[1877]
人類の召命とは、神の似姿を示し、御父のひとり子の似姿に変えられることです。この召命は個人的なものです。なぜなら、一人ひとりが神の至福にあずかるよう召されているからです。しかしまた、これは全人類の召命でもあります。
[1878]
すべての人間は同じ目的、すなわち神ご自身へと招かれています。神の三つのペルソナ間の一致と、人間が相互間に打ち立てなければならない真理と愛における兄弟的交わりとの間には、ある種の類似があります第2バチカン公会議『現代世界憲章』,第24項 (Gaudium et spes)参照。。隣人愛は神に対する愛と切り離すことができません。
[1879]
人間には社会生活が欠かせません。社会生活は人間にとって何か余分のものではなく、その本性から要求されるものです。他の人と交わることにより、また互いに役立ち合ったり対話したりすることによって、人間はその諸能力を発揮させていきます。こうして、自分の召命にこたえるのです『現代世界憲章』,第25項参照。。
[1880]
社会とは、個々の人間よりも優先される一致の原理によって有機的に結ばれた人間の集合体です。社会は可見的、また精神的な集団として、時の中で存続していきます。過去を受け継ぎ、未来を準備します。社会を通して、一人ひとりの人間は「相続人」となり、自分の独自性を開花させる「タラントン」を受け、それを実らせなければなりませんルカ19・13,15参照。。当然一人ひとりには、それぞれが属する共同体に役立ち、共通善のために働く指導者たちを尊敬する義務があります。
[1881]
各共同体はそれぞれの目的によって性格づけられ、特有の規則に従わなければなりませんが、「あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間(ペルソナ)であり、また人間(ペルソナ)でなければなりません」『現代世界憲章』,第25項。。
[1882]
家族や国家のような共同体は、一般の共同体よりもより直接的に人間の本性に対応するもので、人間にとっては必要なものです。社会生活にできるだけ多くの者を参加させるためには、「一国内と国際間とを問わず、経済、文化、社会、スポーツ、レクリエーション、職業、政治などの目的をもった」ヨハネス23世回勅『マーテル・エト・マジストラ』,第6項。(Mater et Magistra : AAS53 [1961] 416)。団体や組織の創設を奨励すべきです。この「社会化」はまた、個々人の能力を超える目標に到達するために人々を結束させるという自然的性向を表すものでもあります。この社会化が、個人の資質、とくに主導性と責任感とを培い、権利の保証を助けるのです『現代世界憲章』,第25項、ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題―教会と社会の100年をふりかえって』16(Centesimus annus : AAS 83 [1991] 813)参照。。
[1883]
社会化にはまた、危険も伴います。国家の過大な干渉が、個人の自由と主導性を妨げることもあります。教会は、補助性の原理と呼ばれる教えを打ち出しました。この原理に従えば、「上位の共同体は下位の共同体からその役割を奪い、その内的生活に干渉すべきではなく、むしろたえず共通善の観点から、必要なときにはこれらを支え、これらの相互の活動を調整するために援助すべきです」ヨハネ・パウロ2世『新しい課題』48 (loc. cit., 854)。ピウス11世回勅『クアドラジェジモ・アンノ』 (Quadragesima anno : AAS 23 [1931] 184-186)参照。。
[1884]
神はすべての権限をご自分だけに留保することを望まれませんでした。それぞれの被造物に、固有の本性の能力に応じて行使できる役目をお与えになります。社会生活においては、この統治様式を見習わなければなりません。神の世界統治のあり方は人間の自由を大いに尊重するものですが、これは人間共同体を統治する人々の英知の源となるはずのものです。統治者たちは神の摂理の奉仕者として行動すべきです。
[1885]
補助性の原理はあらゆる形式の集産主義とは反対のもので、国家の干渉については限界を設けます。この原理は個人と社会との間の関係の調和を目指し、真の国際的秩序を打ち建てることを意図したものです。
[1886]
社会は、人間の召命の実現には欠かすことができないものです。その実現のためには、「物質的・本能的次元を内面的・精神的次元のもとにおく」
ヨハネ・パウロ2世『新しい課題』36 (loc. cit., 838)。という、正しい価値の序列を尊重すべきです。
