[1077]
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1∙3-6)。
[1078]
祝福(賛美)とは御父を源とする神的働きで、いのちを与えるものです。神の祝福は、ことばとたまものとが一体となったもの(εὐよく-λογίαいうこと〈エウ - ロギア〉)です。人間が神を賛美する(祝福する)という表現は、感謝を込めて創造主を礼拝し帰依することを意味します。
[1079]
時の始めから終わりに至るまで、すべての神のみわざは祝福なのです。最初の創造を述べる詩から天上のエルサレムで歌われる賛歌に至るまで、聖書記者たちは救いの計画を神の尽きることのない祝福として告げています。
[1080]
創造の初めから、神はいのちある者、とくに男と女を祝福されました。ノアおよびすべての生き物と交わされた契約は、地を「のろわれたもの(悪くいわれたもの)」とした人間の罪にもかかわらず、繁殖の祝福を新たにします。そして、アブラハムに至って初めて、神の祝福は死に向かいつつあった人類の歴史に浸透し、これをいのちに、その源に戻らせることをはかり、この祝福を喜んで受け入れた「信じる者の父」であるアブラハムの信仰によって、救いの歴史が始まったのです。
[1081]
神の祝福は、驚くべき救いをもたらす出来事に現れます。イサクの誕生、エジプト出国(過越と脱出)、約束の地の付与、ダビデの選び、神殿における神の臨在、清めの流滴と「わずかな残りの者」の帰国など。選ばれた民の典礼を織り成す律法の書、預言書、および詩編は、このような神の祝福を想起させると同時に、それにこたえる賛美と感謝の祝福の祈りなのです。
[1082]
教会の典礼の中で、神の祝福は全面的に明らかにされ、伝えられます。すなわち、御父は創造と救いのすべての祝福の泉ならびに目的として認められ、礼拝されます。わたしたちのために人となり、死んで復活されたみことばにおいて、御父はわたしたちを祝福で満たし、みことばによって、わたしたちの心にすべてのたまものの最高のもの、聖霊を注がれます。
[1083]
こうして、御父がわたしたちに与えられる「霊的祝福」への信仰と愛の応答である、キリスト教典礼の次の二面が分かってきます。すなわち、一方では、教会はキリストに結ばれ、聖霊に動かされて2、礼拝と賛美と感謝により、「ことばではいい尽くせない贈り物」(二コリント9∙15)のゆえに神を祝福します。他方、教会は神の計画が完全に成就するまで、「神がお与えになった供え物」をたえず御父にささげ、その供え物の上に、教会の上に、信者たちとすべての人々の上に聖霊を遣わしてくださるよう懇願します。それは、祭司キリストの死と復活に一致することによって、また聖霊の力によって、この神の祝福が「神〔の〕輝かしい恵みをたたえる」(エフェソ1∙6)いのちの実を結ぶようになるためです。
[1084]
「御父の右に座し」、教会であるご自分のからだに聖霊を注がれた今、キリストは恵みを分かち与えるために制定された諸秘跡を通して行動されます。秘跡とは、人間であるわたしたちの力でもとらえられる感覚的なしるし(ことばと行い)であり、キリストの働きと聖霊の力とによって、しるしが表す恵みを効果的に与えるものです。
[1085]
教会の典礼にあって、キリストはおもにご自分の過越の神秘を示し、実現されます。この世に生きておられた間、イエスはご自分の過越の神秘を教えによって予告し、行動によって先取りしておられました。ご自分の時が到来すると3、イエスは「ただ一度」だけ死んで、埋葬され、死者の中から復活し、御父の右にお座りになりました(ローマ6∙10、ヘブライ7∙27、9∙12 参照)。歴史の中でこれだけが過ぎ去ることのない出来事です。これは、人類の歴史に起こった実際の出来事ですが、比類のない出来事です。歴史の他のあらゆる出来事は一度起これば過ぎ去り、過去の中に飲み込まれてしまいます。これに反して、キリストの過越の神秘はただ過去の出来事にとどまるものではありません。ご自分の死によって死を滅ぼされたからであり、さらに、キリストの存在のすべて、またあらゆる人々のために行い苦しまれたすべてが、神の永遠にあずかり、こうして、すべての時にまたがって、そのうちに現存させられるからです。キリストの十字架上の死と復活の出来事は永続し、いっさいをいのちに引き寄せます。
