[1422]
「告解(ゆるし)の秘跡を受ける者は、神に加えた侮辱のゆるしをあわれみ深い神からいただき、同時に自分たちの罪をもって傷つけた教会、愛と模範と祈りをもって自分たちの回心のために努力している教会と和解します。」3
[1423]
回心の秘跡と呼ばれるのは、それが回心へのイエスの呼びかけであり4、罪によって遠ざかった御父のもとに戻る歩み5を秘跡的に実現するからです。
悔い改めの秘跡と呼ばれるのは、それが、罪を犯したキリスト者の回心、痛悔、償いの個人的および教会的歩みにかかわるからです。
[1424]
告白の秘跡と呼ばれるのは、司祭の前で罪を告白するのがこの秘跡の本質的要素の一つだからです。この名称の根底には、この秘跡は神の聖性と罪びとに対する神のあわれみとを「告白すること」⸺認めて賛美すること⸺である、という意味合いが込められています。
ゆるしの秘跡と呼ばれるのは、司祭による秘跡的なゆるしを介して、神が悔い改める者に「ゆるしと平和」6をお与えになるからです。
和解の秘跡と呼ばれるのは、和解させてくださる神の愛を罪びとに与えるからです。「神と和解させていただきなさい」(二コリント5∙20)とパウロはいっています。神の慈愛を体験した人は、「まず行って兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5∙24)というキリストの呼びかけにこたえる用意があります。
[1425]
「あなたがたは……主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(一コリント6∙11)。キリスト教入信の秘跡で与えられる神の恵みの偉大さを理解すれば、キリストを着ている者にとって7、罪がいかに相いれないものであるかが分かるはずです。しかし、使徒聖ヨハネはこうも述べています。「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにありません」(一ヨハネ1∙8)。キリストご自身、「わたしたちの罪をゆるしてください」(ルカ11∙4)と祈るように教えられました。しかも、わたしたちが相互にゆるし合うなら、神もわたしたちの罪をおゆるしになる、といって、この二つのゆるしを結びつけられました。
[1426]
わたしたちは、キリストへの回心、洗礼による新たな誕生、聖霊のたまもの、キリストのからだと血の糧によって、「神のみ前で」(エフェソ1∙4)聖なる者、汚れのない者となりました。キリストの花嫁である教会自体が、キリストのみ前で「聖なる、汚れのない」(エフェソ5∙27)ものであるのと同様です。しかし、キリスト者となった当初に受けた新しいいのちは、人間本性のもろさと弱さ、ならびに罪への傾きを停止させるわけではありません。この傾きは教会では伝統的に欲情と呼ばれており、受洗者がキリストの恵みに助けられ、キリスト者として生活しながらこの傾きと勇敢に戦うために、洗礼を受けた人々のうちにも残ります8。この戦いは、主がたえずわたしたちを招いておられる聖性と永遠のいのちとを目指す、回心の戦いです9。
[1427]
イエスは回心を呼びかけておられます。この「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1∙15)という招きは、神の国の告知の本質的な一部です。教会は宣教にあたって、この呼びかけをまず、キリストやその教会をまだ知らない人々に対して行います。ですから、洗礼こそ最初の基本的な回心の場なのです。福音を信じ、洗礼を受けることによってこそ10、人は悪を捨て、救い、すなわち、あらゆる罪のゆるしと新しいいのちとを与えられるのです。
[1428]
ところで、回心へのキリストの招きは、キリスト者の生活の中でもたえず続けられています。この第二の回心は、教会全体がつねに行うべきものです。教会は「自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続ける」11のです。この回心の努力は、単なる人間のわざではなく、恵みによって引き寄せ、動かされる「打ち砕かれた心」12の動きであって13、先にわたしたちを愛された神の慈愛にこたえるものです14。
[1429]
これを明らかにしているのが、三度キリストを否認した後の聖ペトロの回心です。はかりしれないあわれみを込めたイエスのまなざしを受けて、ペトロは痛悔の涙を流し
15、またキリストの復活の後には、キリストへの愛を三度告白します
16。第二の回心は、
共同体的意味合いも込められています。これは、完全な教会になるようにとのイエスの呼びかけ、「悔い改めよ」(黙示録2∙5,16)ということばにも表されています。
聖アンブロジオはこの二つの回心について、「教会には水と涙とがあります。洗礼の水と悔い改めの涙です」17といっています。
