[199]
「わたしは神を信じます」。信仰宣言のこの第一の言明は、もっとも根本的なものです。信条の全体が神について述べています。たとえ、人間や世界について述べているとしても、神との関係のもとで述べているのです。神のおきてがその第一戒の展開であるのと同様に、信条のすべての条項は最初の条項とのかかわりにおいてこそ意味を持つものなのです。他の条項はご自分を徐々に人間に啓示された神をよりよく知らせるものです。「信者はまず、神を信じることを宣言します」『ローマ・カテキズム』1, 2, 6(Catechismus Romanus : ed. P. Rodriguez [CittS del Vaticano-Pamplona 1989] 23)。。
[200]
ニケア・コンスタンチノープル信条は、このことばで始まります。旧約の神の啓示に根ざしている神は唯一であるという宣言は、神の存在の信仰と切り離すことができない、実に根本的な宣言なのです。神は比類のないかたで、唯一の神しか存在しません。「キリスト教信仰は、本性上、実体上、本質上、唯一である神が存在することを公言します」同1, 2, 8(op. cit., 26)。。
[201]
選ばれた民イスラエルに、神はご自分が唯一であることを啓示されました。「聞け、イスラエルよ、われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6∙4-5)。預言者たちを通して、神はイスラエルとすべての国に、唯一の神であるご自分に心を向けるよう促しておられます。「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。……わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みのみわざと力は主にある、とわたしにいう」(イザヤ45∙22-24)フィリピ2・10-11参照。。
[202]
イエスご自身、神は「唯一の主」であると宣言し、心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛さなければならない
マルコ12・29-30参照。、と確認しておられます。同時に、ご自分が「主」であることを悟らせます
マルコ12・35-37参照。。「イエスは主である」と公言することは、キリスト教信仰に固有なことです。これは唯一神の信仰に反しません。また「主であり、いのちを与える」聖霊を信じることは、唯一の神のうちにいかなる分離をももたらしはしないのです。
「わたしたちは次のことを固く信じ、はっきりと宣言します。永遠、無限、不変、全能、理解することもいい表すこともできないかたである父と子と聖霊が、唯一のまことの神であることを。位格は三位であるが、本質、実体、本性はまったく単純で一つであることを」第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (De fide catholica : DS800)。。
[203]
神はご自分の民イスラエルにご自分の名を知らせて、御自らを啓示されました。名というものは、その人の本質、その人自身、その人の生き方を表します。神には名があります。非人格的な力ではありません。そもそも自身の名を告げることは、他の人々に自分を知らせることです。いわば、自分を差し出して、近づきやすいものにし、より親密に知られ、個人的に呼びかけられることができるようにするのです。
[204]
神はご自分の民に、ご自分を徐々に、種々の名で啓示されました。しかし、旧約および新約のための根本的な啓示は、エジプトからの脱出とシナイ山での契約の端緒となった、あの燃える柴の中で神がモーセに現れ、ご自身の名を啓示されたことです。
[205]
神は、燃え尽きることのない柴の間からモーセをお呼びになり、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3∙6)、といわれました。神は父祖たちの神、旅する族長たちを呼ばれ、導かれたかたです。彼らとの約束を覚えておられる、忠実で、思いやりのある神です。彼らの子孫を奴隷の状態から解放するために来られるのです。いつどこででも、それができ、それを望み、その計画を実現するために全能の力を注がれる神です。
「わたしは、わたしはあるという者である」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』といえば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」といわれ、また、「イスラエルの人々にこういうがよい。『わたしはある』というかたが、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。……これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名」(出エジプト3∙13-15)。
[206]
「わたしは、あるという者である」、または、「わたしは、わたしはあるという者である」、あるいはまた、「わたしは、わたし自身で存在する者である」ということばでご自身の神秘な名(YHWH)を明かすことにより、神はご自分がどのようなかたであるか、またどのような名で呼ばれるべきかを示されました。神が神秘であるのと同じように、神の名は神秘的です。それは明かされた名であると同時に、名づけることの拒否ともとれます。まさにそのことから、それは神をありのままにもっとも正しく表現することになります。事実、神はわたしたちの理解とことばのすべてを無限に超越しておられます。神は、「ご自分を隠される神」(イザヤ45∙15)なのです。そのみ名は名状しがたいものですが士師記13・18参照。、人間に近づかれる神です。
[207]
神はみ名を明かしながら、同時に、ご自分の永久的な忠実を啓示されます。神は過去においてそうであったように(「わたしはあなたの父の神である」〈出エジプト3∙6〉)、将来においても忠実であられます(「わたしは必ずあなたとともにいる」〈出エジプト3∙12〉)。「わたしはある」という名を明かされる神は、救いのためにつねに民のもとにおられる神としてご自分を現されるのです。
[208]
ご自分のほうへ引き寄せる神の神秘的な現存を前に、人間は自らの卑小さを発見します。燃える柴を前にして、モーセは履物を脱ぎ、聖なる神に向き合って顔を覆いました出エジプト3・5-6参照。。至聖なる神の栄光を前にしたイザヤは叫んでいます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6∙5)。イエスが行われた奇跡を目の当たりにしたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5∙8)と叫びました。しかし、神は聖なるかたですから、ご自分の前で罪びとであることを認める人間をゆるすことがおできになります。「わたしは、もはや怒りに燃えることはない。〔なぜなら〕わたしは神であり、人間ではない〔からである〕。お前たちのうちにあって聖なる者」(ホセア11∙9)。使徒ヨハネも同じことをいいます。「わたしたちは神のみ前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(一ヨハネ3∙19-20)。
[209]
聖なるかたへの畏敬から、イスラエルの民は神のみ名を口にしません。聖書を読む場合には、啓示された名の替わりに、神の称号「主」(Adonai、ギリシア語ではΚύριος〈キュリオス〉)を用います。イエスの神性がたたえられるのは、「イエスは主である」との称号によってです。
[210]
イスラエルの民が神から離れて、金の子牛をあがめるという罪を犯した後出エジプト32章参照。、神はモーセの執り成しを聞き、不忠実な民に同行することを承諾し、その愛を示されました出エジプト33・12-17参照。。栄光を示してくださるように願うモーセに、神は「わたしはあなたの前にすべてのわたしのよいたまものを通らせ、あなたの前に主〔YHWH〕という名を宣言する」(出エジプト33∙19)といわれます。こうして、主はモーセの前を通り過ぎて宣言されました。「主、主〔YHWH、YHWH〕、あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ちた者」(出エジプト34∙6)と。そこでモーセは、主はゆるす神であると告白します出エジプト34・9参照。。
[211]
「わたしはある」、または、「ある」という神のみ名は、神の忠実さを示します。実際、神は、人々の罪による不忠実と、それに値する罰にもかかわらず、「幾千代にも及ぶいつくしみを守られます」(出エジプト34∙7)。神は、ご自分の御子をお与えになるほどに、ご自分が「あわれみ豊かである」(エフェソ2∙4)ことを啓示されます。イエスはわたしたちを罪から解放するためにご自分のいのちをささげることにより、ご自身が神の名をお持ちであることを示されます。「あなたたちは、人の子を上げたときに、初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう」(ヨハネ8∙28)。
[212]
世紀の流れの中で、イスラエルの信仰は神の名の啓示に含まれている豊かさを展開し、深めていくことができました。神は唯一であり、ほかに神は存在しませんイザヤ44・6参照。。神は世界と歴史を超越するかたです。天と地は神に創造されました。「それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。すべては衣のように朽ち果てます。……しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終わることがありません」(詩編102∙27-28)。神のうちには「移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(ヤコブ1∙17)。神は永遠から永遠まで「ある者」であり、そのため、いつまでもご自分に忠実であり、その約束を守られます。
[213]
したがって、「わたしは、わたしはあるという者である」という、えもいわれぬ名の啓示は、神のみが「自ら存在する(EST)」という真理を含んでいます。すでに聖書のギリシア語七十人訳と、その後の教会伝承が神のみ名を理解したのは、まさにこのような意味においてです。すなわち、神は存在と完全性の充満であり、初めも終わりもありません。すべての被造物はそれぞれの存在と所有を神から受けましたが、神だけは存在そのものであり、ご自分の存在のすべてはご自分よりのものです。
[214]
「あるという者」である神はイスラエルの民に、ご自分を「いつくしみとまことに満ちた者」(出エジプト34∙6)として啓示されました。この二つの語に、神のみ名の豊かさが要約して表現されています。神はそのすべてのわざの中で好意といつくしみと恵みと愛とを示されますが、また、信頼性、不変性、忠実さ、真理をも表されます。「〔わたしは〕あなたのいつくしみとまことのゆえにみ名に感謝をささげます」(詩編138∙2)詩編85・11参照。。神は真理です。なぜなら、「神は光であり、神にはやみがまったくない」(一ヨハネ1∙5)からです。神は「愛」(一ヨハネ4∙8)です。使徒ヨハネが教えているとおりです。
[215]
「みことばの頭はまことです。あなたはとこしえに正しく裁かれます」(詩編119∙160)。「主なる神よ、あなたは神、あなたのみことばは真実です」(サムエル下7∙28)。したがって、神の約束はいつも果たされます申命記7・9参照。。神は真理そのもので、そのことばは欺くことがありません。ですから、わたしたちはすべてのことにおいて、神のことばの真理と忠実さに、全幅の信頼をもって自分をゆだねることができます。人間の罪と失墜の始まりは、神のことば、好意、忠実さを疑わせようとした誘惑者の虚言によるものです。
[216]
神の真理は被造界全体の秩序を保ち、世界を治める知恵です知恵13・1-9参照。。おひとりで天地を造られた詩編115・15参照。神だけが、神とのかかわりの中で造られたすべてのものについての真の知識を与えることがおできになります知恵7・17-21参照。。
[217]
神は、ご自分を啓示されるときにも真実です。神に由来する教えは「真理の教え」(マラキ2∙6)です。世に御子を遣わされたのは、「真理についてあかしをするため」(ヨハネ18∙37)でした。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実なかたを知る力を与えてくださいました」(一ヨハネ5∙20)ヨハネ17・3参照。。
[218]
イスラエルの民は歴史の中で、神が自分たちに自らを啓示し、すべての民の間から自分たちをご自分の民として選ばれた理由は、無償の愛以外には何もなかったということを悟ることができました申命記4・37,7・8,10・15参照。。また、神が自分たちを救い、不忠実と罪をゆるし続けてくださったのも、愛によってであることを、預言者たちのおかげで悟ることができましたイザヤ43・1-7、ホセア2章参照。。
[219]
イスラエルの民に対する神の愛は、子に対する父の愛にたとえられていますホセア11・1参照。。この愛は、幼子に向けられる母親の愛よりも強いものですイザヤ49・14-15参照。。神は、花婿が花嫁を愛するよりも深くその民を愛されますイザヤ62・4-5参照。。この愛は、もっともひどい不忠実に対しても揺らぐことがありませんエゼキエル16章,ホセア11章参照。。そしてついには、このうえなく貴重なたまものをお与えになります。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3∙16)。
[220]
神の愛は「永遠」(イザヤ54∙8 参照)です。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしのいつくしみはあなたから移らない」(イザヤ54∙10)。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなくいつくしみを注ぐ」(エレミヤ31∙3)。
[221]
聖ヨハネはさらに推し進めて、「神は愛です」(一ヨハネ4∙8,16)といっています。神の存在そのものが愛なのです。時が満ちて御ひとり子と愛の霊を遣わすことによって、神はご自分のもっとも隠れた内奥を示されます1コリント2・7-16、エフェソ3・9-12参照。。神は永遠に父と子と聖霊の愛の交わりでありますが、その交わりにわたしたちをもあずからせようと、お決めになったのです。
[222]
唯一の神を信じ、自分の存在のすべてを挙げて愛することは、わたしたちの全生活にはかりしれない影響をもたらします。
[223]
神の偉大さと威光を知ること⸺「まことに神は偉大、神を知ることはでき〔ない〕」(ヨブ36∙26)。そのため、「第一に神に仕え」『聖ジャンヌ・ダルクの弾劾裁判記録』 (S. Jeanne d'Arc, Dictum : Proces condamnation, ed. P. Tisset-Y. Lan hers, v. 1 [Paris 1960] 280. 288)。なければなりません。
[224]
感謝に生きること⸺神が唯一のかたであるなら、わたしたちの存在のすべて、わたしたちが所有しているもののすべては神に由来します。「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(一コリント4∙7)。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」(詩編116∙12)。
[225]
人類は一つであり、すべての人間は真の尊厳を備えた存在であるということを認識すること⸺人間はだれであれ、「神にかたどり、神に似せて」(創世記1∙26 参照)造られています。
[226]
被造物を正しく用いること⸺唯一神への信仰は、神でないすべてのものを、それがわたしたちを神に近づける限り用い、神から離れさせる限り用いないようにさせてくれます
マタイ5・29-30,16・24,19・23-24参照。。
「わたしの主、わたしの神、あなたからわたしを遠ざけるすべてのものを取り上げてください。わたしの主、わたしの神、あなたにわたしを近づけるすべてのものをわたしにお与えください。わたしの主、わたしの神、あなたに自分のすべてをささげるため、自我への執着を取り除いてください」フリューエの聖ニコラウス『兄弟クラウスの祈り』 (S. Nikolaus von Flue、Bruder-Klausen-Gebet : R. Am schwand, Bruder Klaus. Erganzungs band zum Quellenwerk von R. Durrer [Sarnen 1987] 215より)。。
