[1533]
洗礼、堅信、聖体(エウカリスチア)は、キリスト教入信の秘跡です。これらの秘跡は、キリストのすべての弟子に共通の召命、すなわち、聖性ならびに世に福音を告げ知らせる使命への召命の土台をなすものです。そしてそれらの秘跡は、天のふるさとに向かって歩んでいるこの旅人としての人生において、霊の導きに従って生きるための必要な恵みを授けます。
[1534]
もう二つの叙階と結婚の秘跡は、他の人々の救いに向けられています。個人的救いにも寄与するものですが、それは他人への奉仕を通してなのです。この二つの秘跡は教会の中での特別な使命を与えるもので、神の民の育成を目指すものなのです。
[1535]
洗礼と堅信の秘跡によってすべての信者共通の祭司職にすでに聖別されている人々第2バチカン公会議『教会憲章』,第10項(Lumen gentium)参照。は、この二つの秘跡において特別な聖別を受けることができます。叙階の秘跡を受ける人々は、キリストの名によって、「神のことばと恩恵をもって教会を牧するために」『教会憲章』,第11項。聖別されます。他方、「キリスト者たる夫婦は、その身分上の義務と尊厳のため、特別な秘跡によって強められ、いわば聖別されるのです」第2バチカン公会議『現代世界憲章』,第48項(Gaudium et spes)。。
[1536]
叙階は、キリストから使徒たちにゆだねられた使命を世の終わりまで教会において続けさせる秘跡、つまり使徒の奉仕職の秘跡です。これには、司教、司祭、助祭の三つの位階があります。
(キリストによる使徒的役務の制定と派遣とに関しては 874〜896 番参照。ここでは、その役務が伝えられる秘跡のあり方についてのみ取り扱います)
[1537]
Ordo(位階・団体)の語は、古代ローマでは市民社会の法的団体、とくに統治者たちの団体を意味しており、Ordinatio(叙階)は一つの ordo(位階)への加入を意味します。聖伝によると、教会には古い時代から、聖書に基づいた、ギリシア語ではτάξεις(タクセイス)、ラテン語では ordines と呼ばれる団体がありましたヘブライ5・6,7・11,詩編110・4参照。。この伝統に基づいて、典礼では、ordo episcoporum(司教団)、ordo presbyterorum(司祭団)、ordo diaconorum(助祭団)という用語を使っています。他の団体、たとえば、洗礼志願者、おとめ、夫婦、寡婦などの ordo(団体)もありました。
[1538]
教会のこうした団体に加入するために、ordinatio(団体加入式)と呼ばれる式が行われていました。この式は宗教的典礼行為であって、聖別、祝福、秘跡などと呼ばれていました。今日では、ordinatio(叙階)の語は司教、司祭、助祭の団体に加入させる秘跡的行為のためだけに用いられており、共同体による単なる選挙、指名、委任ないし任命以上の意味合いが込められています。なぜなら、聖なる権能『教会憲章』,第10項参照。を行使させ、教会を通してキリストだけが与えることができる聖霊のたまものを授けるからです。叙階はまた、聖別(consecratio)とも呼ばれます。それは、キリストご自身によって教会のために選別され、叙任されるものだからです。聖別の祈りを伴う司教の按手が、この聖別の見えるしるしとなっています。
[1539]
選ばれた民は、神によって「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト19∙6)とされましたイザヤ61・6参照。。しかしイスラエルの民の内部でも、神は十二部族の一つであるレビ族を選び、他の部族とは区別して、典礼の務めにあたらせました民数記1・48-53参照。。神ご自身がこの部族の嗣業ですヨシュア13・33参照。。旧約の祭司職を開始する際には特別な聖別式がありました出エジプト29・1-30,レビ8章参照。。祭司たちは「罪のための供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」ヘブライ5・1参照。。
[1540]
しかし、神のことばを告げマラキ2・7-9参照。、いけにえと祈りとによって神との交わりを取り戻すために定められたこの祭司職は、救いをもたらす力はなく、たえずいけにえを繰り返す必要があって、決定的聖化をもたらすことはできなかったのですヘブライ5・3,7・27,10・1-4参照。。ただキリストのいけにえだけが、決定的聖化をもたらすことができました。
[1541]
しかし、教会の典礼は、アロンの祭司職とレビ族の務め、また、七十人の「長老」の制度にも
民数記11・24-25参照。新約の叙階された役務者の前表を認めています。したがって教会は、ラテン典礼の司教叙階の聖別の祈りの中で、次のように祈ります。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神……、あなたは恵みのことばによって、ご自分の教会におきてをお与えになりました。あなたは初めのときからアブラハムに始まる正しい人々の一族をあらかじめ定め、指導者と祭司たちをお立てになりました。そして聖なる場所で奉仕する者が欠けることのないようにされました」 『司教・司祭・助祭の叙階(規範版第2版)』「司教叙階の祈り」 47(De Ordinatione Episcopi, presbyterorum et diaconorum, edltio typica altera [Typis Polyglottis vaticanis 1990] 24)。。
[1542]
教会は司祭の叙階では次のように祈ります。
「聖なる父、全能永遠の神、……すでに旧約時代から、……あなたは民を導き、聖なる者とするためにモーセとアロンを民の上に立て、彼らを助け、ともに働く人々を民の中からお選びになりました。こうして知恵に富む七十人の人々に、モーセが受けた霊を分け与えてくださいました。また、アロンの子孫にも、彼らの父に与えられた満ちあふれる恵みを授けてくださいました」同「司祭叙階の祈り」 159(op. cit., 91-92)。。
[1543]
助祭叙階のための聖別の祈りでは、教会は次のように祈ります。
「全能の神よ、……教会は新しい神殿として成長し、発展していきます。そのためにあなたは、すでに旧約の時代から、幕屋での奉仕の務めのために、レビの子らをお選びになったように、聖なる務めを担ってあなたの名に仕える、三つの段階の奉仕の務めをお定めになりました」同「助祭叙階の祈り」 207(op. cit., 121)。。
[1544]
旧約の祭司職のすべての前表は、「神と人との間の唯一の仲介者」(一テモテ2∙5 参照)であるキリスト・イエスのうちに実現されました。「いと高き神の祭司」(創世記14∙18)メルキゼデクは、キリスト教の伝承ではキリストの祭司職の前表と考えられてきました。キリストは「メルキゼデクと同じような大祭司」(ヘブライ5∙10、6∙20)であり、「聖であり、罪なく、汚れなく」(ヘブライ7∙26)、しかも「唯一のささげものによって」、すなわち、十字架上の唯一のいけにえによって、「聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」(ヘブライ10∙14)かたです。
[1545]
キリストのあがないのいけにえは、ただ一度で成就された唯一のものです。しかしそれは、教会のエウカリスチアのいけにえにおいて現在化されています。キリストの唯一の祭司職についても同様のことがいえます。それは職位的祭司たちによって現在化されていますが、そのことによってキリストの唯一の祭司職が損なわれることはありません。「だから、キリストだけが真の祭司であって、他はその奉仕者にすぎないのです」聖トマス・アクイナス『ヘブライ人への手紙注解』 (S. Thomas Aquinas, Commentarium in epistolam ad Hebraeos, c. 7, lect. 4:Opera omnia, v・21 [Paris 1876] 647)。。
[1546]
大祭司であり唯一の仲介者であるキリストは、教会を「父である神に仕える祭司の王国」となさいました黙示録1・6,5・9-10、1ペトロ2・5,9参照。。信者の全共同体がそれ自体として祭司的団体です。信者は祭司、預言者、王であるキリストの使命にそれぞれの召し出しに応じて参与し、洗礼による祭司職を果たします。信者は洗礼および堅信の秘跡によって「聖なる祭司職をもつ者となるよう聖別されます」『教会憲章』,第10項。。
[1547]
司教および司祭の職位的、位階的祭司職とすべての信者の共通祭司職とは、「それぞれ独自の方法で、キリストの唯一の祭司職に参与して」『教会憲章』,第10項。おり、「相互に秩序づけられ」『教会憲章』,第10項。ながらも、本質的に異なるものです。信者の共通祭司職は洗礼の恵みから発出する、信仰・希望・愛の生活、霊による生活の中で実現されるものですが、職位的祭司職は共通祭司職に奉仕し、すべてのキリスト者の洗礼の恵みの展開を助けるものであり、キリストがたえずご自分の教会を築き導くために用いられる手段の一つです。そのために、職位的祭司職は固有の秘跡、つまり叙階の秘跡によって受け継がれるのです。
[1548]
叙階された奉仕者が教会的奉仕を果たすときには、キリストご自身がそのからだの頭、その群れの牧者、あがないのいけにえの大祭司、真理の師としてご自分の教会に現存されます。叙階の秘跡の力によって司祭は
頭であるキリストの代理者として行動するという教会の教えには、以上のような意味があります
『教会憲章』,第10項,第28項、第2バチカン公会議『典礼憲章』,第33項(Sacrosanctum Concilium) 、同『教会における司教の司牧任務に関する教令』,第11項(Christus Dominus)、同『司祭の役務と生活に関する教令』,第2項,第6項(Presbyterorum ordinis)参照。。