[1430]
すでに預言者たちにもそうであったように、回心と悔い改めへのイエスの呼びかけは、外的な行い、すなわち、「粗衣や灰」、断食などの苦行ではなく、まず、心からの回心、内面的悔い改めを求めます。これがなければ、償いの行為はむなしく、偽りのものです。それに対して、心からの回心は、悔い改めの行為やわざなどの目に見えるしるしをもって表されます18。
[1431]
内面的悔い改めとは、生活全体の根本的転向、つまりわたしたちが心の底から神に復帰し、罪を断ち、悪から遠ざかり、犯した悪い行為を嫌悪することです。それは同時に、神のあわれみを希望し、その恵みの助けに信頼して、生き方を変えようという望みと決心とを伴うものです。この回心には救いに通じる苦痛と悲しみとを伴いますが、教父たちはこれを魂の苦悩、心の痛悔と呼んでいます19。
[1432]
人間の心は鈍く、かたくなです。神から新しい心を与えていただく必要があります
20。回心は第一に神の恵みの働きであり、この恵みによって心は神に向きを変えます。「主よ、みもとに立ち返らせてください。わたしたちは立ち返ります」(哀歌5∙21)。神はもう一度やり直す力をお与えになります。心は神の愛の偉大さを発見することにより、罪の醜さと重さとに打たれ、罪によって神に背き、神から離れるのを恐れるようになります。人間の心は、罪によって刺し貫かれたかたを見つめて回心します
21。
「キリストの御血を見つめ、御父にとってどれほど貴重なものであるかを理解しましょう。その血はわたしたちの救いのために流され、全世界に悔い改めの恵みをもたらしたものだからです」22。
[1433]
キリストの復活以来、聖霊は御父から遣わされたかたを信じなかったという世の誤りを明らかにしてくださいます23。ところが、誤りを明らかにしてくださるこの同じ霊が、人間の心に悔い改めと回心との恵みを与えてくださる慰め主24でもあられるのです25。
[1434]
キリスト者の内面的悔い改めは、きわめて多様な形をとります。聖書や教父たちは、自分自身、神、および他人とのかかわりに関する回心を表す断食、祈り、施し26という三つの形についてとくに力説しています。洗礼や殉教によって行われる根本的な清めのほかに、罪のゆるしを得る手段として、隣人と和解する努力、悔い改めの涙、隣人の救いへの配慮27、聖人たちの執り成し、「多くの罪を覆う」(一ペトロ4∙8)隣人愛の実行、などを挙げています。
[1435]
回心は日常生活の中での、和解の行為、貧しい人々への心遣い、正義の行い、他人の権利の擁護28、他人への過ちについての告白、兄弟の回心を目指す忠告、生活の見直し、良心の糾明、霊的指導、忍苦、義のために迫害を忍ぶことなどによって実現されます。日々自分の十字架を担ってイエスに従うことが、悔い改めのもっとも確かな道です29。
[1436]
エウカリスチアと悔い改め。日常の回心と悔い改めはエウカリスチアをその源泉、養分とするものである、ということが分かります。エウカリスチアのうちに、わたしたちを神と和解させてくださったキリストのいけにえが現在化されるからです。キリストのいのちを生きる人々はそれに養われ、強められます。それは、「わたしたちを毎日の過ちから解放し、大罪から守る解毒剤」30です。
[1437]
聖書を読むこと、教会の祈り、「主の祈り」を唱えること、心からの礼拝や信心業を行うことなどはすべて、わたしたちのうちに回心と悔い改めの精神を新たにし、罪のゆるしへとわたしたちを導いてくれます。
[1438]
典礼暦の悔い改めの時と日(四旬節、イエスの死を記念する各金曜日)は、教会が悔い改めを行うのに最適の時期です31。黙想会、回心式、悔い改めのしるしとしての巡礼、断食、施しのような犠牲、助け合い(慈善や宣教事業)などを行うのにとくにふさわしい時です。
[1439]
回心と悔い改めの過程については、「放蕩息子」のたとえの中でイエスがみごとに描写しておられます。その中心は「いつくしみ深い父」です32。その息子は誤った自由を渇望し、家を出、財産をたちまち使い果たした後に窮状に陥り、やむなく豚を世話しなけれはならなくなりました。そこで強い屈辱を感じましたが、さらに進んで、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいとさえ考えるようになりました。ついに、失ったものについて反省、後悔して、父親の前で自分の過ちを認める決心をして、家に戻ります。父親は彼を寛大に迎え、大いに喜びます。このたとえには、回心と悔い改めの過程の特徴がよく表れています。りっぱな服や指輪や祝宴は、神のもとへ、また教会という家族の懐へと戻った人間の、清らかで、尊く、喜びに満ちた新しいいのちの象徴です。御父の愛の深さを知っておられるキリストのお心だけが、わたしたちにそのはかりしれないあわれみをかくも簡潔に、また美しく明らかになさることができたのです。
