結果 2174-2188
「太陽の日にわたしたち全体は集会を催します。〔ユダヤ人の安息日の次の日であり、初めの日でもある〕この日は、神がやみと物質を変えて世界をお造りになった最初の日であり、また、わたしたちの主イエス・キリストがこの同じ日に、死者のうちから復活されたからです」聖ユスティノス『第1弁証論』 (S. Iustinus, Apologia, 1, 67: CA 1, 188 [PG 6, 429 432])。。
「古い生き方で暮らしていた人たちが、新しい希望に移り、もう〔土曜日の〕安息日ではなく、主の日を守って生きるとしたら、わたしたちは、どうしてイエスなしに生きていかれましょうか。主の日に、わたしたちのいのちがイエスを通して、また、その死を通して現れたのです」アンティオキアの聖イグナティオス『マグネシアの信徒への手紙』 (S. Ignatius Antiochenus, Epistula ad Magnesios, 9. 1 : SC 10bis, 88 [Funk 1, 236-238])。。
「かつ、主の降誕、主の公現、主の昇天およびキリストの聖体、神の母聖マリア、無原罪の聖マリア、聖母の被昇天、聖ヨセフ、使徒聖ペトロと聖パウロおよび諸聖人の祭日を守らなければなりません」「新教会法典」第1246条第1項。。
伝承によって、今日にも通用する次のような勧告が伝えられています。「早めに教会に来て主に近づき、罪を告白し、祈りつつ償いを果たしなさい……。神聖な典礼にあずかり、祈りを終え、退出の合図があるまでは決して出て行ってはなりません。……これまでもたびたび話したように、この日が皆さんに与えられたのは祈りと休息のためなのです。今日は主が造られた日ですから、喜び、躍りましょう」アレクサンドリアの偽エウセビオ『主の日についての説教』 (Pseudo-Eusebius Alexandrinus, Sermo de die Dominica: PG 86/1, 416. 421)。。
「あなたは家でも祈ることはできますが、教会にいるときのように祈ることはできません。教会ではたくさんの人が集まり、心を一つにして神への叫びがあげられます。教会にはさらに、心の一致、調和、愛のきずな、司祭の祈りなどの、すばらしいものがたくさんあるのです」聖ヨアンネス・クリュソストモス『神の把握しがたさについて』 (S. Ioannes Chrysostomus, De incomprehensibili Dei natura sen contra Anomoeos. 3. 6 : SC 28bis, 218 [PL 48, 725])。。
「真理を愛する者は聖なる余暇を求め、愛に駆り立てられる者は正当な仕事を引き受けます」聖アウグスティヌス『神の国』 (De civitate Dei, 19, 19: CSEL 40/2, 407 [PL 41, 647])。。