[1322]
聖体(エウカリスチア)の秘跡で、キリスト教入信は完了します。洗礼によって王的祭司職にあげられ、堅信によってキリストにいっそう似た者とされた人々は、聖体(エウカリスチア)によって、共同体全体とともにキリストの奉献にあずかります。
[1323]
「わたしたちの救い主は、引き渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、御からだと御血による聖体の犠牲を制定されました。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託すためでした。すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、まして未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越のうたげです」『典礼憲章』,第47項。。
[1324]
エウカリスチア(感謝の祭儀)は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」です 『教会憲章』,第11項参照。。「諸秘跡も、また同様にすべての教会的役務も使徒職の仕事も、すべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられています。事実、もっとも尊い聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、わたしたちの過越であり生けるパンであるキリストご自身が含まれています」第2バチカン公会議『司祭の役務と生活に関する教令』,第5項(Presbyterorum ordinis)。。
[1325]
「神の生命への交わり(コムニオ)と神の民の一致とによって教会が存在するのであって、聖体祭儀はこの交わりと一致を適切に表現し、みごとに実現させます。聖体祭儀は、キリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点であり、さらに、人々がキリストにささげ、またキリストにより聖霊において御父にささげる礼拝祭儀の頂点です」礼部聖省『聖体祭儀指針』6(Eucharisticum mysterium : AAS 59 [1967] 545)。。
[1326]
また、聖体祭儀によって、わたしたちはすでに天上の典礼に一致し、「神がすべてにおいてすべて」(一コリント15∙28)となられるときに先だって、永遠のいのちに前もってあずかっています。
[1327]
要するに、エウカリスチアはわたしたちの信仰の要約であり、頂点なのです。「わたしたちの考え方はエウカリスチアに共鳴し、エウカリスチアはわたしたちの考え方を強固なものにします」聖エイレナイオス『異端反駁』 (S. Irenaeus Lugdunensis, Adversus haereses 4, 18, 5: SC 100, 610 [PG 7, 1028])。。
[1328]
この秘跡の無尽蔵の豊かさは、多くの呼称によって表され、その呼称のそれぞれがこの秘跡のさまざまな面を浮き彫りにします。
エウカリスチアと呼ばれるのは、神への感謝の行為であるからです。エウカリステイン(εὐχαριστεῖν 感謝の祈りを唱える)(ルカ22∙19、一コリント11∙24)とエウロゲイン(εὐλογεῖν賛美の祈りを唱える)(マタイ26∙26、マルコ14∙22)の語は、創造、あがない、聖化という神のみわざを⸺とくに食事の間に⸺宣言する、ユダヤ人の賛美の祈りを想起させます。
[1329]
主の晩さんと呼ばれるのは1コリント11・20参照。、受難の前夜にキリストが弟子たちとともになさった晩さんを再現すると同時に、天上のエルサレムで行われる小羊の婚宴黙示録19・9参照。に前もってあずかるものだからです。
パンを裂くことといわれるのは、ユダヤ人の会食に固有なこの儀式を、イエスが、食卓の主人としてパンを祝福して配られたときマタイ14・19,15・36、マルコ8・6,19参照。、とくに最後の晩さんのときにマタイ26・26、1コリント11・24参照。用いられたからです。復活後の弟子たちはまさにこの動作を見てキリストを認識することになりますしルカ24・13-35参照。、初代教会の信者たちは自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現を用いて呼ぶようになるのです使徒言行録2・42,46,20・7,11参照。。そうすることによって、裂かれたただ一つのパンであるキリストを食べる人々は皆、キリストとの交わりに入り、キリストと結ばれたただ一つのからだを形づくるようになったことを表現するのです1コリント10・16-17参照。。
エウカリスチアの集い(シュナクシスσύναξις)と呼ばれるのは、エウカリスチアは教会を見える形で表す信者の集いで行われるからです1コリント11・17-34参照。。
[1330]
キリストの受難と復活の記念祭。
聖なるいけにえと呼ばれるのは、救い主キリストの唯一のいけにえを現在化し、教会のささげものを包み込むものだからです。ミサの聖なるいけにえ、「賛美のいけにえ」(ヘブライ13∙15)詩編116・13,17参照。、霊的いけにえ1ペトロ2・5参照。、清い聖なるささげものマラキ1・11参照。とも呼ばれますが、それは旧約のあらゆるいけにえを完成し、それを超えるものだからです。
神聖なる典礼と呼ばれるのは、教会のすべての典礼の中心であり、それぞれの典礼が表現しようとしている中身がこの秘跡の挙行の中でもっとも密度の高い形で表現されている、ということが分かるからです。同じ意味で、聖なる神秘の祝祭とも呼ばれます。また、いと聖なる秘跡とも呼ばれますが、それは秘跡中の秘跡だからです。聖櫃に納められた聖なるホスチアに対しては、この名称が用いられます。
[1331]
コムニオ(交わり)と呼ばれるのは、この秘跡によって、わたしたちはキリストに一致し、キリストはただ一つのからだを形づくるために、わたしたちをご自分のからだと血にあずからせてくださるからですコリント10・16-17参照..。また、聖なるもの、タ・ハギア(τὰ ἅγια)とも呼ばれます 『使徒憲章』(Constitutiones apostolicae 8, 13, 12 : SC 336, 208 [Funk, Didascalia et Constitutiones Apostolorum 1, 516]) 、『ディダケー』(Didache 9,5; 10, 6: SC 248, 178 [Funk 1, 22)]; SC 248, 180 [Funk 1, 241)参照。。これは、使徒信条がいう「聖徒の交わり」という語のもともとの意味です。また天使のパン、天からのパン、不死の妙薬アンティオキアの聖イグナティオス『エフェソの信徒への手紙』 (S. Ignatius Antiochenus, Epistula ad Ephesios 20, 2: SC 10bis, 76 [Funk 1, 230])参照。、旅路の糧などとも呼ばれます。
[1332]
ミサ聖祭と呼ばれるのは、救いの神秘が実現される典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすことを願った、信者の派遣(ミッシオ)で終了するからです。
[1333]
エウカリスチアの祭儀を行うときにもっとも大切なのはパンとぶどう酒ですが、これらはキリストのことばと聖霊の働きを願う祈りとによってキリストのからだと血になります。キリストの命令に忠実に従う教会は、キリストが受難の前夜に「パンを取り……」「ぶどう酒の入った杯を取って……」行われたことを、記念として、その栄光の再臨のときまで行い続けます。パンとぶどう酒が聖霊の働きによりキリストのからだと血になることによって、パンとぶどう酒は、創造のわざのすばらしさを表すしるしともなり続けます。奉納の際に、パンとぶどう酒を与えてくださった創造主に感謝をささげますが詩編104・13-15参照。、このパンとぶどう酒は「人間の労働」の実りである以上に、創造主のたまものである「大地の実り」「ぶどうの木の実り」なのです。教会は、「パンとぶどう酒」をささげた祭司メルキゼデク王の行為(創世記14∙18)は自分たちのささげものの前表だと考えています『ローマ・ミサ典礼書』第1奉献文(ローマ典文)参照。。
