[2302]
「殺すな」(マタイ5∙21)というおきてについての説明をなさるにあたって、キリストは心の平和を教え、残忍な怒りや憎悪が罪であることを明らかになさいます。
怒りは仕返しの願望です。「罰を受けなければならないような悪事を働いた者に対して仕返しを企てることはゆるされません」が、「悪癖の矯正と正義の維持のために」償いを科すことは推奨されます67。もし、怒りのあまり隣人を殺したり重傷を負わせたりすることを熟考の上で望むまでになれば、それは甚だしく愛に背くものであり、大罪となります。キリストは、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5∙22)といっておられます。
[2303]
意図的な憎しみは愛とは正反対のものです。隣人を憎み、熟考の上でその人の不幸を望むならば、罪となり、熟考の上で隣人に大きな危害を加えたいと望むならば、大罪となります。「しかし、わたしはいっておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5∙44-45)
[2304]
人間のいのちの尊重や成長のためには平和が必要です。平和とは単に戦争がないということだけではなく、また敵対者間の力の均衡を図るということだけでもありません。地上で平和が得られるのは、各個人の善益の擁護、人間相互の自由な交流、個々人ならびに諸民族の尊厳の尊重、兄弟愛の熱心な実践があってのことです。平和は「秩序の静けさ」68です。それは「正義が造り出すもの」(イザヤ32∙17)であり、愛の結果なのです69。
[2305]
地上の平和とは、メシア的「平和の君」(イザヤ9∙5)であるキリストの平和の写しであり、実りです。キリストはご自分の十字架の血によって、ご自分の中で憎しみを滅ぼし70、人々を神と和解させ、ご自分の教会を全人類の一致、神との一致の秘跡となさいました71。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2∙14)。彼は、「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5∙9)と断言されるのです。
[2306]
暴力による流血行為を放棄し、人権の擁護のために、もっとも弱い人々にも可能な防御手段を用いる人々は、福音的愛のあかしをしていることになります。ただし、それは他の人々ならびに社会の権利や義務を損なわない行為に限られたものでなければなりません。これらの人々は、破壊や死を伴う暴力を用いることが身体的・道徳的にどんなに危険なものであるかを明らかにしているのであり、それは正しいことなのです72。