[1086]
「したがって、キリストは、ご自分が御父より遣わされたと同じく、聖霊に満たされた使徒たちをお遣わしになりました。それは、彼らがすべての造られた者に福音をのべ伝えるためだけではありませんでした。すなわち、神の御子がご自身の死と復活によって、わたしたちをサタンの力と死より解放し、御父の国に移されたことを告げるためばかりでなく、彼らが告げた救いのわざが、全典礼生活の中心である犠牲と諸秘跡を通して、彼らによって行われるためでもありました」4。
[1087]
このように、復活したキリストは使徒たちに聖霊を与えながら、聖とするご自分の権能を彼らにゆだねられました5。使徒たちは、キリストの秘跡的しるしとなったわけです。同じ聖霊の力によって、使徒たちはこの権能を後継者たちにゆだねます。この「使徒継承」が教会の典礼活動全体を支える土台であり、それは叙階の秘跡によって伝えられます。
[1088]
「このような〔キリストの救いのわざを分配し、与えるという〕偉大なわざを成就するため、キリストは、つねにご自分の教会とともにおられ、とくに典礼行為に現存しておられます。キリストはミサの犠牲のうちに現存しておられます。それは、『かつて十字架上でご自分をささげられた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として』司祭のうちに現存するとともに、またとくに、聖体の両形態のもとに現存しておられるのです。諸秘跡のうちにキリストは、ご自身の力をもって現存しておられます。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリストご自身が洗礼をお授けになるのです。キリストはご自身のことばのうちに現存しておられます。それは、聖書が、教会の中で読まれるときは、キリスト自身が語られるからです。なおキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも、現存しておられます。『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18∙20)と約束されたからです」6。
[1089]
「事実、神に完全な栄光が帰せられ、人が聖化されるこのような偉大なわざにおいて、キリストは、ご自分の最愛の花嫁である教会をつねにご自身とともにあらしめ、教会は自らの主を呼び、主によって永遠の御父に礼拝をささげるのです」7。
[1090]
「地上の典礼において、わたしたちは天上の典礼を前もって味わい、これに参加しています。この天上の典礼は、旅するわたしたちが目指す聖なる都、エルサレムにおいて行われており、そこにはキリストが、至聖所と真の幕屋の祭司として、神の右に座しておられます。わたしたちは、天軍のあらゆる軍勢とともに、主に栄光の賛歌を歌い、諸聖人の記念を尊敬して、彼らの交わりにあずかることを望み、われらの生命なる主が現れ、わたしたちも主とともに栄光のうちに現れるときまで、救い主、われらの主イエス・キリストが来られるのを待ち望むのです」8。
[1091]
典礼の中で、聖霊は神の民の信仰の教導者、新約の諸秘跡という「神の傑作」の作者です。教会における聖霊の望みとわざは、わたしたちが復活したキリストのいのちを生きることにほかなりません。聖霊が自ら呼び起こした信仰の応答をわたしたちのうちに見いだされるとき、真の協力が実現されます。この協力によって、典礼は聖霊と教会との共同のわざとなります。
[1092]
キリストの神秘の秘跡による分配の中で、聖霊は救いの営みの他のときと同じようなしかたで働かれます。すなわち、教会をキリストとの出会いに備え、信じる会衆にキリストを思い起こさせ、ご自分の変化させる力によってキリストの神秘を現在化させ、最後には、交わりの霊として、教会をキリストのいのちと使命とに結びつけます。
[1093]