[1334]
旧約時代には、創造主への感謝を表すために、大地の初物の中からパンとぶどう酒が供え物としてささげられました。エジプト脱出の際には新たな意味も帯びてきます。すなわち、イスラエル人たちが毎年過越祭に食べる種なしパンは、急いでエジプトから脱出したことを記念するものです。また、荒れ野で食べたマナについての記憶はイスラエル人に、自分たちが神のことばの糧によって生きていることをつねに想起させます申命記8・3参照。。さらに毎日のパンは、約束の地の実り、ご自分の約束に対する神の誠実さの保証です。ユダヤ人の過越の会食の終わりに飲む「賛美の杯」(一コリント10∙16)には、ぶどう酒のめでたい喜びに、終末的な側面、すなわち、エルサレム再興を実現するメシア時代への待望の喜びが加わっています。イエスは、パンとぶどう酒の祝福に新しく決定的な意味を与えて、ご自分のエウカリスチアを制定されたのです。
[1335]
多くの人々に食べさせるためにイエスがパンを祝福して裂き、弟子たちを介して配られたときのパン増加の奇跡は、ご自分のエウカリスチアでの唯一のパンがあり余るほどのものであることを前もって表すものですマタイ14・13-21,15・32-39参照。。カナで水がぶどう酒に変えられた奇跡はヨハネ2・11参照。、すでにイエスの栄光化の時を告げるものです。それは御父の国での婚礼の会食の実現を表していますが、そのとき、信者たちはキリストの血となった新しいぶどう酒を飲むことになるのですマルコ14・25参照。。
[1336]
受難の予告が弟子たちをつまずかせたのと同様に、聖体(エウカリスチア)に関するイエスの最初の予告は弟子たちを分裂させます。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6∙60)。聖体と十字架とはつまずきの石です。同じ神秘であって、つねに分裂の要因となるものです。「あなたがたも離れて行きたいか」(ヨハネ6∙67)というイエスの問いかけは今も行われていますが、それは、「永遠のいのちのことば」(ヨハネ6∙68)を持っているのはご自分だけであること、そして、ご自分が与える聖体という贈り物を信仰をもっていただくことはご自身をいただくことだということを表すための愛の招きでもあるのです。
[1337]
キリストは弟子たちを愛し、極みまで愛されました。この世から御父のもとへ移るときが来たことを知り、食事の間に弟子たちの足を洗い、愛のおきてを授けられましたヨハネ13・1-17参照。。そして、この愛の保証を残し、決して弟子たちから離れずご自分の過越に彼らをあずからせるために、ご自分の死と復活の記念としてエウカリスチアを定め、使徒を「新しい契約の祭司とし」トリエント公会議第22総会『ミサの奉献について』第1章(Doctrina de SS. Missae Sacrificio : DS1740)。、これを再臨の日まで行うよう命じられました。
[1338]
共観福音書と聖パウロは、エウカリスチアの制定について述べています。他方、聖ヨハネは、カファルナウムの会堂でのイエスのことばを伝えています。それは、ご自分が天からくだったいのちのパンであるという、エウカリスチアの制定を予告することばですヨハネ6章参照。。
[1339]
イエスはカファルナウムで予告されたとおり、ご自分のからだと血を弟子たちに与えるために過越祭のときを選ばれました。
「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』といわれた。……二人は行って……、過越の食事を準備した。時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスはいわれた。『苦しみを受ける前に、あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしはせつに願っていた。いっておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事を取ることはない。』……それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えていわれた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにしていわれた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」(ルカ22∙7-20)マタイ26・17-29、マルコ14・12-25、1コリント11・23-25参照。。
[1340]
イエスは、過越の食事の間に使徒たちと最後の晩さんを行いながら、ユダヤ人の過越祭に決定的な意味を与えられました。死と復活を通してのイエスの御父への移行、すなわち新しい過越は、最後の晩さんで先取りされ、感謝の祭儀で祝われます。この祭儀はユダヤ人の過越祭を完成し、み国の栄光における教会の決定的な過越を先取りするものです。
[1341]
ご自分が「来られるときまで」(一コリント11∙26)ご自分の動作とことばを繰り返すようにとのイエスの命令は、イエスとイエスがなされたこととを思い出すようにと求めているだけではありません。その目指すところは、使徒やその後継者たちがキリストとその生涯、死、復活、御父のもとでの執り成しを記念する典礼を挙行することなのです。
[1342]
教会は当初から、キリストの命令に忠実に従いました。エルサレムの教会に関する次のような記述があります。
「彼らは、使徒の教え、相互の〔愛の〕交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。……毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていた」(使徒言行録2∙42,46)。
[1343]
キリスト者が「パンを裂くために」集まったのは、とくに「週の初めの日」、すなわち日曜日、イエスの復活の日でした(使徒言行録20∙7)。そのころから今日に至るまで、エウカリスチア(感謝の祭儀)は継続されてきていますので、今日でも、基本的にはどの教会でも同じ構造となっています。この祭儀は、教会生活の中心を成しています。
[1344]
こうして、旅する神の民はエウカリスチアが行われるごとに、「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)イエスの過越の神秘を告げ知らせながら、すべての選ばれた者が神の国の食卓に加わって行われる天の饗宴に向かって、「狭い十字架の道を」『教会の宣教活動に関する教令』,第1項。進んで行きます。
[1345]
2世紀の聖体祭儀の式次第の大要については、殉教者聖ユスチノの証言が残されています。その大要は、今日まで教会のすべての典礼様式の伝統に受け継がれてきています。以下の文書は、キリスト者が行っていることに関して聖ユスチノが異教徒の皇帝アントニヌス・ピウス(138-161)に説明するために155 年ごろにしたためたものからの引用です。
「太陽の日と呼ばれている日に、町や村に住むすべての人は、一つ所で集会を催して、時間がゆるすかぎり、使徒たちの記録や預言者たちの種々の書物を読みます。
朗読者が読み終わると、指導者がこのような美しいことがらを見習うようにと、ことばをかけて励まします。
それから一同は等しく起立し、祈りをささげます」聖ユスティノス『第1弁証論』 (Apologia, 1, 67: CA 1, 184-186 [PG 6, 429])。。
「わたしたち自身のため、……また至るところのあらゆる人々のために、わたしたちの正しい生活と行為、また、おきてを忠実に守っていることが認められ、永遠のいのちを得るようにと祈るのです。
祈りが終わると、わたしたちは互いに接吻を交わします。
その後指導者のもとに、パンと、ぶどう酒と水が入った杯が運ばれてきます。
指導者はこれらを取り、御子と聖霊の名によって天にいます宇宙万物の創造主に賛美と栄光を帰して、わたしたちがこのようなたまものに値するものとみなされたことについての心からの感謝を(エウカリスティアンεὐχαριστίαν)ささげます。
