナムネシスの中で神の偉大なわざを「思い出させます」。こうして、教会の記憶を目覚めさせる聖霊は、そこで感謝と賛美(ドクソロギア Δοξολογία)を行うようにも仕向けてくれるのです。
[1104]
キリスト教典礼は、わたしたちの救いの出来事を単に思い出させるだけではなく、これを現在化します。キリストの過越の神秘は祝われますが、繰り返されるのではありません。繰り返されるのは祭儀です。祭儀が繰り返されるたびに、そこに聖霊が注がれ、聖霊が一回限りの神秘を現在化してくれるのです。
[1105]
エピクレシス(Ἐπίκλησις「その上に呼び求めること」)といわれる祈りは、供え物がキリストのからだと血になり、それを拝領する信者が神への生きた供え物となるために、聖とする霊を遣わしてくださるように御父に願う司祭の祈りです。
[1106]
エピクレシスは、アナムネシスと同様に、各秘跡の祭儀、とくにエウカリスチア(感謝の祭儀)の核心を成すものです。
「あなたは、どうしてパンがキリストのからだ、また……ぶどう酒がキリストの血となるのかと質問するのですか。わたしがあなたに答えます。聖霊がくだり、すべてのことば、すべての考えを超えることを成し遂げられるのです。……あなたはそれが聖霊によって行われると聞いただけで満足しなさい。それは、聖霊によって、おとめマリアを通して主自らご自分のうちに肉体をとられたのと同じことなのです」20。
[1107]
典礼において変化を行う聖霊の力は、み国の到来と救いの神秘の完成を早めます。聖霊はわたしたちに、待望と希望のうちに聖三位との完全な交わりを実際に先取りさせてくださいます。教会のエピクレシスを聞き入れられる御父から遣わされた聖霊は、ご自分を受け入れる者たちにいのちを与え、すでに今から、彼らにとってみ国を受け継ぐ「保証」21となられます。
[1108]
すべての典礼行為における聖霊の使命は、わたしたちをキリストとの交わりに導き、そのからだを形づくることです。聖霊は、枝に実を結ぶ御父のぶどうの木の樹液のようなものです22。典礼の中では、聖霊と教会との間にもっとも緊密な協力が実現されます。交わりの霊としての聖霊が教会のうちにいつまでもとどまっておられるので、教会は四散した神の子らを集める神的交わりの大いなる秘跡なのです。典礼における霊の働きの成果は、聖三位ならびに兄弟たちとの交わりと切り離せないものです23。
[1109]
エピクレシスはまた、会衆が実際にキリストの神秘に完全にあずかることを求める祈りでもあります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」(二コリント13∙13)はつねにわたしたちとともにあって、感謝の祭儀が終わった後も実をもたらすものでなければなりません。したがって、教会は聖霊を派遣してくださるように御父に祈ります。それは、聖霊が信者をキリストの姿に霊的に変容させることによって、信者の生活を神への生きた供え物とし、信者を教会の一致に心掛けさせ、またあかしと愛の奉仕とによってキリストの使命にあずからせてくださるためです。
[1110]
教会の典礼においては、創造と救いとにおけるすべて祝福の源としての、父である神への感謝と礼拝とが行われます。父である神は、子とする霊をわたしたちにお授けになるためにこれらの祝福を御子においてわたしたちにお与えになりました。
[1111]
典礼におけるキリストのわざが秘跡的であるのは、その救いの神秘が聖霊の力によって典礼のうちに現在化され、また、教会であるキリストのからだが、いわば聖霊が救いの神秘を配分される秘跡(しるしと道具)だからであり、さらに、旅する教会がその典礼行為によってすでに天上の典礼にあずかり、あらかじめこれを味わっているからなのです。
[1112]
教会の典礼における聖霊の使命は、会衆をキリストとの出会いに備えさせ、会衆にキリストを想起させ、示し、変化させる力によってキリストの救いのわざを現在化し、また、教会に交わりのたまものを実らせることにあります。
[1113]
教会のすべての典礼生活は、エウカリスチアのいけにえと諸秘跡とを中心として動いています24。教会には七つの秘跡、すなわち、洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚があります25。この項では教理の観点から教会の七つの秘跡に共通する面を述べます。祭式の面から共通なものは第2章で取り扱い、それぞれに固有なことは第2部で述べることにします。
[1114]
「聖書の教え、使徒伝承……および教父たちの一致した見解に従い」26、わたしたちは「新約の諸秘跡の全部が、わたしたちの主イエス・キリストによって制定された」27と宣言します。
[1115]
ナザレでの生活や宣教活動の間のイエスのことばと行いは、それ自体救いをもたらすもので、イエスの過越の神秘の力を先取りしていました。これらは、すべてが成し遂げられた後、キリストが教会に与えられるものを予告し、準備していたのです。キリストの生涯の諸神秘は、後にご自分の教会の役務者を通して諸秘跡の中でキリストが分け与えられるものの基本となっています。事実、「わたしたちの救い主の言行として書き記されていることは、諸秘跡の働きへと移し変えられたのです」28。
[1116]
諸秘跡は新しい永遠の契約における「神の傑作」であって、それはつねに生き続け生かし続けるキリストのからだから「出る力」29、キリストのからだである教会の中における聖霊の働きなのです。
[1117]
神の神秘の忠実な管理者である教会は、「真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16∙13)ために導かれる聖霊によって、聖書の正典と信仰の教えばかりでなく、キリストから受けたこの宝を徐々に悟り、それがどのように「分配」されるべきかを明らかにしてきました30。このようにして、時代がたつにつれ、教会は典礼祭儀の中にキリストによって制定された厳密な意味での秘跡が七つあるのを認めるようになりました。
[1118]
諸秘跡は、二重の意味で、つまり「教会による」また「教会のための」という意味で、「教会の」秘跡です。「教会による」というのは、教会が、聖霊の派遣を受けてそこで働くキリストのわざの秘跡であるからです。「教会のための」というのは、諸秘跡が「教会をつくる秘跡」であるという意味です31。諸秘跡は、とりわけエウカリスチア(聖体)の秘跡において、愛である三位一体の神の交わりの神秘を人々に示し、分け与えてくれるからです。
[1119]
教会は頭であるキリストと「唯一の神秘的なペルソナ」32を形づくりながら、秘跡の中で「有機的に構成された」「祭司的共同体」33として行動します。洗礼と堅信とによって、祭司的民は典礼を祝うにふさわしいものとなります。他方、ある信者たちは聖なる叙階を受け、「神のことばと恩恵をもって教会を牧するために、キリストの名において立てられるのです」34。
[1120]
叙階された奉仕職、すなわち「奉仕的祭司職」35は、洗礼による祭司職に奉仕するものです。この奉仕職は、諸秘跡を通して、キリストが聖霊によって教会のために働くことを保証します。御父が人となられた御子にゆだねられた救いの使命は、使徒たちに、また使徒を通してその後継者たちにゆだねられています。後継者たちはイエスの霊を受け、イエスの名によって、イエス自身として行動します36。このように、叙階された奉仕者は、典礼行為を使徒たちが語り行ったことに結びつけ、また、使徒たちを通して、秘跡の源であり土台であるキリストが語られ行われたことに結びつける、秘跡的なきずななのです。
[1121]
洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、恵みのほかに、秘跡的な霊印つまり「しるし」を与えますが、これによって、キリスト者はキリストの祭司職にあずかり、それぞれの身分や役職に従って教会の一部を成すようになります。ひとたび聖霊によってキリストと教会の姿を刻まれたキリスト者は、神の恵みとその保護の約束と保証を受ける資格37、神礼拝と教会奉仕への召命を与えられます。この霊印はいつまでも残り、消えることはありません。したがって、これらの秘跡は生涯に一度しか受けることができません。
[1122]
キリストが使徒たちを派遣されたのは、「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に」(ルカ24∙47)のべ伝えられるためです。「すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、……教えなさい」(マタイ28∙19)とキリストはいわれました。洗礼の秘跡を授けるために遣わされるということは、福音を宣教するために遣わされるということに含意されています。というのは、秘跡は
神のことばとそのことばに同意する信仰とによって準備されるからです。
「神の民はまず生ける神のことばによって集められます。……ことばの宣教が諸秘跡の授与のために必要です。諸秘跡は信仰の秘跡であって、信仰はことばから生まれ、ことばによって養われるからです」38。
[1123]
「秘跡は人々の聖化のため、キリストのからだの建設のため、さらに、神に礼拝をささげるためのものであって、またしるしであることをもって、教育のためにも寄与します。それは信仰を前提とするのみでなく、ことばとものとをもってこれを養い、強め、表すもので、そのため信仰の秘跡といわれます」39。
[1124]
教会の信仰は一人ひとりの信者の信仰に先だつもので、信者はこれを受け入れるように招かれています。教会が諸秘跡を行うとき、使徒たちから受けた信仰を宣言します。したがって、古い金言には「祈りの法は、信仰の法」(〔5世紀の〕アクイタニアのプロスペルの表現を用いると、「嘆願の法が信仰の法を定める」)というものがあります40。すなわち、祈りの法は信仰の法なのです。教会は祈っていることを信じます。典礼は、聖なる生きた伝承の基本的要素の一つなのです41。
[1125]
ですから、どんな秘跡の儀式であっても、司式司祭または信者共同体の好みで変更したり、手を加えたりすることはできません。教会の最高権威者ですら、勝手に典礼を変えることはできません。ただ信仰の要求に従い、典礼の神秘を敬謙に敬うことだけを心掛けるべきなのです。
[1126]
また、秘跡は教会の中での信仰の一致を表し培うものですから、祈りの法はキリスト者の一致を回復するための対話の基本的な一つの基準です42。
[1127]
信仰をもってふさわしく行われる諸秘跡は、それぞれが表す恵みを与えます43。これらが効力を持つのは、そこでキリストご自身が行動なさっておられるからです。洗礼を授け、諸秘跡の中で行動し、諸秘跡が表す恵みをお与えになるのは、キリストご自身なのです。御父は、御子の教会が各秘跡のエピクレシスの中で聖霊の力への信仰を表明している祈りをつねにお聞き入れになります。火が自分に触れるものをすべて火に変えてしまうように、聖霊はご自分の力にゆだねられるすべてのものを神的いのちに変えてくださるのです。
[1128]
そこに、秘跡は「行為が正しく行われるということ自体で(ex opere operato)」効果を生む、という教会の主張の意味があります44。すなわち、秘跡はただ一度行われたキリストの救いのわざによって効力を生じます。したがって、「諸秘跡はそれを授ける人間、あるいはそれを受ける人間の正しさによってではなく、神の力によって成し遂げられる」45のです。ある秘跡が教会の意向に従って行われるとき、キリストとその霊の力が、司式者の個人的聖性のいかんにかかわらず、秘跡の中で秘跡を通して働きます。とはいえ、諸秘跡の実りは秘跡を受ける者の心のあり方にもよる部分があります。
[1129]
教会は、新しい契約の諸秘跡は信者の救いに必要なものであると言明します46。「秘跡による恵み」とはキリストによって与えられる聖霊の恵みで、それぞれ秘跡に固有のものです。聖霊は秘跡を受ける人々を、神の御子に一致させ、いやし、変化させてくださいます。神の子とする霊が信者たちを救い主である御ひとり子のいのちに一致させ、神の本性にあずからせることが47、秘跡に生かされた生活の実りなのです。
[1130]
教会はキリストの神秘の祭儀を「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」(一コリント15∙28)に行います。典礼は、すでに使徒時代から、「
マラナ・タ(主よ、来てください)」(一コリント16∙22)という教会の中での霊のうめきが表すように、終末へと向けられていました。こうして、典礼は、神の国で過越が成し遂げられるまで、「あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた」(ルカ22∙15-16)というイエスの願望にあずかるのです。キリストの諸秘跡において教会は、「祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」(テトス2∙13)を待ち望みながらも、すでにその世継ぎの保証を受け、すでに永遠のいのちにあずかっています。「〝霊〟と花嫁とがいう。『来てください』。……主イエスよ、来てください」(黙示録22∙17,20)。
トマス・アクィナスは秘跡のしるしの多様な面を、次のように要略しています。「秘跡とは、前に起こったこと、すなわち、キリストの受難を記念するしるし、キリストの受難によってわたしたちのうちに行われること、すなわち、恵みを表すしるし、また、将来の栄光を予測する、つまり、前もって告げるしるしです」48。
[1131]
諸秘跡はキリストによって制定され、教会にゆだねられた恵みを実際にもたらすしるしであり、これによって、神的いのちがわたしたちに授けられます。諸秘跡の見える儀式は、各秘跡に固有な恵みを示し、実際に与えます。そして、ふさわしい心の準備をして受ける人々の中で実を結びます。
[1132]
教会は、洗礼による祭司職と叙階された奉仕的祭司職とによって構成された祭司共同体として、秘跡を行います。
[1133]
聖霊は、神のことばと、神のことばをふさわしい心で受け入れる信仰とによって、秘跡に備えさせてくださいます。そしてその準備ができたとき、信仰は秘跡によって強められ、高められます。
[1134]
秘跡に生かされた生活の実りは、個人にも教会全体にも及びます。その実りとは、各信者にとってはキリスト・イエスにおいて神のために生きることであり、教会にとっては愛とあかしの使命において成長することです。
[1135]
典礼についてのカテケージスは、第一に、秘跡による救いの営みを理解させることです(第1章)。その理解を通して、この祭儀の新しさが明らかになりました。したがって、本章では、教会の諸秘跡の挙行について取り扱います。多様な典礼伝承において現れる七つの秘跡の挙行に共通するものを考察することになります。各秘跡に固有なものについては次の第2部で取り上げます。秘跡祭儀に関するこの基本的なカテケージスは、信者が提起する次のようなおもだった質問に答えるためのものです。
⸺だれが挙行するのか。
⸺どのように挙行するのか。
⸺いつ挙行するのか。
⸺どこで挙行するのか。
[1136]
典礼は全キリスト(totus Christus)の「行為」です。現在典礼を挙行している人々は、しるしを超えて、すでに天上の典礼に加わっています。その典礼は完全な交わりであり、祝祭です。
[1137]
教会の典礼で読まれるヨハネの黙示録は、まず、天に設けられた玉座と、その玉座の上に座っておられるかた1、「主」(イザヤ6∙1)を示します。2次に「ほふられたように立っている小羊」(黙示録5∙6 参照)を示します3。十字架につけられて復活されたキリスト、真の聖所の唯一の大祭司4、「ささげ、ささげられ、与え、与えられる」5かたです。最後に、黙示録は「神と小羊の玉座から流れ出る……いのちの水の川」(黙示録22∙1)を示します。それは聖霊のもっとも美しい象徴の一つです6。
[1138]
キリストにおいて「一つにまとめられた者」は、神への賛美の奉仕とその計画の実現とに協力します。それは天使7、すべての被造物(四つの生き物)、旧約時代と新約時代のすべてのしもべたち(二十四人の長老)、神の新しい民(十四万四千人)8、とくに「神のことばのために」(黙示録6∙9)殺された殉教者たち、至聖なる神の母(〔竜から追われる〕女9、小羊の花嫁10)、また、「あらゆる国民、種族、民族、ことばの違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」(黙示録7∙9)などです。
[1139]
わたしたちが諸秘跡の中で救いの神秘の祭儀を行うときに、聖霊と教会はわたしたちをこの天上の永遠の典礼に参加させてくれるのです。
[1140]
挙行するのは、その頭と一つになったキリストのからだ、すなわち、全共同体です。「典礼行為は、個人的行為ではなく、『一致の秘跡』、すなわち、司教のもとに一つに統合された聖なる民である教会の祭儀です。そのため、典礼行為は教会のからだ全体のものであり、これを表し、これに働きかけるとともに、その個々の肢体に、序列、役割、現実の参加の違いによって、それぞれ異なったしかたで関係します」11。したがって、「儀式が、それぞれの特性に基づいて、信者の集まりとその行動的参加を得て、共同体的祭儀として行うことができるものであるときには、この共同体的祭儀を、同じ儀式の個人的、いわば私的挙行に、可能な限り、優先さすべきことが強調されなければなりません」12。
[1141]
祭儀を行う集会は受洗者の共同体であり、彼らは「再生と聖霊の塗油とによって、霊的な家および聖なる祭司職となるよう聖別されるのであって、それは彼らがキリスト信者のあらゆるわざを通し霊的いけにえをささげるものとなるためです」
13。この「共通祭司職」は唯一の祭司キリストのもので、そのすべての肢体がこれにあずかっています
14。
「母なる教会は、すべての信者が、典礼の執行への、充実した、意識的な、行動的な参加へ導かれるようせつに希望しています。このような参加は、典礼自身の本質から要求されるものであり、キリストを信ずる民は、『選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民』(一ペトロ2∙9)15として、洗礼によってこれに対する権利と義務を持つのです」16。
[1142]
しかし、「からだのすべての部分は同じ働きをしていません」(ローマ12∙4)。ある人々は神によって、教会の中で、教会を通して、共同体の特別な奉仕に召されています。この役務者たちは叙階の秘跡によって選ばれ、聖別されます。聖霊はこの役務者たちが教会に属するすべての人に奉仕するために頭であるキリスト自身として行動することができるようにしてくださいます17。叙階された役務者は、祭司であるキリストの、いわば「像(イコン)」です。教会の秘跡が完全に現れるのはエウカリスチアにおいてですから、なによりもエウカリスチア(聖体祭儀)の司式において、司教の奉仕の務め、また司教と一つになった司祭や助祭の奉仕の務めの意味が明らかな形で現れてきます。
[1143]
信者の共通祭司職の任務に従事するための、叙階の秘跡によって聖別されてはいないそれ以外の特別な奉仕職もあります。その役割はそれぞれの典礼伝承や司牧的必要に基づいて、司教が決定します。「侍者も、朗読者も、解説者も、聖歌隊に属する者も、真に典礼的奉仕を行うのです」18。
[1144]
したがって、諸秘跡の挙行にあっては、集会全体が「典礼の挙行者」です。各自はそれぞれの役割に従いながら、すべての者のうちに働く「霊と結ばれて」、これを果たすのです。「祭儀においては、司祭も信者も、各自が自分の役割を果たし、そのことがらの性質と典礼上の規定によって、自己に属するところのみを、そしてそのすべてを行うべきです」19。
[1145]
秘跡祭儀は、さまざまなしるしや象徴から成り立っています。救いに関する神の教育方法に基づいて、これらのしるしや象徴の意味は、創造のわざと人間文化とに根を下ろし、旧約時代の出来事の中で徐々に明らかにされ、キリストご自身とそのわざにおいて完全に明らかなものとされます。
[1146]
人間世界のさまざまなしるし。人間生活では、しるしや象徴は重要な役割を果たしています。人間は、物質的なものであると同時に精神的な存在ですから、物質的なしるしや象徴を通して精神的なものを表したり、知覚したりします。また、人間は社会的存在として、他人との意志疎通のために、ことば、身振り、行為によるしるしや象徴を必要とします。神との関係についても同様なことがいえます。
[1147]
神は人間に、見えるものを通して語られます。人間の知性は物質的世界を見て、創造主の痕跡を読み取ります20。光とやみ、風と火、水と土、木と実は神について語り、その偉大さと同時に身近さをも悟らせます。
[1148]
これらの感覚的事物は、神に造られたものとして、人間を聖化する神の働きの場、神に礼拝をささげる人間の表現の場となることができます。人間の社会生活上のしるしや象徴にしても同様です。洗うこと、油を塗ること、パンを裂き、同じ杯から飲むことは、聖化する神の現存や創造主を前にした人間の感謝を表すことができます。
[1149]
世界の諸大宗教は、宗教祭儀のこの宇宙的、象徴的意味を、しばしば感動的に明らかにしています。教会の典礼は、被造物と人間文化の諸要素とを取り上げ、これらに、イエス・キリストによる新しい創造という恵みのしるしの尊厳を与えて、それらを統合し、聖化します。
[1150]
契約のしるし。選ばれた民は、自分たちの典礼生活を特徴づけるしるしや象徴を授かりました。それは、もはや天体の周期や社会の出来事を祝うものではなく、契約のしるしであり、ご自分の民のために神が成し遂げられた偉業の象徴なのです。旧約の典礼的しるしの中の、割礼、王や祭司の塗油と聖別、按手、いけにえ、とくに過越祭などを挙げることができます。教会は、これらのしるしに新約の秘跡の前表を見ています。
[1151]
キリストが用いたしるし。宣教の際に、主イエスはしばしば自然界のしるしを用いて、神の国の神秘を知らせようとなさいました21。イエスはさまざまな物的しるし、あるいは象徴的な動作でいやしを行ったり、教えを強調したりなさいました22。そして、旧約時代の出来事やしるし、わけてもエジプト脱出や過越祭に新たな意味を与えられました23。イエスご自身がこれらのしるしの意味そのものであられたからです。
[1152]
秘跡的しるし。聖霊降臨以来、聖霊は、ご自分の教会の秘跡的しるしを通して、聖とするわざを行っておられます。教会の諸秘跡は、宇宙や社会生活の豊かなしるしや象徴を壊さず、このすべてを浄化し、統合します。さらに、旧約時代の予型や前表を成就し、キリストが行われた救いを示し、実現し、天の栄光を前もって表し、それにあずからせます。
[1153]
秘跡祭儀は、キリストと聖霊とにおける神の子らの御父との出会いです。この出会いは、動作とことばを介する対話という形で表現されます。いうまでもなく、象徴的動作自体がすでに一つの言語ですが、神の国の種がよい土で実を結ぶには、さらに神のことばと信仰による応答とが動作と一つになって、それを生かす必要があります。典礼の動作は、神のことばが表すことを意味するとともに、神の恵みの働きと神の民の信仰による応答をも意味します。
[1154]
ことばの典礼は秘跡祭儀の不可欠な部分です。信者の信仰を培うため、神のことばのしるしを大事にしなければなりません。神のことばが書かれた書(朗読聖書)、それに対する崇敬(行列、献香、ろうそくの光)、神のことばを告げ知らせる場所(朗読台)、聴きやすくて理解できるような朗読、神のことばの告知を深める役務者の説教、会衆の応答(応唱、答唱詩編、連願、信仰宣言)などがそれに当たります。
[1155]
典礼で用いられることばと動作は、しるしとそのしるしが意味するものという観点で切り離すことができないものですが、さらに、その意味することを実現させるものという観点でも、切り離しえないものです。聖霊は信仰を起こさせて、神のことばを理解させてくださるだけではなく、諸秘跡によって、ことばが告げる神の「大いなるわざ」を実現してくださいます。すなわち、聖霊は愛する御子によって実現された御父のみわざを現在化し、共有させてくださいます。
[1156]
「全教会の音楽伝統は、他の諸芸術の表現にまさって、はかりしれない価値を持つ宝庫を成しています。それはとくに聖歌が、ことばと結ばれて荘厳な典礼の一部を成し、必要なもの、または充実をもたらすものだからです」24。しばしば楽器の伴奏が伴われていた、霊感を受けて作られる即興の詩編、詩吟は、すでに旧約時代の典礼の一部を成していました。教会はこの伝承を継続し、発展させます。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5∙19)25。歌う者は、二倍の祈りをするのです26。
[1157]
歌と音楽は「典礼行為と固く結ばれるに従って」
27、いっそうよくしるしの役割を演じますが、そこには忘れてはならない三つの基準があります。つまり、祈りの表現豊かな美しさ、定められた部分における会衆の心を合わせた参与、および、祭儀の荘厳さです。こうして、歌と音楽は典礼で用いられることばと動作の目的、つまり、神の栄光と信者の聖化とに寄与します
28。
「あなたへの聖歌、あなたへの賛歌、そしてあなたの教会に響く甘美な歌声を聞いて、わたしは幾度涙を流したことでしょう。これらに耳を澄ましては、どんなに感動したことでしょう。歌はわたしの耳に流れ込み、心に真理が注がれました。たまらない敬神の思いが横溢して、涙が頬を伝わりましたが、それは快いものでした」29。
[1158]
典礼のしるし(歌、音楽、ことばと動作)の調和は、祭儀を行う神の民に固有な文化的富に従って表現されるならば、いっそう表現豊かで、実り多いものとなります30。ですから、「一般賛美歌を適切に奨励します。そして、聖なる信心行事においても、典礼行為そのものにおいても」、教会の規範に従って、「信者の声が聞かれるようにします」31。しかし、「聖歌に用いられる歌詞は、カトリックの教えに合致したものでなければなりません。さらに主として聖書と典礼の源泉からくみ取られるべきです」32。
[1159]
聖画像、典礼イコンはおもにキリストを表します。目に見えず、把握できない神を画像で表すことはもともとできないのですが、神の御子の受肉が聖画像を用いるという新しい「道」を開きました。
「かつては、からだも顔もない神を画像によって表すことはまったくありえませんでした。しかし、神が受肉されて、人間とともに生きられた今、わたしは神についてわたしが見たものの画像を作ることができます。……そのお顔の中に、わたしたちは主の栄光を眺めることができます」33。
[1160]
キリスト教の聖画像は、聖書がことばによって伝えるよいおとずれを目に見えるものによって表します。画像とことばとは相互に説明し合うのです。
「わたしたちの信仰を簡潔にあらわすものとして、わたしたちは、記録されたり記録されていない形でわたしたちに伝えられてきたすべての教会の伝統遺産を、そのままの形で保存し続けています。その伝統の一つが聖画像であって、これはみことばである神が外見だけでなく実際に人となられたとの信仰に基づいて、福音書に見られる出来事をのべ伝える際にも役立ちます。また聖画像の使用が有益で役立つのは、ことばと画像とが相互に説明し合って一つの内容を指し示すからです」34。
[1161]
典礼祭儀のすべてのしるしはキリストに関係しています。神の母マリアや聖人たちの聖画像もそうです。事実、これらの画像は彼らの中で栄光を受けられたキリストを表すものです。これらは、今も世の救いのためにかかわり、わたしたちがとくに秘跡において結ばれている「おびただしい証人の群れ」(ヘブライ12∙1)を表しています。聖人の聖画像を通して、わたしたちの信仰の目は、「神の像」に作られた人間、また「御子の姿に似た者に」変えられた
35人間、キリストのもとに一つにまとめられた天使たちさえも見るのです。
「神の霊感に導かれた教父たちの教えと、カトリック教会の伝承に従って(わたしたちは、この伝承が教会に内在する聖霊によるものであることを知っています)、細心の注意と綿密さをもって次のことを決定します。すなわち、生命を与える尊敬すべき十字架の像とまったく同じように、尊敬すべき聖画像を飾らなければなりません。彩色画やモザイクおよび、その他の適当な材料によって作られた聖画像を、神の聖なる教会内、聖なる器物や衣服、壁または額、家の中や道路脇にも飾らなければなりません。すなわち、わたしたちの主であり神である救い主イエス・キリスト、聖にして汚れなき神の母、聖なる天使たち、すべての聖人たちの画像を飾るのです」36。
[1162]
「聖画像の美と色彩とはわたしを祈りに誘います。田園の景色がわたしの心を神への賛美に駆り立てますが、聖画像を眺めることもわたしの目を楽しませます」37。神のことばの黙想や聖歌と並んで、聖画像は典礼の種々のしるしの調和の中に溶け込みます。こうして祝われる神秘が心に深く刻まれ、信者の新しい生活に現れるようになります。
[1163]
「愛の母なる教会は、神聖なるその花婿の救いのみわざを、一年を通して、一定の日に、聖なる想起をもって祝うことを自己の務めとしています。毎週、教会は『主日』と名付けた日に、主の復活を記念し、また、年に一度、復活祭の盛儀をもって主の幸いの受難とともにそれを祝い続けるのです。また、教会は、一年を周期としてキリストの神秘全体を……展開しているのです。教会は、こうして、あがないの神秘を記念しつつ、自らの主の徳と功徳との富を信者に開放するのであって、それによって、この神秘が、あらゆるときに、現存するものとなり、信者はこれに接して、救いの恵みに満たされるに至るのです」38。
[1164]
神の民はモーセの律法以来、過越祭を基にして定められた種々の祭りを行いました。それは主である神の驚くべきわざを記念し、感謝し、記憶を保ち続け、新しい世代にはこれらの救いのわざに応じて行動するように教えるためでした。これに対して、ただ一度で実現されたキリストの過越の時とそれが神の国で完成される時との間に位置づけられる教会の時の中で行われる一定の日々の典礼は、キリストの神秘の新しさで満たされています。
[1165]
教会がキリストの神秘を祝うとき、その祈りを際立たせる「
今日!」という一つのことばがあります。それは、キリストが教会に教えられた祈り
39と聖霊の呼びかけ
40とにこたえるものです。生きておられる神が人間を招き入れるこの「今日」は、人間の全歴史を貫くイエスの過越の「時」なのです。
「いのちはすべての生きものに及び、万物は大きな光をいっぱいに浴びています。大いなる朝の光が世界をくまなく照らしています。明けの星の前に、すべての星の前に、永遠から存在していた偉大なキリストは、太陽以上にすべての存在を明るく照らしています。ですから、キリストを信じるわたしたちにとっては、長く、消えることのない、永遠の光の日、神秘な復活の日が始まったのです」41。
[1166]
「教会は、キリストの復活の当日にさかのぼる使徒伝承により、過越の神秘を八日目ごとに祝います。その日は、それゆえにこそ、主の日、または主日と呼ばれています」
42。キリストの復活の日は、創造の第一日の記念日である「週の第一日」であると同時に、キリストが、大安息日の「休息」の後、「主のみわざの」(詩編118∙24)日、「夜を知らない昼」を開始された「第八日」なのです
43。「主の晩さん」がその中心です。そのとき、信者の全共同体は自分たちを饗宴に招いてくださる復活された主に出会うからです
44。
「日曜日は、キリスト復活の日、キリスト者の日、わたしたちの日です。そのために主日と呼ばれています。その日にこそ、主は凱旋して御父のもとに上られました。異教徒はこの日を太陽の日(日曜日)と呼びますが、わたしたちもまた喜んでそう呼びます。なぜなら、今日こそ、世の光が昇り、今日こそ、救いをもたらす光を注ぐ正義の太陽が現れたからです」45。
[1167]
主日は、典礼集会を行う日としてとくに優れています。この日に、信者は一堂に会して「神のことばを聞き、聖体祭儀に参加して、主イエスの受難と復活と栄光を記念し、イエス・キリストが、死者のうちから復活されたことによって、生きる希望へと再生させてくださった神に感謝をささげる」
46のです。
「〔ああ、キリスト、〕あなたの聖なる栄光ある復活のこの主日に成就された栄光ある偉大なわざと不思議なしるしについて黙想しながら、わたしたちはこう申し上げます。主日は祝されますように。なぜなら、この日にこそ、創造、……世の救い、……人類の刷新……が始まったからです。この日にこそ、天と地は喜び踊り、全世界は光に満たされました。主日は祝されますように。この日にこそ、アダムと追放されていたすべての人間が恐れることなくそこに入るための楽園の扉が開かれたからです」47。
[1168]
聖なる過越祭の三日間を出発点として、復活節の新しい時が光源のように典礼暦年全体を照らします。この光源から発する光のおかげで、一年の全体は典礼によって新しい様相を帯びてきます。それは真に、主の恵みの年となります48。救いの営みは時の枠の中で行われていますが、イエスの過越と聖霊の降臨とによってそれが成就されてからは、歴史の終わりが「前もって味わう形で」先取りされ、神の国はわたしたちの時の中に入り込んでいます。
[1169]
したがって、復活祭は他の多くの祝日の一つではなくて、「祝日の中の祝日」、「盛儀の中の盛儀」です。エウカリスチアが秘跡中の秘跡(偉大な秘跡)であるのと同様です。聖アタナシオは復活祭を「大主日」49と呼び、東方教会では聖週間が「大週間」と呼ばれています。キリストが死を滅ぼした復活の神秘は、わたしたちの古い時の中に力強く入り込み、万物をキリストに服従させるでしょう。
[1170]
ニケア公会議(325 年)では、全教会が、キリスト教の過越祭が春分後の満月(ニサンの月の14日)の後の日曜日に祝われることで合意しました。ニサンの月の14日の計算方法の違いのために、西方教会と東方教会とでは復活祭の日は必ずしも同じになるわけではありません。そのため、両教会は現在、主の復活の祝日を再び同日に祝うための合意を目指して努力しています。
[1171]
典礼暦年は、キリストの復活という唯一の神秘を異なる思考法で展開させます。そのことは、わたしたちの救いの始まりを記念し、わたしたちに復活の神秘の初穂を与えるキリストの受肉の神秘を中心に祝われる祝日(主のお告げ、降誕、公現)の周期に関して、とくに当てはまります。
[1172]
「キリストの諸神秘を一年の周期をもって祝う際、聖なる教会は、神の母なる聖マリアを、特別な愛をもって敬います。聖母は、御子の救いのみわざに解きがたく結ばれているのです。教会は聖母のうちに、あがないのもっとも優れた実りを感嘆し、ほめたたえ、あたかももっとも純粋な姿のうちにおけるものとして、聖母のうちに、自らが完全にそうありたいと欲し、希望しているものを、喜びをもって見つめるのです」50。
[1173]
教会は、年間に殉教者やその他の聖人を記念するとき、「キリストとともに苦しみ、ともに栄光を受けた」この人々を通して「復活秘義を告げ知らせ、キリストを通して御父のもとに、すべての信者が引き寄せられる模範を信者に示し、聖人の功徳によって、神の恵みを願うのです」51。