[1440]
罪とは、何よりも神への反抗であり、神との交わりを断つことです。同時に、罪は教会との交わりをも損ないます。したがって、回心すれば神のゆるしが与えられると同時に、教会との和解がもたらされます。それはゆるしと和解の秘跡によって実現されますが、その典礼もそのことが分かるような形になっています33。
[1441]
神だけが、罪をゆるすことがおできになります34。イエスは神の御子であられるので、ご自身のことについて、「人の子〔は〕地上で罪をゆるす権威を持っている」(マルコ2∙10)といわれました。そして、「あなたの罪はゆるされる」(マルコ2∙5)ということばをもって、神のこの権能を行使しておられます35。さらには、神としてのご自分の権威によってある人々にこの権能を与え36、ご自分の名でそれを行使させられるのです。
[1442]
キリストはご自分の尊い血によってわたしたちのためにゆるしと和解を手に入れてくださいましたが、教会全体が自分たちの祈り、生活、行動を通して、そのゆるしと和解のしるしとなり道具となることを望まれました。それにもかかわらず、キリストはゆるしの権能の行使を、使徒たちにおゆだねになりました。彼らは「和解のために奉仕する任務」(二コリント5∙18)を授かったのです。使徒たちはキリストの代理者として派遣されていますが、その使徒たちを通して「神と和解させていただきなさい」(二コリント5∙20)と勧め、嘆願しておられるのは、神ご自身なのです。
[1443]
イエスは宣教活動の間、人の罪をおゆるしになられたばかりでなく、そのゆるしの効果をもお示しになりました。すなわち、罪によって神の民の共同体から遠ざけられていた罪びとを、再びもとの共同体に迎え入れてくださいました。イエスが罪びとたちをご自分の食卓に招かれたばかりでなく、ご自身も罪びとたちの食卓に加わられたことが、その明白なしるしです。それは、神のゆるし37と神の民が住む入り江への帰還38とを強く表す行為でした。
[1444]
キリストは、罪をゆるす権能を使徒たちにゆだねながら、罪びとを教会と和解させる権能をもお与えになります。使徒たちの務めのこの教会的側面は、キリストがシモン・ペトロにいわれた次の荘厳なことばにとくに表れています。「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16∙19)。「ペトロに与えられたこの結ぶ任務と解く任務が、自分の頭と一致する使徒たちの団体にも与えられました」39(マタイ18∙18、28∙16-20 参照)。
[1445]
つなぐと解くという語には、あなたがたが共同体から退ける者は神との交わりからも退けられ、あなたがたが再び共同体に迎え入れる者を、神もまたご自分との交わりに迎え入れるでしょう、という意味があります。教会との和解は神との和解と切り離すことができません。
[1446]
キリストはゆるしの秘跡を、ご自分の教会に属するすべての罪びとのために制定なさいました。まず第一に、洗礼後に大罪を犯して洗礼の恵みを失い、教会の交わりを傷つけた人々のためです。ゆるしの秘跡は罪びとに、回心し、再び義とされる恵みを見いだす新たな可能性を提供するものです。教父たちはこの秘跡を、「恵みの喪失という難破の後に投じられる、〔救いの〕二枚目の板」40と呼んでいます。
[1447]
時代の流れとともに、教会がキリストから受けたゆるす権能の行使の具体的な方法はかなり変わりました。古代においては、洗礼後にとりわけ重大な罪(たとえば、偶像崇拝、殺人、姦通)を犯したキリスト者の和解は、非常に厳しい規則に従って行われました。つまり、悔い改める者は和解を受ける前に、自分の犯した罪の公の償いを、しばしば長年月にわたって行わなければなりませんでした。この「蹟罪者団」(ある種の重大な罪だけに限られていた)に入ることはまれにしかゆるされず、教会のある地方では、生涯にただ一度だけゆるされていました。7世紀に、東方の修道生活の伝統の影響を受けたアイルランドの宣教師たちが、ヨーロッパ大陸に「個人的な」悔い改めの慣行を導入しました。それは、教会との和解を受ける前に公の長期の償いを果たすことを要求しないものです。以後、ゆるしの秘跡は悔い改める者と司祭との間で、ひそかに行われるようになります。この新しい慣行に従って、ゆるしの秘跡を繰り返し受けることがゆるされ、こうしてこの秘跡を定期的に繰り返し受ける道が開かれました。また、大罪と小罪のゆるしが一度の秘跡で与えられることを可能にしました。今日まで教会が行ってきたゆるしの秘跡の形は大体この線に沿っています。
[1448]