[227]
あらゆる状況の中で、たとえ逆境にあっても
神に信頼すること。イエスの聖テレジアの一つの祈りが、これをみごとに表しています。
「何ものにも心乱さず、
何ものをも恐れない。
すべては過ぎ行く。神のみ変わらず。
忍耐は万事を得る。
神を持つ者に欠けるものはない。
神のみで足りる」イエスの聖テレジア『詩』 (S. Teresade Jesus, Poesia, 9 : Biblioteca Mistica Carmelitana, v. 6 [Burgos 1919] 90)。。
[228]
「聞け、イスラエルよ、われらの神、主は唯一の主である。……」(申命記6∙4、マルコ12∙29)。「最高の存在者は唯一で、比類のないかたでなければなりません。……もし神が唯一でないとしたら、神は存在しません」テルトゥリアヌス『マルキオン反論』 (Tertullianus, Adversus Marcionem, 1, 3,5:CCL 1,444 [PL2,274])。。
[229]
神への信仰により、わたしたちはわたしたちの第一原因と究極目的としての神のみに向かい、何をも神に優先させず、神に取って代わるものとしません。
[230]
神はご自分を啓示されたとはいえ、名状しがたい神秘としてとどまられます。「もし、あなたが神を理解できたとしたら、それはもはや神ではないでしょう」聖アウグスティヌス『説教』 (S. Augustinus, Sermo, 52, 6, 16 : ed. P. Verbra ken: Revue Benさdictine 74 [1964] 27 [PL 38, 3601)。。
[231]
わたしたちの信じる神は、ご自分を「あるという者」として啓示され、「いつくしみとまことに満ちた」(出エジプト34∙6)かたであることを知らせてくださいました。神の存在自体が真理であり、愛なのです。
[232]
キリスト者は「父と子と聖霊のみ名によって」(マタイ28∙19)洗礼を受けます。洗礼の前に、父と子と聖霊への信仰を告白することを求める三つの質問に、「信じます」と答えます。「すべてのキリスト者の信仰は、三位一体に基づいています」アルルの聖チェザリオ『信条講解もしくは伝授(説教9)』 (S. Caesarius Arelatensis, Expositio vel traditio Symboli [sermo 9] : CCL 103, 47)。。
[233]
キリスト者は父と子と聖霊の「名(単数)によって」洗礼を受けます。父と子と聖霊「それぞれの名(複数)によって」ではありませんヴィジリオ「信仰宣言(552年)」 (vigilius, Professio fidei : DS415)参照。。神は唯一で、全能の父、そのひとり子、聖霊は、至聖なる三位一体だからです。
[234]
至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です。それは、神ご自身のうちなる神秘です。したがって、信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです。信仰の「諸真理の順位」聖職者聖省『カテケージス一般指針』43 (Directorium catechisticum generate : AAS 64 [1972] 123)参照。の中で、もっとも基本的で本質的な教えです。「救いの全歴史は、まことの唯一の神、父と子と聖霊が自らを啓示し、罪から離れる人間と和解し、一致する道と方法との歴史にほかなりません」同47(loc. cit., 125)。。
[235]
本節では、至福なる三位一体の神秘がどのように啓示されたか(1)、教会はこの神秘に関する信仰の教理をどのように築いてきたか(2)、最後に、御子と聖霊の派遣により、父である神が、どのように創造とあがないと聖化の「いつくしみ深い計画」を実現なさっているか(3)を簡潔に説明します。
[236]
教父たちはテオロギア(Θεολογία神ご自身の啓示)とオイコノミア(Οἰκονομία神の救いのわざ)を区別します。前者は三位一体の神ご自身のいのちの神秘を、後者は自らを啓示してそのいのちを分かち与える神のすべてのわざを表します。テオロギアはオイコノミアを通してわたしたちに啓示されますが、逆に、テオロギアがオイコノミアのすべてを解明します。神のわざは神ご自身のうちにあることを明らかにし、逆に、神ご自身の神秘がそのすべてのわざの理解を助けるわけです。人間の間でも類似のことが見られます。人格は行為を通して自らを表し、逆に人格をよく知れば知るほど、その人の行為が理解されます。
[237]
三位一体は厳密な意味での信仰の神秘、「神から啓示されなければ知ることのできない神のうちに秘められた神秘」第1バチカン公会議教義憲章『デイ・フィリウス』第4章(Dei Filius: DS3015) 。です。確かに神は、創造のわざや旧約時代の間になされた啓示の中で、ご自分が三位一体であることを暗示されました。しかし、神ご自身が三位一体であることは、理性のみでは知りえないばかりか、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰によっても知りえなかった神秘です。
[238]
多くの宗教においても、神は「父」と呼ばれています。そのような神は、しばしば「神々と人間の父」とみなされています。イスラエルの民の間で神が父と呼ばれるのは、世界の創造主としてです申命記32・6、マラキ2・10参照。。しかし、それだけではありません。神は、その「長子である」(出エジプト4∙22)イスラエルとの契約、ならびにおきての授与のゆえに父と呼ばれます。神はまた、イスラエルの王の父とも呼ばれていますサムエル下7・14参照。。そしてとくに、そのいつくしみ深い保護のもとにある、「貧しい人々」、孤児、寡婦の父なのです詩編68・6参照。。
[239]
神を「父」と呼ぶことにより、信仰のことばはおもに二つの面を示します。すなわち、神はいっさいのものの根源で、超越的権威であること、また同時に、そのすべての子らを思いやり、深く配慮されることです。親としてのこの神のいつくしみは、母にもたとえることができますイザヤ66・13、詩編131・2参照。。この表現によって神の内在性と、神とその被造物間の親密さがいっそうよく表されます。このように、信仰のことばは、人間にとって、ある意味で神の最初の代理者である親との人間体験から引き出されています。しかし同時に、その体験を通して、人間の親が誤りやすく、父性と母性の姿をゆがめかねないこともはっきりしています。ですから、神は人間の性の区別を超越することを指摘しておかなければなりません。神は男でも女でもなく、神なのです。人間の父性と母性の起源、尺度ではあっても詩編27・10参照。、それを超越した存在ですエフェソ3・14-15、イザヤ49・15参照。。神ほどに父であるものは、一人もいません。
[240]
イエスは、神は類例のない特別な意味での「父」であることを明かされました。すなわち、神は単に創造主として父なのではなく、ひとり子との関係において永遠に父であり、ひとり子も父との関係において永遠に子なのです。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ11∙27)。
[241]
ですから、使徒たちはイエスを「初めに神とともにあって、神であることば」(ヨハネ1∙1 参照)、「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)、「神の栄光の反映、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ1∙3)であると宣言しました。
[242]
その後、使徒伝承に従って、教会は、325 年、ニケアでの初めての公会議で、子は「父と同一実体のもの」ニケア信条(Symbolum Nicaenum : DS125)。である、すなわち、父と一体の神であると宣言しました。381 年にコンスタンチノープルで行われた第2回の公会議は、ニケア信条のこの表現を維持し、次のように宣言しています。「神の御ひとり子、よろず世のさきに、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と一体〔同一実体〕なり」ニケア・コンスタンティノポリス信条(Symbolum Nicaenum-Constantinopolitanum : DS150)。。
[243]
イエスはその死と復活の前、「別の弁護者」、すなわち、聖霊を遣わすことを約束されました。創造のとき以来働かれ創世記1・2参照。、かつて「預言者たちを通して語られた」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150)。聖霊は、今、弟子たちとともに、弟子たちのうちにヨハネ14・17参照。あって、弟子たちを教えヨハネ14・26参照。、導き、「真理をことごとく悟らせ」(ヨハネ16∙13)ようとしておられます。このように、聖霊はイエスや御父とは区別された神のペルソナとして啓示されています。
[244]
聖霊の永遠の起源は、この世への派遣において啓示されます。聖霊は使徒たちと教会に、子の名によって父から、また、父のもとに一度戻られた子ご自身から派遣されますヨハネ14・26,15・26,16・14参照。。イエスが栄光に入られた後の聖霊派遣はヨハネ7・39参照。、聖三位一体の神秘をくまなく啓示します。
[245]
聖霊に関する使徒伝承の信仰は、381 年にコンスタンチノープルで開催された第2回の公会議において、わたしたちは「主であり、生命の与え主である聖霊を」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150)。信じます、ということばで宣言されました。教会はこれにより、父を「全神性の源泉と起源」第6トレド教会会議(638年) 『三位一体と受肉した神の子である救い主について』 (De Trinitate et de Filio Dei Redemptore incarnato : DS490) 。として認めます。とはいえ、聖霊の永遠の起源は子のそれと結ばれているのです。「わたしたちは、聖霊が三位一体の第三のペルソナであり、神である父と子と一体であるとともに、同等であり、唯一の実体、唯一の本性を持つ神であることを信じます。……しかも聖霊は、ただ父だけの霊でも、子だけの霊でもなく、父と子との霊と呼ばれます」第11トレド教会会議(675年)の信条(Symbolum : DS527)。。教会のコンスタンチノープル会議信条は、「聖霊は父と子とともに拝み、あがめられる」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150)。と宣言しています。
[246]
信条の西方教会伝承は、聖霊は「父と子より出で」と宣言します。1438 年のフィレンツェ公会議は、これを次のように詳述しました。「聖霊は……その本質およびその実体は父と子からであり、両者から、あたかも単一の根源から、一つの息吹によって、永遠の昔に発出したのです。……父は、父であることを除いて、自分のすべてを自分のひとり子を生むことによって与え、子は父から永遠の昔に生まれ、この父から永遠の昔に生まれた子から聖霊が永遠の昔に発出したのです」フィレンツェ公会議『ギリシア人に対する教令(1439年)』 (Decretum pro Graecis : DS1300〜DS1301)。。
[247]
(父)と子よりという文言は、381 年のコンスタンチノープル信条には出ていません。しかし、古い西方ならびにアレクサンドリア伝承に従い、教皇聖レオがすでに447 年に、これを教義として公言しました聖レオ1世書簡『クアム・ラウダビリテル』 (S. Leo Magnus, Quam laudabiliter : DS284)参照。。これは、ローマ教会が451 年のカルケドン公会議で381 年の信条を知り、受け入れる以前のことでした。そして徐々に(8世紀から11世紀の間に)ラテン典礼ではこの語を信条の中に入れて唱えるようになりました。ラテン典礼でニケア・コンスタンチノープル信条の中に(父)と子よりが導入されたことについては、今日でも、東方教会との論争点になっています。
[248]
東方教会伝承は、まず、父が聖霊の究極的根源であることを表しています。聖霊が「父のもとから出る」(ヨハネ15∙26)と宣言することにより、この伝承は、聖霊が父から子を通して発出すると宣言しているのです第2バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』,第2項(Ad gentes)参照。。西方教会は、聖霊が父と子(Filioque)より発出するということにより、まず、父と子の同一実体としての交わりを表しています。この表現は、「合法的で正しい」フィレンツェ公会議『ギリシア人に対する教令』 (DS1302)。ものです。なぜなら、同一実体としての交わりにおける聖三位の永遠の序列のゆえに、父は「本源のない本源」フィレンツェ公会議『ヤコブ派に対する教令1442年)』 (Decretum pro Iacobitis : DS1331)。として聖霊の究極的根源であり、また同時に、ひとり子の父としてひとり子と一つになった本源、聖霊が発出する「いわば唯一の本源」第2リヨン公会議『三位一体とカトリック信仰に関する憲章1274年)』 (Constitutio de Summa Tnnitate et fide catholica ; DS850) 。でもあるのです。両教会の見方は互いに正当に補完するものです。これは、柔軟に考えさえすれば、同じ三位一体の神秘に対する信仰の同一性を損なうことはありません。
[249]
聖三位一体という啓示された真理は、教会の当初から、主として洗礼を授けることを通して、いつも教会の生きた信仰の根底に置かれてきました。この真理は、洗礼式の信仰宣言では一定の形式をもって表現されていた、ということが分かります。教会の宣教、カテケージス、祈りの中に定式化された定句は、すでに使徒たちの書に見られ、感謝の祭儀の中で踏襲されている次のあいさつからも明らかです。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」(二コリント13∙13)1コリント12・4-6、エフェソ4・4-6参照。。
[250]
最初の数世紀に、教会は三位一体の信仰をより明示的に表明することに努めました。この信仰について自らの理解を深めると同時に、それをゆがめていた誤謬に反駁するためです。これは、教父たちの神学的研究に助けられ、キリストの民の信仰心によって支えられた、古代の諸公会議の仕事でした。
[251]
教会は三位一体の教理の形成のため、「実体」、「ペルソナ」または「ヒュポスタシス」、「関係」などの哲学に由来する概念を借りて、固有の用語を展開していかなければなりませんでした。そうしながら、教会は信仰を人間の知恵に従わせたわけではなく、これらの語にまったく新しい意味を与え、以後は、「人間の尺度で測り得るすべてのものを無限に超える」パウルス6世『神の民のクレド』,第9項(Sollemnis Professio fidei : AAS 60 [1968] 437)。神秘を意味するようにしたのです。
[252]
教会は「実体」(たびたび「本質」あるいは「本性」と置き換えられる)という語を用いて、神の一体性を示し、「ペルソナ」または「ヒュポスタシス」の語を用いて互いに実際に区別される父と子と聖霊を示し、「関係」の語を用いて、それぞれの区別は相互の関係によることを示します。
[253]
三位は一体です。三つの神々ではなく、三者としての唯一の神、すなわち、「実体として一つである三位の神」第2コンスタンティノポリス公会議(553年) 『三章書の排斥』 (Anatematismi de tribus Capitulis, 1 : DS421)。を、わたしたちは信じています。三者が唯一の神性を分かち持つのではなく、それぞれは神そのものなのです。「父は子と同じ存在、子は父と同じ存在、父と子は聖霊と同じ存在、すなわち、本性において唯一の神です」第11トレド教会会議の信条(DS530)。。「三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」第4ラテラノ公会議(1215年)決議第2章「大修道院長ヨアキムの誤謬」 (De errore abbatis Ioachim : DS804)。。
[254]