[1174]
感謝の祭儀、とくに主日の集会でわたしたちが祝うキリストの神秘、その受肉と復活は、時課の典礼、「聖務日課」52によって、毎日の時間にも浸透し、これを聖化させます。「たえず祈るように」53という使徒の勧めに忠実に従って行われるこの典礼は、「神への賛美を通して昼夜の全過程が、聖とされるように構成されています」54。時課の典礼は「教会の公の祈り」55であって、その中で信者(司祭、修道者、信徒)は受洗者の王的祭司職を果たします。教会の「承認された形式に従って」行われる時課の典礼は、「まことに花婿に語りかける花嫁の声であり、まさにご自身のからだとともに御父にささげられるキリストの祈りです」56。
[1175]
時課の典礼は、神のすべての民の祈りとなるべきものです。この祈りによって、キリストご自身が「この祭司職を、ご自分の教会を通して継続しておられます」57。各自は教会でのそれぞれの役割と自分の生活事情とに従ってこれに参加します。すなわち、司祭は熱心な祈りと神のことばの奉仕とに努めるよう召されているので、司牧の務めに専念する者として58、修道者は奉献生活のカリスマに生きる者として59、すべての信徒はそれぞれの可能性に応じて参加します。「司牧者は、主要な時課、中でも晩課が、主日と大祝日に教会において共同で挙行されるように努めなければなりません。また、信徒自身も、あるいは司祭とともに、あるいは互いに集まって、または、各自単独にでも聖務日課をとなえるように勧められます」60。
[1176]
時課の典礼を果たすためには、祈る心を込めて声を出すことだけではなく、「典礼と聖書、とくに詩編についての、より豊かな知識」61を身につけることも必要です。
[1177]
時課の祈りに含まれている賛歌と連願は、詩編の祈りを教会の時の中に挿入して、一日のそれぞれの時刻、あるいは典礼季節、当日の祝日の象徴的な意味を表します。さらに、各時課での神のことばの朗読と答唱、ある時課での教父や霊性の師の著作の朗読は、祝われている神秘の意味をいっそう深く明らかにし、詩編の理解を助け、念禱の準備ともなります。こうして、神のことばが朗読され黙想されて祈りとなる聖書朗読が、典礼の中に根を下ろすようになります。
[1178]
時課の典礼は感謝の祭儀の延長のようなものですが、神の民の多様な信心業、とくに聖体礼拝や聖体賛美式を排除しないばかりでなく、より豊かなものにします。
[1179]
新約時代の「霊と真理」(ヨハネ4∙24)による礼拝は、特定の場所に限定されてはいません。全地が聖なるもので、人間にゆだねられています。信者が一堂に会するとき、大切なのは、「霊的な家」に造り上げられるために集まった「生きた石」(一ペトロ2∙5)である人々です。復活したキリストのからだは霊的神殿であって、そこからいのちを与える水がほとばしり出ます。聖霊によってキリストに合体されたわたしたちこそ、「生ける神の神殿」(二コリント6∙16)です。
[1180]
信教の自由の行使が妨げられなければ62、キリスト者は礼拝用の建物を建てます。見える教会堂は単なる集会の場所ではなく、その場所に生きている教会、キリストにおいて人間と和解し、人間とともにおられる神の住まいを表すものです。
[1181]
「祈りの家は聖体祭儀がそこで行われ、聖体が安置され、信者たちがそこに集まり、わたしたちのためにいけにえの祭壇においてささげられたわたしたちの救い主なる神の子の現存が信者の助けと慰めのために礼拝される場所なので、清らかで、祈りと典礼にふさわしいものでなければなりません」63。この「神の家」では、建物全体に利用されているデザインやシンボルなどは、教義とも合致し、しかもそこに現存して活動しておられるキリストを全体的に調和が取れた形で現すものでなければなりません64。
[1182]
新約の祭壇は、過越の神秘の諸秘跡の源であるキリストの十字架です65。教会堂の中心である祭壇上で、パンとぶどう酒の形態のもとに十字架の犠牲が現在化されます。これはまた、神の民が招かれている主の食卓でもあります66。幾つかの東方教会典礼では、祭壇は聖墓の象徴(キリストは実際に死に、実際に復活されたことを意味するもの)でもあります。
[1183]
聖櫃は「聖堂の中の尊い場所に尊敬を尽くして」67安置されなければなりません。聖櫃の品位、位置、安全性などは68、聖体の秘跡に真に現存されるキリストの礼拝を助けるものでなければなりません。塗油によって聖霊のたまものの霊印を示す秘跡的しるしに用いられる聖香油は、伝統的に聖堂の安全な場所に納められ、崇敬を受けることになっています。洗礼志願者の油と病者に用いる油も、そこに置くことができます。
[1184]
司教の座席(カテドラ)および司祭の座席は、「会衆の座長としての役割と、祈りを指導する役割とを表〔すもので〕なければなりません」69。朗読台。「神のことばはその尊厳のゆえに、教会堂の中にふさわしい場を設け、そこから告げ知らせ〔られる必要があり〕ます。それは、ことばの典礼の間、信者の注意が自然に向けられる場所でなければなりません」70。
[1185]
神の民の集まりは洗礼によって始まります。したがって、教会堂には洗礼を行う場所(洗礼盤)と、洗礼の時の約束を思い出させるもの(聖水)を備えなければなりません。
洗礼でいただいた神のいのちを新たにするには、悔い改めが必要です。したがって教会堂には、悔い改める人が罪を告白し、ゆるしを受けるための適切な場所を備えなければなりません。
教会堂はまた、潜心と、エウカリスチアの祈りを深め内面化するための静かな祈りの場所でもなければなりません。
[1186]
教会堂には終末的な意味もあります。神の家に入るには、敷居をまたがなければなりません。この敷居は罪によって傷つけられた世界から、すべての人が招かれている新しいいのちの世界に移ることを象徴しています。見える教会堂は、御父の家を象徴するものです。神の民はその家に向かって歩み、そこで御父は、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださ」(黙示録21∙4)います。したがって、教会堂は神のすべてのの子らに扉を大きく開き、歓迎してくれる神の家でもあります。
[1187]
典礼は、全キリスト、すなわちその頭とからだとの行為です。わたしたちの大祭司キリストはこれを、天上の礼拝で、聖母マリア、使徒たち、すべての聖人、すでにみ国に入った数多くの人々とともに、たえず挙行しておられます。
[1188]
典礼祭儀においては、全会衆がそれぞれの役割を果たす「典礼の挙行者」です。洗礼による祭司職はキリストのからだ全体のものです。しかし、ある信者は叙階の秘跡によって司祭となり、からだの頭であるキリストの代理を務めます。
[1189]
典礼祭儀は幾つかのしるしや象徴から成り立っていますが、それらは被造物(光、水、火)、人間の生活(洗う、塗油する、パンを裂く)、救いの歴史(過越祭の儀式)から取られたものです。これらの宇宙的な要素、人間生活の儀礼、神のわざを記念する動作などが、信仰の世界のうちに取り入れられて、聖霊の力を受け、キリストの救いと聖化のわざを担うものとなります。
[1190]
ことばの典礼は、感謝の祭儀の不可欠な部分です。告げられる神のことばとそれに応答する信仰の行為とによって、この祭儀の意味が表されます。
[1191]
歌と音楽は典礼と密接に結びついています。これらを正しく用いるための基準は、祈りの表現豊かな美しさ、会衆の心を合わせた参与、および祭儀の神聖さです。
[1192]
教会堂や家庭に置かれている聖画像は、わたしたちの信仰をキリストの神秘に目覚めさせ、養うものです。キリストとその救いのわざを描いた聖画像を介してわたしたちが礼拝しているのは、キリストです。神の母聖マリア、天使や聖人たちの聖画像を介して、わたしたちはそれらに描かれているかたがたを崇敬します。
[1193]
「主の日」である日曜日は、キリストの復活の日であるので、エウカリスチアの祭儀を行う主要な日です。主日は典礼集会の日、キリスト者の家族の日、喜びの日、労働を休む日として、とくに優れた日です。主日は「全典礼暦年の基礎であり、中核」71なのです。
[1194]
教会は「一年を周期としてキリストの神秘全体を、受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降臨日へ、さらに幸いなる希望と、主の来臨との待望へと展開しているのです」72。
[1195]
地上の教会は、聖人たち、まず第一に聖母マリア、ついで殉教者やその他の聖人たちを典礼暦の一定の日に記念することによって、自分たちが天上の礼拝と一致していることを表します。教会は、栄光のうちにいる人々においてすでに救いを実現してくださっているキリストをたたえています。聖人たちの模範は御父に向かって歩む教会を励まします。
[1196]
時課の典礼を行う信者は、御父に栄光を帰し、世界全体に聖霊のたまものを願い求めるキリストの絶えることのない祈りに加わるために、詩編の祈りや神のことばの黙想、賛歌や祝福などを通して、わたしたちの大祭司キリストと結ばれるのです。
[1197]
キリストは、神のまことの神殿、「その栄光の住まい」です。神の恵みによって、キリスト者もまた聖霊の神殿、教会を築き上げる生きた礎石となります。
[1198]
この世における教会は、共同体が集まることのできる場所、すなわち、見える教会堂、聖所を必要としています。これらは、わたしたちが向かっている最終の巡礼地である天上のエルサレム、聖なる都のかたどりです。
[1199]
教会は教会堂の中で聖三位の栄光をたたえて公の祭儀を執行し、神のことばを聴き、賛美を歌い、祈りをささげ、また、会衆の中に秘跡的に現存するキリストの犠牲をささげます。教会堂はまた、潜心と個人の祈りとの場でもあります。
[1200]
エルサレムの初代教会からキリストの再臨まで、使徒伝承の信仰に忠実な神の諸教会がさまざまなところで祝うものは同じキリストの過越の神秘です。典礼において祝われる神秘は一つですが、これを祝う形式は多様です。
[1201]
キリストの神秘は、いかなる典礼伝統をもってしても表現し尽くすことのできないほど奥が深く、豊かなものです。さまざまな典礼儀式の起源と発達の歴史を見ると、それらが互いに補完し合うものであることに驚かされます。諸教会は、信仰と信仰の諸秘跡とをともに保ちながらこれらの典礼伝承を実践してきたので、相互に充実し合い、すべての教会に共通な伝統と使命とを忠実に保って成長したのです73。
[1202]
多様な典礼伝承は、まさに教会の使命のゆえに生じました。同じ地域にあり、同じ文化を持つ諸教会は、キリストの神秘を自分たちが共有する文化の特色に応じて表現し、祝うようになりました。この特色は「ゆだねられた信仰の遺産」74の伝達、典礼象徴、兄弟的共同体の組織のあり方、諸神秘の神学的理解や聖性の型などに表されています。こうして、すべての民の光であり救いであるキリストは、教会が派遣され、根を下ろす民族や文化に、各地の教会の典礼生活を通して紹介されることになります。教会は普遍的です。したがって、あらゆる文化の真の富を浄化しながら、それらを一つの教会に取り入れることができるのです75。
[1203]
伝統的な典礼様式ないし現在教会で用いられている典礼様式には、ラテン典礼(主としてローマ典礼、そのほかに、アンブロジオ典礼などのある地方教会の典礼とある修道会典礼なども含む)、ビザンティン典礼、アレクサンドリア典礼ないしコプト典礼、シリア典礼、アルメニア典礼、マロン典礼、カルデア典礼などがあります。「聖なる公会議は、伝統に忠実に従い、合法的に承認されているすべての典礼様式を、聖にして母なる教会が、同等の権利と栄誉を持つものと認め、それらが将来も保存され、あらゆる方法で促進されるように望むものであることを宣言します」76。
[1204]
したがって、典礼はさまざまな民族の特性や文化に対応すべきものです77。キリストの神秘が「信仰による従順に導〔き〕、すべての異邦人に」(ローマ16∙26)知られるようになるため、その神秘はあらゆる文化の中で告げ知らされ、祝われ、具現されなければなりません。それはこれらの文化が破壊されずに、キリストによって新しいいのちを与えられ、完成されるようになるためです78。まさに、キリストによって担われ変容された諸民族の固有な文化とともに、またその文化を通してこそ、神の多くの子らは御父に近づき、ただ一つの霊に結ばれて御父をたたえることができるのです。
[1205]
「典礼、とくに秘跡の典礼には、不変の部分があります。神によって制定されたものとして、教会はこれを守り続けます。しかしまた同時に変えることのできる部分もあって、教会にはこれを新しく福音を受け入れた諸民族の文化に適応させる権限、時にはその義務があるのです」79。
[1206]
「典礼の多様性は豊かさの源泉でもありえますが、同時に、相互間の緊張、無理解、さらには分裂さえも引き起こしえるものです。典礼の多様性は、当然一致を害するものであってはなりません。その多様性は、共通の信仰、教会がキリストから受けた諸秘跡のしるし、そして位階制度のもとでの交わりに対する忠実さを守ってのみ表されるべきものです。諸文化への順応のためには回心が求められますが、また同時に、必要であれば、カトリック信仰と相いれない先祖伝来の慣習を捨てることも要求されます」80。
[1207]
本来、典礼の挙行は教会が存在する民族の文化的表現方法を用いて行われるべきですが、文化に従属させてしまってはなりません。他方、典礼そのものは諸文化を生み出し、育てます。
[1208]
キリストの同じ神秘を表し伝えるものとして合法的に認められた多様な典礼伝承や儀式は、教会の普遍性を表します。
[1209]
典礼伝承の多様性における一致を保証する基準は、使徒伝承への忠実さ、すなわち、使徒から受け継いだ信仰および諸秘跡における交わり、つまり、使徒継承によって示され保証されている交わりを保つということです。
[1210]
キリストによって制定された新約の秘跡は、洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚の七つです。七つの秘跡は、キリスト者の一生のあらゆる段階と重要な時にかかわり、キリスト者の信仰のいのちを生み、成長させ、いやし、そのいのちに使命を与えます。この点で、自然のいのちの諸段階と霊的いのちのそれとの間にはある種の類似が見られます1。
[1211]
この類比に従って、まずキリスト教入信の三秘跡(第1章)、ついでいやしの秘跡(第2章)、最後に、信者の交わりと使命を育てる秘跡(第3章)について説明します。いうまでもなく、この順序だけが唯一のものではありませんが、この順序に従えば、七つの秘跡が一つの有機体を形づくり、その中で各秘跡はそれぞれの独自の機能を果たすことがよく示されます。この有機体の中で、聖体(エウカリスチア)は「秘跡の中の秘跡」として比類のない位置を占めます。「他のすべての秘跡は聖体の秘跡を目的として、それに秩序づけられている」2からです。
[1212]
キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台となります。「キリストの恩恵が人々にもたらす神との結合は、自然の生命の誕生、成長、維持に多少似ています。それというのも信者は洗礼によって新たに生まれ、堅信の秘跡によって強められ、感謝の祭儀の中で永遠の生命の糧で養われるからであって、こうして人々は、これらキリスト教入信の秘跡によって、しだいに神の生命にますます豊かにあずかり、愛の完成へと進んでいきます」3。
[1213]
聖なる洗礼はキリスト者の生活全体の基礎、霊的生活の扉、他の諸秘跡に導く入り口です。洗礼によってわたしたちは罪から解放され、神の子として生まれ変わり、キリストの肢体となり、教会の一員となって、その使命に参与する者となります4。「洗礼は水とことばによる再生の秘跡です」5。
[1214]
この秘跡は、中心となる儀式に従って洗礼と呼ばれます。「洗礼を行う」という語(ギリシア語でバプティゼインβαπτίζειν)は、「沈める」「浸す」という意味です。水の中に「沈めること」は、洗礼志願者がキリストの死と結ばれて埋葬され、キリストとともに復活して墓から出て6、「新しく創造された者」(二コリント5∙17、ガラテヤ6∙15)となることを意味しています。
[1215]
この秘跡はまた、「聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い」(テトス3∙5)とも呼ばれます。それは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3∙5)といわれている、その水と霊による誕生を意味し、実現するからです。
[1216]
「この水洗いは、
照らしと呼ばれています。このこと(カテケージス)を学んだ人の精神が照らされるからです」
7。洗礼によって「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1∙9 参照)であるみことばを受けた受洗者自身は、「照らされた」後
8、「光の子」
9となり、自分自身が「光」(エフェソ5∙8)となるのです。
洗礼は、「神のたまもののうち、もっとも美しくもっともすばらしいものです。……わたしたちはそれを贈り物、恩恵、洗礼、塗油、照らし、不朽の衣、再生の洗い、霊印、そしてすべてもっとも貴重なものの名で呼びます。贈り物と呼ばれるのは、何も持ってこない人々に与えられるからです。恩恵と呼ばれるのは、罪びとにも授けられるからです。洗礼と呼ばれるのは、罪が水の中に沈められるからです。塗油と呼ばれるのは、塗油される者がすべて聖なる者となり、王とされるからです。照らしと呼ばれるのは、まばゆい光だからです。衣と呼ばれるのは、わたしたちの恥を隠すからです。洗いと呼ばれるのは、清めるからです。霊印と呼ばれるのは、わたしたちを守るもの、神の主権のしるしだからです」10。
[1217]
教会は復活徹夜祭の典礼で、
洗礼水の祝福のとき、洗礼の神秘の前表であった救いの歴史の重要な出来事を荘厳に記念します。
「秘跡のしるしを通して救いの恵みを与えてくださる全能の神よ、あなたは旧約の歴史の中で水によって洗礼の恵みを表してくださいました」11。
[1218]
世界の初めから、この目立たない、しかし、すばらしいものである水は、いのちと豊穰の泉となっています。聖書には、神の霊が水の「面を動いていた」と記されています
12。
「天地の初めに、あなたの霊は水の面を覆い、人を聖とする力を水にお与えになりました」13。
[1219]
教会はノアの箱舟に、洗礼による救いの前表を見ました。この箱舟によって、「数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」(一ペトロ3∙20)。
「ノアの洪水のとき、水をあふれさせて、罪の終わりと新しいいのちの始まりである洗礼のかたどりとしてくださいました」14。
[1220]
泉の水がいのちの象徴であるのに対し、海の水は死の象徴です。ですから、水は十字架の神秘の象徴となることができました。この象徴によって、洗礼がキリストの死にあずかるものだということが表現されています。
[1221]
とくにイスラエルがエジプトでの奴隷状態から真に解放された紅海通過は、洗礼によって行われる救いを予告するものです。
「アブラハムの子孫がエジプト脱出のとき、海の中に乾いた道を備えて約束の地に渡らせ、ファラオの奴隷から解放して、この民を洗礼を受ける人々のしるしとしてくださいました」15。
[1222]
さらに、ヨルダン川を渡ることも洗礼の前表です。この渡河によって、神の民はアブラハムの子孫に約束された土地をたまものとして受けました。この土地は永遠のいのちの象徴です。この幸いな嗣業の約束は、新しい契約において実現します。
[1223]
旧約時代のすべての前表は、キリスト・イエスのうちに成就されます。キリストは自らヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、公生活をお始めになります16。そして、復活後、イエスは使徒たちに次の使命をお与えになります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28∙19-20)17。
[1224]
キリストは、正しいことをすべて行う18ために、罪びとに授けられるヨハネの洗礼を進んでお受けになりました。イエスのこの行動は、自分を「無にしたこと」19の表れです。最初の創造のとき水の面を覆っていた霊が、そのとき、新しい創造の序曲としてキリストの上にくだり、御父はイエスがご自分の愛する子であることを啓示なさいます20。
[1225]
キリストはその過越によって、洗礼の泉をすべての人に開かれたのです。キリストはエルサレムでの受難を、ご自分が受けなければならない「洗礼」と呼ばれました
21。十字架につけられたイエスの脇腹から流れ出た血と水
22は、新しいいのちの秘跡である洗礼と聖体の象徴です
23。そのときから、人は「水と霊とによって」生まれ、神の国に入ることが可能となったのです(ヨハネ3∙5)。
「あなたがどこで洗礼を受け、洗礼が何に由来するのかを見つめてください。キリストの十字架、キリストの死以外のものからということはありえません。キリストがあなたのために苦しまれたこと、そこにすべての神秘があります。あなたはキリストによってあがなわれ、キリストによって救われるのです。」24
[1226]
聖霊降臨の日以来、教会は聖なる洗礼を授けてきました。聖ペトロは自分の説教によって心を動かされた多くの人々にこう宣言しています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、たまものとして聖霊を受けます」(使徒言行録2∙38)。使徒たちとその協力者たちは、イエスを信じる者であれば、ユダヤ人、神をおそれる人々、異邦人のだれにでも洗礼を授けます25。洗礼はいつも信仰と結びつけられています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と聖パウロがフィリピの看守に言明すると、看守も「家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(使徒言行録16∙31-33)と記されています。
[1227]
使徒聖パウロによれば、信じる者は洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られ、復活します。
「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち〔は〕皆、またその死にあずかるために洗礼を受け〔ました。ですから、〕わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6∙3-4)26。
受洗者は「キリストを着ます」
27。洗礼とは、清め、聖化し、義とする、聖霊による洗いです
28。
[1228]
したがって、洗礼は、神のことばの「朽ちない種」がそのいのちを与える実を結ぶ、水による洗いです29。聖アウグスチヌスは洗礼について、「ことばが物と合わされて、秘跡となる」30といっています。
[1229]
キリスト者になるには、使徒時代から幾つかの段階を踏む入信過程がありました。この段階の進み具合は早い場合も遅い場合もありますが、いずれにせよ、つねに幾つかの基本的な要素を含んでいなければなりません。すなわち、神のことばの告知、回心を伴う福音の受け入れ、信仰宣言、洗礼、聖霊の注ぎ、聖体拝領です。
[1230]
この入信の過程は、時代と状況とによって大きく変遷しました。古代教会の時代、キリスト教入信の過程は著しく発展し、長い求道期の期間中に次々と典礼儀式が行われる中で、求道者の準備が深められ、入信の諸秘跡の儀式へと導かれていました。
[1231]
幼児洗礼が洗礼の通常の形となった地方では、洗礼式はキリスト教入信の予備段階をきわめて簡潔に組み入れた一つの儀式となりました。幼児洗礼はその本質から、洗礼後の求道期が必須となります。これは、ただ洗礼後に教えを説くにとどまらず、子供の成長に応じて洗礼の恵みを開花させていく営みです。これが、カテケージスの本来の場なのです。
[1232]
第2バチカン公会議はラテン典礼の教会で「数段階に分けられる成人の洗礼準備制度」31を復興しました。それが『成人のキリスト教入信式』の儀式書(1972 年)に取り入れられています。さらに、公会議は、「キリスト教伝統のうちに存在するもの以外にも」、宣教地では「各国民の間で使われている入信の諸要素を、それがキリスト教儀式にふさわしいものである限り」32取り入れることを許可しました。
[1233]
したがって、今日では、すべての西方教会および東方教会の典礼では、成人のキリスト教入信は、求道期に入ったときに始まり、洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が一つの儀式で行われるときに最高潮に達します33。東方教会では、子供のキリスト教入信は洗礼で始まり、その直後に堅信と聖体拝領とが続きます。ラテン典礼では、洗礼後に数年にわたるカテケージスがなされた後で、堅信およびキリスト教入信の頂点である聖体を受けて締めくくられます34。
[1234]
洗礼の秘跡の意味と恵みとは、その儀式の中で明確な形で示されています。信者はこの儀式の動作とことばに注意深くあずかるならば、この秘跡が新しい受洗者各自のうちに示し実現する豊かな恵みを受けることができます。
[1235]
洗礼式に先だっ十字架のしるしは、これからキリストに結ばれる者の上にキリストの刻印をしるすものであり、同時に、キリストが十字架上でわたしたちのために得られたあがないの恵みを示すものでもあります。
[1236]
神のことばの宣言は、啓示された教えによって志願者と会衆とを照らし、洗礼とは不可分の信仰の応答ができるようにさせてくれるものです。洗礼は、信仰生活に入る秘跡的な入り口ですから、特別に「信仰の秘跡」なのです。
[1237]
洗礼は罪とその扇動者である悪魔からの解放を意味するものなので、洗礼志願者の上に一つの(あるいは幾つかの)解放を求める祈りが唱えられます。洗礼志願者に塗油ないし司式者の按手が行われ、続いて志願者は明白に悪魔を捨てることを宣言します。このように準備が整ってから、志願者は洗礼によって自分に「ゆだねられる」教会の信仰を宣言することができます35。
[1238]
ついで(このときか復活徹夜祭に)、洗礼水が聖霊の働きを願う祈り(エピクレシス)によって祝福されます。教会は神に、その御子によって聖霊の力がこの水にくだり、この水で洗礼を受ける人々が「水と霊によって」(ヨハネ3∙5)生まれるように願います。
[1239]
この後、秘跡の本質的な部分、厳密な意味での洗礼式が続きます。これは、キリストの過越の神秘にあずかって罪に死に、至聖なる三位一体のいのちに入るようになることを示し、実現するものです。洗礼の意味をもっともよく表すのは洗礼水に全身を三度浸す形式ですが、古代から行われていたように、志願者の頭部に水を三度注いで授けることもできます。
[1240]
ラテン教会では、司式者は、次のことばを唱えながら三度水を注ぎます。「○○さん、わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」。東方典礼では、洗礼志願者は東方を向き、司祭が「神のしもべである○○さんは、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授かります」といいますが、三位のそれぞれのみ名を唱えるたびに、志願者を水に沈め、そして引き上げます。
[1241]
司教が聖別した香油による聖香油の塗布は、新受洗者が聖霊を与えられたことを示すものです。受洗者はキリスト者、すなわち聖霊によって「塗油された者」となり、祭司、預言者、王として塗油されたキリストに合体します36。
[1242]
東方教会の典礼では、洗礼後の塗油は聖香油(堅信)の秘跡となります。ローマ典礼では、この塗油は司教が後に授ける聖香油の第二の塗油、すなわち、堅信の秘跡を前もって告げるものです。堅信の秘跡は、いわば、洗礼の塗油を「確認し」、完成するものです。
[1243]
白衣は、受洗者がキリストを身にまとったこと37、キリストとともに復活したことを象徴します。復活のろうそくからともされたろうそくは、キリストが新信者を照らしてくださったことを示します。キリストに結ばれた受洗者は、「世の光」(マタイ5∙14)なのです38。今や、新受洗者は、御ひとり子に結ばれた神の子です。神の子らの祈りである「主の祈り」を唱えることができるのです。
[1244]
初聖体(拝領)。神の子供となり、婚礼衣装を身につけた新信者は「小羊の婚礼」に招かれ、キリストのからだと血である新しいいのちの糧を受けます。東方教会はキリスト教入信の一体性を強く自覚しているので、すべての受洗・受堅者に聖体を拝領させます。これは幼児の場合も同様で、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」(マルコ10∙14)といわれたキリストのことばを銘記しているからなのです。ラテン教会では分別のつく年齢に達した者だけにしか聖体拝領を認めていませんが、受洗したばかりの幼児を「主の祈り」を唱えるために祭壇に近づけることによって、洗礼と聖体とのつながりを表現しています。
[1245]
洗礼式の終わりには荘厳な祝福が与えられます。幼児洗礼の場合には、母親の祝福が非常に重要視されています。
[1246]
「洗礼を受けることができるのは、未受洗者のすべて、かつ未受洗者のみです」39。
[1247]
教会の初めのころ、福音が告げられて間もない地方では成人に洗礼を授けるのが普通でした。その場合、求道期(洗礼準備)が重要な位置を占めていました。これは信仰とキリスト教的生活への手ほどきの時期で、この期間中に、洗礼と堅信と聖体によって与えられる神のたまものを受けるための準備をすることになっていました。
[1248]
求道期、すなわち、求道者の教育の目的は、その期間にある人々が神の招きにこたえ、教会共同体と一致して、回心と信仰を深めることができるようにすることです。それは「キリスト教的生活全体」の教育の期間であり、それによって「弟子たちは師であるキリストと結び合わせられるのです。それゆえ、求道者は救いの神秘を十分に伝授され、福音に則した生活と、時間をおいて継続的に行われる聖なる儀式とによって、神の民の信仰と典礼と愛の生活に導き入れられなければなりません」40。
[1249]
求道者は「すでに教会と結ばれており、すでにキリストの家のものであり、すでに信仰・希望・愛の生活を営んでいることもまれではないのです」41。「母なる教会は彼らをすでに自分のものとして愛と配慮をもって包むのです」42。
[1250]
原罪によって神の恵みを失い、汚れた人間本性を受けて生まれた幼児もまた、やみの勢力から解放され、すべての人間が召されている神の子らの自由の地に移されるためには43、洗礼によって新たに生まれる必要があります44。幼児洗礼においては、救いの恵みがまったくの無償で与えられることがとくに顕著に示されます。もし、教会と両親とが、生まれて間もなく子供に洗礼を授けないとすれば、神の子となるはかりしれない恵みを子供に与えないことになるでしょう45。
[1251]
キリスト信者である両親は、この習慣が神からゆだねられたいのちの養育者としての役割にこたえるものであることを認めるべきです46。
[1252]
幼児に洗礼を授けるというのは、起源を特定できないほど古い教会の伝統です。すでに2世紀の史料においてはっきりした証明がなされています。使徒による宣教の初めから、「一家全員」が受洗した場合47、子供にも授けたことは十分考えられます48。
[1253]
洗礼は、信仰の秘跡です49。しかし信仰は、信者共同体を必要とします。一人ひとりの信者が信仰を持つことができるのは、教会の信仰があってのことです。洗礼に必要な信仰は完全で成熟した信仰ではなく、成長していく初歩的信仰です。求道者あるいはその代父母は、「あなたは神の教会に何を求めますか」と尋ねられると、「信仰を求めます」と答えます。
[1254]
幼児であれ成人であれ、すべての受洗者の信仰は、洗礼後に成長しなければなりません。そのために、教会は毎年の復活徹夜祭に洗礼の約束を更新します。洗礼準備は新しいいのちの入り口に導くにすぎません。洗礼は、キリスト教的生活全体がわき出てくるキリストにおける、新しいいのちの泉です。
[1255]
洗礼の恵みが開花するには、両親の助けが重要です。そこにはまた、代父母の役割もあります。代父母は、新しい受洗者が幼児であると成人であるとを問わず、彼らがキリスト教的生活の旅路を歩んでいくのを助けることができ、しかもその覚悟のある、しっかりした信仰者でなければなりません50。両親や代父母の役割は、真の教会的な任務です51。教会共同体は、受洗者が受けた恵みを開花させ固く守ることを助ける責任の一端を担います。
[1256]
洗礼の通常の役務者は、司教と司祭です。ラテン教会では、それに助祭が加わります52。緊急の場合には、だれでも、未受洗者であっても、必要な意向を持って聖三位の神の名を呼ぶ洗礼の定句を唱えることによって、洗礼を授けることができます53。その意向とは、教会が洗礼を授けるときに行おうとしていることを行いたいという意思のことです。だれでも洗礼を授けることができると教会が教えているのは、神はすべての人の救いを望んでおられるし54、救いには洗礼が不可欠であるという理由からなのです55。
[1257]
洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます56。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようお命じになりました57。福音が伝えられてこの秘跡を願うことのできる人々の救いのためには、洗礼が必要です58。教会は永遠の幸福の保証を与えるための、洗礼以外の手段を知りません。したがって教会は、洗礼を受けることのできるあらゆる人々を「水と霊によって」生まれさせるために、キリストから受けた使命をなおざりにしないように努めています。神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません。
[1258]
教会が初めからつねに確信してきたのは、信仰のためにいのちをささげる人々は、洗礼を受けていなくとも、キリストのために、キリストとともに死ぬことによって、洗礼を受けるということです。この血の洗礼は、秘跡ではありませんが、洗礼の望みと同様、その効果をもたらします。
[1259]
洗礼を受ける前に死んだ求道者については、洗礼を受けたいという明白な望みに罪の痛悔と愛とが伴っていれば、洗礼の秘跡によって受けるはずの救いが保証されます。
[1260]
「キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的使命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものですから、聖霊は神のみが知っておられる方法によって、すべての人に過越の神秘にあずかる可能性を提供されることをわたしたちは信じなければなりません」59。キリストとその教会とを知らずに真理を求め、自分の知るところに従って神のみ旨を行うすべての人は救われうるのです。このような人々は、洗礼の必要性を知っていたなら、洗礼を受けたいという望みを表明したに違いないと考えられるからです。
