[2179]
「小教区は、部分教会において、恒常的に設立された、一定のキリスト信者の共同体です。その司牧は、教区司教の権威のもとに、その固有の司牧者としての主任司祭に委託されています」
「新教会法典」第515条第1項。。小教区は、すべての信者が主日の感謝の祭儀を行うために集まることのできる場です。小教区は信者に通常の典礼生活の表現の手ほどきをし、この祭儀に集め、キリストの救いの教えを伝え、兄弟愛のよいわざをもって主の愛を実践します
ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『信徒の召命と使命』26(Christifideles laici: AAS 81 [1989] 437-440)参照。。
「あなたは家でも祈ることはできますが、教会にいるときのように祈ることはできません。教会ではたくさんの人が集まり、心を一つにして神への叫びがあげられます。教会にはさらに、心の一致、調和、愛のきずな、司祭の祈りなどの、すばらしいものがたくさんあるのです」聖ヨアンネス・クリュソストモス『神の把握しがたさについて』 (S. Ioannes Chrysostomus, De incomprehensibili Dei natura sen contra Anomoeos. 3. 6 : SC 28bis, 218 [PL 48, 725])。。
[2180]
教会のおきてというものがありますが、それは神のおきてに具体的な形を与えるものです。たとえば、「主日およびその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務を有する」「新教会法典」第1247条。、あるいは「祝日当日または前日の夕刻、いずこにおいてもカトリックの儀式によってささげられるミサにあずかる者は、ミサにあずかるべきおきてを果たすことになる」「新教会法典」第1248条第1項。などという具体的な形で表現されています。
[2181]
主日の感謝の祭儀は、すべてのキリスト教的行動の土台となり、それに力を与えるものです。したがって信者は、守るべき祭日には感謝の祭儀にあずかる義務があります。ただし、重大な理由(たとえば、病気や乳児の世話など)があってあずかれなかったり、自分の主任司祭から免除を受けたような場合はこの限りではありません「新教会法典」第1245条参照。。この義務を故意に守らない者は、大罪を犯します。
[2182]
主日にささげられる共同体のエウカリスチアの祭儀にあずかることは、キリストとその教会への所属ならびに忠実をあかしすることです。信者はこれによって信仰と愛とにおける互いの交わりを証明し、神の聖性と救いの希望とをともにあかしし、聖霊の導きのもとに互いに励まし合うのです。
[2183]
「聖務者の不在または他の重大な理由によって、ミサにあずかることができない場合、小教区教会または他の聖なる場所で、教区司教の規定に従ってことばの典礼が執行されるとき、信者はそれに参加するよう大いに勧められます。個人的もしくは家庭で、または都合に応じて家庭集会において、相応な時間、祈りに専念するよう大いに勧められます」「新教会法典」第1248条第2項。。
[2184]
神が「第七の日に、ご自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記2∙2)ように、人間生活は仕事と休息とが交互した形で営まれます。主日の制度は、すべての人が家族・文化・社会・宗教生活などを培うための十分な休息や余暇の時間を享受できるための貢献をしています『現代世界憲章』,第67項参照。。
[2185]
信者は、主日や守るべき祭日には、神にささげる礼拝や、主日固有の喜び、慈善のわざ、心身のふさわしいくつろぎなどを妨げるような仕事や活動に従事することは控えるべきです
「新教会法典」第1247条参照。。家族の必要事や社会的利益に大いに貢献する活動などをするような場合は、主日の休息のおきてを守らなくてもよいことになっています。信者はこのような正当な理由を盾にして、宗教、家庭、健康などを害する習慣を作り出すことのないよう留意すべきです。
「真理を愛する者は聖なる余暇を求め、愛に駆り立てられる者は正当な仕事を引き受けます」聖アウグスティヌス『神の国』 (De civitate Dei, 19, 19: CSEL 40/2, 407 [PL 41, 647])。。
[2186]
