[1212]
キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台となります。「キリストの恩恵が人々にもたらす神との結合は、自然の生命の誕生、成長、維持に多少似ています。それというのも信者は洗礼によって新たに生まれ、堅信の秘跡によって強められ、感謝の祭儀の中で永遠の生命の糧で養われるからであって、こうして人々は、これらキリスト教入信の秘跡によって、しだいに神の生命にますます豊かにあずかり、愛の完成へと進んでいきます」3。
[1213]
聖なる洗礼はキリスト者の生活全体の基礎、霊的生活の扉、他の諸秘跡に導く入り口です。洗礼によってわたしたちは罪から解放され、神の子として生まれ変わり、キリストの肢体となり、教会の一員となって、その使命に参与する者となります4。「洗礼は水とことばによる再生の秘跡です」5。
[1214]
この秘跡は、中心となる儀式に従って洗礼と呼ばれます。「洗礼を行う」という語(ギリシア語でバプティゼインβαπτίζειν)は、「沈める」「浸す」という意味です。水の中に「沈めること」は、洗礼志願者がキリストの死と結ばれて埋葬され、キリストとともに復活して墓から出て6、「新しく創造された者」(二コリント5∙17、ガラテヤ6∙15)となることを意味しています。
[1215]
この秘跡はまた、「聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い」(テトス3∙5)とも呼ばれます。それは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3∙5)といわれている、その水と霊による誕生を意味し、実現するからです。
[1216]
「この水洗いは、
照らしと呼ばれています。このこと(カテケージス)を学んだ人の精神が照らされるからです」
7。洗礼によって「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1∙9 参照)であるみことばを受けた受洗者自身は、「照らされた」後
8、「光の子」
9となり、自分自身が「光」(エフェソ5∙8)となるのです。
洗礼は、「神のたまもののうち、もっとも美しくもっともすばらしいものです。……わたしたちはそれを贈り物、恩恵、洗礼、塗油、照らし、不朽の衣、再生の洗い、霊印、そしてすべてもっとも貴重なものの名で呼びます。贈り物と呼ばれるのは、何も持ってこない人々に与えられるからです。恩恵と呼ばれるのは、罪びとにも授けられるからです。洗礼と呼ばれるのは、罪が水の中に沈められるからです。塗油と呼ばれるのは、塗油される者がすべて聖なる者となり、王とされるからです。照らしと呼ばれるのは、まばゆい光だからです。衣と呼ばれるのは、わたしたちの恥を隠すからです。洗いと呼ばれるのは、清めるからです。霊印と呼ばれるのは、わたしたちを守るもの、神の主権のしるしだからです」10。
[1217]
教会は復活徹夜祭の典礼で、
洗礼水の祝福のとき、洗礼の神秘の前表であった救いの歴史の重要な出来事を荘厳に記念します。
「秘跡のしるしを通して救いの恵みを与えてくださる全能の神よ、あなたは旧約の歴史の中で水によって洗礼の恵みを表してくださいました」11。
[1218]
世界の初めから、この目立たない、しかし、すばらしいものである水は、いのちと豊穰の泉となっています。聖書には、神の霊が水の「面を動いていた」と記されています
12。
「天地の初めに、あなたの霊は水の面を覆い、人を聖とする力を水にお与えになりました」13。
[1219]
教会はノアの箱舟に、洗礼による救いの前表を見ました。この箱舟によって、「数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました」(一ペトロ3∙20)。
「ノアの洪水のとき、水をあふれさせて、罪の終わりと新しいいのちの始まりである洗礼のかたどりとしてくださいました」14。
[1220]
泉の水がいのちの象徴であるのに対し、海の水は死の象徴です。ですから、水は十字架の神秘の象徴となることができました。この象徴によって、洗礼がキリストの死にあずかるものだということが表現されています。
[1221]
とくにイスラエルがエジプトでの奴隷状態から真に解放された紅海通過は、洗礼によって行われる救いを予告するものです。
「アブラハムの子孫がエジプト脱出のとき、海の中に乾いた道を備えて約束の地に渡らせ、ファラオの奴隷から解放して、この民を洗礼を受ける人々のしるしとしてくださいました」15。
[1222]
さらに、ヨルダン川を渡ることも洗礼の前表です。この渡河によって、神の民はアブラハムの子孫に約束された土地をたまものとして受けました。この土地は永遠のいのちの象徴です。この幸いな嗣業の約束は、新しい契約において実現します。
[1223]
旧約時代のすべての前表は、キリスト・イエスのうちに成就されます。キリストは自らヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、公生活をお始めになります16。そして、復活後、イエスは使徒たちに次の使命をお与えになります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28∙19-20)17。
[1224]
キリストは、正しいことをすべて行う18ために、罪びとに授けられるヨハネの洗礼を進んでお受けになりました。イエスのこの行動は、自分を「無にしたこと」19の表れです。最初の創造のとき水の面を覆っていた霊が、そのとき、新しい創造の序曲としてキリストの上にくだり、御父はイエスがご自分の愛する子であることを啓示なさいます20。
[1225]
キリストはその過越によって、洗礼の泉をすべての人に開かれたのです。キリストはエルサレムでの受難を、ご自分が受けなければならない「洗礼」と呼ばれました
21。十字架につけられたイエスの脇腹から流れ出た血と水
22は、新しいいのちの秘跡である洗礼と聖体の象徴です
23。そのときから、人は「水と霊とによって」生まれ、神の国に入ることが可能となったのです(ヨハネ3∙5)。
「あなたがどこで洗礼を受け、洗礼が何に由来するのかを見つめてください。キリストの十字架、キリストの死以外のものからということはありえません。キリストがあなたのために苦しまれたこと、そこにすべての神秘があります。あなたはキリストによってあがなわれ、キリストによって救われるのです。」24
[1226]
聖霊降臨の日以来、教会は聖なる洗礼を授けてきました。聖ペトロは自分の説教によって心を動かされた多くの人々にこう宣言しています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、たまものとして聖霊を受けます」(使徒言行録2∙38)。使徒たちとその協力者たちは、イエスを信じる者であれば、ユダヤ人、神をおそれる人々、異邦人のだれにでも洗礼を授けます25。洗礼はいつも信仰と結びつけられています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と聖パウロがフィリピの看守に言明すると、看守も「家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(使徒言行録16∙31-33)と記されています。
[1227]
使徒聖パウロによれば、信じる者は洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られ、復活します。
「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち〔は〕皆、またその死にあずかるために洗礼を受け〔ました。ですから、〕わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6∙3-4)26。
受洗者は「キリストを着ます」
27。洗礼とは、清め、聖化し、義とする、聖霊による洗いです
28。
[1228]
したがって、洗礼は、神のことばの「朽ちない種」がそのいのちを与える実を結ぶ、水による洗いです29。聖アウグスチヌスは洗礼について、「ことばが物と合わされて、秘跡となる」30といっています。
[1229]
キリスト者になるには、使徒時代から幾つかの段階を踏む入信過程がありました。この段階の進み具合は早い場合も遅い場合もありますが、いずれにせよ、つねに幾つかの基本的な要素を含んでいなければなりません。すなわち、神のことばの告知、回心を伴う福音の受け入れ、信仰宣言、洗礼、聖霊の注ぎ、聖体拝領です。
[1230]
この入信の過程は、時代と状況とによって大きく変遷しました。古代教会の時代、キリスト教入信の過程は著しく発展し、長い求道期の期間中に次々と典礼儀式が行われる中で、求道者の準備が深められ、入信の諸秘跡の儀式へと導かれていました。
[1231]
幼児洗礼が洗礼の通常の形となった地方では、洗礼式はキリスト教入信の予備段階をきわめて簡潔に組み入れた一つの儀式となりました。幼児洗礼はその本質から、洗礼後の求道期が必須となります。これは、ただ洗礼後に教えを説くにとどまらず、子供の成長に応じて洗礼の恵みを開花させていく営みです。これが、カテケージスの本来の場なのです。
[1232]
第2バチカン公会議はラテン典礼の教会で「数段階に分けられる成人の洗礼準備制度」31を復興しました。それが『成人のキリスト教入信式』の儀式書(1972 年)に取り入れられています。さらに、公会議は、「キリスト教伝統のうちに存在するもの以外にも」、宣教地では「各国民の間で使われている入信の諸要素を、それがキリスト教儀式にふさわしいものである限り」32取り入れることを許可しました。
[1233]
したがって、今日では、すべての西方教会および東方教会の典礼では、成人のキリスト教入信は、求道期に入ったときに始まり、洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が一つの儀式で行われるときに最高潮に達します33。東方教会では、子供のキリスト教入信は洗礼で始まり、その直後に堅信と聖体拝領とが続きます。ラテン典礼では、洗礼後に数年にわたるカテケージスがなされた後で、堅信およびキリスト教入信の頂点である聖体を受けて締めくくられます34。
[1234]
洗礼の秘跡の意味と恵みとは、その儀式の中で明確な形で示されています。信者はこの儀式の動作とことばに注意深くあずかるならば、この秘跡が新しい受洗者各自のうちに示し実現する豊かな恵みを受けることができます。
[1235]
洗礼式に先だっ十字架のしるしは、これからキリストに結ばれる者の上にキリストの刻印をしるすものであり、同時に、キリストが十字架上でわたしたちのために得られたあがないの恵みを示すものでもあります。
[1236]
神のことばの宣言は、啓示された教えによって志願者と会衆とを照らし、洗礼とは不可分の信仰の応答ができるようにさせてくれるものです。洗礼は、信仰生活に入る秘跡的な入り口ですから、特別に「信仰の秘跡」なのです。
[1237]
洗礼は罪とその扇動者である悪魔からの解放を意味するものなので、洗礼志願者の上に一つの(あるいは幾つかの)解放を求める祈りが唱えられます。洗礼志願者に塗油ないし司式者の按手が行われ、続いて志願者は明白に悪魔を捨てることを宣言します。このように準備が整ってから、志願者は洗礼によって自分に「ゆだねられる」教会の信仰を宣言することができます35。
[1238]
ついで(このときか復活徹夜祭に)、洗礼水が聖霊の働きを願う祈り(エピクレシス)によって祝福されます。教会は神に、その御子によって聖霊の力がこの水にくだり、この水で洗礼を受ける人々が「水と霊によって」(ヨハネ3∙5)生まれるように願います。
[1239]
この後、秘跡の本質的な部分、厳密な意味での洗礼式が続きます。これは、キリストの過越の神秘にあずかって罪に死に、至聖なる三位一体のいのちに入るようになることを示し、実現するものです。洗礼の意味をもっともよく表すのは洗礼水に全身を三度浸す形式ですが、古代から行われていたように、志願者の頭部に水を三度注いで授けることもできます。
[1240]
ラテン教会では、司式者は、次のことばを唱えながら三度水を注ぎます。「○○さん、わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」。東方典礼では、洗礼志願者は東方を向き、司祭が「神のしもべである○○さんは、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授かります」といいますが、三位のそれぞれのみ名を唱えるたびに、志願者を水に沈め、そして引き上げます。