神の三者はそれぞれ実際に区別されています。「神は唯一ではあるが、孤独ではありません」ダマソ信条(Fides Damasi: DS71)。。「父」と「子」と「聖霊」は神の存在の様式を示す単なる呼称ではなく、実際に区別されたかたがたです。「子は父ではなく、父は子ではなく、父も子も聖霊ではありません」第11トレド教会会議の信条(DS530)。。三者の区別は、それぞれの起源の関係に由来します。「父が生み、子は生まれ、聖霊は発出します」第4ラテラノ公会議決議第2章「大修道院長ヨアキムの誤謬」 (DS804)。。一体の神は、三位です。
[255]
神の三者は、相互関係のうちにあります。各ペルソナ間の実際の区別は、一体の神を分割することによって生じるものではなく、相互の関係によるものです。「各ペルソナの相互関係を表す名によって、父は子に、子は父に、聖霊は両者に対するものとして表されています。相互関係にある者として三つのペルソナが語られますが、ただ一つの本性または実体を信じているのです」第11トレド教会会議の信条(DS528)。。実際、「相互関係の間柄の違いを除けば、三位のすべてが一つです」フィレンツェ公会議『ヤコブ派に対する教令』(DS1330)。。「この一体性のゆえに、父全体は子のうちにあり、また聖霊のうちにあります。子全体は父のうちにあり、また聖霊のうちにあります。聖霊全体は父のうちにあり、また子のうちにあります」同(DS1331)。。
[256]
「神学者」という称号を与えられたナジアンズの聖グレゴリオは、コンスタンチノープルの洗礼志願者のために三位一体の信仰を次のように要略しました。
「何よりもまず、このすばらしい預かりものを守ってください。わたしはそのために生き、そのために戦っています。これを胸に抱いて死ぬつもりですが、これはわたしにあらゆる不幸を耐えさせ、あらゆる快楽を軽んじさせるものです。この預かりものとは、父と子と聖霊への信仰宣言です。わたしは、今日、それをあなたにゆだねます。ゆだねた上で、わたしはあなたを水の中に入れ、引き上げます。わたしはその預かりものをあなたの生涯の伴侶、保護者として授けます。わたしはあなたに唯一の、全能の神を授けます。神は唯一ですが、それぞれ区別された三位として存在しておられます。神において、三位は区別したものとして存在しています。神において、実体または本性の相違はなく、上下関係もありません……。無限の同じ本性を持たれる無限の三位です。おのおのが、神の全体であり……、三位がともに神の全体です……わたしが唯一の神を思い始めるや否や、すでに三位がわたしをその光輝で覆ってしまわれます。三位を思い始めるや否やたちまち、唯一の神がわたしをとらえてしまわれます……」ナジアンゾスの聖グレゴリオス『説教』 S. Gregorius Nazianzenus, Oratio 40, 41 : SC 358, 292-294 [PG 36, 417])。。
[257]
「ああ、至福の光なる三位、ああ根源的一致!」『教会の祈り(親範版)』第2週と第4週・主日の晩の祈りの賛歌(Liturgia Horarum, editio tipica, v. 3 [Typis Polyglottis Vaticanis 1973] 684, 931 ; v. 4 [Typis Polyglottis Vaticanis 1974] 632, 879)。。神は、永遠の至福、不死のいのち、消えることのない光です。神は愛、父と子と聖霊です。神は自由に、ご自分の至福のいのちの栄光を分かち合おうとしておられます。それは、愛する御子において世界創造以前から抱いておられた「秘められた計画」(エフェソ1∙9)です。この計画により、「イエス・キリストによって神の子にしようと、前もってお定めになったのです」(エフェソ1∙5)。すなわち、「神の子とする霊」(ローマ8∙15)によってわたしたちを「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(ローマ8∙29)たのです。この計画は、「永遠の昔にわたしたちのために与えられた」(二テモテ1∙9)恵みで、三位の愛から直接に出たものです。それは、創造のみわざ、人祖の失墜後の救いの全歴史、子と聖霊の派遣ならびにそれが永続される教会の派遣の中で展開されていきます『教会の宣教活動に関する教令』,第2項-第9項参照。。
[258]
神の救いの営みはすべて、三位の共同のわざです。三位には、唯一のまったく同じ本性しかないのと同じように、ただ一つの同じわざしかありません第2コンスタンティノポリス公会議『三章書の排斥』 (DS421)参照。。「父と子と聖霊は被造物の三つの本源でなく、ただ一つの本源です」フィレンツェ公会議『ヤコブ派に対する教令』 (DS1331)。。そうでありながら、おのおののかたがそれぞれに固有の特性に従って共同のわざを行われるのです。ですから、教会は新約聖書に従い1コリント8・6参照。、「父である神は一つで、すべてはそのかたから出ている。主イエス・キリストは一つで、すべては彼によって成っている。聖霊は一つで、すべてはその中にある」第2コンスタンティノポリス公会議『三章書の排斥』 (DS421)参照。と宣言します。神の三位の固有な特性を明らかにするのは、とくに受肉という御子の派遣と、たまものとして与えられる聖霊の派遣です。
[259]
聖三位の共同かつ個々のわざである神の救いの営み全体は、それぞれの特性と唯一の本性を知らせます。したがってキリスト者の全生活は、決して聖三位を分離することなく、聖三位のそれぞれと交わることなのです。御父の栄光をたたえる者は、御子によって聖霊のうちにそうするのであり、キリストに従う者は、その人を御父が引き寄せヨハネ6・44参照。、聖霊が動かされるので、そうするのですローマ8・14参照。。
[260]
救いの営み全体の究極目的は、神によって創造された人々が至福である三位一体の完全な一致のうちに入ることにあります
ヨハネ17・21-23参照。。しかし、わたしたちはすでに今、至聖である三位一体の住みかとなるよう招かれています。「わたしを愛する人は、わたしのことばを守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14∙23)、とキリストはいわれます。
「ああ、わたしの神、わたしの礼拝する三位一体よ、わたしがまったく自分を忘れ、わたしの霊魂があたかもすでに永遠に住んでいるかのように、安らかに、静かに、あなたのうちにとどまるようお助けください。ああ、わたしの不変の神よ、何事もわたしの平和を乱さず、わたしをあなたから引き離すことなく、たえず、あなたの神秘の深みにいっそう深く分け入らせてください。わたしの魂を鎮め、これをあなたの天のみ国、あなたの喜ばれる住まい、あなたの憩いの場としてください。わたしが片時も、わたしの魂に住まわれるあなたを孤独にしておくことなく、すべてを挙げて信仰に目覚め、礼拝しつつ、あなたの創造のみわざにこの身のすべてをゆだねて、あなたとともにとどまりますように」三位一体の福者エリサベト『三位一体をたたえて』 (B. Elisabeth de la Trinite, Elevation a la Trimte : Ecrits spiri tuels, 50, ed. M. M. Philipon [Paris 1949] 80)。。
[261]
至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的神秘です。神のみが、ご自分が父と子と聖霊であることを啓示して、ご自身のことをわたしたちに知らせることができます。
[262]
神の御子の受肉は、神が永遠の父であり、子は父と同一実体のものであること、すなわち、子は父のうちに、父とともにあり、父と同じ唯一の神であることを明らかにします。
[263]
御子の名によって御父から遣わされヨハネ14・26参照。、「〔御〕父のもとから」(ヨハネ15∙26)御子によって遣わされた聖霊の派遣は、聖霊が父と子と同じ唯一の神であることを明らかにします。「聖霊は父と子とともに拝み、あがめられます」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150)。。
[264]
「聖霊は究極的な本源としての父から発出し、また父が子にそのことを永遠にお与えになられたがゆえに、交わりにある父と子から発出します」聖アウグスティヌス『三位一体論』 (S. Augustinus, De Trinitate, 15, 26, 47 : CCL 50A, 529 [PL 42, 1095])。。
[265]
「父と子と聖霊の名による」(マタイ28∙19)洗礼の恵みによって、わたしたちは至聖なる三位一体のいのちに、「この世では信仰によっておぼろげに、死後は永遠の光の中で」パウルス6世『神の民のクレド』,第9項(loc. cit., 436)。あずかるように召されています。
[266]
「カトリックの信仰とは、三位である唯一の神、一体の神である三位を、互いに混同することなく、また実体を分かつことなくあがめることです。父のペルソナと子のペルソナと聖霊のペルソナとはそれぞれ異なっていますが、父と子と聖霊は唯一の神で、栄光は等しく、その尊厳はともに永遠です」 「クイクムクエ」信条(Symbolum "Quicumque": DS75)。。
[267]
聖三位の存在が互いに切り離すことができないのと同様に、働きも互いに切り離すことができません。しかし、唯一の働きの中で、三位はそれぞれに固有な働きを示されます。このことはとくに、受肉という御子の派遣と、たまものとしての聖霊の派遣において現れます。
[268]
神のすべての属性の中で、信条ではただ「全能」だけが挙げられています。これを公言することには、わたしたちの生活にとって大きな意義があります。わたしたちは神の全能がすべてのものに及ぶことを信じます。なぜなら、神はすべてを創造し創世記1・1、ヨハネ1・3参照。、すべてを治め、すべてがおできになるからです。神の全能には、いつくしみがこもっています。なぜなら、神はわたしたちの父であられるからですマタイ6・9参照。。さらに、それは隠されたものです。なぜなら、それは「弱さの中でこそ十分に発揮される」(二コリント12∙9)ものなので、信仰だけが識別できるからです1コリント1・18参照。。
[269]
聖書は、すべてに及ぶ神の力をたたえてうむことがありません。神は、「ヤコブの勇者」(創世記49∙24。イザヤ1∙24など参照)、「万軍の主」(詩編24∙10)、「強く雄々しい主」(詩編24∙8)と呼ばれています。神が「天において、地において」(詩編135∙6)全能であるのは、それらを創造されたからです。したがって、神におできにならないことは何一つなくエレミヤ32・17、ルカ1・37参照。、造られたものを望みのままに用いられますエレミヤ27・5参照。。神は宇宙の主であり、宇宙の秩序を定められたので、森羅万象はまったく神に従い、神の意のままになります。神は歴史の主です。思いのままに人々の心と出来事とをつかさどられますエステル(ギリシア語)c・2、箴言21・1、トビト13・2参照。。「あなたはつねに偉大な力を備えておられる。あなたのみ腕の力にだれが逆らえよう」(知恵11∙21)。
[270]
神は全能の父です。神の父性と神の権能という二つの面が相互に作用し合いながら、それぞれの意味・内容を明らかにしてくれます。実際、神は父としてのご自分の全能を、わたしたちの必要を配慮したりマタイ6・32参照。、わたしたちを子とする(「わたしはあなたがたにとって父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、全能の主はこう仰せられる」〈二コリント6∙18〉)ことによって、また、その無限のあわれみを通して示しておられます。さらに、罪を思いのままにゆるすことで、ご自分の権能を極限まで表しておられるのです。
[271]
神はご自分の全能を恣意的に用いられるようなことは決してありません。「神にあっては、能力と本質、意志と知性、知恵と正義はただ一つの同じものなので、神の正しい意志やその賢明な知性にないことは、神の能力にもありえないのです」聖トマス・アクイナス『神学大全』 (S. Thomas Aquinas, Summa theologiae, 1, q. 25, a. 5, ad l‥Ed・Leon. 4, 297)。。
[272]
全能の父である神への信仰は、悪と苦しみの体験によって試みられることがあります。神は存在せず、悪を妨げることもおできにならないと思えるようなことがあります。ところが、神は御子が進んで自らを無とし、復活したというきわめて神秘なしかたで、ご自分の全能を示し、悪に打ちかたれました。このように、十字架につけられたキリストは神の力、神の知恵なのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(一コリント1∙25)。キリストの復活と栄光化に際して、御父はご自分の「力」を働かせ、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」ご自分の「力が、どれほど大きなものであるか」(エフェソ1∙19-22)を示されました。
[273]
ただ信仰によってのみ、わたしたちは神の全能の人目にはつかない道をたどることができます。この信仰は自らの弱さを誇ることで、キリストの力を引き寄せます2コリント12・9、フィリピ4・13参照。。おとめマリアが、この信仰の最高の模範です。マリアは「神にできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ことを信じ、「力あるかたが、わたしに偉大なことをなさり、そのみ名は尊い……」(ルカ1∙49)といって、主をあがめることができました。
[274]
「したがって、わたしたちの信仰と希望を強固にするために最適なものは、神におできにならないことは何もないと、心中に深く刻まれた信念にほかなりません。実際、神の全能の概念を持ちさえすれば、〔信条で〕引き続き述べられている信じなければならない一つ一つのこと、大変偉大で、まったく理解しがたく、また自然の通常の法則をはるかに超えることがらに関しても、理性はそれらを直ちに、容易に、何のためらいもなく容認するでしょう」『ローマ・カテキズム』1, 2, 13(op. cit., 31)。。
[275]
わたしたちは正しい人ヨブとともに、「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(ヨブ42∙2)と宣言します。
[276]
教会は聖書の教えを忠実に受け継ぎ、しばしば「全能で永遠である神」に(「全能、永遠の神よ……」と)祈りをささげますが、それは「神にはできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ことを固く信じているからにほかなりません創世記18・14、マタイ19・26参照。。
[277]
神はわたしたちを罪から回心させ、恵みによって友愛関係を取り戻させることによって、ご自分の全能を現されます(「全能の神よ、あなたのゆるしは限りなく、そのあわれみはすべてに及びます」)『ローマ・ミサ典礼書』年間第26主日の集会祈願。。
[278]
神の愛は全能だと信じないならば、御父がわたしたちを創造し、御子がわたしたちをあがない、聖霊がわたしたちを聖化してくださると、どうして信じられるでしょうか。
[279]
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)。聖書はこの荘重なことばで始まっています。信条はこのことばを踏襲して、全能の父である神を「天地の創造主」使徒信条(Symbolum apostolicum : DS30)。、「見ゆるもの、見えざるもの、すべての造り主」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150。と宣言します。ですから、まず創造主について、次に被造界について、最後に人祖の堕罪について述べることにしますが、神の御子イエス・キリストはこの堕罪からわたしたちを救いに来られたのです。
[280]
創造は「神の救いのすべての計画」の土台、キリストを頂点とする「救いの歴史の始まり」聖職者聖省『カテケージス一般指針』51 (loc. cit., 128),。です。逆に、キリストの神秘は創造の神秘を解く決定的な光となります。すなわち、何のために「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)のか、その目的を明らかにします。初めから、神はキリストにおける新たな創造の輝きを意図しておられましたローマ8・18-23参照。。
[281]
