[2337]
貞潔とは人格における性的特質のみごとな統合であり、したがって、肉体と精神とを兼ね備えた存在としての人間の内的な統一なのです。人間が肉体的・生物学的世界に属する存在であることを示す性的特質は、人格と人格とのかかわりの中で、また男女が時間には制約されることなく相互に自分を全面的に与え合うことによって一体となるときに、人格的なもの、真に人間的なものとなるのです。
したがって、貞潔の徳には人格の高潔さと自分を全面的に与え尽くす行為とが伴うものなのです。
[2338]
貞潔な人は、内にあるいのちや愛の力の高潔さを維持します。この高潔さは人格の統一を保証し、これを傷つけるあらゆることに対抗します。二重生活も表裏あることばも許容しません89。
[2339]
貞潔には、人間の自由を育てる自制の習得が伴います。人間が自分の情欲を抑制して平和を得るか、それとも情欲の奴隷となって不幸になるか、という二つの選択肢のどちらを選べばよいかということは明白です90。「人間の尊厳は、人間が自覚のある自由な選択に基づいて行動することを要求します。すなわち内面的な確信に基づく行動であって、盲目的本能や外からの強制によるものであってはなりません。このような尊厳は、人間が情欲のあらゆるとりこの状態から自らを解放し、善を自由に選択することによって自分の目的を追求し、効果的に巧みに適切な手段を選ぶことの中に見いだされるのです」91。
[2340]
洗礼の約束を忠実に守り、誘惑に抵抗したいと思う人は、そのための手段を講じるように心掛けなければなりません。その手段とは、自分を知ること、そのときの状況に応じた禁欲を実行すること、神のおきてへの服従、倫理徳の実行、祈りを熱心にすることなどです。「自制することによってわたしたちは結び合わされます。散り散りになっていたわたしたちが、また一つに結び合わされるのです」92。
[2341]
貞潔の徳は、人間の情欲や感覚欲に抑制を効かせる節制の枢要徳に属します。
[2342]
自制というものは根気が要るわざです。完全にこれを身に着けたなどと、決して思ってはなりません。生涯のあらゆる時期に繰り返し繰り返し努力しなければなりません93。人格が形成される青少年期のような特定の時期には、とくに大きな努力が必要となります。
[2343]
貞潔には成長の法則というものがあります。それは、不完全さや、多くの場合は罪を伴う段階を経るものです。貞潔で修徳に励む人は、「数多くの自由な決断を通じて日々自己を築いていくようなものです。ですから人間は成長するにつれて道徳的善を知り、愛し、それを実現するのです」94。
[2344]
貞潔はきわめて個人的な努力によるものですが、文化的な努力も必要になります。「人間(ペルソナ)の進歩と社会の発展とが相互に依存している」95からです。貞潔を育てるためには、人権の尊重、とくに人間のいのちの倫理的・精神的面を重視する情報や教育などを受ける権利の尊重が必要です。
[2345]
貞潔は倫理徳の一つです。それはまた、神のたまもの、恵み、霊の結ぶ実でもあります96。聖霊は、洗礼の水によって再生された者に、キリストの純潔を模倣することを可能にしてくださいます97。
[2346]
愛はすべての徳の基礎となるものです。貞潔は愛の影響のもとに、自分を与えることを学ぶ手段となります。自制することは自分を与えることにつながっていきます。貞潔を実践する者は、隣人に対して神の忠実さといつくしみの証人となっていきます。
[2347]
貞潔の徳は友情となって開花します。貞潔はそれを修める者に、わたしたちをご自分の友として選び98、自らを余すところなくわたしたちに与え、神であるご自分の身分にあやからせてくださったキリストにどのように従い、どのように見習うべきかを教えてくれます。貞潔は不死の約束です。
貞潔はとくに隣人への友情となって現れてきます。同性あるいは異性の間で培われる友情はすべての人にとって大きな善益となり、霊的交わりに導いてくれます。
[2348]
すべての受洗者は、貞潔へと召されています。キリスト者は、あらゆる貞潔の模範であるキリストを着ているのです99。すべてのキリスト者は、それぞれの固有な生活身分に応じて貞潔な生活を送るよう召されています。洗礼の際、キリスト者は自分の感情を貞潔によって制御することを約束したのです。
[2349]
貞潔は「だれでもその身分に応じて身に着けなければならないものです。ある人にとって、それは神に奉献された純潔、あるいは独身生活であって、分かたれない心をもって自分をよりたやすく神に奉献する優れた方法です。他の人にとっては、結婚しているか、独身であるかによって、規定する形態をとることになります」
100。結婚した人々は夫婦の貞潔を実践するよう招かれており、他の人々は禁欲によって貞潔を実践するのです。
「貞潔の徳には三種あります。一つは夫婦の、他はやもめの、第三は独身者のそれです。わたしたちは一方をたたえて、他を見下げたりはしません。ここに、教会の規律の豊かさがあります」101。
[2350]