[1241]
司教が聖別した香油による聖香油の塗布は、新受洗者が聖霊を与えられたことを示すものです。受洗者はキリスト者、すなわち聖霊によって「塗油された者」となり、祭司、預言者、王として塗油されたキリストに合体します36。
[1242]
東方教会の典礼では、洗礼後の塗油は聖香油(堅信)の秘跡となります。ローマ典礼では、この塗油は司教が後に授ける聖香油の第二の塗油、すなわち、堅信の秘跡を前もって告げるものです。堅信の秘跡は、いわば、洗礼の塗油を「確認し」、完成するものです。
[1243]
白衣は、受洗者がキリストを身にまとったこと37、キリストとともに復活したことを象徴します。復活のろうそくからともされたろうそくは、キリストが新信者を照らしてくださったことを示します。キリストに結ばれた受洗者は、「世の光」(マタイ5∙14)なのです38。今や、新受洗者は、御ひとり子に結ばれた神の子です。神の子らの祈りである「主の祈り」を唱えることができるのです。
[1244]
初聖体(拝領)。神の子供となり、婚礼衣装を身につけた新信者は「小羊の婚礼」に招かれ、キリストのからだと血である新しいいのちの糧を受けます。東方教会はキリスト教入信の一体性を強く自覚しているので、すべての受洗・受堅者に聖体を拝領させます。これは幼児の場合も同様で、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」(マルコ10∙14)といわれたキリストのことばを銘記しているからなのです。ラテン教会では分別のつく年齢に達した者だけにしか聖体拝領を認めていませんが、受洗したばかりの幼児を「主の祈り」を唱えるために祭壇に近づけることによって、洗礼と聖体とのつながりを表現しています。
[1245]
洗礼式の終わりには荘厳な祝福が与えられます。幼児洗礼の場合には、母親の祝福が非常に重要視されています。
[1246]
「洗礼を受けることができるのは、未受洗者のすべて、かつ未受洗者のみです」39。
[1247]
教会の初めのころ、福音が告げられて間もない地方では成人に洗礼を授けるのが普通でした。その場合、求道期(洗礼準備)が重要な位置を占めていました。これは信仰とキリスト教的生活への手ほどきの時期で、この期間中に、洗礼と堅信と聖体によって与えられる神のたまものを受けるための準備をすることになっていました。
[1248]
求道期、すなわち、求道者の教育の目的は、その期間にある人々が神の招きにこたえ、教会共同体と一致して、回心と信仰を深めることができるようにすることです。それは「キリスト教的生活全体」の教育の期間であり、それによって「弟子たちは師であるキリストと結び合わせられるのです。それゆえ、求道者は救いの神秘を十分に伝授され、福音に則した生活と、時間をおいて継続的に行われる聖なる儀式とによって、神の民の信仰と典礼と愛の生活に導き入れられなければなりません」40。
[1249]
求道者は「すでに教会と結ばれており、すでにキリストの家のものであり、すでに信仰・希望・愛の生活を営んでいることもまれではないのです」41。「母なる教会は彼らをすでに自分のものとして愛と配慮をもって包むのです」42。
[1250]
原罪によって神の恵みを失い、汚れた人間本性を受けて生まれた幼児もまた、やみの勢力から解放され、すべての人間が召されている神の子らの自由の地に移されるためには43、洗礼によって新たに生まれる必要があります44。幼児洗礼においては、救いの恵みがまったくの無償で与えられることがとくに顕著に示されます。もし、教会と両親とが、生まれて間もなく子供に洗礼を授けないとすれば、神の子となるはかりしれない恵みを子供に与えないことになるでしょう45。
[1251]
キリスト信者である両親は、この習慣が神からゆだねられたいのちの養育者としての役割にこたえるものであることを認めるべきです46。
[1252]
幼児に洗礼を授けるというのは、起源を特定できないほど古い教会の伝統です。すでに2世紀の史料においてはっきりした証明がなされています。使徒による宣教の初めから、「一家全員」が受洗した場合47、子供にも授けたことは十分考えられます48。
[1253]
洗礼は、信仰の秘跡です49。しかし信仰は、信者共同体を必要とします。一人ひとりの信者が信仰を持つことができるのは、教会の信仰があってのことです。洗礼に必要な信仰は完全で成熟した信仰ではなく、成長していく初歩的信仰です。求道者あるいはその代父母は、「あなたは神の教会に何を求めますか」と尋ねられると、「信仰を求めます」と答えます。
[1254]
幼児であれ成人であれ、すべての受洗者の信仰は、洗礼後に成長しなければなりません。そのために、教会は毎年の復活徹夜祭に洗礼の約束を更新します。洗礼準備は新しいいのちの入り口に導くにすぎません。洗礼は、キリスト教的生活全体がわき出てくるキリストにおける、新しいいのちの泉です。
[1255]
洗礼の恵みが開花するには、両親の助けが重要です。そこにはまた、代父母の役割もあります。代父母は、新しい受洗者が幼児であると成人であるとを問わず、彼らがキリスト教的生活の旅路を歩んでいくのを助けることができ、しかもその覚悟のある、しっかりした信仰者でなければなりません50。両親や代父母の役割は、真の教会的な任務です51。教会共同体は、受洗者が受けた恵みを開花させ固く守ることを助ける責任の一端を担います。
[1256]
洗礼の通常の役務者は、司教と司祭です。ラテン教会では、それに助祭が加わります52。緊急の場合には、だれでも、未受洗者であっても、必要な意向を持って聖三位の神の名を呼ぶ洗礼の定句を唱えることによって、洗礼を授けることができます53。その意向とは、教会が洗礼を授けるときに行おうとしていることを行いたいという意思のことです。だれでも洗礼を授けることができると教会が教えているのは、神はすべての人の救いを望んでおられるし54、救いには洗礼が不可欠であるという理由からなのです55。
[1257]
洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます56。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようお命じになりました57。福音が伝えられてこの秘跡を願うことのできる人々の救いのためには、洗礼が必要です58。教会は永遠の幸福の保証を与えるための、洗礼以外の手段を知りません。したがって教会は、洗礼を受けることのできるあらゆる人々を「水と霊によって」生まれさせるために、キリストから受けた使命をなおざりにしないように努めています。神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません。
[1258]
教会が初めからつねに確信してきたのは、信仰のためにいのちをささげる人々は、洗礼を受けていなくとも、キリストのために、キリストとともに死ぬことによって、洗礼を受けるということです。この血の洗礼は、秘跡ではありませんが、洗礼の望みと同様、その効果をもたらします。
[1259]
洗礼を受ける前に死んだ求道者については、洗礼を受けたいという明白な望みに罪の痛悔と愛とが伴っていれば、洗礼の秘跡によって受けるはずの救いが保証されます。
[1260]
「キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的使命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものですから、聖霊は神のみが知っておられる方法によって、すべての人に過越の神秘にあずかる可能性を提供されることをわたしたちは信じなければなりません」59。キリストとその教会とを知らずに真理を求め、自分の知るところに従って神のみ旨を行うすべての人は救われうるのです。このような人々は、洗礼の必要性を知っていたなら、洗礼を受けたいという望みを表明したに違いないと考えられるからです。
[1261]
洗礼を受けずに死んだ幼児については、教会にできるのは、幼児の葬儀の際に行っているように、その子供を神のあわれみにゆだねることだけです。「すべての人々が救われることを望んでおられ」(一テモテ2∙4)る神の限りないあわれみから見て、また、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」(マルコ10∙14)といわれたイエスの子供たちへの愛情から見て、わたしたちは洗礼を受けずに死んだ幼児には救いの道があると希望することができます。それにもかかわらず、教会は、幼児が聖なる洗礼の恵みを通してキリストのもとに近づくのを妨げないようにと、強く促しています。
[1262]
洗礼の種々の効果は、秘跡の儀式の目に見える要素によって表されます。水に浸ることは、死と清めを意味するとともに、再生と一新の象徴でもあります。したがって洗礼には、罪の清めと聖霊による新たな誕生という、二つのおもな効果があります60。
[1263]
洗礼によって、すべての罪、すなわち原罪、すべての自罪、また罪のすべての罰もゆるされます61。事実、新たに生まれた人々には、神の国に入るのを妨げるもの、つまり、アダムの罪も、自罪も、罪の結果も残りません。その罪の結果の中で最大のものは、神からの離脱です。
[1264]
しかし受洗者には、苦しみや病気や死、あるいは性格の弱さなどといった人生にはつきものの種々のもろさなど、罪に由来する一時的な結果は残ります。さらに、聖伝が、情欲あるいは比喩的に罪の導火線と呼んできた、罪への傾きなどもそうです。「罪への傾きは、わたしたちがそれと戦って訓練されるために残されましたが、それに同意せず、キリストの恵みによって勇敢に抵抗する人々を害することはできません。そのうえ、『規則に従って競技をするならば、栄冠を受けることができるでしょう』(二テモテ2∙5 参照)」62。
[1265]
洗礼は、すべての罪を清めるだけではなく、新しい信者を「新しい被造物」63、「神の本性にあずかる者」64となった神の養子65、キリストの肢体66、キリストと共同の相続人67、聖霊の神殿68とします。
[1266]
聖三位の神は受洗者に成聖の恩恵、義とする恵みを与えます。
⸺これにより受洗者は、対神徳によって神を信じ、神に希望し、神を愛することができ、
⸺聖霊のたまものによって聖霊に動かされて生き、行動することができ、
⸺倫理徳によって、ますます善を行うことができるようになります。
このように、キリスト者が超自然的いのちを営む上で必要なすべてのものの根源は、聖なる洗礼にあるのです。
[1267]
洗礼は、わたしたちをキリストのからだの肢体とします。「だから、……わたしたちは互いにからだの一部なのです」(エフェソ4∙25)。洗礼は、わたしたちを教会に結び合わせます。洗礼の泉から新約における神の唯一の民が生まれます。この民は国や文化や人種や性別などのあらゆる自然的、あるいは人間的な限界を超えるものです。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つのからだとなるために洗礼を受け」(一コリント12∙13)たのです。
[1268]
洗礼を受けた者は「霊的な家に造り上げられ、聖なる祭司となる」ための「生きた石」(一ペトロ2∙5)となります。洗礼によってキリストの祭司職、預言職、王職にあずかります。受洗者は、「暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを」広く伝えるために「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(一ペトロ2∙9)なのです。洗礼は、信者の共通祭司職にあずからせます。
[1269]
教会の一員となった受洗者は、もはや自分自身のものではなく69、自分たちのために死んで復活されたかたのものです70。ですから、人々に従い71、教会の交わりの中では彼らに仕え72、教会の指導者たちのいうことを聞き入れて服従し73、尊敬と愛情とをもって指導者たちを世話する74ようにと召されています。このように、洗礼によって責任と義務とが生じますが、また同時に、受洗者は教会の庇護のもとでの権利も有しています。それは、諸秘跡を受け、神のことばで養われ、教会のその他の霊的援助によって支えられるという権利です75。
[1270]
受洗者には、「〔洗礼によって〕神の子として生まれかわって、神から教会を通して受けた信仰を人々の前に宣言する義務」76と、神の民の使徒的活動・宣教活動に参加する義務とがあります77。
[1271]