ですから、キリストにおける新たな創造を祝う復活徹夜祭の朗読は、創造の物語から始まります。ビザンチン典礼では、伝統的にこの物語が主の大祝日の徹夜典礼での第一朗読になっています。古代の史料によれば、洗礼志願者の教育も同じ順序で行われましたエゲリア『聖地巡礼記』 (Egeria, Itinerarium seu Peregrinatio ad loca sancta 46, 2: SC 296, 308; PLS 1, 1089-1090), 聖アウグスティヌス『教えの手ほどき』 (S. Augustinus, De catechizandis rudibus 3, 5: CCL 46, 124 [PL 40, 313])参照。。
[282]
創造についてのカテケージスはきわめて重要です。これは人間として、またキリスト者としての生活の根底にかかわっています。つまり、「わたしたちはどこから来たのか」「どこに行くのか」「わたしたちの起源は」「わたしたちの目的は」「万物はどこから出て、どこに向かうのか」という、あらゆる時代の人々が提起する基本的な問題に対して、キリスト者の信仰に基づく回答を明確にするものだからです。起源と究極目的に関する質問は不可分であり、また、その回答はわたしたちの生活と行為の意味、ならびに方向にとって決定的なものです。
[283]
宇宙と人間の起源に関する問いかけは数多くの科学的探求の対象となり、宇宙の年齢や大きさ、生物の生成、人間の出現に関する知識を驚くほど豊かにしました。これらの発見によってわたしたちは、創造主の偉大さを賛美し、そのあらゆるわざと学者や探求者に与えられている知恵や知識に対して神に感謝するよう促されます。これらの人々はソロモンとともに、こういえるはずです。「存在するものについての正しい知識を、神はわたしに授けられた。宇宙の秩序、元素の働きをわたしは知った。……万物の制作者、知恵に教えられたからである」(知恵7∙17-21)。
[284]
これらの探求に特別に寄せられる大きな関心というのは、自然科学の領域を超えた別の次元の問いかけのほうがもっと強いのです。ただ単に、宇宙が物質的にいつ、どのように生じたのか、人間はいつ出現したのかを知ることではなく、むしろ、その起源の意味を明らかにすることに関心があるのです。すなわち、起源は偶然なのか、盲目的な運命、あるいは何かの必然によるのか、それとも知性と善意を備えた超越的存在、神と呼ばれるかたによるのか。そして、もし、世界が神の英知と善に由来するなら、なぜ悪が存在するのか、悪はどこから来るのか、その責任はだれにあるのか、悪からの解放はあるのか、といった一連の問題が続出します。
[285]
キリスト者は当初から、起源の問題について、自分たちの信仰とは異なる回答と対決させられてきました。古代の宗教と文化の中には、起源に関する多くの神話が見られます。ある哲学者たちによれば、すべては神、世界が神、もしくは世界の生成がそのまま神の生成だということになります(汎神論)。他の人々によると、世界は神の必然的流出で、この泉から流れ出て、これに回帰します。また他の人たちは、永久に戦う二つの原理、善と悪、光とやみの存在を主張しました(二元論、マニ教)。こうした考えをする人々の中には、世界(少なくとも物質界)は失墜から生じた悪いものであって、拒絶するか超克すべきものだと主張するものもいます(グノーシス主義)。他の人々は世界は神に創造されたことを認めますが、神はあたかも時計の製造者のように、ひとたび造られた世界の動きを、それに内在する法則に任せたと主張します(理神論)。また、他の人々は世界がそれを超越する者に由来することを承認せず、つねに存在していた物質の働きのみの結果とみなします(唯物論)。以上の仮説は、起源の問題がいつどこにおいても提起されていることを示しています。この探求は人間につきものなのです。
[286]
確かに人間の知性は、万物の起源の問題に対する回答を見いだす能力をすでに持っています。実際、創造主である神の存在は、人間理性の光に照らし、そのわざを通して確実に知ることができます『デイ・フィリウス』禁止条令「2啓示について」 1(DS3026)参照。。しかし、この知識は誤謬によってしばしば不明瞭になり、ゆがめられてしまいます。そこで、このことを正しく理解するために、信仰が理性を強め照らします。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神のことばによって創造され、したがって見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ11∙3)。
[287]
創造の事実は人間生活全体にとってきわめて重要なことですから、神はご自分の民に、創造に関して知れば益になることをすべて、いつくしみ深く啓示されました。創造主についてあらゆる人間が持つことのできる自然の知識を超えて使徒言行録17・24-29、ローマ1・19-20参照。、神は徐々にイスラエルの民に創造の神秘を明かされました。族長たちを選び、イスラエルをエジプトから脱出させ、イスラエルを選んでご自分の民を生み、育てられた神はイザヤ43・1参照。、ご自分を、地のすべての民を所有し、全地を所有するかた、ひとり「天地を造られた」(詩編115∙15、124∙8、134∙3)かたとして示されます。
[288]
したがって創造の啓示は、唯一の神がその民と結ばれた契約の啓示とその実現から、切り離すことはできません。創造はこの契約に向かう第一歩として、神の全能の愛の最初の普遍的あかしとして啓示されました創世記15・5、エレミヤ33・19-26参照。。こうして、創造の教えは預言者たちの告知イザヤ44・24参照。、詩編詩編104参照。や典礼の祈り、選ばれた民の知恵の省察箴言8・22-31参照。の中で、ますます強く表されていきます。
[289]
創造について記された聖書のあらゆることばの中でも独自の地位を占めているのが、創世記の最初の三章です。文書資料として見れば、これらの章はおそらく源泉を異にしていると思われます。霊感を受けた記者はこの三つの章を聖書の冒頭に置くことによって、荘重に、創造の真実、被造界が神を起源とし目的としていること、その秩序と善性、人間の使命、罪の悲劇と救いの希望を述べようとしました。これらの章はキリストの光に照らし、聖書の一貫性と教会の生きた伝承に従って読むなら、「初め」の神秘、つまり、創造、堕罪、救いの約束に関するカテケージスの主要な源泉であり続けるのです。
[290]
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)、聖書のこの書き出しには三つのことが明言されています。永遠の神は、ご自分以外のすべてのものが存在し始めるようにしてくださいました。神だけが創造主です(「創造する」という動詞⸺ヘブライ語で bara⸺はいつも神を主語とします)。存在するすべてのもの(「天地」という語がそれを表しています)は、それに存在をお与えになった神に依存しています。
[291]
「初めにことばがあった。……ことばは神であった。……万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1∙1-3)。新約聖書は、神は万物を愛する御子である永遠のみことばによって造られたことを啓示しています。「天にあるものも地にあるものも……万物は御子において造られたのです。万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1∙16-17)。教会は、聖霊も創造のわざを行っていることを信じています。聖霊は「生命の与え主」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150)。、「創造主である霊」(「創造主である聖霊、来てください〈Veni, Creator Spiritus〉」)、「あらゆる善の泉」ビザンチン典礼「聖霊降臨の主日の晩課の第2ステイケロン」 (2um Sticherum vesperarum Dominicae Pentecostes : Πεντηκοσταριον [Rome 1883] 408)。です。
[292]
御父の創造の働きと一つで切り離すことができない御子と聖霊の働きは、旧約聖書において暗示され詩編33・6,104・30、創世記1・2-3参照。、新約聖書のうちに啓示され、教会の信仰宣言で明言されています。「唯一の神が存在します。……このかたは父であり、神であり、創始者であり、実行者です。万物をご自分によって、すなわち、そのみことばと知恵とによって造られた創造主です」聖エイレナイオス『異端反駁』 (S. Irenaeus Lugdunensis, Adversus haereses, 2, 30, 9: SC 294, 318-320 [PG 7, 822])。。「み手」のように働かれる「御子と聖霊によって」同(Ibid., 4, 20, 1: SC 100, 626 [PG 7, 10321) 。造られました。創造は聖三位の共同のわざです。
[293]
「世界は神の栄光のために造られた」
『デイ・フィリウス』禁止条令「1万物の創造者である神」 5(DS3025)。、これは聖書と聖伝とがつねに教え、たたえている根本的な正しい教えです。聖ボナベントゥラは、神が万物を造られたのは「栄光を増大するためではなく、その栄光を現し、分かち合うためだ」
聖ボナベントゥラ『命題集注解』 (S. Bonaventura, In secundum librum Sententiarum, dist. 1, p. 2, a. 2, q・1, concl. : Opera omnia, v. 2 [Ad Claras Aquas 1885] 44)。と説明します。まことに、神が創造される理由は、ご自分の愛と善以外に何もありません。「被造物を造るためにみ手を開けたのは、愛のかぎです」
聖トマス・アクイナス『命題集注解』 (S. Thomas Aquinas, Commentum in secundum librum Sententiarum, prologus: Opera omnia, v. 8 [Paris 1873] 2)。。また、第1バチカン公会議は次のように説明しています。
「この唯一のまことの神は、自分の幸福を増し、または獲得するためではなく、被造物に与える善によって自分の完全さを表すために、自分の善と全能の力とによって、自由な計画をもって、時の始めから、霊的被造物と物質的被造物とを等しく無から創造されました」『デイ・フィリウス』第1章(DS3002)。。
[294]
神の栄光、それは神の善が表され、伝えられることにほかなりません。これこそ、世界が造られた目的です。神はわたしたちを「イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1∙5-6)。「実に、神の栄光とは生きている人間にあり、人間の生命とは神を見ることにあります。覆われた状態での神の現れが地上の生きものすべてに生命を与えるとすれば、みことばによる御父の顕現は、それにもまして、神を見る人々に生命を与えるはずです」聖エイレナイオス『異端反駁』 (Adversis haereses, 4, 20, 7: SC 100, 648 [PG7, 1037])。。創造の究極目的は、「万物を造られたかた(神)が、ご自分の栄光と同時にわたしたちの幸福をも配慮しつつ、ついに『すべてにおいてすべてとなられる』(一コリント15∙28)」『教会の宣教活動に関する教令』,第2項。ことなのです。
[295]
わたしたちは、神が英知をもって世界を造られたことを信じます知恵9・9参照。。世界は何かの必然、盲目的運命、または偶然によって現れたのではありません。世界は、ご自分の存在、英知、善に被造物をあずからせることを望まれた神の自由な意志から生じたことを、わたしたちは信じます。「あなたは万物を造られ、み心によって万物は存在し、また創造された」(黙示録4∙11)。「主よ、みわざはいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた」(詩編104∙24)。「主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものをあわれんでくださいます」(詩編145∙9)。
[296]
創造なさるために、神は前もって存在する何ものも、いかなる助けも必要とされないことをわたしたちは信じています
『デイ・フィリウス』第1章(DS3002)参照。。創造はまた、神の実体の必然的な流出でもありません
同禁止条令「1万物の創造者である神」1-4 (DS3023〜DS3024)参照。。神は「無から」
第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (DS800)、『デイ・フィリウス』禁止条令「1万物の創造者である神」 5(DS3025)。自由にお造りになられるのです。
「神が、世界をそれ以前に存在する素材から造り出されたのでしたら、何の不思議もありません。人間である職人でさえ、素材を与えられるならば、すべて望むままにそれを細工することができます。ところが、神の力が現れるのは、お望みになるすべてのものを無からお造りになるというところなのです」アンティオキアの聖テオフィロ『アウトリュコスに送る』 (S. Theophilus Antiochenus, Ad Autolycum, 2, 4 : SC 20, 102 [PG 6, 10521)。。
[297]
聖書において、「無から」創造されるという信仰は、約束と希望を豊かに含む教えとして示されています。たとえば、七人の息子の母親はその子らの殉教を励まし、こう語ったのでした。
「わたしは、お前たちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。お前たちに霊といのちを恵んだのでもなく、わたしがお前たち一人ひとりの肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、あわれみをもって、霊といのちを再びお前たちに与えてくださる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには、いのちをも惜しまないからだ。……子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものをすでに在ったものから造られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知っておくれ」(二マカバイ7∙22-23,28)。
[298]
無から創造することができる神は、聖霊によって罪びとたちのうちに清い心を造りながら詩編51・12参照。、魂のいのちを与え、復活によって、死者たちにはからだのいのちを与えることがおできになります。神は「死者にいのちを与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(ローマ4∙17)かたなのです。また、みことばによってやみに光を輝かせ創世記1・3参照。ることのできた神は、ご自分を知らない人々に信仰の光を与えることもおできになります2コリント4・6参照。。
[299]
もし神が英知をもって創造なさるのであれば、被造物には秩序があるはずです。「あなたは、長さや、数や、重さにおいて、すべてに均衡がとれるようにはからわれた」(知恵11∙20)。それらのものは、「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)である永遠のみことばのうちに、みことばによって造られたので、神の似姿として創世記1・26参照。神との親しい交わりに召されている人間の用に供されています。神の知性の光にあやかる人間の知性は、神が被造物を通してわたしたちに語られることを理解することができます詩編19・2-5参照。。いうまでもなく、それにはかなりの努力と、創造主とそのわざとを前にした謙虚さ、ならびに畏敬の精神を必要としますヨブ42・3参照。。神の善から生まれた被造物はその善にあやかります(「神は見て、よし、きわめてよしとされた」〈創世記 1∙4,10,12,18,21,31〉)。神は、被造物が人間のための贈り物、人間にゆだねられた遺産となることをお望みになりました。教会は、物質界のすばらしさをも含めて、被造物がよいものであることを、反対者に対して幾度も繰り返し弁護しなければなりませんでした聖レオ1世書簡『クアム・ラウダビリテル』 (DS286)、第1ブラガ教会会議『異端者、特にプリスキリアヌス派の排斥』(Anathematismi praesertim contra Priscillianistas, 5-13 : DS455〜DS463)、第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (DS800)、フィレンツェ公会議『ヤコブ派に対する教令』(DS1333)、『デイ・フィリウス』第1章(DS3002)参照。。