聖霊は、秘跡による救いの営みの中で、旧約の予型を成就します。キリストの教会は「イスラエルの民の歴史と旧約を通してくしくも準備され」9ましたので、教会の典礼は、以下のような旧約の礼拝形式を、かけがえのない一つの構成要素として維持しています。
⸺とくに、旧約聖書の朗読。
⸺詩編の祈り。
⸺もっとも大切にしているのが、キリストの神秘のうちに実現した救いの出来事と象徴的なことがら(約束と契約、エジプト脱出と過越、王国と神殿、バビロニア捕囚と帰国)の記念。
[1094]
以上のように、旧約と新約とを結び合わせながら10、キリストご自身のカテケージス11、そして使徒たちや教父たちのカテケージスが行われています。旧約聖書の文字に隠されていたキリストの神秘を明るみに出す形式のこうしたカテケージスは、「予型論的カテケージス」と呼ばれています。それは、旧約の出来事、ことばと象徴の中でキリストを告げていた「前表(予型)」に基づいて、キリストの新しさを示すからです。このように、キリストを基にして、真理の霊によって読みなおすとき、前表(予型)の意味が明らかにされます12。たとえば、ノアの洪水は洗礼による救いの前表であり13、雲と紅海の横断もまた、同様です。岩からわき出る水はキリストの霊的たまものの前表でしたし14、砂漠のマナは「天からのまことのパン」(ヨハネ6∙32)である聖体の前表でした。
[1095]
以上の理由で、教会は、とくに待降節と四旬節、わけても復活徹夜祭で、救いの歴史のすべての重大な出来事を典礼の「今日」という場に立って読み直し、追体験します。しかし、それが実際に効果あるものとなるためには、教会の典礼が表現し体験させている救いの営みを「霊的に」理解できるように、カテケージスを通して信者を助けることが必要です。
[1096]
ユダヤ教典礼とキリスト教典礼。今日でもなおユダヤ教徒が大切にしている彼らの信仰と宗教生活とをよく知ることは、キリスト教典礼のある部分のよりよい理解に役立ちます。ユダヤ教徒にとってもキリスト教徒にとっても、聖書はそれぞれの典礼の本質的部分です。神のことばを宣言し、このことばに応答し、賛美の祈りと生者・死者のための取り次ぎの祈りとをささげ、神のあわれみに訴えるため、聖書が用いられます。ことばの典礼は、その本来の構造としてはユダヤ教の祈りを起源としています。時課の祈り(聖務日課)や他の典礼文、さらに、「主の祈り」をはじめとするわたしたちのもっとも大切な祈りの形体もが、ユダヤ教の祈りと類似しています。感謝の祭儀の奉献文もまた、ユダヤ教伝承の形式に着想を得ています。ユダヤ教典礼とキリスト教典礼との関係、また両者の内容の相違は、とくに過越祭のような典礼暦上の大祝日に顕著に表れます。キリスト教徒とユダヤ教徒は過越祭を祝いますが、ユダヤ教徒は将来に向かう歴史的出来事としての過越を祝い、キリスト教徒はキリストの死と復活とによって成就された過越を、その決定的完成を将来に向けて待望しながら祝うのです。
[1097]
新約の典礼では、すべての典礼行為、とくに感謝の祭儀や諸秘跡の挙行が、キリストと教会との出会いの場となっています。典礼集会は、神の子らをキリストの唯一のからだを集める「聖霊の交わり」によって一つに結ばれます。この交わりは人間的、人種的、文化的および社会的近縁関係を超越するものです。
[1098]
集会はキリストとの出会いに自らを準備し、準備のできた民とならなければなりません15。この心の準備は聖霊と会衆、とくに奉仕者たちとの共同のわざです。聖霊の恵みが目覚めさせようとしているものは、信仰、回心、御父のみ旨への従順です。これらの心構えは、典礼の中で与えられるその他の恵みを受ける前提であり、典礼から生じるはずの新しいいのちの実の前提でもあります。
[1099]
聖霊と教会とは協力して、典礼の中にキリストとその救いのわざとを表します。第一義的にはエウカリスチアでの、類比的にはその他の諸秘跡での典礼は、救いの神秘の記念祭です。聖霊は教会の生きた記念(過越の出来事を生き生きと想起させてくださるかた)です16。
[1100]