洗礼は、カトリック教会とまだ完全に一致していない人々をも含めて・すべてのキリスト者間の一致の土台を成しています。「キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても・カトリック教会との交わりの中にいるのです。……信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けてしいるのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然に認められるのです」78。「したがって洗礼は、それによって再生されたすべての人の間に存在する一致の秘跡的きずなです」79。
[1272]
洗礼によってキリストに合体した受洗者は、キリストに似た者とされます80。洗礼はキリスト者のうちに、当人がキリストのものとなったことを示す消えない霊印(character)をしるします。たとえ罪によって洗礼が救いの実を結ばないようなことがあっても、この霊印はいかなる罪によっても消されることはありません81。ですから、洗礼は一回限りのもので、繰り返すことはできないのです。
[1273]
洗礼によって教会の一員となった信者は秘跡的霊印を受け、キリスト者として神を礼拝する務めをゆだねられます82。洗礼による霊印によってキリスト者は、教会の聖なる典礼に積極的にあずかりながら神に仕え、聖なる生活と実践を伴う愛のあかしとによって洗礼による祭司職を果たすことができる者とされ、またそうする義務を負わされているのです83。
[1274]
「主の霊印」84は、「あがないの日に対して」(エフェソ4∙30)聖霊がわたしたちにしるされた霊印です85。「洗礼は永遠のいのちの霊印です」86。最後まで「霊印を保った」信者、すなわち洗礼によって生じる義務を忠実に果たした信者は、洗礼を受けたときの信仰をもって、信仰の完成である神の至福直観を待望し、復活を希望しながら、「信仰をもって(信仰のしるしを刻まれた状態で)」87、死ぬことができるのです。
[1275]
キリスト教入信は、次の三つの秘跡によって行われます。新しいいのちの始まりである洗礼、それを固める堅信、キリストのからだと血によって養い、キリストに変容させる聖体です。
[1276]
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28∙19-20)。
[1277]
洗礼は、キリストにおける新しいいのちの誕生です。主の望みによれば、洗礼は救いに不可欠なものです。それは、受洗者がそのメンバーとなる教会が救いに不可欠であるのと同じです。
[1278]
洗礼式の本質的な部分は、聖三位、すなわち、父と子と聖霊のみ名を唱えながら、志願者を水の中に沈めるか、その頭に水を注ぐところです。
[1279]
洗礼の実りあるいは洗礼の恵みの効果は素晴らしいもので、原罪とあらゆる自罪のゆるし、新しいいのちへの誕生などが含まれています。この誕生により、人間は御父の養子、キリストの肢体、聖霊の神殿となります。まさにこのことから、受洗者はキリストのからだである教会に結ばれ、キリストの祭司職にあずかります。
[1280]
洗礼は人の霊魂に消えないしるし、霊印を刻みます。この霊印によって、受洗者はキリスト者として神を礼拝するために聖化されます。この霊印のゆえに、洗礼は繰り返して授けることはできません88。
[1281]
信仰のためにいのちをささげた人々、求道者、また教会を知らずに恵みの働きのもとで神を真剣に求め、そのみ旨を果たそうと努めるすべての人は、洗礼を受けていなくても救われることができます89。
[1282]
古代から幼児に洗礼が授けられてきました。それは、洗礼が人間のいさおしを前提としない神の恵み、たまものだからです。幼児は、教会の信仰に結ばれて洗礼を受けます。キリスト教的生活に入ることは、真の自由を得ることです。
[1283]
洗礼を受けずに死んだ幼児に関して、教会の典礼は、神のあわれみに信頼し、彼らの救いのために祈るよう勧めています。
[1284]
やむをえない場合は、だれでも洗礼を授けることができます。その際には、教会が行うことを行おうという意向を持って、受洗者の頭に水を注ぎながら、「わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えます。
[1285]
堅信の秘跡は、洗礼および聖体と一緒に組み合わされて、「キリスト教入信の秘跡」を構成します。この三つは一体でなければなりません。したがって、信者には、堅信の秘跡が洗礼の恵みの完成に必要であることを説明しなければなりません90。「堅信の秘跡によって信者はいっそう完全に教会に結合され、聖霊の特別な力で強められて、キリストの真の証人としてことばと行いをもって、信仰を広めかつ擁護するよう、いっそう強く義務づけられます」91。
[1286]
旧約時代の預言者たちは、待望のメシアが救いの使命を実現するために92、主の霊がその上にとどまると告げていました93。イエスがヨハネから洗礼を受けられたときその上に聖霊がくだったことは、イエスが来るべきかた、メシア、神の子であることのしるしでした94。聖霊によって人としてお生まれになったイエスの全生涯と全使命とは、御父が「限りなくお与えになる」(ヨハネ3∙34)聖霊との完全な交わりの中で実現されるのです。
[1287]
ところで、聖霊の充満はただメシアに限らず、メシアに属するすべての民に与えられるはずのものでした95。キリストは幾度かこの聖霊の到来を約束なさいましたが96、それはまず復活の日に97、ついで、いっそう目立つ方法で聖霊降臨の日に実現されました98。聖霊に満たされた使徒たちは「神の偉大なわざ」(使徒言行録2∙11)を宣言し始め、ペトロは、聖霊が注がれたことはメシア時代のしるしであると宣言しました99。そのとき、使徒の説教を信じて洗礼を受けた人々も聖霊のたまものを受けました100。
[1288]
「このころから使徒たちは、キリストの意向に従って、霊のたまものを、洗礼の恵みを完成するものとして、按手をもって新信者に与えました101。こうして、ヘブライ人への手紙に記されているように、洗礼と按手の教理は、最初のキリスト教教程の要素の一つに数えられることになりました102。この按手はカトリック伝承によって、ペンテコステの恵みを、ある意味で教会の中に永続させるものであるところの堅信の秘跡の起源とみなされています」103。
[1289]
きわめて早い時代から、聖霊のたまものが与えられることをいっそうよく表すために、按手に香油の塗布が付け加えられました。この塗油は、「キリスト者」という名称の意味をよく示しています。それは「油を注がれた者」という意味であり、「神は、聖霊によってこのかたを油注がれた者となさいました」(使徒言行録10∙38)と記されている、キリストご自身のみ名にその起源があるのです。この塗油の儀式は今日まで、東方教会にも西方教会にも存在します。この秘跡は、東方教会では、聖香油の注ぎ(Chrismatio)ないし聖香油の塗布、もしくは「香油」を意味するミュロン(μύρον)と呼ばれています。西方教会における堅信(confirmatio)という呼称は、この秘跡が洗礼をより強固なものとすると同時にその恵みをさらに強化する、ということを表しています。
[1290]
最初の数世紀においては、堅信は一般に洗礼と同じ儀式の中で行われました。聖チプリアノは、この二つを「一対の秘跡」と呼んでいます104。ところが、年ごとの幼児洗礼の増加や(農村地域の)小教区の増加などによって教区民の数が増えていき、司教はもはやすべての洗礼式に出席できなくなってしまいました。西方教会では、洗礼を完成させる権限を司教に留保することを望み、洗礼と堅信の秘跡を別のときに行うようになりました。東方教会では、この両秘跡を一つの儀式として行う伝統が堅持されたので、堅信は洗礼を授ける司祭によって行われています。ただし司祭が授ける場合は、司教が聖別した香油(ミュロン)を用いなければなりません105。
[1291]
ローマ教会には洗礼後に聖香油を二度塗布する慣習があって、それが西方方式の発展に寄与することとなりました。まず司祭が洗礼の直後に新信者に油を塗り、その後、司教が各新受洗者の額にもう一度油を塗って、洗礼後の塗油を完成させていました106。司祭による第一の塗油は、洗礼式の中に残りました。それは受洗者がキリストの預言職、祭司職、王職に参与することを意味します。洗礼が成人に授けられる場合にも洗礼後の塗油は一回しかありませんが、それは堅信の塗油になります。
[1292]
東方教会の様式は、キリスト教入信の一体性をいっそう強調します。西方教会の様式は、一、普遍、使徒継承の教会の保証者で奉仕者である司教と新信者とのつながりを表現し、これによって、キリストの教会の使徒的起源との結びつきをより鮮明に表します。
[1293]
堅信式では、塗油のしるしと、その塗油によって示し刻みつけられる霊印について考えなければなりません。
塗油は、聖書を含めて、古い時代から多くの象徴的な意味を持つものとされてきました。油は豊かさ107、喜び108のしるしで、清め(入浴前後の塗油)、柔軟さ(闘技者や格闘者の塗油)、打ち身や傷の痛みを和らげる治癒のしるしでもあり109、そのうえ、美と健康と力とを増進させるものです。
[1294]
塗油が持つこれらの意味は、秘跡に生かされる人生においても同じように存在していることが分かります。洗礼前の求道者への塗油は清めと強化を意味し、病者の塗油は治癒と力の回復を表します。洗礼後の堅信および叙階で受ける聖香油の塗布は一種の聖別のしるしです。堅信による塗油を受けたキリスト者は、イエス・キリストの使命とイエス・キリストに充満する聖霊の働きとにいっそう深くあずかり、その生活全体がキリストのよい香りを放つようになります110。
[1295]
受堅者はこの塗油によって聖霊の証印を受けます。証印は本人の象徴111、その権威のしるし112、ある物に対する所有権のしるし113です⸺そのために昔は、兵士には指揮者の、奴隷には主人の印が押されました⸺。証印は法的行為114や文書115を真正なものとし、場合によってはそれを秘密のものともします116。
[1296]
キリスト自ら、ご自分が御父の証印を押されたといっておられます117。キリスト者もまたある種の証印を押されています。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結びつけ、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に〝霊〟を与えてくださいました」(二コリント1∙21-22)118。聖霊のこの証印は、キリストへの全面的所属、永遠にその奉仕者となったことを示しますが、また、終末の大きな試練に際して神が守ってくださる約束をも表すものです119。
[1297]
堅信式に先だって行われ、しかもある意味では儀式の一部ともいえる重要な式は、
聖香油の聖別です。司教は聖木曜日の聖香油のミサの中で、自分の教区全体のための聖香油を聖別します。東方教会では、この聖別は総大主教だけが行えることになっています。
アンティオキアの典礼は、聖香油(ミュロン)聖別のエピクレシスを次のように唱えます。「〔父よ、あなたの聖霊を〕わたしたちと、わたしたちの前にあるこの油の上に〔送り〕、聖なるものとしてください。この油が、それを塗られしるしをつけられたすべての人にとって、聖なるミュロン、祭司のミュロン、王の香油、光の衣、救いのマント、いのちの保護者、霊的たまもの、霊魂と肉体の聖化、心の喜び、不朽の幸福、消えない証印、信仰の盾、サタンのあらゆる働きに対する恐るべきかぶととなりますように」120。
[1298]
ローマ典礼の場合のように堅信が洗礼と切り離して行われるときには、この儀式は受堅者の洗礼の約束の更新と信仰宣言とで始められます。こうして、堅信は洗礼につながるものであることが明白にされます121。成人が洗礼を受けたときには、直ちに堅信を受け、聖体を拝領します122。
[1299]
ローマ典礼では司教は受堅者全員の上に手を伸べますが、この動作は、使徒時代から引き継がれてきている聖霊が与えられるときのしるしです。司教は次のことばで聖霊の注ぎを懇願します。
「全能の神、主イエス・キリストの父よ、あなたは水と聖霊によってこの人々に新しいいのちを与え、罪から解放してくださいました。今この人々の上に、助け主である聖霊を送り、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心をお与えください。わたしたちの主イエス・キリストによって」123。
[1300]
続いて、秘跡の本質的な儀式に移ります。ラテン典礼では、「堅信の秘跡は受堅者に按手して、『父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい』といいながら、聖香油を塗布することによって授けられます」124。ビザンチン典礼の東方教会では、ミュロンの塗布はエピクレシスの祈りの後で、額、目、鼻、耳、唇、胸、背、手足というからだの重要な部分に行われます。そして、各部分に塗油するたびに「たまものである聖霊のしるし」ということばが述べられます125。