「人間社会は、まず第一に、とくに精神的現実とみなすべきものです。人間は、社会によって、真理の光明の中で知識を交換するのであり、権利を行使し義務を果たすことができるのであり、共々に励み合いながら精神的善を追求するのであり、美をその正当なすべての表現において気高く味わい合うのであり、自分自身の最良のものを他の人々にも通じたいという恒久的な心構えを抱くのであり、たえず精神を富まそうと努めるのです。文化活動、経済活動、社会組織、政治的活動と政体、法制、および絶え間なく進展する社会生活の他のすべての表現をつねに活気づけ、方向づけるのです」ヨハネス23世回勅『パーチェム・イン・テリス』,第36項(Pacem in terns: AAS 55 [1963] 266)。。
[1887]
手段を目的に倒置することによりヨハネ・パウロ2世『新しい課題』41 (loc. cit..)参照。、目的に達する手段にすぎないものを究極目的とみなし、あるいは、個人を一定の目的に達するための単なる手段とみなしてしまうことは、「立法者である神のおきてにかなったキリスト教的生き方を困難にし、ほとんど不可能にする」ピウス12世「ラジオ・メッセージ(1941年6月1日)」 WAS33 [1941] 197)。不正義の構造を生み出します。
[1888]
だから、個人の精神的・倫理的能力と内的回心の絶え間ない要求とに訴えて、本当に個人に奉仕するような社会的変革を実現する必要があります。内的回心のためにもっとも大切にすべきことは、罪を犯させるような制度や生活条件があれば、善を妨げることなくかえって助長するという正義の規範に合わせるために、その適切な改善を止めさせることなく、かえって義務づけることなのです第2バチカン公会議『教会憲章』,第36項(Lumen gentium)参照。。
[1889]
神の恵みに助けられなければ、人間は「悪に屈する憶病さと、悪と闘っていると錯覚しているだけで実際は事態を悪化させているだけの暴力との間にある、狭い道を見いだすこと」ヨハネ・パウロ2世『新しい課題』25 (loc. cit., 823)。ができません。これは愛徳の道、すなわち神と隣人への愛の道です。愛は、もっとも重要な社会的おきてです。愛は他人とその権利とを尊重します。愛は正義の実践を要求し、愛だけがわたしたちにそれを実践できる力を与えてくれます。愛は自分をささげる生き方を促します。「自分のいのちを生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つ」(ルカ17∙33)のです。
[1890]
神の三つのペルソナ間の一致と、人間が相互間に打ち立てなければならない兄弟的交わりとの間には、ある種の類似があります。
[1891]
人間はその本性に従って成長するために、社会生活を必要とします。家族や国家のような共同体は、一般の共同体よりもより直接的に人間の本性に対応します。
[1892]
「あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間(ペルソナ)であり、また人間(ペルソナ)でなければなりません」『現代世界憲章』,第25項。。
[1893]
自主的な団体や組織への広範囲な参加が奨励されなければなりません。
[1894]
補助性の原理に従えば、国家も、より広いいかなる社会も、個人や中間団体の主導性や責任に取って代わるべきではありません。
[1895]
社会は諸徳の実践を助長すべきものであって、これを妨げてはなりません。正しい価値の序列が大切にされるべきです。
[1896]
罪によって社会環境が悪化されたところでは、内的回心と神の恵みとに訴えなければなりません。愛は正しい改革へと駆り立てます。社会問題の解決は福音をおいて他にはありませんヨハネ・パウロ2世『新しい課題』5(loc. cit., 800)参照。。
[1897]
「人間社会は、正当に権威を賦与されて、秩序を維持し、最小限、共通善のために尽くす人々がいないならば、秩序のある豊かな社会ではありえません」ヨハネス23世『パーチェム・イン・テリス』,第46項(loc. cit., 269)。。
「権威」とは、人々に法と命令とを与え、受けた人々はそれに従わなければならないような、個人ないし団体の資格をいいます。
[1898]
すべての人間共同体は、自らを統御する権威を必要としますレオ13世回勅『ディウトゥルヌム・イルド』 (Diuturnum illud: Leonis XIII Acta 2,271)、同回勅『インモルターレ・デイ』 (Immortale Dei: Leonis XIII Acta 5, 120)参照。。権威は人間の本性に基づくもので、市民社会の統一に必要なものです。その役割は、社会の共通善を最大限に保証することです。
[1899]