神のことば。聖霊はまず典礼集会において神のことばにいのちを与えて、救いの出来事の意味を想起させてくださいます。神のことばが告知されるのは、それを受け入れて生きるためです。
「典礼行事にとって、聖書はもっとも重要なものです。聖書から朗読が行われ、これが説教によって説明されます。聖書から詩編が歌われ、聖書の息吹と感動から典礼の祈りや祈願や聖歌がわき出たのであり、また聖書から行為のしるしはその意義を受けるのです」17。
[1101]
聖霊は朗読者と会衆に、それぞれの心のあり方に従って神のことばを霊的に理解させます。聖霊は典礼を形づくることばと行為と象徴とを通して、信者と役務者たちを御父のことばであり姿であるキリストとの生きた交わりに導き入れ、こうして一同は、典礼の中で聞き、観想し、行っていることの意味を、それぞれの生活のうちに具現することができるようになります。
[1102]
「救いのことばによって……信者の心に信仰を養うのです。そしてこの信仰によって信者の集まりが始まり、また育つのです」18。神のことばの告知は教えることにとどまらず、神とその民との契約を目指す同意と誓約としての信仰の応答を求めます。また、聖霊こそ信仰の恵みを与え、これを強め、共同体の中で成長させます。典礼集会は何よりも、信仰の交わりなのです。
[1103]
アナムネシス(Ἀνάμνησις記念)。典礼祭儀は人類の歴史の中に介入された神の救いのわざをいつも反映します。「啓示の経給は互いに関連したわざとことばをもってなされ、……ことばはわざを表示し、その中に含まれている神秘を明らかにします」19。ことばの典礼で、聖霊は会衆に、キリストがわたしたちのために行われたすべてのことを「想起させます」。諸教会のそれぞれの典礼行為とさまざまな伝統的祭儀に応じて、典礼は、程度の差こそあれ、アナムネシスの中で神の偉大なわざを「思い出させます」。こうして、教会の記憶を目覚めさせる聖霊は、そこで感謝と賛美(ドクソロギア Δοξολογία)を行うようにも仕向けてくれるのです。
[1104]
キリスト教典礼は、わたしたちの救いの出来事を単に思い出させるだけではなく、これを現在化します。キリストの過越の神秘は祝われますが、繰り返されるのではありません。繰り返されるのは祭儀です。祭儀が繰り返されるたびに、そこに聖霊が注がれ、聖霊が一回限りの神秘を現在化してくれるのです。
[1105]
エピクレシス(Ἐπίκλησις「その上に呼び求めること」)といわれる祈りは、供え物がキリストのからだと血になり、それを拝領する信者が神への生きた供え物となるために、聖とする霊を遣わしてくださるように御父に願う司祭の祈りです。
[1106]
エピクレシスは、アナムネシスと同様に、各秘跡の祭儀、とくにエウカリスチア(感謝の祭儀)の核心を成すものです。
「あなたは、どうしてパンがキリストのからだ、また……ぶどう酒がキリストの血となるのかと質問するのですか。わたしがあなたに答えます。聖霊がくだり、すべてのことば、すべての考えを超えることを成し遂げられるのです。……あなたはそれが聖霊によって行われると聞いただけで満足しなさい。それは、聖霊によって、おとめマリアを通して主自らご自分のうちに肉体をとられたのと同じことなのです」20。
[1107]
典礼において変化を行う聖霊の力は、み国の到来と救いの神秘の完成を早めます。聖霊はわたしたちに、待望と希望のうちに聖三位との完全な交わりを実際に先取りさせてくださいます。教会のエピクレシスを聞き入れられる御父から遣わされた聖霊は、ご自分を受け入れる者たちにいのちを与え、すでに今から、彼らにとってみ国を受け継ぐ「保証」21となられます。
[1108]
すべての典礼行為における聖霊の使命は、わたしたちをキリストとの交わりに導き、そのからだを形づくることです。聖霊は、枝に実を結ぶ御父のぶどうの木の樹液のようなものです22。典礼の中では、聖霊と教会との間にもっとも緊密な協力が実現されます。交わりの霊としての聖霊が教会のうちにいつまでもとどまっておられるので、教会は四散した神の子らを集める神的交わりの大いなる秘跡なのです。典礼における霊の働きの成果は、聖三位ならびに兄弟たちとの交わりと切り離せないものです23。