[1301]
堅信式を締めくくる平和の接吻(あいさつ)には司教ならびに全信者との教会的な交わりという意味が込められており、そのことが表現されています126。
[1302]
儀式から明らかなように、堅信の秘跡の特別な効果は、かつて聖霊降臨の日に使徒たちに行われたのと同じように、聖霊の注ぎが行われることです。
[1303]
そのために、堅信は洗礼の恵みを増大させ、深めてくれます。
⸺わたしたちに「
アッバ、父よ!」(ローマ8∙15)と叫ばせる神の子としての身分を強め、深めてくれます。
⸺わたしたちをいっそう固くキリストに結びつけてくれます。
⸺わたしたちのうちに聖霊のさまざまなたまものを増やしてくれます。
⸺わたしたちと教会との結びつきをより完全にしてくれます
127。
⸺聖霊の特別な力を与え、キリストの真の証人として、ことばと行いによって信仰を広め、擁護し、キリストの名を勇敢に公言し、十字架を決して恥じないようにさせてくれます
128。
「それで、霊的な証印を押されたことを思い出しなさい。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、知識と敬愛の霊、聖なるおそれの霊を授けられたことを思い、受けたたまものを守りなさい。神である父はあなたに証印を押し、主キリストはあなたを堅固にし、保証としてあなたの心に霊を与えてくださいました」129。
[1304]
堅信は洗礼の完成ですので、洗礼と同様にただ一度だけ授けられます。堅信は人の霊魂に消えない霊的なしるし、「霊印」をしるします130。これは、イエス・キリストがキリスト者に聖霊の証印を押し、ご自分の証人とするために天からの力を授けられたというしるしです131。
[1305]
「霊印」は洗礼によって受けた信者の共通祭司職を完成させるもので、「受堅者は、キリストへの信仰をことばをもって公に宣言する権利をいわば任務として授かります」132。
[1306]
堅信をまだ受けていないすべての受洗者が堅信の秘跡を受けることができ、また、受けなければなりません133。洗礼と堅信と聖体は一つにつながるものですから、「信者は適切な時期にこの秘跡を受ける義務を有します」134。洗礼の秘跡は堅信と聖体を受けていなくても確かに有効で効果あるものではありますが、キリスト教入信は未完のままだからです。
[1307]
ラテン教会のここ数世紀来の伝統に従えば、堅信を受けるには「物事をわきまえる年齢」に達していることが必要です。しかし、死の危険がある場合は、まだその年齢に達していない幼児にも堅信を授けなければなりません135。
[1308]
堅信を「キリスト者としての成熟の秘跡」と呼ぶ人がいますが、信仰上の成熟と年齢による成熟とを混同してはなりません。また洗礼の恵みは、無償の、個人のいさおしによらない選びの恵みであって、これが有効になるための「批准」は不必要であることを忘れてはなりません。聖トマスは次のように指摘しています。
「肉体の年齢は、霊魂の成長とは関係がありません。ですから、人間は子供であっても、霊的年齢の完全さに至ることができます。知恵の書(4∙8)では『老年の誉れは長寿にあるのではなく、年数によって測られるものでもない』と語られています。だからこそ多くの子供たちが、授けられた聖霊の力のおかげで、キリストのために自分の血を流すほどに勇敢に戦うことができたのです」136。
[1309]
堅信の準備にあたっては、キリスト者がキリスト教的生活の使徒的責務をさらによく担えるように、キリストとのより緊密な一致、聖霊とその働き、そのたまもの、その呼びかけにいっそう親密に応じる態度を培えるよう導くことを目指さなければなりません。そのために、堅信のカテケージスでは、普遍教会および小教区共同体を含めたキリストの教会への所属意識を目覚めさせるための努力をする必要があります。とくに小教区共同体には受堅者の準備に関する責任がゆだねられています137。
[1310]
堅信を受けるには、成聖の恩恵の状態になければなりません。たまものとして聖霊をいただくために、ゆるしの秘跡を受けて清められることが勧められます。また、聖霊の力と恵みを素直に進んで受けるよう、熱心な祈りによって準備しなければなりません138。
[1311]
洗礼のときと同様、堅信の場合にも、受堅者は代父または代母の霊的援助を求める必要があります。二つの秘跡の一体性を強調するため、洗礼のときと同じ代父母であるのがよいでしょう139。
[1312]
堅信の本来の役務者は、司教です140。
東方教会では、通常、洗礼を授ける司祭が一つの儀式の中で堅信も授けます。ただし、総主教または主教によって聖別された聖香油を用います。これは教会の使徒的一致を表し、その一致が堅信の秘跡によって強められるわけです。ラテン教会でも、成人洗礼の場合や堅信の秘跡を有効に受けていない他のキリスト教宗派の受洗者がカトリック教会の一員として受け入れられる場合には、同じ規則が適用されます141。
[1313]
ラテン典礼では、堅信を授ける者は通常、司教です142。必要な場合には司教は司祭に堅信を授ける権限を与えることができますが143、堅信式が洗礼式と別のときに行われるようになったのは、司教がそれを授けるためであったことを忘れないようにしなくてはなりません。司教は使徒の後継者で、叙階の秘跡を十全的に受けています。堅信の秘跡を司教が行うことによって、この秘跡が受堅者を教会と、その使徒的起源と、キリストをあかしする使命とにいっそう緊密に結びつける効果を持つものであることをよく表すことができます。
[1314]
キリスト信者が死の危険にある場合は、どの司祭でも堅信を授けることができます144。教会は、自分の子らがたとえ幼児であっても、だれ一人として、キリストの満ちあふれるたまものを聖霊から受ける前に、この世を去ることを望まないのです。
[1315]
「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にもくだっていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」(使徒言行録8∙14-17)。
[1316]
堅信は、洗礼の恵みを完成させます。堅信は、神の子としての身分をより堅固なものとし、わたしたちをより緊密にキリストに合体させ、教会とのきずなをさらに固め、教会の使命にいっそう深く参与させ、行動を伴うことばによってキリストへの信仰をあかしする助けを得させるために、聖霊を与える秘跡です。
[1317]
堅信は洗礼と同じく、キリスト者の霊魂に霊的しるし、つまり消えない霊印をしるします。したがって、生涯に一度しかこの秘跡を受けることはできません。
[1318]
東方教会では、この秘跡は洗礼後直ちに授けられ、その直後に聖体が授けられます。これは、キリスト教入信の三つの秘跡の一体性を浮き彫りにします。ラテン教会では、物事をわきまえる年齢に達したときに授けられ、これを授ける者は通常、司教に限られています。このことによって、堅信の秘跡が教会的きずなを固めるものであることが示されます。
[1319]
物事をわきまえる年齢に達した受堅志願者は、信仰を持ち、成聖の恩恵の状態にあり、この秘跡を受ける意向を持ち、教会と社会の中で、キリストの弟子および証人としての役割を担う決意をしなければなりません。
[1320]
堅信式の本質となるのは、授堅者が按手して受洗者の額に(東方教会では、さらに他の感覚器官にも)聖香油を塗り、次のことばを唱える部分です。ラテン典礼では「父のたまものである聖霊のしるしを受けなさい」、ビザンチン典礼では「たまものである聖霊のしるし」といいます。
[1321]
堅信が洗礼と切り離して授けられる場合、その洗礼とのつながりは、とくに洗礼の約束の更新によって表されます。堅信式が感謝の祭儀の間に行われることによって、キリスト教入信の秘跡の一体性がよりはっきりと表現されます。
[1322]
聖体(エウカリスチア)の秘跡で、キリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、聖体(エウカリスチア)によって、共同体全体とともにキリストの奉献にあずかります。
[1323]
「わたしたちの救い主は、引き渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の犠牲を制定されました。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託すためでした。すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、まして未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越のうたげです」145。
[1324]
エウカリスチア(感謝の祭儀)は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」です146。「諸秘跡も、また同様にすべての教会的役務も使徒職の仕事も、すべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられています。事実、もっとも尊い聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、わたしたちの過越であり生けるパンであるキリストご自身が含まれています」147。
[1325]
「神の生命への交わり(コムニオ)と神の民の一致とによって教会が存在するのであって、聖体祭儀はこの交わりと一致を適切に表現し、みごとに実現させます。聖体祭儀は、キリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点であり、さらに、人々がキリストにささげ、またキリストにより聖霊において御父にささげる礼拝祭儀の頂点です」148。
[1326]
また、聖体祭儀によって、わたしたちはすでに天上の典礼に一致し、「神がすべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となられるときに先だって、永遠のいのちに前もってあずかっています。
[1327]
要するに、エウカリスチアはわたしたちの信仰の要約であり、頂点なのです。「わたしたちの考え方はエウカリスチアに共鳴し、エウカリスチアはわたしたちの考え方を強固なものにします」149。
[1328]
この秘跡の無尽蔵の豊かさは、多くの呼称によって表され、その呼称のそれぞれがこの秘跡のさまざまな面を浮き彫りにします。
エウカリスチアと呼ばれるのは、神への感謝の行為であるからです。エウカリステイン(εὐχαριστεῖν 感謝の祈りを唱える)(ルカ22∙19、一コリント11∙24)とエウロゲイン(εὐλογεῖν賛美の祈りを唱える)(マタイ26∙26、マルコ14∙22)の語は、創造、あがない、聖化という神のみわざを⸺とくに食事の間に⸺宣言する、ユダヤ人の賛美の祈りを想起させます。
[1329]
主の晩さんと呼ばれるのは150、受難の前夜にキリストが弟子たちとともになさった晩さんを再現すると同時に、天上のエルサレムで行われる小羊の婚宴151に前もってあずかるものだからです。
パンを裂くことといわれるのは、ユダヤ人の会食に固有なこの儀式を、イエスが、食卓の主人としてパンを祝福して配られたとき152、とくに最後の晩さんのときに153用いられたからです。復活後の弟子たちはまさにこの動作を見てキリストを認識することになりますし154、初代教会の信者たちは自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現を用いて呼ぶようになるのです155。そうすることによって、裂かれたただ一つのパンであるキリストを食べる人々は皆、キリストとの交わりに入り、キリストと結ばれたただ一つのからだを形づくるようになったことを表現するのです156。
エウカリスチアの集い(シュナクシスσύναξις)と呼ばれるのは、エウカリスチアは教会を見える形で表す信者の集いで行われるからです157。
[1330]
キリストの受難と復活の記念祭。
聖なるいけにえと呼ばれるのは、救い主キリストの唯一のいけにえを現在化し、教会のささげものを包み込むものだからです。ミサの聖なるいけにえ、「賛美のいけにえ」(ヘブライ13∙15)158、霊的いけにえ159、清い聖なるささげもの160とも呼ばれますが、それは旧約のあらゆるいけにえを完成し、それを超えるものだからです。