[1261]
洗礼を受けずに死んだ幼児については、教会にできるのは、幼児の葬儀の際に行っているように、その子供を神のあわれみにゆだねることだけです。「すべての人々が救われることを望んでおられ」(一テモテ2∙4)る神の限りないあわれみから見て、また、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」(マルコ10∙14)といわれたイエスの子供たちへの愛情から見て、わたしたちは洗礼を受けずに死んだ幼児には救いの道があると希望することができます。それにもかかわらず、教会は、幼児が聖なる洗礼の恵みを通してキリストのもとに近づくのを妨げないようにと、強く促しています。
[1262]
洗礼の種々の効果は、秘跡の儀式の目に見える要素によって表されます。水に浸ることは、死と清めを意味するとともに、再生と一新の象徴でもあります。したがって洗礼には、罪の清めと聖霊による新たな誕生という、二つのおもな効果があります60。
[1263]
洗礼によって、すべての罪、すなわち原罪、すべての自罪、また罪のすべての罰もゆるされます61。事実、新たに生まれた人々には、神の国に入るのを妨げるもの、つまり、アダムの罪も、自罪も、罪の結果も残りません。その罪の結果の中で最大のものは、神からの離脱です。
[1264]
しかし受洗者には、苦しみや病気や死、あるいは性格の弱さなどといった人生にはつきものの種々のもろさなど、罪に由来する一時的な結果は残ります。さらに、聖伝が、情欲あるいは比喩的に罪の導火線と呼んできた、罪への傾きなどもそうです。「罪への傾きは、わたしたちがそれと戦って訓練されるために残されましたが、それに同意せず、キリストの恵みによって勇敢に抵抗する人々を害することはできません。そのうえ、『規則に従って競技をするならば、栄冠を受けることができるでしょう』(二テモテ2∙5 参照)」62。
[1265]
洗礼は、すべての罪を清めるだけではなく、新しい信者を「新しい被造物」63、「神の本性にあずかる者」64となった神の養子65、キリストの肢体66、キリストと共同の相続人67、聖霊の神殿68とします。
[1266]
聖三位の神は受洗者に成聖の恩恵、義とする恵みを与えます。
⸺これにより受洗者は、対神徳によって神を信じ、神に希望し、神を愛することができ、
⸺聖霊のたまものによって聖霊に動かされて生き、行動することができ、
⸺倫理徳によって、ますます善を行うことができるようになります。
このように、キリスト者が超自然的いのちを営む上で必要なすべてのものの根源は、聖なる洗礼にあるのです。
[1267]
洗礼は、わたしたちをキリストのからだの肢体とします。「だから、……わたしたちは互いにからだの一部なのです」(エフェソ4∙25)。洗礼は、わたしたちを教会に結び合わせます。洗礼の泉から新約における神の唯一の民が生まれます。この民は国や文化や人種や性別などのあらゆる自然的、あるいは人間的な限界を超えるものです。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つのからだとなるために洗礼を受け」(一コリント12∙13)たのです。
[1268]
洗礼を受けた者は「霊的な家に造り上げられ、聖なる祭司となる」ための「生きた石」(一ペトロ2∙5)となります。洗礼によってキリストの祭司職、預言職、王職にあずかります。受洗者は、「暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを」広く伝えるために「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(一ペトロ2∙9)なのです。洗礼は、信者の共通祭司職にあずからせます。
[1269]
教会の一員となった受洗者は、もはや自分自身のものではなく69、自分たちのために死んで復活されたかたのものです70。ですから、人々に従い71、教会の交わりの中では彼らに仕え72、教会の指導者たちのいうことを聞き入れて服従し73、尊敬と愛情とをもって指導者たちを世話する74ようにと召されています。このように、洗礼によって責任と義務とが生じますが、また同時に、受洗者は教会の庇護のもとでの権利も有しています。それは、諸秘跡を受け、神のことばで養われ、教会のその他の霊的援助によって支えられるという権利です75。
[1270]
受洗者には、「〔洗礼によって〕神の子として生まれかわって、神から教会を通して受けた信仰を人々の前に宣言する義務」76と、神の民の使徒的活動・宣教活動に参加する義務とがあります77。
[1271]
洗礼は、カトリック教会とまだ完全に一致していない人々をも含めて・すべてのキリスト者間の一致の土台を成しています。「キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても・カトリック教会との交わりの中にいるのです。……信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けてしいるのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然に認められるのです」78。「したがって洗礼は、それによって再生されたすべての人の間に存在する一致の秘跡的きずなです」79。
[1272]
洗礼によってキリストに合体した受洗者は、キリストに似た者とされます80。洗礼はキリスト者のうちに、当人がキリストのものとなったことを示す消えない霊印(character)をしるします。たとえ罪によって洗礼が救いの実を結ばないようなことがあっても、この霊印はいかなる罪によっても消されることはありません81。ですから、洗礼は一回限りのもので、繰り返すことはできないのです。
[1273]
洗礼によって教会の一員となった信者は秘跡的霊印を受け、キリスト者として神を礼拝する務めをゆだねられます82。洗礼による霊印によってキリスト者は、教会の聖なる典礼に積極的にあずかりながら神に仕え、聖なる生活と実践を伴う愛のあかしとによって洗礼による祭司職を果たすことができる者とされ、またそうする義務を負わされているのです83。
[1274]
「主の霊印」84は、「あがないの日に対して」(エフェソ4∙30)聖霊がわたしたちにしるされた霊印です85。「洗礼は永遠のいのちの霊印です」86。最後まで「霊印を保った」信者、すなわち洗礼によって生じる義務を忠実に果たした信者は、洗礼を受けたときの信仰をもって、信仰の完成である神の至福直観を待望し、復活を希望しながら、「信仰をもって(信仰のしるしを刻まれた状態で)」87、死ぬことができるのです。
[1275]
キリスト教入信は、次の三つの秘跡によって行われます。新しいいのちの始まりである洗礼、それを固める堅信、キリストのからだと血によって養い、キリストに変容させる聖体です。
[1276]
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28∙19-20)。
[1277]
洗礼は、キリストにおける新しいいのちの誕生です。主の望みによれば、洗礼は救いに不可欠なものです。それは、受洗者がそのメンバーとなる教会が救いに不可欠であるのと同じです。
[1278]
洗礼式の本質的な部分は、聖三位、すなわち、父と子と聖霊のみ名を唱えながら、志願者を水の中に沈めるか、その頭に水を注ぐところです。
[1279]
洗礼の実りあるいは洗礼の恵みの効果は素晴らしいもので、原罪とあらゆる自罪のゆるし、新しいいのちへの誕生などが含まれています。この誕生により、人間は御父の養子、キリストの肢体、聖霊の神殿となります。まさにこのことから、受洗者はキリストのからだである教会に結ばれ、キリストの祭司職にあずかります。
[1280]
洗礼は人の霊魂に消えないしるし、霊印を刻みます。この霊印によって、受洗者はキリスト者として神を礼拝するために聖化されます。この霊印のゆえに、洗礼は繰り返して授けることはできません88。
[1281]
信仰のためにいのちをささげた人々、求道者、また教会を知らずに恵みの働きのもとで神を真剣に求め、そのみ旨を果たそうと努めるすべての人は、洗礼を受けていなくても救われることができます89。
[1282]
古代から幼児に洗礼が授けられてきました。それは、洗礼が人間のいさおしを前提としない神の恵み、たまものだからです。幼児は、教会の信仰に結ばれて洗礼を受けます。キリスト教的生活に入ることは、真の自由を得ることです。
[1283]
洗礼を受けずに死んだ幼児に関して、教会の典礼は、神のあわれみに信頼し、彼らの救いのために祈るよう勧めています。
[1284]
やむをえない場合は、だれでも洗礼を授けることができます。その際には、教会が行うことを行おうという意向を持って、受洗者の頭に水を注ぎながら、「わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えます。
[1285]
堅信の秘跡は、洗礼および聖体と一緒に組み合わされて、「キリスト教入信の秘跡」を構成します。この三つは一体でなければなりません。したがって、信者には、堅信の秘跡が洗礼の恵みの完成に必要であることを説明しなければなりません90。「堅信の秘跡によって信者はいっそう完全に教会に結合され、聖霊の特別な力で強められて、キリストの真の証人としてことばと行いをもって、信仰を広めかつ擁護するよう、いっそう強く義務づけられます」91。
[1286]
旧約時代の預言者たちは、待望のメシアが救いの使命を実現するために92、主の霊がその上にとどまると告げていました93。イエスがヨハネから洗礼を受けられたときその上に聖霊がくだったことは、イエスが来るべきかた、メシア、神の子であることのしるしでした94。聖霊によって人としてお生まれになったイエスの全生涯と全使命とは、御父が「限りなくお与えになる」(ヨハネ3∙34)聖霊との完全な交わりの中で実現されるのです。
[1287]
ところで、聖霊の充満はただメシアに限らず、メシアに属するすべての民に与えられるはずのものでした95。キリストは幾度かこの聖霊の到来を約束なさいましたが96、それはまず復活の日に97、ついで、いっそう目立つ方法で聖霊降臨の日に実現されました98。聖霊に満たされた使徒たちは「神の偉大なわざ」(使徒言行録2∙11)を宣言し始め、ペトロは、聖霊が注がれたことはメシア時代のしるしであると宣言しました99。そのとき、使徒の説教を信じて洗礼を受けた人々も聖霊のたまものを受けました100。
[1288]
「このころから使徒たちは、キリストの意向に従って、霊のたまものを、洗礼の恵みを完成するものとして、按手をもって新信者に与えました101。こうして、ヘブライ人への手紙に記されているように、洗礼と按手の教理は、最初のキリスト教教程の要素の一つに数えられることになりました102。この按手はカトリック伝承によって、ペンテコステの恵みを、ある意味で教会の中に永続させるものであるところの堅信の秘跡の起源とみなされています」103。
[1289]
きわめて早い時代から、聖霊のたまものが与えられることをいっそうよく表すために、按手に香油の塗布が付け加えられました。この塗油は、「キリスト者」という名称の意味をよく示しています。それは「油を注がれた者」という意味であり、「神は、聖霊によってこのかたを油注がれた者となさいました」(使徒言行録10∙38)と記されている、キリストご自身のみ名にその起源があるのです。この塗油の儀式は今日まで、東方教会にも西方教会にも存在します。この秘跡は、東方教会では、聖香油の注ぎ(Chrismatio)ないし聖香油の塗布、もしくは「香油」を意味するミュロン(μύρον)と呼ばれています。西方教会における堅信(confirmatio)という呼称は、この秘跡が洗礼をより強固なものとすると同時にその恵みをさらに強化する、ということを表しています。
[1290]
最初の数世紀においては、堅信は一般に洗礼と同じ儀式の中で行われました。聖チプリアノは、この二つを「一対の秘跡」と呼んでいます104。ところが、年ごとの幼児洗礼の増加や(農村地域の)小教区の増加などによって教区民の数が増えていき、司教はもはやすべての洗礼式に出席できなくなってしまいました。西方教会では、洗礼を完成させる権限を司教に留保することを望み、洗礼と堅信の秘跡を別のときに行うようになりました。東方教会では、この両秘跡を一つの儀式として行う伝統が堅持されたので、堅信は洗礼を授ける司祭によって行われています。ただし司祭が授ける場合は、司教が聖別した香油(ミュロン)を用いなければなりません105。
[1291]
ローマ教会には洗礼後に聖香油を二度塗布する慣習があって、それが西方方式の発展に寄与することとなりました。まず司祭が洗礼の直後に新信者に油を塗り、その後、司教が各新受洗者の額にもう一度油を塗って、洗礼後の塗油を完成させていました106。司祭による第一の塗油は、洗礼式の中に残りました。それは受洗者がキリストの預言職、祭司職、王職に参与することを意味します。洗礼が成人に授けられる場合にも洗礼後の塗油は一回しかありませんが、それは堅信の塗油になります。
[1292]
東方教会の様式は、キリスト教入信の一体性をいっそう強調します。西方教会の様式は、一、普遍、使徒継承の教会の保証者で奉仕者である司教と新信者とのつながりを表現し、これによって、キリストの教会の使徒的起源との結びつきをより鮮明に表します。
[1293]
堅信式では、塗油のしるしと、その塗油によって示し刻みつけられる霊印について考えなければなりません。
塗油は、聖書を含めて、古い時代から多くの象徴的な意味を持つものとされてきました。油は豊かさ107、喜び108のしるしで、清め(入浴前後の塗油)、柔軟さ(闘技者や格闘者の塗油)、打ち身や傷の痛みを和らげる治癒のしるしでもあり109、そのうえ、美と健康と力とを増進させるものです。
[1294]
塗油が持つこれらの意味は、秘跡に生かされる人生においても同じように存在していることが分かります。洗礼前の求道者への塗油は清めと強化を意味し、病者の塗油は治癒と力の回復を表します。洗礼後の堅信および叙階で受ける聖香油の塗布は一種の聖別のしるしです。堅信による塗油を受けたキリスト者は、イエス・キリストの使命とイエス・キリストに充満する聖霊の働きとにいっそう深くあずかり、その生活全体がキリストのよい香りを放つようになります110。
[1295]
受堅者はこの塗油によって聖霊の証印を受けます。証印は本人の象徴111、その権威のしるし112、ある物に対する所有権のしるし113です⸺そのために昔は、兵士には指揮者の、奴隷には主人の印が押されました⸺。証印は法的行為114や文書115を真正なものとし、場合によってはそれを秘密のものともします116。
[1296]
キリスト自ら、ご自分が御父の証印を押されたといっておられます117。キリスト者もまたある種の証印を押されています。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結びつけ、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に〝霊〟を与えてくださいました」(二コリント1∙21-22)118。聖霊のこの証印は、キリストへの全面的所属、永遠にその奉仕者となったことを示しますが、また、終末の大きな試練に際して神が守ってくださる約束をも表すものです119。
[1297]
堅信式に先だって行われ、しかもある意味では儀式の一部ともいえる重要な式は、
聖香油の聖別です。司教は聖木曜日の聖香油のミサの中で、自分の教区全体のための聖香油を聖別します。東方教会では、この聖別は総大主教だけが行えることになっています。
アンティオキアの典礼は、聖香油(ミュロン)聖別のエピクレシスを次のように唱えます。「〔父よ、あなたの聖霊を〕わたしたちと、わたしたちの前にあるこの油の上に〔送り〕、聖なるものとしてください。この油が、それを塗られしるしをつけられたすべての人にとって、聖なるミュロン、祭司のミュロン、王の香油、光の衣、救いのマント、いのちの保護者、霊的たまもの、霊魂と肉体の聖化、心の喜び、不朽の幸福、消えない証印、信仰の盾、サタンのあらゆる働きに対する恐るべきかぶととなりますように」120。
[1298]
ローマ典礼の場合のように堅信が洗礼と切り離して行われるときには、この儀式は受堅者の洗礼の約束の更新と信仰宣言とで始められます。こうして、堅信は洗礼につながるものであることが明白にされます121。成人が洗礼を受けたときには、直ちに堅信を受け、聖体を拝領します122。
[1299]
ローマ典礼では司教は受堅者全員の上に手を伸べますが、この動作は、使徒時代から引き継がれてきている聖霊が与えられるときのしるしです。司教は次のことばで聖霊の注ぎを懇願します。
「全能の神、主イエス・キリストの父よ、あなたは水と聖霊によってこの人々に新しいいのちを与え、罪から解放してくださいました。今この人々の上に、助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心をお与えください。わたしたちの主イエス・キリストによって」123。
[1300]
続いて、秘跡の本質的な儀式に移ります。ラテン典礼では、「堅信の秘跡は受堅者に按手して、『父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい』といいながら、聖香油を塗布することによって授けられます」124。ビザンチン典礼の東方教会では、ミュロンの塗布はエピクレシスの祈りの後で、額、目、鼻、耳、唇、胸、背、手足というからだの重要な部分に行われます。そして、各部分に塗油するたびに「たまものである聖霊のしるし」ということばが述べられます125。
[1301]
堅信式を締めくくる平和の接吻(あいさつ)には司教ならびに全信者との教会的な交わりという意味が込められており、そのことが表現されています126。
[1302]
儀式から明らかなように、堅信の秘跡の特別な効果は、かつて聖霊降臨の日に使徒たちに行われたのと同じように、聖霊の注ぎが行われることです。
[1303]
そのために、堅信は洗礼の恵みを増大させ、深めてくれます。
⸺わたしたちに「
アッバ、父よ!」(ローマ8∙15)と叫ばせる神の子としての身分を強め、深めてくれます。
⸺わたしたちをいっそう固くキリストに結びつけてくれます。
⸺わたしたちのうちに聖霊のさまざまなたまものを増やしてくれます。
⸺わたしたちと教会との結びつきをより完全にしてくれます
127。
⸺聖霊の特別な力を与え、キリストの真の証人として、ことばと行いによって信仰を広め、擁護し、キリストの名を勇敢に公言し、十字架を決して恥じないようにさせてくれます
128。
「それで、霊的な証印を押されたことを思い出しなさい。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、知識と敬愛の霊、聖なるおそれの霊を授けられたことを思い、受けたたまものを守りなさい。神である父はあなたに証印を押し、主キリストはあなたを堅固にし、保証としてあなたの心に霊を与えてくださいました」129。
[1304]
堅信は洗礼の完成ですので、洗礼と同様にただ一度だけ授けられます。堅信は人の霊魂に消えない霊的なしるし、「霊印」をしるします130。これは、イエス・キリストがキリスト者に聖霊の証印を押し、ご自分の証人とするために天からの力を授けられたというしるしです131。
[1305]
「霊印」は洗礼によって受けた信者の共通祭司職を完成させるもので、「受堅者は、キリストへの信仰をことばをもって公に宣言する権利をいわば任務として授かります」132。
[1306]
堅信をまだ受けていないすべての受洗者が堅信の秘跡を受けることができ、また、受けなければなりません133。洗礼と堅信と聖体は一つにつながるものですから、「信者は適切な時期にこの秘跡を受ける義務を有します」134。洗礼の秘跡は堅信と聖体を受けていなくても確かに有効で効果あるものではありますが、キリスト教入信は未完のままだからです。
[1307]
ラテン教会のここ数世紀来の伝統に従えば、堅信を受けるには「物事をわきまえる年齢」に達していることが必要です。しかし、死の危険がある場合は、まだその年齢に達していない幼児にも堅信を授けなければなりません135。
[1308]
堅信を「キリスト者としての成熟の秘跡」と呼ぶ人がいますが、信仰上の成熟と年齢による成熟とを混同してはなりません。また洗礼の恵みは、無償の、個人のいさおしによらない選びの恵みであって、これが有効になるための「批准」は不必要であることを忘れてはなりません。聖トマスは次のように指摘しています。
「肉体の年齢は、霊魂の成長とは関係がありません。ですから、人間は子供であっても、霊的年齢の完全さに至ることができます。知恵の書(4∙8)では『老年の誉れは長寿にあるのではなく、年数によって測られるものでもない』と語られています。だからこそ多くの子供たちが、授けられた聖霊の力のおかげで、キリストのために自分の血を流すほどに勇敢に戦うことができたのです」136。
[1309]
堅信の準備にあたっては、キリスト者がキリスト教的生活の使徒的責務をさらによく担えるように、キリストとのより緊密な一致、聖霊とその働き、そのたまもの、その呼びかけにいっそう親密に応じる態度を培えるよう導くことを目指さなければなりません。そのために、堅信のカテケージスでは、普遍教会および小教区共同体を含めたキリストの教会への所属意識を目覚めさせるための努力をする必要があります。とくに小教区共同体には受堅者の準備に関する責任がゆだねられています137。
[1310]
堅信を受けるには、成聖の恩恵の状態になければなりません。たまものとして聖霊をいただくために、ゆるしの秘跡を受けて清められることが勧められます。また、聖霊の力と恵みを素直に進んで受けるよう、熱心な祈りによって準備しなければなりません138。
[1311]
洗礼のときと同様、堅信の場合にも、受堅者は代父または代母の霊的援助を求める必要があります。二つの秘跡の一体性を強調するため、洗礼のときと同じ代父母であるのがよいでしょう139。
[1312]
堅信の本来の役務者は、司教です140。
東方教会では、通常、洗礼を授ける司祭が一つの儀式の中で堅信も授けます。ただし、総主教または主教によって聖別された聖香油を用います。これは教会の使徒的一致を表し、その一致が堅信の秘跡によって強められるわけです。ラテン教会でも、成人洗礼の場合や堅信の秘跡を有効に受けていない他のキリスト教宗派の受洗者がカトリック教会の一員として受け入れられる場合には、同じ規則が適用されます141。
[1313]
ラテン典礼では、堅信を授ける者は通常、司教です142。必要な場合には司教は司祭に堅信を授ける権限を与えることができますが143、堅信式が洗礼式と別のときに行われるようになったのは、司教がそれを授けるためであったことを忘れないようにしなくてはなりません。司教は使徒の後継者で、叙階の秘跡を十全的に受けています。堅信の秘跡を司教が行うことによって、この秘跡が受堅者を教会と、その使徒的起源と、キリストをあかしする使命とにいっそう緊密に結びつける効果を持つものであることをよく表すことができます。
[1314]
キリスト信者が死の危険にある場合は、どの司祭でも堅信を授けることができます144。教会は、自分の子らがたとえ幼児であっても、だれ一人として、キリストの満ちあふれるたまものを聖霊から受ける前に、この世を去ることを望まないのです。
[1315]
「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にもくだっていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」(使徒言行録8∙14-17)。
[1316]
堅信は、洗礼の恵みを完成させます。堅信は、神の子としての身分をより堅固なものとし、わたしたちをより緊密にキリストに合体させ、教会とのきずなをさらに固め、教会の使命にいっそう深く参与させ、行動を伴うことばによってキリストへの信仰をあかしする助けを得させるために、聖霊を与える秘跡です。
[1317]
堅信は洗礼と同じく、キリスト者の霊魂に霊的しるし、つまり消えない霊印をしるします。したがって、生涯に一度しかこの秘跡を受けることはできません。
[1318]
東方教会では、この秘跡は洗礼後直ちに授けられ、その直後に聖体が授けられます。これは、キリスト教入信の三つの秘跡の一体性を浮き彫りにします。ラテン教会では、物事をわきまえる年齢に達したときに授けられ、これを授ける者は通常、司教に限られています。このことによって、堅信の秘跡が教会的きずなを固めるものであることが示されます。
[1319]
物事をわきまえる年齢に達した受堅志願者は、信仰を持ち、成聖の恩恵の状態にあり、この秘跡を受ける意向を持ち、教会と社会の中で、キリストの弟子および証人としての役割を担う決意をしなければなりません。
[1320]
堅信式の本質となるのは、授堅者が按手して受洗者の額に(東方教会では、さらに他の感覚器官にも)聖香油を塗り、次のことばを唱える部分です。ラテン典礼では「父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい」、ビザンチン典礼では「たまものである聖霊のしるし」といいます。
[1321]
堅信が洗礼と切り離して授けられる場合、その洗礼とのつながりは、とくに洗礼の約束の更新によって表されます。堅信式が感謝の祭儀の間に行われることによって、キリスト教入信の秘跡の一体性がよりはっきりと表現されます。
[1322]
聖体(エウカリスチア)の秘跡で、キリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、聖体(エウカリスチア)によって、共同体全体とともにキリストの奉献にあずかります。
[1323]
「わたしたちの救い主は、引き渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の犠牲を制定されました。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託すためでした。すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、まして未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越のうたげです」145。
[1324]
エウカリスチア(感謝の祭儀)は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」です146。「諸秘跡も、また同様にすべての教会的役務も使徒職の仕事も、すべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられています。事実、もっとも尊い聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、わたしたちの過越であり生けるパンであるキリストご自身が含まれています」147。
[1325]
「神の生命への交わり(コムニオ)と神の民の一致とによって教会が存在するのであって、聖体祭儀はこの交わりと一致を適切に表現し、みごとに実現させます。聖体祭儀は、キリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点であり、さらに、人々がキリストにささげ、またキリストにより聖霊において御父にささげる礼拝祭儀の頂点です」148。
[1326]
また、聖体祭儀によって、わたしたちはすでに天上の典礼に一致し、「神がすべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となられるときに先だって、永遠のいのちに前もってあずかっています。
[1327]
要するに、エウカリスチアはわたしたちの信仰の要約であり、頂点なのです。「わたしたちの考え方はエウカリスチアに共鳴し、エウカリスチアはわたしたちの考え方を強固なものにします」149。
[1328]
この秘跡の無尽蔵の豊かさは、多くの呼称によって表され、その呼称のそれぞれがこの秘跡のさまざまな面を浮き彫りにします。
エウカリスチアと呼ばれるのは、神への感謝の行為であるからです。エウカリステイン(εὐχαριστεῖν 感謝の祈りを唱える)(ルカ22∙19、一コリント11∙24)とエウロゲイン(εὐλογεῖν賛美の祈りを唱える)(マタイ26∙26、マルコ14∙22)の語は、創造、あがない、聖化という神のみわざを⸺とくに食事の間に⸺宣言する、ユダヤ人の賛美の祈りを想起させます。
[1329]
主の晩さんと呼ばれるのは150、受難の前夜にキリストが弟子たちとともになさった晩さんを再現すると同時に、天上のエルサレムで行われる小羊の婚宴151に前もってあずかるものだからです。
パンを裂くことといわれるのは、ユダヤ人の会食に固有なこの儀式を、イエスが、食卓の主人としてパンを祝福して配られたとき152、とくに最後の晩さんのときに153用いられたからです。復活後の弟子たちはまさにこの動作を見てキリストを認識することになりますし154、初代教会の信者たちは自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現を用いて呼ぶようになるのです155。そうすることによって、裂かれたただ一つのパンであるキリストを食べる人々は皆、キリストとの交わりに入り、キリストと結ばれたただ一つのからだを形づくるようになったことを表現するのです156。
エウカリスチアの集い(シュナクシスσύναξις)と呼ばれるのは、エウカリスチアは教会を見える形で表す信者の集いで行われるからです157。
[1330]
キリストの受難と復活の記念祭。
聖なるいけにえと呼ばれるのは、救い主キリストの唯一のいけにえを現在化し、教会のささげものを包み込むものだからです。ミサの聖なるいけにえ、「賛美のいけにえ」(ヘブライ13∙15)158、霊的いけにえ159、清い聖なるささげもの160とも呼ばれますが、それは旧約のあらゆるいけにえを完成し、それを超えるものだからです。
神聖なる典礼と呼ばれるのは、教会のすべての典礼の中心であり、それぞれの典礼が表現しようとしている中身がこの秘跡の挙行の中でもっとも密度の高い形で表現されている、ということが分かるからです。同じ意味で、聖なる神秘の祝祭とも呼ばれます。また、いと聖なる秘跡とも呼ばれますが、それは秘跡中の秘跡だからです。聖櫃に納められた聖なるホスチアに対しては、この名称が用いられます。
[1331]
コムニオ(交わり)と呼ばれるのは、この秘跡によって、わたしたちはキリストに一致し、キリストはただ一つのからだを形づくるために、わたしたちをご自分のからだと血にあずからせてくださるからです161。また、聖なるもの、タ・ハギア(τὰ ἅγια)とも呼ばれます162。これは、使徒信条がいう「聖徒の交わり」という語のもともとの意味です。また天使のパン、天からのパン、不死の妙薬163、旅路の糧などとも呼ばれます。
[1332]
ミサ聖祭と呼ばれるのは、救いの神秘が実現される典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすことを願った、信者の派遣(ミッシオ)で終了するからです。
[1333]
エウカリスチアの祭儀を行うときにもっとも大切なのはパンとぶどう酒ですが、これらはキリストのことばと聖霊の働きを願う祈りとによってキリストのからだと血になります。キリストの命令に忠実に従う教会は、キリストが受難の前夜に「パンを取り……」「ぶどう酒の入った杯を取って……」行われたことを、記念として、その栄光の再臨のときまで行い続けます。パンとぶどう酒が聖霊の働きによりキリストのからだと血になることによって、パンとぶどう酒は、創造のわざのすばらしさを表すしるしともなり続けます。奉納の際に、パンとぶどう酒を与えてくださった創造主に感謝をささげますが164、このパンとぶどう酒は「人間の労働」の実りである以上に、創造主のたまものである「大地の実り」「ぶどうの木の実り」なのです。教会は、「パンとぶどう酒」をささげた祭司メルキゼデク王の行為(創世記14∙18)は自分たちのささげものの前表だと考えています165。
[1334]
旧約時代には、創造主への感謝を表すために、大地の初物の中からパンとぶどう酒が供え物としてささげられました。エジプト脱出の際には新たな意味も帯びてきます。すなわち、イスラエル人たちが毎年過越祭に食べる種なしパンは、急いでエジプトから脱出したことを記念するものです。また、荒れ野で食べたマナについての記憶はイスラエル人に、自分たちが神のことばの糧によって生きていることをつねに想起させます166。さらに毎日のパンは、約束の地の実り、ご自分の約束に対する神の誠実さの保証です。ユダヤ人の過越の会食の終わりに飲む「賛美の杯」(一コリント10∙16)には、ぶどう酒のめでたい喜びに、終末的な側面、すなわち、エルサレム再興を実現するメシア時代への待望の喜びが加わっています。イエスは、パンとぶどう酒の祝福に新しく決定的な意味を与えて、ご自分のエウカリスチアを制定されたのです。
[1335]
多くの人々に食べさせるためにイエスがパンを祝福して裂き、弟子たちを介して配られたときのパン増加の奇跡は、ご自分のエウカリスチアでの唯一のパンがあり余るほどのものであることを前もって表すものです167。カナで水がぶどう酒に変えられた奇跡は168、すでにイエスの栄光化の時を告げるものです。それは御父の国での婚礼の会食の実現を表していますが、そのとき、信者たちはキリストの血となった新しいぶどう酒を飲むことになるのです169。
[1336]
受難の予告が弟子たちをつまずかせたのと同様に、聖体(エウカリスチア)に関するイエスの最初の予告は弟子たちを分裂させます。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6∙60)。聖体と十字架とはつまずきの石です。同じ神秘であって、つねに分裂の要因となるものです。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6∙67)というイエスの問いかけは今も行われていますが、それは、「永遠のいのちのことば」(ヨハネ6∙68)を持っているのはご自分だけであること、そして、ご自分が与える聖体という贈り物を信仰をもっていただくことはご自身をいただくことだということを表すための愛の招きでもあるのです。
[1337]
キリストは弟子たちを愛し、極みまで愛されました。この世から御父のもとへ移るときが来たことを知り、食事の間に弟子たちの足を洗い、愛のおきてを授けられました170。そして、この愛の保証を残し、決して弟子たちから離れずご自分の過越に彼らをあずからせるために、ご自分の死と復活の記念としてエウカリスチアを定め、使徒を「新しい契約の祭司とし」171、これを再臨の日まで行うよう命じられました。