「〔奉仕を果たすのは〕同じ祭司イエス・キリストであり、奉仕者はその代理をしているだけです。実に、奉仕者は、司祭職への聖別を受けることによって大祭司に似たものとなり、キリストご自身の力と名により行動できるようになるのです」ピウス12世回勅『メディアトール・デイ』(Mediator Dei : AAS 14 [1947] 548)。。
「キリストはすべての祭司職の源です。事実、旧約の祭司はキリストの前表であり、新約の祭司はキリストの代理者として行動するからです」聖トマス・アクイナス『神学大全』 (S. Thomas Aquinas, Summa theologzae 3, q. 22, a. 4, c: Ed. Leon. 11, 260)。。
[1549]
教会の頭であるキリストの現存は、叙階された者、とくに司教と司祭の役務を通して信者共同体の中で目に見えるものとなります『教会憲章』,第21項参照。。アンチオケの聖イグナチオの美しいことばによれば、司教は父である神の生きている像(テュポス・トゥー・パトロスτύπος τοῦ Πατρός)のような存在なのですアンティオキアの聖イグナティオス『トラレスの信徒への手紙』 (S. Ignatius Antiochenus, Epistula ad Trallianos 3, 1 : SC 10bis, 96 [Funk 1, 244])、同『マグネシアの信徒への手続』 (Id., Epistula ad Mgnesios 6, 1: SC 10bis, 84 [Funk 1, 2341)参照。。
[1550]
このように役務者の中にキリストが現存されるからといって、役務者が支配欲、誤謬、罪などの、あらゆる人間的弱さから免かれているというわけではありません。役務者たちのすべての行為の正しさが聖霊の力によって一様に守られているわけではありません。ただし秘跡を授ける場合には、その保証があります。したがって、教会の役務者が罪びとであっても、彼らによって授けられた秘跡が恵みをもたらすのを妨げることはありません。しかし、彼らの多くの行為の中には、福音への忠実さを欠き、教会の使徒的活動の実りを損なう人間的弱さを示すものが見受けられます。
[1551]
この祭司職は奉仕の役務です。「主がご自分の民の牧者たちにゆだねられた任務は真の服役です」『教会憲章』,第24項。。まったくキリストと人々のためのものです。それはことごとくキリストとその唯一の祭司職に従属し、もともとは人々と教会共同体のために制定されたものです。叙階の秘跡は「聖なる権能」を与えますが、これはキリストの権能にほかなりません。したがって、その権威は、愛によって一番低い者となり、皆に仕える者となられたキリストの模範に従って行使されるべきですマルコ10・43-45、1ペトロ5・3参照。。「主は、ご自分の群れのために尽くすことはご自分に対する愛のあかしであると明言されました」聖ヨアンネス・クリュソストモス『司祭職について』 (S. Ioannes Chrysostomus, De sacerdotio 2, 4: SC 272, 118 [PG 48, 635])。ヨハネ21・15-17参照。。
[1552]
教会の役務者は、単に頭であるキリストを代表する務めを信者共同体に対して果たすだけではなく、教会の祈りを神にささげるとき『典礼憲章』,第33項参照。、とくにエウカリスチアのいけにえをささげるとき『教会憲章』,第10項参照。には、全教会の名で行動します。
[1553]
「全教会の名で」という表現は、役務者が共同体から委任された者であるという意味ではありません。教会の祈りと奉献はその頭であるキリストの祈りと奉献から切り離すことはできません。それはつねに、教会の中で教会によって行われるキリストの祈りです。キリストのからだである全教会は、聖霊と一致して、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」父である神に祈り、自らをささげているのです。頭と肢体とが一つとなったからだ全体が祈り、自らをささげます。そのため、からだの中でとくにその役務者である者は、キリストの役務者と呼ばれるだけではなく、教会の役務者とも呼ばれます。役務としての祭司職が教会を代表することができるのは、キリストの代理者であるからです。
[1554]
「神の制定による教会的役職は、種々の位階において、古代から司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって執行されます」
『教会憲章』,第28項。。典礼、教導権および教会の一貫した慣習において説明されているカトリックの教えによれば、キリストの祭司職への役務としての参与には二つの段階があります。司教職と司祭職です。助祭職は両者を助け、両者に奉仕する職務です。したがって、現在用いられている
祭司(sacerdos)ということばは司教と司祭の呼び名であり、助祭を含みません。しかし、カトリックの教えに従って、祭司的参与の段階(司教と司祭)と奉仕の段階(助祭)の三つとも、「叙階」と呼ばれる秘跡によって授けられます。
「皆が助祭たちをイエス・キリストのように、また、司教を御父の像のように、そして司祭たちを神の元老院、使徒たちの集まりのように敬ってほしいものです。これらの人なしには教会とはいえません」アンティオキアの聖イグナティオス『トラレスの信徒への手紙』 (Epistula ad Tralhanos 3, 1: SC 10bis, 96 [Funk 1, 244])。
[1555]
「初めのときから教会の中で実行されていたこれらの種々の役職の中で第一位を占めるものは、伝承が証言しているとおり、司教職に立てられ、起源から続いている継承によって使徒の種からのぶどうづるを有する人々の任務です」 『教会憲章』,第20項。。
[1556]
その崇高な使命を果たすために、「使徒たちは彼らの上にくだった聖霊の特別な注ぎかけによってキリストから富まされ、自分たちもその助力者たちに按手をもって霊的たまものを伝授しました。このたまものは、司教聖別においてわたしたちにまで伝えられてきています」『教会憲章』,第21項。。
[1557]
第2バチカン公会議は、「司教聖別によって叙階の秘跡の充満、すなわち教会の典礼の慣習と聖なる教父たちのことばによって最高の祭司職、聖職の総括と呼ばれている充満が授けられる」『教会憲章』,第21項。と教えています。
[1558]
「司教聖別は、聖化の任務とともに、教える任務と治める任務をも授けます。……事実、按手と聖別のことばによって聖霊の恩恵を授けられ、聖なる霊印をしるされる結果、司教たちが優れたそして見える方法で師・牧者・大祭司であるキリストご自身の代理者となり、その役目を受け持つ者となります」『教会憲章』,第21項。。「したがって司教は、彼らに与えられた聖霊により、信仰の真実にして真正なる師、祭司、牧者とされたのです」 『教会における司教の司牧任務に関する教令』,第2項。。
[1559]
「秘跡的聖別の力により、また司教団体の頭ならびに構成員との位階的交わりにあずかることによって人は司教団の一員となるのです」 『教会憲章』,第22項。。司教職の身分と集団的性格とは、わけても、新しい司教が聖別式に参列する数人の司教によって叙階されるという教会の古くからの慣習によって知ることができます『教会憲章』,第22項参照。。司教の合法的叙階には、今日ではローマ司教の特別な介入が必要です。それは、一つの教会における諸部分教会の交わりの見える最高のきずなとしての、また、これらの教会の自由の保証人としての資格によるものです。
[1560]
各司教は、キリストの代理者としてそれぞれにゆだねられた部分教会の司牧にあたりますが、同時に、兄弟であるすべての司教とともに、全教会のための配慮を団体としても行います。「各司教は自分にゆだねられた群れに対してのみ固有の権能を持つにしても、神の定めによる使徒の正当な後継者としては、他の司教たちとともに教会の使徒的使命に配慮するよう義務づけられています」ピウス12世回勅『フィデイ・ドヌム』(Fidei donum : AAS 49 [1957] 237)。『教会憲章』,第23項、『教会における司教の司牧任務に関する教令』,第4項,第36項,第37項、第2バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』,第5項,第6項、38(Ad gentes)参照。。
[1561]
以上述べたすべてのことは、司教の司式で行われるエウカリスチアがなぜ格別な意味を持つのかという理由を説明しています。すなわちそれは、よき牧者であり教会の頭であるキリストの目に見える代理者の司式のもとに祭壇を囲んで集まった教会を表すものだからなのです『典礼憲章』,第41項、『教会憲章』,第26項参照。。
[1562]
「父が聖とならしめて世に遣わされたキリストは、その使徒たちを通して、彼らの後継者すなわち司教たちをご自分の聖別と使命とに参与する者とされました。そして司教は自分の役職の任務を教会の中において、いろいろの配下の者に種々の段階によって、正当に授けました」『教会憲章』,第28項。。「司教の役務の任務は従属的段階において司祭たちに伝授されました。こうして、彼らは司祭の団階の中に確立されて、キリストから託された使徒的派遣(使命)を正しく果たすために、司教の団階の協力者となります」『司祭の役務と生活に関する教令』,第2項。。
[1563]
「司祭の務めは司教の団階に結ばれているものですから、キリストご自身がそのからだを建設し、聖化し、統治される権威に参与するものです。したがって司祭の祭司職はキリスト教入信の諸秘跡を前提としますが、別個の秘跡によって授与されるものであり、この秘跡によって司祭は聖霊の塗油により特別な霊印(カラクテル)をしるされ、こうして、頭であるキリストの代理として行動することができるように、祭司キリストの姿に似たものとなります」『司祭の役務と生活に関する教令』,第2項。。