ゆるしの秘跡の規定や祭儀は時の流れとともにいろいろと変わってきましたが、それでも同じ基本的構造が認められます。そこには二つの本質的要素が含まれています。その一つは、聖霊の働きのもとに回心する人間の行為、すなわち、痛悔、告白、償いであり、他の一つは、教会の仲介による神の行為です。教会は司教と司祭たちを介し、イエス・キリストのみ名によって罪のゆるしを与え、償いを定めますが、また同時に、罪びとのために祈ったり、罪びととともに償いを果たしたりもします。こうして、罪びとは再びいやされて、教会の交わりに迎え入れられます。
[1449]
ラテン教会で用いられる罪のゆるしのことばは、この秘跡の本質的要素を表しています。つまり、あわれみ深い御父があらゆるゆるしの源泉であり、この御父が御子の死と復活、聖霊のたまもの、教会の祈りと奉仕職とを介して、罪びととの和解を実現してくださるのです。
「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通して、あなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは父と子と聖霊のみ名によって、あなたの罪をゆるします」41。
[1450]
「ゆるしの秘跡は罪びとに、この秘跡のすべての要素、すなわち、心には痛悔、口には告白、行動にはまったき謙虚さ、あるいは実りのある償いを進んで受け入れることを求めます」42。
[1451]
悔い改める者の行為としては、まず痛悔が挙げられます。それは「罪を犯したことを心から悲しみ、その罪を忌み嫌うことであり、今後再び罪を犯さないという決心を伴うものです」43。
[1452]
すべてを超えて愛すべき神への愛に基づく痛悔は、「完全な」痛悔(愛による痛悔)と呼ばれます。このような痛悔をするならば小罪のゆるしが得られ、また、できるだけ早くゆるしの秘跡を受けるという固い決心がそれに伴うならば、大罪のゆるしも得られます44。
[1453]
「不完全な」痛悔(あるいは「後悔」)といわれるものもまた、神のたまものであり、聖霊の促しによるものです。これは、罪の醜さを思う心、あるいは永遠の罰や罪びとが受けるその他の罰に対する恐れなどから生じるもの(恐れによる痛悔)です。良心のこのような動きから、ゆるしの秘跡によって成し遂げられる恵みの働きのもとでの心の変化が始まる可能性があるのです。不完全な痛悔だけでは大罪のゆるしは得られませんが、ゆるしの秘跡によってそのゆるしを得るための心の準備となります45。
[1454]
ゆるしの秘跡を受ける準備として、神のことばに照らして良心の糾明を行うことが勧められます。そのためにもっとも適切な指針は、神の十戒や福音書の教え、使徒たちの手紙に記された倫理的な教えなどに見いだされます。たとえば、山上の説教や使徒たちの訓戒などです46。
[1455]
罪の告白は、純粋に人間的側面から考えても、わたしたちに解放感を与え、他の人々との和解を容易にしてくれます。人は告白によって、自分の犯した罪を直視します。そしてその責めを負うだけではなく、再び神と教会共同体とに向かって心を開き、自分の新たな未来を可能にします。
[1456]
司祭への告白は、ゆるしの秘跡の本質的な要素の一つです。「悔い改める者は告白の際に、真剣に糾明した後で、意識しているすべての大罪を列挙しなければなりません。たとえその罪を知る者がだれもいないときも、あるいは十戒の第九戒と第十戒とに背いただけであってもです
47。なぜなら、時として、これらの罪は皆に知られながら犯した罪よりも霊魂を深く傷つける、より危険なものだからです」
48。
「キリスト信者は思い出したすべての罪を告白し、神のあわれみを受けるために打ち明けるように努めなければなりません。もしこれと反対に、故意に大罪を告白しないときには、司祭を通じて与えられる神のゆるしは与えられません。『もし病人が、恥ずかしがって自分の傷を医者に見せなければ、医者は自分が知らない傷を治すことはできない』からです」49。
[1457]
教会のおきてに従えば、「すべての信者は、分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくとも一年に一回忠実に告白する義務を有する」50のです。大罪を犯したことを自覚している人は、前もってゆるしの秘跡を受けていない限り、たとえ心底から痛悔しているにせよ、聖体を拝領することはできません51。ただ、拝領するための重大な理由があり、また、聴罪司祭に近づくことのできない場合はこの限りではありません52。子供は初聖体を受ける前に、ゆるしの秘跡を受けなければなりません53。
[1458]
日常の罪(小罪)を告白することは、厳密にいえば必要ではありませんが、教会から強く勧められています
54。小罪の定期的な告白はわたしたちの良心を培い、悪い傾きと戦い、キリストによっていやされ、霊的生活において向上していく助けとなります。わたしたちはこの秘跡を通して頻繁に御父のあわれみのたまものをいただくことによって、御父のようにあわれみ深くなるよう促されるのです