倫理的秩序のために必要となる権威は、神に由来するものです。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ13∙1-2)1ペトロ2・13-17参照。。
[1900]
権威には従わなければならないので、すべての人は権威者をふさわしく敬い、尊重し、その任にある人々の功績に応じて感謝と好意とを示さなければなりません。
ローマの聖クレメンス教皇が国の権威者のためにささげたもっとも古い祈りが残っています1テモテ2・1-2も参照。。
「主よ、彼らがあなたからゆだねられ主権を円滑に行使するよう、健康と平和、融和と安定をお与えください。主であり、代々に天の王であるあなたこそ、人の子らに栄光と誉れ、そして地上のことがらに対する権能をお授けになるのです。主よ、あなたの御目によく好ましいと思われるところに従って彼らの考えを導いてください。こうして彼らが、あなたが授けられた権能を平和に、柔和に、敬謙に行使し、あなたのあわれみを受けることができますように」聖クレメンス1世『コリントの信徒への手紙』 (S. Clemens Romanus, Epistula ad Corinthios, 61, 1-2 : SC 167, 198-200 [Funk 1, 178-1801)。。
[1901]
権威は神が定められた秩序に由来するものですが、「政治体制の決定と政府の指名は国民の自由意志に任されています」『現代世界憲章』,第74項。。政治体制の違いは倫理的に容認されますが、それぞれの体制を採用した共同体の合法的な善に寄与するものでなければなりません。自然法や、治安ならびに基本的人権に反する政治体制は、それが統治する国家の共通善を実現することはできません。
[1902]
権威の倫理的正当性は、権威そのものに起因するのではありません。したがって権威者は、専制的にふるまわず、「自由と責任感に根ざす道徳的力として」
『現代世界憲章』,第74項。共通善のために行動しなければなりません。
「人間の法律が法の性格を持つのは、それが正しい理性に従う限りにおいてです。このことから、人間の法律が永遠の法に由来することは明らかです。正しい理性に背くのは不当です。法としての根拠を持たず、むしろ、一種の暴力となるからです」聖トマス・アクイナス『神学大全』 (S. Thomas Aquinas, Summa theologiae, 1 -2, q. 93, a. 3, ad 2: Ed. Leon. 7, 164)。。
[1903]
権威が合法的に行使されるのは、その権威のもとにある集団の共通善を追求し、それを得るために倫理的にゆるされる手段を用いる限りにおいてです。指導者が不正な法を発布したり倫理秩序に反する措置を講じるような場合の命令は、良心を拘束することはできません。「そのような場合には、権威は権威であることをやめ、圧政となります」ヨハネス23世『パーチェム・イン・テリス』,第51項(loc. cit., 271)。。
[1904]
「三権の間につり合いが保たれ、この三権とその責任範囲が固有の領域を越えない状態が望ましいのです。これが『法の支配』の原則です。そこでは個人の恣意的意志ではなく、法が支配します」ヨハネ・パウロ2世『新しい課題』44 (loc. cit.,)。。
[1905]
人間の社会的本性ゆえに、個々人の善は必然的に共通善と結ばれています。他方、共通善は個人を考慮することなしには決定されません。
「まるですでに救われてしまった者であるかのように、自分の中に引きこもって、独りで生きるべきではありません。集まって、すべての人に益となるものを求めなさい」『偽バルナバの手紙』 (Epistula Pseudo Barnabae, 4. 10 : SC 172, 100-102 [Funk l, 48])。。
[1906]
共通善とは「集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体」『現代世界憲章』,第26項。『現代世界憲章』,第74項参照。である、と理解すべきです。共通善はあらゆる人の生活にかかわります。一人ひとりの側にはもとより、権威を行使する人々の側にはいっそうの賢明さが必要です。共通善には三つの本質的要素があります。
[1907]
第一に、個人をその人であるがゆえに尊重することです。共通善を実現するために、公権は個人が持っている基本的で奪いえない人権を尊重しなければなりません。社会は、その構成員の一人ひとりがそれぞれの召命を実現できるようにしなければなりません。共通善はすべて、人間の召命の実現に欠くことのできない本来の自由、たとえば「正しい良心に従って行動する権利、プライバシーを守る権利、宗教の分野をも含めて正当な自由を享有する」『現代世界憲章』,第26項。権利を行使する諸条件を整えることを要求します。
[1908]