[1109]
エピクレシスはまた、会衆が実際にキリストの神秘に完全にあずかることを求める祈りでもあります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」(二コリント13∙13)はつねにわたしたちとともにあって、感謝の祭儀が終わった後も実をもたらすものでなければなりません。したがって、教会は聖霊を派遣してくださるように御父に祈ります。それは、聖霊が信者をキリストの姿に霊的に変容させることによって、信者の生活を神への生きた供え物とし、信者を教会の一致に心掛けさせ、またあかしと愛の奉仕とによってキリストの使命にあずからせてくださるためです。
[1110]
教会の典礼においては、創造と救いとにおけるすべて祝福の源としての、父である神への感謝と礼拝とが行われます。父である神は、子とする霊をわたしたちにお授けになるためにこれらの祝福を御子においてわたしたちにお与えになりました。
[1111]
典礼におけるキリストのわざが秘跡的であるのは、その救いの神秘が聖霊の力によって典礼のうちに現在化され、また、教会であるキリストのからだが、いわば聖霊が救いの神秘を配分される秘跡(しるしと道具)だからであり、さらに、旅する教会がその典礼行為によってすでに天上の典礼にあずかり、あらかじめこれを味わっているからなのです。
[1112]
教会の典礼における聖霊の使命は、会衆をキリストとの出会いに備えさせ、会衆にキリストを想起させ、示し、変化させる力によってキリストの救いのわざを現在化し、また、教会に交わりのたまものを実らせることにあります。
[1113]
教会のすべての典礼生活は、エウカリスチアのいけにえと諸秘跡とを中心として動いています24。教会には七つの秘跡、すなわち、洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚があります25。この項では教理の観点から教会の七つの秘跡に共通する面を述べます。祭式の面から共通なものは第2章で取り扱い、それぞれに固有なことは第2部で述べることにします。
[1114]
「聖書の教え、使徒伝承……および教父たちの一致した見解に従い」26、わたしたちは「新約の諸秘跡の全部が、わたしたちの主イエス・キリストによって制定された」27と宣言します。
[1115]
ナザレでの生活や宣教活動の間のイエスのことばと行いは、それ自体救いをもたらすもので、イエスの過越の神秘の力を先取りしていました。これらは、すべてが成し遂げられた後、キリストが教会に与えられるものを予告し、準備していたのです。キリストの生涯の諸神秘は、後にご自分の教会の役務者を通して諸秘跡の中でキリストが分け与えられるものの基本となっています。事実、「わたしたちの救い主の言行として書き記されていることは、諸秘跡の働きへと移し変えられたのです」28。
[1116]
諸秘跡は新しい永遠の契約における「神の傑作」であって、それはつねに生き続け生かし続けるキリストのからだから「出る力」29、キリストのからだである教会の中における聖霊の働きなのです。
[1117]
神の神秘の忠実な管理者である教会は、「真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16∙13)ために導かれる聖霊によって、聖書の正典と信仰の教えばかりでなく、キリストから受けたこの宝を徐々に悟り、それがどのように「分配」されるべきかを明らかにしてきました30。このようにして、時代がたつにつれ、教会は典礼祭儀の中にキリストによって制定された厳密な意味での秘跡が七つあるのを認めるようになりました。
[1118]
諸秘跡は、二重の意味で、つまり「教会による」また「教会のための」という意味で、「教会の」秘跡です。「教会による」というのは、教会が、聖霊の派遣を受けてそこで働くキリストのわざの秘跡であるからです。「教会のための」というのは、諸秘跡が「教会をつくる秘跡」であるという意味です31。諸秘跡は、とりわけエウカリスチア(聖体)の秘跡において、愛である三位一体の神の交わりの神秘を人々に示し、分け与えてくれるからです。