[1338]
共観福音書と聖パウロは、エウカリスチアの制定について述べています。他方、聖ヨハネは、カファルナウムの会堂でのイエスのことばを伝えています。それは、ご自分が天からくだったいのちのパンであるという、エウカリスチアの制定を予告することばです172。
[1339]
イエスはカファルナウムで予告されたとおり、ご自分のからだと血を弟子たちに与えるために過越祭のときを選ばれました。
「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』といわれた。……二人は行って……、過越の食事を準備した。時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスはいわれた。『苦しみを受ける前に、あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた。いっておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事を取ることはない。』……それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えていわれた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにしていわれた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22∙7-20)173。
[1340]
イエスは、過越の食事の間に使徒たちと最後の晩さんを行いながら、ユダヤ人の過越祭に決定的な意味を与えられました。死と復活を通してのイエスの御父への移行、すなわち新しい過越は、最後の晩さんで先取りされ、感謝の祭儀で祝われます。この祭儀はユダヤ人の過越祭を完成し、み国の栄光における教会の決定的な過越を先取りするものです。
[1341]
ご自分が「来られるときまで」(一コリント11∙26)ご自分の動作とことばを繰り返すようにとのイエスの命令は、イエスとイエスがなされたこととを思い出すようにと求めているだけではありません。その目指すところは、使徒やその後継者たちがキリストとその生涯、死、復活、御父のもとでの執り成しを記念する典礼を挙行することなのです。
[1342]
教会は当初から、キリストの命令に忠実に従いました。エルサレムの教会に関する次のような記述があります。
「彼らは、使徒の教え、相互の〔愛の〕交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。……毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた」(使徒言行録2∙42,46)。
[1343]
キリスト者が「パンを裂くために」集まったのは、とくに「週の初めの日」、すなわち日曜日、イエスの復活の日でした(使徒言行録20∙7)。そのころから今日に至るまで、エウカリスチア(感謝の祭儀)は継続されてきていますので、今日でも、基本的にはどの教会でも同じ構造となっています。この祭儀は、教会生活の中心を成しています。
[1344]
こうして、旅する神の民はエウカリスチアが行われるごとに、「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)イエスの過越の神秘を告げ知らせながら、すべての選ばれた者が神の国の食卓に加わって行われる天の饗宴に向かって、「狭い十字架の道を」174進んで行きます。
[1345]
2世紀の聖体祭儀の式次第の大要については、殉教者聖ユスチノの証言が残されています。その大要は、今日まで教会のすべての典礼様式の伝統に受け継がれてきています。以下の文書は、キリスト者が行っていることに関して聖ユスチノが異教徒の皇帝アントニヌス・ピウス(138-161)に説明するために155 年ごろにしたためたものからの引用です。
「太陽の日と呼ばれている日に、町や村に住むすべての人は、一つ所で集会を催して、時間がゆるすかぎり、使徒たちの記録や預言者たちの種々の書物を読みます。
朗読者が読み終わると、指導者がこのような美しいことがらを見習うようにと、ことばをかけて励まします。
それから一同は等しく起立し、祈りをささげます」175。
「わたしたち自身のため、……また至るところのあらゆる人々のために、わたしたちの正しい生活と行為、また、おきてを忠実に守っていることが認められ、永遠のいのちを得るようにと祈るのです。
祈りが終わると、わたしたちは互いに接吻を交わします。
その後指導者のもとに、パンと、ぶどう酒と水が入った杯が運ばれてきます。
指導者はこれらを取り、御子と聖霊の名によって天にいます宇宙万物の創造主に賛美と栄光を帰して、わたしたちがこのようなたまものに値するものとみなされたことについての心からの感謝を(エウカリスティアンεὐχαριστίαν)ささげます。
指導者が祈りと感謝を唱えた後、会衆一同は喜びを込めてアーメンと叫びます。
……司式者が感謝をささげ、会衆が応唱した後、わたしたちの間で助祭と呼ばれる者たちが列席者一人ひとりに『感謝がささげられた』(エウカリステセントスεὐχαριστηθέντος)パンとぶどう酒と水を配り、不在者には持って行きます」176。
[1346]
エウカリスチアの典礼(感謝の祭儀)は、昔から今日まで維持されてきた基本的な構造に従って行われます。それは二つの部分に分けて展開されますが、根本的には一つの流れです。
⸺信者が集まって行われることばの典礼、すなわち、朗読、説教、共同祈願。
⸺感謝の典礼、すなわち、パンとぶどう酒の奉納、聖別のための感謝の祈り、聖体拝領。
ことばの典礼と感謝の典礼とは一つになって、「一つの礼拝行為」177を形づくります。感謝の祭儀でわたしたちのために準備された食卓は、神のことばの食卓であると同時にキリストのからだの食卓でもあります178。
[1347]
そこには、復活されたイエスが二人の弟子たちと取られた過越の食事の展開そのものが見られはしないでしょうか。道を歩きながらイエスは彼らに聖書を説明し、それから、ともに食事の席に着いて、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです179。
[1348]
全員の集合。キリスト者は感謝の祭儀のために、一堂に会します。集会の長は祭儀の主宰者キリストご自身です。キリストは新しい契約の祭司で、目には見えなくても祭儀全体を自ら主宰されます。司教または司祭は、キリストに代わって(頭であるキリストの代理者として)集会を司式し、朗読の後に説教し、供え物を受け、奉献文を唱えます。全員がそれぞれに祭儀の中で、朗読者、供え物を運ぶ者、聖体を配る者、またアーメンによって参加を表明する全会衆として積極的に役割を果たします。
[1349]
ことばの典礼では、「預言者の書」すなわち旧約聖書と、「使徒たちの回想録」つまり使徒たちの手紙と、福音書が朗読されます。説教は、このことばを実際の神のことばとして受け入れ180、これを実行するように励ますものです。続いて、すべての人のために執り成しの祈りが行われます。これは、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(一テモテ2∙1-2)という使徒パウロのことばに基づくものです。
[1350]
供え物の奉納。パンとぶどう酒が祭壇に運ばれます。これは、時としては行列をして行われます。このパンとぶどう酒はエウカリスチアのいけにえにおいてキリストのみ名で司祭によってささげられ、キリストのからだと血になるものです。最後の晩さんで「パンと杯を取られた」キリストと同じ行為をするのです。「教会だけが、神の被造物の中からこの清いささげものを感謝をもって創造主にささげています」181。祭壇への供え物の奉納はメルキゼデクの行為に倣うもので、創造主のたまものをキリストのみ手にゆだねるのです。キリストは、犠牲をささげようとする人間のすべての試みをご自分の犠牲の中で完成させてくださるのです。
[1351]
当初から、キリスト者はエウカリスチアのためのパンとぶどう酒のほかに、困っている人々への施し物を持参していました。この
施し物を集める(募金の)習慣は
182、わたしたちを豊かにするために貧しくなられたキリストの模範に基づいた
183、つねに意義あるものです。
「豊かな者は、各自、自発的に望みに応じて施しをします。寄進は指導者のもとに集められ、指導者自身が孤児たちや寡婦、病気などの理由で必要に迫られている人々、また牢獄に入れられている人々、寄留者たち、つまり、必要に迫られているすべての人を援助します」184。
[1352]
奉献文(アナフォラ)。エウカリスチアの祈り、すなわち感謝と聖別の祈りで、祭儀はその中心および頂点に達します。
叙唱で教会は、そのすべてのわざ、創造、あがない、聖化のゆえに、キリストによって聖霊のうちに、御父に感謝をささげます。そのとき、全会衆は、天使と聖人とからなる天上の教会が至聖なる神にささげる絶え間ない賛美に声を合わせます。
[1353]
聖霊の働きを求める祈り(エピクレシス)で教会は、パンとぶどう酒の上に聖霊(あるいは御父の祝福の力185)を遣わしてくださるように御父に祈ります。それは聖霊の力によってパンとぶどう酒がイエス・キリストのからだと血になり、エウカリスチアにあずかる人々がただ一つのからだ、ただ一つの心となるためです(ある典礼伝承では、エピクレシスはアナムネシスの後に来ます)。
制定の叙述では、キリストのことばと行為の力ならびに聖霊の力が、十字架上でただ一度いけにえとしてささげられたイエス・キリストのからだと血を、パンとぶどう酒の形態のもとに秘跡的に現存させます。
[1354]
それに続く記念(アナムネシス)で教会は、イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念を行い、わたしたちを御父と和解させてくださる御子のささげ物を御父にささげます。
取り次ぎの祈りで教会は、この祭儀が天と地の全教会、生ける人、死せる人、また教会の牧者である教皇、教区司教、その司祭と助祭、ならびに全世界のすべての司教とその司教のもとにある教会との交わりのうちに行われていることを表明します。
[1355]
主の祈りとパンを裂いた後に行われる
聖体拝領(コムニオ)で、信者は「天からのパン」と「救いの杯」、すなわち、「世を生かすため」(ヨハネ6∙51)にご自分を渡されたキリストのからだと血をいただきます。
このパンとこのぶどう酒は昔からの表現では「エウカリスチアされたもの(感謝の祈りが唱えられたもの)」と呼ばれています186。そして次のように説明されています。「この食物を、わたしたちはエウカリスチアと呼んでいます。これにあずかるには、まずわたしたちの教えを真実なものと信じ、罪のゆるしと新たに生まれるための洗礼を受けており、かつキリストが教えたように生活している者であることが肝要で、それ以外の人にはだれにもゆるされていません」187。
[1356]
キリスト者が、異なる時代を経て多様な典礼を持つにもかかわらず、当初から実質的には変わらない一つの形式でエウカリスチアを行ってきたのは、受難の前夜に「わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリント11∙24-25)といわれたキリストの命令に従うためでした。
[1357]
わたしたちはキリストの命令を、そのいけにえの記念を行うことによって果たします。そうすることにより、御父がわたしたちに与えてくださったもの、すなわち、自然の産物であるパンとぶどう酒が聖霊の力とキリストのことばとによってキリストのからだと血になったものを、御父にささげます。こうしてキリストは、実際に、また、神秘的に現存するようになられます。
[1358]
したがってわたしたちは、エウカリスチアを以下のように理解しなければなりません。
⸺御父への感謝と賛美
⸺キリストおよびそのからだである教会の、いけにえによる記念
⸺キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
[1359]
エウカリスチアは、十字架上でキリストによって成就された救いの秘跡ですが、また、創造のわざに感謝してささげる賛美のいけにえでもあります。このエウカリスチアのいけにえにおいて、神に愛されている全被造物がキリストの死と復活を通して御父にささげられます。教会は、神が被造界と人類とのうちになされたすべてのよいこと、美しいこと、正しいことに感謝するために、キリストを通して賛美のいけにえをささげることができます。
[1360]
エウカリスチアは御父への感謝のいけにえであり、神のすべての恵みに対する教会の感謝、すなわち創造、あがない、聖化によって成し遂げられたすべてのことについての感謝を表す神への賛美です。エウカリスチアという語はまず、「感謝」を意味します。
[1361]
エウカリスチアはまた、教会がすべての被造物に代わって神の栄光を歌う賛美のいけにえです。この賛美のいけにえは、キリストを通してしかささげることができません。すなわち、キリストが信者たちをご自分と、ご自分の賛美ならびに執り成しに一致させてくださるのです。こうして御父への賛美のいけにえは、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに受け入れられます。
[1362]
エウカリスチアはキリストの過越の記念、そのからだである教会の典礼の中で行われるキリストの唯一のいけにえの再現、秘跡的な奉献です。すべての奉献文には、制定のことばの後、アナムネシスないし記念と呼ばれる祈りがあります。
[1364]
新約聖書では、記念には新たな意味づけがなされています。教会がエウカリスチアを行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度ささげられた犠牲は、つねに成し遂げられた状態にあるのです189。「『わたしたちの過越であるキリストがいけにえとなられた』(一コリント5∙7)十字架の犠牲が祭壇の上で祭儀執行されるたびごとに、わたしたちのあがないのみわざが行われます」190。
[1365]
エウカリスチアは、キリストの過越の記念ですので、いけにえでもあります。エウカリスチアのいけにえとしての性格は、その制定のことばに明らかです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22∙19-20)。エウカリスチアにおいて、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたそのからだと「罪がゆるされるように、多くの人のために」(マタイ26∙28)流された血とをお与えになります。
[1366]
したがって、エウカリスチアは、十字架上のいけにえを
現在化し、記念し、その実りを
分け与えるので、いけにえなのです。
「わたしたちの神であり、主〔であるキリスト〕は、十字架の祭壇の上で死なれ、一度で永久に父である神にご自分をささげて、救いのわざを完成されました。しかしキリストの祭司職は死によって消え去るものではなかったので(ヘブライ7∙24,27)、『引き渡される夜』(一コリント11∙23)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見えるいけにえを残されたのです(人間のためにはこれが必要でした)。このいけにえによって、十字架上で一度血を流してささげたものが表され、その記憶が世の終わりまで続き、その救いの力によってわたしたちが毎日犯す罪がゆるされるのです」191。
[1367]
キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。「ささげものは同一です。かつてご自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげられているからです。ただ一つ違うのは、ささげ方だけです」192。「そこで、ミサ聖祭で行われるこの神聖ないけにえには、十字架上の祭壇で『一回限り血を流して自らをささげられた』のと同じキリストが現存し、血を流さずにささげられます。……このいけにえは真のなだめのいけにえです」193。
[1368]
エウカリスチアは、教会のいけにえでもあります。キリストのからだである教会は、その頭の奉献をともにします。キリストとともに、教会全体がささげられます。教会は、御父のもとであらゆる人のために行われるキリストの執り成しにあずかります。エウカリスチアでは、キリストのいけにえはまた、そのからだに属する人々がささげるいけにえとなります。信者たちの生活、賛美、苦しみ、祈り、労働などはキリストのそれとキリストのまったき奉献とに合わせられ、新たな価値を得るのです。祭壇上に現存するキリストのいけにえによって、すべての時代のキリスト者がキリストの奉献に一致することが可能となります。
ローマのカタコンベでは、教会はしばしば礼拝の姿勢で腕を大きく広げて祈る婦人の姿で描かれています。十字架上で腕を広げたキリストのように、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、教会はすべての人のために自らをささげ、執り成します。
[1369]
教会全体が、キリストの奉献と執り成しに結ばれます。教会の中でペトロの務めを果たす
教皇はすべてのエウカリスチアの祭儀に結ばれており、普遍教会の一致のしるし、奉仕者として、その名が唱えられます。
地域の司教は、
司祭が司式するときでも、つねにエウカリスチアの責任者です。エウカリスチアでその名が唱えられるのは、司祭団に囲まれ、
助祭の補佐を受けている司教が部分教会の頭であることを意味するためです。信者の集まりは、自分たちのために自分たちとともにエウカリスチアのいけにえをささげるすべての役務者のためにも執り成しを行います。
「司教もしくは司教が委任した者の司式で行われるエウカリスチアだけが、有効であるとみなされます」194。
「司祭の役務を通して、信者の霊的いけにえは、唯一の仲介者であるキリストのいけにえとの一致のうちに完成するものであり、このキリストのいけにえは、主自らが来られるときまで、司祭たちの手によって、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘跡的にささげられます」195。
[1370]
キリストの奉献には、今この世に生きる人たちだけではなく、すでに天の栄光に入った人たちもともに参加します。教会は、いと聖なるおとめマリアに結ばれ、マリアやすべての聖人たちを記念しながらエウカリスチアのいけにえをささげます。エウカリスチアを行うとき、教会はいわばマリアとともに十字架のもとにたたずみ、キリストの奉献と執り成しとに結ばれるのです。
[1371]
エウカリスチアのいけにえはまた、「キリストに結ばれて死に、まだ完全に清められていない」
196亡くなった信者が、キリストの光と平安とにあずかることができるようになるためにもささげられます。
「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心を煩わさないでおくれ。ただ一つ、お願いがあります。どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ」197。
「次に、わたしたちは〔奉献文の中で〕、亡くなった聖なる教父や司教たちのため、またわたしたちに先だって亡くなった人々全体のために祈ります。聖にしてこれほどに尊いいけにえがささげられている間になされる執り成しの祈りが、彼らのために大いに役立つだろうと信じているからです。……たとえ亡くなった人々が罪びとであったにせよ、彼らのために神に祈りをささげ、……人々の友である神に亡くなった人々やわたしたちに対するあわれみを願って、わたしたちの罪のためにいけにえとなられたキリストをおささげするのです」198。
[1372]
聖アウグスチヌスは、わたしたちが行うエウカリスチアでのあがない主のいけにえにつねにますます完全にあずかるようにと促すこの教えを、次のように要約しました。
「あがなわれた国全体、すなわち聖者たちの集いと共同体が、大祭司〔キリスト〕によって普遍的なささげものとして神に奉献されます。この大祭司は、しもべの姿をとった者として、わたしたちがこれほど偉大な頭の肢体となるように、わたしたちのために苦しみを受けて、自らをささげものとして奉献してくださいました。……『数は多いが、キリストに結ばれて一つのからだを形づくっている』ことこそ、キリスト者の奉献です。これこそ、信者たちが熟知している祭壇の秘跡として、教会がたえず行っている奉献です。この秘跡において教会が神にささげるもののうちに、教会そのものがささげられるということが教会に示されるのです」199。
[1373]
「死んだかた、否、むしろ、復活させられたかたであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8∙34)。このキリストが、さまざまなしかたで教会に現存されます200。ご自分のことばのうちに、ご自分の教会の祈りの中に、「二人または三人が〔ご自分の〕名によって集まるところには、その中に」(マタイ18∙20)、また、貧しい人、病人、囚人のうちに201、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサのいけにえならびに司式者のうちに現存されます。しかし、「とくに、聖体の両形態のもとに現存しておられる」202のです。
[1374]
聖体の両形態のもとでのキリスト現存のあり方は比類のないものです。そのためにエウカリスチアは、他の秘跡よりも上位のものとされ、「いわば、霊的生活の完成、すべての秘跡が向かう目的」203となります。至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます204。「この現存を『現実の』現存といいますが、それはそれ以外の現存が『現実』ではないのでそれらを除外するという意味ではなく、神であり人である全キリストが現存するようになるという実体的存の崇高さのゆえなのです」205。
[1375]
パンとぶとう酒がキリストのからだと血に
変わることによって、キリストはこの秘跡に現存するものとなられます。教父たちは、この変化を行うキリストのことばと聖霊の働きとの効力に対する教会の信仰を確固として主張してきました。たとえば、聖ヨハネ・クリゾストモは次のように述べています。
「供えられた物をキリストのからだと血にするのは人間ではなく、わたしたちのために十字架につけられたキリストご自身です。キリストの姿を表している司祭がことばを述べますが、その効力と恵みは神からのものです。これはわたしのからだであるとはキリストがいわれるのであって、このことばが供え物を変えるのです」206。
また聖アンブロジオは、この変化についてこう述べています。
「これは自然によって形づくられたのものではなく、祝福によって聖別されたものであり、祝福によって自然そのものが変えられるから、祝福の力が自然の力に勝つ」207のだとわたしたちは確信すべきです。「存在しなかったものを無から造り出すことができたキリストのことばは、存在しているものを別のものに変えることができないのでしょうか。ものの本性を変化させるよりは、ものに存在を与えるほうがやさしいわけではないのです」208。
[1376]
トリエント公会議は、カトリック信仰を要約してこう宣言しています。「わたしたちの救い主キリストは、パンの形態のもとにささげられたものがご自分の真のからだであると仰せられたので、神の教会が変わることなくつねに信じてきたことを、この聖なる公会議も繰り返して宣言します。すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体がわたしたちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」209。
[1377]
聖体におけるキリストの現存は聖別のときに始まり、その形態が存在する限り続きます。キリスト全体がそれぞれの形態のうちに、またその部分のうちに全体として現存されます。したがって、パンを裂いてもキリストが分割されることはありません210。
[1378]
聖体礼拝。ミサの典礼で、わたしたちはキリストをあがめるしるしとしてひざまずいたり頭を深く下げたりすることなどによって、パンとぶどう酒の形態のもとに現存されるキリストへの信仰を表します。「カトリック教会はこれまで、聖体の秘跡に対する礼拝をミサの間だけではなくミサ外でも行ってきましたし、現在も行っています。聖別されたホスチアを注意深く保存し、おごそかに信者の崇敬の対象とし、民衆が喜ぶ中でそれを行列しながら運ぶのです」211。
[1379]
聖体を保存するための聖櫃はまず、ミサに出席できなかった病人などにミサ後に聖体を持参できるように、そのときまでうやうやしく安置するためのものでした。しかし、聖体におけるキリストの現存に対する信仰が深められるにつれて、教会はパンの形態のもとに現存するキリストを沈黙のうちに礼拝する意義をますます理解するようになりました。したがって、聖櫃は教会堂の特別にふさわしい場所に置かれなければなりませんし、同時に、聖体にキリストが真実に現存されることが明白に表されるような形で作られる必要があります。
[1380]
キリストがこの比類のないしかたで教会につねに現存することを望まれたのは、まったく当然のことです。キリストは、目に見える姿では弟子たちから去られましたが、わたしたちのもとに秘跡的に現存することをお望みになりました。また、わたしたちの救いのために十字架上でご自分をささげるにあたり、ご自分のいのちを捨てるまでにわたしたちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13∙1)、その愛を思い起こさせる形見をわたしたちに残そうと望まれました。キリストは、わたしたちを愛し、わたしたちのために身をささげられたかたとして
212、エウカリスチアによる現存という形をとって、その愛を表し共有するしるしのもとで、わたしたちの間に神秘的にとどまっておられるのです。
「教会と世界は聖体の礼拝を大いに必要としています。わたしたちは、信仰にあふれた礼拝と観想において、世界の大きな過ちと罪を償う心構えで、イエスに出会うためには時間を惜しんではなりません。わたしたちのこの礼拝が、決して途絶えることがありませんように」213。
[1381]
「キリストの真のからだと真の血の現存は、『感覚によってではなく、ただ神の権威に支えられた
信仰によってのみ把握される』と聖トマスは述べています。聖チリロは
これはあなたがたのために与えられるわたしのからだであるというルカ22章19節のことばを解説して、こういいます。『真であるか否かを問わずに、むしろ、主のことばを信仰をもって受け入れなさい。真理であるかたは偽りを話されません』と」
214。
「これらの形の下に隠れてはいても、
現存する神であるあなたを、わたしはひれ伏して礼拝します。
わたしの心をまったくあなたに従わせます。
あなたを見つめていると、なすべきことが分からないからです。
視覚も触覚も味覚も、あなたを把握できません。
聴覚だけによって信ずべきことが分かるのです。
わたしは、神の御子が語られたすべてのことを信じます。
真理であるかたのことばより真実なものは何もないのです」215。
[1382]
ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです。
[1383]
教会は
祭壇を囲んでエウカリスチアを行いますが、その祭壇は、いけにえの祭壇であると同時に主の食卓であるという唯一の神秘の二つの面を表しています。というのは、キリスト教の祭壇は、わたしたちの和解のためにささげられたいけにえとして、またわたしたちに与えられる天の糧として、信者のただ中に現存されるキリストご自身の象徴だからです。聖アンブロジオは、「キリストの祭壇はキリストのからだを表すものでなくて、何でしょう」
216といい、また他のところでは、「祭壇は〔キリストの〕からだを表し、キリストのからだは祭壇の上にある」
217といっています。典礼の多くの祈りは、いけにえと聖体拝領との一体性を表現しています。たとえば、ローマ教会は奉献文の中で次のように祈ります。
「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものをみ使いに運ばせ、今、祭壇で御子の神聖なからだと血にともに結ばれるわたしたちが、天の祝福と恵みに満たされますように」218。
[1384]
キリストは、エウカリスチアの秘跡でわたしたちがご自分をいただくよう強く促しておられます。「はっきりいっておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちにいのちはない」(ヨハネ6∙53)。
[1385]
キリストの招きにこたえるために、この重要で聖なる時に備えなければなりません。聖パウロは良心の糾明を勧めます。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主のからだのことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(一コリント11∙27-29)。大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。
[1386]
この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にありません
219。「
主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」
220。また、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼では、信者たちは同じ精神でこう祈ります。
「ああ、神の御子よ、あなたの神秘的な晩さんで、今日、聖体をいただかせてください。わたしはこの秘密をあなたの敵対者に話さず、あなたにユダの接吻もいたしません。むしろあの盗賊のように、主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください、と叫びます」221。
[1387]
信者は聖体をふさわしく拝領する準備として、自分が属する教会の定めに従い、飲食物を控えなければなりません222。尊敬を表す態度や身なりをして、わたしたちの賓客になられるキリストをお迎えする厳粛さと喜びとを表現しなければなりません。
[1388]
信者に必要な準備ができている場合223、ミサにあずかるときに聖体を拝領することは224、エウカリスチアの意義にかなっています。「司祭の聖体拝領後に、信者が、その同じ犠牲から主の御からだを拝領することは、ミサ聖祭へのより完全な参加であって、せつに勧められることです」225。
[1389]
教会は信者に、主日と祝祭日に聖典礼にあずかり226、少なくとも年に一度、できれば復活祭の時期に227、ゆるしの秘跡を受けた後、聖体を拝領することを義務づけています。しかし教会は、主日と祝祭日、あるいはもっと頻繁に、いや、毎日でも聖体を拝領するよう信者に強く勧めています。
[1390]
キリストが各形態のもとに秘跡的に現存しておられるので、パンの形態だけの拝領でも両形態での拝領と同じ恵みが与えられます。ローマ典礼では種々の司牧的理由から、このパンの形態だけでの聖体拝領のあり方が合法的に普通のこととなりました。しかし、「しるしの観点からすれば、両形態のもとになされる拝領は、より充実した形式を備えています。この形式においては、感謝の会食のしるしがより完全に現れます」228。この両形態での拝領が、東方教会典礼では通常の方法となっています。
[1391]
聖体拝領は、キリストとわたしたちの一致を強めます。聖体拝領のすばらしい実りは、イエス・キリストとの親密な一致です。キリストは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙56)といわれます。キリストのうちにあって生かされるいのちの源泉は、エウカリスチアの会食です。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6∙57)。
「主の祝日に御子のからだを拝領するとき、信者はいのちの保証が与えられたという、よい知らせを互いに伝え合っています。それは、天使が〔マグダラの〕マリアに『キリストは復活なさったのだ』と伝えたときと同じです。今も、いのちと復活とがキリストをいただく者に与えられるのです」229。
[1392]
通常の食べ物がわたしたちの肉体的いのちにもたらすものを、聖体拝領は感嘆すべきしかたでわたしたちの霊的いのちにもたらします。復活して「聖霊によって生き、また生かす」230キリストのからだを拝領することにより、洗礼の際に受けた恵みのいのちが維持され、成長し、新たにされます。このキリスト教的いのちの成長は聖体拝領によって養い続けられる必要があります。聖体は、死の時までのわたしたちの旅路の糧であり、死の時には臨終の糧として授けられます。
[1393]
聖体拝領は、わたしたちを罪から離れさせます。聖体拝領でいただくキリストのからだは「わたしたちのために渡される」からだであり、飲む血は「多くの人の罪のゆるしのために流される」血です。したがって聖体は、わたしたちをキリストに一致させるときに必ず、犯した罪から清め、これから先罪を犯さないように守ってくれます。
「いただくたびに、主の死を告げ知らせるのです231。もし主の死を告げ知らせるのならば、わたしたちは罪のゆるしを告げ知らせているのです。もし、御血がいつも罪のゆるしのために流されるのであるとすれば、わたしは罪をゆるしていただくためにいつも御血をいただかなければなりません。わたしはいつも罪を犯しているので、いつも薬をいただかなければならないのです」232。
[1394]
からだの糧が体力の消耗を回復させるのと同じく、聖体は、日常の生活で弱まりがちな愛を強化します。そして活力を取り戻したこの愛は、
小罪を消します233。キリストはご自分をわたしたちに与えて、わたしたちの愛を再び燃え立たせ、被造物に対する乱れた愛着を断ち切り、わたしたちをご自分に深くつなぎ止めてくださいます。
「キリストは、わたしたちへの愛のゆえに死なれたのですから、わたしたちがいけにえをささげてその死を記念するとき、聖霊の到来によって、愛が与えられるよう願うのです。そして、キリストがわたしたちのために、進んで十字架につけられることを選ばれたその愛によって、わたしたちもまた聖霊の恩恵を受けて、世をはりつけにされたものとみなすことができるように、また、世に対してはわたしたちがはりつけにされたものとなることができるように、へりくだって祈るのです。……たまものとして愛を受けて罪に対して死に、神に対して生きるためです」234。
[1395]