指導者が祈りと感謝を唱えた後、会衆一同は喜びを込めてアーメンと叫びます。
……司式者が感謝をささげ、会衆が応唱した後、わたしたちの間で助祭と呼ばれる者たちが列席者一人ひとりに『感謝がささげられた』(エウカリステセントスεὐχαριστηθέντος)パンとぶどう酒と水を配り、不在者には持って行きます」同(Ibid., 1, 65: CA 1, 176-180 [PG 6, 428])。。
[1346]
エウカリスチアの典礼(感謝の祭儀)は、昔から今日まで維持されてきた基本的な構造に従って行われます。それは二つの部分に分けて展開されますが、根本的には一つの流れです。
⸺信者が集まって行われることばの典礼、すなわち、朗読、説教、共同祈願。
⸺感謝の典礼、すなわち、パンとぶどう酒の奉納、聖別のための感謝の祈り、聖体拝領。
ことばの典礼と感謝の典礼とは一つになって、「一つの礼拝行為」『典礼憲章』,第56項。を形づくります。感謝の祭儀でわたしたちのために準備された食卓は、神のことばの食卓であると同時にキリストのからだの食卓でもあります第2バチカン公会議『神の啓示に関する教義憲章』,第21項(Dei Verbum)参照。。
[1347]
そこには、復活されたイエスが二人の弟子たちと取られた過越の食事の展開そのものが見られはしないでしょうか。道を歩きながらイエスは彼らに聖書を説明し、それから、ともに食事の席に着いて、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のですルカ24・13-35参照。。
[1348]
全員の集合。キリスト者は感謝の祭儀のために、一堂に会します。集会の長は祭儀の主宰者キリストご自身です。キリストは新しい契約の祭司で、目には見えなくても祭儀全体を自ら主宰されます。司教または司祭は、キリストに代わって(頭であるキリストの代理者として)集会を司式し、朗読の後に説教し、供え物を受け、奉献文を唱えます。全員がそれぞれに祭儀の中で、朗読者、供え物を運ぶ者、聖体を配る者、またアーメンによって参加を表明する全会衆として積極的に役割を果たします。
[1349]
ことばの典礼では、「預言者の書」すなわち旧約聖書と、「使徒たちの回想録」つまり使徒たちの手紙と、福音書が朗読されます。説教は、このことばを実際の神のことばとして受け入れ1テサロニケ2・13参照。、これを実行するように励ますものです。続いて、すべての人のために執り成しの祈りが行われます。これは、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(一テモテ2∙1-2)という使徒パウロのことばに基づくものです。
[1350]
供え物の奉納。パンとぶどう酒が祭壇に運ばれます。これは、時としては行列をして行われます。このパンとぶどう酒はエウカリスチアのいけにえにおいてキリストのみ名で司祭によってささげられ、キリストのからだと血になるものです。最後の晩さんで「パンと杯を取られた」キリストと同じ行為をするのです。「教会だけが、神の被造物の中からこの清いささげものを感謝をもって創造主にささげています」聖エイレナイオス『異端反駁』 (Adversus haereses 4, 18,4:SC 100,606 [PG7, 1027])。 マラキ1・11参照。。祭壇への供え物の奉納はメルキゼデクの行為に倣うもので、創造主のたまものをキリストのみ手にゆだねるのです。キリストは、犠牲をささげようとする人間のすべての試みをご自分の犠牲の中で完成させてくださるのです。
[1351]
当初から、キリスト者はエウカリスチアのためのパンとぶどう酒のほかに、困っている人々への施し物を持参していました。この
施し物を集める(募金の)習慣は
1コリント16・1参照。、わたしたちを豊かにするために貧しくなられたキリストの模範に基づいた
2コリント8・9参照。、つねに意義あるものです。
「豊かな者は、各自、自発的に望みに応じて施しをします。寄進は指導者のもとに集められ、指導者自身が孤児たちや寡婦、病気などの理由で必要に迫られている人々、また牢獄に入れられている人々、寄留者たち、つまり、必要に迫られているすべての人を援助します」聖ユスティノス『第1弁証論』(Apologia, 1, 67: CA 1, 186-188 [PG6, 429])。。
[1352]
奉献文(アナフォラ)。エウカリスチアの祈り、すなわち感謝と聖別の祈りで、祭儀はその中心および頂点に達します。
叙唱で教会は、そのすべてのわざ、創造、あがない、聖化のゆえに、キリストによって聖霊のうちに、御父に感謝をささげます。そのとき、全会衆は、天使と聖人とからなる天上の教会が至聖なる神にささげる絶え間ない賛美に声を合わせます。
[1353]
聖霊の働きを求める祈り(エピクレシス)で教会は、パンとぶどう酒の上に聖霊(あるいは御父の祝福の力『ローマ・ミサ典礼書』第1奉献文(ローマ典文)参照。)を遣わしてくださるように御父に祈ります。それは聖霊の力によってパンとぶどう酒がイエス・キリストのからだと血になり、エウカリスチアにあずかる人々がただ一つのからだ、ただ一つの心となるためです(ある典礼伝承では、エピクレシスはアナムネシスの後に来ます)。
制定の叙述では、キリストのことばと行為の力ならびに聖霊の力が、十字架上でただ一度いけにえとしてささげられたイエス・キリストのからだと血を、パンとぶどう酒の形態のもとに秘跡的に現存させます。
[1354]
それに続く記念(アナムネシス)で教会は、イエス・キリストの受難、復活、昇天の記念を行い、わたしたちを御父と和解させてくださる御子のささげ物を御父にささげます。
取り次ぎの祈りで教会は、この祭儀が天と地の全教会、生ける人、死せる人、また教会の牧者である教皇、教区司教、その司祭と助祭、ならびに全世界のすべての司教とその司教のもとにある教会との交わりのうちに行われていることを表明します。
[1355]
主の祈りとパンを裂いた後に行われる
聖体拝領(コムニオ)で、信者は「天からのパン」と「救いの杯」、すなわち、「世を生かすため」(ヨハネ6∙51)にご自分を渡されたキリストのからだと血をいただきます。
このパンとこのぶどう酒は昔からの表現では「エウカリスチアされたもの(感謝の祈りが唱えられたもの)」と呼ばれています聖ユスティノス『第1弁証論』 (Apologia, 1, 65: CA 1, 180 [PG 6, 4281)参照。。そして次のように説明されています。「この食物を、わたしたちはエウカリスチアと呼んでいます。これにあずかるには、まずわたしたちの教えを真実なものと信じ、罪のゆるしと新たに生まれるための洗礼を受けており、かつキリストが教えたように生活している者であることが肝要で、それ以外の人にはだれにもゆるされていません」同(Ibid., 1,66:CAl, 180 [PG6,428])。。
[1356]
キリスト者が、異なる時代を経て多様な典礼を持つにもかかわらず、当初から実質的には変わらない一つの形式でエウカリスチアを行ってきたのは、受難の前夜に「わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリント11∙24-25)といわれたキリストの命令に従うためでした。
[1357]
わたしたちはキリストの命令を、そのいけにえの記念を行うことによって果たします。そうすることにより、御父がわたしたちに与えてくださったもの、すなわち、自然の産物であるパンとぶどう酒が聖霊の力とキリストのことばとによってキリストのからだと血になったものを、御父にささげます。こうしてキリストは、実際に、また、神秘的に現存するようになられます。
[1358]
したがってわたしたちは、エウカリスチアを以下のように理解しなければなりません。
⸺御父への感謝と賛美
⸺キリストおよびそのからだである教会の、いけにえによる記念
⸺キリストのことばとその霊の力とによるキリストの現存
[1359]
エウカリスチアは、十字架上でキリストによって成就された救いの秘跡ですが、また、創造のわざに感謝してささげる賛美のいけにえでもあります。このエウカリスチアのいけにえにおいて、神に愛されている全被造物がキリストの死と復活を通して御父にささげられます。教会は、神が被造界と人類とのうちになされたすべてのよいこと、美しいこと、正しいことに感謝するために、キリストを通して賛美のいけにえをささげることができます。