余暇を楽しむキリスト者は、自分と同じようにその必要や権利を持っているにもかかわらず貧しさや逆境にあって余暇を取ることができないでいる兄弟たちのことを心にとどめるべきです。主日に信者は、伝統的に、キリスト教の信心に基づいて、慈善事業を行い、病人・身体障害者・高齢者たちにつつましく奉仕します。キリスト者はまた、週日にはなかなか割くことのできない時間を家族や隣人のために取ったり、そのお世話をしたりすることによっても、主日を聖なるものにすることができます。主日は内省・沈黙・教養・黙想などのときであり、それによって内的生活やキリスト教的生活の成長が助けられるのです。
[2187]
主日や祭日を聖なるものにするためには、共同の努力が必要です。信者一人ひとりが、必要もないのに主日の遵守を妨げるようなことを他人に強制することのないよう心掛けるべきです。世間的に一般化していること(スポーツ、レストランでの仕事など)や社会的必要事(公務など)のためにある人々が主日に働かなければならないような場合、その人たちには余暇のための十分な時間を自分自身で見つける責任があります。信者は、時として大衆的レジャーが生み出す過度で激烈な行動を、節制と愛をもって避けるよう心掛けるべきです。経済的に必要だということを考慮に入れたとしても、為政者は国民のために休息や礼拝にささげるための時間を保証するよう留意すべきです。雇用者にも被雇用者に対する同様な義務があります。
[2188]
キリスト者は信教の自由と万人の共通善とを尊重して、主日と教会の祭日とを公休日と認めさせるよう努めるべきです。キリスト者はすべての人に祈りと尊敬と喜びについての公の模範を示し、自分たちの伝統を社会の人間的精神生活に対する貴重な贈り物として守り続けるべきです。一国の法律もしくは他の理由によって、主日に余儀なく働かなければならないような場合には、この日をあの「祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会」(ヘブライ12∙22-23)にわたしたちをあずからせる解放の日として過ごすよう努めなければなりません。
[2189]
「安息日を守ってこれを聖別せよ」(申命記5∙12)。「七日目は、主の聖なる、もっとも厳かな安息日である」(出エジプト31∙15)。
[2190]
第一の創造の完成を記念していた安息日は、主日に取って代わられます。主日は、キリストの復活によって開始された新しい創造の記念日です。
[2191]
教会はキリストの復活の日を八日目に祝いますが、この日はまさしく、主の日あるいは主日と呼ばれます 『典礼憲章』,第106項参照。。
[2192]
「主日は、……全教会で守るべき祝日としてこれを遵守しなければなりません」「新教会法典」第1246条第1項。。「主日およびその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務を有します」「新教会法典」第1247条。。
[2193]
「主日およびその他の守るべき祝日には、信者は……神にささげるべき礼拝、主日固有の喜び、または精神および身体の相当の休養を妨げる労働および業務を差し控えなければなりません」「新教会法典」第1247条。。
[2194]
主日の制度は、「家庭・文化・社会・宗教生活を営むために十分な休息と余暇が与えられる」『現代世界憲章』,第67項。ための貢献をしています。
[2195]
信者一人ひとりが、必要もないのに主日の遵守を妨げるようなことを他人に強制しないようにすべきです。
[2196]
イエスは、あらゆるおきてのうちでどれが第一であるかを問われて、次のように答えておられます。「第一のおきては、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二のおきては、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさるおきてはほかにない」(マルコ12∙29-31)。
使徒聖パウロは次のようにいっています。「人を愛する者は、律法をまっとうしているのです。姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんなおきてがあっても、隣人を自分のように愛しなさいということばに要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法をまっとうするものです」(ローマ13∙8-10)。
[2197]
十戒の第二の石板の最初には、第四のおきてが刻まれています。これは愛の順位を示すものです。神は、わたしたちが、ご自分の次には、わたしたちを生み、神を知る知識を伝えてくれた両親を敬うようお命じになりました。わたしたちには、神がわたしたちの幸せのためにご自分の権威をおゆだねになったすべての人々を尊び、敬う義務があるのです。