エウカリスチアは、わたしたちのうちに愛を燃え立たせることによって、わたしたちが今後大罪を犯さないように守ってくれます。わたしたちは、キリストのいのちにあずかり、キリストとの友愛を深めれば深めるほど、キリストとの交わりを断ち切る大罪から守られます。エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。
[1396]
神秘体の一致⸺エウカリスチアは、教会をつくります。聖体を拝領する人々は、キリストにより親密に結ばれます。それゆえに、キリストはすべての信者を教会というただ一つのからだに結びつけます。聖体拝領は、すでに洗礼によって実現された教会との合体を新たにし、強めます。洗礼によって、わたしたちはただ一つのからだを形づくるように召されました
235。エウカリスチアはこの招きを実現します。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10∙16-17)。
「もし、皆さんがキリストのからだ、またその肢体であるならば、主の食卓の上に置かれてあるのは皆さんを表す秘跡で、皆さんは皆さんを表す秘跡を受けます。皆さんはいただくものに対してアーメン(まことにそのとおりです)と答え、そう答えながらそれに同意しているわけです。あなたはキリストのからだということばを聞き、アーメンと答えます。ですから、あなたのアーメンが真実であるように、キリストの肢体でありなさい」236。
[1397]
エウカリスチアは、貧しい人々との連帯を強めさせてくれます。わたしたちのために渡されたキリストのからだと血をふさわしくいただくには、その兄弟であるもっとも貧しい人々のうちにキリストを認めなければなりません
237。
「あなたは主の御血を味わったのに、自分の兄弟を認めてさえいません。この食卓に加わるのにふさわしいと認められた者を、あなたの糧を分かち合うのにふさわしくない者とあなたは考えているので、この食卓を汚しているのです。神はあなたをすべての罪から解放し、この食卓に招かれました。それなのに、それでもあなたはあわれみ深い者とはなっていません」238。
[1398]
エウカリスチアおよびキリスト者の一致。この神秘の偉大さを前にして、聖アウグスチヌスは「ああ、何とすばらしい敬神の秘跡、何と崇高な一致のしるし、何と尊い愛のきずな!」239と叫んでいます。そのことを考えると、主の食卓をともにすることを妨げる教会の分裂は大きな悲しみをもたらします。だから、主を信じるすべての人の完全な一致の日が再び訪れるようキリストに祈ることが、緊急に求められているのです。
[1399]
カトリック教会と完全には一致していない東方の諸教会では、エウカリスチアが非常な愛をもって挙行されています。「これらの教会はたとえ分かれてはいても、真の秘跡、とくに使徒継承の力により祭司職とエウカリスチアを持っていて、それらによって今なお緊密にわたしたちと結ばれています」240。だから「典礼へのある程度の共同参加(コムニカチオ・イン・サクリス)は、ある適当な条件のもとに教会権威の承認を得た上で、可能であるばかりでなく勧められることでもあります」241。
[1400]
宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」242。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。とはいえ、これらの教団は「聖さん式において、主の死と復活の記念を行い、キリストと交わる生命が示されることを公言し、また、キリストの栄光の到来を期待している」243のです。
[1401]
さし迫った重大な必要がある場合、カトリックの教役者は教区司教の判断に従い、カトリック教会との完全な交わりにはなくとも、心底からこれを求めるキリスト者に(聖体、ゆるし、病者の塗油の)秘跡を授けることができます。その場合は、これらの秘跡に関するカトリックの信仰を表明し、必要な心構えができていなければなりません244。
[1402]
ある古い祈りの中で、教会はエウカリスチアの神秘を次のように唱えてたたえています。「ああ、聖なるうたげ、そこでキリストはわたしたちの糧となり、受難が改めて記念され、恵みがわたしたちを満たし、来るべき栄光の保証が与えられる」245。エウカリスチアはキリストの過越の記念であり、わたしたちは聖体拝領によって「天の祝福と恵みに」246満たされます。それゆえ、エウカリスチアは天の栄光の先取りなのです。
[1403]
最後の晩さんのときに、主ご自身が弟子たちの注意を神の国における過越の完成に向けさせてくださいました。「いっておくが、わたしの父の国であなたがたとともに新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26∙29)247。教会はエウカリスチアを行うたびに、父の国でキリストとともに新たにぶどう酒を飲むというキリストの約束を思い起こし、目を「やがて来られるかた」(黙示録1∙4)に向けます。そして、そのかたの到来を願って、「マラナ・タ(主よ、来てください)」(一コリント16∙22)、「主イエスよ、来てください」(黙示録22∙20)、「あなたの恵みが訪れて、この世が過ぎ去りますように」248と祈ります。
[1404]
教会は、主がすでに今行われているご自分のエウカリスチアにおいでになって、わたしたちのただ中におられることを知っています。しかし、この現存を目で確かめることはできません。ですから、わたしたちはエウカリスチアを挙行するとき、「救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んで」249、「わたしたちもいつかその国で、いつまでもともにあなたの栄光にあずかり、喜びに満たされますように。そのときあなたは、わたしたちの目から涙をすべてぬぐいさり、わたしたちは神であるあなたをありのままに見て、永遠にあなたに似るものとなり、終わりなくあなたをたたえることができるのです」と祈ります250。
[1405]
エウカリスチアは、この大きな希望、すなわち、義の宿る新しい天と新しい地の希望251のもっとも確実な保証、明白なしるしなのです。この祭儀の度ごとに、「わたしたちのあがないのみわざが行われ」252、わたしたちは「不死の妙薬、死なずにイエス・キリストに結ばれて永遠に生きるための解毒剤である一つのパンを〔裂くのです〕」253。
[1406]
イエスはいわれます。「わたしは、天からくだって来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。……わたしの肉を食べ、その血を飲む者は永遠のいのちを得、……いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙51,54,56)。
[1407]
エウカリスチアは教会生活の中心でも、頂点でもあります。なぜなら、エウカリスチアにおいて、キリストはご自分の教会とそのすべての成員を、ただ一度十字架上で御父にささげられた賛美と感謝のいけにえに結びつけられるからです。このいけにえによって、キリストは教会であるご自分のからだに救いの恵みを注がれます。
[1408]
エウカリスチアにはつねに、神のことばの宣言、すべての恩恵、とくに御子をたまものとしてお与えくださった恵みのゆえに父である神にささげる感謝、パンとぶどう酒の聖別、および、主のからだと血をいただく会食への参加、という要素が含まれています。以上の要素が、唯一の同じ祭儀を成り立たせているのです。
[1409]
エウカリスチアはキリストの過越の記念です。すなわち、キリストの生涯、および死と復活によって成し遂げられた救いのわざの記念であり、それが典礼行為によって現在化されるのです。
[1410]
新約の永遠の大祭司キリストご自身が、司祭たちの務めを通して、エウカリスチアのいけにえをささげられます。また、このいけにえの供え物も、パンとぶどう酒の形態のもとに現存される同じキリストです。
[1411]
有効に叙階された司祭のみがエウカリスチアを司式し、キリストのからだと血になるようにパンとぶどう酒を聖別することができます。
[1412]
この秘跡の基本的なしるしは麦で作られたパンとぶどう酒であり、その上に聖霊の祝福が呼び求められ、司祭は最後の晩さんの間にイエスがいわれた「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。……これはわたしの血の杯である」という聖別のことばを唱えます。
[1413]
聖別によって、パンとぶどう酒の実体はキリストのからだと血の実体に変わります。聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとに、生きておられる栄光のキリストご自身が真に、現実に、実体的に、からだと血、霊魂と神性ともども現存されます254。
[1414]
エウカリスチアは、生者と死者の罪を償い、霊的または物的恵みを神からいただくためにもいけにえとしてささげられます。
[1415]
聖体拝領によってキリストをいただきたい者は、成聖の恩恵の状態になければなりません。大罪を犯したことを自覚している者は、聖体を拝領する前に、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを受けなければなりません。
[1416]
キリストのからだと血を拝領することによって、本人とキリストとの一致が強められ、小罪がゆるされ、大罪から守られます。また拝領者とキリストとの愛のきずなが固められるので、聖体拝領はキリストのからだである教会そのものの一致をも強化します。
[1417]
教会は信者に、エウカリスチアの祭儀にあずかるときには聖体を拝領するよう強く勧めています。少なくとも年に一度の聖体拝領が信者の義務となっていをす。少なくとも年一度の聖体拝領が信者の義務となっています。
[1418]
キリストご自身が聖体の秘跡に現存しておられるので、わたしたちは聖体を礼拝しなければなりません。「聖体訪問はわたしたちの主キリストに対する感謝の表明、愛のしるし、礼拝の務めです」255。
[1419]
キリストはこの世から御父のもとに移られたので、わたしたちがキリストのもとで栄光を受ける保証として、エウカリスチアをわたしたちに与えてくださいます。わたしたちは聖なるいけにえにあずかることによって、キリストの心と一つになり、この世の旅路で力づけられ、永遠のいのちを希求し、この世にありながらすでに天上の教会、聖なるおとめマリア、すべての聖人たちと結ばれます。
[1420]
キリスト教入信の秘跡によって、人は新しいキリストのいのちを受けます。ところで、わたしたちはこのいのちを、「土の器に」(二コリント4∙7)納めています。今はまだ、このいのちは「キリストとともに神のうちに隠されているのです」(コロサイ3∙3)。わたしたちはまだ地上の住みかにいて1、苦しみや病気や死を免れることはできません。この神の子としての新しいいのちは、罪によって衰弱し、喪失することもありえます。
[1421]
中風の人の罪をゆるして健康を回復させてくださった2主イエス・キリストは、わたしたちの霊魂とからだの医師であり、ご自分のいやしと救いのわざを教会が聖霊の力によってその成員に対しても続けることをお望みになりました。これが二つのいやしの秘跡、すなわち、ゆるしの秘跡と病者の塗油の秘跡です。
[1422]
「告解(ゆるし)の秘跡を受ける者は、神に加えた侮辱のゆるしをあわれみ深い神からいただき、同時に自分たちの罪をもって傷つけた教会、愛と模範と祈りをもって自分たちの回心のために努力している教会と和解します。」3
[1423]
回心の秘跡と呼ばれるのは、それが回心へのイエスの呼びかけであり4、罪によって遠ざかった御父のもとに戻る歩み5を秘跡的に実現するからです。
悔い改めの秘跡と呼ばれるのは、それが、罪を犯したキリスト者の回心、痛悔、償いの個人的および教会的歩みにかかわるからです。
[1424]
告白の秘跡と呼ばれるのは、司祭の前で罪を告白するのがこの秘跡の本質的要素の一つだからです。この名称の根底には、この秘跡は神の聖性と罪びとに対する神のあわれみとを「告白すること」⸺認めて賛美すること⸺である、という意味合いが込められています。
ゆるしの秘跡と呼ばれるのは、司祭による秘跡的なゆるしを介して、神が悔い改める者に「ゆるしと平和」6をお与えになるからです。
和解の秘跡と呼ばれるのは、和解させてくださる神の愛を罪びとに与えるからです。「神と和解させていただきなさい」(二コリント5∙20)とパウロはいっています。神の慈愛を体験した人は、「まず行って兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5∙24)というキリストの呼びかけにこたえる用意があります。
[1425]
「あなたがたは……主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(一コリント6∙11)。キリスト教入信の秘跡で与えられる神の恵みの偉大さを理解すれば、キリストを着ている者にとって7、罪がいかに相いれないものであるかが分かるはずです。しかし、使徒聖ヨハネはこうも述べています。「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにありません」(一ヨハネ1∙8)。キリストご自身、「わたしたちの罪をゆるしてください」(ルカ11∙4)と祈るように教えられました。しかも、わたしたちが相互にゆるし合うなら、神もわたしたちの罪をおゆるしになる、といって、この二つのゆるしを結びつけられました。
[1426]
わたしたちは、キリストへの回心、洗礼による新たな誕生、聖霊のたまもの、キリストのからだと血の糧によって、「神のみ前で」(エフェソ1∙4)聖なる者、汚れのない者となりました。キリストの花嫁である教会自体が、キリストのみ前で「聖なる、汚れのない」(エフェソ5∙27)ものであるのと同様です。しかし、キリスト者となった当初に受けた新しいいのちは、人間本性のもろさと弱さ、ならびに罪への傾きを停止させるわけではありません。この傾きは教会では伝統的に欲情と呼ばれており、受洗者がキリストの恵みに助けられ、キリスト者として生活しながらこの傾きと勇敢に戦うために、洗礼を受けた人々のうちにも残ります8。この戦いは、主がたえずわたしたちを招いておられる聖性と永遠のいのちとを目指す、回心の戦いです9。
[1427]
イエスは回心を呼びかけておられます。この「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1∙15)という招きは、神の国の告知の本質的な一部です。教会は宣教にあたって、この呼びかけをまず、キリストやその教会をまだ知らない人々に対して行います。ですから、洗礼こそ最初の基本的な回心の場なのです。福音を信じ、洗礼を受けることによってこそ10、人は悪を捨て、救い、すなわち、あらゆる罪のゆるしと新しいいのちとを与えられるのです。
[1428]
ところで、回心へのキリストの招きは、キリスト者の生活の中でもたえず続けられています。この第二の回心は、教会全体がつねに行うべきものです。教会は「自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続ける」11のです。この回心の努力は、単なる人間のわざではなく、恵みによって引き寄せ、動かされる「打ち砕かれた心」12の動きであって13、先にわたしたちを愛された神の慈愛にこたえるものです14。
[1429]
これを明らかにしているのが、三度キリストを否認した後の聖ペトロの回心です。はかりしれないあわれみを込めたイエスのまなざしを受けて、ペトロは痛悔の涙を流し
15、またキリストの復活の後には、キリストへの愛を三度告白します
16。第二の回心は、
共同体的意味合いも込められています。これは、完全な教会になるようにとのイエスの呼びかけ、「悔い改めよ」(黙示録2∙5,16)ということばにも表されています。
聖アンブロジオはこの二つの回心について、「教会には水と涙とがあります。洗礼の水と悔い改めの涙です」17といっています。
[1430]
すでに預言者たちにもそうであったように、回心と悔い改めへのイエスの呼びかけは、外的な行い、すなわち、「粗衣や灰」、断食などの苦行ではなく、まず、心からの回心、内面的悔い改めを求めます。これがなければ、償いの行為はむなしく、偽りのものです。それに対して、心からの回心は、悔い改めの行為やわざなどの目に見えるしるしをもって表されます18。
[1431]
内面的悔い改めとは、生活全体の根本的転向、つまりわたしたちが心の底から神に復帰し、罪を断ち、悪から遠ざかり、犯した悪い行為を嫌悪することです。それは同時に、神のあわれみを希望し、その恵みの助けに信頼して、生き方を変えようという望みと決心とを伴うものです。この回心には救いに通じる苦痛と悲しみとを伴いますが、教父たちはこれを魂の苦悩、心の痛悔と呼んでいます19。
[1432]
人間の心は鈍く、かたくなです。神から新しい心を与えていただく必要があります
20。回心は第一に神の恵みの働きであり、この恵みによって心は神に向きを変えます。「主よ、みもとに立ち返らせてください。わたしたちは立ち返ります」(哀歌5∙21)。神はもう一度やり直す力をお与えになります。心は神の愛の偉大さを発見することにより、罪の醜さと重さとに打たれ、罪によって神に背き、神から離れるのを恐れるようになります。人間の心は、罪によって刺し貫かれたかたを見つめて回心します
21。
「キリストの御血を見つめ、御父にとってどれほど貴重なものであるかを理解しましょう。その血はわたしたちの救いのために流され、全世界に悔い改めの恵みをもたらしたものだからです」22。
[1433]
キリストの復活以来、聖霊は御父から遣わされたかたを信じなかったという世の誤りを明らかにしてくださいます23。ところが、誤りを明らかにしてくださるこの同じ霊が、人間の心に悔い改めと回心との恵みを与えてくださる慰め主24でもあられるのです25。
[1434]
キリスト者の内面的悔い改めは、きわめて多様な形をとります。聖書や教父たちは、自分自身、神、および他人とのかかわりに関する回心を表す断食、祈り、施し26という三つの形についてとくに力説しています。洗礼や殉教によって行われる根本的な清めのほかに、罪のゆるしを得る手段として、隣人と和解する努力、悔い改めの涙、隣人の救いへの配慮27、聖人たちの執り成し、「多くの罪を覆う」(一ペトロ4∙8)隣人愛の実行、などを挙げています。
[1435]
回心は日常生活の中での、和解の行為、貧しい人々への心遣い、正義の行い、他人の権利の擁護28、他人への過ちについての告白、兄弟の回心を目指す忠告、生活の見直し、良心の糾明、霊的指導、忍苦、義のために迫害を忍ぶことなどによって実現されます。日々自分の十字架を担ってイエスに従うことが、悔い改めのもっとも確かな道です29。
[1436]
エウカリスチアと悔い改め。日常の回心と悔い改めはエウカリスチアをその源泉、養分とするものである、ということが分かります。エウカリスチアのうちに、わたしたちを神と和解させてくださったキリストのいけにえが現在化されるからです。キリストのいのちを生きる人々はそれに養われ、強められます。それは、「わたしたちを毎日の過ちから解放し、大罪から守る解毒剤」30です。
[1437]
聖書を読むこと、教会の祈り、「主の祈り」を唱えること、心からの礼拝や信心業を行うことなどはすべて、わたしたちのうちに回心と悔い改めの精神を新たにし、罪のゆるしへとわたしたちを導いてくれます。
[1438]
典礼暦の悔い改めの時と日(四旬節、イエスの死を記念する各金曜日)は、教会が悔い改めを行うのに最適の時期です31。黙想会、回心式、悔い改めのしるしとしての巡礼、断食、施しのような犠牲、助け合い(慈善や宣教事業)などを行うのにとくにふさわしい時です。
[1439]
回心と悔い改めの過程については、「放蕩息子」のたとえの中でイエスがみごとに描写しておられます。その中心は「いつくしみ深い父」です32。その息子は誤った自由を渇望し、家を出、財産をたちまち使い果たした後に窮状に陥り、やむなく豚を世話しなけれはならなくなりました。そこで強い屈辱を感じましたが、さらに進んで、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいとさえ考えるようになりました。ついに、失ったものについて反省、後悔して、父親の前で自分の過ちを認める決心をして、家に戻ります。父親は彼を寛大に迎え、大いに喜びます。このたとえには、回心と悔い改めの過程の特徴がよく表れています。りっぱな服や指輪や祝宴は、神のもとへ、また教会という家族の懐へと戻った人間の、清らかで、尊く、喜びに満ちた新しいいのちの象徴です。御父の愛の深さを知っておられるキリストのお心だけが、わたしたちにそのはかりしれないあわれみをかくも簡潔に、また美しく明らかになさることができたのです。
[1440]
罪とは、何よりも神への反抗であり、神との交わりを断つことです。同時に、罪は教会との交わりをも損ないます。したがって、回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。それはゆるしと和解の秘跡によって実現されますが、その典礼もそのことが分かるような形になっています33。
[1441]
神だけが、罪をゆるすことがおできになります34。イエスは神の御子であられるので、ご自身のことについて、「人の子〔は〕地上で罪をゆるす権威を持っている」(マルコ2∙10)といわれました。そして、「あなたの罪はゆるされる」(マルコ2∙5)ということばをもって、神のこの権能を行使しておられます35。さらには、神としてのご自分の権威によってある人々にこの権能を与え36、ご自分の名でそれを行使させられるのです。
[1442]
キリストはご自分の尊い血によってわたしたちのためにゆるしと和解を手に入れてくださいましたが、教会全体が自分たちの祈り、生活、行動を通して、そのゆるしと和解のしるしとなり道具となることを望まれました。それにもかかわらず、キリストはゆるしの権能の行使を、使徒たちにおゆだねになりました。彼らは「和解のために奉仕する任務」(二コリント5∙18)を授かったのです。使徒たちはキリストの代理者として派遣されていますが、その使徒たちを通して「神と和解させていただきなさい」(二コリント5∙20)と勧め、嘆願しておられるのは、神ご自身なのです。
[1443]
イエスは宣教活動の間、人の罪をおゆるしになられたばかりでなく、そのゆるしの効果をもお示しになりました。すなわち、罪によって神の民の共同体から遠ざけられていた罪びとを、再びもとの共同体に迎え入れてくださいました。イエスが罪びとたちをご自分の食卓に招かれたばかりでなく、ご自身も罪びとたちの食卓に加わられたことが、その明白なしるしです。それは、神のゆるし37と神の民が住む入り江への帰還38とを強く表す行為でした。
[1444]
キリストは、罪をゆるす権能を使徒たちにゆだねながら、罪びとを教会と和解させる権能をもお与えになります。使徒たちの務めのこの教会的側面は、キリストがシモン・ペトロにいわれた次の荘厳なことばにとくに表れています。「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16∙19)。「ペトロに与えられたこの結ぶ任務と解く任務が、自分の頭と一致する使徒たちの団体にも与えられました」39(マタイ18∙18、28∙16-20 参照)。
[1445]
つなぐと解くという語には、あなたがたが共同体から退ける者は神との交わりからも退けられ、あなたがたが再び共同体に迎え入れる者を、神もまたご自分との交わりに迎え入れるでしょう、という意味があります。教会との和解は神との和解と切り離すことができません。
[1446]
キリストはゆるしの秘跡を、ご自分の教会に属するすべての罪びとのために制定なさいました。まず第一に、洗礼後に大罪を犯して洗礼の恵みを失い、教会の交わりを傷つけた人々のためです。ゆるしの秘跡は罪びとに、回心し、再び義とされる恵みを見いだす新たな可能性を提供するものです。教父たちはこの秘跡を、「恵みの喪失という難破の後に投じられる、〔救いの〕二枚目の板」40と呼んでいます。
[1447]
時代の流れとともに、教会がキリストから受けたゆるす権能の行使の具体的な方法はかなり変わりました。古代においては、洗礼後にとりわけ重大な罪(たとえば、偶像崇拝、殺人、姦通)を犯したキリスト者の和解は、非常に厳しい規則に従って行われました。つまり、悔い改める者は和解を受ける前に、自分の犯した罪の公の償いを、しばしば長年月にわたって行わなければなりませんでした。この「蹟罪者団」(ある種の重大な罪だけに限られていた)に入ることはまれにしかゆるされず、教会のある地方では、生涯にただ一度だけゆるされていました。7世紀に、東方の修道生活の伝統の影響を受けたアイルランドの宣教師たちが、ヨーロッパ大陸に「個人的な」悔い改めの慣行を導入しました。それは、教会との和解を受ける前に公の長期の償いを果たすことを要求しないものです。以後、ゆるしの秘跡は悔い改める者と司祭との間で、ひそかに行われるようになります。この新しい慣行に従って、ゆるしの秘跡を繰り返し受けることがゆるされ、こうしてこの秘跡を定期的に繰り返し受ける道が開かれました。また、大罪と小罪のゆるしが一度の秘跡で与えられることを可能にしました。今日まで教会が行ってきたゆるしの秘跡の形は大体この線に沿っています。
[1448]
ゆるしの秘跡の規定や祭儀は時の流れとともにいろいろと変わってきましたが、それでも同じ基本的構造が認められます。そこには二つの本質的要素が含まれています。その一つは、聖霊の働きのもとに回心する人間の行為、すなわち、痛悔、告白、償いであり、他の一つは、教会の仲介による神の行為です。教会は司教と司祭たちを介し、イエス・キリストのみ名によって罪のゆるしを与え、償いを定めますが、また同時に、罪びとのために祈ったり、罪びととともに償いを果たしたりもします。こうして、罪びとは再びいやされて、教会の交わりに迎え入れられます。
[1449]
ラテン教会で用いられる罪のゆるしのことばは、この秘跡の本質的要素を表しています。つまり、あわれみ深い御父があらゆるゆるしの源泉であり、この御父が御子の死と復活、聖霊のたまもの、教会の祈りと奉仕職とを介して、罪びととの和解を実現してくださるのです。
「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通して、あなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは父と子と聖霊のみ名によって、あなたの罪をゆるします」41。
[1450]
「ゆるしの秘跡は罪びとに、この秘跡のすべての要素、すなわち、心には痛悔、口には告白、行動にはまったき謙虚さ、あるいは実りのある償いを進んで受け入れることを求めます」42。
[1451]
悔い改める者の行為としては、まず痛悔が挙げられます。それは「罪を犯したことを心から悲しみ、その罪を忌み嫌うことであり、今後再び罪を犯さないという決心を伴うものです」43。
[1452]
すべてを超えて愛すべき神への愛に基づく痛悔は、「完全な」痛悔(愛による痛悔)と呼ばれます。このような痛悔をするならば小罪のゆるしが得られ、また、できるだけ早くゆるしの秘跡を受けるという固い決心がそれに伴うならば、大罪のゆるしも得られます44。
[1453]
「不完全な」痛悔(あるいは「後悔」)といわれるものもまた、神のたまものであり、聖霊の促しによるものです。これは、罪の醜さを思う心、あるいは永遠の罰や罪びとが受けるその他の罰に対する恐れなどから生じるもの(恐れによる痛悔)です。良心のこのような動きから、ゆるしの秘跡によって成し遂げられる恵みの働きのもとでの心の変化が始まる可能性があるのです。不完全な痛悔だけでは大罪のゆるしは得られませんが、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを得るための心の準備となります45。
[1454]
ゆるしの秘跡を受ける準備として、神のことばに照らして良心の糾明を行うことが勧められます。そのためにもっとも適切な指針は、神の十戒や福音書の教え、使徒たちの手紙に記された倫理的な教えなどに見いだされます。たとえば、山上の説教や使徒たちの訓戒などです46。
[1455]
罪の告白は、純粋に人間的側面から考えても、わたしたちに解放感を与え、他の人々との和解を容易にしてくれます。人は告白によって、自分の犯した罪を直視します。そしてその責めを負うだけではなく、再び神と教会共同体とに向かって心を開き、自分の新たな未来を可能にします。
[1456]
司祭への告白は、ゆるしの秘跡の本質的な要素の一つです。「悔い改める者は告白の際に、真剣に糾明した後で、意識しているすべての大罪を列挙しなければなりません。たとえその罪を知る者がだれもいないときも、あるいは十戒の第九戒と第十戒とに背いただけであってもです
47。なぜなら、時として、これらの罪は皆に知られながら犯した罪よりも霊魂を深く傷つける、より危険なものだからです」
48。
「キリスト信者は思い出したすべての罪を告白し、神のあわれみを受けるために打ち明けるように努めなければなりません。もしこれと反対に、故意に大罪を告白しないときには、司祭を通じて与えられる神のゆるしは与えられません。『もし病人が、恥ずかしがって自分の傷を医者に見せなければ、医者は自分が知らない傷を治すことはできない』からです」49。
[1457]
教会のおきてに従えば、「すべての信者は、分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくとも一年に一回忠実に告白する義務を有する」50のです。大罪を犯したことを自覚している人は、前もってゆるしの秘跡を受けていない限り、たとえ心底から痛悔しているにせよ、聖体を拝領することはできません51。ただ、拝領するための重大な理由があり、また、聴罪司祭に近づくことのできない場合はこの限りではありません52。子供は初聖体を受ける前に、ゆるしの秘跡を受けなければなりません53。
[1458]
日常の罪(小罪)を告白することは、厳密にいえば必要ではありませんが、教会から強く勧められています
54。小罪の定期的な告白はわたしたちの良心を培い、悪い傾きと戦い、キリストによっていやされ、霊的生活において向上していく助けとなります。わたしたちはこの秘跡を通して頻繁に御父のあわれみのたまものをいただくことによって、御父のようにあわれみ深くなるよう促されるのです
55。
「自分の罪を告白する者は、すでに神とともに行動しています。神があなたの罪をとがめておられます。あなたもまた、自分の罪をとがめるなら、あなたは神とともに行動しているのです。人間と罪びととは、いわば二つのものです。人間、それは神ご自身が造られたものです。罪びと、それは人間が作ったものです。あなたが作ったものを壊しなさい。そうすれば、神は神ご自身が造られたものを救ってくださいます。……自分のしたことが嫌になり始めたら、そのとき、あなたのよい行いが始まります。自分の悪い行いをとがめているからです。よい行いの始まりは、悪い行いの告白です。あなたは真理を行い、光の方に来ます」56。
[1459]
多くの罪は隣人に害を与えます。それを償うために、できるだけのことをしなければなりません(たとえば盗んだものを返す、中傷された人の評判を回復する、与えた傷の補償をするなど)。これは正義の上からも要求されることです。しかしそれにもまして、罪は罪びと自身だけではなく、神や隣人とのかかわりを傷つけ、弱めます。秘跡によるゆるしは罪を取り除きはしますが、罪から生じたすべての無秩序を修復するものではありません57。罪から立ち直った人は、十分な霊的健康を回復する必要があります。したがって、罪を償うために何かをしなければなりません。すなわち、適切な方法で「弁済する」なり罪を「あがなう」なりする必要があります。この弁済のことを「償い」ともいいます。
[1460]
聴罪司祭が科す
償いは、悔い改める者の個人的状況を考慮しながら、当人の霊的助けになることを目指すものでなければなりません。また、犯した罪の重さと性質にできるだけ相応するものであるべきです。償いには、祈り、寄付、慈善のわざ、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、とくにわたしたちが担わなければならない苦しみを忍耐強く受容することなどがあります。キリストはお一人でわたしたちの罪をただ一度で完全に償ってくださいましたが
58、このような償いは、そのキリストにわたしたちが似た者となれるよう助けてくれます。わたしたちはこの償いによって、復活されたキリストとの共同の相続人となることをゆるされます。キリストと「ともに苦しむ」(ローマ8∙17)からです
59。
「しかし、わたしたちの罪のために果たす償いは、キリスト・イエスによるものであるから、わたしたちのものでないということではありません。なぜなら、わたしたち自身では何もできませんが、『わたしたちを強めてくださるかた』の協力によって『わたしたちはすべてができる』からです60。わたしたち自身は何も誇るものを持ちませんが、わたしたちの栄光はキリストの中にあります。そのキリストの中でわたしたちは……罪を償い、『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』のですが61、それはキリストの力から出たものであり、キリストによって父にささげられ、キリストを通して父に受け入れられるのです」62。
[1461]
キリストが使徒たちに和解の奉仕職をゆだねられたので63、使徒たちの後継者である司教とその協力者である司祭とがこの務めを続けています。司教と司祭は、叙階の秘跡の力によって、「父と子と聖霊のみ名によって」すべての罪をゆるす権能を与えられています。
[1462]
罪のゆるしは、神との和解だけではなく教会との和解をももたらします。したがって、部分教会の見える頭である司教が、昔から、とりわけ和解の権能と奉仕職とを持つ者と考えられてきたのは当然のことです。司教はゆるしの秘跡の規律の統制者です64。その協力者である司祭は、所属の司教(場合によっては修道会長上)、あるいは教皇から教会法に基づいてその権能を授けられ、ゆるしを与えます65。
[1463]
特別に重大な罪は、破門に相当します。破門は、教会が科すもっとも重い罰です。破門された者は秘跡を受けることができず、一定の教会的な行為をすることもできません66。破門を解くことができるのは、教会法によれば、教皇と、当地の司教と、彼らから権限を委任された司祭だけです67。しかし、死の危険にある場合には、聴罪の権限を与えられていない司祭も含めて、どのような司祭でも、すべての罪をゆるし、すべての破門を解くことができます68。
[1464]
司祭はゆるしの秘跡を受けるように信者たちを励まし、また、信者が良識をもって願うたびに快くそれに応じる用意があることを示さなければなりません69。
[1465]