[1564]
「司祭はたとえ最高の祭司職を有せず、自己の権能の行使において司教に従属しているとはいえ、司祭の栄位において司教に結ばれており、叙階の秘跡の力によって、最高永遠の祭司であるキリストにかたどられてヘブライ5・1-10,7・24,9・11-28参照。、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別されます」『教会憲章』,第28項。。
[1565]
司祭は叙階の秘跡により、キリストが使徒たちにゆだねた世界的規模の使命にあずかります。叙階の秘跡で受けた霊的たまものは、司祭を限られた狭い範囲の使命にではなく、「『地の果てまで』(使徒言行録1∙8)の広大な世界的な救いの使命のために」 『司祭の役務と生活に関する教令』,第10項。準備し、「至るところで福音を宣教する心構えをつねに持つ」第2バチカン公会議『司祭の養成に関する教令』,第20項(Optatam totius).ようにさせます。
[1566]
「司祭はとくにエウカリスチアの祭礼または集会の儀においてその聖務を執行し、そこではキリストの代理者として行動し、キリストの神秘を宣布し、信者の祈りをその頭のいけにえに結び合わせ、新約の唯一の犠牲、すなわち自らを汚れなきいけにえとして父に一度ささげられたキリストの犠牲を、主の到来までミサの犠牲において現存するものと成し、それを適用させます」 『教会憲章』,第28項。。この唯一の犠牲から、司祭は自分たちのすべての役務のための力をくみ取ります『司祭の役務と生活に関する教令』,第2項参照。。
[1567]
「司祭は司教職位の賢明な協力者、その助手、その道具であって、神の民に仕えるために召され、自分たちの司教とともに一つの司祭団を構成し、種々の職務に携わります。信者の各地方集団においては、司祭は自分が広い信頼する心をもって結ばれている司教をある意味で現存するものとし、司教の務めと苦労を役割に応じて引き受け、日々の配慮をもってそれを実行します」『教会憲章』,第28項。。司祭がその職務を果たすには、司教に従属し、司教と一致していなければなりません。叙階式で司教に対して従順を約束し、式の終わりに司教と平和のあいさつを交わしますが、それは司教が司祭を自分の協力者、子、兄弟、友とみなしていること、また、司祭が司教に愛と従順を示さなければならないことを表すものです。
[1568]
「司祭たちは叙階式によって司祭の団階の中に入れられたのですから、皆相互いに秘跡的兄弟愛によって深く結ばれています。しかし当該司教のもとで一つの司教区に奉仕するよう配属された司祭たちは、その司教区の中で一つの司祭団を構成します」『司祭の役務と生活に関する教令』,第8項。。司祭団の一致は、司祭叙階式の間に司教についで司祭たちが按手する慣習で、典礼的に表されます。
[1569]
「聖職位階の下位の段階に助祭があり、『祭司職のためではなく、奉仕の務めのために』按手を受けます」『教会憲章』,第29項。『教会における司教の司牧任務に関する教令』,第15項参照。。助祭叙階では司教だけが按手しますが、これは、助祭は「奉仕」の任務にあってとくに司教に結ばれていることを表します聖ヒッポリュトス『使徒伝承』 (S. Hippolytus Romanus, Traditio apostolica, 8 : ed. B. Botte [Minister i. W. 1989] 22-24)参照。。
[1570]
助祭は特別なしかたでキリストの使命と恵みに参与します『教会憲章』,第41項、『教会の宣教活動に関する教令』,第16項参照。。叙階の秘跡は助祭に、だれも消すことのできない霊印をしるし、すべての人の奉仕者となられたキリストに似た者にしますマルコ10・45、ルカ22・27、聖ポリュカルポス『フィリピの信徒への手続』 (S. Polycarpus Smyrnensis, Epistula ad Phihppen ses5,2:SC10bis182 [Funk 1, 300])参照。。助祭のおもな任務は、秘跡、とくにエウカリスチアの祭儀が行われるときに司教と司祭を補佐し、聖体を配り、結婚式に立ち会って祝福し、福音を宣言し、説教し、葬儀を司式し、愛の種々の奉仕に献身することです『教会憲章』,第29項, 『典礼憲章』,第35項・4、『教会の宣教活動に関する教令』,第16項参照。。
[1571]
第2バチカン公会議後、ラテン教会は助祭職を「聖職位階の固有の永続的な一つの段階として」『教会憲章』,第29項。復興しました。東方教会ではつねに助祭職を保持してきました。既婚者にも授けられるこの終身助祭職は、教会の使命を果たすために大いに役立ちます。教会の中で、典礼生活や司牧生活、あるいは社会事業や慈善事業などを通して真に奉仕の務めを果たす人々が「助祭職の秘跡的恩恵によってさらにいっそう効果的に果たしうるように、使徒たちから伝授された按手によって強められ、また、より密接に祭壇に結びつけられること」『教会の宣教活動に関する教令』,第16項。は適切で有益なことです。
[1572]
司教、司祭、助祭の叙階式は、部分教会の生活にとって重要な出来事ですから、可能な限り多くの信者の参加を得て行うべきであり、できるだけ日曜日に、司教座聖堂で状況にふさわしい荘厳さで行われるべきです。司教、司祭、助祭の三つの叙階式は同じ順序に従って、感謝の典礼の間に行われます。
[1573]
三つの叙階式の本質的な部分は、受階者の頭に司教が按手し、聖別の祈りを唱えるところです。この祈りは、受階者の上に聖霊と受階者がこれから行うべき奉仕に必要な聖霊のたまものとが注がれるよう神に願うものですピウス12世使徒憲章『サクラメントゥム・オルディニス』(Sacramentum ordinis : DS3858)参照。。
[1574]
すべての秘跡と同じように、式には他の付属的な部分が伴います。種々の典礼伝承に基づいたかなりの相違はありますが、秘跡の恵みの多様性を表している点は共通です。ラテン典礼の式の最初の部分⸺受階者の紹介と選出、司教の訓示、受階者との問答、諸聖人の連願⸺は受階者の選出が教会の慣習に従って行われることを示し、聖別の荘厳な行為に備えます。その後に続くさまざまな儀式は、成就される神秘を示しながら、その神秘を象徴的な方法を用いて実現させるものです。司教と司祭には、奉仕の務めに豊かな実りを得させる聖霊の特別な注ぎのしるしである、聖香油の塗布が行われます。司教には福音書、指輪、ミトラとつえが授与されますが、これは神のことばを告げ知らせる使徒的使命と、キリストの花嫁である教会に対する忠実さと、キリストの群れを牧する任務を表すためのしるしです。司祭には神にささげる聖なる民の供え物『司教・司祭・助祭の叙階(規範版第2版)』 「司祭叙階のパンとぶどう酒の杯の授与」 163(op. cit., 95)参照。を表すパテナとカリスとが授与され、キリストの福音を告げ知らせる使命を受けた助祭には福音書が授与されます。
[1575]
キリストは使徒たちを選び、ご自分の使命と権威にあずからせてくださいました。御父の右に座してもその群れを見捨てることなく、使徒たちを通していつも守り、今日でもこのわざを続ける牧者によって導いておられます『ローマ・ミサ典礼書』使徒の叙唱1参照。。したがって、ある人々を使徒、ある人々を牧者と「なさる」のはキリストですエフェソ4・11参照。。キリストは司教たちを通して行動し続けておられます『教会憲章』,第21項参照。。
[1576]
叙階の秘跡は使徒的役務の秘跡ですから、「霊的たまもの」『教会憲章』,第21項。、「使徒の種」『教会憲章』,第20項。を伝授する権限は、使徒たちの後継者である司教にあります。有効に叙階された司教、すなわち、使徒継承に結ばれた司教が、叙階の秘跡の三つの段階を有効に授けるのですインノケンティウス3世『ヴァルドゥス派の支持者に要求される信仰宣言』 (Pro fessio fidei Waldensibus praescripta : DS794)、第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (De fide catholica : DS802)、「新教会法典」第1012条、「東方教会法典」第744,747条参照。。
[1577]
「洗礼を受けた男子のみが聖なる職階に有効に叙せられることができます」「新教会法典」第1024条。。イエスは十二人の使徒団を形成するために男子を選びましたしマルコ3・14-19,ルカ6・12-16参照.、使徒たちが自分たちの任務の後継者となる聖クレメンス1世『コリントの信徒への手紙』 (S. Clemens Romanus, Epistula ad Corinthios 42, 4; 44, 3: SC 167, 168-170; 172 [Funk 1, 152; 156])参照。協力者たちを選んだときも同様でした1テモテ3・1-13、2テモテ1・6、テトス1・5-9参照。。司祭たちが祭司職で結ばれている司教団が、キリストの再臨のときまで十二使徒団を再現し、具現するのです。教会はキリストご自身によるこの選択に従う義務があると考えています。したがって、女性が叙階されることはありえませんヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『女性の尊厳と使命』26-27(Mulieris dignitatem : AAS 80 [1988] 1715-1720)、同使徒的書簡『オルディナツィオ・サチェルドターリス』 (Ordinatio sacerdotalis : AAS 86 [1994] 545-548)、教理聖省宣言『インテル・インスィニョーレス』 (Inter insigniores : AAS 69 [1977] 98-116)、教理省「ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『オルディナツィオ・サチェルドターリス』の伝統的な教えに関する疑問への回答」(Responsum ad dubium circa doctrinam in Epist. Ap. "Ordinatio Sacerdotalis" traditam : AAS 87 [1995] 1114参照。。