[2198]
このおきては、守るべき義務として肯定形で表されており、これに続くいのち、結婚、財物、ことばなどに対して払うべき尊敬に関するおきてを予告するものでもあります。このおきては、教会の社会的教えの基本の一つをなすものです。
[2199]
第四のおきては直接的には子供たちの父母との関係に関するものです。この関係がもっとも普遍的なものだからです。同じように、これは近親者との関係にも当てはまります。さらに、祖父母や祖先に対する尊敬、愛情、感謝を求めるものでもあります。そのうえ、第四のおきては教師に対する生徒の、雇用者に対する被雇用者の、上司に対する部下の、祖国や為政者に対する国民の義務にも及んでいます。
このおきてには、両親や保護者、教師、上司、司法官、為政者、他人あるいは共同体に対して何らかの権威を行使する人々などの義務に関する問題も含まれています。
[2200]
第四のおきてに従えば報いも得られることになっています。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト20∙12)申命記5・16参照。。このおきてを遵守すれば霊的実りとともに、現世の実りである平和や繁栄が得られます。これに反して、おきてを守らなければ、共同体や各個人に大きな損害が生じます。
[2201]
夫婦共同体は配偶者の同意の上に成立しています。結婚および家族というものは、夫婦の幸せや子供の出産と教育とを目指すものです。夫婦愛と子供の出産とによって、同じ家族の成員の間での相互のかかわりや大切な責任感が構築されるのです。
[2202]
結婚によって結ばれた男女は、子供たちと一つの家族を作ります。この制度は公権が認める前に存在しており、公権としてはそれを認めざるをえないものなのです。近親関係に関するさまざまな形態というものは、通常は家族を基準として考えられなければなりません。
[2203]
神は男と女とを造り、家族を定めて、これに基本的構造を与えられました。家族の成員はそれぞれ等しい尊厳を持つ人格です。家族にはその成員や社会の共通善に対する、さまざまな責任と権利、ならびに義務があります。
[2204]
「キリスト者の家庭は、教会的交わりの特別な啓示であり、実現です。そのために、『家庭教会』と呼ばれるべきです」ヨハネ・パウロ2世使徒的勧告『家庭―愛といのちのきずな』21(Familiaris consortio: AAS 74 [1982] 105)。 第2バチカン公会議『教会憲章』,第11項(Lumen gentium)参照。。それは信仰・希望・愛の共同体であり、新約聖書に明示されているように、教会の中で特別な重要性を持つものですエフェソ5・21〜6・4、コロサイ3・18-21、1ペトロ3・1-7参照。。
[2205]
キリスト教的家族は人格同士の交わりであり、聖霊における御父と御子との交わりを示すもの、その似姿なのです。子供の出産と養育という行為は創造主である御父のみわざの反映です。キリスト教的家族はまた、キリストの祈りと犠牲とにあずかるよう召されています。毎日の祈りや聖書朗読を通して、家族愛が強められます。キリスト教的家族は福音を告げ知らせる宣教者です。
[2206]
家族内の人間関係によってそれぞれの感情や愛情、関心事などが類似してきますが、これはとくに人格同士の相互尊重に由来するものです。家族とは、夫婦の共同の協議や、子供の教育に関する両親の熱心な協力を実現するために召された、特別に恵まれた共同体なのです第2バチカン公会議『現代世界憲章』,第52項(Gaudium et spes)参照。。
[2207]
家族は、社会生活の第一の細胞です。夫と妻とが愛においても子供にいのちを与えることにおいても互いに自分を与え合うようにと召されている、自然な社会です。家族内での権威と安定と共同生活とが、社会における自由と安全と友愛との土台となっています。家族とは、幼いころから道徳的価値を学ぶことができ、神を敬い、自由を善用し始める共同体です。家族生活は、社会生活のための学びやです。
[2208]
家族は、その成員が若い人や年輩者、病人、身体障害者や貧しい人々などのことを思いやり、その世話をすることを学べるような生き方をしなければなりません。時によっては、このような援助を提供できない状況にある家族も多々あります。そのような場合には、他の人々や他の家族、または補完的な役割を持つ社会が、助けを必要とする人々の世話をしなければなりません。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神のみ前に清く汚れのない信心です」(ヤコブ1∙27)。