司祭がゆるしの秘跡を授けるときには、迷った羊を探すよい牧者、傷に包帯をするよいサマリア人、放蕩息子の帰りを待ちわび、その帰りを歓迎する父親、えこひいきせずに公正で、しかもあわれみ深い判決を下す裁判官の務めを果たします。一言でいえば、司祭は罪びとに対する神の慈悲のしるしであり、道具なのです。
[1466]
聴罪司祭は神のゆるしを与える主人ではなく、そのしもべです。この秘跡を授ける者は、キリストの意向と愛とに一致していなければなりません70。また、キリスト教的な生活の確かな認識、人間のことがらに関する経験、罪びとに対する尊敬と思いやりとを持ち、真理を愛し、教会の教導権の教えに忠実で、悔い改める者を忍耐深く治癒と十分な成熟とに導き、さらに、キリストのあわれみにゆだねながら、当人のために祈り、償いをしなければなりません。
[1467]
この務めの微妙さや偉大さ、また人に対して払うべき尊敬などを考慮して、教会は、告白を聴く司祭が告白された罪について絶対の秘密を守ることを命じています。これに背けば厳罰を科されます71。聴罪司祭はまた、告白によって知りえた告白者の生活についての情報を用いることも禁じられています。例外を認めないこの秘密は、「秘跡的封印」と呼ばれます。告白者が司祭に打ち明けたことは、秘跡によって「密封された」ままだからです。
[1468]
「ゆるしの秘跡の効果は、わたしたちに神の恵みを取り戻させ、崇高な愛のきずなでわたしたちを神に結ばせることにあります」72。したがって、この秘跡の目的であり結果として与えられるものは、神との和解です。痛悔と敬謙な心をもってゆるしの秘跡を受ける人には、「良心の平和と静けさ、それに深い霊的慰めが与えられます」73。神との和解の秘跡は真の「霊的復活」をもたらし、こうして、神の子としてのいのちの尊厳と宝とが取り戻されます。その宝の中でもっとも貴重なものは、神との友愛です74。
[1469]
ゆるしの秘跡は、わたしたちを
教会と和解させてくれます。罪とは兄弟的交わりを破ったり傷つけたりするものです。ゆるしの秘跡はこの交わりを取り戻させてくれます。この意味で、教会の交わりに再び受け入れられる者をいやすだけでなく、所属の一員の罪によって傷つけられた教会のいのちに活力を取り戻させる効果もあります
75。罪びとは、聖徒の交わりの中に再び受け入れられ、あるいはその交わりの中で強められ、まだこの世を旅する状態にあるかすでに天上の祖国にたどり着いている人たちによって成り立っている、キリストのからだの肢体同士の霊的宝の分かち合いによって強められます
76。
「神との和解の結果、罪によって絶たれていた交わりを取り戻すことによって生じる、他のさまざまな和解が行われることを指摘しなければなりません。つまり、ゆるしを得た告白者は心の奥底で自分自身と和解し、そこで真の自分を取り戻します。さらに、自分がある意味で侮辱し、傷つけた兄弟姉妹たちと和解します。そして教会と和解し、ついには全被造物と和解します」77。
[1470]
ゆるしの秘跡で、罪びとは神のあわれみ深い裁きに自分をゆだねながら、この世のいのちの終わりに受ける裁きを何らかの形で前もって受けています。実際に今、この世で、死といのちのどちらを取るかという選択の機会がわたしたちに与えられています。大罪は人を神の国から閉め出しますが、ただ回心の道を歩む人だけが神の国に入ることができます78。悔い改めと信仰とによってキリストに回心した罪びとは、「裁かれることなく」(ヨハネ5∙24)、死からいのちに移ります。
[1471]
教会における免償の教えと実践とは、ゆるしの秘跡の効果と密接に結びついています。
免償とは何か
「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしであって、キリスト信者はこれをふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の介入によって獲得します。教会は救いの奉仕者として、キリストおよび諸聖人のいさおしの宝をもって分配し付与します」79。
「免償は、罪のために負わされる有限の罰からの解放が部分的であるか全体的であるかによって、部分免償と全免償とに分けられます」80。「すべての信者は、部分免償または全免償を自己自身のために収受し、または〔代禱の様式で〕死者に付与することができます」81。
[1472]
教会のこの教えと実践とを理解するには、罪が二つの結果をもたらすことを理解する必要があります。大罪はわたしたちの神との交わりを断ち、その結果永遠のいのちを受けることを不可能にします。この状態は、罪の結果として生じる「永遠の苦しみ(罰)」と呼ばれます。他方、小罪も含めたすべての罪は被造物へのよこしまな愛着を起こさせます。人はこの愛着から、この世であるいは死後、清められなければなりません。死後の清めの状態は煉獄と呼ばれます。この清めによって、人は罪の結果として生じる「有限の苦しみ(罰)」といわれるものから解放されます。この二種類の苦しみ(罰)は、外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです。熱心な愛に基づく回心は罪びとの全面的清めをもたらすことができ、その結果いかなる苦しみ(罰)も存続しなくなります82。
[1473]
罪のゆるしと神との交わりの回復は、罪の結果である永遠の苦しみを取り除きます。ただし、有限の苦しみは残ります。キリスト者は、あらゆる種類の苦しみと試練に耐え、死の日が訪れたときには平静に死を迎えて、罪の結果である有限の苦しみを恵みとして受け入れるように努めなければなりません。また、愛の実践、慈悲のわざ、さまざまな償いの実行によって、「古い人」をまったく脱ぎ捨て、「新しい人」を着るように83励むべきです。
[1474]
自分の罪を清め、神の恵みに助けられて聖となることを求めるキリスト者は、一人でいるのではありません。「神の子らのそれぞれのいのちは、キリストにおいて、キリストによって、他のすべてのキリスト者である兄弟姉妹のいのちに感嘆すべきしかたで結ばれ、神秘的なかたであるキリストの神秘体の超自然的な一致のうちにあります」84。
[1475]
聖徒の交わりのうちにある「信者たち⸺天上の祖国にある人々、清めのために煉獄にある人々、まだこの世の旅路にある人々⸺の間には、愛の不断のきずなとあらゆる善の豊かな分かち合いとが存在します」85。この感嘆すべき分かち合いの中で、ある人の聖性は、他の人の罪が周りの人々に対して引き起こす損害よりはるかに多く周りの人々に益をもたらします。ですから、痛悔した罪びとは聖徒の交わりのおかげで、罪の結果として生じる苦しみから速やかに、効果的に解放されることができます。
[1476]
聖徒の交わりのこのような霊的善はまた、教会の宝とも呼ばれます。「それは世紀を重ねて積み上げられた物的財産のような宝ではなく、人類が罪から解放されて御父との交わりを持つようになるためにささげられた、主キリストのあがないと功徳とが神のもとに持つ、無尽蔵の宝です。わたしたちのあがない主であるキリストのうちには、その偉大なあがないの償いと功徳とがあふれるほどに存在するのです」86。
[1477]
「この宝に属するものとしてはまた、聖なるおとめマリアやすべての聖人たちが神の御前でささげる祈りや善行などの、はかりしれないほど大きく、つねに新たな功徳があります。聖人たちはキリストの恵みによってその後に従いながら自分たち自身を聖化し、御父からゆだねられた任務を果たしました。こうして彼らは、自分自身の救いに努めながら、神秘体の中で結ばれた兄弟姉妹の救いにも寄与してきたのです」87。
[1478]
免償は教会を通して得られます。教会はキリスト・イエスによって与えられた、つなぎ、解く権能によって、キリスト者個人の仲立ちとなり、キリストや聖人たちの功徳の宝庫を開き、罪のために受けるべき有限の苦しみ(罰)のゆるしをあわれみ深い御父からいただけるようにします。このようにして、教会は単にキリスト者を助けるだけではなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促すのです88。
[1479]
清めの状態にある死者も同じ聖徒の交わりの中にある人々ですから、わたしたちは彼らの手助けをすることができます。罪のために受けなければならない有限の苦しみから解放されることを願って死者のために免償を得る、という方法がとくに勧められます。
[1480]
ゆるしの秘跡はすべての秘跡と同様に、典礼行為です。通常、その儀式は次のように行われます。司祭は告白者にあいさつし、祝福します。良心を照らし、痛悔の心を起こさせるために神のことばを朗読し、告白者に悔い改めを勧めます。告白者は自分の罪を認め、司祭に告白します。司祭は償いを科し、告白者はそれを受託します。司祭は罪をゆるし、神に感謝と賛美の祈りをささげ、告白者を祝福して終わります。
[1481]
ビザンチン典礼には、ゆるしの神秘をみごとに表す嘆願形式のゆるしのことばがたくさんあります。「神は、預言者ナタンを介して罪を告白したダビデに、痛恨の涙を流したペトロに、イエスの足を涙でぬぐった遊女に、徴税人に、そして、放蕩息子にゆるしを与えられました。その同じ神が、罪びとであるわたしを通して、この世でもあの世でもあなたの罪をゆるし、あなたがその恐るべき裁きの庭に出頭するとき、あなたを罰せられることがありませんように。神は代々にたたえられます。アーメン」89。
[1482]
ゆるしの秘跡はまた、共同回心式の中で行うことができます。この場合は、ともに告白の準備を行い、いただいたゆるしをともに感謝します。個人の罪の告白とゆるしとは神のことばの典礼の中で行われますが、そのことばの典礼では、聖書朗読と説教、共同で行われる良心の糾明、ゆるしを求めるための共同の祈り、「主の祈り」、共同の感謝なども行われます。共同回心式は悔い改めの教会的性格をより明確に表します。ただし、どのような形式で行われるものであっても、ゆるしの秘跡はつねに、本質的に典礼行為、つまり、教会的で公の行為なのです90。
[1483]
重大な必要がある場合には、一般告白と一般赦免を伴う共同回心式を行うことができます。そのような重大な必要が生じるのは、死の危険が差し迫っていて、一人もしくは複数の司祭が各自の告白を聴く時間がないときです。また、告白者の人数から見て、妥当な時間で個別の告白をふさわしく聴くための聴罪司祭の数が不十分で、告白者側にとっては自分たちには落ち度がないのに、長期にわたってゆるしの秘跡の恵みを受けられなかったり、あるいは聖体拝領ができなくなるようなときです。その場合、ゆるしが有効となるためには、その後適切なときに自分の大罪を個人的に告白するという意図を信者が持つ必要があります91。共同のゆるしを行うための必要な条件が満たされているかどうかについては、教区司教が判断しなければなりません92。大きな祝祭日あるいは巡礼の機会などに大勢の信者が集まっているような場合は、この重大な必要というものには該当しません93。
[1484]
「そのような告白が物理的に、あるいは常識的に判断して不可能な場合を除けば、信者が神や教会と和解する唯一の通常の方法は、正しく行われる個別告白と個別赦免です」94。これには深い理由があります。キリストはすべての秘跡において働いておられます。罪びとの一人ひとりに、「子よ、あなたの罪はゆるされる」(マルコ2∙5)といわれるのです。キリストは、ご自分を必要とする一人ひとりの病人をいやすために全身全霊を傾けられる医者です95。そして、罪びとを再起させ、兄弟的な交わりに再び加えられます。したがって、個別告白は、神や教会と和解するためのもっとも意味深い形なのです。
[1485]
イエスは復活の日の夕方、使徒たちに姿を現していわれました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(ヨハネ20∙22-23)。
[1486]
洗礼後に犯した罪のゆるしは、特別の秘跡によって与えられます。それは回心の秘跡、告白の秘跡、悔い改めの秘跡、和解の秘跡などと呼ばれます。
[1487]
罪を犯す者は、神の栄誉と愛、神の子として召された人間固有の尊厳、キリスト者一人ひとりがその生ける石とならなければならない教会の霊的健やかさを傷つけます。
[1488]
信仰の目で眺めるならば、罪以上に大きな悪はありませんし、罪びとにとっても教会にとっても世界全体にとっても、罪以上に不幸な結果をもたらすものは他にありません。
[1489]
人が罪を犯して神との交わりを失った後でもう一度その交わりに復帰するのは、人々の救いを心にかけておられるあわれみ深い神の恵みの働きによるものです。自分自身のためにも、他の人々のためにも、この貴重な恵みを願う必要があります。
[1490]
回心あるいは悔い改めなどと呼ばれる神への立ち返りには、罪を犯したことへの悲しみと嫌悪、さらに、今後は罪を犯さないという固い決心とが伴います。したがって回心とは、過去と未来とにかかわるものであり、神のあわれみに対する希望を養うものです。
[1491]
ゆるしの秘跡は、悔い改める者の三つの行為と司祭のゆるしとによって成り立っています。悔い改める者の三つの行為とは、痛悔、司祭への罪の告白、償いを果たす決意ならびにその実行です。
[1492]
悔い改め(痛悔ともいわれます)は、信仰から生じる動機に基づくものでなければなりません。悔い改めが神への愛から生まれた場合は「完全な痛悔」といわれ、他の動機に基づく場合は「不完全な痛悔」といわれます。
[1493]
神や教会と和解したいと思う者は、入念な良心の糾明の後で思い起こした、まだ告白していないすべての大罪を司祭に告白しなければなりません。小罪の告白は厳密な意味で必要ではありませんが、教会は小罪も告白するよう強く勧めています。
[1494]
聴罪司祭は告白者に何らかの償いを科します。それは罪によって引き起こされた損害を償い、キリストの弟子としてのふさわしい生き方を取り戻させるためです。
[1495]
教会からその権限を受けた司祭だけが、キリストのみ名によって罪をゆるすことができます。
[1496]
ゆるしの秘跡によって得られる霊的な効果は、以下のようなものです。
⸺神との和解。これによって、告白者は恩恵の状態を回復します。
⸺教会との和解。
⸺大罪に科される永遠の苦しみ(罰)の赦免。
⸺罪の結果である有限の苦しみ(罰)、少なくともその一部の赦免。
⸺良心の平和と喜び、霊的慰め。
⸺キリスト者として戦うための霊的力の増大。
[1497]
通常の場合は、個別にすべての大罪を告白してそのゆるしを受けることが、神や教会との和解のための唯一の手段です。
[1498]
免償によって、信者は自分自身のためや煉獄の霊魂のために、罪の結果である有限の苦しみの赦免を得ることができます。
[1499]
「病者の聖なる塗油と司祭の祈りをもって全教会は、苦しみを受け栄光を受けられた主に、病苦を和らげ病人を救われるように願い、なお病人に対しては、進んで自分をキリストの受難と死に合わせて、神の民の善に寄与するように勧め励まします」96。
[1500]
病気と苦しみとは、つねに人生を悩ますもっとも大きな問題の一つでした。人間は病気によって自分の無力、限界、有限性を体験します。病気はすべて、人に死をかいま見せます。
[1501]
病気は場合によって、不安、閉鎖的な心、時には絶望や神に反抗する気持ちさえ抱かせます。他方、病気は人の成熟を助け、自分の人生にとって本質的でないものを識別させ、人を本質的なものに向かわせます。また、病気が神の探求や神への復帰を促すことがしばしばあります。
[1502]
旧約時代の人々は、病気を神とのかかわりの中で受け止めていました。神に自分の病気のことで嘆きを訴え97、いのちと死の主である神に治癒を求めます98。病気は回心への導きとなり99、神のゆるしが治癒の始まりとなります100。イスラエルの人たちは病気が神秘的に罪と悪とにかかわっていること、律法に従って神に忠実に生活すればいのちを取り戻すということを体験します。神は「わたしはあなたをいやす主である」(出エジプト15∙26)といわれます。預言者イザヤは、苦しみには他の人々の罪をあがなう意味がありうるという示現を受けて101、神がすべての罪をゆるし、すべての病気がいやされる時をシオンにもたらされるだろうと告げています102。
[1503]
キリストが病人に対して共感を抱き、さまざまな病人をいやされたということは103、神がその民を訪れてくださり104、神の国が近づいたということをはっきりと示すものです。イエスはいやす権能だけではなく、罪をゆるす権能も持っておられます105。イエスは人間の霊肉全体をいやしに来られました。病人が必要とする医者です106。苦しむすべての人に対する共感はきわめて深く、「〔わたしが〕病気のときに見舞〔っ〕てくれた」(マタイ25∙36)ということばからも分かるとおり、苦しむ人々とご自身とをまったく同一視なさいました。病人へのイエスの大きな愛は、長い時の流れの中でも途切れることなく続き、今日でも、肉体や精神の病に苦しむ人々へのいたわりの心をキリスト者に起こさせてくれています。このイエスの愛が、苦しむ人々を助けるキリスト者たちのたゆまぬ努力の源となっているのです。
[1504]
イエスはしばしば、病人に信じることを求めます107。治癒のためにつばや按手108、泥や沐浴109などのしるしを用いられます。病人はイエスに触れようとします110。「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」(ルカ6∙19)です。同じように、今もキリストは秘跡を通してわたしたちに「触れ」、わたしたちをいやし続けておられます。
[1505]
多くの苦しみに心を打たれたキリストは、病人が触れるままにさせておかれるだけではなく、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8∙17)とあるとおり、人々の苦しみをご自分のものとなさいます111。しかし、すべての病人をいやされたわけではありません。キリストによる治癒は、神の国の到来のしるしでした。これらのしるしは、より抜本的な治癒を告げていたのです。それは、キリストの死と復活とによる罪と死に対する勝利です。十字架上で、キリストは悪のすべての重荷をご自分の上に背負われ112、「世の罪」(ヨハネ1∙29)を取り除かれました。病気は世の罪の一つの結果にほかなりません。キリストは十字架上での受難と死を通して、苦しみに新たな意味を与えられました。すなわち、苦しみはわたしたちをキリストに似た者とし、キリストのあがないの苦しみにわたしたちを一致させることができるようになったのです。
[1506]
キリストは弟子たちをそれぞれの十字架を担ってご自分について来るように招かれます113。弟子たちはキリストに従いながら、病気や病人たちに対する新しい見方を身に着けました。イエスは弟子たちをご自分の貧しく仕える生活に加わらせ、ご自分のあわれみと治癒の務めにあずからせてくださいます。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6∙12-13)。
[1507]
復活されたキリストはこの派遣を新たにし(「彼ら〔が〕わたしの名によって……病人に手を置けば治る」〈マルコ16∙17-18〉)、教会がみ名を呼び求めて行うしるしによって、これを追認しておられます114。これらのしるしは、イエスが「救う神」115であることをとくに明らかにします。
[1508]
聖霊は、ある人々に治癒の特別なカリスマ116を与えて、復活されたかたの恵みの力を現されます。しかし、いかに熱心な祈りをしたとしても、すべての病気が治されるとは限りません。たとえば、聖パウロはキリストから、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(二コリント12∙9)ということや、自分が耐えなければならない苦しみには「キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満た〔す〕」(コロサイ1∙24)意味があることなどを教わるのです。
[1509]
「病人をいやしなさい」(マタイ10∙8)。教会はこの務めをキリストから受け、病人の世話と、それに伴う執り成しの祈りとによって、これを果たすように努めています。教会は、魂およびからだの医者として人に生きる力を与えるキリストの現存を信じています。この現存はとくに秘跡を通して、具体的には、永遠のいのちを与えるパンである117聖体(エウカリスチア)を通して現実のものとなります。聖パウロは聖体とからだの健康との関係をほのめかしています118。
[1510]
ところで、使徒時代の教会は病人のための固有な儀式を持っていました。聖ヤコブはそのことを次のようなことばで明らかにしています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(ヤコブ5∙14-15)。聖伝はこの儀式を教会の七つの秘跡の一つとして認めています119。
[1511]
教会は、七つの秘跡の中に、とくに病気に苦しむ人々を励ますことを目指す秘跡があると信じ、そう宣言しています。すなわち、病者の塗油の秘跡です。
「病者の聖なる塗油は、真の厳密な意味での新約の秘跡として、わたしたちの主イエス・キリストによって制定されました。この秘跡はマルコによる福音書にほのめかされており120、主の兄弟使徒ヤコブによって信者に勧められ、公布されました」121。
[1512]
典礼伝承によると、東方教会でも西方教会でも、古代から、祝福された油を用いて行われた病者の塗油についての多くの証言があります。時の流れとともに、病者の塗油は徐々に臨終にある人々に限って行われるようになりました。そのため「終油」と呼ばれるに至りました。この変化にもかかわらず、典礼においては、健康が救霊に役立つものであれば病人の健康を回復させてください、という主への祈りを省くことはありませんでした122。
[1513]
第2バチカン公会議後に発布された使徒憲章『サクラム・ウンクツィオネム・インフィルモールム(聖なる病者の塗油)』(1972 年11月30日)は
123、ラテン典礼では今後次のことを守るように定めています。
「病者の塗油の秘跡は重病の病人に授けられ、祝福された油⸺オリーブまたは他の植物油⸺を額と手に塗り、同時に、次のことばをただ一度唱えます。『この聖なる塗油により、いつくしみ深い主キリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放してあなたを救い、起き上がらせてくださいますように』」124。
[1514]
病者の塗油の秘跡は「危篤の状態にある人のためだけの秘跡ではありません。したがって、信者が、病気や老齢のために死の危険にある場合、この秘跡を受けるに適した時が来ていることは確かです」125。
[1515]
塗油の秘跡を受けた病人が小康を得た後に再び重体に陥った場合、または、同じ病気が長引いて容態がいっそう悪化した場合、この秘跡は繰り返し授けることができます。危険な手術の前にも病者の塗油の秘跡を受けるのが望ましく、衰弱が進んだ高齢者の場合も同様です。
[1516]
司教と司祭だけが、病者の塗油を授けることができます126。この秘跡の恩恵を信者に教えることは司牧者の義務です。信者はこの秘跡を受けるために司祭を呼ぶよう、病人に勧めなければなりません。病人は正しい心構えで、司牧者と教会共同体全体とに助けられながらこの秘跡を受ける準備をする必要があります。教会共同体は祈りと兄弟的思いやりとをもって、病人を特別に見守らなければなりません。
[1517]
すべての秘跡と同じく、病者の塗油の秘跡も共同体的典礼祭儀です127。このことは、この秘跡が行われる場所が家庭であろうと、病院であろうと、聖堂であろうと、また一人の病人のために行われようと、大勢の病人のために行われようと、変わりはありません。この秘跡がキリストの過越の記念である感謝の祭儀(エウカリスチア)の中で行われるのは、きわめてふさわしいことです。事情によっては、秘跡が行われる前にゆるしの秘跡を、後に聖体(エウカリスチア)の秘跡を授けることができます。エウカリスチアはキリストの過越の秘跡ですから、つねにこの世の旅の最後の秘跡、永遠のいのちに「移る」ための「旅路の糧」でなければなりません。
[1518]
ことばと秘跡とは、分けることのできない一つの全体を成しています。式は、悔い改めの祈りの後、ことばの典礼によって始まります。朗読されたキリストのことばと使徒たちのことばとは、病人と集まっている人々との信仰を目覚めさせ、キリストに聖霊の力を求めるよう促します。
[1519]
病者の塗油の式は、おもに次の要素から成り立っています。「教会の長老(すなわち司祭)」128が、黙ったまま病人に按手する。教会の信仰に基づき病人のために祈る129。これはこの秘跡に固有なエピクレシス(聖霊の働きを願う祈り)です。引き続き司祭は、できれば、司教が祝福した油を用いて塗油を行います。
以上の典礼行為は、この秘跡が病人にどのような恵みを与えるかを示しています。
[1520]
聖霊の特別なたまもの。この秘跡が与えてくれる第一の恵みは、重病あるいは老衰からくる困難を克服するために霊魂を励まし、平和と勇気を与える恵みです。この恵みは神への信頼と信仰とを新たにし、死に直面して落胆したり苦悩したりする気持ちを起こさせる悪魔の誘惑に抵抗する力を与える聖霊のたまものです130。キリストの霊が行う助けは病者の霊魂をいやすためのものです。さらに、それが神のおぼしめしであれば、からだの治癒も行われます131。そのうえ、「その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます」(ヤコブ5∙15)132。
[1521]
キリストの受難に一致する。この秘跡の恵みにより、病人はキリストの受難にいっそう緊密に一致する力とたまものとを受けます。病人は、あがないをもたらすキリストの受難にあやかって実を結ぶために、いわば聖別されるのです。原罪の結果である苦しみは、イエスの救いのみわざにあずかるという新しい意義を持つものとなります。
[1522]
教会的恵み。この秘跡を受ける病人は「進んで自分をキリストの受難と死に合わせて、神の民の善に寄与します」133。教会は聖徒の交わりの中でこの秘跡を行いながら病人の幸せのために執り成しますが、病人はこの秘跡の恵みによって教会の聖化とすべての人の善益とに寄与します。事実、教会は、すべての人のために苦しみ、すべての人のためにキリストを通して父である神に自らをささげます。
[1523]
死への準備。もし病者の塗油の秘跡が重い病気と疾患とに苦しむすべての人に授けられるのであれば、「死に直面していると考えられる」134人々に授けられるというのは当然なことです。それゆえ、「この世を去る人々の秘跡」135と呼ばれていました。病者の塗油は、洗礼によって始められたキリストの死と復活への参与を完成させるものです。病者の塗油は、キリスト者の人生の節目に与えられたそれぞれの聖なる塗油を完成するものです。洗礼の塗油はわたしたちに新しいいのちの証印を押しましたし、堅信の塗油はこのいのちの戦いのための力を与えました。そしてこの最後の塗油は、生涯の終わりに、御父の家に入る前の最後の戦いに備えさせてくれます136。
[1524]
教会はこの世を去る人々に、病者の塗油のほかに、旅路の糧としての聖体を授けます。御父のもとに移るこのときのキリストのからだと血の拝領は、特別な意味と重要性とを持っています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6∙54)というキリストのことばによれば、この聖体拝領は、永遠のいのちの種子であり、復活の力です。死んで復活されたキリストの秘跡であるエウカリスチアは、このとき、死からいのち、この世から御父のもとへの過越の秘跡となるのです137。
[1525]
洗礼・堅信・聖体(エウカリスチア)の秘跡が「キリスト教入信の秘跡」という名称で一つになっているように、キリスト者の生涯の終わりのときの、ゆるしと、病者の塗油と、聖体(エウカリスチア)は、最後の旅路を支えるものとして一つにまとめられ、「祖国に入る準備の秘跡」、あるいは地上の旅路を完了する秘跡などと呼ばれています。
[1526]
「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます」(ヤコブ5∙14-15)。
[1527]
病者の塗油の秘跡の目的は、重病あるいは高齢からくる困難にあるキリスト者に、特別な恵みを与えることにあります。
[1528]
病気や高齢のために信者に死の危険が迫っているならば、塗油の秘跡を受けるべき時が来ています。
[1529]
キリスト者は、重病にかかるごとに、この秘跡を受けることができます。受けた後に再び悪化した場合も、繰り返し受けることができます。
[1530]
司教と司祭だけが、病者の塗油の秘跡を授けることができます。秘跡を授けるときには、司教によって祝福された油を用います。ただし、やむをえない場合には司式司祭が祝福した油を用いることもできます。
[1531]
この秘跡挙行における本質的なものは、病人の額と手(ローマ典礼)あるいはからだの他の部分(東方教会典礼)に油を塗ることと、この秘跡の特別な恵みを願って司式司祭が典礼に基づいた祈りを唱えることです。
[1532]
病者の塗油の秘跡特有の恵みには、次のような効果があります。
⸺本人ならびに全教会の善のための、キリストの受難への一致。
⸺病気または高齢に基づく苦しみにキリスト者らしく耐えるための、励まし、平安、および勇気。
⸺病人がゆるしの秘跡を受けることができなかった場合には、罪のゆるし。
⸺当人の霊的救いに役立つのであれば、健康の回復。
⸺永遠のいのちに移るための準備。
[1533]
洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)は、キリスト教入信の秘跡です。これらの秘跡は、キリストのすべての弟子に共通の召命、すなわち、聖性ならびに世に福音を告げ知らせる使命への召命の土台をなすものです。そしてそれらの秘跡は、天のふるさとに向かって歩んでいるこの旅人としての人生において、霊の導きに従って生きるための必要な恵みを授けます。
[1534]
もう二つの叙階と結婚の秘跡は、他の人々の救いに向けられています。個人的救いにも寄与するものですが、それは他人への奉仕を通してなのです。この二つの秘跡は教会の中での特別な使命を与えるもので、神の民の育成を目指すものなのです。
[1535]
洗礼と堅信の秘跡によってすべての信者共通の祭司職にすでに聖別されている人々1は、この二つの秘跡において特別な聖別を受けることができます。叙階の秘跡を受ける人々は、キリストの名によって、「神のことばと恩恵をもって教会を牧するために」2聖別されます。他方、「キリスト者たる夫婦は、その身分上の義務と尊厳のため、特別な秘跡によって強められ、いわば聖別されるのです」3。
[1536]
叙階は、キリストから使徒たちにゆだねられた使命を世の終わりまで教会において続けさせる秘跡、つまり使徒の奉仕職の秘跡です。これには、司教、司祭、助祭の三つの位階があります。
(キリストによる使徒的役務の制定と派遣とに関しては 874〜896 番参照。ここでは、その役務が伝えられる秘跡のあり方についてのみ取り扱います)
[1537]
Ordo(位階・団体)の語は、古代ローマでは市民社会の法的団体、とくに統治者たちの団体を意味しており、Ordinatio(叙階)は一つの ordo(位階)への加入を意味します。聖伝によると、教会には古い時代から、聖書に基づいた、ギリシア語ではτάξεις(タクセイス)、ラテン語では ordines と呼ばれる団体がありました4。この伝統に基づいて、典礼では、ordo episcoporum(司教団)、ordo presbyterorum(司祭団)、ordo diaconorum(助祭団)という用語を使っています。他の団体、たとえば、洗礼志願者、おとめ、夫婦、寡婦などの ordo(団体)もありました。
[1538]
教会のこうした団体に加入するために、ordinatio(団体加入式)と呼ばれる式が行われていました。この式は宗教的典礼行為であって、聖別、祝福、秘跡などと呼ばれていました。今日では、ordinatio(叙階)の語は司教、司祭、助祭の団体に加入させる秘跡的行為のためだけに用いられており、共同体による単なる選挙、指名、委任ないし任命以上の意味合いが込められています。なぜなら、聖なる権能5を行使させ、教会を通してキリストだけが与えることができる聖霊のたまものを授けるからです。叙階はまた、聖別(consecratio)とも呼ばれます。それは、キリストご自身によって教会のために選別され、叙任されるものだからです。聖別の祈りを伴う司教の按手が、この聖別の見えるしるしとなっています。
[1539]
選ばれた民は、神によって「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19∙6)とされました6。しかしイスラエルの民の内部でも、神は十二部族の一つであるレビ族を選び、他の部族とは区別して、典礼の務めにあたらせました7。神ご自身がこの部族の嗣業です8。旧約の祭司職を開始する際には特別な聖別式がありました9。祭司たちは「罪のための供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」10。
[1540]
しかし、神のことばを告げ11、いけにえと祈りとによって神との交わりを取り戻すために定められたこの祭司職は、救いをもたらす力はなく、たえずいけにえを繰り返す必要があって、決定的聖化をもたらすことはできなかったのです12。ただキリストのいけにえだけが、決定的聖化をもたらすことができました。
[1541]
しかし、教会の典礼は、アロンの祭司職とレビ族の務め、また、七十人の「長老」の制度にも
13新約の叙階された役務者の前表を認めています。したがって教会は、ラテン典礼の司教叙階の聖別の祈りの中で、次のように祈ります。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神……、あなたは恵みのことばによって、ご自分の教会におきてをお与えになりました。あなたは初めのときからアブラハムに始まる正しい人々の一族をあらかじめ定め、指導者と祭司たちをお立てになりました。そして聖なる場所で奉仕する者が欠けることのないようにされました」14。
[1542]
教会は司祭の叙階では次のように祈ります。
「聖なる父、全能永遠の神、……すでに旧約時代から、……あなたは民を導き、聖なる者とするためにモーセとアロンを民の上に立て、彼らを助け、ともに働く人々を民の中からお選びになりました。こうして知恵に富む七十人の人々に、モーセが受けた霊を分け与えてくださいました。また、アロンの子孫にも、彼らの父に与えられた満ちあふれる恵みを授けてくださいました」15。
[1543]
助祭叙階のための聖別の祈りでは、教会は次のように祈ります。
「全能の神よ、……教会は新しい神殿として成長し、発展していきます。そのためにあなたは、すでに旧約の時代から、幕屋での奉仕の務めのために、レビの子らをお選びになったように、聖なる務めを担ってあなたの名に仕える、三つの段階の奉仕の務めをお定めになりました」16。
[1544]