神聖なる典礼と呼ばれるのは、教会のすべての典礼の中心であり、それぞれの典礼が表現しようとしている中身がこの秘跡の挙行の中でもっとも密度の高い形で表現されている、ということが分かるからです。同じ意味で、聖なる神秘の祝祭とも呼ばれます。また、いと聖なる秘跡とも呼ばれますが、それは秘跡中の秘跡だからです。聖櫃に納められた聖なるホスチアに対しては、この名称が用いられます。
[1331]
コムニオ(交わり)と呼ばれるのは、この秘跡によって、わたしたちはキリストに一致し、キリストはただ一つのからだを形づくるために、わたしたちをご自分のからだと血にあずからせてくださるからです161。また、聖なるもの、タ・ハギア(τὰ ἅγια)とも呼ばれます162。これは、使徒信条がいう「聖徒の交わり」という語のもともとの意味です。また天使のパン、天からのパン、不死の妙薬163、旅路の糧などとも呼ばれます。
[1332]
ミサ聖祭と呼ばれるのは、救いの神秘が実現される典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすことを願った、信者の派遣(ミッシオ)で終了するからです。
[1333]
エウカリスチアの祭儀を行うときにもっとも大切なのはパンとぶどう酒ですが、これらはキリストのことばと聖霊の働きを願う祈りとによってキリストのからだと血になります。キリストの命令に忠実に従う教会は、キリストが受難の前夜に「パンを取り……」「ぶどう酒の入った杯を取って……」行われたことを、記念として、その栄光の再臨のときまで行い続けます。パンとぶどう酒が聖霊の働きによりキリストのからだと血になることによって、パンとぶどう酒は、創造のわざのすばらしさを表すしるしともなり続けます。奉納の際に、パンとぶどう酒を与えてくださった創造主に感謝をささげますが164、このパンとぶどう酒は「人間の労働」の実りである以上に、創造主のたまものである「大地の実り」「ぶどうの木の実り」なのです。教会は、「パンとぶどう酒」をささげた祭司メルキゼデク王の行為(創世記14∙18)は自分たちのささげものの前表だと考えています165。
[1334]
旧約時代には、創造主への感謝を表すために、大地の初物の中からパンとぶどう酒が供え物としてささげられました。エジプト脱出の際には新たな意味も帯びてきます。すなわち、イスラエル人たちが毎年過越祭に食べる種なしパンは、急いでエジプトから脱出したことを記念するものです。また、荒れ野で食べたマナについての記憶はイスラエル人に、自分たちが神のことばの糧によって生きていることをつねに想起させます166。さらに毎日のパンは、約束の地の実り、ご自分の約束に対する神の誠実さの保証です。ユダヤ人の過越の会食の終わりに飲む「賛美の杯」(一コリント10∙16)には、ぶどう酒のめでたい喜びに、終末的な側面、すなわち、エルサレム再興を実現するメシア時代への待望の喜びが加わっています。イエスは、パンとぶどう酒の祝福に新しく決定的な意味を与えて、ご自分のエウカリスチアを制定されたのです。
[1335]
多くの人々に食べさせるためにイエスがパンを祝福して裂き、弟子たちを介して配られたときのパン増加の奇跡は、ご自分のエウカリスチアでの唯一のパンがあり余るほどのものであることを前もって表すものです167。カナで水がぶどう酒に変えられた奇跡は168、すでにイエスの栄光化の時を告げるものです。それは御父の国での婚礼の会食の実現を表していますが、そのとき、信者たちはキリストの血となった新しいぶどう酒を飲むことになるのです169。
[1336]
受難の予告が弟子たちをつまずかせたのと同様に、聖体(エウカリスチア)に関するイエスの最初の予告は弟子たちを分裂させます。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6∙60)。聖体と十字架とはつまずきの石です。同じ神秘であって、つねに分裂の要因となるものです。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6∙67)というイエスの問いかけは今も行われていますが、それは、「永遠のいのちのことば」(ヨハネ6∙68)を持っているのはご自分だけであること、そして、ご自分が与える聖体という贈り物を信仰をもっていただくことはご自身をいただくことだということを表すための愛の招きでもあるのです。
[1337]
キリストは弟子たちを愛し、極みまで愛されました。この世から御父のもとへ移るときが来たことを知り、食事の間に弟子たちの足を洗い、愛のおきてを授けられました170。そして、この愛の保証を残し、決して弟子たちから離れずご自分の過越に彼らをあずからせるために、ご自分の死と復活の記念としてエウカリスチアを定め、使徒を「新しい契約の祭司とし」171、これを再臨の日まで行うよう命じられました。
[1338]
共観福音書と聖パウロは、エウカリスチアの制定について述べています。他方、聖ヨハネは、カファルナウムの会堂でのイエスのことばを伝えています。それは、ご自分が天からくだったいのちのパンであるという、エウカリスチアの制定を予告することばです172。
[1339]
イエスはカファルナウムで予告されたとおり、ご自分のからだと血を弟子たちに与えるために過越祭のときを選ばれました。
「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』といわれた。……二人は行って……、過越の食事を準備した。時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスはいわれた。『苦しみを受ける前に、あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた。いっておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事を取ることはない。』……それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えていわれた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにしていわれた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22∙7-20)173。
[1340]
イエスは、過越の食事の間に使徒たちと最後の晩さんを行いながら、ユダヤ人の過越祭に決定的な意味を与えられました。死と復活を通してのイエスの御父への移行、すなわち新しい過越は、最後の晩さんで先取りされ、感謝の祭儀で祝われます。この祭儀はユダヤ人の過越祭を完成し、み国の栄光における教会の決定的な過越を先取りするものです。
[1341]
ご自分が「来られるときまで」(一コリント11∙26)ご自分の動作とことばを繰り返すようにとのイエスの命令は、イエスとイエスがなされたこととを思い出すようにと求めているだけではありません。その目指すところは、使徒やその後継者たちがキリストとその生涯、死、復活、御父のもとでの執り成しを記念する典礼を挙行することなのです。
[1342]
教会は当初から、キリストの命令に忠実に従いました。エルサレムの教会に関する次のような記述があります。
「彼らは、使徒の教え、相互の〔愛の〕交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。……毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた」(使徒言行録2∙42,46)。
[1343]
キリスト者が「パンを裂くために」集まったのは、とくに「週の初めの日」、すなわち日曜日、イエスの復活の日でした(使徒言行録20∙7)。そのころから今日に至るまで、エウカリスチア(感謝の祭儀)は継続されてきていますので、今日でも、基本的にはどの教会でも同じ構造となっています。この祭儀は、教会生活の中心を成しています。
[1344]
こうして、旅する神の民はエウカリスチアが行われるごとに、「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)イエスの過越の神秘を告げ知らせながら、すべての選ばれた者が神の国の食卓に加わって行われる天の饗宴に向かって、「狭い十字架の道を」174進んで行きます。
[1345]
2世紀の聖体祭儀の式次第の大要については、殉教者聖ユスチノの証言が残されています。その大要は、今日まで教会のすべての典礼様式の伝統に受け継がれてきています。以下の文書は、キリスト者が行っていることに関して聖ユスチノが異教徒の皇帝アントニヌス・ピウス(138-161)に説明するために155 年ごろにしたためたものからの引用です。
「太陽の日と呼ばれている日に、町や村に住むすべての人は、一つ所で集会を催して、時間がゆるすかぎり、使徒たちの記録や預言者たちの種々の書物を読みます。
朗読者が読み終わると、指導者がこのような美しいことがらを見習うようにと、ことばをかけて励まします。
それから一同は等しく起立し、祈りをささげます」175。
「わたしたち自身のため、……また至るところのあらゆる人々のために、わたしたちの正しい生活と行為、また、おきてを忠実に守っていることが認められ、永遠のいのちを得るようにと祈るのです。
祈りが終わると、わたしたちは互いに接吻を交わします。
その後指導者のもとに、パンと、ぶどう酒と水が入った杯が運ばれてきます。
指導者はこれらを取り、御子と聖霊の名によって天にいます宇宙万物の創造主に賛美と栄光を帰して、わたしたちがこのようなたまものに値するものとみなされたことについての心からの感謝を(エウカリスティアンεὐχαριστίαν)ささげます。
指導者が祈りと感謝を唱えた後、会衆一同は喜びを込めてアーメンと叫びます。
……司式者が感謝をささげ、会衆が応唱した後、わたしたちの間で助祭と呼ばれる者たちが列席者一人ひとりに『感謝がささげられた』(エウカリステセントスεὐχαριστηθέντος)パンとぶどう酒と水を配り、不在者には持って行きます」176。
[1346]
エウカリスチアの典礼(感謝の祭儀)は、昔から今日まで維持されてきた基本的な構造に従って行われます。それは二つの部分に分けて展開されますが、根本的には一つの流れです。
⸺信者が集まって行われることばの典礼、すなわち、朗読、説教、共同祈願。
⸺感謝の典礼、すなわち、パンとぶどう酒の奉納、聖別のための感謝の祈り、聖体拝領。
ことばの典礼と感謝の典礼とは一つになって、「一つの礼拝行為」177を形づくります。感謝の祭儀でわたしたちのために準備された食卓は、神のことばの食卓であると同時にキリストのからだの食卓でもあります178。
[1347]
そこには、復活されたイエスが二人の弟子たちと取られた過越の食事の展開そのものが見られはしないでしょうか。道を歩きながらイエスは彼らに聖書を説明し、それから、ともに食事の席に着いて、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです179。
[1348]
全員の集合。キリスト者は感謝の祭儀のために、一堂に会します。集会の長は祭儀の主宰者キリストご自身です。キリストは新しい契約の祭司で、目には見えなくても祭儀全体を自ら主宰されます。司教または司祭は、キリストに代わって(頭であるキリストの代理者として)集会を司式し、朗読の後に説教し、供え物を受け、奉献文を唱えます。全員がそれぞれに祭儀の中で、朗読者、供え物を運ぶ者、聖体を配る者、またアーメンによって参加を表明する全会衆として積極的に役割を果たします。
[1349]
ことばの典礼では、「預言者の書」すなわち旧約聖書と、「使徒たちの回想録」つまり使徒たちの手紙と、福音書が朗読されます。説教は、このことばを実際の神のことばとして受け入れ180、これを実行するように励ますものです。続いて、すべての人のために執り成しの祈りが行われます。これは、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(一テモテ2∙1-2)という使徒パウロのことばに基づくものです。
[1350]
供え物の奉納。パンとぶどう酒が祭壇に運ばれます。これは、時としては行列をして行われます。このパンとぶどう酒はエウカリスチアのいけにえにおいてキリストのみ名で司祭によってささげられ、キリストのからだと血になるものです。最後の晩さんで「パンと杯を取られた」キリストと同じ行為をするのです。「教会だけが、神の被造物の中からこの清いささげものを感謝をもって創造主にささげています」181。祭壇への供え物の奉納はメルキゼデクの行為に倣うもので、創造主のたまものをキリストのみ手にゆだねるのです。キリストは、犠牲をささげようとする人間のすべての試みをご自分の犠牲の中で完成させてくださるのです。