[2209]
家族は適切な社会的な手段によって援助され、擁護されるべきです。家族が自らの役割を果たすことができない場合には、他の社会的団体がそれを助け、家族制度を維持する義務があります。しかし、補完性の原理に従い、家族より大きな共同体は家族の権限を侵害したり生活に干渉したりしないようにすべきです。
[2210]
家族は社会のいのちや安寧にとっての重要な存在なので『現代世界憲章』,第47項参照。、社会には結婚や家族を支持し強化する重大な責任があります。国家は「婚姻と家庭の真の本質を認め、守り、高め、公衆道徳を擁護し、家庭の繁栄を助けること」『現代世界憲章』,第52項。を重大な義務とみなすべきです。
[2211]
政治共同体は家族を尊重し、助け、とくに次のことがらを保証すべきです。
⸺家庭を築き、子供をもうけ、それぞれの道徳的・宗教的信念に従って子供を育てる自由。
⸺夫婦のきずなや家族制度が安定するための保護。
⸺信仰を公言し、伝え、必要な手段や機関を用いて子供の信仰を育てる自由。
⸺私有財産を所有する権利、事業を自由に開始する権利、仕事や住居を得る権利、移住の権利。
⸺国の制度に基づいた、医療や高齢者のための援助、家族手当などを受ける権利。
⸺とくに麻薬やポルノ、アルコール依存症などの危険に対する、安全と健全性の確保。
⸺他の家族と一緒になって団体を作り、公権力に代表を送る自由ヨハネ・パウロ2世『家庭』46(loc. cit., 137-138)参照。。
[2212]
第四のおきては、社会におけるさまざまな関係に光を当ててくれます。わたしたちは兄弟姉妹が同じ両親の子供であることを、いとこたちが同じ祖父母の孫であることを、同胞たちが同じ祖国の子供であることを、受洗者が母なる教会の子供であることを、全人類が、「わたしたちの父」と呼ばれることを望まれるかたの息子や娘であることを知っています。このことから分かるように、隣人とわたしたちとの関係というものは、人格的なものとして理解されているのです。隣人とは人間集団の中の「一個人」ではありません。はっきりと分かっているかかわりに基づいた特別な留意と尊敬とに値する、「だれか」なのです。
[2213]
人間共同体は一人ひとりの人格から成り立っています。よい統治とは、単に権利を保証し、義務を果たさせ、契約を忠実に履行させることにとどまるのではありません。雇用者と被雇用者、為政者と国民との間に正しい関係を保つためには、正義と兄弟愛に心を遣う、人格の尊厳にかなった自然な好意が前提となるのです。
[2214]
神の父性が人間の父性の源泉ですエフェソ3・15参照。。両親が敬われる根拠はここにあります。未成年者であろうと大人であろうと、子供たちの父母への尊敬は箴言1・8、トビト4・3-4参照。相互を結ぶきずなから生まれる自然の愛情によって培われます。これこそ神のおきてによって命じられているものなのです出エジプト20・12参照。。
[2215]
両親への尊敬(孝行心)は両親に対する感謝の心から生じるものです。両親は愛と労働とによって織り成される生活をささげて子供をこの世に生み出し、その子供たちが身体的にも、知識や情愛の面においても成長できるように努めてくれたのです。「心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。両親のおかげで今のお前があることを銘記せよ。お前は両親にどんな恩返しができるのか」(シラ7∙27-28)。
[2216]
孝行心は、真の素直さと従順とによって表されます。「わが子よ、父の戒めを守れ。母の教えをおろそかにするな。……それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける」(箴言6∙20-22)。「子は父の諭しによって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない」(箴言13∙1)。
[2217]
子供が両親の家で暮らしている間は、わが子の幸せや家族の幸せを思って両親が命じるすべてのことに従わなければなりません。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」(コロサイ3∙20)エフェソ6・1参照。。子供たちはまた、自分たちの教師や両親が子供たちを委託したすべての人々の妥当な命令に従わなければなりません。ただし、ある命令に従うのは道徳的に悪であると子供が良心的に確信するような場合には、これに従ってはなりません。子供は大きくなっても両親を尊敬し続けるべきです。両親の望みに自ら進んで従い、進んで助言を求め、正当な諭しを受け入れるべきです。両親への従順の義務は子供が後見から解除されるときに終わりますが、尊敬の義務のほうはいつまでたってもなくなるものではありません。というのは、その根拠が、聖霊のたまものの一つである神への畏敬にあるからです。