[1360]
エウカリスチアは御父への感謝のいけにえであり、神のすべての恵みに対する教会の感謝、すなわち創造、あがない、聖化によって成し遂げられたすべてのことについての感謝を表す神への賛美です。エウカリスチアという語はまず、「感謝」を意味します。
[1361]
エウカリスチアはまた、教会がすべての被造物に代わって神の栄光を歌う賛美のいけにえです。この賛美のいけにえは、キリストを通してしかささげることができません。すなわち、キリストが信者たちをご自分と、ご自分の賛美ならびに執り成しに一致させてくださるのです。こうして御父への賛美のいけにえは、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに受け入れられます。
[1362]
エウカリスチアはキリストの過越の記念、そのからだである教会の典礼の中で行われるキリストの唯一のいけにえの再現、秘跡的な奉献です。すべての奉献文には、制定のことばの後、アナムネシスないし記念と呼ばれる祈りがあります。
[1364]
新約聖書では、記念には新たな意味づけがなされています。教会がエウカリスチアを行うとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度ささげられた犠牲は、つねに成し遂げられた状態にあるのですヘブライ7・25-27参照。。「『わたしたちの過越であるキリストがいけにえとなられた』(一コリント5∙7)十字架の犠牲が祭壇の上で祭儀執行されるたびごとに、わたしたちのあがないのみわざが行われます」『教会憲章』,第3項。。
[1365]
エウカリスチアは、キリストの過越の記念ですので、いけにえでもあります。エウカリスチアのいけにえとしての性格は、その制定のことばに明らかです。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22∙19-20)。エウカリスチアにおいて、キリストは十字架上でわたしたちのために渡されたそのからだと「罪がゆるされるように、多くの人のために」(マタイ26∙28)流された血とをお与えになります。
[1366]
したがって、エウカリスチアは、十字架上のいけにえを
現在化し、記念し、その実りを
分け与えるので、いけにえなのです。
「わたしたちの神であり、主〔であるキリスト〕は、十字架の祭壇の上で死なれ、一度で永久に父である神にご自分をささげて、救いのわざを完成されました。しかしキリストの祭司職は死によって消え去るものではなかったので(ヘブライ7∙24,27)、『引き渡される夜』(一コリント11∙23)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見えるいけにえを残されたのです(人間のためにはこれが必要でした)。このいけにえによって、十字架上で一度血を流してささげたものが表され、その記憶が世の終わりまで続き、その救いの力によってわたしたちが毎日犯す罪がゆるされるのです」トリエント公会議第22総会『ミサの奉献について』第1章(DS1740)。。
[1367]
キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。「ささげものは同一です。かつてご自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげられているからです。ただ一つ違うのは、ささげ方だけです」同第2章(DS1743)。。「そこで、ミサ聖祭で行われるこの神聖ないけにえには、十字架上の祭壇で『一回限り血を流して自らをささげられた』のと同じキリストが現存し、血を流さずにささげられます。……このいけにえは真のなだめのいけにえです」同第2章(DS1743)。。
[1368]
エウカリスチアは、教会のいけにえでもあります。キリストのからだである教会は、その頭の奉献をともにします。キリストとともに、教会全体がささげられます。教会は、御父のもとであらゆる人のために行われるキリストの執り成しにあずかります。エウカリスチアでは、キリストのいけにえはまた、そのからだに属する人々がささげるいけにえとなります。信者たちの生活、賛美、苦しみ、祈り、労働などはキリストのそれとキリストのまったき奉献とに合わせられ、新たな価値を得るのです。祭壇上に現存するキリストのいけにえによって、すべての時代のキリスト者がキリストの奉献に一致することが可能となります。
ローマのカタコンベでは、教会はしばしば礼拝の姿勢で腕を大きく広げて祈る婦人の姿で描かれています。十字架上で腕を広げたキリストのように、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、教会はすべての人のために自らをささげ、執り成します。
[1369]
教会全体が、キリストの奉献と執り成しに結ばれます。教会の中でペトロの務めを果たす
教皇はすべてのエウカリスチアの祭儀に結ばれており、普遍教会の一致のしるし、奉仕者として、その名が唱えられます。
地域の司教は、
司祭が司式するときでも、つねにエウカリスチアの責任者です。エウカリスチアでその名が唱えられるのは、司祭団に囲まれ、
助祭の補佐を受けている司教が部分教会の頭であることを意味するためです。信者の集まりは、自分たちのために自分たちとともにエウカリスチアのいけにえをささげるすべての役務者のためにも執り成しを行います。
「司教もしくは司教が委任した者の司式で行われるエウカリスチアだけが、有効であるとみなされます」アンティオキアの聖イグナティオス『スミュルナの信徒への手紙』 (S. Ignatins Antiochenus, Epistula ad Smyrnaeos 8, 1: SC 10bis, 138 [Funk 1, 282])。。
「司祭の役務を通して、信者の霊的いけにえは、唯一の仲介者であるキリストのいけにえとの一致のうちに完成するものであり、このキリストのいけにえは、主自らが来られるときまで、司祭たちの手によって、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘跡的にささげられます」『司祭の役務と生活に関する教令』,第2項。。
[1370]
キリストの奉献には、今この世に生きる人たちだけではなく、すでに天の栄光に入った人たちもともに参加します。教会は、いと聖なるおとめマリアに結ばれ、マリアやすべての聖人たちを記念しながらエウカリスチアのいけにえをささげます。エウカリスチアを行うとき、教会はいわばマリアとともに十字架のもとにたたずみ、キリストの奉献と執り成しとに結ばれるのです。
[1371]
エウカリスチアのいけにえはまた、「キリストに結ばれて死に、まだ完全に清められていない」
トリエント公会議第22総会『ミサの奉献について』第2章(DS1743)。亡くなった信者が、キリストの光と平安とにあずかることができるようになるためにもささげられます。
「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心を煩わさないでおくれ。ただ一つ、お願いがあります。どこにいようとも、主の祭壇のもとでわたしを思い出しておくれ」聖アウグスティヌス『告白録』 (S. Augustinus, Confessiones, 9, 11, 27: CCL 27, 149 [PL32, 775])。聖モニカが死を前にして聖アウグスティヌスとその兄弟に語ったことば。。
「次に、わたしたちは〔奉献文の中で〕、亡くなった聖なる教父や司教たちのため、またわたしたちに先だって亡くなった人々全体のために祈ります。聖にしてこれほどに尊いいけにえがささげられている間になされる執り成しの祈りが、彼らのために大いに役立つだろうと信じているからです。……たとえ亡くなった人々が罪びとであったにせよ、彼らのために神に祈りをささげ、……人々の友である神に亡くなった人々やわたしたちに対するあわれみを願って、わたしたちの罪のためにいけにえとなられたキリストをおささげするのです」エルサレムの聖チリロ『秘義教話』 (S. Cyrillus Hierosolymitanus, Catecheses mystagogicae 5, 9-10 : SC 126, 158-160 [PG 30, 1116-1117])。。