[1578]
叙階の秘跡を受ける権利はだれにもありません。事実、だれも勝手にこの任務を自分のものにすることはできません。神に召された人だけがなれるのですヘブライ5・4参照。。神から司祭職に召されていると思う人は、謙虚に自分の望みを教会の指導者に打ち明けなければなりません。ある人々に叙階を許可する責任と権利とを持つのは教会の権威者です。あらゆる恵みと同じく、この秘跡も無償のたまものとしていただく以外にはないのです。
[1579]
ラテン教会で叙階されるすべての役務者は、終身助祭を除いて、通常は独身者で、「天の国のために」(マタイ19∙12)独身を守ることを決意した男子信者の中から選ばれます。ひたすら主と主のこととに専念するよう召された司祭は1コリント7・32参照。、自分のすべてを神と人々とにゆだねます。独身制は新しいいのちのしるしであって、教会の役務者はこのいのちに奉仕するために聖別されます。喜んで独身制を受け入れる者は、輝かしく神の国を告げ知らせるのです『司祭の役務と生活に関する教令』,第16項参照。。
[1580]
東方教会では、古くから異なった規律が守られています。司教は独身者の中からだけ選ばれますが、既婚者の男子も助祭や司祭の叙階を受けることができます。この慣習は、古くから合法的とみなされてきました。彼らはそれぞれの教会にあって、実りある役務を果たしています『司祭の役務と生活に関する教令』,第16項参照。。いうまでもなく、司祭の独身制は東方教会でもきわめて重んじられ、多くの司祭が神の国のために自由に独身を選んでいます。東方教会でも西方教会と同じく、叙階の秘跡を受けた後には結婚することができません。
[1581]
叙階の秘跡は、キリストの道具となって教会に奉仕させるため、聖霊の特別な恵みによって人をキリストに似た者とします。叙階によって、祭司・預言者・王というキリストの三職を、教会の頭であるキリストの代理者として果たすことができるようになります。
[1582]
洗礼や堅信の場合と同様、このキリストの任務への参与はただ一度ゆるされるだけです。叙階の秘跡もまた、消えない霊印を与えるので、繰り返し受けることも、期限付きで授けることもできませんトリエント公会議第23総会『叙階の秘跡について』第4章(Doctrina de sacramento Ordims : DS1767 、『教会憲章』,第21項,第28項,第29項、『司祭の役務と生活に関する教令』,第2項参照。。
[1583]
重大な理由があれば、有効に叙階された者が、叙階に伴う義務や職務から解かれるか、この行使を禁止されることがあります「新教会法典」第290〜293条、1336条第1項第3, 5号、1338条第2項参照。。しかし当人は、厳密な意味では、もはや信徒の身分に戻ることはできませんトリエント公会議第23総会「叙階の秘跡についての規定」 4(DS1774)参照。。叙階によってしるされた霊印は消えることがないからです。叙階の日に受けた召命と使命とは、その人に消えないしるしを刻むのです。
[1584]
叙階された役務者を通して働き救いをもたらされるのはキリストですから、彼らにふさわしくない行動があったとしても、キリストの働きが妨げられることはありません
トリエント公会議第7総会「秘跡全般についての規定」 12(Canones de sacramentisingenere: DS1612)、コンスタンティノポリス公会議『ジョン・ウィクリフの誤謬』4(Errores Iohannis Wyclif: DS1154)参照。。聖アウグスチヌスは、この点を次のように力説しています。
「高慢な役務者は悪魔と同一視されるべきです。それでも、キリストのたまものは汚されません。このような役務者を通して流れ出るものは清さを保ち、彼を通して流れるものは澄んだままで、肥沃な土地までやってきます。……秘跡の霊的力は光のようなもので、照らされなければならない人々はそれを清いままに受け、たとえ汚れたものを通っても、それ自体が汚されることはありません」聖アウグスティヌス『ヨハネ福音書講話』(S. Augustinus, In Iohannis evangelium tractatus 5, 15 : CCL 36, 50 [PL 35, 1422])。。
[1585]
この秘跡に固有な聖霊の恵みは、人を祭司・師・牧者であるキリストに同化させることです。叙階を受けた者は、そのキリストの役務者となります。
[1586]
司教が受ける恵みはおもに勇気の恵み(「統治の霊」⸺ラテン典礼の司教聖別の祈り
『司教・司祭・助祭の叙階(規範版第2版)』「司教叙階の祈り」 47(op. cit., 24)。)です。すなわち、すべての人、とくに貧しい人、病人、困窮者に対する無償の愛をもって、父のように、羊飼いのように、教会を力強く賢明に導き擁護するための恵みです
『教会における司教の司牧任務に関する教令』,第13項,第16項参照。。この恵みにより、司教はあらゆる人に福音を告げ知らせ、その群れの模範となり、また、エウカリスチアにおいて祭司でありいけにえであるキリストと一体となりながら、自分の羊のためにいのちを捨てることをも恐れず、聖化の道を群れの先頭に立って進むよう促されます。
「人の心を見通される父よ、あなたが司教としてお選びになったこのしもべが、聖なる群れを牧し、昼も夜もあなたに仕えて最高の祭司職をとがめられることなく果たすことができますように。あなたの顔をたえず和らげ、聖なる教会の供え物をささげ、最高の祭司職の霊によって、おことばのとおり罪をゆるす権能を受けますように。あなたが割り当てられるままに役割を分配し、あなたが使徒にお与えになった権能によっていっさいのきずなを解くことができますように。御子イエス・キリストによって芳しい香りをささげ、柔和と清い心であなたに喜ばれる者となりますように」聖ヒッポリュトス『使徒伝承』 (Traditio apostolica, 3 : op. cit., 8-10)。。
[1587]
司祭叙階によって与えられる霊的たまものは、ビザンチン典礼独自の叙階式の祈りによく示されています。司教は按手しながら、次のように唱えます。
「主よ、あなたが司祭の位階に高めてくださった者を聖霊のたまもので満たし、非の打ちどころなくあなたの祭壇の前に立ち、み国の福音を告げ知らせ、あなたの真理のことばの奉仕を果たし、霊的供え物と犠牲をささげ、新たに造り変える洗いを通してあなたの民を一新させることができるようにしてください。こうして、この司祭自身が再臨の日に御ひとり子であるわたしたちの神、救い主イエス・キリストを迎えて、あなたの限りないいつくしみにより、その任務の忠実な履行に対する報いを受けることができますように」ビザンチン典礼「司祭抜手の祈り」 (2 oratio chirotomae presbyteralis : Ευχολογιον το μεγα [Roma 1873] 136)。。
[1588]
助祭は、「秘跡の恩恵に強められて、司教および司祭団との交わりの中で、典礼とことばと愛の奉仕(ディアコニア)において神の民に仕えます」『教会憲章』,第29項。。
[1589]
祭司の恵みと任務の偉大さを前にして、教会博士たちは、秘跡によってご自分の奉仕者に定められたかたにいのちを投げ出して従うようにとの、回心への強い呼びかけを感じ取りました。たとえば、ナジアンズの聖グレゴリオは司祭になったばかりのときに、次のように叫んでいます。
「他の人々を清める前に、まず自分自身が清められなければなりません。人に教えることができるためには、教えを身につけなければなりません。他の人々を照らすためにはまず自分自身が光となり、他の人々を神に近づけるためには自分が神に近づき、人々を聖化し、手を取って導き、賢明な助言を与えるためには、自分自身が聖化されていなければなりませんす」ナジアンゾスの聖グレゴリオス『説教』 (S. Gregorius Nazianzenus, Oratio 2, 71 : SC 247, 184 [PG 35, 480])。。「わたしは、わたしたちがどなたに仕え、どのような地位にあり、どなたのもとへ進んでいるのかを知っています。わたしは、神の崇高さと人間の弱さとを1知っています。しかしまた、神の力がどんなものであるかも知っています」同『説教』 (Ibid.,2,74:SC247,186 [PG 35, 481])。。「〔それでは、司祭とは何でしょうか。司祭とは〕真理の擁護者であり、将来は天使たちと並んで立ち、大天使たちとともに神を褒めたたえ、天上の祭壇にいけにえをささげ、キリストの祭司職を分かち持ち、被造物を改造し、〔人に神の〕似姿を取り戻させ、天の国のためにそれを造り直す者となるのです。そして、そのもっとも偉大な点を述べるとすれば、司祭は、将来は自分自身が神化され、他の人々をも神化させるのです」同『説教』 (Ibid.,2,73:SC247,186 [PG 35, 481])。。
また、アルスの主任司祭聖ヨハネ・ビアンネはこうもいっています。「この世であがないのわざを続けるのは、司祭です」。「人はこの世で司祭が何であるかを本当に理解すれば、恐れのゆえではなく、愛のゆえに死ぬでしょう」。「祭司職とは、イエスの心の愛です」B・ノード『アルスの司祭』 (B. Nodet, Le Cure d'Ars. Sa pensee-son coeur [Le Puy 1966] 98)。。
[1590]