[2218]
第四のおきては、成人した子供たちに
両親に対する責任を思い起こさせてくれます。彼らは両親の老後や、病気・孤独・悲しみなどに際して、できる限りの物的・精神的援助の手を差し伸べなければなりません。イエスはこの感謝の義務について語っておられます
マルコ7・10-12参照。。
「主は、子に対する権威を父に授け、子が母の判断に従う義務を定めておられる。父を尊べば、お前の罪は償われ、同じく、母を敬えば、富を蓄える。父を尊べば、いつの日か、子供たちがお前を幸せにしてくれる。主は、必ず祈りを聞き入れてくださる。父を敬う者は、長寿に恵まれ、主に従う者は、母を安心させる」(シラ3∙2-6)。
「子よ、年老いた父親の面倒を見よ。生きている間、彼を悲しませてはならない。たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、思いやりの気持ちを持て。自分が活力にあふれているからといって、彼を軽蔑してはならない。……父を見捨てる者は、神を冒瀆する者、同じく母を怒らせる者は、主にのろわれている者」(シラ3∙12-13,16)。
[2219]
孝行心は家族生活全体の調和を生み出し、兄弟姉妹の関係にも影響を与えます。両親への尊敬は家庭環境を明るくします。「孫は老人の冠、父は子らの輝き」(箴言17∙6)。「いっさい高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに……〔一致を保つように努めなさい〕」(エフェソ4∙2)。
[2220]
キリスト者は、自分たちを信仰のたまものや洗礼の恵み、そして教会生活に導いてくれた人々に特別な感謝の念を抱くべきです。これらの人々の中には両親、その他の家族、祖父母、司牧者、カテキスタや他の教師、あるいは友人などがいることでしょう。「わたしはあなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」(二テモテ1∙5)。
[2221]
夫婦愛の実りとは、子供の出産だけに限られるものではなく、子供たちの道徳教育や宗教教育にも及ぶべきものです。「教育を授けるという両親の務めは、まことに重大であって、それが欠ける場合、その補充はほとんど不可能なほどです」第2バチカン公会議『キリスト教的教育に関する宣言』,第3項 (Gravissimum educationis)。。両親にとっては子供を教育することが自分たちにゆだねられた最大の権利でも義務でもあるので、これを他人に譲ることはできないのですヨハネ・パウロ2世『家庭』36(loc. cit., 126)参照。。
[2222]
両親は自分の子供たちを神の子供とみなし、独立した人格として尊敬しなければなりません。親は天の御父のみ旨への従順の模範を示しながら、子供たちが神のおきてを守るように教育すべきです。
[2223]
両親はわが子の教育の第一の責任者です。両親はまず
家庭を築くことによってこの責任を果たします。家庭には当然のこととして優しさ、ゆるし、尊敬、忠実、無私の奉仕があるべきです。家庭は
徳育に適した場です。徳育に際しては、真の自由の条件である自己放棄、健全な判断、自制心などの習得が求められます。親は子供に「物質的・本能的次元を内面的・精神的次元のもとに」
ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題―教会と社会の100年をふりかえって』36(Centesimus annus: AAS 83 [1991] 838)。置くことを教えるべきです。わが子によい模範を示すことは、親にとっての重大な責任です。親が子供の前で自分自身の欠点を認めるならば、彼らをよりよく指導し、欠点を改めさせることもできるでしょう。
「わが子を愛する者は、しばしばむちで懲らしめる……。子をしつける親は、その子のおかげで楽ができる」(シラ30∙1-2)。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(エフェソ6∙4)。
[2224]
家庭は、連帯や共同責任の手ほどきを受ける本来の場です。親はわが子に、人間社会を脅かす危険や堕落などから身を守るように教えなければなりません。
[2225]