[1372]
聖アウグスチヌスは、わたしたちが行うエウカリスチアでのあがない主のいけにえにつねにますます完全にあずかるようにと促すこの教えを、次のように要約しました。
「あがなわれた国全体、すなわち聖者たちの集いと共同体が、大祭司〔キリスト〕によって普遍的なささげものとして神に奉献されます。この大祭司は、しもべの姿をとった者として、わたしたちがこれほど偉大な頭の肢体となるように、わたしたちのために苦しみを受けて、自らをささげものとして奉献してくださいました。……『数は多いが、キリストに結ばれて一つのからだを形づくっている』ことこそ、キリスト者の奉献です。これこそ、信者たちが熟知している祭壇の秘跡として、教会がたえず行っている奉献です。この秘跡において教会が神にささげるもののうちに、教会そのものがささげられるということが教会に示されるのです」聖アウグスティヌス『神の国』 (S. Augustinus, De civitate Dei 10, 6 : CSEL 40/1, 456 [PL 41, 284])。。
[1373]
「死んだかた、否、むしろ、復活させられたかたであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8∙34)。このキリストが、さまざまなしかたで教会に現存されます『教会憲章』,第48項参照。。ご自分のことばのうちに、ご自分の教会の祈りの中に、「二人または三人が〔ご自分の〕名によって集まるところには、その中に」(マタイ18∙20)、また、貧しい人、病人、囚人のうちにマタイ25・31-46参照。、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサのいけにえならびに司式者のうちに現存されます。しかし、「とくに、聖体の両形態のもとに現存しておられる」『典礼憲章』,第7項。のです。
[1374]
聖体の両形態のもとでのキリスト現存のあり方は比類のないものです。そのためにエウカリスチアは、他の秘跡よりも上位のものとされ、「いわば、霊的生活の完成、すべての秘跡が向かう目的」聖トマス・アクイナス『神学大全』(Suma theologiae 3, q. 73, a. 3, c : ed. Leon. 12, 140)。となります。至聖なる聖体(エウカリスチア)の秘跡には、わたしたちの主イエス・キリストの霊魂と神性とに結ばれたからだと血、つまり、全キリストが真に、現実に、実体的に現存しておられますトリエント公会議第13総会『聖体についての教令』1(Decretum de ss. Eucharistia : DS1651)参照。。「この現存を『現実の』現存といいますが、それはそれ以外の現存が『現実』ではないのでそれらを除外するという意味ではなく、神であり人である全キリストが現存するようになるという実体的存の崇高さのゆえなのです」パウルス6世回勅『ミステリウム・フィデイ』 (Mysterium fidei : AAS 57 [1965] 764)。。
[1375]
パンとぶとう酒がキリストのからだと血に
変わることによって、キリストはこの秘跡に現存するものとなられます。教父たちは、この変化を行うキリストのことばと聖霊の働きとの効力に対する教会の信仰を確固として主張してきました。たとえば、聖ヨハネ・クリゾストモは次のように述べています。
「供えられた物をキリストのからだと血にするのは人間ではなく、わたしたちのために十字架につけられたキリストご自身です。キリストの姿を表している司祭がことばを述べますが、その効力と恵みは神からのものです。これはわたしのからだであるとはキリストがいわれるのであって、このことばが供え物を変えるのです」聖ヨアンネス・クリュソストモス『ユダの裏切りについての説教』 (S. Ioannes chrysostomus, De proditione Iudae homilia 1 6: PG 49, 380)。。
また聖アンブロジオは、この変化についてこう述べています。
「これは自然によって形づくられたのものではなく、祝福によって聖別されたものであり、祝福によって自然そのものが変えられるから、祝福の力が自然の力に勝つ」聖アンブロジウス『秘義について』 (De mystems, 9, 50: CSEL 73, 110 [PL 16 405])。のだとわたしたちは確信すべきです。「存在しなかったものを無から造り出すことができたキリストのことばは、存在しているものを別のものに変えることができないのでしょうか。ものの本性を変化させるよりは、ものに存在を与えるほうがやさしいわけではないのです」同(Ibid., 9, 52: CSEL 73, 112 [PL 16, 407])。。
[1376]
トリエント公会議は、カトリック信仰を要約してこう宣言しています。「わたしたちの救い主キリストは、パンの形態のもとにささげられたものがご自分の真のからだであると仰せられたので、神の教会が変わることなくつねに信じてきたことを、この聖なる公会議も繰り返して宣言します。すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体がわたしたちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」トリエント公会議第13総会『聖体についての教令』4(DS1642)。。
[1377]
聖体におけるキリストの現存は聖別のときに始まり、その形態が存在する限り続きます。キリスト全体がそれぞれの形態のうちに、またその部分のうちに全体として現存されます。したがって、パンを裂いてもキリストが分割されることはありません同3(DS1641)参照。。
[1378]
聖体礼拝。ミサの典礼で、わたしたちはキリストをあがめるしるしとしてひざまずいたり頭を深く下げたりすることなどによって、パンとぶどう酒の形態のもとに現存されるキリストへの信仰を表します。「カトリック教会はこれまで、聖体の秘跡に対する礼拝をミサの間だけではなくミサ外でも行ってきましたし、現在も行っています。聖別されたホスチアを注意深く保存し、おごそかに信者の崇敬の対象とし、民衆が喜ぶ中でそれを行列しながら運ぶのです」パウルス6世『ミステリウム・フィデイ』(loc. cit., 769)。。
[1379]
聖体を保存するための聖櫃はまず、ミサに出席できなかった病人などにミサ後に聖体を持参できるように、そのときまでうやうやしく安置するためのものでした。しかし、聖体におけるキリストの現存に対する信仰が深められるにつれて、教会はパンの形態のもとに現存するキリストを沈黙のうちに礼拝する意義をますます理解するようになりました。したがって、聖櫃は教会堂の特別にふさわしい場所に置かれなければなりませんし、同時に、聖体にキリストが真実に現存されることが明白に表されるような形で作られる必要があります。
[1380]
キリストがこの比類のないしかたで教会につねに現存することを望まれたのは、まったく当然のことです。キリストは、目に見える姿では弟子たちから去られましたが、わたしたちのもとに秘跡的に現存することをお望みになりました。また、わたしたちの救いのために十字架上でご自分をささげるにあたり、ご自分のいのちを捨てるまでにわたしたちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13∙1)、その愛を思い起こさせる形見をわたしたちに残そうと望まれました。キリストは、わたしたちを愛し、わたしたちのために身をささげられたかたとして
ガラテヤ2・20参照。、エウカリスチアによる現存という形をとって、その愛を表し共有するしるしのもとで、わたしたちの間に神秘的にとどまっておられるのです。
「教会と世界は聖体の礼拝を大いに必要としています。わたしたちは、信仰にあふれた礼拝と観想において、世界の大きな過ちと罪を償う心構えで、イエスに出会うためには時間を惜しんではなりません。わたしたちのこの礼拝が、決して途絶えることがありませんように」ヨハネ・パウロ2世書簡『聖体の秘義と礼拝について―教会の全司教にあてた』3(Dominicae Cenae: AAS 72 [1980] 119)。Enchiridion Vaticanum 7, 111参照。。