婚約者は禁欲によって純潔を守るべきです。この試練に身を任せることにより、相互尊重の精神を学び、忠実と互いを神から受けとるという希望とを実習することになるでしょう。婚約者は夫婦愛の特別な愛情の表現を、結婚するときまで控えるべきです。そして、互いに貞潔を強固なものにすることができるよう助け合わなければなりません。
[2351]
邪淫とは性的快楽のよこしまな望み、あるいはその乱れた享受です。性的楽しみが倫理的によこしまなものとなるのは、出産と人格的結合という目的から切り離されて、それ自身が求められる場合です。
[2352]
自淫(自慰)とは、性的快楽を得るために性器を故意に刺激することです。「絶えざる伝統の中で、教会の教導職も信者たちの道徳的感覚もともに躊躇することなく、自慰が本質的に、また非常に秩序を乱す行為であることを宣言してきました」。「その動機が何であれ、正当な夫婦関係以外での性機能の意図的行使は、その機能の究極的目的に本質的に反します」。この場合、性の快楽は「道徳的秩序によって要求される性的関係、すなわち、真の愛の連関において相互授与と人間繁殖の十全な意味を実現する」102関係以外に求められています。
当事者の倫理的責任を公正に判断し、司牧活動を方向づけるためには、感情的な未成熟さ、身に着けた習慣の力、不安の状況、あるいは他の精神的・社会的要因などを考慮しなければなりません。これらの要因によって倫理的罪責が軽くなったり、最小限に減じたりすることもありうるからです。
[2353]
私通とは、結婚していない男女の性交のことです。私通は、人間の尊厳と、本来は夫婦の幸せならびに子供の出産と教育とを目的とする人間の性の尊厳とに甚だしく背くものです。青少年を堕落させるならば、さらに重大なつまずきの罪を加えることになります。
[2354]
ポルノとは、実際のあるいは見せかけの性行為を取り上げ、意図的に第三者に提示することです。これは夫婦が相互を親密に与え合う行為を歪曲するものなので、貞潔を傷つけることになります。また、ポルノにかかわる人々(俳優、商人、観賞者)の尊厳を大いにおとしめるものです。なぜなら、それぞれが他の人に対して低俗な快楽や不法な利益の対象となるからです。また、お互い同士を不自然な世界の幻想に陥れるものです。ポルノは大罪です。政治をつかさどる者は、ポルノ商品の生産や販売拡散を阻止すべきです。
[2355]
売(買)春は売春者を性的快楽の道具とし、人間としての尊厳を傷つけるものです。買春のために代価を支払う者は洗礼によって約束した貞潔を破り、聖霊の神殿である自分のからだを汚して103、自分自身に対して大きな罪を犯すことになります。売春は社会的害悪です。通常は女性が被害者ですが、男性や、子供ないし十代の若者も被害者となることがあります(後の二つの場合は、つまずきによって罪は倍加されます)。売春に身をゆだねることはつねに大罪ですが、貧困あるいは恐喝や社会的誘惑などによってなされるような場合には、その罪責が軽くなることもありえます。
[2356]
強姦とは、暴力を用いてある人を性的に犯すことです。強姦は正義と愛とに反し、一人ひとりの人間が持っている尊敬、自由、身体的・精神的保全の権利を根底から侵害するものです。また、被害者に重大な損傷を与え、その害が生涯にわたることもあります。どのような場合であろうとも、強姦それ自体が悪い行為です。家族の者(近親相姦の項参照)による、あるいは預けられた子供に対する教育者による強姦は、さらに重大な罪となります。
[2357]
同性愛とは、同性に対してのみ、もしくはおもに同性に対して性愛を抱く男同士、または女同士の関係を意味します。これは時代や文化の違いによって、きわめて多様な形をとっています。その心理学的原因はまだ十分には解明されていません。これを重大な堕落としている聖書に基づき104、聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの」105であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません。
[2358]
無視できない数の男性や女性が、同性愛の根強い傾向を持っています。この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。したがって、同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。不当に差別をしてはなりません。これらの人々は、自分の生活の中で神のみ旨を果たすように、キリスト信者であれば、自分のこの傾向から生じる困難をキリストの十字架の犠牲と結び合わせるように、と呼びかけられているのです。
[2359]
同性愛的な傾向を持っている人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘跡の恵みによって、少しずつではあっても確実にキリスト教的完全さに近づくことができるし、またそうしなければなりません。