両親は結婚の秘跡の恵みによって、子供に福音をのべ伝える責任および特権を受けました。親は自分の子供たちに信仰の神秘を伝えるための「最初の使者」『教会憲章』,第11項。「新教会法典」第1136条参照。なので、幼いころからその神秘を彼らに伝授すべきです。また、幼児のときから子供たちを教会生活になじませるべきです。家族的な生き方は、全生涯を通じて生きた信仰の正しい前提および支えとなる心構えを育てることができるのです。
[2226]
両親による信仰教育は幼児期から始めなければなりません。もしも家族の成員が福音に従ったキリスト教的生活のあかしを通して互いに信仰を深め合っているならば、その信仰教育はすでに行われているのです。家庭内の信仰教育は他の形の信仰教育にまさるものですが、両者を併用することによって、さらに充実したものにすることができます。両親は子供に祈りを教えたり、神の子供としての自分の召命を発見させたりする使命を持っています『教会憲章』,第11項参照。。小教区はエウカリスチア共同体であり、キリスト教的家族の典礼生活の中心となるものです。それは、子供たちや両親のカテケージスのための特別に恵まれた場なのです。
[2227]
子供たち自身も、両親の聖性の向上に貢献します『現代世界憲章』,第48項参照。。家族の一人ひとりが例外なく、侮辱や争い、不正や怠慢などに対して、互いに寛容な気持ちを持ってうむことなくゆるし合わなければなりません。相互の愛情がそうするように促し、キリストの愛がこれを要求するのですマタイ18・21-22、ルカ17・4参照。。
[2228]
幼児期においては、両親の側からの尊敬と愛情は、まず、子供をしつけ、その身体的・精神的必要を満たすために、身をささげてその世話をし、心を配ることによって表されます。子供が成長してきたら、その同じ尊敬と献身の形は、子供たちに理性と自由の正しい用い方を教えるという方向に変わってきます。
[2229]
両親はわが子の教育の第一の責任者として、子供たちのために自分の信念にかなう学校を選択する権利を持っています。この権利は基本的なもので、両親はできる限り、キリスト教的教育者としての自分たちの任務をもっともよく助けてくれる学校を選ばなければなりません『キリスト教的教育に関する宣言』,第6項参照。。公権には両親が持つこの権利を保証し、その行使を可能にする状況を整える義務があります。
[2230]
成人した子供は、自分の職業や生活身分を選択する義務と権利とを持つようになります。彼らはこの新たな責任を両親との信頼に満ちた関係を保ちながら担い、進んで両親の意見や助言を求めるべきです。両親はわが子が職業を選んだり配偶者を選んだりする際には、強制しないように心掛けるべきです。しかし、この控え目にすべき義務というのは、とくにわが子が新しい家庭を築こうとしているような場合には、分別ある助言をもって彼らを助けることを禁じるものではなく、かえってその逆なのです。
[2231]
両親や兄弟姉妹の世話をするため、あるいはある職業に専念するためや、その他の尊い動機のために、結婚しない人々がいます。このような人々は、人類という家族の幸せに多大の貢献ができるのです。
[2232]
家族のきずなは重要なものですが、絶対的なものではありません。子供が成熟と人間的・精神的独立とに向かって成長していくのと同じように、その子供に対する神からのそれぞれの召命もより明確に、より強く固められていきます。両親はわが子の召命を尊重し、子供たちがそれにこたえることができるように助けるべきです。キリスト者の第一の召命はイエスに従うことである、と確信しておく必要がありますマタイ16・25参照。。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10∙37)。
[2233]
イエスの弟子になるということは、神の家族に属し、イエスの生き方に従って生きるようにとの招きを受け入れることです。「だれでも、わたしの天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ12∙50)。
両親は、わが子のうちのだれかに、神の国のための独身、奉献生活、あるいは司祭職という身分でご自分に従うようにという主からの呼びかけがあれば、それを受け入れ、喜びと感謝をもってその召命を尊重しなければなりません。
[2234]
神の第四のおきてはまた、わたしたちの利益のために社会における権威を神から授かったすべての人を敬うことをも命じています。このおきては、権威の行使者の義務だけではなく、権威のもとで恩恵を受ける者の義務をも明らかにしています。
[2235]