聖パウロは、弟子のテモテに対しては、「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神のたまものを、再び燃えたたせるように勧めます」(二テモテ1∙6)、「監督(司教)の職を求める人がいれば、その人はよい仕事を望んでいる」(一テモテ3∙1)といい、テトスに対しては、「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老(司祭)たちを立ててもらうためです」(テトス1∙5)といっています。
[1591]
教会全体が祭司的な民です。洗礼により、すべての信者はキリストの祭司職にあずかります。この参与は「信者の共通祭司職」と呼ばれます。この基礎に立ち、これに奉仕するため、キリストの使命に参与するもう一つの祭司職があります。すなわち、叙階の秘跡によって与えられる奉仕職です。その任務は共同体の中で頭であるキリストの名において、またその代理者として仕えることです。
[1592]
役務としての祭司職は、信者の共通祭司職とは本質的に異なります。それは、信者に奉仕するための聖なる権能を与えるものだからです。叙階された役務者は、教えること(教職)、祭儀をつかざどること(祭職)、司牧すること(牧職)を通して神の民に仕えます。
[1593]
教会の初めから、叙階による役務は司教、司祭、助祭の三段階で授けられ、果たされてきました。叙階によって授けられる役務は、教会の有機的構造にとってはかけがえのないものです。司教、司祭、助祭がいなければ、教会とはいえませんアンティオキアの聖イグナティオス『トラレスの信徒への手紙』 (Epistula ad Trallianos 3, 1: SC 10bis, 96 [Funk 1, 244])参照。。
[1594]
司教は叙階の秘跡の充満を受け、これによって司教団に加えられ、ゆだねられた部分教会の見える長となります。司教たちは、使徒たちの後継者および司教団の一員として、ペトロの後継者である教皇の権威のもとで、全教会の使徒的責任と使命を分担します。
[1595]
司祭は祭司職の身分においては司教に結ばれており、司牧の務めを行使するにあたっては、司教に従属します。司教の賢明な協力者となるように召され、部分教会の責任を司教とともに担う司祭団を司教を中心にして構成します。司祭は司教から、小教区共同体の任務あるいは教会のある特定の任務に任じられます。
[1596]
助祭は、教会の奉仕の務めを果たすために叙階された役務者です。役務としての祭司職は受けませんが、叙階によって、ことば、典礼、司牧、愛の奉仕の務めにおける重要な役割を与えられます。助祭はこれを司教の司牧権威のもとで行います。
[1597]
叙階の秘跡は、按手と、これに続く荘厳な聖別の祈りとによって授けられます。聖別の祈りは、受階者の役務に必要な聖霊の恵みを神に願うものです。叙階は、消えない秘跡的な霊印をしるします。
[1598]
教会は叙階の秘跡を、役務にふさわしい適性を持つと認められた受洗男子にのみ授けます。ある人を叙階する責任と権利とは、教会の権限に属します。
[1599]
ラテン教会では、司祭の叙階の秘跡は通常、自由意志をもって独身制を受け入れる覚悟を持ち、神の国への愛と人々への奉仕のために独身を守る意志を公に表した候補者にしか授けられません。
[1600]
三つの段階の叙階の秘跡を授ける権限は、司教に属します。
[1601]
「男女が相互に全生涯にわたる生活共同体を作るために行う婚姻の誓約は、その本性上、夫婦の善益と子の出産および教育に向けられています。受洗者間の婚姻の誓約は、主キリストによって秘跡の尊厳にまで高められました」「新教会法典」第1055条第1項。。
[1602]
聖書は神に似せて造られた男と女の創造の話で始まり創世記1・26-27参照。、「小羊の婚宴」(黙示録19∙9)黙示録19・7参照。の話で終わります。そして、聖書の初めから終わりまで、結婚とその神秘、その制定と神がその結婚に与えられた意義、その起源と目的、救いの歴史の流れの中で成就されていくその多様な姿、罪ゆえに生じたその困難さ、キリストと教会との新しい契約の中で「主に結ばれている」(一コリント7∙39)者との再婚などについて語っていますエフェソ5・31-32参照。。
[1603]
「夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は創造主によって設立され、法則を与えられました。……神ご自身が婚姻の創設者です」『現代世界憲章』,第48項。。結婚への召し出しは、創造主によって造られた男女の本性に刻み込まれています。結婚は、時の流れとともにさまざまな文化、社会構造や考え方などに応じていろいろと変化しましたが、人間が作り出した制度ではありません。多様性を認めたとしても、そこにある共通で恒久的な特徴を見落としてはなりません。結婚の崇高さについては世界のあらゆるところで同じような鮮明さで表されているわけではありませんが『現代世界憲章』,第47項参照。、すべての文化は結婚の結びの偉大さを認めています。「個人の幸福、ならびに一般社会とキリスト教社会の幸福は婚姻および家庭と呼ばれる共同体の健全な状態に固く結ばれています」『現代世界憲章』,第47項。。
[1604]
愛によって人間をお造りになられた神は人間を愛へとお招きになられましたが、これはすべての人間に内在する根本的な召し出しです。人間は「愛である」(一ヨハネ4∙8,16 参照)神にかたどり、神に似せて造られたからです創世記1・27参照。。神が人間を男と女とに造られたので、男女の相互愛は、人間を愛される神の絶対で不滅の愛を映し出すものとなります。この相互愛は創造主の目にはよいもの、きわめてよいものなのです創世記1・31参照。。神によって祝福されたこの愛は、子供を産み、被造界を維持する共同の働きを行うことを目指しています。「神は彼らを祝福していわれた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」(創世記1∙28)。
[1605]
聖書が明言するとおり、男と女は相互のために造られています。「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2∙18)。女は男にとって「その肉の肉」創世記2・23参照。、すなわち、同等の人、もっとも近い者であって、わたしたちの助けの源である神詩編121・2参照。を表す「助ける者」創世記2・18参照。として、神から与えられているのです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2∙24)。これは男女二人の生活の永続的な結合を意味していることをキリスト自らが示され、「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタイ19∙6)ということばで、創造主の「初めから」の計画マタイ19・4参照。を想起させておられます。
[1606]
すべての人は自分の周囲や自分のうちに悪を体験します。この体験はまた、男と女との間でも見られます。男女の結合はつねに、不和、支配欲、不忠実、しっと、憎悪や断絶に終わる衝突などの危険にさらされています。この無秩序は、大きさには多少の相違が見られたり、それぞれの文化、時代、個人などの努力による多少の解決がなされたりしているとはいえ、いつどこででも起こっている問題です。
[1607]
わたしたちが経験し、苦しんでいるこの無秩序は、キリスト教信仰によれば、男と女の本性や、両者の関係に由来するのではなく、罪の結果なのです。神との断絶をもたらした人祖の最初の罪の結果は、男と女との原初の交わりを破壊しました。男女の関係は相互の責任のなすり合いでゆがめられ創世記3・12参照。、本来は創造主のたまものである相互間のあこがれは創世記2・22参照。支配と欲望の関係へと変わってしまいました創世記3・16参照。。産み、増え、地を従わせる男女の優れた召し出しは創世記1・28参照。、産みの苦しみと糧を得る労苦を背負うものになりました創世記3・16-19参照。。
[1608]
こうして創造の秩序は甚だしく乱されたとはいえ、存在し続けています。男と女は罪による損傷をいやすために恵みの助けを必要とし、神はその限りない慈悲により、決してこれを拒むことはありませんでした創世記3・21参照。。神のこの助けなしには、男と女は神が創造によって定められた「初めから」の目的に沿って自分たちの結合を果たすことはできません。
[1609]
あわれみ深い神は、罪びとである人間をお見捨てにはなられませんでした。罪の結果としての罰、すなわち、はらみの苦しみ創世記3・16参照。と「顔に汗を流す」(創世記3∙19)労働はまた、罪の害を抑制する薬でもあります。原罪の後では、結婚が、自己閉鎖や自己愛に基づく「利己主義」、自己の快楽の追求などに打ちかち、他者に心を開いて相互扶助と自己献身の態度を取ることができるよう助けてくれます。
[1610]
結婚の一夫一婦制と不解消性とに関する道徳的意識は、旧約の律法の導きのもとでしだいに発展してきました。太祖や王たちの一夫多妻については、まだ明白には禁じられていません。しかし、モーセに与えられた律法は、キリストのことばによればモーセが妻の離縁をゆるす理由とした男の「心のかたくなさ」の跡は見られるようですがマタイ19・8、申命記24・1参照。、男によるわがままな支配から女を保護することを目指したものです。
[1611]
預言者たちはイスラエル民族と神との契約を二人だけの忠実な夫婦愛にたとえホセア1章〜3章、イザヤ54章、イザヤ62章、エレミヤ2章〜3章、エレミヤ31章、エゼキエル16章、エゼキエル23章参照。、選ばれた民の良心を培い、結婚の一夫一婦制と不解消性とのより深い理解へと導いていきましたマラキ2・13-17参照。。ルツ記とトビト記は結婚について、とくに夫婦の忠実さと愛情についての優れた見方を示しています。伝承はつねに、雅歌の特異な表現の中に、神の愛の反映としての人間愛、「死のように強く」、「大水も消すこと〔の〕できない」(雅歌8∙6-7)愛を読み取っています。
[1612]
