[2030]
キリスト者は教会の中で、すべての受洗者との交わりのうちに自分の召命をまっとうします。信者は教会から、「キリストの律法」75の教えを含む神のことばを受けます。教会から、「道」を歩む上で支えとなる秘跡の恵みをいただきます。教会から聖性の模範を学び、いと聖なるおとめマリアのうちに聖性のあり方や源泉などを確認します。また、聖性を生きる人々の真正なあかしを見て聖性を識別し、自分たちの先を歩まれ、聖人暦に合わせて典礼で祝われる聖人たちの霊的伝統や長い歴史のうちにも、その聖性を見いだします。
[2031]
倫理生活は一種の霊的礼拝です。わたしたちは、わたしたちが形づくっているキリストのからだの中で、キリストの供え物に合わせながら、「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげます」76。典礼や秘跡を執り行うとき、祈りや教えがキリストの恵みと一つになってキリスト者の行動を照らし、培います。倫理生活は、キリスト教的生活全体がそうであるように、エウカリスチアのいけにえにその源泉と頂点とを見いだすのです。
[2032]
「真理の柱であり土台である」(一テモテ3∙15)教会は、「救いの真理を告げよとのキリストのこの荘厳な命令を、……使徒たちから受けました」77。「教会は、社会秩序に関することをも含めて倫理の原則をいつでもどこでも告知し、かつ、人間の基本的権利または救いに必要な限り、あらゆる人間的問題について判断をする権限を有する」78のです。
[2033]
倫理的なことがらに関する教会の司牧者たちの教導権は、通常は、神学者や霊性の専門家たちの著作の助けを得て、カテケージスや説教の中で行使されます。こうして、司牧者たちの庇護と警戒のもとに、代々にわたってキリスト教的倫理の「ゆだねられた遺産」が伝えられてきました。この遺産とは、キリストへの信仰によって明らかにされ、愛によって生かされた規則やおきてや徳などの特徴的な要点をまとめたものです。このカテケージスは伝統的に、信条や主の祈りのほかに、すべての人間にとって有効な倫理生活の基本を明らかにする十戒を土台にしてきました。
[2034]
ローマ教皇および司教たちは、「真正なる師、すなわちキリストの権威を帯びている師であって、信じて生活の中に生かすべき信仰を自分にゆだねられた民に宣教します」79。教皇と、教皇と一致した司教たちの普遍的な通常の教導権は、信ずべき真理と、実践すべき愛と、希望すべき至福とを信者たちに教えます。
[2035]
キリストの権威にあずかっているということがもっともはっきりと示されるのは、不謬性のカリスマによってです。この不謬性は「神の啓示の遺産の広がりと同じ広がりを有します」80。それはまた、倫理に関する教義を含めて、それを欠いては、救いをもたらす信仰の真理を、守り、説明し、遵守することができない、教義に関連するあらゆることがらに及びます81。
[2036]
教会の教導権はまた、自然法の特有なおきてにも及びます。なぜなら、これを遵守することは、創造主から求められているだけではなく、救いに必要だからです。教会の教導権は人々に自然法のおきてについて思い起こさせながら、人間が真に何であるかを告げ知らせ、神のみ前でどうあるべきかを考えさせるという教会の預言職の本質的な役割の一部を行使するのです82。
[2037]
教会にゆだねられた神の法は、いのちと真理の道として信者に授けられます。したがって信者には、判断を浄化し傷ついた人間理性を恵みの助けでいやす、神の救いのおきてに関する教えを受ける権利があります83。また信者には、教会の合法的権威が与えた法令と決定とを遵守する義務があります。たとえ生活規律に関する法令であっても、愛をもって素直に従うよう求められます。
[2038]
教会はキリスト教倫理を教え適用するにあたり、司牧者の献身、神学者の知識、全キリスト者とすべての善意の人々との協力を必要とします。信仰といただいた福音とによって一人ひとりの者は「キリストに結ばれた」生活体験をさせていただきますが、この体験が各自を照らし、神のことと人のこととを神の霊によって判断することができるようにさせてくれます84。こうして、聖霊はきわめて取るに足りない人々を用いて、学者や高位の人々を照らすことがおできになるのです。
[2039]