[1381]
「キリストの真のからだと真の血の現存は、『感覚によってではなく、ただ神の権威に支えられた
信仰によってのみ把握される』と聖トマスは述べています。聖チリロは
これはあなたがたのために与えられるわたしのからだであるというルカ22章19節のことばを解説して、こういいます。『真であるか否かを問わずに、むしろ、主のことばを信仰をもって受け入れなさい。真理であるかたは偽りを話されません』と」
パウルス6世『ミステリウム・フィデイ』(loc. cit., 757)。聖トマス・アクイナス『神学大全』(Summa theologiae 3, q. 75, a. 1c:Ed. Leon. 12, 156)、アレクサンドリアの聖チリロ『ルカ福音書注解』 (S. Cyrillus Alexandrinus. Commentarius in Lucam 22, 19: PG 72, 912)参照。。
「これらの形の下に隠れてはいても、
現存する神であるあなたを、わたしはひれ伏して礼拝します。
わたしの心をまったくあなたに従わせます。
あなたを見つめていると、なすべきことが分からないからです。
視覚も触覚も味覚も、あなたを把握できません。
聴覚だけによって信ずべきことが分かるのです。
わたしは、神の御子が語られたすべてのことを信じます。
真理であるかたのことばより真実なものは何もないのです」Adoro Te devote(AHMA 50, 589)。。
[1382]
ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、わたしたちのためにいのちをささげられたキリストご自身をいただくことです。
[1383]
教会は
祭壇を囲んでエウカリスチアを行いますが、その祭壇は、いけにえの祭壇であると同時に主の食卓であるという唯一の神秘の二つの面を表しています。というのは、キリスト教の祭壇は、わたしたちの和解のためにささげられたいけにえとして、またわたしたちに与えられる天の糧として、信者のただ中に現存されるキリストご自身の象徴だからです。聖アンブロジオは、「キリストの祭壇はキリストのからだを表すものでなくて、何でしょう」
聖アンブロジウス『秘跡について』 (De sacramentis 5. 7: CSEL 73, 61 [PL 16, 447])。といい、また他のところでは、「祭壇は〔キリストの〕からだを表し、キリストのからだは祭壇の上にある」
同(Ibid., 4, 7: CSEL 73, 49 [PL 16, 4371)。といっています。典礼の多くの祈りは、いけにえと聖体拝領との一体性を表現しています。たとえば、ローマ教会は奉献文の中で次のように祈ります。
「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものをみ使いに運ばせ、今、祭壇で御子の神聖なからだと血にともに結ばれるわたしたちが、天の祝福と恵みに満たされますように」『ローマ・ミサ典礼書』第1奉献文(ローマ典文)。。
[1384]
キリストは、エウカリスチアの秘跡でわたしたちがご自分をいただくよう強く促しておられます。「はっきりいっておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちにいのちはない」(ヨハネ6∙53)。
[1385]
キリストの招きにこたえるために、この重要で聖なる時に備えなければなりません。聖パウロは良心の糾明を勧めます。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主のからだのことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(一コリント11∙27-29)。大罪を犯したことを意識している人は、聖体拝領の前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。
[1386]
この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次のことばを謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にありません
マタイ8・8参照。。「
主よ、わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの魂はいやされます」
『ローマ・ミサ典礼書』拝領前の信仰告白。。また、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼では、信者たちは同じ精神でこう祈ります。
「ああ、神の御子よ、あなたの神秘的な晩さんで、今日、聖体をいただかせてください。わたしはこの秘密をあなたの敵対者に話さず、あなたにユダの接吻もいたしません。むしろあの盗賊のように、主よ、あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください、と叫びます」ビザンチン典礼(ヨアンネス・クリュソストモス典礼) 「アナフォラ」の拝領前の祈り(F. E. Brighitman, Liturgies Eastern and western [Oxford 1896] 394)。。
[1387]
信者は聖体をふさわしく拝領する準備として、自分が属する教会の定めに従い、飲食物を控えなければなりません「新教会法典」第919条参照。。尊敬を表す態度や身なりをして、わたしたちの賓客になられるキリストをお迎えする厳粛さと喜びとを表現しなければなりません。
[1388]
信者に必要な準備ができている場合「新教会法典」第916-917条参照。、ミサにあずかるときに聖体を拝領することは信者は同じ日に再度、聖体を受けることができる。教皇庁教会法典翻訳委員会の回答(Responsa ad proposita dubta, 1 : AAS 76 [1984] 746)。、エウカリスチアの意義にかなっています。「司祭の聖体拝領後に、信者が、その同じ犠牲から主の御からだを拝領することは、ミサ聖祭へのより完全な参加であって、せつに勧められることです」 『典礼憲章』,第55項。。
[1389]
教会は信者に、主日と祝祭日に聖典礼にあずかり第2バチカン公会議『東方カトリック諸教会に関する教令』,第15項(Ecclesiarum Orientalium)参照。、少なくとも年に一度、できれば復活祭の時期に「新教会法典」第920条参照。、ゆるしの秘跡を受けた後、聖体を拝領することを義務づけています。しかし教会は、主日と祝祭日、あるいはもっと頻繁に、いや、毎日でも聖体を拝領するよう信者に強く勧めています。
[1390]
キリストが各形態のもとに秘跡的に現存しておられるので、パンの形態だけの拝領でも両形態での拝領と同じ恵みが与えられます。ローマ典礼では種々の司牧的理由から、このパンの形態だけでの聖体拝領のあり方が合法的に普通のこととなりました。しかし、「しるしの観点からすれば、両形態のもとになされる拝領は、より充実した形式を備えています。この形式においては、感謝の会食のしるしがより完全に現れます」「ローマ・ミサ典礼書の総則」 240。。この両形態での拝領が、東方教会典礼では通常の方法となっています。
[1391]
聖体拝領は、キリストとわたしたちの一致を強めます。聖体拝領のすばらしい実りは、イエス・キリストとの親密な一致です。キリストは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙56)といわれます。キリストのうちにあって生かされるいのちの源泉は、エウカリスチアの会食です。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6∙57)。