神とその民イスラエルとの間の結婚の契約は、新しい永遠の契約を準備しました。この新しい契約の中で神の御子は人となり、自らのいのちをささげ、ご自分によって救われた全人類とある意味で一致し『現代世界憲章』,第22項参照。、こうして、「小羊の婚礼」を準備なさいました黙示録19・7,9参照。。
[1613]
イエスは宣教生活の初め、ある婚礼の機会に、ご自分の母親の願いに応じて最初のしるしを行われましたヨハネ2・1-11参照。。教会は、カナの婚宴にイエスが臨席されたことを重視します。教会は、ここで結婚がよいものであることが確認され、これからは結婚がキリストの現存の効果的しるしとなることが宣言された、と読み取っています。
[1614]
イエスは、創造主が当初に望まれた男女の結合の本来の意味を明確に教えられました。すなわち、モーセが妻を離縁する許可を与えたのは、人間の心のかたくなさゆえの譲歩でしたマタイ19・8参照。。男女の結婚による結合は不解消です。それは神ご自身が夫婦を結び合わせられたからです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19∙6)。
[1615]
結婚のきずなの不解消性に関するイエスの断定的な強調は人々を困惑させ、実行不可能な要求と受け取られる可能性がありましたマタイ19・10参照。。しかし、イエスは夫婦に担うことのできない重荷、モーセの律法よりも重い荷を負わせられたのではありませんマタイ11・29-30参照。。イエスは罪によって乱された創造の原初の秩序を回復するために来られ、神の国の新しい展望の中で結婚生活を生きるための力と恵みを自らお与えになります。夫婦はキリストの後に従い、自分を捨て、自分の十字架を背負ってこそマルコ8・34参照。、はじめて結婚の本来の意味を「受け入れ」マタイ19・11参照。、キリストに助けられながらその教えに基づいて生活することができるのです。キリスト者の結婚の恵みは、すべてのキリスト教的生活の源であるキリストの十字架の実りなのです。
[1616]
使徒パウロはこのことを理解させようとして、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになって、聖なるものとなさったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5∙25-26 参照)と述べ、さらに付け加えて、「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5∙31-32)と語っています。
[1617]
キリスト教的生活全体に、キリストと教会との夫婦愛のしるしが刻まれています。神の民の一員とする洗礼は、すでに結婚の神秘です。すなわち、洗礼は結婚式の前の水の洗いでありエフェソ5・26-27参照。、その後にエウカリスチアという婚宴が続きます。キリスト者の結婚はキリストと教会との契約の秘跡、その効果的なしるしなのです。受洗者同士の結婚は新約の恵みを示し、与えるので、新約の真の秘跡ですトリエント公会議第24総会『結婚の秘跡について』 (Doctrina de sacramento Matrimonii : DS1800)、「新教会法典」第1055条第1項参照。。
[1618]
キリストはキリスト教的生活全体の中心です。キリストとのきずなが、家族、社会、他のすべてのきずなに優先します
ルカ14・26、マルコ10・28-31参照。。教会の当初から、結婚の幸せを放棄した男女が存在していました。それは、小羊が行かれるところにはどこにでもついて行き
黙示録14・4参照。、主のことに心を遣い、主に喜ばれることを求め
1コリント7・32参照。、おいでになる花婿を迎えに出る
マタイ25・6参照。ためです。キリスト自ら、このような生き方をしてご自分に従うようにとある人々を招かれました。キリストこそ、この生き方の模範です。
「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19∙12)。
[1619]
天の国のための独身は、洗礼の恵みの発露、キリストとのきずなの卓越性とその再臨の熱烈な待望との優れたしるしであり、さらに、結婚が過ぎ行く現世のことがらであることを思い起こさせるしるしマルコ12・25、1コリント7・31参照。でもあります。
[1620]
結婚の秘跡も神の国のための独身も、キリストご自身に由来するものです。キリストが、この双方に意味を与え、み旨に従って生きるために必要な恵みを与えられます
マタイ19・3-12参照。。神の国のための独身の価値
『教会憲章』,第42項、第2バチカン公会議『修道生活の刷新・適応に関する教令』,第12項(Perfectae caritatis)、『司祭の養成に関する教令』,第10項参照。と結婚のキリスト教的意義とは、切り離すことのできない、互いに補い合うものです。
「結婚を誹謗、中傷する者はだれでも、純潔の輝きを曇らせてしまいます。それをたたえる者はだれでも、純潔をより称賛に値する輝かしいものとします。悪と比較してのみ善に見えるものは、特別に善とはいえません。善であると認められるものよりもさらによいもの、それが最高の善です」聖ヨアンネス・クリュソストモス『処女性について』 (S. Ioannes chrysostomus, De virginitate 10, 1: SC 125, 122 [PG 540])(ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『家庭―愛といのちのきずな』16(Familaris consortio : AAS 74 [1982] 98)参照。。
[1621]
ラテン典礼では、二人のカトリック信者間の結婚式は、すべての秘跡がキリストの過越の神秘と関連していることから、普通、ミサの中で行われます『典礼憲章』,第61項参照。。聖体祭儀では新しい契約の記念が行われますが、愛する花嫁である教会のためにご自分をお与えになったキリストは、この契約において、教会と永遠に結ばれたのです『教会憲章』,第6項参照。。したがって、新郎新婦が自分たちの生活を奉献して相互に与え合うという同意を、エウカリスチアのいけにえにおいて現在化される教会のためのキリストの自己奉献に一致させ、聖体を拝領するのはきわめて適切なことです。それは二人がキリストの同じからだと同じ血をいただき、キリストにおいて「ただ一つのからだ」となるためです1コリント10・17参照。。
[1622]
「聖化の秘跡として、結婚式は……式自体が有効でふさわしく実り豊かなものでなければなりません」ヨハネ・パウロ2世『家庭』67(loc. cit., 162).。したがって、結婚する二人がゆるしの秘跡を受けて結婚式に備えるのはふさわしいことです。
[1623]
ラテン教会の伝統では、新郎新婦が教会の前でそれぞれの同意を表すことにより、キリストの恵みの役務者として互いに結婚の秘跡を授け合います。東方教会の伝統では、祭司(主教または司祭)は新郎新婦によって相互に表明される同意の証人となります「東方教会法典」第817条参照。が、秘跡の有効性のためにはその祭司の祝福も必要となります同第828条参照。。
[1624]
さまざまな典礼様式における祝福の祈りや聖霊の働きを願う祈り(エピクレシス)の種類は豊富ですが、それは新郎新婦、とくに新婦の上に神の恵みと祝福とを願うものです。この秘跡のエピクレシスで、新郎新婦はキリストと教会との愛の交わりである聖霊をいただきますエフェソ5・32参照。。聖霊こそ二人の契約の刻印であり、二人の愛の尽きない泉であり、二人の忠実を更新させる力なのです。
[1625]
結婚の誓約の当事者は、洗礼を受けた一人の男性と一人の女性で、自由に結婚することができ、自由意志をもって同意を表す者たちです。「自由に結婚することができる」とは次のことを意味します。
⸺強制されていないこと。
⸺自然法、あるいは教会法上の結婚の障害がないこと。
[1626]
教会は新郎新婦間の同意の交換を、「結婚を成立させる」不可欠な要素とみなしています 「新教会法典」第1057条第1項参軌。同意がなければ結婚は成立しません。
[1627]
同意とは、「配偶者が互いに自分を与えそして受ける人間行為」 『現代世界憲章』,第48項。「新教会法典」第1057条第2項参照。のうちに成立するものであり、それは、「わたしはあなたを妻とします」「わたしはあなたを夫とします」『結婚式(規範版第2版)』62(Ordo celebrandi Matrimonium, Editio typica altera [Typis Polyglottis Vaticanis 1991] 17)。ということばで表されます。新郎新婦を互いに結び合わせるこの同意は、二人が「一体」となる創世記2・24,マルコ10・8、エフェソ5・31参照。ことで完成します。
[1628]
同意は、暴力または外部からの強度の恐怖によって束縛されていない当人各自の意志行為でなければなりません 「新教会法典」第1103条参軌。いかなる人間の権力も、この同意に取って代わることはできません「新教会法典」第1057条第1項参照。。もしもこの同意が自由意志で行われたものでないとすれば、結婚は無効です。
[1629]
このような理由(あるいは結婚を無効とする他の理由「新教会法典」第1083 1108条参照。)があれば、教会は、管轄の教会裁判所によって状況を調査した後、「結婚の無効」、すなわち、結婚が成立していなかったということを宣言することができます。この場合、当の二人は自由に他の人と結婚することができます。ただし、以前の結合によって生じた自然的な義務は果たさなければなりません「新教会法典」第1071条第1項第3号参照。。
[1630]
結婚式に立ち会う司教や司祭(または助祭)は教会の代表者として二人の同意を受け止め、教会の祝福を与えます。教会の役務者(および証人たち)の臨席は、結婚が教会的出来事であることを明らかにするものです。