55。
「自分の罪を告白する者は、すでに神とともに行動しています。神があなたの罪をとがめておられます。あなたもまた、自分の罪をとがめるなら、あなたは神とともに行動しているのです。人間と罪びととは、いわば二つのものです。人間、それは神ご自身が造られたものです。罪びと、それは人間が作ったものです。あなたが作ったものを壊しなさい。そうすれば、神は神ご自身が造られたものを救ってくださいます。……自分のしたことが嫌になり始めたら、そのとき、あなたのよい行いが始まります。自分の悪い行いをとがめているからです。よい行いの始まりは、悪い行いの告白です。あなたは真理を行い、光の方に来ます」56。
[1459]
多くの罪は隣人に害を与えます。それを償うために、できるだけのことをしなければなりません(たとえば盗んだものを返す、中傷された人の評判を回復する、与えた傷の補償をするなど)。これは正義の上からも要求されることです。しかしそれにもまして、罪は罪びと自身だけではなく、神や隣人とのかかわりを傷つけ、弱めます。秘跡によるゆるしは罪を取り除きはしますが、罪から生じたすべての無秩序を修復するものではありません57。罪から立ち直った人は、十分な霊的健康を回復する必要があります。したがって、罪を償うために何かをしなければなりません。すなわち、適切な方法で「弁済する」なり罪を「あがなう」なりする必要があります。この弁済のことを「償い」ともいいます。
[1460]
聴罪司祭が科す
償いは、悔い改める者の個人的状況を考慮しながら、当人の霊的助けになることを目指すものでなければなりません。また、犯した罪の重さと性質にできるだけ相応するものであるべきです。償いには、祈り、寄付、慈善のわざ、隣人への奉仕、自発的な苦行、犠牲、とくにわたしたちが担わなければならない苦しみを忍耐強く受容することなどがあります。キリストはお一人でわたしたちの罪をただ一度で完全に償ってくださいましたが
58、このような償いは、そのキリストにわたしたちが似た者となれるよう助けてくれます。わたしたちはこの償いによって、復活されたキリストとの共同の相続人となることをゆるされます。キリストと「ともに苦しむ」(ローマ8∙17)からです
59。
「しかし、わたしたちの罪のために果たす償いは、キリスト・イエスによるものであるから、わたしたちのものでないということではありません。なぜなら、わたしたち自身では何もできませんが、『わたしたちを強めてくださるかた』の協力によって『わたしたちはすべてができる』からです60。わたしたち自身は何も誇るものを持ちませんが、わたしたちの栄光はキリストの中にあります。そのキリストの中でわたしたちは……罪を償い、『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』のですが61、それはキリストの力から出たものであり、キリストによって父にささげられ、キリストを通して父に受け入れられるのです」62。
[1461]
キリストが使徒たちに和解の奉仕職をゆだねられたので63、使徒たちの後継者である司教とその協力者である司祭とがこの務めを続けています。司教と司祭は、叙階の秘跡の力によって、「父と子と聖霊のみ名によって」すべての罪をゆるす権能を与えられています。
[1462]
罪のゆるしは、神との和解だけではなく教会との和解をももたらします。したがって、部分教会の見える頭である司教が、昔から、とりわけ和解の権能と奉仕職とを持つ者と考えられてきたのは当然のことです。司教はゆるしの秘跡の規律の統制者です64。その協力者である司祭は、所属の司教(場合によっては修道会長上)、あるいは教皇から教会法に基づいてその権能を授けられ、ゆるしを与えます65。
[1463]
特別に重大な罪は、破門に相当します。破門は、教会が科すもっとも重い罰です。破門された者は秘跡を受けることができず、一定の教会的な行為をすることもできません66。破門を解くことができるのは、教会法によれば、教皇と、当地の司教と、彼らから権限を委任された司祭だけです67。しかし、死の危険にある場合には、聴罪の権限を与えられていない司祭も含めて、どのような司祭でも、すべての罪をゆるし、すべての破門を解くことができます68。
[1464]
司祭はゆるしの秘跡を受けるように信者たちを励まし、また、信者が良識をもって願うたびに快くそれに応じる用意があることを示さなければなりません69。
[1465]
司祭がゆるしの秘跡を授けるときには、迷った羊を探すよい牧者、傷に包帯をするよいサマリア人、放蕩息子の帰りを待ちわび、その帰りを歓迎する父親、えこひいきせずに公正で、しかもあわれみ深い判決を下す裁判官の務めを果たします。一言でいえば、司祭は罪びとに対する神の慈悲のしるしであり、道具なのです。