第二に、共通善は集団の社会的安寧と発展とを求めます。すべての社会的任務を要約すれば、発展ということばで表現することができます。いうまでもなく、異なる個々の利害を共通善に応じて判定するのは権限者の務めです。しかし、権威者は、それぞれの人が真に人間らしい生活を送るために必要なもの、たとえば食料、衣服、健康、仕事、教育や教養、適正な報道、家庭を作る権利などを手に入れやすくなるように図らなければなりません『現代世界憲章』,第26項参照。。
[1909]
第三に、共通善には平和、すなわち、正しい秩序の持続や保全という内容が含まれています。したがって、権威者は適正な手段を用いて、社会とその構成員との安全を図らなければなりません。共通善こそが、個人および集団の合法的防衛権の土台になるものなのです。
[1910]
各共同体にはそれぞれに認められた共通善がありますが、共通善を完全に実現するのは政治共同体です。市民社会やその住民、および中間団体の共通善を擁護し、促進させるのは国家の務めです。
[1911]
人間の相互依存は強まり、しだいに世界全体へと広がっています。本来平等の尊厳を持つ人々が一つの人類家族を形づくっているのですから、普遍的共通善を認めなければなりません。この普遍的共通善を実現するためには、国際的組織を作り、「人々の種々の必要を満たすようにしなければなりません。この必要とは、社会生活の領域においては食料、健康、教育……であり、ある所に起こりうる特殊な情況においては……全世界に離散した難民の救済、移住者とその家族に対する援助など……です」『現代世界憲章』,第84項。。
[1912]
共通善とは、つねに個人の向上を目指すものです。「事物の秩序は人間の秩序に従属すべきであって、その反対であってはなりません」『現代世界憲章』,第26項。。人間の秩序は真理を土台として、正義の上に建てられ、愛によって生かされるのです。
[1913]
参与とは、個人が、進んで社会的交流にかかわることです。すべての人が、置かれている地位や担う役割に応じて共通善の促進に参与する必要があります。この任務は人間の尊厳に由来するものです。
[1914]
参与はまず第一に、個人的な責任がある分野を引き受けることによって行われます。つまり、自分の家族の教育を配慮し、自分の仕事を良心的に果たして、他の人々や社会の善に寄与するのですヨハネ・パウロ2世『新しい課題』43 (loc. cit., 847)参照。。
[1915]
国民はできるだけ公共生活における積極的な役割の一端を担うべきです。参与のあり方はそれぞれの国や文化によって異なるはずです。「できるだけ多くの国民が真の自由をもって公のことに参加できるようはからう国家の施策は称賛すべきです」『現代世界憲章』,第31項。。
[1916]
共通善のための活動に参与する際には、あらゆる倫理的な任務の場合と同じように、社会的協働者たちの絶え間ない新たな回心が必要です。ある人々が法や社会的義務から逃れるために用いる不正行為やその他のごまかしは正義の要求に反するので、断固非難されるべきです。そして、人々の生活条件を改善する制度が促進されるよう配慮すべきです『現代世界憲章』,第30項参照。。
[1917]
権威者たちは集団に属する人々から信頼されるように努力し、人々が互いに奉仕し合うような雰囲気を作らなければなりません。参与は教育や生活習慣から始まります。「人類の未来は、生きる理由、希望を持つ理由を明日の世代に提供することができる人々の手中にあると当然考えることができます」『現代世界憲章』,第31項。。
[1918]
「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」(ローマ13∙1)です。
[1919]
すべての人間共同体は、維持し発展するための権威を必要とします。
[1920]
「政治共同体と公権は人間の本性に基づくものであり、したがって神の定めた秩序に属するものであることは明白です」『現代世界憲章』,第74項。。
[1921]
権威が合法的に行使されるのは、社会の共通善の追求に努めるときです。この目的を達成するためには、倫理的にゆるされる手段を用いなければなりません。
[1922]
どのような政治体制であっても、共同体の善に寄与するものであれば合法的です。
[1923]
国家権力は倫理秩序の範囲内で行使され、個々人の自由が行使できるための条件を保証するものでなければなりません。
[1924]
共通善とは、「集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体」『現代世界憲章』,第26項。であると理解されます。
[1925]
共通善には三つの本質的要素があります。それは、①基本的人権の尊重と促進、②安寧、すなわち、社会の精神的・物的善の発展、③集団およびその構成員の平和と安全、です。