[1631]
そのために教会は、通常、信者が教会の儀式に従って挙式するように命じていますトリエント公会議第24総会『婚姻法改定についての教令「タメットシ」』 (Tametsi: DS1813〜DS1816)、「新教会法典」第1108条参照。。このような規定が定められていることには、いろいろな理由があります。
⸺秘跡的結婚は典礼行為です。ですから、結婚は教会の公の典礼の中で行われるのがふさわしいのです。
⸺結婚は人を教会での一定の身分に加入させ、教会における夫婦間の権利と義務、ならびに子供に対する権利と義務とを授けます。
⸺結婚は教会の中での生活様式の一つですから、結婚についての確証がなければなりません(そのために、証人の立ち会いが義務づけられます)。
⸺同意を公に表すことによって、そのときの同意が支えられ、それを忠実に守るように助けられます。
[1632]
新郎新婦の同意が自由で責任あるものとなるため、また、結婚の契約が人間としてまたキリスト者としての堅固で永続的な土台の上に立つためには、
結婚の準備がきわめて重要です。xs+両親や家族の模範と教訓とがこの準備のための最良の方法であることに変わりはありません。
結婚や家庭の人間的およびキリスト教的価値を伝達するためには、司牧者と「神の家族」であるキリスト者共同体の役割が不可欠です
「新教会法典」第1063条参照。。現代では多くの若者が亀裂した家庭を経験しており、家庭以外では結婚や家庭についての基本的教えを十分に受けられない状況であるだけに、その役割はいっそう重要です。xs-
「若い人たちに対しては、とくに家庭において、夫婦愛の品位、任務、行為について時機をはかって適切に教えなければなりません。こうして、彼らは貞潔についての教育を受けた後、時が来れば清い婚約時代を経て結婚に移ることができます」『現代世界憲章』,第49項。。
[1633]
多くの国では、混宗結婚(カトリック信者と非カトリック受洗者間の結婚)が、かなり頻繁に行われています。これには、配偶者ならびに司牧者の特別な心配りが必要です。異宗結婚(カトリック信者と非キリスト者間の結婚)の場合は、いっそうの慎重さが求められます。
[1634]
配偶者のキリスト教宗派の違いは、結婚にとって克服できない障害ではありません。それは、二人がそれぞれの教会で受けたものを共有し、お互いがキリストにどのように忠実に生きるかを学ぶことに成功する場合にいえることです。ただし、混宗結婚の難しさを過小評価してはなりません。それは、キリスト者間の分離がまだ解決されていない事実によるものです。配偶者は家庭内で、キリスト者間の不一致の悲劇に出合いかねません。異宗結婚には、この困難をさらに深刻なものにする可能性が秘められています。信仰に限らず、結婚そのものについての考えの相違、それに宗教的考えの違いが、結婚生活の中で、とくに子供の教育に関して、衝突の原因になりえます。こうした場合には、宗教的無関心の誘惑が待ち構えています。
[1635]
ラテン教会の現行法では、混宗結婚が合法となるためには教会権威者の明示的許可を必要とします「新教会法典」第1124条参照。。異宗結婚の場合には、結婚が有効となるために障害の明示的免除が必要とされます「新教会法典」第1086条参照。。この許可もしくは免除が与えられるための条件は、両者が結婚の本質的目的と特性とを知り、それを拒否しないこと、さらにまたカトリック者が、自分には自分の信仰を保持しカトリック教会での子供の洗礼と教育を保証する義務があり、そのことを非カトリック者側にも知らせる必要があるということを確認することです「新教会法典」第1125条参照。。
[1636]
多くの国々では、教会一致運動における対話のおかげで、かかわりのあるキリスト教諸派は混宗結婚者のための共同司牧を発足させました。その任務は、このような夫婦が自分たちの特殊な境遇を信仰の光に照らして生きるよう助けることにあります。さらにその活動は、互いに対する配偶者の義務に関して、また各自の所属教会に対する義務に関して起こりうる緊張を克服するように助け、信仰に共通なものを成熟させ、異なる面を尊重し合うように励ますことも目的としています。
[1637]
異宗結婚におけるカトリック信者の配偶者は、特別な任務を持っています。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」(一コリント7∙14)。もし、この「聖化」が配偶者の一方をキリスト教信仰への自由な回心に導くならば、キリスト者の配偶者にとっても教会にとっても、大きな喜びです1コリント7・16参照。。誠実な夫婦愛、家庭人としての諸徳のつつましく忍耐強い実践、たゆまぬ祈りなどを通して、信者でない配偶者を改宗の恵みにまで導くことができます。
[1638]
「有効な婚姻に基づいて、夫婦間にはその本性上永続的かつ排他的なきずなが生じます。さらにキリスト者同士の婚姻においては、夫婦はその身分に伴う義務および尊厳のゆえに、特別の秘跡によって強められ、いわば祝聖されます」 「新教会法典」第1134条。。
[1639]
新郎新婦が互いに与え受け入れ合う同意は、神ご自身によって押印されたものですマルコ10・9参照。。二人の契約から、「神の制定による堅固な制度が社会の前にも生まれます」『現代世界憲章』,第48項。。夫婦の契約は神と人類との契約に組み入れられ、「真正な夫婦愛は神の愛の中に取り上げられます」『現代世界憲章』,第48項。。
[1640]
したがって、結婚のきずなは神によって結ばれたものであり、受洗者同士の完成の認証婚は決して解消できません。夫婦の自由な人間的行為と結婚の完成とによって生じるこのきずなは、取り消すことのできないもので、神の忠実さによって保証された契約の起源を明らかにするものです。教会には、神の英知によるこの決定に反することをいう権限はありません「新教会法典」第1141条参照。。
[1641]
キリスト者の夫婦は、「結婚生活という身分と序列において、神の民の中で自分たちに固有のたまものを持っています」『教会憲章』,第11項。。この結婚の秘跡に固有な恵みは、配偶者の愛を完成し、解消できない結合を強めるものです。二人はこの恵みによって、「結婚生活および子女の出産と養育を通して聖となるよう互いに助け合います」『教会憲章』,第11項。『教会憲章』,第41項参照。。
[1642]
キリストがこの恵みの泉です。「かつて神が愛と忠実の契約をもって、その民を助けたように、今は人々の救い主・教会の夫は婚姻の秘跡をもってキリスト信者である配偶者を助けに来ます」
『現代世界憲章』,第48項。。そしてキリストは、彼ら夫婦とともにとどまり、二人が自分の十字架を背負って後に従い、倒れたら立ち上がり、互いにゆるし合い、互いの重荷を担い合い
ガラテヤ6・2参照。、「キリストに対するおそれをもって、互いに仕え合い」(エフェソ5∙21)、超自然的で、繊細で、豊かに実を結ぶ愛で愛し合う力をお与えになります。キリストは、夫婦がすでにこの世にありながら、互いの愛と家族生活との喜びの中で小羊の婚礼を前もって味わえるようにしてくださいます。
「教会によってともに結ばれ、奉献によって強められ、祝福によって固められ、天使によって告げ知らされ、御父によって承認された結婚の幸せを、わたしはいったいどのように表すことができるでしょうか。……一つの希望、一つの願いと、一つの規律、一つの奉仕をともにする二人の信じる者のきずなは何とすばらしいことでしょうか。彼らはともに信仰の仲間であり、同じ主に仕える者同士です。心もからだも分かたれることはありません。事実、二人は一つのからだを持つ二人です。からだが一つであれば心もまた一つです」テルトゥリアヌス『妻へ』 (Tertullianus, Ad uxorem 2, 8, 6-7: CCL 1, 393 [PL 1,1415-1416]),ヨハネ・パウロ2世『家庭』13(loc. cit., 94)参照。。
[1643]
「夫婦愛は、肉体や本能の要求、感情や情緒的な力、精神や意志の向上など、人格のすべての要素を含む全体に及んでいるのです。それは一つのからだに結ばれることを超えて、一つの心、一つの魂を形づくっていく深い人格的な一致を目指しています。したがって夫婦愛は、決定的な相互の与え合いにおいて不解消性と忠実を求めます。それはまた生殖へと開かれているのです。一言でいえば、それらは自然な夫婦愛の典型的な特徴ですが、それを純化し強めるばかりでなくキリスト者固有の諸価値を表現するところまで高めていく新しい意義を持っています」ヨハネ・パウロ2世『家庭』13doc. cit., 96)。。
[1644]
夫婦愛はその本性から、二人の生涯にわたる人格共同体の単一性と不解消性とを要求します。「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」(マタイ19∙6)167。「全面的に自己を与え合うという結婚の約束を日々忠実に守りながら、彼らの交わりの中でたえず成長するように呼ばれています」ヨハネ・パウロ2世『家庭』19(loc. cit., 101。。この人間的交わりは結婚の秘跡が与えるイエス・キリストにおける交わりによって強められ、純化、完成され、ともに営む信仰生活、ともに拝領する聖体によって深められていくのです。
[1645]
「相互の完全な愛の中に夫と妻とに平等に認めるべき人間(ペルソナ)の尊厳は、主によって確認された一夫一婦制を明らかにします」『現代世界憲章』,第49項。。一夫多妻はこの平等の尊厳と一夫一婦に限る夫婦愛とに反するものですヨハネ・パウロ2世『家庭』19(loc. cit., 102)参照。。
[1646]
夫婦愛は、その本性から夫婦に変わらぬ忠実さを要求します。それは、夫婦が相互に自分を与え合う結果として表れるものです。愛は決定的であるはずです。「とりあえず」ということはありえません。「この深い一致は、ふたりの人間(ペルソナ)が互いに与え合うということであって、子供の善と同様に、夫婦間の完全な忠実を要求し、また夫婦間の一致が不解消であることを求めます」『現代世界憲章』,第48項。。