[300]
神はご自分のすべてのわざより無限に偉大なかたですシラ43・30参照。。その「威光は天よりも高く」(詩編8∙2 参照)、「大きなみわざは究めることもできません」(詩編145∙3)。しかし、神は最高の、自由な創造主、存在するすべてのものの第一原因ですから、被造物のもっとも奥深いところに内在しておられます。「〔わたしたち〕は神の中に生き、動き、存在します」(使徒言行録、17∙28)。聖アウグスチヌスのことばによれば、神は「わたしのもっとも奥深いところよりも奥深く、わたしのもっとも高いところよりも高く」聖アウグスティヌス『告白録』 (S. Augustinus, Confessiones, 3, 6, 11 : CCL 27, 33 [PL 32, 688])。おいでになるのです。
[301]
神が、創造の後、被造物を放棄することはありません。初めに存在を与えるだけではなく、一瞬一瞬その「存在」を支え、動く能力を与え、目的に導かれます。創造主に対するこの全面的な依存を認めることは、英知と自由、喜びと信頼の源となります。
「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。いのちを愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」(知恵11∙24-26)。
[302]
被造界は固有の善と価値とを備えていますが、創造主からまったく完成したものとして造られたものではありません。神が定めた、これから到達しなければならない究極の完成に「
向かう途上」にあるものとして造られました。神がご自分の被造物をこの完成に向かって導かれるはからいのことを、摂理と呼びます。
「神は、ご自分が造られたすべてのものを摂理によって保ち、治められます。『この世の果てから果てまでその力を及ぼし、すべてのものを巧みにつかさどり』(知恵8∙1 参照)、また被造物の自由な行動をも含めて、『神の前に隠れることができるものは何一つない』(ヘブライ4∙13)のです」『デイ・フィリウス』第1章(DS3003)。。
[303]
聖書の教えは異口同音に、摂理のはからいは具体的・直接的であり、ささいなことがらから世界と歴史の大きな出来事に至るまで、すべてを配慮すると述べています。聖書は、出来事が進行する過程で神が絶対の主権を持っておられることを断固主張します。「わたしたちの神は天にいまし、み旨のままにすべてを行われる」(詩編115∙3)。そして、キリストについては、「このかたが開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙示録3∙7)と述べています。「人の心には多くのはからいがある〔が、〕主のみ旨のみが実現する」(箴言19∙21)。
[304]
ですから、聖書の第一の作者である聖霊は、第二原因について触れることなく、さまざまの行為をしばしば神に帰しています。それは原始的な「話し方」ではなく、神の首位、歴史と世界に対する主権を想起させるものでありイザヤ10・5-15,45・5-7、申命記32・39,シラ11・14参照。、神への信頼を培う奥深い方法なのです。詩編の祈りはこの信頼の偉大な学びやです詩編22、詩編32、詩編35、詩編103、詩編138、その他参照。。
[305]
イエスは、子らのささいな必要にも心を配られる天の御父の摂理に対して、子としての信頼を寄せるように求めておられます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』……といって、思い悩むな。……あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる」(マタイ6∙31-33)マタイ10・29-31参照。。
[306]
神は、ご自分の計画を実現する最高の主です。しかし、その実現のために、被造物の協力もお求めになります。それは弱さのしるしではなく、全能の神の偉大さといつくしみのしるしです。実際、神は被造物に存在を与えられるだけではなく、被造物が自ら行動し、互いに原因および出発点となり合って、ご自分の計画の達成に協力する資格をお与えになるのです。
[307]
神は人間に地を従わせ、支配する創世記1・26-28参照。責任をゆだね、摂理に自由に参与できるようになさいます。そのために神は、人間を、創造のわざを発展させ、自分たちと隣人の益のためにそのわざの調和を完成させるための要因、知性と自由を備えた原因となさるのです。人間はしばしば無意識のうちに神のみ旨に協力していますが、意識的にも、行為と祈りとによって、また、苦しみによっても、神の計画に進んで加わることができますコロサイ1・24参照。。そのとき人間は、完全に「神の協力者」(一コリント3∙9) 1テサロニケ3・2参照。、神の国の協力者となるのですコロサイ4・11参照。。
[308]
神は被造物のすべての行為のうちで働いておられます。これは、創造主である神への信仰と切り離すことのできない真理です。第二原因の中で、また、それらを通して働くのは第一原因です。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2∙13) 1コリント12・6参照。。この真理は被造物の尊さを減じるどころか、いっそう高めます。神の力と英知と善とによって無から引き出された被造物は、その存在の起源となるものから切り離されるなら何もできません。「創造主なくしては被造物は消えうせる」第2バチカン公会議『現代世界憲章』,第36項 (Gaudium et Spes)。からです。ましてや、恵みの助けなしには、その究極の目的に到達するすべもありませんマタイ19・26、ヨハネ15・5、フィリピ4・13参照。。
[309]
全能の父であり、秩序あるよい世界の創造主である神が全被造物を配慮しておられるなら、なぜ悪が存在するのでしょうか。この避けがたい、緊急の、神秘で、悲痛な問題には、どのような即答も満足がいかないでしょう。この問題に答えうるのは、キリスト教の教えの全体です。そしてそれは、以下のような内容となります。被造物はよいものであり、罪は悲劇的な出来事です。神は忍耐強い愛から、契約により、あがないをもたらす御子の受肉により、聖霊を与えることにより、人々を教会に集めることにより、秘跡の力により、至福ないのちへの招きにより、人間を迎えに来ておられます。そして、自由意志を持つ被造物がこれに同意するよう呼びかけておられます。しかしまた、恐るべき神秘ですが、それに逆らうこともできるのです。キリスト教の教えの全体が、悪の問題に対する回答となっています。
[310]
神は、なぜ、何の悪も存在しないほどの完全な世界を造られなかったのでしょうか。神は無限の力を持っておられるので、つねによいものを造ることがおできになれるはずです聖トマス・アクイナス『神学大全』 (Summa theologiae, 1, q. 25, a. 6 : Ed. Leon. 4, 298-299)参照。。しかし、神は無限の英知と善とをもって、世界を究極の目的に「向かう途上」のものとして創造することを自由にお望みになりました。神の計画によって、この生成には、ある存在が出現すれば他のものが消滅し、より完全なものがあればより不完全なものも存在し、自然的な形成もあれば破壊もあることになっています。したがって、被造物が完成に至らない限り、物理的善と物理的悪とが共存するのです聖トマス・アクイナス『対異教徒大全』 (S. Thomas Aquinas, Summa contra gentiles, 3, 71 : Ed. Leon. 14, 209-211) 参照。。
[311]
理性的で自由意志を備えている被造物である天使と人間は、自由に選択し愛を優先させることによって究極目的に向かって進まなければなりません。ここで、正道を踏み外すこともありえます。実際、彼らは罪を犯しました。こうして、
道徳的悪が世界に入りましたが、これは物理的悪とは比較にならないほど重大なものです。神は直接にも、間接にも、いかなる意味においても、道徳的悪の原因ではありません
聖アウグスティヌス『自由意志論』(S. Augustinus, De libero arbitrio, 1, 1, 1 : CCL29, 211 [PL32, 1221-1223])、聖トマス・アクイナス『神学大全』 (Summa rzae, 1-2, q. 79, a. 1: Ed. Leon. 7, 76-77)参照。。それにもかかわらず、神は被造物の自由を尊重して、道徳的悪を妨げません。また、神秘としかいえませんが、そこから善を引き出すことがおできになるのです。
「全能の神は……、最高に善であられるので、悪からでも善を引き出すほどに力あるよいかたでなかったとしたら、そのわざのうちに何らの悪の存在もゆるさなかったはずです」聖アウグスティヌス『信仰、希望、愛(エンキリディオン)』 (S. Augustinus, Enchiridion de fide, spees et caritate, 3, 11 : CCL 46. 53 [PL 40, 236])。。
[312]
このように、神がその全能の摂理により、被造物によって作られた悪、たとえそれが道徳的悪であっても、その悪の結果から善を引き出すことがおできになることを、人々は時とともに理解することができるのです。ヨセフは兄弟たちに次のように語っています。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。……あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記45∙8、50∙20)トビト2・12-18(ウルガタ訳)参照。。これまでに行われた最大の道徳的悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。これはあらゆる人間の罪が原因ですが、神は満ちあふれる恵みによってローマ5・20参照。、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。とはいえ、悪が善になるわけではありません。
[313]
「神を愛する者たちには、万事が益となる」(ローマ8∙28)。聖人たちの証言がこの真理を確認し続けています。
たとえば、シエナの聖カタリナは「自分たちに起こることがらにつまずき、反抗する人々」に語っています。「すべては愛から生じます。すべては人間の救いに向けられています。神が行われるのは、ただこの目的のためです」シエナの聖カタリナ『神の摂理についての対話』 (S. Caterina da Siena, II dialogo della Divma Provvidenza 138 : ed. G. Cavallini [Rome 1995] 441)。。
また、聖トマス・モアは殉教を間近にして、娘にこう書いています。「起こることは何であれ、神様のお望みなのだ。ところで、神様が望まれることはすべて、たとえわたしたちには最悪に見えても、最善のものなのだよ」マーガレット・ロウパー『アリシア・アリントンへの書簡(1534年8月)』 Margarett Roper, Epistula ad Aliciam Alington : The Correspondence of Sir Thomas More, ed. E. F. Rogers [Princeton 1947] 531-532。。
ノリッジのジュリアンはこういっています。「神様のお恵みによって学んだことですが、わたしは信仰をしっかり守り、すべてがよくなることを同様に固く信じなければなりません……あなたは、すべてがよくなることが分かるでしょう」ノリッジのジュリアン『神の愛の啓示』 (Julian of Norwich, Revelations of Divine Love 13, 32 : A Book of Showings to the Anchoress Julian of Norwicn, ed. E. Colledge-J. Walsh, vol. 2 [Toronto 1978] 426, 422)。。
[314]
わたしたちは、神が世界と歴史の主宰者であることを固く信じています。しかし、多くの場合、摂理によって敷かれた道を知りません。ただ、道の終わりに至り、完全な知識を得て、「顔と顔を合わせて」(一コリント13∙12)神を見るとき、初めて摂理の道を十分に知ることができます。神はその道を通して、被造物に悪と罪の悲劇を踏み越えさせながら、天地を造られた目的である最終の安息の日創世記2・2参照。の休息へと導いておられるのです。
[315]
神は世界と人間の創造により、ご自分の全能の愛と英知とを最初に普遍的に示し、その「いつくしみ深い計画」を初めて告げられました。この計画の目的は、キリストにおける新しい創造です。
[316]
創造のわざはとくに御父に帰せられますが、父と子と聖霊が創造の唯一の、不可分の根源であることもまた信仰の真理です。
[317]
神だけが世界を自由に、直接に、いかなる助けもなしに創造されました。
[318]
いかなる被造物も、厳密な意味で「創造する」ために要する能力、つまり、かつてまったく存在しなかったものを生じさせ、存在させる(「無から」存在に招く)無限の能力を持ってはいません研学聖省『教令(1914年7月27日)』 (Decretum : DS3624)参照。。
[319]
神はご自分の栄光を現し、また、分かち与えるために世界を創造されました。神がご自分の被造物を創造された目的である栄光とは、被造物が神の真、善、美にあずかることです。
[320]
宇宙を造られた神は、「万物をご自分の力あることばによって」(ヘブライ1∙3)支えておられる御子であるみことばと、いのちを与える創造主である聖霊とを通して、宇宙を存在させ続けておられます。
[321]
神の摂理とは、全被造物を英知と愛をもって究極の目的に導かれる、神のはからいです。
[322]
キリストは、わたしたちの天の御父の摂理に子としての全幅の信頼を寄せるよう、わたしたちを促しておられますマタイ6・26-34参照。。また使徒ペトロも、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5∙7)といって、同じことを勧めています詩編55・23参照。。
[323]
神の摂理は、被造物の行為を通しても働きます。神は人間を、ご自分の計画に自由に協力させてくださいます。
[324]
神が物理的悪や道徳的悪の存在をおゆるしになっているということは神秘であり、神はその神秘を、悪に打ちかつために死んで復活された御子イエス・キリストによって明らかにされました。なぜそうなのかということについては、わたしたちは永遠の生命のうちにおいてしか完全に知ることはできません。もし悪からさえも善を生じさせえないのであれば、神は悪の存在をゆるされなかったでしょう。わたしたちは信仰によって、これを確信しています。
[325]
使徒信条は、神は「天地の創造主」使徒信条(DS30)。であると宣言し、また、ニケア・コンスタンチノープル信条は、「見ゆるもの、見えざるものすべての造り主」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150)。と述べています。
[326]
聖書にある「天と地」という表現は、存在するすべてのもの、全被造界を意味します。それはまた、被造界のうちには、天と地を結ぶと同時に区別する役目をもったきずながあるということも示しています。「地」は人間の世界です詩編115・16参照。。「天」(しばしば複数形が用いられます)は大空を示します詩編19・2参照。が、また同時に、「天の」父である(マタイ5∙16 参照)神の固有な「場」も意味します詩編115・16参照。。したがって、終末的な栄光としての「天」という意味もあるのです。さらに「天」は、神を取り巻く霊的被造物一天使一の「場」も意味しています。
[327]
第4ラテラン公会議の信仰告白は、次のように宣言しています。神は「時の始めから、霊的被造物と物的被造物、天使と地上の世界のそれぞれを無から造られ、次に、精神と肉体の両方を具えた人間を造られました」第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (DS800), 『デイ・フィリウス』第1章(DS3002)、パウルス6世『神の民のクレド』,第8項(loc. cit.,436)参照。。
[328]
物質的ではない、聖書によって通常天使と呼ばれている霊的存在者がいるということは、信仰の真理です。その点、聖書の教えと聖伝とは一致しています。
[329]