「主の祝日に御子のからだを拝領するとき、信者はいのちの保証が与えられたという、よい知らせを互いに伝え合っています。それは、天使が〔マグダラの〕マリアに『キリストは復活なさったのだ』と伝えたときと同じです。今も、いのちと復活とがキリストをいただく者に与えられるのです」ファンキート「シリア・アンティオキア典礼様式に基づく聖務日課」 (Fanqith, Breviarium iuxta ritum Ecclesiae Antiiochenae Syrorum, v. 1 [Mossu1 1886] 237a-b)。。
[1392]
通常の食べ物がわたしたちの肉体的いのちにもたらすものを、聖体拝領は感嘆すべきしかたでわたしたちの霊的いのちにもたらします。復活して「聖霊によって生き、また生かす」『司祭の役務と生活に関する教令』,第5項参照。キリストのからだを拝領することにより、洗礼の際に受けた恵みのいのちが維持され、成長し、新たにされます。このキリスト教的いのちの成長は聖体拝領によって養い続けられる必要があります。聖体は、死の時までのわたしたちの旅路の糧であり、死の時には臨終の糧として授けられます。
[1393]
聖体拝領は、わたしたちを罪から離れさせます。聖体拝領でいただくキリストのからだは「わたしたちのために渡される」からだであり、飲む血は「多くの人の罪のゆるしのために流される」血です。したがって聖体は、わたしたちをキリストに一致させるときに必ず、犯した罪から清め、これから先罪を犯さないように守ってくれます。
「いただくたびに、主の死を告げ知らせるのです1コリント11・26参照。。もし主の死を告げ知らせるのならば、わたしたちは罪のゆるしを告げ知らせているのです。もし、御血がいつも罪のゆるしのために流されるのであるとすれば、わたしは罪をゆるしていただくためにいつも御血をいただかなければなりません。わたしはいつも罪を犯しているので、いつも薬をいただかなければならないのです」聖アンブロジウス『秘跡について』 (De sacramentis 4, 28 : CSEL 73, 57-58 [PL 16, 446])。。
[1394]
からだの糧が体力の消耗を回復させるのと同じく、聖体は、日常の生活で弱まりがちな愛を強化します。そして活力を取り戻したこの愛は、
小罪を消しますトリエント公会議第13総会『聖体についての教令』2(DS1638)参照。。キリストはご自分をわたしたちに与えて、わたしたちの愛を再び燃え立たせ、被造物に対する乱れた愛着を断ち切り、わたしたちをご自分に深くつなぎ止めてくださいます。
「キリストは、わたしたちへの愛のゆえに死なれたのですから、わたしたちがいけにえをささげてその死を記念するとき、聖霊の到来によって、愛が与えられるよう願うのです。そして、キリストがわたしたちのために、進んで十字架につけられることを選ばれたその愛によって、わたしたちもまた聖霊の恩恵を受けて、世をはりつけにされたものとみなすことができるように、また、世に対してはわたしたちがはりつけにされたものとなることができるように、へりくだって祈るのです。……たまものとして愛を受けて罪に対して死に、神に対して生きるためです」ルスペの聖フルゲンティウス『ファビアノ反駁』 (S. Fulgentius Ruspensis, Contra gesta Fabiani 28, 17 : CCL 91A, 813-814 [PL 65, 789])。。
[1395]
エウカリスチアは、わたしたちのうちに愛を燃え立たせることによって、わたしたちが今後大罪を犯さないように守ってくれます。わたしたちは、キリストのいのちにあずかり、キリストとの友愛を深めれば深めるほど、キリストとの交わりを断ち切る大罪から守られます。エウカリスチアは大罪をゆるすためのものではありません。大罪をゆるすのはゆるしの秘跡です。エウカリスチアは、教会との完全な交わりを保っている人々のための秘跡です。
[1396]
神秘体の一致⸺エウカリスチアは、教会をつくります。聖体を拝領する人々は、キリストにより親密に結ばれます。それゆえに、キリストはすべての信者を教会というただ一つのからだに結びつけます。聖体拝領は、すでに洗礼によって実現された教会との合体を新たにし、強めます。洗礼によって、わたしたちはただ一つのからだを形づくるように召されました
1コリント12・13参照。。エウカリスチアはこの招きを実現します。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10∙16-17)。
「もし、皆さんがキリストのからだ、またその肢体であるならば、主の食卓の上に置かれてあるのは皆さんを表す秘跡で、皆さんは皆さんを表す秘跡を受けます。皆さんはいただくものに対してアーメン(まことにそのとおりです)と答え、そう答えながらそれに同意しているわけです。あなたはキリストのからだということばを聞き、アーメンと答えます。ですから、あなたのアーメンが真実であるように、キリストの肢体でありなさい」聖アウグスティヌス『説教』 (S. Augustinus, Sermo 272 : PL 38, 1247)。。
[1397]
エウカリスチアは、貧しい人々との連帯を強めさせてくれます。わたしたちのために渡されたキリストのからだと血をふさわしくいただくには、その兄弟であるもっとも貧しい人々のうちにキリストを認めなければなりません
マタイ25・40参照。。
「あなたは主の御血を味わったのに、自分の兄弟を認めてさえいません。この食卓に加わるのにふさわしいと認められた者を、あなたの糧を分かち合うのにふさわしくない者とあなたは考えているので、この食卓を汚しているのです。神はあなたをすべての罪から解放し、この食卓に招かれました。それなのに、それでもあなたはあわれみ深い者とはなっていません」聖ヨアンネス・クリュソストモス『コリントの信徒への第1の手紙講話』 (S. Ioannes Chrysostomus, In epistulam I ad Corinthios, homilia 27, 5 : PG 61, 230)。。
[1398]
エウカリスチアおよびキリスト者の一致。この神秘の偉大さを前にして、聖アウグスチヌスは「ああ、何とすばらしい敬神の秘跡、何と崇高な一致のしるし、何と尊い愛のきずな!」聖アウグスティヌス『ヨハネ福音書講話』 (In lohannis evangehum tractatus 26, 13: CCL36,266 [PL35, 1613])c 『典礼憲章』,第47項参照。と叫んでいます。そのことを考えると、主の食卓をともにすることを妨げる教会の分裂は大きな悲しみをもたらします。だから、主を信じるすべての人の完全な一致の日が再び訪れるようキリストに祈ることが、緊急に求められているのです。
[1399]
カトリック教会と完全には一致していない東方の諸教会では、エウカリスチアが非常な愛をもって挙行されています。「これらの教会はたとえ分かれてはいても、真の秘跡、とくに使徒継承の力により祭司職とエウカリスチアを持っていて、それらによって今なお緊密にわたしたちと結ばれています」『エキュメニズムに関する教令』,第15項。。だから「典礼へのある程度の共同参加(コムニカチオ・イン・サクリス)は、ある適当な条件のもとに教会権威の承認を得た上で、可能であるばかりでなく勧められることでもあります」『エキュメニズムに関する教令』,第15項。「新教会法典」第844条第3項参照。。
[1400]
宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」『エキュメニズムに関する教令』,第22項。。この理由で、カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません。とはいえ、これらの教団は「聖さん式において、主の死と復活の記念を行い、キリストと交わる生命が示されることを公言し、また、キリストの栄光の到来を期待している」『エキュメニズムに関する教令』,第22項。のです。
[1401]
さし迫った重大な必要がある場合、カトリックの教役者は教区司教の判断に従い、カトリック教会との完全な交わりにはなくとも、心底からこれを求めるキリスト者に(聖体、ゆるし、病者の塗油の)秘跡を授けることができます。その場合は、これらの秘跡に関するカトリックの信仰を表明し、必要な心構えができていなければなりません「新教会法典」第844条第4項参照。。