[1351]
当初から、キリスト者はエウカリスチアのためのパンとぶどう酒のほかに、困っている人々への施し物を持参していました。この
施し物を集める(募金の)習慣は
182、わたしたちを豊かにするために貧しくなられたキリストの模範に基づいた
183、つねに意義あるものです。
「豊かな者は、各自、自発的に望みに応じて施しをします。寄進は指導者のもとに集められ、指導者自身が孤児たちや寡婦、病気などの理由で必要に迫られている人々、また牢獄に入れられている人々、寄留者たち、つまり、必要に迫られているすべての人を援助します」184。
[1352]
奉献文(アナフォラ)。エウカリスチアの祈り、すなわち感謝と聖別の祈りで、祭儀はその中心および頂点に達します。
叙唱で教会は、そのすべてのわざ、創造、あがない、聖化のゆえに、キリストによって聖霊のうちに、御父に感謝をささげます。そのとき、全会衆は、天使と聖人とからなる天上の教会が至聖なる神にささげる絶え間ない賛美に声を合わせます。
[1353]
聖霊の働きを求める祈り(エピクレシス)で教会は、パンとぶどう酒の上に聖霊(あるいは御父の祝福の力185)を遣わしてくださるように御父に祈ります。それは聖霊の力によってパンとぶどう酒がイエス・キリストのからだと血になり、エウカリスチアにあずかる人々がただ一つのからだ、ただ一つの心となるためです(ある典礼伝承では、エピクレシスはアナムネシスの後に来ます)。
制定の叙述では、キリストのことばと行為の力ならびに聖霊の力が、十字架上でただ一度いけにえとしてささげられたイエス・キリストのからだと血を、パンとぶどう酒の形態のもとに秘跡的に現存させます。
[1354]
それに続く記念(アナムネシス)で教会は、イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念を行い、わたしたちを御父と和解させてくださる御子のささげ物を御父にささげます。
取り次ぎの祈りで教会は、この祭儀が天と地の全教会、生ける人、死せる人、また教会の牧者である教皇、教区司教、その司祭と助祭、ならびに全世界のすべての司教とその司教のもとにある教会との交わりのうちに行われていることを表明します。
[1355]
主の祈りとパンを裂いた後に行われる
聖体拝領(コムニオ)で、信者は「天からのパン」と「救いの杯」、すなわち、「世を生かすため」(ヨハネ6∙51)にご自分を渡されたキリストのからだと血をいただきます。
このパンとこのぶどう酒は昔からの表現では「エウカリスチアされたもの(感謝の祈りが唱えられたもの)」と呼ばれています186。そして次のように説明されています。「この食物を、わたしたちはエウカリスチアと呼んでいます。これにあずかるには、まずわたしたちの教えを真実なものと信じ、罪のゆるしと新たに生まれるための洗礼を受けており、かつキリストが教えたように生活している者であることが肝要で、それ以外の人にはだれにもゆるされていません」187。
[1356]
キリスト者が、異なる時代を経て多様な典礼を持つにもかかわらず、当初から実質的には変わらない一つの形式でエウカリスチアを行ってきたのは、受難の前夜に「わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリント11∙24-25)といわれたキリストの命令に従うためでした。
[1357]
わたしたちはキリストの命令を、そのいけにえの記念を行うことによって果たします。そうすることにより、御父がわたしたちに与えてくださったもの、すなわち、自然の産物であるパンとぶどう酒が聖霊の力とキリストのことばとによってキリストのからだと血になったものを、御父にささげます。こうしてキリストは、実際に、また、神秘的に現存するようになられます。
[1358]
したがってわたしたちは、エウカリスチアを以下のように理解しなければなりません。
⸺御父への感謝と賛美
⸺キリストおよびそのからだである教会の、いけにえによる記念
⸺キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
[1359]
エウカリスチアは、十字架上でキリストによって成就された救いの秘跡ですが、また、創造のわざに感謝してささげる賛美のいけにえでもあります。このエウカリスチアのいけにえにおいて、神に愛されている全被造物がキリストの死と復活を通して御父にささげられます。教会は、神が被造界と人類とのうちになされたすべてのよいこと、美しいこと、正しいことに感謝するために、キリストを通して賛美のいけにえをささげることができます。
[1360]
エウカリスチアは御父への感謝のいけにえであり、神のすべての恵みに対する教会の感謝、すなわち創造、あがない、聖化によって成し遂げられたすべてのことについての感謝を表す神への賛美です。エウカリスチアという語はまず、「感謝」を意味します。
[1361]
エウカリスチアはまた、教会がすべての被造物に代わって神の栄光を歌う賛美のいけにえです。この賛美のいけにえは、キリストを通してしかささげることができません。すなわち、キリストが信者たちをご自分と、ご自分の賛美ならびに執り成しに一致させてくださるのです。こうして御父への賛美のいけにえは、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに受け入れられます。
[1362]
エウカリスチアはキリストの過越の記念、そのからだである教会の典礼の中で行われるキリストの唯一のいけにえの再現、秘跡的な奉献です。すべての奉献文には、制定のことばの後、アナムネシスないし記念と呼ばれる祈りがあります。
[1364]
新約聖書では、記念には新たな意味づけがなされています。教会がエウカリスチアを行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度ささげられた犠牲は、つねに成し遂げられた状態にあるのです189。「『わたしたちの過越であるキリストがいけにえとなられた』(一コリント5∙7)十字架の犠牲が祭壇の上で祭儀執行されるたびごとに、わたしたちのあがないのみわざが行われます」190。
[1365]
エウカリスチアは、キリストの過越の記念ですので、いけにえでもあります。エウカリスチアのいけにえとしての性格は、その制定のことばに明らかです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22∙19-20)。エウカリスチアにおいて、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたそのからだと「罪がゆるされるように、多くの人のために」(マタイ26∙28)流された血とをお与えになります。
[1366]
したがって、エウカリスチアは、十字架上のいけにえを
現在化し、記念し、その実りを
分け与えるので、いけにえなのです。
「わたしたちの神であり、主〔であるキリスト〕は、十字架の祭壇の上で死なれ、一度で永久に父である神にご自分をささげて、救いのわざを完成されました。しかしキリストの祭司職は死によって消え去るものではなかったので(ヘブライ7∙24,27)、『引き渡される夜』(一コリント11∙23)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見えるいけにえを残されたのです(人間のためにはこれが必要でした)。このいけにえによって、十字架上で一度血を流してささげたものが表され、その記憶が世の終わりまで続き、その救いの力によってわたしたちが毎日犯す罪がゆるされるのです」191。
[1367]
キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。「ささげものは同一です。かつてご自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげられているからです。ただ一つ違うのは、ささげ方だけです」192。「そこで、ミサ聖祭で行われるこの神聖ないけにえには、十字架上の祭壇で『一回限り血を流して自らをささげられた』のと同じキリストが現存し、血を流さずにささげられます。……このいけにえは真のなだめのいけにえです」193。
[1368]
エウカリスチアは、教会のいけにえでもあります。キリストのからだである教会は、その頭の奉献をともにします。キリストとともに、教会全体がささげられます。教会は、御父のもとであらゆる人のために行われるキリストの執り成しにあずかります。エウカリスチアでは、キリストのいけにえはまた、そのからだに属する人々がささげるいけにえとなります。信者たちの生活、賛美、苦しみ、祈り、労働などはキリストのそれとキリストのまったき奉献とに合わせられ、新たな価値を得るのです。祭壇上に現存するキリストのいけにえによって、すべての時代のキリスト者がキリストの奉献に一致することが可能となります。
ローマのカタコンベでは、教会はしばしば礼拝の姿勢で腕を大きく広げて祈る婦人の姿で描かれています。十字架上で腕を広げたキリストのように、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、教会はすべての人のために自らをささげ、執り成します。
[1369]
教会全体が、キリストの奉献と執り成しに結ばれます。教会の中でペトロの務めを果たす
教皇はすべてのエウカリスチアの祭儀に結ばれており、普遍教会の一致のしるし、奉仕者として、その名が唱えられます。
地域の司教は、
司祭が司式するときでも、つねにエウカリスチアの責任者です。エウカリスチアでその名が唱えられるのは、司祭団に囲まれ、
助祭の補佐を受けている司教が部分教会の頭であることを意味するためです。信者の集まりは、自分たちのために自分たちとともにエウカリスチアのいけにえをささげるすべての役務者のためにも執り成しを行います。
「司教もしくは司教が委任した者の司式で行われるエウカリスチアだけが、有効であるとみなされます」194。
「司祭の役務を通して、信者の霊的いけにえは、唯一の仲介者であるキリストのいけにえとの一致のうちに完成するものであり、このキリストのいけにえは、主自らが来られるときまで、司祭たちの手によって、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘跡的にささげられます」195。
[1370]
キリストの奉献には、今この世に生きる人たちだけではなく、すでに天の栄光に入った人たちもともに参加します。教会は、いと聖なるおとめマリアに結ばれ、マリアやすべての聖人たちを記念しながらエウカリスチアのいけにえをささげます。エウカリスチアを行うとき、教会はいわばマリアとともに十字架のもとにたたずみ、キリストの奉献と執り成しとに結ばれるのです。
[1371]
エウカリスチアのいけにえはまた、「キリストに結ばれて死に、まだ完全に清められていない」
196亡くなった信者が、キリストの光と平安とにあずかることができるようになるためにもささげられます。
「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心を煩わさないでおくれ。ただ一つ、お願いがあります。どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ」197。
「次に、わたしたちは〔奉献文の中で〕、亡くなった聖なる教父や司教たちのため、またわたしたちに先だって亡くなった人々全体のために祈ります。聖にしてこれほどに尊いいけにえがささげられている間になされる執り成しの祈りが、彼らのために大いに役立つだろうと信じているからです。……たとえ亡くなった人々が罪びとであったにせよ、彼らのために神に祈りをささげ、……人々の友である神に亡くなった人々やわたしたちに対するあわれみを願って、わたしたちの罪のためにいけにえとなられたキリストをおささげするのです」198。
[1372]
聖アウグスチヌスは、わたしたちが行うエウカリスチアでのあがない主のいけにえにつねにますます完全にあずかるようにと促すこの教えを、次のように要約しました。
「あがなわれた国全体、すなわち聖者たちの集いと共同体が、大祭司〔キリスト〕によって普遍的なささげものとして神に奉献されます。この大祭司は、しもべの姿をとった者として、わたしたちがこれほど偉大な頭の肢体となるように、わたしたちのために苦しみを受けて、自らをささげものとして奉献してくださいました。……『数は多いが、キリストに結ばれて一つのからだを形づくっている』ことこそ、キリスト者の奉献です。これこそ、信者たちが熟知している祭壇の秘跡として、教会がたえず行っている奉献です。この秘跡において教会が神にささげるもののうちに、教会そのものがささげられるということが教会に示されるのです」199。
