[1424]
告白の秘跡と呼ばれるのは、司祭の前で罪を告白するのがこの秘跡の本質的要素の一つだからです。この名称の根底には、この秘跡は神の聖性と罪びとに対する神のあわれみとを「告白すること」⸺認めて賛美すること⸺である、という意味合いが込められています。
ゆるしの秘跡と呼ばれるのは、司祭による秘跡的なゆるしを介して、神が悔い改める者に「ゆるしと平和」『ゆるしの秘跡(規範版)』46,55(Ordo Paemtentiae, editio typica [Typis Polyglottis Vaticanis 1974] 27. 37)。をお与えになるからです。
和解の秘跡と呼ばれるのは、和解させてくださる神の愛を罪びとに与えるからです。「神と和解させていただきなさい」(二コリント5∙20)とパウロはいっています。神の慈愛を体験した人は、「まず行って兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5∙24)というキリストの呼びかけにこたえる用意があります。
[1425]
「あなたがたは……主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(一コリント6∙11)。キリスト教入信の秘跡で与えられる神の恵みの偉大さを理解すれば、キリストを着ている者にとってガラテヤ3・27参照。、罪がいかに相いれないものであるかが分かるはずです。しかし、使徒聖ヨハネはこうも述べています。「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにありません」(一ヨハネ1∙8)。キリストご自身、「わたしたちの罪をゆるしてください」(ルカ11∙4)と祈るように教えられました。しかも、わたしたちが相互にゆるし合うなら、神もわたしたちの罪をおゆるしになる、といって、この二つのゆるしを結びつけられました。
[1426]
わたしたちは、キリストへの回心、洗礼による新たな誕生、聖霊のたまもの、キリストのからだと血の糧によって、「神のみ前で」(エフェソ1∙4)聖なる者、汚れのない者となりました。キリストの花嫁である教会自体が、キリストのみ前で「聖なる、汚れのない」(エフェソ5∙27)ものであるのと同様です。しかし、キリスト者となった当初に受けた新しいいのちは、人間本性のもろさと弱さ、ならびに罪への傾きを停止させるわけではありません。この傾きは教会では伝統的に欲情と呼ばれており、受洗者がキリストの恵みに助けられ、キリスト者として生活しながらこの傾きと勇敢に戦うために、洗礼を受けた人々のうちにも残りますトリエント公会議第5総会『原罪についての教令』5(Decretum de peccato ongtnah : DS1515)参照。。この戦いは、主がたえずわたしたちを招いておられる聖性と永遠のいのちとを目指す、回心の戦いですトリエント公会議第6総会『義化についての教令』第16章(Decretum de mstificatione : DS1545)、『教会憲章』,第40項参照。。
[1427]
イエスは回心を呼びかけておられます。この「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1∙15)という招きは、神の国の告知の本質的な一部です。教会は宣教にあたって、この呼びかけをまず、キリストやその教会をまだ知らない人々に対して行います。ですから、洗礼こそ最初の基本的な回心の場なのです。福音を信じ、洗礼を受けることによってこそ使徒言行録2・38参照。、人は悪を捨て、救い、すなわち、あらゆる罪のゆるしと新しいいのちとを与えられるのです。
[1428]
ところで、回心へのキリストの招きは、キリスト者の生活の中でもたえず続けられています。この第二の回心は、教会全体がつねに行うべきものです。教会は「自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続ける」 『教会憲章』,第8項。のです。この回心の努力は、単なる人間のわざではなく、恵みによって引き寄せ、動かされる「打ち砕かれた心」詩編51・19参照。の動きであってヨハネ6・44,12・32参照。、先にわたしたちを愛された神の慈愛にこたえるものです1ヨハネ4・10参照。。
[1429]
これを明らかにしているのが、三度キリストを否認した後の聖ペトロの回心です。はかりしれないあわれみを込めたイエスのまなざしを受けて、ペトロは痛悔の涙を流し
ルカ22・61-62参照。、またキリストの復活の後には、キリストへの愛を三度告白します
ヨハネ21・15-17参照。。第二の回心は、
共同体的意味合いも込められています。これは、完全な教会になるようにとのイエスの呼びかけ、「悔い改めよ」(黙示録2∙5,16)ということばにも表されています。
聖アンブロジオはこの二つの回心について、「教会には水と涙とがあります。洗礼の水と悔い改めの涙です」聖アンブロジウス『書簡』(S. Ambrosius, Epistula extra collectionem 1 [41], 12 : CSEL 82/3, 152 [PL 16, 1116])。といっています。
[1430]
すでに預言者たちにもそうであったように、回心と悔い改めへのイエスの呼びかけは、外的な行い、すなわち、「粗衣や灰」、断食などの苦行ではなく、まず、心からの回心、内面的悔い改めを求めます。これがなければ、償いの行為はむなしく、偽りのものです。それに対して、心からの回心は、悔い改めの行為やわざなどの目に見えるしるしをもって表されますヨエル2・12-13、イザヤ1・16-17、マタイ6・16,16・18参照。。
[1431]