聖アウグスチヌスは次のように語っています。「『天使』とは、本性ではなく役目を指していることばです。それでは、その本性を何と呼ぶのですか、とあなたは問うでしょう。その答えは霊です。役目は、と問われれば、天使と答えます。何であるのかといえば、それは霊で、何をするのかというのであれば、それは天使なのです」聖アウグスティヌス『詩編講解』 (S. Augustinus, Enarratio in Psalmum 103, 1, 15 : CCL 40, 1488 [PL 37, 1348-1349])。。天使は全存在をあげて神に仕える者、神の使者です。天使たちは「いつもわたし〔イエス〕の天の父のみ顔を仰いでいる」(マタイ18∙10)ので、「主の語られる声を聞き、みことばを成し遂げるもの」(詩編103∙20)なのです。
[330]
天使は純粋に霊的な被造物として、知性と意志を備えています。「わたし」という個でありピウス12世回勅『フマーニ・ジェネリス』 (Humani generis : DS3891)参照。、不死ルカ20・36参照。の被造物です。さらに、その完全さは目に見える全被造物を凌駕します。天使たちの栄光の輝きがそのことを示していますダニエル10・9-12参照。。
[331]
キリストは天使界の中心です。「人の子〔が〕栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき」(マタイ25∙31)とあるとおり、天使たちはキリストのものです。天使たちがキリストのものであるのは、キリストによって、キリストのために造られたからです。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1∙16)。天使たちが何よりもキリストのものであるのは、キリストによって救いの計画の使者とされたからです。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ1∙14)。
[332]
天使は世界創造のときからヨブ38・7参照(ここでは天使たちが「神の子ら」と呼ばれている)。、救いの歴史を通して、この救いを何らかの形で告げ、神の計画の実現に奉仕しました。たとえば、天使は地上の楽園を閉ざし創世記3・24参照。、ロトを守り創世記19章参照。、ハガルとその子を救い創世記21・17参照。、アブラハムの手を止め創世記22・11参照。、律法は天使の働きを通して伝えられ使徒言行録7・53参照。、さらに天使は、神の民を導き出エジプト23・20-23参照。、誕生や士師記13章参照。召し出しを告げ士師記6・11-24、イザヤ6・6参照。、預言者たちを助け列王記上19・5参照。ました。これらは、天使の働きのうちの幾つかにすぎません。最後に、天使ガブリエルは、イエスの先駆者である洗礼者ヨハネの誕生と、イエスの誕生を告げていますルカ1・11,26参照。。
[333]
人となられたみことばの生涯は、その受肉から昇天まで、天使たちの礼拝と奉仕に囲まれています。神は「その長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』といわれました」(ヘブライ1∙6)。キリストが誕生したときの天使たちの賛歌は、教会の賛歌の中にたえずこだましています。「いと高きところには栄光、神にあれ……」(ルカ2∙14)。天使は幼子イエスを守りマタイ1・20,2・13,19参照。、荒れ野で仕えマルコ1・13、マタイ4・11参照。、また、かつてのイスラエルのように2マカバイ10・29-30,11・8参照。彼らを通して敵の手から救われることができたにもかかわらずマタイ26・53参照。、死の苦悶の中にあるイエスを力づけましたルカ22・43参照。。キリストの受肉ルカ2・8-14参照。と復活マルコ16・5-7参照。の喜ばしい知らせを告げるのも、また天使ですルカ2・10参照。。天使はキリストの再臨のときにこれを告げ使徒言行録1・10-11参照。、審判の席にはべるはずですマタイ13・41,24・31、ルカ12・8-9参照。。
[334]
すべての教会生活が、天使たちの神秘的で強力な助けの恩恵に浴します使徒言行録5・18-20,8・26-29,10・3-8,12・6-11,27・23-25参照。。
[335]
典礼で、教会は天使たちと声を合わせ、三回「聖なるかな」を歌って神を礼拝します『ローマ・ミサ典礼書』 「感謝の賛歌」 (Sanctus)参照。。教会は天使の助けを呼び求めます(たとえば、死者の典礼の天使たちがあなたを天国に導き……の祈り『葬儀(親範版)』50 (Ordo exsequiarum, editio typica [Typis Polyglottis Vati canis 1969] 23)。や、ビザンチン典礼の『ケルビム賛歌』ビザンチン典礼(聖ヨアンネス・クリュソストモス典礼) 「ケルビム賛歌」 (Liturgies Eastern and Western, ed. F. E. Brightman [Oxford 1896] 377)。の中などで)。教会は、特定の天使たち(聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル、守護の天使)の祝日を祝います。
[336]
人間は生まれてからマタイ18・10参照。死ぬときまでルカ16・22参照。、天使たちの保護と詩編34・8,91・10-13参照。執り成しヨブ33・23-24、ゼカリヤ1・12、トビト12・12参照。を受けています。「おのおのの信者はいわばそれぞれの保護者や牧者のような天使に付き添われ、いのちに導かれます」聖バジリオ『エウノミウス駁論』(S. Basilius Magnus, Adversus Eunomium 3, 1: SC 305, 148 [PG 29, 656])。。キリスト者はすでにこの世にいるときから、信仰によって、神と一つに結ばれた天使たちや人々との至福な交わりにあずかっているのです。
[337]
豊かで、多様な、秩序ある見える世界を造られたのは、神ご自身です。聖書は創造主のわざを、七日目の「安息」で完成される六日間の神の「仕事」として象徴的に述べています創世記1・1-2,4参照。。創造に関しては、聖書は神がわたしたちの救いのために啓示された教えを述べていますが 『神の啓示に関する教義憲章』,第11項参照。、その教えにより、わたしたちは「すべての被造物の深遠な本性・価値・神の賛美への方向づけを認め」第2バチカン公会議『教会憲章』,第36項(Lumen gentium)。ることができるのです。
[338]
自分の存在を創造主である神に負わないものは、何一つ存在しません。世界は、神のことばによって無から造られたときに始まりました。ありとあらゆるもの、自然界のすべて、人間の全歴史はこの原初の出来事に基づいています。それが、世界と時間の始まりです聖アウグスティヌス『マニ教徒に対する創世記論』 (S. Augustinus, De Genesi contra Manichaeos, 1, 2, 4 : PL 36, 175)参照。。
[339]
それぞれの被造物は固有の善と完全さを備えています。「六日」のわざのおのおのについて「神はこれを見て、よしとされた」と述べられています。「万物は、造られたものであるという条件そのものによって、それぞれの安定、真理、善、固有の法則、秩序を賦与されています」『現代世界憲章』,第36項。。神は一つ一つが独自の存在であることを望まれました。したがって、異なる被造物は、それぞれのしかたで、神の無限の英知と善の一面を反映しています。そのため、人間は各被造物に固有の善を尊重して、事物の濫用を避けなければならないのです。濫用は創造主を軽んじ、人間とその環境に害をもたらします。
[340]
神は被造物間の相互依存をお定めになりました。太陽と月、ヒマラヤスギと小さな草花、わしとすずめなどのような数え切れない相違点を持つものが存在するということは、いかなる被造物も自らだけでは存続していけないということを教えてくれます。これらは相互に依存して相補い、互いの役に立っています。
[341]
宇宙の美。造られた世界の秩序と調和は、存在するさまざまなものの多様性と相互関係によって生じたものです。人間はこれらの関係を、自然の法則として徐々に発見していきます。これらは科学者たちの驚嘆の念を駆り立てます。被造界の美は創造主の無限の美を反映しますが、人間の知性と意志に畏敬と服従の念を抱かせずにはおきません。
[342]
被造物間の順位は、不完全なものからより完全なものへと進む「六日」にわたる創造のわざの順序によって表されています。神はすべての被造物を愛し詩編145・9参照。、おのおのに、すずめにさえ心を配られます。イエスのことばによれば、「あなたがた〔人間〕は、たくさんのすずめよりもはるかにまさって」(ルカ12∙7)おり、「人間は羊よりもはるかに大切なもの」(マタイ12∙12)なのです。
[343]
人間は創造のわざの頂点です。霊感によって書かれた創世記の物語はこれを表すため、人間の創造を他の被造物のそれと明確に区別しています創世記1・26参照。。
[344]
あらゆる被造物は同じ創造主を持ち、その栄光に向けられているので、
相互の間には連帯があります。
「主よ、すべての被造物の中で、あなたはたたえられますように、
とくに兄弟である太陽によって。
あなたはその太陽によって、わたしたちに昼は光をお与えになります。
太陽はその大いなる輝きから光を投げかけて美しく
いと高きあなたの象徴をわたしたちに贈ります。……
わたしの主よ、姉妹である水のゆえに、あなたはたたえられますように。
水は大いに役立ち、まことに謙虚で
貴重で、清らかです。……
わたしの主よ、姉妹である母なる大地のゆえに、あなたはたたえられますように。
大地はわたしたちを抱き、養い
色とりどりの花々と草々を生み出し
さまざまな果実を実らせます。……
わたしの主をほめたたえよ。
深くへりくだって
主に感謝し、仕えよ」アシジの聖フランシスコ『兄弟なる太陽の歌』 (S. Franciscus Assisiensis, Canticum Fratris Solis : (Opuscula sancti Patris Francisci Assisiensis, ed. C. Esser [Grottaferrata 1978] 84-86)。。
[345]
「六日」にわたるわざの終わりである安息日。聖書によれば、「第七の日に、神はご自分の仕事を完成されました」。こうして「天地万物は完成され」、神は第七の日に「仕事を離れて」、その日を祝福し、聖別なさいました(創世記2∙1-3)。霊感によるこれらのことばは有益な教えに富んでいます。
[346]
創造の際、神は安定した土台と法則を設けられましたヘブライ4・3-4参照。。これらは、信仰者が信頼をもって寄り頼むことのできるもの、また神の契約の揺るがない忠実さのしるし、保証となりますエレミヤ31・35-37,33・19-26参照。。他方、人間はこの土台に忠実にとどまり、創造主がこれに刻まれた法則を尊重しなければなりません。
[347]
被造物は安息日のため、したがって、神の崇敬と礼拝のために造られました。被造物の秩序には神への礼拝が刻み込まれています創世記1・14参照。。「何ものも神の礼拝に優先させてはならない」聖ベネディクト『会則』 (S. Benedictus, Regula, 43, 3: CSEL 75, 106 [PL 66, 675])。と聖ベネディクトの修道会則は述べ、人間の関心事の正しい順序を示しています。
[348]
安息日はイスラエルの律法の中核をなすものです。おきてを守るとは、創造のわざのうちに表された神の英知とみ旨に従うことにほかなりません。
[349]
八日目。しかし、わたしたちにとっては新しい一日が加わりました。キリストの復活の日です。七日目で第一の創造が完了します。そして八日目に、新しい創造が開始されるのです。創造のわざは偉大なあがないのわざによってその頂点に達しますが、第一の創造はその意味と頂点をキリストによる新しい創造のうちに見いだします。この新しい創造のすばらしさは、第一の創造をはるかに超えるものです『ローマ・ミサ典礼書』復活徹夜祭の第1朗読後の祈願参照。。
[350]
天使は、たえず神の栄光をたたえて他の被造物に対する救いの計画に奉仕する、霊的被造物です。「天使は、わたしたちに益するすべてのことに協力します」聖トマス・アクイナス『神学大全』 (Sum 2, 1, 114,3, ad3:Ed. Leon. 5, 535)。。
[351]
天使は、主であるキリストを取り囲んでいます。とくに、人間救済の使命がまっとうされるよう、キリストに仕えます。
[352]
教会は天使たちを崇敬します。天使たちは、この世で旅する教会を助け、すべての人間を守ります。
[353]
神は被造物の多様性、それぞれに固有な善、相互依存、秩序をお定めになりました。物的被造物のすべては、人類の益になるように定められています。人間、また人間を通して全被造物は、神の栄光のために存在しています。
[354]
被造物のうちに刻まれた法則と事物の本性に由来する相互関係とを尊重することは、英知の原理であり、道徳の基礎です。
[355]
「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1∙27)。人間は被造物の中で比類のない地位を占めています。というのは、(1)「神にかたどって」造られ、(2)その独自の本性の中に、霊的世界と物質的世界とが一つになっており、(3)「男と女」に造られ、(4)神との親しい交わりにあずかれるようにしていただいているからです。
[356]
見えるすべての被造物の間で、ただ人間だけが「創造主である神を知り愛することができます」
『現代世界憲章』,第12項。。人間は、「神が⸺そのもの自体のために望んだ⸺地上における唯一の被造物です」
『現代世界憲章』,第24項。。人間だけが知と愛によって神のいのちにあずかるよう招かれています。人間はこの目的のために造られましたが、まさに、そこにこそ、人間の尊厳の基本的根拠があるのです。
「何が原因で、あなたは人間にこれほど大きな尊厳をお与えになったのでしょうか。それは、はかりしれない愛にほかなりません。その愛をもって、あなたはお造りになったものをご自分のうちに眺め、その愛のとりことなられました。実際、あなたが人間を造られたのは愛によってであり、また、人間をあなたの終わりない善を味わいうる存在になさったのも、愛によってです」シエナの聖カタリナ『神の摂理についての対話』 (op. cit., 43)。。
[357]
人間一人ひとりは神にかたどられているので、ペルソナとしての尊厳が備わっており、単なる物ではなく、人格なのです。人間は自分を知り、自分を所有し、自分を自由に与え、他の人々と親しく交わることができます。また、人間は恵みによって創造主と契約を結び、自分に代わってだれも行うことのできない信仰と愛をもって神に応答するように召されています。
[358]
神は万物を人間のために創造なさいました
『現代世界憲章』,第12項,第24項,第39項参照。。そして人間は、神に仕え、神を愛し、被造物のすべてを神にささげるために造られました。
「このような配慮に包まれて存在し始めるものは、一体何者なのでしょうか。人間です。人間は、神の御目には他のすべての被造物にまさって貴重な、偉大で感嘆すべき生きものです。天も地も海も、ありとあらゆる被造物が存在するのは人間のためです。神はこの人間の救いを最重要視されたので、人間のために御ひとり子さえ惜しまなかったほどです。実際、神は人間をご自分のもとに上げ、右の座に着かせようと、いつもあらゆる手段をとられたのです」聖ヨアンネス・クリュソストモス『創世記講話……』 (S. Ioannes Chrysostomus, Sermones in Genesim, 2, 1 : PG 54, 587-588)。。
[359]
「実際、人間の神秘は肉となられたみことばの神秘においてでなければほんとうに明らかにはなりません」
『現代世界憲章』,第22項。。
「聖パウロの教えによれば、人類の起源には二人の人がいます。アダムとキリストです……。聖パウロによれば、最初のアダムはいのちを受けた人間として造られましたが、最後のアダムはいのちを与える霊的存在です。最初のアダムは最後のアダムによって造られ、そのかたから霊魂を受け、それによって生きています……。第二のアダムは第一のアダムを造りながら、ご自分の像を刻みました。ですから、第二のアダムは第一のアダムの役割を担い、その名を受け取りました。それはご自分にかたどってお造りになったものが滅びてしまわないようにするためでした。第一のアダムと第二のアダム、前者には始まりがありますが、後者には終わりがありません。本当は、第二のかたが第一なのです。第二のかたご自身、『わたしは最初の者にして、最後の者である』とおおせになっているとおりです」聖ペトルス・クリソロゴス『説教』 (S. Petrus Chrysologus, Sermones 117, 1-2 : CCL 24A, 709 [PL 52, 520])。。