[1926]
人間の偉大さは、共通善を追求するところにあります。一人ひとりの者が人々の生活条件を改善する制度を生かし、支えるよう心掛けるべきです。
[1927]
国家には市民社会の共通善を擁護し、促進させる義務があります。人類家族全体の共通善を実現するために、国際的組織を作る必要があります。
[1928]
社会が社会正義を実現するのは、各団体や各個人がそれぞれの本性や召命をまっとうするために必要なものを手に入れるための諸条件を満たすときです。社会正義というものは、共通善と権威の行使とに関連しているものなのです。
[1929]
社会正義は、人間の超越的な尊厳を尊重することなしには得られません。人間こそが社会が目指すべき究極の目的なのです。
人間の尊厳の「防御と増進は、創造主によってわたしたちの手にゆだねられた問題であり、歴史のあらゆる時点における男女は、〔……その問題について〕厳しい債務を負っているのです」ヨハネ・パウロ2世回勅『真の開発とは一人間不在の開発から人間尊重の発展へ』47(Sollicitudo rei socialis : AAS 80 [1988] 581)。。
[1930]
人間を尊重することには、神によって創造されたものとしての尊厳に由来する諸権利を尊重することが含まれています。これらの権利は社会に先だって存在し、社会より上位にあるものです。また、あらゆる権利の倫理的正当性の土台となるものです。これらを軽んじ、あるいは実定法で認めないならば、社会は自らの倫理的正当性を損ないますヨハネス23世回勅『パーチェム・イン・テリス』,第61項(loc. cit., 274)参照。。人間の権利が尊重されていない場合は、権威者は他人を従わせるために、実力または暴力を頼みにするほかはありません。善意の人々にこれらの権利を想起させ、過度なあるいは誤った要求とこれらの権利との相違を明らかにするのが教会にゆだねられた務めなのです。
[1931]
人間を尊重するということには、「各自は隣人を例外なしに『もう一人の自分』と考えなければならず、まず隣人の生活と、それを人間にふさわしく保つために必要な手段とについて考慮すべきである」『現代世界憲章』,第27項。という原理を尊重するということが伴ってきます。いかなる法も、それ自体としては、真に兄弟的な社会を建設するための障害となる、恐れ、偏見、傲慢、利己主義などを消滅させることはできません。このような態度は、一人ひとりを「隣人」、兄弟姉妹とみなす愛がなければ無くなることはありません。
[1932]
他人の隣人となり、積極的に奉仕する義務は、その人が貧しい状態に陥ったときには、いっそうの急務となります。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25∙40)。
[1933]
この義務は、わたしたちとは違う考えを持っていたり行動をとったりする人々に対するときにも当てはめられます。キリストの教えはわたしたちに害を及ぼした人々をゆるすことまで求め、新しいおきてである愛のおきてをあらゆる敵に適用させるものですマタイ5・43-44参照.。福音の精神に基づく救済は敵そのものに対する憎しみとは相いれるものではありませんが、敵が行った悪い行為に対する憎しみとは相いれないわけではありません。
[1934]
唯一の神にかたどって造られ、同じ理性的霊魂を与えられたすべての人間の起源と本性とは同一です。すべての人間はキリストの犠牲によってあがなわれ、同じ神的至福にあずかるよう召されています。したがって、皆、平等の尊厳を持っているのです。
[1935]
人間は本質的には、人格としての尊厳とそれに由来する人権という点では平等です。
「基本的人権に関するすべての差別は、それが社会的差別であろうと、文化的差別であろうと、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づくものであろうと、神の意図に反するものであり、克服し、排除しなければなりません」『現代世界憲章』,第29項。。
[1936]
人間は生まれたときには、自分の肉体的・精神的発達に必要なすべてを備えてはいないのです。他の人々の助けを必要とします。相違は、年齢、身体的能力、知的・倫理的能力、各自が経験した交流、富の配分などに由来して現れてきます『現代世界憲章』,第29項参照。。「タラントン」は同等に配分されているのではありませんマタイ25・14-30、ルカ19・11-27参照。。
[1937]
以上の相違は神の計画に基づくもので、神は各自が自分に必要なものを他の人から受け、特別な「タラントン」を持つ者がこれを必要とする人々にその恩恵を分かつことを望んでおられるのです。相違は寛容、好意、分かち合いを促し、しばしばこれを義務づけます。相違はまた、諸文化が相互に豊かにし合うための刺激ともなります。