役務は兄弟的奉仕と教会への献身の精神をもって、キリストのみ名によって行使されなければなりません85。また同時に、各自の良心は、自分の行為を倫理的に判断するにあたり、個人的な考えに閉じこもることを避け、できるだけすべての人の善を考慮に入れるべきです。その内容は自然的な道徳律や啓示された道徳律で示されているだけではなく、教会法や道徳的問題に関する教導権の教えにおいても言及されています。個人の良心や理性を道徳律ないし教会の教導権に対立させるのは正しいことではありません。
[2040]
こうして、キリスト者の間には教会に対する子としての真の精神が培われます。それは、わたしたちを教会のふところに生みキリストのからだの肢体とした、洗礼の恵みの当然の開花です。教会は母心をもって、わたしたちのすべての罪を超えた神のあわれみ、とくにゆるしの秘跡の中で働く神のあわれみをわたしたちに分け与えてくれます。また、周到な心配りをする母親のように、典礼においても、主のことばと聖体の糧を日々豊かに与えてくれます。
[2041]
教会のおきてとは、典礼生活と結ばれ、典礼生活によって養われる倫理生活にかかわるものです。司牧者の権威によって公布されたこれらの実定法が義務的な性格を帯びているのは、祈りの精神や道徳的努力、神と隣人への愛の成長などのためにきわめて必要な最小限度のものを保証することを目的としているからです。
[2042]
教会の第一のおきて(「主日と守るべき祭日にミサにあずかり、肉体労働を休むこと」)は信者に、主の復活を記念する日と、主と聖母マリア、および聖人たちの神秘を崇敬する典礼上のおもな祝祭日を聖とするよう求めています。それは、まず第一に、キリスト教的共同体が集う聖体祭儀にあずかることによって、また、これらの日を聖とすることを妨げる仕事や活動を休むことによって果たされます86。
第二のおきて(「少なくとも一年に一度罪を告白すること」)は、回心のわざと洗礼によるゆるしのわざとを継続させるゆるしの秘跡を受けることによって、エウカリスチアへの備えをさせてくれます87。
第三のおきて(「少なくとも復活節の間にエウカリスチア(聖体)の秘跡を受けること」)は、最小限でも、主のからだと血をキリスト教典礼の起源であり中心である復活祭に合わせて拝領することを保証してくれます88。
[2043]
第四のおきて(「教会が定めた大斎と小斎の日を守ること」)は、わたしたちが典礼上の祝日の準備をするための禁欲と償いの時を守り、自分の本能を自制し心の自由を得ることができるようわたしたちを助けてくれます89。
第五のおきて(「教会の維持費を負担すること」)では、信者にはおのおのの分に応じて教会の財政を助ける義務があるということが述べられています90。
[2044]
受洗者の忠実さこそが、福音の告知とこの世における教会の使命にとってのもっとも重要な条件となります。救いの知らせが人々の前にその真理と輝きの力を表すためには、それがキリスト者の生活のあかしによって裏づけられなければなりません。「キリスト教的な生活によるあかしと、超自然的な精神をもって行う善業は、人々を信仰と神へ引き寄せる力を持っています」91。
[2045]
キリスト者とはキリストを頭とするからだの肢体なので92、自分たちの一貫した信念や行いによって教会の建設に寄与します。教会は信者の聖性によって大きくなり、成長・発展し93、ついには「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4∙13)。
[2046]
キリストに従う生活によって、キリスト者は、「正義と愛と平和の国」94である神の国の到来を早めます。とはいえ、世俗の任務をなおざりにしてはなりません。自分たちの師に忠実に従い、正直と忍耐と愛をもってこれを成し遂げるのです。
[2047]
倫理生活は一種の霊的礼拝です。キリスト者の行動は、典礼や秘跡にあずかりながら培われていきます。
[2048]
教会のおきては、典礼と結ばれ、典礼によって養われる倫理的・キリスト教的生活にかかわるものです。
[2049]
倫理的なことがらに関する教会の司牧者たちの教導権は、通常はカテケージスや説教の中で行使され、すべての人間にとって有効な倫理生活の基本を明らかにする十戒を土台にしています。
[2050]
ローマ教皇および司教たちは真正な教師として、神の民に、信じて生活に生かすべき信仰を説きます。また、自然法や理性によって知ることができる倫理的な問題についての判断を下すことも、その任務に含まれています。
[2051]
司牧者の教導権の不謬性は、倫理に関する教義を含めて、それを欠いては、救いをもたらす信仰の真理を、守り、説明し、遵守することができない、教義に関連するあらゆることがらに及びます。