[360]
起源が共通なので、
人類は一つです。実際、神は「一人の人からすべての民族を造り出されました」(使徒言行録17∙26)
トビト8・6参照。。
「人類は神において起源を一にするとは、何というすばらしい世界観でしょう。……人類の本性は一つです。すなわち、肉体と不滅の霊魂とによって成り立っています。世界における直接の目的と使命は一つです。住まいも一つ、すなわちこの大地です。すべての人間は自然法によって地の実りを利用し、いのちを養い、発達させることができます。超自然の目的も一つ、神ご自身で、人間はすべて神に向かわなければなりません。この目的に達する手段も一つです。……キリストによって行われた贖罪のわざでも一つに結ばれています。」ピウス12世回勅『スムミ・ポンティフィカツス』 (Summi Pontificatus : AAS 31 [1939] 427)。第2バチカン公会議『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』,第1項(Nostra aetate)参照。
[361]
「人類の連帯と愛」というこの法則ピウス12世『スムミ・ポンティフィカツス』 (loc. cit., 426)。は、個々人、文化、民族の豊かな多様性を排除することなく、人間は皆、真に兄弟姉妹であることをわたしたちに保証しています。
[362]
神にかたどって造られた人間は、肉体的であると同時に霊的です。聖書の物語はこの事実を象徴的なことばでこういい表しています。「主なる神は土のちりで人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2∙7)。したがって、人間のすべては神の意志のとおりにできたものです。
[363]
聖書がいう魂とは、しばしば人間のいのちマタイ16・25-26、ヨハネ15・13参照。、あるいは人間のペルソナ全体を示します使徒言行録2・41参照。。しかしまた、人間の内部のもっとも奥深いものマタイ26・38、ヨハネ12・27参照。、もっとも大事なものマタイ10・28、2マカバイ6・30参照。、すなわち、人間を特別に神の似姿にするものをも指しています。つまり、「霊魂」は人間の中の霊的原理を意味します。
[364]
人間の
肉体は、「神の似姿」の尊厳にあずかります。それが人間の肉体であるのは、まさに、霊魂によって生かされているからです。人間の全体がキリストのからだに結ばれ、聖霊の神殿となるように召されています
1コリント6・19-20,15・44-45参照。。
「肉体と霊魂が一つになっている人間は、肉体的な状況のもとでは物質界の諸要素を自己の中に集約しています。その結果、物質界は人間を通してその頂点に達し、人間を通して創造主の賛美を自由に歌いあげるのです。したがって肉体の生活を軽蔑することはゆるされません。反対に肉体は神によって造られ、最後の日に復活するものですから、善なるもの、栄誉に値するものとして取り扱わなければなりません」『現代世界憲章』,第14項。。
[365]
霊魂と肉体とは根底から結びついているので、霊魂を肉体の「形相」というべきですウィーン公会議(1312年)憲章『カトリックの信仰』 (Fidei catholicae : DS902)参照。。すなわち、物質から成る肉体は霊魂のおかげで、生きた人間のからだとなっているのです。人間のうちなる精神と物質とは結合した二つの本性ではなく、この結合によってただ一つの本性が形成されています。
[366]
教会の教えによれば、各霊魂は直接神によって創造されたものであってピウス12世『フマーニ・ジェネリス』 (DS3896)、パウルス6世『神の民のクレド』,第8項(loc. cit., 436)参照。、親から「作られた」ものではありません。教会はまた、霊魂は不滅であると教えています第5ラテラノ公会議(1513年)大勅書『アポストリチ・レジミニス』 (Apostolici regiminis : DS1440)参照。。霊魂は死のときに肉体から分離しますが、消滅することなく、最後の復活のときに、再び肉体と結ばれます。
[367]
ときとして、魂は霊と区別されることがあります。たとえば聖パウロは、「主が来られるとき」、わたしたちの「霊も魂もからだも何一つ欠けたところのない」「非のうちどころのないものとして」保たれるようにと祈っています(一テサロニケ5∙23)。教会の教えでは、この区別は霊魂の中に二つのものを認めるということではありません第4コンスタンティノポリス公会議(870年) 「規定」11(DS657)参照。。「霊」は人間が創造のとき以来、超自然的目的に向けられ『デイ・フィリウス』第2章(DS3005)、『現代世界憲章』,第22項参照。、その魂は無償で神との交わりに高められることができることを意味していますピウス12世『フマーニ・ジェネリス』 (DS3891)参照。。
[368]
霊性についての教会の伝統は心を強調しますが、その心とは聖書的な意味での「人間のもっとも深いところ」(エレミヤ31∙33 参照)を意味しており、それによって人は神を受け入れるか拒否するかを決定することになるのです申命記6・5,29・3、イザヤ29・13,エゼキエル36・26、マタイ6・21,ルカ8・15、ローマ5・5参照。。
[369]
男と女は神によって創造されました。すなわち、神は、お望みにより、男と女が、一方では人格として完全に平等であり、他方では男と女という違いを持つものとして造られました。「男であること」「女であること」は神が望まれたよいことです。男にも女にも譲りえない尊厳があり、その尊厳は創造主である神に直接由来します創世記2・7,22参照。。男と女は、同じ尊厳を備えた「神の似姿」です。「男として」、また「女として」、両者とも創造主の英知と善を反映します。
[370]
神を決して男性のイメージで受けとめてはなりません。神は男でも女でもありません。神は純粋な霊で、そのうちに性別はありません。しかし、男と女の「美点」、たとえば、母親イザヤ49・14-15,66・13、詩編131・2-3参照。、父親、夫婦のそれホセア11・1-4、エレミヤ3・4-19参照。は、神の無限の完全さのある側面を反映するものです。
[371]
神は、ともに造られた男と女とが相互のために生きるように望まれました。聖書のさまざまな表現を通して、神のことばがこのことを理解させてくれます。「人がひとりでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2∙18)。いかなる動物も、人にとってこのような「相手」になることはできません創世記2・19-20参照。。神が男から抜き取ったあばら骨で女を「造り上げ」、男のところへ連れて来られると、男は感嘆の叫び、愛と共感の叫びをあげました。「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2∙23)。男は、女が同じ人間であるもう一人の「自分」であることを発見するのです。
[372]
男と女は「相互のために」造られました。しかし神は男と女を「半分半分の人間」、あるいは「不完全な人間」として造られたのではありません。神が男と女を造られたのは相互の交わりのため、お互いが相手の「助け手」となるためです。両者は人間としては平等であり(「わたしの骨の骨……」)、男性、女性としては補い合うものですヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『女性の尊厳と使命』7 (Mulieris dignitatem : AAS 80 [1988] 1664-1665)参照。。結婚で神は両者を結び合わせ、両者が「一体となって」(創世記2∙24)、人間のいのちを伝えることができるようになさいます。「産めよ、増えよ、地に満ちよ……」(創世記1∙28)。子孫に人間のいのちを伝えることにより、男と女は、夫婦として、親として、独自に創造主のわざに協力します『現代世界憲章』,第50項参照。。
[373]
神の意図によれば、男と女は、神の「協力者」として地を従わせる使命創世記1・28参照。を持っています。この支配権は、横暴で破壊的なものであってはなりません。「存在するものすべてを愛される」(知恵11∙24)創造主にならって、男と女は、他の被造物に対する摂理に参与するように招かれています。したがって、神が自分たちにおゆだねになった世界に対する責任を負っています。
[374]
最初の人間は、ただよいものとして創造されただけではなく、創造主との親しい交わり、自分自身、また周囲の被造物との調和のうちに置かれていました。これ以上に優れたものは、ただキリストによる新しい創造の栄光だけです。
[375]
教会は、聖書の象徴的なことばを新約聖書と聖伝とに照らし合わせて権威をもって解釈し、人祖アダムとエバは原初の義と聖性トリエント公会議第5総会『原罪についての教令』1(Decretum de peccato originali : DS1511)参照。の状態にあったことを教えています。この原初の聖性の恵みとは、神のいのちへの参与『教会憲章』,第2項参照。でした。
[376]
この優れた恵みのおかげで、人間は生活のあらゆる面で支えられていました。神との親しい交わりにとどまっていさえすれば、人間は死ぬことも創世記2・17,3・19参照。苦しむことも創世記3・16参照。なかったはずです。人間の内的調和、男と女との調和創世記2・25参照。、そして人祖とすべての被造物との間の調和の状態は、「原初の義」と呼ばれています。
[377]
神が当初から人間にお与えになった世界の「支配」は、何よりも先に、ほかならぬ人間自体の中で自己支配の形で実現されていました。人間はその存在の全体にわたって完壁であり、秩序を保っていました。というのも、感覚的快楽、この世の富の所有欲、理性の命令に反する自己主張の三つの欲1ヨハネ2・16参照。に捕らえられていなかったからです。
[378]
神との親密さのしるしは、神が人間を園に置かれたことにあります創世記2・8参照。。そこで人間は「耕し、守る」(創世記2∙15)ために暮らします。この仕事は苦しみではなく創世記3・17-19参照。、男と女が神に協力して見える被造界を完成させるという仕事でした。
[379]
神の計画によって人間のために備えられた原初の義によるこの調和全体が、やがて人祖の罪によって失われることになります。
[380]
神よ、「あなたはご自分にかたどって人を造り、造り主であるあなたに仕え、造られたものをすべて支配するよう、全世界を人の手におゆだねになりました」『ローマ・ミサ典礼書』第4奉献文。。
[381]
人間は、人となられた⸺「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)である一神の御子の似姿を写し出すように前もって定められています。それはキリストが多くの兄弟姉妹の長子となるためですエフェソ1・3-6、ローマ8・29参照。。
[382]
人間は「肉体と霊魂から成っている一つの存在者」『現代世界憲章』,第14項。です。信仰の教えによれば、不滅の霊魂は神によって直接に創造されます。
[383]
「神は人間を孤独なものとして造られたのではありません。神は最初から『人間を男と女に造られた』(創世記1∙27)のであり、彼らの共同生活は人格的交わりの最初の形態です」『現代世界憲章』,第12項。。
[384]
啓示はわたしたちに、堕罪以前の男と女の原初の義と聖性の状態とを教えています。楽園での男女の生活の至福は、神との親しい交わりに由来するものでした。
[385]
神は無限に善であり、そのすべてのわざはよいものです。ところが、苦しみや自然界の災害⸺被造物固有の限界に付随するものと思われる悪⸺を経験しない者、とくに道徳的悪の問題を抱えていない者はだれもありません。悪はどこから来るのでしょうか。「わたしは悪の由来を探しましたが、答えを得られませんでした」聖アウグスティヌス『告白録』 (Confessiones 7, 7, 11: CCL 27. 99 [PL32, 739])。と聖アウグスチヌスは述懐しています。そして、この悲痛な探求が解決を見たのは、ただ生ける神への回心によってでした。「不法の秘密〔悪の神秘〕」(二テサロニケ2∙7)は信心の秘められた真理 1テモテ3・16参照。に照らして、初めて明らかになります。キリストにおける神の愛の啓示は、悪の広がりと同時に、恵みの満ちあふれる豊かさを明らかにしましたローマ5・20参照。。したがって、悪の起源の問題を考察するにあたっては、悪に対する勝利者であるただ一人のかた、すなわち、キリストに信仰の目を注がなければなりませんルカ11・21-22、ヨハネ16・11、1ヨハネ3・8参照。。
[386]
罪は人間の歴史に現れています。それを無視し、この暗い現実に他の名を与えようとするのはむだなことです。罪とは何かを理解するためには、まず、人間が神に結ばれている深いきずなを認める必要があります。この関係を抜きにしては、人間の生活と歴史につねに重くのしかかっている罪の悪の正体が暴かれることはありません。なぜなら、罪とは、神を拒絶し、神に反対することにほかならないからです。
[387]
罪の現実、わけても原罪の現実は、神の啓示に照らしてしか明らかにされません。啓示が神についてわたしたちに与える知識なしには、罪を明確に認めることはできず、罪を単なる未成熟さ、心理的弱さ、間違い、不適切な社会構造の必然的結果などとみなしがちです。神は、人間がご自分を愛し、また人間相互が愛し合うために自由意志をお与えになりました。人間に対する神のこの意図を知って初めて、罪は与えられた自由の濫用であることが理解されてくるのです。
[388]
啓示の漸進的な進展とともに、罪の現実も明らかにされました。旧約時代の神の民は、人間の境遇の苦の問題を創世記の中で語られている堕罪の出来事に照らして理解しようとしましたが、この物語の究極の意味を把握することはできませんでした。それはただ、イエス・キリストの死と復活に照らしてのみ明らかにされますローマ5・12-21参照。。アダムを罪の源と認めるには、恵みの泉としてのキリストを知らなければなりません。復活したキリストによって遣わされた弁護者である聖霊は、罪をあがなうかたを啓示して、「罪について〔の〕世の誤り」(ヨハネ16∙8)を明らかにするために来られたのです。
[389]
原罪についての教えは、イエスがすべての人の救い主で、すべての人は救いを必要とし、その救いはキリストのおかげですべての人に差し出されているという福音の、いわば「裏」にあるものです。キリストの思い1コリント2・16参照。を持つ教会は、原罪の啓示に異を唱えるならば、キリストの神秘が傷つけられてしまうことを知っています。
[390]
堕罪の物語(創世記3章参照)は比喩的なことばを用いていますが、原初の出来事、すなわち、人間の歴史の初めに起こった出来事を明言しています『現代世界憲章』,第13項参照。。人間の全歴史が、人祖の自由意志に基づいて犯された原初の過ちの影響を受けているということは、信じなければならない確かなことである、と啓示は教えていますトリエント公会議第5総会『原罪についての教令』3(DS1513)、ピウス12世『フマーニ・ジェネリス』 (DS3897) 、パウルス6世「原罪に関して開催された神学者と研究者による(シンポジオ〉と呼ばれる大会の参加者へのあいさつ(1966年7月11日)」 (AAS 58 [1966] 649-655)参照。。
[391]
人祖の不従順な選択の背後には、神に反対する誘惑者の声があります創世記3・1-5参照。。この誘惑者は、羨望から人祖を死に追いやります知恵2・24参照。。聖書と聖伝とは、この者はサタンまたは悪魔と呼ばれる堕天使であると見ていますヨハネ8・44、黙示録12・9参照。。教会の教えによれば、サタンは初め、神に造られたよい天使でした。「悪魔、およびその他の悪霊も、本性上はよいものとして神に造られましたが、自ら悪となりました」第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (DS800)。。
[392]
聖書はこの天使たちの罪について述べています2ペトロ2・4参照。。この「堕罪」は、被造の霊が自由な選択によって、神とその支配を徹底的に、また撤回できない方法で拒絶したことにあります。天使たちのこの反抗は、「神のようになる」(創世記3∙5)という人祖を誘惑した者のことばにうかがい知ることができます。「悪魔は初めから罪を犯している」(一ヨハネ3∙8)し、「偽り者であり、その父だから」(ヨハネ8∙44)です。
[393]