権威の行使者は、これを奉仕として行使すべきです。「あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり〔なさい〕」(マタイ20∙26)。権威の行使にあたっては、権威の起源は神にあること、権威は合理的に行使されるべきこと、権威の及ぶ範囲は決められていることなどといった、倫理的な制約が伴うことになります。だれであれ、人間の尊厳や自然法に反することを命じたり制定したりすることはゆるされません。
[2236]
権威の行使にあたっては、万人の自由や責任の行使が容易になるために、正しい価値体系を明らかにするよう心掛ける必要があります。為政者は各自の必要や寄与などのことを考慮し、融和と平和を図りながら、英知をもって配分的正義を実行すべきです。自分たちの決定によって個人の利益と社会全体の利益とが対立を引き起こす方向へ傾くことのないよう留意すべきですヨハネ・パウロ2世『新しい課題』25(loc. cit., 823)参照。。
[2237]
政府には基本的人権を尊重する義務があります。一人ひとりの、とくに家族や恵まれない人々の権利を尊重して、人間味あふれた公正さを図るべきです。
国民が持っている政治的権利は共通善の要求に基づいて行使することができるし、行使されなければなりません。合法的で適切な動機もないのに、政府によってその行使を停止させられるようなことがあってはなりません。政治的権利は、国家ならびに人類共同体の共通善のために行使されるべきものなのです。
[2238]
権威に服する人々は上に立つ者を、神がご自分のたまものの奉仕者として定められた神の代理者とみなすべきですローマ13・1-2参照。。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。……自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神のしもべとして行動しなさい」(一ペトロ2∙13,16)。権威に服する人々の忠誠な協力というものには、人間の尊厳と共通善とを損なうと思われることに関する正当な抗議を行う権利、時には義務が伴います。
[2239]
国民の義務は、社会の善のために真理と正義と連帯と自由の精神をもって政府と協力することにあります。愛国心や祖国への奉仕というものは、感謝の義務と愛の要求とによって生じるものです。国民は政治に基づいた国民生活の中で合法的な権威に服従し、共通善に奉仕することによって各自の役割を果たすべきです。
[2240]
権威に対する服従ならびに共通善への共同責任には、納税、投票権の行使、ならびに国防という義務が伴ってきます。
「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢ぎを納めるべき人には貢ぎを納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(ローマ13∙7)。
キリスト者は「それぞれの祖国に居住しています。しかし寄留人としてなのです。国民としてのすべての義務を果たし、寄留人としてのすべての責務を担います。……定められた法規に従いはしますが、その生き方は法にまさるものです。……きわめて重要なポストに神から任じられているので、それを放棄することはゆるされません」『ディオグネトスへの手紙』 (Epistulaad Diognetum, 5, 5; 5, 10; 6, 10: SC33, 62-66 [Funk 1, 398-400])。。
xs+使徒パウロは、「わたしたちがつねに信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため」(一テモテ2∙2)に、王や権威を行使するすべての人のために祈りと感謝をささげるよう勧めています。xs-
[2241]
豊かな国々は、自国にはない安全や生活物資を求めて入国する
外国人をできるだけ受け入れるべきです。客人は彼らを受け入れる人々の保護のもとに置かれるという自然権を、政府は尊重しなければなりません。
政府は共通善を図る責務上、国が定めた移住に関する種々の法的条件の履行、とくに移住国に対する移民の義務の遵守を要求することができます。移住者は受け入れ国の物的・精神的資産を感謝して尊重し、その法律に従い、求められる負担に協力しなければなりません。
[2242]
国民には、為政者の命令が道徳や基本的人権、もしくは福音の教えに反する場合、これを拒否する良心上の義務があります。為政者の要求が正しい良心の声に反する場合には為政者への