「わたしは一人の者にすべての徳を与えはしません。……この人とあの人には違った徳を与えます。……ある者には愛、他の者には正義、この者には謙虚、あの者には生き生きとした信仰です。……この世の財物で人間の生活に必要なものに関しては、きわめて不平等に配分し、おのおのが必要とするすべてのものを持つことを望みません。というのは、人間が相互に愛を実践する機会を必ず持てるようになるためです。……わたしが望んだのは、人間が相互に相手を必要とし、わたしから受けた恵みとたまものとを配分するためのわたしの奉仕者となることです」シエナの聖カタリナ『神の摂理についての対話』 (S. Caterina da Siena, II dialogo della Divina provvidenza, 1 : ed. G. Cavallini [Roma 1995] 23-24)。。
[1938]
無数の男女を打ちのめす
不正な不平等も存在します。それは明らかに福音とは対立するものです。
「人間の平等な尊厳は、生活条件がもっと人間らしく、公正なものとなることを要求します。一つの人間家族に属する人々、または諸民族の間における経済的、社会的な大きな不平等は醜聞であり、社会正義、平等、人間の尊厳、社会的および国際的平和に反します」『現代世界憲章』,第29項。。
[1939]
「友愛」あるいは「社会愛」とも呼ばれる連帯原理は、人間的・キリスト教的兄弟愛から直接に要求されるものです
ヨハネ・パウロ2世『真の開発とは』38-40(loc. cit., 564-569)、同『新しい課題』10(loc. cit., 805-806)参照。。
「現代かなり広まっている危険な〔誤りの最たる〕ものは、まず人間相互の親しみや愛の忘却です。それは、すべての人間の起源が同じであり、すべての人間が同じ理性的本性を備えているゆえに、また、イエス・キリストが罪びとである人類のために十字架の祭壇で永遠の御父にささげられたあがないの犠牲のゆえにも、いかなる民族に属しているかを問わずあらゆる人間に課されているものなのです」ピウス12世回勅『スムミ・ポンティフィカツス』 (Summi Pontificatus : AAS 31 [1939] 426)。。
[1940]
連帯はまず、財の配分と労働の報酬とによって表されます。連帯にはまた、緊張が除去され、紛争が話し合いで容易に解決されるような、いっそう公正な社会秩序を作り上げるための努力も含まれています。
[1941]
社会・経済問題は、さまざまな形の連帯、たとえば、貧しい人々同士の連帯、富んでいる人々と貧しい人々との連帯、労働者同士の連帯、雇用者と被雇用者との連帯、諸国間および諸国民間の連帯などによってしか解決できません。国際的連帯は、倫理的秩序が要求するものです。世界平和は、一面では連帯に依存しているのです。
[1942]
連帯の力は物的善の範囲を越えるものです。教会は、信仰の霊的宝を広めながら、さらに物的なものの発展に寄与し、しばしばこれに新しい道を開きました。こうして、キリストの次のことばがあらゆる時代にわたって裏づけられるものとなっています。「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6∙33)。
「二千年来、教会の魂の中で生き生きと受け継がれてきた人類の共同責任という考えがあります。これが人々を英雄的な愛に駆り立ててきましたし、今も農業修道者や奴隷解放者、病気の治癒に携わる人たち、信仰・文化・科学の伝達者たちの心を駆り立てています。彼らはあらゆる時代、あらゆる国民の中で、人間としてまたキリスト者としてのふさわしい生活が可能で容易になるための社会条件を築いてきたのです」ピウス12世「ラジオ・メッセージ(1941年6月1日)」(loc. cit.,204).。
[1943]
社会が社会正義を実現するのは、各団体や各個人にとって必要なものを手に入れるための諸条件を満たすときです。
[1944]
人間を尊重するということは、他の人を「もうひとりの自分」とみなすことです。それは、人間の尊厳に由来する基本的人権を尊重することが前提条件となります。
[1945]
人間は、人格としての尊厳とそれに由来する人権という点では平等です。
[1946]
人間間に相違があるのは神の計画に基づくもので、神はわたしたちが相互に必要とし合うことを望まれます。相違が愛を促進させるべきなのです。
[1947]
人間は等しい尊厳を備えているので、過度の社会的・経済的不平等を減少させ、不当な不平等を取り除くための努力をする必要があります。
[1948]
連帯はきわめてキリスト教的な徳です。物的なものの分かち合いをしながら、それ以上に霊的宝の分かち合いを実践するのです。