内面的悔い改めとは、生活全体の根本的転向、つまりわたしたちが心の底から神に復帰し、罪を断ち、悪から遠ざかり、犯した悪い行為を嫌悪することです。それは同時に、神のあわれみを希望し、その恵みの助けに信頼して、生き方を変えようという望みと決心とを伴うものです。この回心には救いに通じる苦痛と悲しみとを伴いますが、教父たちはこれを魂の苦悩、心の痛悔と呼んでいますトリエント公会議第14総会『ゆるしの秘跡について』第4章(Doctrina de sacramento Paemtentiae : DS1676〜DS1678) 、同「ゆるしの秘跡についての規定」5 (Canones de Paenitentia : DS1705)、『ローマ・カテキズム』2, 5, 4(Catechismus Romanus : ed. P. Rodrfguez [Citta del Vaticano-Pamplona 1989] 289)参照。。
[1432]
人間の心は鈍く、かたくなです。神から新しい心を与えていただく必要があります
エゼキエル36・26-27参照。。回心は第一に神の恵みの働きであり、この恵みによって心は神に向きを変えます。「主よ、みもとに立ち返らせてください。わたしたちは立ち返ります」(哀歌5∙21)。神はもう一度やり直す力をお与えになります。心は神の愛の偉大さを発見することにより、罪の醜さと重さとに打たれ、罪によって神に背き、神から離れるのを恐れるようになります。人間の心は、罪によって刺し貫かれたかたを見つめて回心します
ヨハネ19・37、ゼカリヤ12・10参照。。
「キリストの御血を見つめ、御父にとってどれほど貴重なものであるかを理解しましょう。その血はわたしたちの救いのために流され、全世界に悔い改めの恵みをもたらしたものだからです」聖クレメンス1世『コリントの信徒への手紙』 (S. Clemens Romanus, Epistula ad Corinthios 1, 4: SC 167, 110 [Funk l, 1081)。。
[1433]
キリストの復活以来、聖霊は御父から遣わされたかたを信じなかったという世の誤りを明らかにしてくださいますヨハネ16・8-9参照。。ところが、誤りを明らかにしてくださるこの同じ霊が、人間の心に悔い改めと回心との恵みを与えてくださる慰め主ヨハネ15・26参照。でもあられるのです使徒言行録2・36-38、ヨハネ・パウロ2世回勅『聖霊―生命の与え主』27(Dominum et vivificantem : AAS 78 [1986] 837-868)参照。。
[1434]
キリスト者の内面的悔い改めは、きわめて多様な形をとります。聖書や教父たちは、自分自身、神、および他人とのかかわりに関する回心を表す断食、祈り、施しトビト12・8、マタイ6・1-18参照。という三つの形についてとくに力説しています。洗礼や殉教によって行われる根本的な清めのほかに、罪のゆるしを得る手段として、隣人と和解する努力、悔い改めの涙、隣人の救いへの配慮ヤコブ5・20参照。、聖人たちの執り成し、「多くの罪を覆う」(一ペトロ4∙8)隣人愛の実行、などを挙げています。
[1435]
回心は日常生活の中での、和解の行為、貧しい人々への心遣い、正義の行い、他人の権利の擁護アモス5・24、イザヤ1・17参照。、他人への過ちについての告白、兄弟の回心を目指す忠告、生活の見直し、良心の糾明、霊的指導、忍苦、義のために迫害を忍ぶことなどによって実現されます。日々自分の十字架を担ってイエスに従うことが、悔い改めのもっとも確かな道ですルカ9・23参照。。
[1436]
エウカリスチアと悔い改め。日常の回心と悔い改めはエウカリスチアをその源泉、養分とするものである、ということが分かります。エウカリスチアのうちに、わたしたちを神と和解させてくださったキリストのいけにえが現在化されるからです。キリストのいのちを生きる人々はそれに養われ、強められます。それは、「わたしたちを毎日の過ちから解放し、大罪から守る解毒剤」トリエント公会議第13総会『聖体についての教令』第2章(Decretum de ss. Eucharistia : DS1638)参照。です。
[1437]
聖書を読むこと、教会の祈り、「主の祈り」を唱えること、心からの礼拝や信心業を行うことなどはすべて、わたしたちのうちに回心と悔い改めの精神を新たにし、罪のゆるしへとわたしたちを導いてくれます。
[1438]
典礼暦の悔い改めの時と日(四旬節、イエスの死を記念する各金曜日)は、教会が悔い改めを行うのに最適の時期です第2バチカン公会議『典礼憲章』,第109項-第110項(Sacrosanctum Concilium)、「新教会法典」第1249 1253条、「東方教会法典」第880〜883条参照。。黙想会、回心式、悔い改めのしるしとしての巡礼、断食、施しのような犠牲、助け合い(慈善や宣教事業)などを行うのにとくにふさわしい時です。
[1439]
回心と悔い改めの過程については、「放蕩息子」のたとえの中でイエスがみごとに描写しておられます。その中心は「いつくしみ深い父」ですルカ15・11-24参照。。その息子は誤った自由を渇望し、家を出、財産をたちまち使い果たした後に窮状に陥り、やむなく豚を世話しなけれはならなくなりました。そこで強い屈辱を感じましたが、さらに進んで、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいとさえ考えるようになりました。ついに、失ったものについて反省、後悔して、父親の前で自分の過ちを認める決心をして、家に戻ります。父親は彼を寛大に迎え、大いに喜びます。このたとえには、回心と悔い改めの過程の特徴がよく表れています。りっぱな服や指輪や祝宴は、神のもとへ、また教会という家族の懐へと戻った人間の、清らかで、尊く、喜びに満ちた新しいいのちの象徴です。御父の愛の深さを知っておられるキリストのお心だけが、わたしたちにそのはかりしれないあわれみをかくも簡潔に、また美しく明らかになさることができたのです。