旧約の祭司職のすべての前表は、「神と人との間の唯一の仲介者」(一テモテ2∙5 参照)であるキリスト・イエスのうちに実現されました。「いと高き神の祭司」(創世記14∙18)メルキゼデクは、キリスト教の伝承ではキリストの祭司職の前表と考えられてきました。キリストは「メルキゼデクと同じような大祭司」(ヘブライ5∙10、6∙20)であり、「聖であり、罪なく、汚れなく」(ヘブライ7∙26)、しかも「唯一のささげものによって」、すなわち、十字架上の唯一のいけにえによって、「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(ヘブライ10∙14)かたです。
[1545]
キリストのあがないのいけにえは、ただ一度で成就された唯一のものです。しかしそれは、教会のエウカリスチアのいけにえにおいて現在化されています。キリストの唯一の祭司職についても同様のことがいえます。それは職位的祭司たちによって現在化されていますが、そのことによってキリストの唯一の祭司職が損なわれることはありません。「だから、キリストだけが真の祭司であって、他はその奉仕者にすぎないのです」17。
[1546]
大祭司であり唯一の仲介者であるキリストは、教会を「父である神に仕える祭司の王国」となさいました18。信者の全共同体がそれ自体として祭司的団体です。信者は祭司、預言者、王であるキリストの使命にそれぞれの召し出しに応じて参与し、洗礼による祭司職を果たします。信者は洗礼および堅信の秘跡によって「聖なる祭司職をもつ者となるよう聖別されます」19。
[1547]
司教および司祭の職位的、位階的祭司職とすべての信者の共通祭司職とは、「それぞれ独自の方法で、キリストの唯一の祭司職に参与して」20おり、「相互に秩序づけられ」21ながらも、本質的に異なるものです。信者の共通祭司職は洗礼の恵みから発出する、信仰・希望・愛の生活、霊による生活の中で実現されるものですが、職位的祭司職は共通祭司職に奉仕し、すべてのキリスト者の洗礼の恵みの展開を助けるものであり、キリストがたえずご自分の教会を築き導くために用いられる手段の一つです。そのために、職位的祭司職は固有の秘跡、つまり叙階の秘跡によって受け継がれるのです。
[1548]
叙階された奉仕者が教会的奉仕を果たすときには、キリストご自身がそのからだの頭、その群れの牧者、あがないのいけにえの大祭司、真理の師としてご自分の教会に現存されます。叙階の秘跡の力によって司祭は
頭であるキリストの代理者として行動するという教会の教えには、以上のような意味があります
22。
「〔奉仕を果たすのは〕同じ祭司イエス・キリストであり、奉仕者はその代理をしているだけです。実に、奉仕者は、司祭職への聖別を受けることによって大祭司に似たものとなり、キリストご自身の力と名により行動できるようになるのです」23。
「キリストはすべての祭司職の源です。事実、旧約の祭司はキリストの前表であり、新約の祭司はキリストの代理者として行動するからです」24。
[1549]
教会の頭であるキリストの現存は、叙階された者、とくに司教と司祭の役務を通して信者共同体の中で目に見えるものとなります25。アンチオケの聖イグナチオの美しいことばによれば、司教は父である神の生きている像(テュポス・トゥー・パトロスτύπος τοῦ Πατρός)のような存在なのです26。
[1550]
このように役務者の中にキリストが現存されるからといって、役務者が支配欲、誤謬、罪などの、あらゆる人間的弱さから免かれているというわけではありません。役務者たちのすべての行為の正しさが聖霊の力によって一様に守られているわけではありません。ただし秘跡を授ける場合には、その保証があります。したがって、教会の役務者が罪びとであっても、彼らによって授けられた秘跡が恵みをもたらすのを妨げることはありません。しかし、彼らの多くの行為の中には、福音への忠実さを欠き、教会の使徒的活動の実りを損なう人間的弱さを示すものが見受けられます。
[1551]
この祭司職は奉仕の役務です。「主がご自分の民の牧者たちにゆだねられた任務は真の服役です」27。まったくキリストと人々のためのものです。それはことごとくキリストとその唯一の祭司職に従属し、もともとは人々と教会共同体のために制定されたものです。叙階の秘跡は「聖なる権能」を与えますが、これはキリストの権能にほかなりません。したがって、その権威は、愛によって一番低い者となり、皆に仕える者となられたキリストの模範に従って行使されるべきです28。「主は、ご自分の群れのために尽くすことはご自分に対する愛のあかしであると明言されました」29。
[1552]
教会の役務者は、単に頭であるキリストを代表する務めを信者共同体に対して果たすだけではなく、教会の祈りを神にささげるとき30、とくにエウカリスチアのいけにえをささげるとき31には、全教会の名で行動します。
[1553]
「全教会の名で」という表現は、役務者が共同体から委任された者であるという意味ではありません。教会の祈りと奉献はその頭であるキリストの祈りと奉献から切り離すことはできません。それはつねに、教会の中で教会によって行われるキリストの祈りです。キリストのからだである全教会は、聖霊と一致して、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」父である神に祈り、自らをささげているのです。頭と肢体とが一つとなったからだ全体が祈り、自らをささげます。そのため、からだの中でとくにその役務者である者は、キリストの役務者と呼ばれるだけではなく、教会の役務者とも呼ばれます。役務としての祭司職が教会を代表することができるのは、キリストの代理者であるからです。
[1554]
「神の制定による教会的役職は、種々の位階において、古代から司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって執行されます」
32。典礼、教導権および教会の一貫した慣習において説明されているカトリックの教えによれば、キリストの祭司職への役務としての参与には二つの段階があります。司教職と司祭職です。助祭職は両者を助け、両者に奉仕する職務です。したがって、現在用いられている
祭司(sacerdos)ということばは司教と司祭の呼び名であり、助祭を含みません。しかし、カトリックの教えに従って、祭司的参与の段階(司教と司祭)と奉仕の段階(助祭)の三つとも、「叙階」と呼ばれる秘跡によって授けられます。
「皆が助祭たちをイエス・キリストのように、また、司教を御父の像のように、そして司祭たちを神の元老院、使徒たちの集まりのように敬ってほしいものです。これらの人なしには教会とはいえません」33。
[1555]
「初めのときから教会の中で実行されていたこれらの種々の役職の中で第一位を占めるものは、伝承が証言しているとおり、司教職に立てられ、起源から続いている継承によって使徒の種からのぶどうづるを有する人々の任務です」34。
[1556]
その崇高な使命を果たすために、「使徒たちは彼らの上にくだった聖霊の特別な注ぎかけによってキリストから富まされ、自分たちもその助力者たちに按手をもって霊的たまものを伝授しました。このたまものは、司教聖別においてわたしたちにまで伝えられてきています」35。
[1557]
第2バチカン公会議は、「司教聖別によって叙階の秘跡の充満、すなわち教会の典礼の慣習と聖なる教父たちのことばによって最高の祭司職、聖職の総括と呼ばれている充満が授けられる」36と教えています。
[1558]
「司教聖別は、聖化の任務とともに、教える任務と治める任務をも授けます。……事実、按手と聖別のことばによって聖霊の恩恵を授けられ、聖なる霊印をしるされる結果、司教たちが優れたそして見える方法で師・牧者・大祭司であるキリストご自身の代理者となり、その役目を受け持つ者となります」37。「したがって司教は、彼らに与えられた聖霊により、信仰の真実にして真正なる師、祭司、牧者とされたのです」38。
[1559]
「秘跡的聖別の力により、また司教団体の頭ならびに構成員との位階的交わりにあずかることによって人は司教団の一員となるのです」39。司教職の身分と集団的性格とは、わけても、新しい司教が聖別式に参列する数人の司教によって叙階されるという教会の古くからの慣習によって知ることができます40。司教の合法的叙階には、今日ではローマ司教の特別な介入が必要です。それは、一つの教会における諸部分教会の交わりの見える最高のきずなとしての、また、これらの教会の自由の保証人としての資格によるものです。
[1560]
各司教は、キリストの代理者としてそれぞれにゆだねられた部分教会の司牧にあたりますが、同時に、兄弟であるすべての司教とともに、全教会のための配慮を団体としても行います。「各司教は自分にゆだねられた群れに対してのみ固有の権能を持つにしても、神の定めによる使徒の正当な後継者としては、他の司教たちとともに教会の使徒的使命に配慮するよう義務づけられています」41。
[1561]
以上述べたすべてのことは、司教の司式で行われるエウカリスチアがなぜ格別な意味を持つのかという理由を説明しています。すなわちそれは、よき牧者であり教会の頭であるキリストの目に見える代理者の司式のもとに祭壇を囲んで集まった教会を表すものだからなのです42。
[1562]
「父が聖とならしめて世に遣わされたキリストは、その使徒たちを通して、彼らの後継者すなわち司教たちをご自分の聖別と使命とに参与する者とされました。そして司教は自分の役職の任務を教会の中において、いろいろの配下の者に種々の段階によって、正当に授けました」43。「司教の役務の任務は従属的段階において司祭たちに伝授されました。こうして、彼らは司祭の団階の中に確立されて、キリストから託された使徒的派遣(使命)を正しく果たすために、司教の団階の協力者となります」44。
[1563]
「司祭の務めは司教の団階に結ばれているものですから、キリストご自身がそのからだを建設し、聖化し、統治される権威に参与するものです。したがって司祭の祭司職はキリスト教入信の諸秘跡を前提としますが、別個の秘跡によって授与されるものであり、この秘跡によって司祭は聖霊の塗油により特別な霊印(カラクテル)をしるされ、こうして、頭であるキリストの代理として行動することができるように、祭司キリストの姿に似たものとなります」45。
[1564]
「司祭はたとえ最高の祭司職を有せず、自己の権能の行使において司教に従属しているとはいえ、司祭の栄位において司教に結ばれており、叙階の秘跡の力によって、最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて46、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別されます」47。
[1565]
司祭は叙階の秘跡により、キリストが使徒たちにゆだねた世界的規模の使命にあずかります。叙階の秘跡で受けた霊的たまものは、司祭を限られた狭い範囲の使命にではなく、「『地の果てまで』(使徒言行録1∙8)の広大な世界的な救いの使命のために」48準備し、「至るところで福音を宣教する心構えをつねに持つ」49ようにさせます。
[1566]
「司祭はとくにエウカリスチアの祭礼または集会の儀においてその聖務を執行し、そこではキリストの代理者として行動し、キリストの神秘を宣布し、信者の祈りをその頭のいけにえに結び合わせ、新約の唯一の犠牲、すなわち自らを汚れなきいけにえとして父に一度ささげられたキリストの犠牲を、主の到来までミサの犠牲において現存するものと成し、それを適用させます」50。この唯一の犠牲から、司祭は自分たちのすべての役務のための力をくみ取ります51。
[1567]
「司祭は司教職位の賢明な協力者、その助手、その道具であって、神の民に仕えるために召され、自分たちの司教とともに一つの司祭団を構成し、種々の職務に携わります。信者の各地方集団においては、司祭は自分が広い信頼する心をもって結ばれている司教をある意味で現存するものとし、司教の務めと苦労を役割に応じて引き受け、日々の配慮をもってそれを実行します」52。司祭がその職務を果たすには、司教に従属し、司教と一致していなければなりません。叙階式で司教に対して従順を約束し、式の終わりに司教と平和のあいさつを交わしますが、それは司教が司祭を自分の協力者、子、兄弟、友とみなしていること、また、司祭が司教に愛と従順を示さなければならないことを表すものです。
[1568]
「司祭たちは叙階式によって司祭の団階の中に入れられたのですから、皆相互いに秘跡的兄弟愛によって深く結ばれています。しかし当該司教のもとで一つの司教区に奉仕するよう配属された司祭たちは、その司教区の中で一つの司祭団を構成します」53。司祭団の一致は、司祭叙階式の間に司教についで司祭たちが按手する慣習で、典礼的に表されます。
[1569]
「聖職位階の下位の段階に助祭があり、『祭司職のためではなく、奉仕の務めのために』按手を受けます」54。助祭叙階では司教だけが按手しますが、これは、助祭は「奉仕」の任務にあってとくに司教に結ばれていることを表します55。
[1570]
助祭は特別なしかたでキリストの使命と恵みに参与します56。叙階の秘跡は助祭に、だれも消すことのできない霊印をしるし、すべての人の奉仕者となられたキリストに似た者にします57。助祭のおもな任務は、秘跡、とくにエウカリスチアの祭儀が行われるときに司教と司祭を補佐し、聖体を配り、結婚式に立ち会って祝福し、福音を宣言し、説教し、葬儀を司式し、愛の種々の奉仕に献身することです58。
[1571]
第2バチカン公会議後、ラテン教会は助祭職を「聖職位階の固有の永続的な一つの段階として」59復興しました。東方教会ではつねに助祭職を保持してきました。既婚者にも授けられるこの終身助祭職は、教会の使命を果たすために大いに役立ちます。教会の中で、典礼生活や司牧生活、あるいは社会事業や慈善事業などを通して真に奉仕の務めを果たす人々が「助祭職の秘跡的恩恵によってさらにいっそう効果的に果たしうるように、使徒たちから伝授された按手によって強められ、また、より密接に祭壇に結びつけられること」60は適切で有益なことです。
[1572]
司教、司祭、助祭の叙階式は、部分教会の生活にとって重要な出来事ですから、可能な限り多くの信者の参加を得て行うべきであり、できるだけ日曜日に、司教座聖堂で状況にふさわしい荘厳さで行われるべきです。司教、司祭、助祭の三つの叙階式は同じ順序に従って、感謝の典礼の間に行われます。
[1573]
三つの叙階式の本質的な部分は、受階者の頭に司教が按手し、聖別の祈りを唱えるところです。この祈りは、受階者の上に聖霊と受階者がこれから行うべき奉仕に必要な聖霊のたまものとが注がれるよう神に願うものです61。
[1574]
すべての秘跡と同じように、式には他の付属的な部分が伴います。種々の典礼伝承に基づいたかなりの相違はありますが、秘跡の恵みの多様性を表している点は共通です。ラテン典礼の式の最初の部分⸺受階者の紹介と選出、司教の訓示、受階者との問答、諸聖人の連願⸺は受階者の選出が教会の慣習に従って行われることを示し、聖別の荘厳な行為に備えます。その後に続くさまざまな儀式は、成就される神秘を示しながら、その神秘を象徴的な方法を用いて実現させるものです。司教と司祭には、奉仕の務めに豊かな実りを得させる聖霊の特別な注ぎのしるしである、聖香油の塗布が行われます。司教には福音書、指輪、ミトラとつえが授与されますが、これは神のことばを告げ知らせる使徒的使命と、キリストの花嫁である教会に対する忠実さと、キリストの群れを牧する任務を表すためのしるしです。司祭には神にささげる聖なる民の供え物62を表すパテナとカリスとが授与され、キリストの福音を告げ知らせる使命を受けた助祭には福音書が授与されます。
[1575]
キリストは使徒たちを選び、ご自分の使命と権威にあずからせてくださいました。御父の右に座してもその群れを見捨てることなく、使徒たちを通していつも守り、今日でもこのわざを続ける牧者によって導いておられます63。したがって、ある人々を使徒、ある人々を牧者と「なさる」のはキリストです64。キリストは司教たちを通して行動し続けておられます65。
[1576]
叙階の秘跡は使徒的役務の秘跡ですから、「霊的たまもの」66、「使徒の種」67を伝授する権限は、使徒たちの後継者である司教にあります。有効に叙階された司教、すなわち、使徒継承に結ばれた司教が、叙階の秘跡の三つの段階を有効に授けるのです68。
[1577]
「洗礼を受けた男子のみが聖なる職階に有効に叙せられることができます」69。イエスは十二人の使徒団を形成するために男子を選びましたし70、使徒たちが自分たちの任務の後継者となる71協力者たちを選んだときも同様でした72。司祭たちが祭司職で結ばれている司教団が、キリストの再臨のときまで十二使徒団を再現し、具現するのです。教会はキリストご自身によるこの選択に従う義務があると考えています。したがって、女性が叙階されることはありえません73。
[1578]
叙階の秘跡を受ける権利はだれにもありません。事実、だれも勝手にこの任務を自分のものにすることはできません。神に召された人だけがなれるのです74。神から司祭職に召されていると思う人は、謙虚に自分の望みを教会の指導者に打ち明けなければなりません。ある人々に叙階を許可する責任と権利とを持つのは教会の権威者です。あらゆる恵みと同じく、この秘跡も無償のたまものとしていただく以外にはないのです。
[1579]
ラテン教会で叙階されるすべての役務者は、終身助祭を除いて、通常は独身者で、「天の国のために」(マタイ19∙12)独身を守ることを決意した男子信者の中から選ばれます。ひたすら主と主のこととに専念するよう召された司祭は75、自分のすべてを神と人々とにゆだねます。独身制は新しいいのちのしるしであって、教会の役務者はこのいのちに奉仕するために聖別されます。喜んで独身制を受け入れる者は、輝かしく神の国を告げ知らせるのです76。
[1580]
東方教会では、古くから異なった規律が守られています。司教は独身者の中からだけ選ばれますが、既婚者の男子も助祭や司祭の叙階を受けることができます。この慣習は、古くから合法的とみなされてきました。彼らはそれぞれの教会にあって、実りある役務を果たしています77。いうまでもなく、司祭の独身制は東方教会でもきわめて重んじられ、多くの司祭が神の国のために自由に独身を選んでいます。東方教会でも西方教会と同じく、叙階の秘跡を受けた後には結婚することができません。
[1581]
叙階の秘跡は、キリストの道具となって教会に奉仕させるため、聖霊の特別な恵みによって人をキリストに似た者とします。叙階によって、祭司・預言者・王というキリストの三職を、教会の頭であるキリストの代理者として果たすことができるようになります。
[1582]
洗礼や堅信の場合と同様、このキリストの任務への参与はただ一度ゆるされるだけです。叙階の秘跡もまた、消えない霊印を与えるので、繰り返し受けることも、期限付きで授けることもできません78。
[1583]
重大な理由があれば、有効に叙階された者が、叙階に伴う義務や職務から解かれるか、この行使を禁止されることがあります79。しかし当人は、厳密な意味では、もはや信徒の身分に戻ることはできません80。叙階によってしるされた霊印は消えることがないからです。叙階の日に受けた召命と使命とは、その人に消えないしるしを刻むのです。
[1584]
叙階された役務者を通して働き救いをもたらされるのはキリストですから、彼らにふさわしくない行動があったとしても、キリストの働きが妨げられることはありません
81。聖アウグスチヌスは、この点を次のように力説しています。
「高慢な役務者は悪魔と同一視されるべきです。それでも、キリストのたまものは汚されません。このような役務者を通して流れ出るものは清さを保ち、彼を通して流れるものは澄んだままで、肥沃な土地までやってきます。……秘跡の霊的力は光のようなもので、照らされなければならない人々はそれを清いままに受け、たとえ汚れたものを通っても、それ自体が汚されることはありません」82。
[1585]
この秘跡に固有な聖霊の恵みは、人を祭司・師・牧者であるキリストに同化させることです。叙階を受けた者は、そのキリストの役務者となります。
[1586]
司教が受ける恵みはおもに勇気の恵み(「統治の霊」⸺ラテン典礼の司教聖別の祈り
83)です。すなわち、すべての人、とくに貧しい人、病人、困窮者に対する無償の愛をもって、父のように、羊飼いのように、教会を力強く賢明に導き擁護するための恵みです
84。この恵みにより、司教はあらゆる人に福音を告げ知らせ、その群れの模範となり、また、エウカリスチアにおいて祭司でありいけにえであるキリストと一体となりながら、自分の羊のためにいのちを捨てることをも恐れず、聖化の道を群れの先頭に立って進むよう促されます。
「人の心を見通される父よ、あなたが司教としてお選びになったこのしもべが、聖なる群れを牧し、昼も夜もあなたに仕えて最高の祭司職をとがめられることなく果たすことができますように。あなたの顔をたえず和らげ、聖なる教会の供え物をささげ、最高の祭司職の霊によって、おことばのとおり罪をゆるす権能を受けますように。あなたが割り当てられるままに役割を分配し、あなたが使徒にお与えになった権能によっていっさいのきずなを解くことができますように。御子イエス・キリストによって芳しい香りをささげ、柔和と清い心であなたに喜ばれる者となりますように」85。
[1587]
司祭叙階によって与えられる霊的たまものは、ビザンチン典礼独自の叙階式の祈りによく示されています。司教は按手しながら、次のように唱えます。
「主よ、あなたが司祭の位階に高めてくださった者を聖霊のたまもので満たし、非の打ちどころなくあなたの祭壇の前に立ち、み国の福音を告げ知らせ、あなたの真理のことばの奉仕を果たし、霊的供え物と犠牲をささげ、新たに造り変える洗いを通してあなたの民を一新させることができるようにしてください。こうして、この司祭自身が再臨の日に御ひとり子であるわたしたちの神、救い主イエス・キリストを迎えて、あなたの限りないいつくしみにより、その任務の忠実な履行に対する報いを受けることができますように」86。
[1588]
助祭は、「秘跡の恩恵に強められて、司教および司祭団との交わりの中で、典礼とことばと愛の奉仕(ディアコニア)において神の民に仕えます」87。
[1589]
祭司の恵みと任務の偉大さを前にして、教会博士たちは、秘跡によってご自分の奉仕者に定められたかたにいのちを投げ出して従うようにとの、回心への強い呼びかけを感じ取りました。たとえば、ナジアンズの聖グレゴリオは司祭になったばかりのときに、次のように叫んでいます。
「他の人々を清める前に、まず自分自身が清められなければなりません。人に教えることができるためには、教えを身につけなければなりません。他の人々を照らすためにはまず自分自身が光となり、他の人々を神に近づけるためには自分が神に近づき、人々を聖化し、手を取って導き、賢明な助言を与えるためには、自分自身が聖化されていなければなりませんす」88。「わたしは、わたしたちがどなたに仕え、どのような地位にあり、どなたのもとへ進んでいるのかを知っています。わたしは、神の崇高さと人間の弱さとを1知っています。しかしまた、神の力がどんなものであるかも知っています」89。「〔それでは、司祭とは何でしょうか。司祭とは〕真理の擁護者であり、将来は天使たちと並んで立ち、大天使たちとともに神を褒めたたえ、天上の祭壇にいけにえをささげ、キリストの祭司職を分かち持ち、被造物を改造し、〔人に神の〕似姿を取り戻させ、天の国のためにそれを造り直す者となるのです。そして、そのもっとも偉大な点を述べるとすれば、司祭は、将来は自分自身が神化され、他の人々をも神化させるのです」90。
また、アルスの主任司祭聖ヨハネ・ビアンネはこうもいっています。「この世であがないのわざを続けるのは、司祭です」。「人はこの世で司祭が何であるかを本当に理解すれば、恐れのゆえではなく、愛のゆえに死ぬでしょう」。「祭司職とは、イエスの心の愛です」91。
[1590]
聖パウロは、弟子のテモテに対しては、「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神のたまものを、再び燃えたたせるように勧めます」(二テモテ1∙6)、「監督(司教)の職を求める人がいれば、その人はよい仕事を望んでいる」(一テモテ3∙1)といい、テトスに対しては、「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老(司祭)たちを立ててもらうためです」(テトス1∙5)といっています。
[1591]
教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。
[1592]
役務としての祭司職は、信者の共通祭司職とは本質的に異なります。それは、信者に奉仕するための聖なる権能を与えるものだからです。叙階された役務者は、教えること(教職)、祭儀をつかざどること(祭職)、司牧すること(牧職)を通して神の民に仕えます。
[1593]
教会の初めから、叙階による役務は司教、司祭、助祭の三段階で授けられ、果たされてきました。叙階によって授けられる役務は、教会の有機的構造にとってはかけがえのないものです。司教、司祭、助祭がいなければ、教会とはいえません92。
[1594]
司教は叙階の秘跡の充満を受け、これによって司教団に加えられ、ゆだねられた部分教会の見える長となります。司教たちは、使徒たちの後継者および司教団の一員として、ペトロの後継者である教皇の権威のもとで、全教会の使徒的責任と使命を分担します。
[1595]
司祭は祭司職の身分においては司教に結ばれており、司牧の務めを行使するにあたっては、司教に従属します。司教の賢明な協力者となるように召され、部分教会の責任を司教とともに担う司祭団を司教を中心にして構成します。司祭は司教から、小教区共同体の任務あるいは教会のある特定の任務に任じられます。
[1596]
助祭は、教会の奉仕の務めを果たすために叙階された役務者です。役務としての祭司職は受けませんが、叙階によって、ことば、典礼、司牧、愛の奉仕の務めにおける重要な役割を与えられます。助祭はこれを司教の司牧権威のもとで行います。
[1597]
叙階の秘跡は、按手と、これに続く荘厳な聖別の祈りとによって授けられます。聖別の祈りは、受階者の役務に必要な聖霊の恵みを神に願うものです。叙階は、消えない秘跡的な霊印をしるします。
[1598]
教会は叙階の秘跡を、役務にふさわしい適性を持つと認められた受洗男子にのみ授けます。ある人を叙階する責任と権利とは、教会の権限に属します。
[1599]
ラテン教会では、司祭の叙階の秘跡は通常、自由意志をもって独身制を受け入れる覚悟を持ち、神の国への愛と人々への奉仕のために独身を守る意志を公に表した候補者にしか授けられません。
[1600]
三つの段階の叙階の秘跡を授ける権限は、司教に属します。
[1601]
「男女が相互に全生涯にわたる生活共同体を作るために行う婚姻の誓約は、その本性上、夫婦の善益と子の出産および教育に向けられています。受洗者間の婚姻の誓約は、主キリストによって秘跡の尊厳にまで高められました」93。
[1602]
聖書は神に似せて造られた男と女の創造の話で始まり94、「小羊の婚宴」(黙示録19∙9)95の話で終わります。そして、聖書の初めから終わりまで、結婚とその神秘、その制定と神がその結婚に与えられた意義、その起源と目的、救いの歴史の流れの中で成就されていくその多様な姿、罪ゆえに生じたその困難さ、キリストと教会との新しい契約の中で「主に結ばれている」(一コリント7∙39)者との再婚などについて語っています96。
[1603]
「夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は創造主によって設立され、法則を与えられました。……神ご自身が婚姻の創設者です」97。結婚への召し出しは、創造主によって造られた男女の本性に刻み込まれています。結婚は、時の流れとともにさまざまな文化、社会構造や考え方などに応じていろいろと変化しましたが、人間が作り出した制度ではありません。多様性を認めたとしても、そこにある共通で恒久的な特徴を見落としてはなりません。結婚の崇高さについては世界のあらゆるところで同じような鮮明さで表されているわけではありませんが98、すべての文化は結婚の結びの偉大さを認めています。「個人の幸福、ならびに一般社会とキリスト教社会の幸福は婚姻および家庭と呼ばれる共同体の健全な状態に固く結ばれています」99。
[1604]
愛によって人間をお造りになられた神は人間を愛へとお招きになられましたが、これはすべての人間に内在する根本的な召し出しです。人間は「愛である」(一ヨハネ4∙8,16 参照)神にかたどり、神に似せて造られたからです100。神が人間を男と女とに造られたので、男女の相互愛は、人間を愛される神の絶対で不滅の愛を映し出すものとなります。この相互愛は創造主の目にはよいもの、きわめてよいものなのです101。神によって祝福されたこの愛は、子供を産み、被造界を維持する共同の働きを行うことを目指しています。「神は彼らを祝福していわれた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」(創世記1∙28)。
[1605]
聖書が明言するとおり、男と女は相互のために造られています。「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2∙18)。女は男にとって「その肉の肉」102、すなわち、同等の人、もっとも近い者であって、わたしたちの助けの源である神103を表す「助ける者」104として、神から与えられているのです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2∙24)。これは男女二人の生活の永続的な結合を意味していることをキリスト自らが示され、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタイ19∙6)ということばで、創造主の「初めから」の計画105を想起させておられます。
[1606]
すべての人は自分の周囲や自分のうちに悪を体験します。この体験はまた、男と女との間でも見られます。男女の結合はつねに、不和、支配欲、不忠実、しっと、憎悪や断絶に終わる衝突などの危険にさらされています。この無秩序は、大きさには多少の相違が見られたり、それぞれの文化、時代、個人などの努力による多少の解決がなされたりしているとはいえ、いつどこででも起こっている問題です。
[1607]
わたしたちが経験し、苦しんでいるこの無秩序は、キリスト教信仰によれば、男と女の本性や、両者の関係に由来するのではなく、罪の結果なのです。神との断絶をもたらした人祖の最初の罪の結果は、男と女との原初の交わりを破壊しました。男女の関係は相互の責任のなすり合いでゆがめられ106、本来は創造主のたまものである相互間のあこがれは107支配と欲望の関係へと変わってしまいました108。産み、増え、地を従わせる男女の優れた召し出しは109、産みの苦しみと糧を得る労苦を背負うものになりました110。
[1608]
こうして創造の秩序は甚だしく乱されたとはいえ、存在し続けています。男と女は罪による損傷をいやすために恵みの助けを必要とし、神はその限りない慈悲により、決してこれを拒むことはありませんでした111。神のこの助けなしには、男と女は神が創造によって定められた「初めから」の目的に沿って自分たちの結合を果たすことはできません。
[1609]
あわれみ深い神は、罪びとである人間をお見捨てにはなられませんでした。罪の結果としての罰、すなわち、はらみの苦しみ112と「顔に汗を流す」(創世記3∙19)労働はまた、罪の害を抑制する薬でもあります。原罪の後では、結婚が、自己閉鎖や自己愛に基づく「利己主義」、自己の快楽の追求などに打ちかち、他者に心を開いて相互扶助と自己献身の態度を取ることができるよう助けてくれます。
[1610]
結婚の一夫一婦制と不解消性とに関する道徳的意識は、旧約の律法の導きのもとでしだいに発展してきました。太祖や王たちの一夫多妻については、まだ明白には禁じられていません。しかし、モーセに与えられた律法は、キリストのことばによればモーセが妻の離縁をゆるす理由とした男の「心のかたくなさ」の跡は見られるようですが113、男によるわがままな支配から女を保護することを目指したものです。
[1611]
預言者たちはイスラエル民族と神との契約を二人だけの忠実な夫婦愛にたとえ114、選ばれた民の良心を培い、結婚の一夫一婦制と不解消性とのより深い理解へと導いていきました115。ルツ記とトビト記は結婚について、とくに夫婦の忠実さと愛情についての優れた見方を示しています。伝承はつねに、雅歌の特異な表現の中に、神の愛の反映としての人間愛、「死のように強く」、「大水も消すこと〔の〕できない」(雅歌8∙6-7)愛を読み取っています。
[1612]
神とその民イスラエルとの間の結婚の契約は、新しい永遠の契約を準備しました。この新しい契約の中で神の御子は人となり、自らのいのちをささげ、ご自分によって救われた全人類とある意味で一致し116、こうして、「小羊の婚礼」を準備なさいました117。
[1613]
イエスは宣教生活の初め、ある婚礼の機会に、ご自分の母親の願いに応じて最初のしるしを行われました118。教会は、カナの婚宴にイエスが臨席されたことを重視します。教会は、ここで結婚がよいものであることが確認され、これからは結婚がキリストの現存の効果的しるしとなることが宣言された、と読み取っています。
[1614]
イエスは、創造主が当初に望まれた男女の結合の本来の意味を明確に教えられました。すなわち、モーセが妻を離縁する許可を与えたのは、人間の心のかたくなさゆえの譲歩でした119。男女の結婚による結合は不解消です。それは神ご自身が夫婦を結び合わせられたからです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19∙6)。
[1615]
結婚のきずなの不解消性に関するイエスの断定的な強調は人々を困惑させ、実行不可能な要求と受け取られる可能性がありました120。しかし、イエスは夫婦に担うことのできない重荷、モーセの律法よりも重い荷を負わせられたのではありません121。イエスは罪によって乱された創造の原初の秩序を回復するために来られ、神の国の新しい展望の中で結婚生活を生きるための力と恵みを自らお与えになります。夫婦はキリストの後に従い、自分を捨て、自分の十字架を背負ってこそ122、はじめて結婚の本来の意味を「受け入れ」123、キリストに助けられながらその教えに基づいて生活することができるのです。キリスト者の結婚の恵みは、すべてのキリスト教的生活の源であるキリストの十字架の実りなのです。
[1616]
使徒パウロはこのことを理解させようとして、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになって、聖なるものとなさったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5∙25-26 参照)と述べ、さらに付け加えて、「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5∙31-32)と語っています。