[1373]
「死んだかた、否、むしろ、復活させられたかたであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8∙34)。このキリストが、さまざまなしかたで教会に現存されます200。ご自分のことばのうちに、ご自分の教会の祈りの中に、「二人または三人が〔ご自分の〕名によって集まるところには、その中に」(マタイ18∙20)、また、貧しい人、病人、囚人のうちに201、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサのいけにえならびに司式者のうちに現存されます。しかし、「とくに、聖体の両形態のもとに現存しておられる」202のです。
[1374]
聖体の両形態のもとでのキリスト現存のあり方は比類のないものです。そのためにエウカリスチアは、他の秘跡よりも上位のものとされ、「いわば、霊的生活の完成、すべての秘跡が向かう目的」203となります。至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられます204。「この現存を『現実の』現存といいますが、それはそれ以外の現存が『現実』ではないのでそれらを除外するという意味ではなく、神であり人である全キリストが現存するようになるという実体的存の崇高さのゆえなのです」205。
[1375]
パンとぶとう酒がキリストのからだと血に
変わることによって、キリストはこの秘跡に現存するものとなられます。教父たちは、この変化を行うキリストのことばと聖霊の働きとの効力に対する教会の信仰を確固として主張してきました。たとえば、聖ヨハネ・クリゾストモは次のように述べています。
「供えられた物をキリストのからだと血にするのは人間ではなく、わたしたちのために十字架につけられたキリストご自身です。キリストの姿を表している司祭がことばを述べますが、その効力と恵みは神からのものです。これはわたしのからだであるとはキリストがいわれるのであって、このことばが供え物を変えるのです」206。
また聖アンブロジオは、この変化についてこう述べています。
「これは自然によって形づくられたのものではなく、祝福によって聖別されたものであり、祝福によって自然そのものが変えられるから、祝福の力が自然の力に勝つ」207のだとわたしたちは確信すべきです。「存在しなかったものを無から造り出すことができたキリストのことばは、存在しているものを別のものに変えることができないのでしょうか。ものの本性を変化させるよりは、ものに存在を与えるほうがやさしいわけではないのです」208。
[1376]
トリエント公会議は、カトリック信仰を要約してこう宣言しています。「わたしたちの救い主キリストは、パンの形態のもとにささげられたものがご自分の真のからだであると仰せられたので、神の教会が変わることなくつねに信じてきたことを、この聖なる公会議も繰り返して宣言します。すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体がわたしたちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」209。
[1377]
聖体におけるキリストの現存は聖別のときに始まり、その形態が存在する限り続きます。キリスト全体がそれぞれの形態のうちに、またその部分のうちに全体として現存されます。したがって、パンを裂いてもキリストが分割されることはありません210。
[1378]
聖体礼拝。ミサの典礼で、わたしたちはキリストをあがめるしるしとしてひざまずいたり頭を深く下げたりすることなどによって、パンとぶどう酒の形態のもとに現存されるキリストへの信仰を表します。「カトリック教会はこれまで、聖体の秘跡に対する礼拝をミサの間だけではなくミサ外でも行ってきましたし、現在も行っています。聖別されたホスチアを注意深く保存し、おごそかに信者の崇敬の対象とし、民衆が喜ぶ中でそれを行列しながら運ぶのです」211。
[1379]
聖体を保存するための聖櫃はまず、ミサに出席できなかった病人などにミサ後に聖体を持参できるように、そのときまでうやうやしく安置するためのものでした。しかし、聖体におけるキリストの現存に対する信仰が深められるにつれて、教会はパンの形態のもとに現存するキリストを沈黙のうちに礼拝する意義をますます理解するようになりました。したがって、聖櫃は教会堂の特別にふさわしい場所に置かれなければなりませんし、同時に、聖体にキリストが真実に現存されることが明白に表されるような形で作られる必要があります。
[1380]
キリストがこの比類のないしかたで教会につねに現存することを望まれたのは、まったく当然のことです。キリストは、目に見える姿では弟子たちから去られましたが、わたしたちのもとに秘跡的に現存することをお望みになりました。また、わたしたちの救いのために十字架上でご自分をささげるにあたり、ご自分のいのちを捨てるまでにわたしたちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13∙1)、その愛を思い起こさせる形見をわたしたちに残そうと望まれました。キリストは、わたしたちを愛し、わたしたちのために身をささげられたかたとして
212、エウカリスチアによる現存という形をとって、その愛を表し共有するしるしのもとで、わたしたちの間に神秘的にとどまっておられるのです。
「教会と世界は聖体の礼拝を大いに必要としています。わたしたちは、信仰にあふれた礼拝と観想において、世界の大きな過ちと罪を償う心構えで、イエスに出会うためには時間を惜しんではなりません。わたしたちのこの礼拝が、決して途絶えることがありませんように」213。
[1381]
「キリストの真のからだと真の血の現存は、『感覚によってではなく、ただ神の権威に支えられた
信仰によってのみ把握される』と聖トマスは述べています。聖チリロは
これはあなたがたのために与えられるわたしのからだであるというルカ22章19節のことばを解説して、こういいます。『真であるか否かを問わずに、むしろ、主のことばを信仰をもって受け入れなさい。真理であるかたは偽りを話されません』と」
214。
「これらの形の下に隠れてはいても、
現存する神であるあなたを、わたしはひれ伏して礼拝します。
わたしの心をまったくあなたに従わせます。
あなたを見つめていると、なすべきことが分からないからです。
視覚も触覚も味覚も、あなたを把握できません。
聴覚だけによって信ずべきことが分かるのです。
わたしは、神の御子が語られたすべてのことを信じます。
真理であるかたのことばより真実なものは何もないのです」215。
[1382]
ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです。
[1383]
教会は
祭壇を囲んでエウカリスチアを行いますが、その祭壇は、いけにえの祭壇であると同時に主の食卓であるという唯一の神秘の二つの面を表しています。というのは、キリスト教の祭壇は、わたしたちの和解のためにささげられたいけにえとして、またわたしたちに与えられる天の糧として、信者のただ中に現存されるキリストご自身の象徴だからです。聖アンブロジオは、「キリストの祭壇はキリストのからだを表すものでなくて、何でしょう」
216といい、また他のところでは、「祭壇は〔キリストの〕からだを表し、キリストのからだは祭壇の上にある」
217といっています。典礼の多くの祈りは、いけにえと聖体拝領との一体性を表現しています。たとえば、ローマ教会は奉献文の中で次のように祈ります。
「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものをみ使いに運ばせ、今、祭壇で御子の神聖なからだと血にともに結ばれるわたしたちが、天の祝福と恵みに満たされますように」218。
[1384]
キリストは、エウカリスチアの秘跡でわたしたちがご自分をいただくよう強く促しておられます。「はっきりいっておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちにいのちはない」(ヨハネ6∙53)。
[1385]
キリストの招きにこたえるために、この重要で聖なる時に備えなければなりません。聖パウロは良心の糾明を勧めます。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主のからだのことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(一コリント11∙27-29)。大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。
[1386]
この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にありません
219。「
主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」
220。また、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼では、信者たちは同じ精神でこう祈ります。
「ああ、神の御子よ、あなたの神秘的な晩さんで、今日、聖体をいただかせてください。わたしはこの秘密をあなたの敵対者に話さず、あなたにユダの接吻もいたしません。むしろあの盗賊のように、主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください、と叫びます」221。
[1387]
信者は聖体をふさわしく拝領する準備として、自分が属する教会の定めに従い、飲食物を控えなければなりません222。尊敬を表す態度や身なりをして、わたしたちの賓客になられるキリストをお迎えする厳粛さと喜びとを表現しなければなりません。
[1388]
信者に必要な準備ができている場合223、ミサにあずかるときに聖体を拝領することは224、エウカリスチアの意義にかなっています。「司祭の聖体拝領後に、信者が、その同じ犠牲から主の御からだを拝領することは、ミサ聖祭へのより完全な参加であって、せつに勧められることです」225。
[1389]
教会は信者に、主日と祝祭日に聖典礼にあずかり226、少なくとも年に一度、できれば復活祭の時期に227、ゆるしの秘跡を受けた後、聖体を拝領することを義務づけています。しかし教会は、主日と祝祭日、あるいはもっと頻繁に、いや、毎日でも聖体を拝領するよう信者に強く勧めています。
[1390]
キリストが各形態のもとに秘跡的に現存しておられるので、パンの形態だけの拝領でも両形態での拝領と同じ恵みが与えられます。ローマ典礼では種々の司牧的理由から、このパンの形態だけでの聖体拝領のあり方が合法的に普通のこととなりました。しかし、「しるしの観点からすれば、両形態のもとになされる拝領は、より充実した形式を備えています。この形式においては、感謝の会食のしるしがより完全に現れます」228。この両形態での拝領が、東方教会典礼では通常の方法となっています。
[1391]
聖体拝領は、キリストとわたしたちの一致を強めます。聖体拝領のすばらしい実りは、イエス・キリストとの親密な一致です。キリストは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙56)といわれます。キリストのうちにあって生かされるいのちの源泉は、エウカリスチアの会食です。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6∙57)。
「主の祝日に御子のからだを拝領するとき、信者はいのちの保証が与えられたという、よい知らせを互いに伝え合っています。それは、天使が〔マグダラの〕マリアに『キリストは復活なさったのだ』と伝えたときと同じです。今も、いのちと復活とがキリストをいただく者に与えられるのです」229。
[1392]
通常の食べ物がわたしたちの肉体的いのちにもたらすものを、聖体拝領は感嘆すべきしかたでわたしたちの霊的いのちにもたらします。復活して「聖霊によって生き、また生かす」230キリストのからだを拝領することにより、洗礼の際に受けた恵みのいのちが維持され、成長し、新たにされます。このキリスト教的いのちの成長は聖体拝領によって養い続けられる必要があります。聖体は、死の時までのわたしたちの旅路の糧であり、死の時には臨終の糧として授けられます。
[1393]
