[156]
啓示された真理がわたしたちの自然の理性にとって真実であり理解できるということが、信じる動機とはなりません。わたしたちが信じるのは、「欺くことも欺かれることもない啓示する神の権威のため」20です。「わたしたちの信仰が『道理にかなった供え物』となるように、神は聖霊の内的助けに天啓の外的証拠が結合されることを望みました」21。だから、キリストと聖人たちの奇跡22、成就した預言、教会の発展と聖性、その豊かさと安定が、「神の啓示のもっとも確実で、すべての人の理解力によく応じたしるし」23となり、また、信仰による同意が「決して精神の盲目的な動きではない」24ことを示す信憑性の動機となるのです。
[157]
信仰は確実、しかも、あらゆる人間の認識よりも確実なものなのです。なぜなら、それは偽ることのできない神のことばそのものに基づいているからです。確かに、啓示された真理は人間の理性や経験にとっては定かではないように思えることがあるでしょう。しかし、「神的光が与える確実性は、自然理性の光が与える確実性よりも強いのです」25。「たとえ理解できないことが無数にあっても、そのことが信仰の確実さを疑わせることにはなりません」26。
[158]
「理解することを求める信仰」27。信仰者が信じる神をもっとよく知り、啓示されたことをもっとよく理解したいと望むことは、信仰に付きものです。他方、知識が深まるにつれて信仰はより強まり、ますます愛に燃え立ちます。信仰の恵みは「心の目」(エフェソ1∙18)を開き、啓示の内容、すなわち、神の計画の全体、信仰の神秘、それらの間のつながり、また、啓示された神秘の中心であるキリストとその信仰の神秘との関係について、生き生きとした理解を持たせます。ところで、「聖霊は、啓示についての理解がますます深くなるように、不断にそのたまものをもって信仰を完全なものにします」28。ですから、聖アウグスチヌスのことばに従えば、「信じるために理解し、理解するために信じる」29ということになります。
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信仰と学問。「信仰は理性を超えるものですが、両者間には決して真の対立はありえません。諸神秘を啓示し、信仰を授けてくださる神ご自身が、人間精神に理性の光を注がれたのです。神はご自分の示していることを否定することはおできになりませんし、真理が真理と対立することも決してありえません」30。「したがって、あらゆる知識の分野における学問的研究は、真実の学問的方法によるものであって、倫理の法則に従って行われるものであれば、決して信仰に対立することはないはずです。世俗の現実と信仰の現実とはともに同じ神に起源を持つものだからです。むしろ、謙虚と忍耐をもって事物の秘密を知ろうと努力する者は、万物を支えて、そのものとして存在せしめている神の手に知らずに導かれているようなものです」31。