[1617]
キリスト教的生活全体に、キリストと教会との夫婦愛のしるしが刻まれています。神の民の一員とする洗礼は、すでに結婚の神秘です。すなわち、洗礼は結婚式の前の水の洗いであり124、その後にエウカリスチアという婚宴が続きます。キリスト者の結婚はキリストと教会との契約の秘跡、その効果的なしるしなのです。受洗者同士の結婚は新約の恵みを示し、与えるので、新約の真の秘跡です125。
[1618]
キリストはキリスト教的生活全体の中心です。キリストとのきずなが、家族、社会、他のすべてのきずなに優先します
126。教会の当初から、結婚の幸せを放棄した男女が存在していました。それは、小羊が行かれるところにはどこにでもついて行き
127、主のことに心を遣い、主に喜ばれることを求め
128、おいでになる花婿を迎えに出る
129ためです。キリスト自ら、このような生き方をしてご自分に従うようにとある人々を招かれました。キリストこそ、この生き方の模範です。
「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19∙12)。
[1619]
天の国のための独身は、洗礼の恵みの発露、キリストとのきずなの卓越性とその再臨の熱烈な待望との優れたしるしであり、さらに、結婚が過ぎ行く現世のことがらであることを思い起こさせるしるし130でもあります。
[1620]
結婚の秘跡も神の国のための独身も、キリストご自身に由来するものです。キリストが、この双方に意味を与え、み旨に従って生きるために必要な恵みを与えられます
131。神の国のための独身の価値
132と結婚のキリスト教的意義とは、切り離すことのできない、互いに補い合うものです。
「結婚を誹謗、中傷する者はだれでも、純潔の輝きを曇らせてしまいます。それをたたえる者はだれでも、純潔をより称賛に値する輝かしいものとします。悪と比較してのみ善に見えるものは、特別に善とはいえません。善であると認められるものよりもさらによいもの、それが最高の善です」133。
[1621]
ラテン典礼では、二人のカトリック信者間の結婚式は、すべての秘跡がキリストの過越の神秘と関連していることから、普通、ミサの中で行われます134。聖体祭儀では新しい契約の記念が行われますが、愛する花嫁である教会のためにご自分をお与えになったキリストは、この契約において、教会と永遠に結ばれたのです135。したがって、新郎新婦が自分たちの生活を奉献して相互に与え合うという同意を、エウカリスチアのいけにえにおいて現在化される教会のためのキリストの自己奉献に一致させ、聖体を拝領するのはきわめて適切なことです。それは二人がキリストの同じからだと同じ血をいただき、キリストにおいて「ただ一つのからだ」となるためです136。
[1622]
「聖化の秘跡として、結婚式は……式自体が有効でふさわしく実り豊かなものでなければなりません」137。したがって、結婚する二人がゆるしの秘跡を受けて結婚式に備えるのはふさわしいことです。
[1623]
ラテン教会の伝統では、新郎新婦が教会の前でそれぞれの同意を表すことにより、キリストの恵みの役務者として互いに結婚の秘跡を授け合います。東方教会の伝統では、祭司(主教または司祭)は新郎新婦によって相互に表明される同意の証人となります138が、秘跡の有効性のためにはその祭司の祝福も必要となります139。
[1624]
さまざまな典礼様式における祝福の祈りや聖霊の働きを願う祈り(エピクレシス)の種類は豊富ですが、それは新郎新婦、とくに新婦の上に神の恵みと祝福とを願うものです。この秘跡のエピクレシスで、新郎新婦はキリストと教会との愛の交わりである聖霊をいただきます140。聖霊こそ二人の契約の刻印であり、二人の愛の尽きない泉であり、二人の忠実を更新させる力なのです。
[1625]
結婚の誓約の当事者は、洗礼を受けた一人の男性と一人の女性で、自由に結婚することができ、自由意志をもって同意を表す者たちです。「自由に結婚することができる」とは次のことを意味します。
⸺強制されていないこと。
⸺自然法、あるいは教会法上の結婚の障害がないこと。
[1626]
教会は新郎新婦間の同意の交換を、「結婚を成立させる」不可欠な要素とみなしています141。同意がなければ結婚は成立しません。
[1627]
同意とは、「配偶者が互いに自分を与えそして受ける人間行為」142のうちに成立するものであり、それは、「わたしはあなたを妻とします」「わたしはあなたを夫とします」143ということばで表されます。新郎新婦を互いに結び合わせるこの同意は、二人が「一体」となる144ことで完成します。
[1628]
同意は、暴力または外部からの強度の恐怖によって束縛されていない当人各自の意志行為でなければなりません145。いかなる人間の権力も、この同意に取って代わることはできません146。もしもこの同意が自由意志で行われたものでないとすれば、結婚は無効です。
[1629]
このような理由(あるいは結婚を無効とする他の理由147)があれば、教会は、管轄の教会裁判所によって状況を調査した後、「結婚の無効」、すなわち、結婚が成立していなかったということを宣言することができます。この場合、当の二人は自由に他の人と結婚することができます。ただし、以前の結合によって生じた自然的な義務は果たさなければなりません148。
[1630]
結婚式に立ち会う司教や司祭(または助祭)は教会の代表者として二人の同意を受け止め、教会の祝福を与えます。教会の役務者(および証人たち)の臨席は、結婚が教会的出来事であることを明らかにするものです。
[1631]
そのために教会は、通常、信者が教会の儀式に従って挙式するように命じています149。このような規定が定められていることには、いろいろな理由があります。
⸺秘跡的結婚は典礼行為です。ですから、結婚は教会の公の典礼の中で行われるのがふさわしいのです。
⸺結婚は人を教会での一定の身分に加入させ、教会における夫婦間の権利と義務、ならびに子供に対する権利と義務とを授けます。
⸺結婚は教会の中での生活様式の一つですから、結婚についての確証がなければなりません(そのために、証人の立ち会いが義務づけられます)。
⸺同意を公に表すことによって、そのときの同意が支えられ、それを忠実に守るように助けられます。
[1632]
新郎新婦の同意が自由で責任あるものとなるため、また、結婚の契約が人間としてまたキリスト者としての堅固で永続的な土台の上に立つためには、
結婚の準備がきわめて重要です。xs+両親や家族の模範と教訓とがこの準備のための最良の方法であることに変わりはありません。
結婚や家庭の人間的およびキリスト教的価値を伝達するためには、司牧者と「神の家族」であるキリスト者共同体の役割が不可欠です
150。現代では多くの若者が亀裂した家庭を経験しており、家庭以外では結婚や家庭についての基本的教えを十分に受けられない状況であるだけに、その役割はいっそう重要です。xs-
「若い人たちに対しては、とくに家庭において、夫婦愛の品位、任務、行為について時機をはかって適切に教えなければなりません。こうして、彼らは貞潔についての教育を受けた後、時が来れば清い婚約時代を経て結婚に移ることができます」151。
[1633]
多くの国では、混宗結婚(カトリック信者と非カトリック受洗者間の結婚)が、かなり頻繁に行われています。これには、配偶者ならびに司牧者の特別な心配りが必要です。異宗結婚(カトリック信者と非キリスト者間の結婚)の場合は、いっそうの慎重さが求められます。
[1634]
配偶者のキリスト教宗派の違いは、結婚にとって克服できない障害ではありません。それは、二人がそれぞれの教会で受けたものを共有し、お互いがキリストにどのように忠実に生きるかを学ぶことに成功する場合にいえることです。ただし、混宗結婚の難しさを過小評価してはなりません。それは、キリスト者間の分離がまだ解決されていない事実によるものです。配偶者は家庭内で、キリスト者間の不一致の悲劇に出合いかねません。異宗結婚には、この困難をさらに深刻なものにする可能性が秘められています。信仰に限らず、結婚そのものについての考えの相違、それに宗教的考えの違いが、結婚生活の中で、とくに子供の教育に関して、衝突の原因になりえます。こうした場合には、宗教的無関心の誘惑が待ち構えています。
[1635]
ラテン教会の現行法では、混宗結婚が合法となるためには教会権威者の明示的許可を必要とします152。異宗結婚の場合には、結婚が有効となるために障害の明示的免除が必要とされます153。この許可もしくは免除が与えられるための条件は、両者が結婚の本質的目的と特性とを知り、それを拒否しないこと、さらにまたカトリック者が、自分には自分の信仰を保持しカトリック教会での子供の洗礼と教育を保証する義務があり、そのことを非カトリック者側にも知らせる必要があるということを確認することです154。
[1636]
多くの国々では、教会一致運動における対話のおかげで、かかわりのあるキリスト教諸派は混宗結婚者のための共同司牧を発足させました。その任務は、このような夫婦が自分たちの特殊な境遇を信仰の光に照らして生きるよう助けることにあります。さらにその活動は、互いに対する配偶者の義務に関して、また各自の所属教会に対する義務に関して起こりうる緊張を克服するように助け、信仰に共通なものを成熟させ、異なる面を尊重し合うように励ますことも目的としています。
[1637]
異宗結婚におけるカトリック信者の配偶者は、特別な任務を持っています。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」(一コリント7∙14)。もし、この「聖化」が配偶者の一方をキリスト教信仰への自由な回心に導くならば、キリスト者の配偶者にとっても教会にとっても、大きな喜びです155。誠実な夫婦愛、家庭人としての諸徳のつつましく忍耐強い実践、たゆまぬ祈りなどを通して、信者でない配偶者を改宗の恵みにまで導くことができます。
[1638]
「有効な婚姻に基づいて、夫婦間にはその本性上永続的かつ排他的なきずなが生じます。さらにキリスト者同士の婚姻においては、夫婦はその身分に伴う義務および尊厳のゆえに、特別の秘跡によって強められ、いわば祝聖されます」156。
[1639]
新郎新婦が互いに与え受け入れ合う同意は、神ご自身によって押印されたものです157。二人の契約から、「神の制定による堅固な制度が社会の前にも生まれます」158。夫婦の契約は神と人類との契約に組み入れられ、「真正な夫婦愛は神の愛の中に取り上げられます」159。
[1640]
したがって、結婚のきずなは神によって結ばれたものであり、受洗者同士の完成の認証婚は決して解消できません。夫婦の自由な人間的行為と結婚の完成とによって生じるこのきずなは、取り消すことのできないもので、神の忠実さによって保証された契約の起源を明らかにするものです。教会には、神の英知によるこの決定に反することをいう権限はありません160。
[1641]
キリスト者の夫婦は、「結婚生活という身分と序列において、神の民の中で自分たちに固有のたまものを持っています」161。この結婚の秘跡に固有な恵みは、配偶者の愛を完成し、解消できない結合を強めるものです。二人はこの恵みによって、「結婚生活および子女の出産と養育を通して聖となるよう互いに助け合います」162。
[1642]
キリストがこの恵みの泉です。「かつて神が愛と忠実の契約をもって、その民を助けたように、今は人々の救い主・教会の夫は婚姻の秘跡をもってキリスト信者である配偶者を助けに来ます」
163。そしてキリストは、彼ら夫婦とともにとどまり、二人が自分の十字架を背負って後に従い、倒れたら立ち上がり、互いにゆるし合い、互いの重荷を担い合い
164、「キリストに対するおそれをもって、互いに仕え合い」(エフェソ5∙21)、超自然的で、繊細で、豊かに実を結ぶ愛で愛し合う力をお与えになります。キリストは、夫婦がすでにこの世にありながら、互いの愛と家族生活との喜びの中で小羊の婚礼を前もって味わえるようにしてくださいます。
「教会によってともに結ばれ、奉献によって強められ、祝福によって固められ、天使によって告げ知らされ、御父によって承認された結婚の幸せを、わたしはいったいどのように表すことができるでしょうか。……一つの希望、一つの願いと、一つの規律、一つの奉仕をともにする二人の信じる者のきずなは何とすばらしいことでしょうか。彼らはともに信仰の仲間であり、同じ主に仕える者同士です。心もからだも分かたれることはありません。事実、二人は一つのからだを持つ二人です。からだが一つであれば心もまた一つです」165。
[1643]
「夫婦愛は、肉体や本能の要求、感情や情緒的な力、精神や意志の向上など、人格のすべての要素を含む全体に及んでいるのです。それは一つのからだに結ばれることを超えて、一つの心、一つの魂を形づくっていく深い人格的な一致を目指しています。したがって夫婦愛は、決定的な相互の与え合いにおいて不解消性と忠実を求めます。それはまた生殖へと開かれているのです。一言でいえば、それらは自然な夫婦愛の典型的な特徴ですが、それを純化し強めるばかりでなくキリスト者固有の諸価値を表現するところまで高めていく新しい意義を持っています」166。
[1644]
夫婦愛はその本性から、二人の生涯にわたる人格共同体の単一性と不解消性とを要求します。「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタイ19∙6)167。「全面的に自己を与え合うという結婚の約束を日々忠実に守りながら、彼らの交わりの中でたえず成長するように呼ばれています」168。この人間的交わりは結婚の秘跡が与えるイエス・キリストにおける交わりによって強められ、純化、完成され、ともに営む信仰生活、ともに拝領する聖体によって深められていくのです。
[1645]
「相互の完全な愛の中に夫と妻とに平等に認めるべき人間(ペルソナ)の尊厳は、主によって確認された一夫一婦制を明らかにします」169。一夫多妻はこの平等の尊厳と一夫一婦に限る夫婦愛とに反するものです170。
[1646]
夫婦愛は、その本性から夫婦に変わらぬ忠実さを要求します。それは、夫婦が相互に自分を与え合う結果として表れるものです。愛は決定的であるはずです。「とりあえず」ということはありえません。「この深い一致は、ふたりの人間(ペルソナ)が互いに与え合うということであって、子供の善と同様に、夫婦間の完全な忠実を要求し、また夫婦間の一致が不解消であることを求めます」171。
[1647]
そのもっとも深い理由は、神がご自分の契約に対して忠実であられること、キリストがご自分の教会に対して忠実であられるということにあります。結婚の秘跡によって、夫婦はこの忠実さを映し出し、世に明らかにする資格を与えられます。秘跡によって、結婚の不解消性は新たなより深い意味を受けるのです。
[1648]
自分の一生を一人の人間に結びつけることは難しく、不可能のように思われるかもしれません。それだけに、神は決定的で取り消すことのできない愛でわたしたちを愛しておられ、夫婦は自分たちをはぐくみ支えるこの愛にあずかりながら自分たちの忠実を通して神の忠実な愛の証人となることができる、という福音を告げ知らせることがいっそう重要となります。しばしばきわめて困難な状況のうちにありながらも、神の恵みに助けられてこのあかしを行う夫婦は、教会共同体の感謝と支援とを受けるに値します172。
[1649]
しかし、種々さまざまな理由で、夫婦の同居が実際に不可能となることがあります。そのような場合には、教会は夫婦の別居を認めます。とはいえ、この夫婦は神の前には依然として夫と妻であり、別の人と結婚する自由はありません。このような困難な状態での最良の解決策は、その可能性があれば、和解することです。キリスト者の共同体はこの夫婦がこのような境遇をキリスト者らしく生き、不解消のままである結婚のきずなを忠実に守るよう助けなければなりません173。
[1650]
少なからぬ国々には、民法上の離婚に頼って、民法上の再婚を行うカトリック信者が数多くいます。教会は、イエス・キリストのことば(「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」〈マルコ10∙11-12〉)に忠実に従い、最初の結婚が有効であれば再婚を有効とは認めません。離婚した後に民法上の再婚をした者は、客観的には神法に背く状態にあります。したがって、この状態が続く限り、聖体を拝領することができません。同じ理由から、教会のある種の任務を行うこともできません。ゆるしの秘跡によってゆるしが与えられるのはただ、キリストとの契約と忠実さのしるしである結婚を破ったことを痛悔し、まったくの禁欲生活を送る人々に対してのみです。
[1651]
このような境遇にいながらも、信仰を守り、子供たちをキリスト教的に育てることを望むキリスト者が多くいます。彼らに対して、司祭および信者全共同体は、彼らが自分は教会から離れた者だと思い込むことがないように、温かい配慮を示すべきです。そのような人々も洗礼を受けた者として教会生活にあずかることができるし、またあずからなければならないのです。
「彼らは教会生活にあずかりながら〔神のことばを聞き、ミサ聖祭にあずかり、〕忍耐をもって祈り続け、愛のわざや正義を求める共同体の努力に貢献したり子供をキリスト教の信仰のもとで教育して、回心の心と実践を身につけるよう努めながら、日々神の恵みを求めていくよう励まされてしかるべきなのです」174。
[1652]
「婚姻制度そのものと夫婦愛とは、その本来の性質から、子供の出産と教育とに向けて定められているものであって、これらはその栄冠のようなものです」
175。
「子供は婚姻のもっとも貴重なたまものであり、両親自身の善のためにも大いに寄与します。『人がひとりでいるのはよくない』(創世記2∙18)といわれ、『初めから人間を男と女に造られた』(マタイ19∙4)神自ら創造のわざに人間を参加させようと望み、『産めよ、増えよ』(創世記1∙28)といって、男と女を祝福されました。したがって、婚姻のその他の目的をないがしろにするわけではありませんが、真の夫婦愛の実行と、それに基づく家庭生活の全構造は、夫婦が勇気をもって創造主と救い主⸺すなわち、彼らを通して神の家族をふやし、富ませるかた⸺の愛に協力する心構えを持つようになることに向けられています」176。
[1653]
夫婦の愛の実りは、両親が教育によって子供たちに伝える倫理的、精神的、超自然的生命の実りにまで及びます。両親は子供の最初の主要な教育者です177。この意味で、結婚と家族との基本的任務はいのちに奉仕することなのです178。
[1654]
ところで、夫婦は神から子供を授からなくとも、人間としてまたキリスト者として、十分に意義ある夫婦生活を送ることができます。このような夫婦の結婚生活は、愛、受容、奉仕の実を結ぶ輝かしいものとなりえます。
[1655]
キリストはヨセフとマリアとによって構成される聖家族の庇護の中で生まれ、育てられることを望まれました。教会は「神の家族」にほかなりません。当初から、教会の中核はしばしば、「一家をあげて」信者となった人々によって構成されていました179。彼らは信者になると、「一家こぞって」救われることを望みました180。信者となったこれらの家族が、不信仰者の間でのキリスト教生活の拠点であったのです。
[1656]
しばしば信仰とは無縁で敵意さえ持つ現代社会にあって、信者の家族は生き生きと輝く信仰の家庭としてきわめて重要なものです。このためにこそ、第2バチカン公会議は、昔のことばを用いて、家族を家庭教会と呼んでいます181。家族の庇護の中で、両親は「ことばと模範をもって子供たちのために信仰の最初の使者となり、子供のおのおのに特有な召命を育て、とりわけ聖職の召命を特別な配慮をもってはぐくむようにしなければなりません」182。
[1657]
家庭は、父親、母親、子供、および家族全員が、「諸秘跡の拝受、祈り、感謝、聖なる生活のあかし、自己放棄、行動的な愛をもって」183信者の共通祭司職を行使する、最適の場所です。したがって、家庭はキリスト教的生活の最初の学校、「豊かな人間形成の学校」184なのです。そこでわたしたちは、忍耐力、仕事の喜び、兄弟愛、寛容で幾度も繰り返されるゆるし合い、そしてとくに、祈りや自分のいのちをささげることによる敬神を学びます。
[1658]
このほかに、何らかの事情のために、多くの場合は不本意ながら、独身生活を送ることを余儀なくされた多くの人たちがいます。彼らはとくにイエスが愛しておられる人々であり、それだけに、教会とくに司牧者の温かい配慮を受けるに値する人たちです。彼らの多くは貧困のゆえに普通の家族を持たない人たちです。その中には真福八端の精神に従い、神と隣人とに模範的に仕えながら自分たちの境遇を生きていく人たちもいます。これらのすべての人に、「家族教会」としての家族の扉を、そして大きな家族である教会の扉を開かなければなりません。「世界に家庭のない人はいないはずです。教会はすべての人にとって、とくに『疲れた者、重荷を負う者』(マタイ11∙28)にとって、家庭であり家族です」185。
[1659]
聖パウロは、「夫たちよ、キリストが教会を愛〔され〕たように、妻を愛しなさい。……この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5∙25,32)といっています。
[1660]
結婚の契約によって一人の男と一人の女とがいのちと愛とによる親密な共同体を形づくりますが、この結婚は創造主によって設立され、独自の法則を与えられています。結婚は本質的に夫婦の善益と子供の出産および教育とに向けられています。受洗者同士の結婚は主キリストによって尊い秘跡にまで高められました186。
[1661]
結婚の秘跡は、キリストと教会との一致のしるしです。この秘跡によって、夫婦に、キリストがご自分の教会を愛されたその愛で互いに愛し合う恵みが与えられます。したがって、結婚の秘跡の恵みは夫婦の人間的愛を完成し、二人の不解消の一致を強め、永遠のいのちに向かう道の途上で夫婦を聖化します187。
[1662]
結婚は配偶者間の合意、すなわち、忠実で出産に開かれた愛の契約を生き抜くために、相互に決定的に自己を与え合うという意志の上に成り立ちます。
[1663]
結婚によって夫婦は教会の中での公の生活身分を持つことになるので、結婚式は、司祭(または教会の有資格の証人)と複数の証人、および信者会衆の前で、典礼儀式に従って公に行われます。
[1664]
単一性、不解消性、出産に開かれた心というものは、結婚の本質に属することです。一夫多妻は単一性とは相いれません。離婚は神が合わされたものを離すことです。出産の拒否は、結婚の「もっとも貴重なたまもの」である子供の出産に向けられた夫婦生活をゆがめるものです188。
[1665]
離婚者が配偶者の存命中に再婚することは、キリストが教えられた神の計画とおきてとに背きます。このように再婚した者は教会から離れたわけではありませんが、聖体拝領はできません。彼らは子供たちの信仰を育てることによってキリスト者としての生活を送ります。
[1666]
キリスト教的家庭は、子供たちが信仰の最初の告知を受ける場です。それゆえに、家族的な家庭はまさしく「家庭教会」と呼ばれます。それは、恵みと祈りとの共同体、人間的諸徳とキリスト教的愛とを教える学校です。
[1667]
「聖にして母なる教会は、そのほかに準秘跡を制定しました。これは、秘跡になぞらえて定められた聖なるしるしであって、これによっておもに霊的効果が表され、教会の祈りによってそれが与えられるものです。準秘跡は、人々に秘跡の主たる効果を受ける心構えを持たせ、また、これによって生活の種々の状況が聖化されるのです」1。
[1668]
準秘跡は教会によって制定されたもので、それは教会のさまざまな奉仕職、人々の多様な生活身分、キリスト者の生活のきわめて多岐におよぶ状況、および人間に役立つ事物の使用を聖化するためのものです。準秘跡はまた、司教の司牧的決定に従い、一地方あるいは一時代のキリスト者に固有の文化や歴史の必要にこたえることができるものです。準秘跡はつねに祈りを含み、しばしば、按手、十字架のしるし、聖水の注ぎ(洗礼の想起)などの一定のしるしを伴います。
[1669]
準秘跡が誕生した要因は、洗礼に基づく信者の共通祭司職にあります。すなわち、すべての受洗者は自分自身が祝福となり2、他の人々を祝福するように3召されています。したがって、信徒も若干の祝福を行うことができます4。祝福が教会的、秘跡的生活にかかわる度合いに応じて、その司式は叙階された役務者(司教、司祭または助祭)に限られてきます5。
[1670]
準秘跡は秘跡のように聖霊の恵みを授けるものではありませんが、教会の祈りによって人が恵みを受け、それにこたえるための準備をさせてくれるものです。「よい心構えを持った信者のために、生涯におけるほとんどあらゆる出来事を聖化する働きを持っています。これは、キリストの受難と死と復活の神秘からわき出る神の恩恵によるものであって、すべての秘跡と準秘跡はその力をこの神秘からくみ取るのです。実に、物質的なものが正しく使用されれば、人間を聖化し、神を賛美する目的に向けることができないものはほとんどありません」6。
[1671]
準秘跡の中には、まず祝福(人、食事、物、場所の)があります。すべての祝福は神への賛美であり、そのたまものをいただくための祈りです。キリスト者はキリストにおいて、父である神から、「あらゆる霊的な祝福で」(エフェソ1∙3)祝福されています。そのため教会は、イエスのみ名を呼び求め、通常はキリストの十字架の聖なるしるしをしながら祝福を与えます。
[1672]
ある種の祝福は永続的な効果を持ち、ある人々を神のために奉献し、物や場所を典礼的なことだけのために使用できるようにさせます。人に関するもの⸺叙階の秘跡のものとは異なる⸺の中には、修道院の男女院長の祝福、おとめとやもめの奉献、修道誓願式、教会のある種の奉仕者(朗読奉仕者、祭壇奉仕者、カテキスタなど)の祝福などがあります。物に関する祝福の例としては、教会堂や祭壇の奉献ないし祝福、聖油、祭器具や祭服、鐘などの祝福が挙げられます。
[1673]
教会がイエス・キリストのみ名により、公に権威をもって、人あるいは物が悪魔の支配から保護され、その支配力から引き離されることを求める式は、祓魔式と呼ばれます。イエスはそれを実行なさいました7。教会は、イエスから祓魔の権能と務めを受けています8。簡単な形では洗礼式のときに行われます。「大祓魔」と呼ばれる盛儀祓魔式は、司教の許可を得た司祭だけが行います。それは、教会が定めた規則を厳守して、慎重に行われなければなりません9。祓魔式の狙いは悪魔を追放し、悪魔の支配から解放することにありますが、これはイエスがご自分の教会にゆだねられた霊的権能によるものです。病気、とくに精神的病気の場合は祓魔式を行わず、医学的治療にゆだねます。したがって、祓魔を行う前に、当人の苦しみの原因が病気ではなく、悪魔の働きであることを確かめる必要があります。
[1674]
カテケージスを行う際には、秘跡の典礼や準秘跡のほかに、信者たちの信心や民間信仰の問題についても考慮しなければなりません。キリスト者の宗教的感情は教会の秘跡生活を中心にしながら、多様な信心業となって表れました。たとえば、聖遺物の崇敬、聖所訪問、巡礼、行列、十字架の道行、宗教舞踊、ロザリオ、メダイなどです10。
[1675]
これらの信心業は教会の典礼生活の延長ですが、これにとって代わるものではありません。「これらの行事は、典礼季節を考慮して規整されるべきであって、典礼に合い、なんらかの意味で典礼に由来し、また典礼に信徒を導くものでなければなりません。典礼は本質的に、これらの行事にはるかにまさるものだからです」11。
[1676]
民間信仰を維持し支援するには、司牧的識別が必要です。必要があれば、信心業のもととなっている宗教的感情を浄化し、矯正し、キリストの神秘についての知識を深めるようはからなければなりません。信心業の実践は、司教の配慮と判断、ならびに教会の一般的規範とに基づいて行われます
12。
「民間信仰は、本質的には、存在に関する大きな疑問にキリスト教的知恵をもって答える、さまざまな価値あるものから成り立っています。カトリック大衆の良識には、新しい生き方を作り上げる能力があります。すなわち、神的なものと人間的なもの、キリストとマリア、精神と肉体、任意の集まりと制度、個人と集団、信仰と祖国、知性と感情とを、創意をもって結び合わせます。この知恵は、いわばキリスト教的ヒューマニズムであり、神の子としてのすべての者の尊厳を徹底して承認し、根本的な兄弟愛を打ち立て、大自然に出合うことを学ばせ、労働を理解することを教え、過酷な生活のただ中にあっても喜んで機嫌よく生きるための理由を教えてくれます。この知恵はまた、大衆にとっては識別原理であり、福音的な本能のようなもので、この本能によって、大衆は、教会の中でいつ福音が尊重され、他の利益のためにいつその福音が空虚なものにされ、抑えつけられてしまうのかを自然に識別するのです」13。
[1677]
準秘跡とは、教会によって制定された聖なるしるしであり、人々が秘跡の実りを受けることができるように準備させ、生活の多様な状況を聖化することを目指すものです。
[1678]
準秘跡の中で重要な地位を占めるものは、祝福です。祝福には、そのわざとたまものとに対する神への賛美と、人々が福音の精神に従って神のたまものを用いることができるようにという教会の執り成しの祈りとが含まれています。
[1679]
キリスト者の生活は、典礼のほかにも、さまざまな文化に根ざした多様な民間の信心業によって養われています。教会は信心業を信仰の光に照らして促進するように留意しながら、福音的な発想と人間の知恵を表し、キリスト教的生活をより豊かにする、種々の民間信仰を大切に見守っています。
[1680]
すべての秘跡、とくにキリスト教入信の秘跡の目的は、神の子らの最後の過越、すなわち死を通して神の国のいのちに入らせる過越にあります。そのとき、本人が信仰と希望とをもって行っていた「死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む」14という宣言が成就されるのです。
[1681]
死のキリスト教的意義は、わたしたちの唯一の希望の源であるキリストの死と復活という、過越の神秘に照らして明らかにされます。キリスト・イエスに結ばれて死ぬキリスト者は、からだを離れて主のもとへ向かう存在となるのです15。
[1682]
キリスト者は死の日に秘跡的生活の終点に達しますが、そのとき、洗礼によって始められた新しい誕生が完成され、聖霊の働きによって形づくられた「御子の似姿」が完全に実現され、エウカリスチアにおいて前もってあずからせていただいていた神の国のうたげに実際に参加させていただきます。しかし、婚礼の衣装をまとうためには死後の清めが必要な場合があります。
[1683]
教会は、この世の旅路をたどるキリスト者に秘跡を授けて、母として彼らを腕に抱いていましたが、旅路の終わりには当人に付き添い、「御父のみ手に」ゆだねます。キリストにおいてその恵みの子を御父にささげ、栄光のうちに復活するであろうからだの種子を希望のうちに埋葬します16。この奉献はエウカリスチアのいけにえによって完全な形で行われます。その前後に行われる祝福が、準秘跡です。
[1684]
キリスト教葬儀は、教会の典礼祭儀です。そこで教会の奉仕職が目指すのは、故人との生きた交わりを表すと同時に、参列者を葬儀に集まった共同体の仲間に加え、彼らに永遠のいのちを告げ知らせるということです。
[1685]
葬儀のやり方にはいろいろな方法がありますが、どれもがキリスト教的死の過越としての特徴を表すものです。また祭服の色などに関しても各地方の状況と伝統とに順応した方法がとられることになっています17。
[1686]
ラテン典礼の葬儀式次第には、三種類の葬儀の方法が提示されています。それは、三つの場所(家、教会堂、墓地)での式次第で、家族、土地の風習、文化、民間信仰などがそれらの場所に寄せる思いの度合いに沿えるものとなっています。式の展開はすべての典礼伝承に共通で、四つのおもな部分から構成されています。
[1687]
共同体による迎え入れ。式は信仰を表すあいさつによって始められます。死者の近親者が「慰めの」(新約聖書の、希望における聖霊の力という意味の18)ことばで迎えられ、集まって祈る共同体は、さらに「永遠のいのちのことば」を待ちます。共同体の一員の死(あるいは命日、七日目、三十日目など)は、「この世」の視野を超えて、復活されたキリストへの信仰の真の視野に信者を導き入れるべき出来事です。
[1688]
葬儀の際のことばの典礼のためには、参列者の中には教会にあまり来ない信者や、故人の友人でキリスト者でない人々がいるだけに、とくに入念な準備が必要です。説教は、雄弁な弔辞の形式を避け19、復活されたキリストの光によってキリスト教的死の神秘を明らかにすべきです。
[1689]
エウカリスチアのいけにえ。葬儀が教会堂で行われる場合には、エウカリスチアがキリスト教的な死という過越の現実の中心となります20。このとき、教会は故人との生きた交わりを表します。つまり、聖霊において、キリストの死と復活のいけにえを御父にささげながら、教会の子供である故人が罪とその結果から清められ、過越をまっとうして神の国の食卓にあずかることができるように、御父に願い求めます21。このように行われるエウカリスチアによって、信者の共同体、とくに故人の家族は、故人が生きた一員として属するキリストのからだと一致し、故人のために、また故人とともに祈りながら、「主に結ばれて眠った」者と一致して生きることを学ぶのです。
[1690]
死者への
告別(多くのラテン系のことばでは、「神のもとへ」という意味の語が用いられています)とは、教会によって故人が神にゆだねられることです。それは、「キリスト者の共同体が自分たちの一員の遺骸が埋葬される前に行う最後のあいさつ」なのです
22。東方教会の伝承は、死者に別れの接吻をしてこれを表します。
この最後のあいさつで、「この世からの出発と別れのための歌が歌われますが、それは、たとえ死んでも、わたしたちは互いに離れることはなく、交わりと再会があるからなのです。わたしたちは皆、同じ道を歩み、同じ場所で再会します。わたしたちは、決して離れることがありません。キリストのために生きているからです。そして今、キリストに向かって歩みながらキリストに結ばれているわたしたちは……、皆、キリストに結ばれて一緒になるのです」23。
[1363xn+記念xn-とは、聖書的には、過去の出来事を単に想起することではなく、神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することを意味しますn188。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます。イスラエル人たちは、エジプトからの解放を記念する過越祭を行うたびに、それによって自分たちの生活が活性化できるように、解放の出来事が信者たちの記憶の中によみがえってくる、と理解しています。]