[1466]
聴罪司祭は神のゆるしを与える主人ではなく、そのしもべです。この秘跡を授ける者は、キリストの意向と愛とに一致していなければなりません70。また、キリスト教的な生活の確かな認識、人間のことがらに関する経験、罪びとに対する尊敬と思いやりとを持ち、真理を愛し、教会の教導権の教えに忠実で、悔い改める者を忍耐深く治癒と十分な成熟とに導き、さらに、キリストのあわれみにゆだねながら、当人のために祈り、償いをしなければなりません。
[1467]
この務めの微妙さや偉大さ、また人に対して払うべき尊敬などを考慮して、教会は、告白を聴く司祭が告白された罪について絶対の秘密を守ることを命じています。これに背けば厳罰を科されます71。聴罪司祭はまた、告白によって知りえた告白者の生活についての情報を用いることも禁じられています。例外を認めないこの秘密は、「秘跡的封印」と呼ばれます。告白者が司祭に打ち明けたことは、秘跡によって「密封された」ままだからです。
[1468]
「ゆるしの秘跡の効果は、わたしたちに神の恵みを取り戻させ、崇高な愛のきずなでわたしたちを神に結ばせることにあります」72。したがって、この秘跡の目的であり結果として与えられるものは、神との和解です。痛悔と敬謙な心をもってゆるしの秘跡を受ける人には、「良心の平和と静けさ、それに深い霊的慰めが与えられます」73。神との和解の秘跡は真の「霊的復活」をもたらし、こうして、神の子としてのいのちの尊厳と宝とが取り戻されます。その宝の中でもっとも貴重なものは、神との友愛です74。
[1469]
ゆるしの秘跡は、わたしたちを
教会と和解させてくれます。罪とは兄弟的交わりを破ったり傷つけたりするものです。ゆるしの秘跡はこの交わりを取り戻させてくれます。この意味で、教会の交わりに再び受け入れられる者をいやすだけでなく、所属の一員の罪によって傷つけられた教会のいのちに活力を取り戻させる効果もあります
75。罪びとは、聖徒の交わりの中に再び受け入れられ、あるいはその交わりの中で強められ、まだこの世を旅する状態にあるかすでに天上の祖国にたどり着いている人たちによって成り立っている、キリストのからだの肢体同士の霊的宝の分かち合いによって強められます
76。
「神との和解の結果、罪によって絶たれていた交わりを取り戻すことによって生じる、他のさまざまな和解が行われることを指摘しなければなりません。つまり、ゆるしを得た告白者は心の奥底で自分自身と和解し、そこで真の自分を取り戻します。さらに、自分がある意味で侮辱し、傷つけた兄弟姉妹たちと和解します。そして教会と和解し、ついには全被造物と和解します」77。
[1470]
ゆるしの秘跡で、罪びとは神のあわれみ深い裁きに自分をゆだねながら、この世のいのちの終わりに受ける裁きを何らかの形で前もって受けています。実際に今、この世で、死といのちのどちらを取るかという選択の機会がわたしたちに与えられています。大罪は人を神の国から閉め出しますが、ただ回心の道を歩む人だけが神の国に入ることができます78。悔い改めと信仰とによってキリストに回心した罪びとは、「裁かれることなく」(ヨハネ5∙24)、死からいのちに移ります。
[1471]
教会における免償の教えと実践とは、ゆるしの秘跡の効果と密接に結びついています。
免償とは何か
「免償は、罪科としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしであって、キリスト信者はこれをふさわしい心構えを有し、一定の条件を果たすとき、教会の介入によって獲得します。教会は救いの奉仕者として、キリストおよび諸聖人のいさおしの宝をもって分配し付与します」79。
「免償は、罪のために負わされる有限の罰からの解放が部分的であるか全体的であるかによって、部分免償と全免償とに分けられます」80。「すべての信者は、部分免償または全免償を自己自身のために収受し、または〔代禱の様式で〕死者に付与することができます」81。
[1472]
教会のこの教えと実践とを理解するには、罪が二つの結果をもたらすことを理解する必要があります。大罪はわたしたちの神との交わりを断ち、その結果永遠のいのちを受けることを不可能にします。この状態は、罪の結果として生じる「永遠の苦しみ(罰)」と呼ばれます。他方、小罪も含めたすべての罪は被造物へのよこしまな愛着を起こさせます。人はこの愛着から、この世であるいは死後、清められなければなりません。死後の清めの状態は煉獄と呼ばれます。この清めによって、人は罪の結果として生じる「有限の苦しみ(罰)」といわれるものから解放されます。この二種類の苦しみ(罰)は、外部から神によって行われる一種の復讐ではなく、罪の本性そのものから生じるものと考えるべきです。熱心な愛に基づく回心は罪びとの全面的清めをもたらすことができ、その結果いかなる苦しみ(罰)も存続しなくなります82。