神の無量の慈悲に欠けるところがあるからではなく、天使たちの選択が撤回できないものであることこそ、その罪をゆるされえないものにします。「死後の人間に悔い改めの余地がないのと同様に、堕罪の後の天使たちには悔い改めの余地はありません」ダマスコの聖ヨハネ『信仰の解明』 (S. Ioannes Damascenus, Expositio fidei 18 [De fide orthodoxa 2, 4] : PTS 12, 50 [PG 94, 877])。。
[394]
聖書は、「最初からの人殺し」(ヨハネ8∙44)とイエスから呼ばれ、御父から受けた使命に背かせようとあえてイエスさえも試みた者の、有害な影響を明らかにしていますマタイ4・1-11参照。。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(一ヨハネ3∙8)。サタンのわざのうちでもっとも重大な結果をもたらしたものは、人間を神に背かせた欺瞞の誘惑でした。
[395]
とはいえ、サタンの力は無限ではありません。被造物にすぎないのです。純粋霊なので強力ではあっても、被造物であることに変わりはありません。神の国の建設を妨げることはできないのです。サタンは世にあって、憎悪により神とイエス・キリストによるみ国に抵抗し、その行動は人間各自と社会に⸺霊的に、間接的には身体的にも⸺重大な損害を与えはしますが、人間と世界の歴史を力と優しさをもって導いておられる神は、その摂理に基づいてそれをゆるしておられます。神が悪魔の行動を妨げておられないのは深い神秘ですが、「神を愛する者たちには、万事が益となるようにともに働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8∙28)。
[396]
神は人間をご自分にかたどって造り、親しい交わりを結ばれました。霊的被造物として、人間がこの親しい交わりを生きることができるのは、ただ、神に自由に服従することによってです。これを表しているのが、善悪の知識の木からは決して食べてはならない、という禁止です。「食べると必ず死んでしまう」(創世記2∙17)と、神はいっておられます。「善悪の知識」(創世記2∙17)の木は、被造物としての人間が信頼をもって自由に認め、尊重しなければならない超えがたい限界を、象徴的に表しています。人間は創造主に従属します。創造の法則と、自由意志の行使を規制する道徳的規範とに従うべきなのです。
[397]
悪魔に誘惑された人間は創造主への信頼を心の中で失い創世記3・1-11参照。、自由意志を濫用して神のおきてに背きました。これが、人間の最初の罪ですローマ5・19参照。。その後のすべての罪は神への不従順、神のいつくしみへの信頼の欠如なのです。
[398]
この罪で、人間は自分自身を神に優先させ、まさにそのことによって、神を軽んじました。すなわち、人間は神に逆らい、被造物として要求されることに逆らい、したがって、自分自身の善に反して、自我を優先させたのです。聖性の状態に置かれた人間は、神によって栄光のうちに完全に「神化される」はずでした。しかし、人間は悪魔の誘惑に従って、「神なしに、神に先だち、神に従わずに」証聖者聖マクシモス『アンビグア』 (S. Maximus Confessor, Ambiguorum liber : PG 91, 1156)。、「神のようになろう」創世記3・5参照。としました。
[399]
聖書は、この最初の不従順の悲劇的な結末を示しています。アダムとエバは直ちに原初の聖性の恵みを失いましたローマ3・23参照。。二人は、神が自分の特権だけを守ることに執着しておられるのだと誤解して創世記3・9-10参照。、神を恐れます創世記3・5参照。。
[400]
原初の義のおかげで維持されていた調和は破れ、肉体に対する霊魂の制御力は弱められました創世記3・7参照。。男と女の緊密な交わりには摩擦が生じ創世記3・11-13参照。、両者の関係は欲望と支配に左右されます創世記3・16参照。。被造界との調和も断ち切られ、見える被造界は人間にとってなじみのない、敵意あるものとなってしまいました創世記3・17,19参照。。人間の罪のゆえに、被造界は腐敗に隷属するようになりますローマ8・20参照。。ついに、不従順の場合はこうなると明白に告げられた結末、すなわち、人間はそこから取られたちりに返るということが創世記3・19参照。現実のものとなります創世記2・17参照。。つまり、死が人類の歴史の中に入りますローマ5・12参照。。
[401]
この最初の罪以来、罪が世界中に「蔓延」します。カインによるアベルの兄弟殺し
創世記4・3-15参照。、罪に基づく全世界的な堕落
創世記6・5,12、ローマ1・18-32参照。などを挙げることができますが、イスラエルの歴史の中でも、罪は頻繁に、とくに契約の神への不忠実、モーセの律法に対する違反として現れ、キリストのあがないのわざの後でも、キリスト者の間で、数限りもなく現れています
1コリント1章〜6章、黙示録2章〜3章参照。。聖書と伝承は、
人類史に見られる罪の存在と
普遍的広がりをたえず述べてやみません。
「神の啓示によって知らされるこれらのことは、人間の経験と一致します。すなわち、人間は自分の内心をふり返ってみれば、自分が悪に傾いていて、多種多様の悪の中に沈んでいることを発見します。それらの悪が、人間をつくった善なる神から来ることはありません。人間はしばしば神を自分の根源として認めることを拒否し、また自分の究極目的への秩序づけを壊し、自分自身と他人と全造物界とに対する調和を乱しました」 『現代世界憲章』,第13項。。
[402]
すべての人間はアダムの罪に巻き込まれています。聖パウロはこう断言しました。「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされた」(ローマ5∙19)、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5∙12)と。罪と死の普遍性に対して、使徒パウロはキリストによる救いの普遍性を説きます。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされていのちを得ることになったのです」(ローマ5∙18)。
[403]
教会は、聖パウロに続いて、つねに次のように教えてきました。人間を抑圧するはかりしれない悲惨と、人間の悪への傾き、死すべき運命の由来は、アダムの罪およびアダムがわたしたちすべてに罪を伝えたという事実との関連なしには理解できません。その罪とは、人が生まれながらに担っている罪、すなわち「霊魂の死」トリエント公会議第5総会『原罪についての教令』2(DS1512)参照。です。信仰に基づくこの確信によって、教会は、自分で罪を犯したことのない幼児にさえ、罪がゆるされるために洗礼を授けます同4(DS1514)参照。。
[404]
アダムの罪がどのようにしてすべての子孫の罪となったのでしょうか。人類全体はアダムのうちに、「ただひとりの人間の一つのからだのように」聖トマス・アクイナス『悪について』 (S. Thomas Aquinas, Questiones disputatae de malo, 4, 1, c.: Ed. Leon. 23, 105)。存在しているのです。この「人類はただ一つ」であることにより、すべての人間は、キリストの義に結ばれているのと同じように、アダムの罪に巻き込まれています。とはいえ、原罪が子孫に伝わっていくということは、わたしたちには十分に理解できない神秘です。しかし、わたしたちは、アダムが初の聖性と義を自分一人のためだけではなく、すべての人間のために受けたことを、啓示によって知っています。誘惑者に負けたアダムとエバは個人としての罪を犯しましたが、この罪は人間本性を傷つけ、その本性が堕罪の状態で子孫に伝わりますトリエント公会議第5総会『原罪についての教令』1-2(DS1511〜DS1512)参照。。この罪は生殖によってすべての人間に伝えられますが、それは、原初の義と聖性とを失った人間の本性が伝達されるということになります。このため、原罪は類比的な意味で「罪」と呼ばれているのです。それは「うつされた」罪であって犯した罪ではなく、状態であって行為ではありません。
[405]
原罪は、一人ひとりのものであるにもかかわらず同3(DS1513)参照。、アダムの子孫であるだれにとっても、その人が犯した過ちではありません。原罪は原初の義と聖性の欠如です。しかし、原罪によって人間本性が全面的に腐敗したわけではありません。人間本性の本来の固有な能力は傷つき、無知と苦と死に支配されるままになり、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。洗礼は、キリストの恵みのいのちを与えて原罪をぬぐい去り、人間を神に向けさせます。しかし、人間の本性を弱め、悪への傾きを持たせた原罪の影響は人間のうちに依然として存在し、霊的戦いを促します。
[406]
原罪が全人類に伝わるという教会の教えが明確にされたのは、とくに5世紀において、わけてもペラギウス説に対する聖アウグスチヌスの省察によってでしたが、さらに16世紀にプロテスタントの宗教改革に対抗した形でもなされました。ペラギウスは、人間は自由意志の自然の力によって、神の恵みの必要な助けなしに、道徳的によい生活を送ることができると主張しました。つまりペラギウスは、アダムの罪の影響を単なる悪い模範の影響にすぎないと考えました。逆に、初期のプロテスタント宗教改革者たちは、最初の罪によって人間は根底から堕落し、その自由意志は失われたと教えていました。そして一人ひとりの人間が受け継いだ罪を、克服できない悪への傾き(欲望)と同一視しました。教会が原罪に関する啓示の意味をとくに明らかにしたのは、529 年の第2オランジュ教会会議第2オランジュ教会会議「規定」 1-2 (DS371〜DS372)。と、1546 年のトリエント公会議トリエント公会議第5総会『原罪についての教令』 (DS1510〜DS1516)。においてです。
[407]
原罪の教え⸺キリストによる贖罪の教えと対をなすもの⸺は、人間の状況と世界における人間の行為とについての明晰な識別の目を与えます。人間は自由を失ってはいませんが、人祖の罪の結果、悪魔にある程度支配されるようになりました。原罪は「死の国を所有する悪魔の権力下に置かれた奴隷状態」同「規定」1(DS1511)。ヘブライ2・14参照。をもたらしました。人間本性が傷つき、悪に傾いている事実を無視することは、教育、政治、社会活動ヨハネ・パウロニ世回勅『新しい課題―教会と社会の100年をふりかえって』25(Centesimus annus: AAS 83 [1991] 823-824)参照。、道徳の分野で重大な過ちを生じさせます。
[408]
原罪とすべての人が犯す罪の結果は、世界全体を罪の泥沼に陥れています。これが、聖ヨハネのいう「世の罪」(ヨハネ1∙29)です。世の罪というこのことばはまた、人間の罪の結実である社会状況と社会構造とが個人にもたらす悪い影響も指していますヨハネ・パウロニ世使徒的勧告『和解とゆるし』16(Reconciliatio et paenitentia : AAS 77 [1985] 213-217)参照。。
[409]
「全体が悪い者の支配下にある」(一ヨハネ5∙19)という世界の悲劇的な状況は
1ペトロ5・8参照.、人生を戦いにします。
「やみの権力に対する苦しい戦いは、人間の歴史全体に行きわたっています。それは世の初めから始まったものであって、主がいわれるように、最後の日まで続きます。人間はこの戦いに巻き込まれているので、善につくためにはつねに戦わなければならず、神の恩恵の助けと大きな努力なしには、自己の統一を確立することもできません」 『現代世界憲章』,第37項。。
[410]
堕罪の後、人間は神に見捨てられませんでした。かえって、神は人間を呼び創世記3・9参照。、悪に対する勝利と堕罪からの再起を神秘的に告げられます創世記3・15参照。。創世記のこのくだりは、「原福音」と呼ばれています。これが、あがない主メシアについての、蛇と「女」との間の戦い、および「女」の子孫の最終的な勝利についての、最初の告知であるからです。
[411]
キリスト教の伝承はこの部分に、「新しいアダム」 1コリント15・21-22,45参照。についての告知を見ています。この新しいアダムは「十字架の死に至るまで」(フィリピ2∙8)の従順によって、アダムの不従順を償って余りありましたローマ5・19-20参照。。また、多くの教父と教会博士は、「原福音」の中で告げられた女性は「新しいエバ」としてのキリストの母マリアであると解釈しています。マリアは、罪に対するキリストの勝利の恵みを最初に、比類のないしかたで受けたかたです。マリアは原罪のすべての汚れから守られピウス9世大勅書『インエッファビリス・デウス』 (Ineffabilis Deus : DS2803)参照。、生涯、神の特別な恵みによって、いかなる罪も犯しませんでしたトリエント公会議第6総会『義化についての教令』23(Decretum de iustificatione : DS1573)参照。。
[412]
しかし、神はなぜ、最初の人間が罪を犯すのを妨げなかったのでしょうか。大聖レオは、「キリストのえもいわれぬ恵みは、悪魔が羨望によってわたしたちから奪ったものよりも優れたたまものをわたしたちに与えました」聖レオ1世『説教』 (S. Leo Magnus, Sermo 73, 4: CCL 88A, 453 [PL 54, 151])。と答えています。また聖トマス・アクィナスは次のように答えました。「人間の本性は、罪の後により高い目的に向けられました。これに異議を申し立てるものは何もありません。まったくそのとおりで、神はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかったのです。聖パウロはこれを、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました亅(ローマ5∙20)といっています。そして、『復活賛歌』は歌います。『かくも偉大なるあがない主をいただくに値した罪は、何と幸いなことか(アダムの罪、キリストの死によってあがなわれた罪、栄光の救い主をもたらしたこの神秘よ)』と」聖トマス・アクイナス『神学大全』 (Summa theologiae, 3, q. 1, a. 3. ad 3: Ed. Leon. 11, 14)。 聖トマスがここで述べる言葉は、「復活賛歌(Exsultet)」の中で歌われる。。
[413]
「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。……悪魔のねたみによって死がこの世に入〔った〕」(知恵1∙13、2∙24)。
[414]
サタンと呼ばれる悪魔や他の悪霊たちは、神とその意図に仕えることを自由意志を濫用して拒絶したために失墜した天使です。神に背いた彼らの選択は撤回できないものです。彼らは、神に対する自分たちの反抗に人間を加担させようと企てています。
[415]
「人間は神によって義の中に置かれたのですが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、その自由を濫用し、神に対立するものとなり、自分の完成を神のほかに求めました」『現代世界憲章』,第13項。。
[416]
最初の人としてのアダムは、ただ自分のためだけでなく、すべての人間のために神から与えられた原初の聖性と義を、その罪によって失いました。
[417]
アダムとエバは子孫たちに、自分たちの最初の罪のゆえに傷つけられ原初の聖性と義を失った人間の本性を伝えました。この欠如の状態が「原罪」と呼ばれます。
[418]
原罪の結果、人間の本性は強さを失い、無知と苦と死に支配され、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。
[419]
「したがってわたしたちは、トリエント公会議の教えに従い、原罪は人間本性とともに『模倣によってではなく、生殖によって』伝えられたものなので、『一人ひとりの人間のものである』と主張します」パウルス6世『神の民のクレド』,第16項(loc. cit., 439)。。
[420]
キリストがもたらした罪への勝利は、罪によって失ったものよりも優れたたまものをわたしたちに与えました。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5∙20)。
[421]
「この世界はキリスト者の信仰にとっては、創造主の愛によって造られ保たれており、罪の奴隷状態に陥りましたが、キリストの十字架の死と復活とによって、『悪しき者』の権力が破壊され、解放された世界です」『現代世界憲章』,第2項。。