聖体拝領は、わたしたちを罪から離れさせます。聖体拝領でいただくキリストのからだは「わたしたちのために渡される」からだであり、飲む血は「多くの人の罪のゆるしのために流される」血です。したがって聖体は、わたしたちをキリストに一致させるときに必ず、犯した罪から清め、これから先罪を犯さないように守ってくれます。
「いただくたびに、主の死を告げ知らせるのです231。もし主の死を告げ知らせるのならば、わたしたちは罪のゆるしを告げ知らせているのです。もし、御血がいつも罪のゆるしのために流されるのであるとすれば、わたしは罪をゆるしていただくためにいつも御血をいただかなければなりません。わたしはいつも罪を犯しているので、いつも薬をいただかなければならないのです」232。
[1394]
からだの糧が体力の消耗を回復させるのと同じく、聖体は、日常の生活で弱まりがちな愛を強化します。そして活力を取り戻したこの愛は、
小罪を消します233。キリストはご自分をわたしたちに与えて、わたしたちの愛を再び燃え立たせ、被造物に対する乱れた愛着を断ち切り、わたしたちをご自分に深くつなぎ止めてくださいます。
「キリストは、わたしたちへの愛のゆえに死なれたのですから、わたしたちがいけにえをささげてその死を記念するとき、聖霊の到来によって、愛が与えられるよう願うのです。そして、キリストがわたしたちのために、進んで十字架につけられることを選ばれたその愛によって、わたしたちもまた聖霊の恩恵を受けて、世をはりつけにされたものとみなすことができるように、また、世に対してはわたしたちがはりつけにされたものとなることができるように、へりくだって祈るのです。……たまものとして愛を受けて罪に対して死に、神に対して生きるためです」234。
[1395]
エウカリスチアは、わたしたちのうちに愛を燃え立たせることによって、わたしたちが今後大罪を犯さないように守ってくれます。わたしたちは、キリストのいのちにあずかり、キリストとの友愛を深めれば深めるほど、キリストとの交わりを断ち切る大罪から守られます。エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。
[1396]
神秘体の一致⸺エウカリスチアは、教会をつくります。聖体を拝領する人々は、キリストにより親密に結ばれます。それゆえに、キリストはすべての信者を教会というただ一つのからだに結びつけます。聖体拝領は、すでに洗礼によって実現された教会との合体を新たにし、強めます。洗礼によって、わたしたちはただ一つのからだを形づくるように召されました
235。エウカリスチアはこの招きを実現します。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10∙16-17)。
「もし、皆さんがキリストのからだ、またその肢体であるならば、主の食卓の上に置かれてあるのは皆さんを表す秘跡で、皆さんは皆さんを表す秘跡を受けます。皆さんはいただくものに対してアーメン(まことにそのとおりです)と答え、そう答えながらそれに同意しているわけです。あなたはキリストのからだということばを聞き、アーメンと答えます。ですから、あなたのアーメンが真実であるように、キリストの肢体でありなさい」236。
[1397]
エウカリスチアは、貧しい人々との連帯を強めさせてくれます。わたしたちのために渡されたキリストのからだと血をふさわしくいただくには、その兄弟であるもっとも貧しい人々のうちにキリストを認めなければなりません
237。
「あなたは主の御血を味わったのに、自分の兄弟を認めてさえいません。この食卓に加わるのにふさわしいと認められた者を、あなたの糧を分かち合うのにふさわしくない者とあなたは考えているので、この食卓を汚しているのです。神はあなたをすべての罪から解放し、この食卓に招かれました。それなのに、それでもあなたはあわれみ深い者とはなっていません」238。
[1398]
エウカリスチアおよびキリスト者の一致。この神秘の偉大さを前にして、聖アウグスチヌスは「ああ、何とすばらしい敬神の秘跡、何と崇高な一致のしるし、何と尊い愛のきずな!」239と叫んでいます。そのことを考えると、主の食卓をともにすることを妨げる教会の分裂は大きな悲しみをもたらします。だから、主を信じるすべての人の完全な一致の日が再び訪れるようキリストに祈ることが、緊急に求められているのです。
[1399]
カトリック教会と完全には一致していない東方の諸教会では、エウカリスチアが非常な愛をもって挙行されています。「これらの教会はたとえ分かれてはいても、真の秘跡、とくに使徒継承の力により祭司職とエウカリスチアを持っていて、それらによって今なお緊密にわたしたちと結ばれています」240。だから「典礼へのある程度の共同参加(コムニカチオ・イン・サクリス)は、ある適当な条件のもとに教会権威の承認を得た上で、可能であるばかりでなく勧められることでもあります」241。
[1400]
宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」242。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。とはいえ、これらの教団は「聖さん式において、主の死と復活の記念を行い、キリストと交わる生命が示されることを公言し、また、キリストの栄光の到来を期待している」243のです。
[1401]
さし迫った重大な必要がある場合、カトリックの教役者は教区司教の判断に従い、カトリック教会との完全な交わりにはなくとも、心底からこれを求めるキリスト者に(聖体、ゆるし、病者の塗油の)秘跡を授けることができます。その場合は、これらの秘跡に関するカトリックの信仰を表明し、必要な心構えができていなければなりません244。
[1402]
ある古い祈りの中で、教会はエウカリスチアの神秘を次のように唱えてたたえています。「ああ、聖なるうたげ、そこでキリストはわたしたちの糧となり、受難が改めて記念され、恵みがわたしたちを満たし、来るべき栄光の保証が与えられる」245。エウカリスチアはキリストの過越の記念であり、わたしたちは聖体拝領によって「天の祝福と恵みに」246満たされます。それゆえ、エウカリスチアは天の栄光の先取りなのです。
[1403]
最後の晩さんのときに、主ご自身が弟子たちの注意を神の国における過越の完成に向けさせてくださいました。「いっておくが、わたしの父の国であなたがたとともに新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26∙29)247。教会はエウカリスチアを行うたびに、父の国でキリストとともに新たにぶどう酒を飲むというキリストの約束を思い起こし、目を「やがて来られるかた」(黙示録1∙4)に向けます。そして、そのかたの到来を願って、「マラナ・タ(主よ、来てください)」(一コリント16∙22)、「主イエスよ、来てください」(黙示録22∙20)、「あなたの恵みが訪れて、この世が過ぎ去りますように」248と祈ります。
[1404]
教会は、主がすでに今行われているご自分のエウカリスチアにおいでになって、わたしたちのただ中におられることを知っています。しかし、この現存を目で確かめることはできません。ですから、わたしたちはエウカリスチアを挙行するとき、「救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んで」249、「わたしたちもいつかその国で、いつまでもともにあなたの栄光にあずかり、喜びに満たされますように。そのときあなたは、わたしたちの目から涙をすべてぬぐいさり、わたしたちは神であるあなたをありのままに見て、永遠にあなたに似るものとなり、終わりなくあなたをたたえることができるのです」と祈ります250。
[1405]
エウカリスチアは、この大きな希望、すなわち、義の宿る新しい天と新しい地の希望251のもっとも確実な保証、明白なしるしなのです。この祭儀の度ごとに、「わたしたちのあがないのみわざが行われ」252、わたしたちは「不死の妙薬、死なずにイエス・キリストに結ばれて永遠に生きるための解毒剤である一つのパンを〔裂くのです〕」253。
[1406]
イエスはいわれます。「わたしは、天からくだって来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。……わたしの肉を食べ、その血を飲む者は永遠のいのちを得、……いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙51,54,56)。
[1407]
エウカリスチアは教会生活の中心でも、頂点でもあります。なぜなら、エウカリスチアにおいて、キリストはご自分の教会とそのすべての成員を、ただ一度十字架上で御父にささげられた賛美と感謝のいけにえに結びつけられるからです。このいけにえによって、キリストは教会であるご自分のからだに救いの恵みを注がれます。
[1408]
エウカリスチアにはつねに、神のことばの宣言、すべての恩恵、とくに御子をたまものとしてお与えくださった恵みのゆえに父である神にささげる感謝、パンとぶどう酒の聖別、および、主のからだと血をいただく会食への参加、という要素が含まれています。以上の要素が、唯一の同じ祭儀を成り立たせているのです。
[1409]
エウカリスチアはキリストの過越の記念です。すなわち、キリストの生涯、および死と復活によって成し遂げられた救いのわざの記念であり、それが典礼行為によって現在化されるのです。
[1410]
新約の永遠の大祭司キリストご自身が、司祭たちの務めを通して、エウカリスチアのいけにえをささげられます。また、このいけにえの供え物も、パンとぶどう酒の形態のもとに現存される同じキリストです。
[1411]
有効に叙階された司祭のみがエウカリスチアを司式し、キリストのからだと血になるようにパンとぶどう酒を聖別することができます。
[1412]
この秘跡の基本的なしるしは麦で作られたパンとぶどう酒であり、その上に聖霊の祝福が呼び求められ、司祭は最後の晩さんの間にイエスがいわれた「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。……これはわたしの血の杯である」という聖別のことばを唱えます。
[1413]
聖別によって、パンとぶどう酒の実体はキリストのからだと血の実体に変わります。聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとに、生きておられる栄光のキリストご自身が真に、現実に、実体的に、からだと血、霊魂と神性ともども現存されます254。
[1414]
エウカリスチアは、生者と死者の罪を償い、霊的または物的恵みを神からいただくためにもいけにえとしてささげられます。
[1415]
聖体拝領によってキリストをいただきたい者は、成聖の恩恵の状態になければなりません。大罪を犯したことを自覚している者は、聖体を拝領する前に、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを受けなければなりません。
[1416]
キリストのからだと血を拝領することによって、本人とキリストとの一致が強められ、小罪がゆるされ、大罪から守られます。また拝領者とキリストとの愛のきずなが固められるので、聖体拝領はキリストのからだである教会そのものの一致をも強化します。
[1417]
教会は信者に、エウカリスチアの祭儀にあずかるときには聖体を拝領するよう強く勧めています。少なくとも年に一度の聖体拝領が信者の義務となっていをす。少なくとも年一度の聖体拝領が信者の義務となっています。
[1418]
キリストご自身が聖体の秘跡に現存しておられるので、わたしたちは聖体を礼拝しなければなりません。「聖体訪問はわたしたちの主キリストに対する感謝の表明、愛のしるし、礼拝の務めです」255。
[1419]
キリストはこの世から御父のもとに移られたので、わたしたちがキリストのもとで栄光を受ける保証として、エウカリスチアをわたしたちに与えてくださいます。わたしたちは聖なるいけにえにあずかることによって、キリストの心と一つになり、この世の旅路で力づけられ、永遠のいのちを希求し、この世にありながらすでに天上の教会、聖なるおとめマリア、すべての聖人たちと結ばれます。
[1363xn+記念xn-とは、聖書的には、過去の出来事を単に想起することではなく、神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することを意味しますn188。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます。イスラエル人たちは、エジプトからの解放を記念する過越祭を行うたびに、それによって自分たちの生活が活性化できるように、解放の出来事が信者たちの記憶の中によみがえってくる、と理解しています。]