[1402]
ある古い祈りの中で、教会はエウカリスチアの神秘を次のように唱えてたたえています。「ああ、聖なるうたげ、そこでキリストはわたしたちの糧となり、受難が改めて記念され、恵みがわたしたちを満たし、来るべき栄光の保証が与えられる」『教会の祈り(親範版)』キリストの聖体の祭日の晩の祈りの福音の歌(マリアの歌)の交唱(Liturgia Horarum, editio typica, v. 3 [Typis Polyglottis Vaticanis 1973] 502)。。エウカリスチアはキリストの過越の記念であり、わたしたちは聖体拝領によって「天の祝福と恵みに」『ローマ・ミサ典礼書』第1奉献文(ローマ典文)。満たされます。それゆえ、エウカリスチアは天の栄光の先取りなのです。
[1403]
最後の晩さんのときに、主ご自身が弟子たちの注意を神の国における過越の完成に向けさせてくださいました。「いっておくが、わたしの父の国であなたがたとともに新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(マタイ26∙29)ルカ22・18、マルコ14・25参照。。教会はエウカリスチアを行うたびに、父の国でキリストとともに新たにぶどう酒を飲むというキリストの約束を思い起こし、目を「やがて来られるかた」(黙示録1∙4)に向けます。そして、そのかたの到来を願って、「マラナ・タ(主よ、来てください)」(一コリント16∙22)、「主イエスよ、来てください」(黙示録22∙20)、「あなたの恵みが訪れて、この世が過ぎ去りますように」『ディダケー』 (Didache 10, 6: SC 248, 180 [Funk 1, 24])。と祈ります。
[1404]
教会は、主がすでに今行われているご自分のエウカリスチアにおいでになって、わたしたちのただ中におられることを知っています。しかし、この現存を目で確かめることはできません。ですから、わたしたちはエウカリスチアを挙行するとき、「救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んで」『ローマ・ミサ典礼書』 「主の祈り」の後の副文。テトス2・13参照。、「わたしたちもいつかその国で、いつまでもともにあなたの栄光にあずかり、喜びに満たされますように。そのときあなたは、わたしたちの目から涙をすべてぬぐいさり、わたしたちは神であるあなたをありのままに見て、永遠にあなたに似るものとなり、終わりなくあなたをたたえることができるのです」と祈ります『ローマ・ミサ典礼書』第3奉献文.。
[1405]
エウカリスチアは、この大きな希望、すなわち、義の宿る新しい天と新しい地の希望2ペトロ3・13参照。のもっとも確実な保証、明白なしるしなのです。この祭儀の度ごとに、「わたしたちのあがないのみわざが行われ」 『教会憲章』,第3項.、わたしたちは「不死の妙薬、死なずにイエス・キリストに結ばれて永遠に生きるための解毒剤である一つのパンを〔裂くのです〕」アンティオキアの聖イグナティオス『エフェソの信徒への手紙』 (Epistula ad Ephesios, 20, 2: SC 10bis, 76 [Funk 1, 230])。。
[1406]
イエスはいわれます。「わたしは、天からくだって来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。……わたしの肉を食べ、その血を飲む者は永遠のいのちを得、……いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」(ヨハネ6∙51,54,56)。
[1407]
エウカリスチアは教会生活の中心でも、頂点でもあります。なぜなら、エウカリスチアにおいて、キリストはご自分の教会とそのすべての成員を、ただ一度十字架上で御父にささげられた賛美と感謝のいけにえに結びつけられるからです。このいけにえによって、キリストは教会であるご自分のからだに救いの恵みを注がれます。
[1408]
エウカリスチアにはつねに、神のことばの宣言、すべての恩恵、とくに御子をたまものとしてお与えくださった恵みのゆえに父である神にささげる感謝、パンとぶどう酒の聖別、および、主のからだと血をいただく会食への参加、という要素が含まれています。以上の要素が、唯一の同じ祭儀を成り立たせているのです。
[1409]
エウカリスチアはキリストの過越の記念です。すなわち、キリストの生涯、および死と復活によって成し遂げられた救いのわざの記念であり、それが典礼行為によって現在化されるのです。
[1410]
新約の永遠の大祭司キリストご自身が、司祭たちの務めを通して、エウカリスチアのいけにえをささげられます。また、このいけにえの供え物も、パンとぶどう酒の形態のもとに現存される同じキリストです。
[1411]
有効に叙階された司祭のみがエウカリスチアを司式し、キリストのからだと血になるようにパンとぶどう酒を聖別することができます。
[1412]
この秘跡の基本的なしるしは麦で作られたパンとぶどう酒であり、その上に聖霊の祝福が呼び求められ、司祭は最後の晩さんの間にイエスがいわれた「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。……これはわたしの血の杯である」という聖別のことばを唱えます。
[1413]
聖別によって、パンとぶどう酒の実体はキリストのからだと血の実体に変わります。聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとに、生きておられる栄光のキリストご自身が真に、現実に、実体的に、からだと血、霊魂と神性ともども現存されますトリエント公会議第13総会『聖体についての教令』第3章(DS1640)、同「聖体についての規定」1(DS1651)参照。。
[1414]
エウカリスチアは、生者と死者の罪を償い、霊的または物的恵みを神からいただくためにもいけにえとしてささげられます。
[1415]
聖体拝領によってキリストをいただきたい者は、成聖の恩恵の状態になければなりません。大罪を犯したことを自覚している者は、聖体を拝領する前に、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを受けなければなりません。
[1416]
キリストのからだと血を拝領することによって、本人とキリストとの一致が強められ、小罪がゆるされ、大罪から守られます。また拝領者とキリストとの愛のきずなが固められるので、聖体拝領はキリストのからだである教会そのものの一致をも強化します。
[1417]
教会は信者に、エウカリスチアの祭儀にあずかるときには聖体を拝領するよう強く勧めています。少なくとも年に一度の聖体拝領が信者の義務となっていをす。少なくとも年一度の聖体拝領が信者の義務となっています。
[1418]
キリストご自身が聖体の秘跡に現存しておられるので、わたしたちは聖体を礼拝しなければなりません。「聖体訪問はわたしたちの主キリストに対する感謝の表明、愛のしるし、礼拝の務めです」パウルス6世『ミステリウム・フィデイ』,第3項(loc. cit., 771)。。
[1419]
キリストはこの世から御父のもとに移られたので、わたしたちがキリストのもとで栄光を受ける保証として、エウカリスチアをわたしたちに与えてくださいます。わたしたちは聖なるいけにえにあずかることによって、キリストの心と一つになり、この世の旅路で力づけられ、永遠のいのちを希求し、この世にありながらすでに天上の教会、聖なるおとめマリア、すべての聖人たちと結ばれます。
[1363xn+記念xn-とは、聖書的には、過去の出来事を単に想起することではなく、神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することを意味しますn188。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます。イスラエル人たちは、エジプトからの解放を記念する過越祭を行うたびに、それによって自分たちの生活が活性化できるように、解放の出来事が信者たちの記憶の中によみがえってくる、と理解しています。]