[1119]
教会は頭であるキリストと「唯一の神秘的なペルソナ」32を形づくりながら、秘跡の中で「有機的に構成された」「祭司的共同体」33として行動します。洗礼と堅信とによって、祭司的民は典礼を祝うにふさわしいものとなります。他方、ある信者たちは聖なる叙階を受け、「神のことばと恩恵をもって教会を牧するために、キリストの名において立てられるのです」34。
[1120]
叙階された奉仕職、すなわち「奉仕的祭司職」35は、洗礼による祭司職に奉仕するものです。この奉仕職は、諸秘跡を通して、キリストが聖霊によって教会のために働くことを保証します。御父が人となられた御子にゆだねられた救いの使命は、使徒たちに、また使徒を通してその後継者たちにゆだねられています。後継者たちはイエスの霊を受け、イエスの名によって、イエス自身として行動します36。このように、叙階された奉仕者は、典礼行為を使徒たちが語り行ったことに結びつけ、また、使徒たちを通して、秘跡の源であり土台であるキリストが語られ行われたことに結びつける、秘跡的なきずななのです。
[1121]
洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、恵みのほかに、秘跡的な霊印つまり「しるし」を与えますが、これによって、キリスト者はキリストの祭司職にあずかり、それぞれの身分や役職に従って教会の一部を成すようになります。ひとたび聖霊によってキリストと教会の姿を刻まれたキリスト者は、神の恵みとその保護の約束と保証を受ける資格37、神礼拝と教会奉仕への召命を与えられます。この霊印はいつまでも残り、消えることはありません。したがって、これらの秘跡は生涯に一度しか受けることができません。
[1122]
キリストが使徒たちを派遣されたのは、「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に」(ルカ24∙47)のべ伝えられるためです。「すべての民に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、……教えなさい」(マタイ28∙19)とキリストはいわれました。洗礼の秘跡を授けるために遣わされるということは、福音を宣教するために遣わされるということに含意されています。というのは、秘跡は
神のことばとそのことばに同意する信仰とによって準備されるからです。
「神の民はまず生ける神のことばによって集められます。……ことばの宣教が諸秘跡の授与のために必要です。諸秘跡は信仰の秘跡であって、信仰はことばから生まれ、ことばによって養われるからです」38。
[1123]
「秘跡は人々の聖化のため、キリストのからだの建設のため、さらに、神に礼拝をささげるためのものであって、またしるしであることをもって、教育のためにも寄与します。それは信仰を前提とするのみでなく、ことばとものとをもってこれを養い、強め、表すもので、そのため信仰の秘跡といわれます」39。
[1124]
教会の信仰は一人ひとりの信者の信仰に先だつもので、信者はこれを受け入れるように招かれています。教会が諸秘跡を行うとき、使徒たちから受けた信仰を宣言します。したがって、古い金言には「祈りの法は、信仰の法」(〔5世紀の〕アクイタニアのプロスペルの表現を用いると、「嘆願の法が信仰の法を定める」)というものがあります40。すなわち、祈りの法は信仰の法なのです。教会は祈っていることを信じます。典礼は、聖なる生きた伝承の基本的要素の一つなのです41。
[1125]
ですから、どんな秘跡の儀式であっても、司式司祭または信者共同体の好みで変更したり、手を加えたりすることはできません。教会の最高権威者ですら、勝手に典礼を変えることはできません。ただ信仰の要求に従い、典礼の神秘を敬謙に敬うことだけを心掛けるべきなのです。
[1126]
また、秘跡は教会の中での信仰の一致を表し培うものですから、祈りの法はキリスト者の一致を回復するための対話の基本的な一つの基準です42。