[1473]
罪のゆるしと神との交わりの回復は、罪の結果である永遠の苦しみを取り除きます。ただし、有限の苦しみは残ります。キリスト者は、あらゆる種類の苦しみと試練に耐え、死の日が訪れたときには平静に死を迎えて、罪の結果である有限の苦しみを恵みとして受け入れるように努めなければなりません。また、愛の実践、慈悲のわざ、さまざまな償いの実行によって、「古い人」をまったく脱ぎ捨て、「新しい人」を着るように83励むべきです。
[1474]
自分の罪を清め、神の恵みに助けられて聖となることを求めるキリスト者は、一人でいるのではありません。「神の子らのそれぞれのいのちは、キリストにおいて、キリストによって、他のすべてのキリスト者である兄弟姉妹のいのちに感嘆すべきしかたで結ばれ、神秘的なかたであるキリストの神秘体の超自然的な一致のうちにあります」84。
[1475]
聖徒の交わりのうちにある「信者たち⸺天上の祖国にある人々、清めのために煉獄にある人々、まだこの世の旅路にある人々⸺の間には、愛の不断のきずなとあらゆる善の豊かな分かち合いとが存在します」85。この感嘆すべき分かち合いの中で、ある人の聖性は、他の人の罪が周りの人々に対して引き起こす損害よりはるかに多く周りの人々に益をもたらします。ですから、痛悔した罪びとは聖徒の交わりのおかげで、罪の結果として生じる苦しみから速やかに、効果的に解放されることができます。
[1476]
聖徒の交わりのこのような霊的善はまた、教会の宝とも呼ばれます。「それは世紀を重ねて積み上げられた物的財産のような宝ではなく、人類が罪から解放されて御父との交わりを持つようになるためにささげられた、主キリストのあがないと功徳とが神のもとに持つ、無尽蔵の宝です。わたしたちのあがない主であるキリストのうちには、その偉大なあがないの償いと功徳とがあふれるほどに存在するのです」86。
[1477]
「この宝に属するものとしてはまた、聖なるおとめマリアやすべての聖人たちが神の御前でささげる祈りや善行などの、はかりしれないほど大きく、つねに新たな功徳があります。聖人たちはキリストの恵みによってその後に従いながら自分たち自身を聖化し、御父からゆだねられた任務を果たしました。こうして彼らは、自分自身の救いに努めながら、神秘体の中で結ばれた兄弟姉妹の救いにも寄与してきたのです」87。
[1478]
免償は教会を通して得られます。教会はキリスト・イエスによって与えられた、つなぎ、解く権能によって、キリスト者個人の仲立ちとなり、キリストや聖人たちの功徳の宝庫を開き、罪のために受けるべき有限の苦しみ(罰)のゆるしをあわれみ深い御父からいただけるようにします。このようにして、教会は単にキリスト者を助けるだけではなく、敬神と償いと愛の実践を彼らに促すのです88。
[1479]
清めの状態にある死者も同じ聖徒の交わりの中にある人々ですから、わたしたちは彼らの手助けをすることができます。罪のために受けなければならない有限の苦しみから解放されることを願って死者のために免償を得る、という方法がとくに勧められます。
[1480]
ゆるしの秘跡はすべての秘跡と同様に、典礼行為です。通常、その儀式は次のように行われます。司祭は告白者にあいさつし、祝福します。良心を照らし、痛悔の心を起こさせるために神のことばを朗読し、告白者に悔い改めを勧めます。告白者は自分の罪を認め、司祭に告白します。司祭は償いを科し、告白者はそれを受託します。司祭は罪をゆるし、神に感謝と賛美の祈りをささげ、告白者を祝福して終わります。
[1481]
ビザンチン典礼には、ゆるしの神秘をみごとに表す嘆願形式のゆるしのことばがたくさんあります。「神は、預言者ナタンを介して罪を告白したダビデに、痛恨の涙を流したペトロに、イエスの足を涙でぬぐった遊女に、徴税人に、そして、放蕩息子にゆるしを与えられました。その同じ神が、罪びとであるわたしを通して、この世でもあの世でもあなたの罪をゆるし、あなたがその恐るべき裁きの庭に出頭するとき、あなたを罰せられることがありませんように。神は代々にたたえられます。アーメン」89。
[1482]
ゆるしの秘跡はまた、共同回心式の中で行うことができます。この場合は、ともに告白の準備を行い、いただいたゆるしをともに感謝します。個人の罪の告白とゆるしとは神のことばの典礼の中で行われますが、そのことばの典礼では、聖書朗読と説教、共同で行われる良心の糾明、ゆるしを求めるための共同の祈り、「主の祈り」、共同の感謝なども行われます。共同回心式は悔い改めの教会的性格をより明確に表します。ただし、どのような形式で行われるものであっても、ゆるしの秘跡はつねに、本質的に典礼行為、つまり、教会的で公の行為なのです90。