従順を拒否することができますが、それは神への奉仕と政府への奉仕とは区別することができるからです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22∙21)。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5∙29)。
「公権が越権行為によって国民を圧迫する場合にも、国民は共通善によって客観的に要求されることを拒否してはなりません。しかしながら、国民は公権の濫用に反対して、自然法と福音のおきてが示す限界を守りながら、自分および同国民の権利を擁護することができます。」『現代世界憲章』,第74項。
[2243]
次の条件がそろわない限り、政府の抑圧に対する抵抗行為のために武器を用いるのはゆるされません。
①基本的人権が間違いなく、強く、永続的に侵害を受けている場合。
②最後の手段であること。
③現状よりも大きな害を起こさないこと。
④成功するという希望には根拠があること。
⑤武力に訴える以外にはよい解決法が良識的に見つからないこと。
[2244]
あらゆる制度は、暗黙裡にせよ、何らかの人間像やその未来像から霊感を受けており、そこから判断の根拠や価値体系、行動方針などを引き出しています。大部分の社会はその制度の根拠として、物質に対する人間の優位性を挙げてきました。ただ神的啓示に基づく宗教のみが、創造主でありあがない主である神の中に、人間の起源と目的とを明確に認めてきたのです。教会は国家権力者に対して、神と人間とに関するこの真理に基づいてそれぞれの判断や決定を下すようにと促しています。
この真理が示している事実を無視したり神から独立するという名目のもとにそれを拒否したりする社会は、自らのうちに自らの根拠や目的を求めるか、何らかのイデオロギーを借りるようになり、人々が善悪の客観的基準を擁護することを認めず、人間およびその向かうべき目標に関して、公然の、あるいは陰険な全体主義的権力を振るいます。それは歴史が示すところですヨハネ・パウロ2世『新しい課題』45〜46 (loc. cit., 849-851)参照。。
[2245]
「教会はその任務と権限から見て、決して政治共同体と混同すべきものではなく、いかなる政治体制にも拘束されるものではありません。同時に、人間(ペルソナ)の超越性のしるしであり、またその保護者です」『現代世界憲章』,第76項。。教会は「国民の政治的自由と責任を尊重し促進します」『現代世界憲章』,第76項。。
[2246]
「人間の基本的権利や霊魂の救いが要求するときには、政治的秩序に関することがらについても倫理的判断を下すこと」は、教会の使命に属することです。「これらを行うにあたって教会は福音にふさわしく、時と条件の違いに応じてすべての人の益にふさわしいあらゆる手段を、そしてそれのみを用いる」『現代世界憲章』,第76項。のです。
[2247]
「あなたの父母を敬え」(申命記5∙16、マルコ7∙10)。
[2248]
神は第四のおきてで、ご自分の次には、両親および神がわたしたちの幸せのために権威をおゆだねになった人々を敬うようお命じになりました。
[2249]
夫婦共同体は、配偶者の契約ならびに同意の上に成立しています。結婚および家族というものは、夫婦の幸せや子供の出産と教育とを目指すものです。
[2250]
「個人の幸福、ならびに一般社会とキリスト教社会の幸福は、婚姻および家庭と呼ばれる共同体の健全な状態に固く結ばれています」『現代世界憲章』,第47項。。
[2251]
子供たちは両親に、尊敬、感謝、ふさわしい従順を示し、両親を助けなければなりません。孝行心は家族生活全体の調和を助けます。
[2252]
両親は、わが子に信仰と祈り、ならびにあらゆる徳を教える第一の責任者です。両親にはわが子の身体的・精神的必要を可能な限り満たす義務があります。
[2253]
両親は子供たちの召命を尊重し、その手助けをしなければなりません。キリスト者の第一の召命はイエスに従うことであるということを思い起こし、それを子供たちに教えるべきです。
[2254]
公権は、基本的人権を認め、自由を行使する条件を整えるべきです。
[2255]
国民には真理と正義と連帯と自由の精神をもって、政府と力を合わせて社会を築き上げる義務があります。
[2256]
国民には、為政者の命令が道徳に反する場合、これを拒否する良心上の義務があります。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5∙29)。
[2257]
すべての社会は、何らかの人間像やその未来像をそれぞれの判断や行動の根拠としています。神と人間とに関する福音の光に従わない社会は、容易に「全体主義」に陥ります。