[1647]
そのもっとも深い理由は、神がご自分の契約に対して忠実であられること、キリストがご自分の教会に対して忠実であられるということにあります。結婚の秘跡によって、夫婦はこの忠実さを映し出し、世に明らかにする資格を与えられます。秘跡によって、結婚の不解消性は新たなより深い意味を受けるのです。
[1648]
自分の一生を一人の人間に結びつけることは難しく、不可能のように思われるかもしれません。それだけに、神は決定的で取り消すことのできない愛でわたしたちを愛しておられ、夫婦は自分たちをはぐくみ支えるこの愛にあずかりながら自分たちの忠実を通して神の忠実な愛の証人となることができる、という福音を告げ知らせることがいっそう重要となります。しばしばきわめて困難な状況のうちにありながらも、神の恵みに助けられてこのあかしを行う夫婦は、教会共同体の感謝と支援とを受けるに値しますヨハネ・パウロ2世『家庭』20(loc. cit, 104)参照。。
[1649]
しかし、種々さまざまな理由で、夫婦の同居が実際に不可能となることがあります。そのような場合には、教会は夫婦の別居を認めます。とはいえ、この夫婦は神の前には依然として夫と妻であり、別の人と結婚する自由はありません。このような困難な状態での最良の解決策は、その可能性があれば、和解することです。キリスト者の共同体はこの夫婦がこのような境遇をキリスト者らしく生き、不解消のままである結婚のきずなを忠実に守るよう助けなければなりません同83(loc. dt., 184)、「新教会法典」第1151-1155条参照。。
[1650]
少なからぬ国々には、民法上の離婚に頼って、民法上の再婚を行うカトリック信者が数多くいます。教会は、イエス・キリストのことば(「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」〈マルコ10∙11-12〉)に忠実に従い、最初の結婚が有効であれば再婚を有効とは認めません。離婚した後に民法上の再婚をした者は、客観的には神法に背く状態にあります。したがって、この状態が続く限り、聖体を拝領することができません。同じ理由から、教会のある種の任務を行うこともできません。ゆるしの秘跡によってゆるしが与えられるのはただ、キリストとの契約と忠実さのしるしである結婚を破ったことを痛悔し、まったくの禁欲生活を送る人々に対してのみです。
[1651]
このような境遇にいながらも、信仰を守り、子供たちをキリスト教的に育てることを望むキリスト者が多くいます。彼らに対して、司祭および信者全共同体は、彼らが自分は教会から離れた者だと思い込むことがないように、温かい配慮を示すべきです。そのような人々も洗礼を受けた者として教会生活にあずかることができるし、またあずからなければならないのです。
「彼らは教会生活にあずかりながら〔神のことばを聞き、ミサ聖祭にあずかり、〕忍耐をもって祈り続け、愛のわざや正義を求める共同体の努力に貢献したり子供をキリスト教の信仰のもとで教育して、回心の心と実践を身につけるよう努めながら、日々神の恵みを求めていくよう励まされてしかるべきなのです」ヨハネ・パウロ2世『家庭』84(loc. cit., 185)。。
[1652]
「婚姻制度そのものと夫婦愛とは、その本来の性質から、子供の出産と教育とに向けて定められているものであって、これらはその栄冠のようなものです」
『現代世界憲章』,第48項。。
「子供は婚姻のもっとも貴重なたまものであり、両親自身の善のためにも大いに寄与します。『人がひとりでいるのはよくない』(創世記2∙18)といわれ、『初めから人間を男と女に造られた』(マタイ19∙4)神自ら創造のわざに人間を参加させようと望み、『産めよ、増えよ』(創世記1∙28)といって、男と女を祝福されました。したがって、婚姻のその他の目的をないがしろにするわけではありませんが、真の夫婦愛の実行と、それに基づく家庭生活の全構造は、夫婦が勇気をもって創造主と救い主⸺すなわち、彼らを通して神の家族をふやし、富ませるかた⸺の愛に協力する心構えを持つようになることに向けられています」『現代世界憲章』,第50項。。
[1653]
夫婦の愛の実りは、両親が教育によって子供たちに伝える倫理的、精神的、超自然的生命の実りにまで及びます。両親は子供の最初の主要な教育者です第2バチカン公会議『キリスト教的教育に関する宣言』,第3項(Gravissimum educationis)参照。。この意味で、結婚と家族との基本的任務はいのちに奉仕することなのですヨハネ・パウロ2世『家庭』28(loc. cit., 114)参照。。
[1654]
ところで、夫婦は神から子供を授からなくとも、人間としてまたキリスト者として、十分に意義ある夫婦生活を送ることができます。このような夫婦の結婚生活は、愛、受容、奉仕の実を結ぶ輝かしいものとなりえます。
[1655]
キリストはヨセフとマリアとによって構成される聖家族の庇護の中で生まれ、育てられることを望まれました。教会は「神の家族」にほかなりません。当初から、教会の中核はしばしば、「一家をあげて」信者となった人々によって構成されていました使徒言行録18・8参照。。彼らは信者になると、「一家こぞって」救われることを望みました使徒言行録16・31,11・14参照。。信者となったこれらの家族が、不信仰者の間でのキリスト教生活の拠点であったのです。
[1656]
しばしば信仰とは無縁で敵意さえ持つ現代社会にあって、信者の家族は生き生きと輝く信仰の家庭としてきわめて重要なものです。このためにこそ、第2バチカン公会議は、昔のことばを用いて、家族を家庭教会と呼んでいます『教会憲章』,第11項、ヨハネ・パウロ2世『家庭』21(loc. cit., 105)参照。。家族の庇護の中で、両親は「ことばと模範をもって子供たちのために信仰の最初の使者となり、子供のおのおのに特有な召命を育て、とりわけ聖職の召命を特別な配慮をもってはぐくむようにしなければなりません」『教会憲章』,第11項。。
[1657]
家庭は、父親、母親、子供、および家族全員が、「諸秘跡の拝受、祈り、感謝、聖なる生活のあかし、自己放棄、行動的な愛をもって」『教会憲章』,第10項。信者の共通祭司職を行使する、最適の場所です。したがって、家庭はキリスト教的生活の最初の学校、「豊かな人間形成の学校」『現代世界憲章』,第52項。なのです。そこでわたしたちは、忍耐力、仕事の喜び、兄弟愛、寛容で幾度も繰り返されるゆるし合い、そしてとくに、祈りや自分のいのちをささげることによる敬神を学びます。
[1658]
このほかに、何らかの事情のために、多くの場合は不本意ながら、独身生活を送ることを余儀なくされた多くの人たちがいます。彼らはとくにイエスが愛しておられる人々であり、それだけに、教会とくに司牧者の温かい配慮を受けるに値する人たちです。彼らの多くは貧困のゆえに普通の家族を持たない人たちです。その中には真福八端の精神に従い、神と隣人とに模範的に仕えながら自分たちの境遇を生きていく人たちもいます。これらのすべての人に、「家族教会」としての家族の扉を、そして大きな家族である教会の扉を開かなければなりません。「世界に家庭のない人はいないはずです。教会はすべての人にとって、とくに『疲れた者、重荷を負う者』(マタイ11∙28)にとって、家庭であり家族です」ヨハネ・パウロ2世『家庭』85(loc. cit., 187)。。
[1659]
聖パウロは、「夫たちよ、キリストが教会を愛〔され〕たように、妻を愛しなさい。……この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5∙25,32)といっています。
[1660]
結婚の契約によって一人の男と一人の女とがいのちと愛とによる親密な共同体を形づくりますが、この結婚は創造主によって設立され、独自の法則を与えられています。結婚は本質的に夫婦の善益と子供の出産および教育とに向けられています。受洗者同士の結婚は主キリストによって尊い秘跡にまで高められました『現代世界憲章』,第48項、「新教会法典」第1055条第1項参照。。
[1661]
結婚の秘跡は、キリストと教会との一致のしるしです。この秘跡によって、夫婦に、キリストがご自分の教会を愛されたその愛で互いに愛し合う恵みが与えられます。したがって、結婚の秘跡の恵みは夫婦の人間的愛を完成し、二人の不解消の一致を強め、永遠のいのちに向かう道の途上で夫婦を聖化しますトリエント公会議第24総会『結婚の秘跡について』(DS1799)参照。。
[1662]
結婚は配偶者間の合意、すなわち、忠実で出産に開かれた愛の契約を生き抜くために、相互に決定的に自己を与え合うという意志の上に成り立ちます。
[1663]
結婚によって夫婦は教会の中での公の生活身分を持つことになるので、結婚式は、司祭(または教会の有資格の証人)と複数の証人、および信者会衆の前で、典礼儀式に従って公に行われます。
[1664]
単一性、不解消性、出産に開かれた心というものは、結婚の本質に属することです。一夫多妻は単一性とは相いれません。離婚は神が合わされたものを離すことです。出産の拒否は、結婚の「もっとも貴重なたまもの」である子供の出産に向けられた夫婦生活をゆがめるものです『現代世界憲章』,第50項参照。。
[1665]
離婚者が配偶者の存命中に再婚することは、キリストが教えられた神の計画とおきてとに背きます。このように再婚した者は教会から離れたわけではありませんが、聖体拝領はできません。彼らは子供たちの信仰を育てることによってキリスト者としての生活を送ります。
[1666]
キリスト教的家庭は、子供たちが信仰の最初の告知を受ける場です。それゆえに、家族的な家庭はまさしく「家庭教会」と呼ばれます。それは、恵みと祈りとの共同体、人間的諸徳とキリスト教的愛とを教える学校です。