[1483]
重大な必要がある場合には、一般告白と一般赦免を伴う共同回心式を行うことができます。そのような重大な必要が生じるのは、死の危険が差し迫っていて、一人もしくは複数の司祭が各自の告白を聴く時間がないときです。また、告白者の人数から見て、妥当な時間で個別の告白をふさわしく聴くための聴罪司祭の数が不十分で、告白者側にとっては自分たちには落ち度がないのに、長期にわたってゆるしの秘跡の恵みを受けられなかったり、あるいは聖体拝領ができなくなるようなときです。その場合、ゆるしが有効となるためには、その後適切なときに自分の大罪を個人的に告白するという意図を信者が持つ必要があります91。共同のゆるしを行うための必要な条件が満たされているかどうかについては、教区司教が判断しなければなりません92。大きな祝祭日あるいは巡礼の機会などに大勢の信者が集まっているような場合は、この重大な必要というものには該当しません93。
[1484]
「そのような告白が物理的に、あるいは常識的に判断して不可能な場合を除けば、信者が神や教会と和解する唯一の通常の方法は、正しく行われる個別告白と個別赦免です」94。これには深い理由があります。キリストはすべての秘跡において働いておられます。罪びとの一人ひとりに、「子よ、あなたの罪はゆるされる」(マルコ2∙5)といわれるのです。キリストは、ご自分を必要とする一人ひとりの病人をいやすために全身全霊を傾けられる医者です95。そして、罪びとを再起させ、兄弟的な交わりに再び加えられます。したがって、個別告白は、神や教会と和解するためのもっとも意味深い形なのです。
[1485]
イエスは復活の日の夕方、使徒たちに姿を現していわれました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(ヨハネ20∙22-23)。
[1486]
洗礼後に犯した罪のゆるしは、特別の秘跡によって与えられます。それは回心の秘跡、告白の秘跡、悔い改めの秘跡、和解の秘跡などと呼ばれます。
[1487]
罪を犯す者は、神の栄誉と愛、神の子として召された人間固有の尊厳、キリスト者一人ひとりがその生ける石とならなければならない教会の霊的健やかさを傷つけます。
[1488]
信仰の目で眺めるならば、罪以上に大きな悪はありませんし、罪びとにとっても教会にとっても世界全体にとっても、罪以上に不幸な結果をもたらすものは他にありません。
[1489]
人が罪を犯して神との交わりを失った後でもう一度その交わりに復帰するのは、人々の救いを心にかけておられるあわれみ深い神の恵みの働きによるものです。自分自身のためにも、他の人々のためにも、この貴重な恵みを願う必要があります。
[1490]
回心あるいは悔い改めなどと呼ばれる神への立ち返りには、罪を犯したことへの悲しみと嫌悪、さらに、今後は罪を犯さないという固い決心とが伴います。したがって回心とは、過去と未来とにかかわるものであり、神のあわれみに対する希望を養うものです。
[1491]
ゆるしの秘跡は、悔い改める者の三つの行為と司祭のゆるしとによって成り立っています。悔い改める者の三つの行為とは、痛悔、司祭への罪の告白、償いを果たす決意ならびにその実行です。
[1492]
悔い改め(痛悔ともいわれます)は、信仰から生じる動機に基づくものでなければなりません。悔い改めが神への愛から生まれた場合は「完全な痛悔」といわれ、他の動機に基づく場合は「不完全な痛悔」といわれます。
[1493]
神や教会と和解したいと思う者は、入念な良心の糾明の後で思い起こした、まだ告白していないすべての大罪を司祭に告白しなければなりません。小罪の告白は厳密な意味で必要ではありませんが、教会は小罪も告白するよう強く勧めています。
[1494]
聴罪司祭は告白者に何らかの償いを科します。それは罪によって引き起こされた損害を償い、キリストの弟子としてのふさわしい生き方を取り戻させるためです。
[1495]
教会からその権限を受けた司祭だけが、キリストのみ名によって罪をゆるすことができます。
[1496]
ゆるしの秘跡によって得られる霊的な効果は、以下のようなものです。
⸺神との和解。これによって、告白者は恩恵の状態を回復します。
⸺教会との和解。
⸺大罪に科される永遠の苦しみ(罰)の赦免。
⸺罪の結果である有限の苦しみ(罰)、少なくともその一部の赦免。
⸺良心の平和と喜び、霊的慰め。
⸺キリスト者として戦うための霊的力の増大。
[1497]
通常の場合は、個別にすべての大罪を告白してそのゆるしを受けることが、神や教会との和解のための唯一の手段です。
[1498]
免償によって、信者は自分自身のためや煉獄の霊魂のために、罪の結果である有限の苦しみの赦免を得ることができます。