[1127]
信仰をもってふさわしく行われる諸秘跡は、それぞれが表す恵みを与えます43。これらが効力を持つのは、そこでキリストご自身が行動なさっておられるからです。洗礼を授け、諸秘跡の中で行動し、諸秘跡が表す恵みをお与えになるのは、キリストご自身なのです。御父は、御子の教会が各秘跡のエピクレシスの中で聖霊の力への信仰を表明している祈りをつねにお聞き入れになります。火が自分に触れるものをすべて火に変えてしまうように、聖霊はご自分の力にゆだねられるすべてのものを神的いのちに変えてくださるのです。
[1128]
そこに、秘跡は「行為が正しく行われるということ自体で(ex opere operato)」効果を生む、という教会の主張の意味があります44。すなわち、秘跡はただ一度行われたキリストの救いのわざによって効力を生じます。したがって、「諸秘跡はそれを授ける人間、あるいはそれを受ける人間の正しさによってではなく、神の力によって成し遂げられる」45のです。ある秘跡が教会の意向に従って行われるとき、キリストとその霊の力が、司式者の個人的聖性のいかんにかかわらず、秘跡の中で秘跡を通して働きます。とはいえ、諸秘跡の実りは秘跡を受ける者の心のあり方にもよる部分があります。
[1129]
教会は、新しい契約の諸秘跡は信者の救いに必要なものであると言明します46。「秘跡による恵み」とはキリストによって与えられる聖霊の恵みで、それぞれ秘跡に固有のものです。聖霊は秘跡を受ける人々を、神の御子に一致させ、いやし、変化させてくださいます。神の子とする霊が信者たちを救い主である御ひとり子のいのちに一致させ、神の本性にあずからせることが47、秘跡に生かされた生活の実りなのです。
[1130]
教会はキリストの神秘の祭儀を「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」(一コリント15∙28)に行います。典礼は、すでに使徒時代から、「
マラナ・タ(主よ、来てください)」(一コリント16∙22)という教会の中での霊のうめきが表すように、終末へと向けられていました。こうして、典礼は、神の国で過越が成し遂げられるまで、「あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた」(ルカ22∙15-16)というイエスの願望にあずかるのです。キリストの諸秘跡において教会は、「祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」(テトス2∙13)を待ち望みながらも、すでにその世継ぎの保証を受け、すでに永遠のいのちにあずかっています。「〝霊〟と花嫁とがいう。『来てください』。……主イエスよ、来てください」(黙示録22∙17,20)。
トマス・アクィナスは秘跡のしるしの多様な面を、次のように要略しています。「秘跡とは、前に起こったこと、すなわち、キリストの受難を記念するしるし、キリストの受難によってわたしたちのうちに行われること、すなわち、恵みを表すしるし、また、将来の栄光を予測する、つまり、前もって告げるしるしです」48。
[1131]
諸秘跡はキリストによって制定され、教会にゆだねられた恵みを実際にもたらすしるしであり、これによって、神的いのちがわたしたちに授けられます。諸秘跡の見える儀式は、各秘跡に固有な恵みを示し、実際に与えます。そして、ふさわしい心の準備をして受ける人々の中で実を結びます。
[1132]
教会は、洗礼による祭司職と叙階された奉仕的祭司職とによって構成された祭司共同体として、秘跡を行います。
[1133]
聖霊は、神のことばと、神のことばをふさわしい心で受け入れる信仰とによって、秘跡に備えさせてくださいます。そしてその準備ができたとき、信仰は秘跡によって強められ、高められます。
[1134]
秘跡に生かされた生活の実りは、個人にも教会全体にも及びます。その実りとは、各信者にとってはキリスト・イエスにおいて神のために生きることであり、教会にとっては愛とあかしの使命において成長することです。