結果 2360-2379
「トビアは寝床から起き上がり、サラにいった。『愛する者よ、起きなさい。二人で主に祈り、主がわたしたちをあわれんで救ってくださるように願い求めよう』。そこで彼女も起き上がり、二人は主の救いを求め始めた。トビアは祈っていった。『わたしたちの先祖の神よ、あなたは……たたえられますように。……あなたはアダムを造り、また、彼の助け手、支え手として妻エバをお造りになりました。そしてその二人から、人類が産まれて来たのです。そのとき、あなたは仰せられました。「人が一人でいるのはよくない。彼のために、彼と同じような助け手を造ろう。」今わたしは、この人を、情欲に駆られてではなく、み旨に従ってめとります。どうか、わたしとこの人をあわれみ、わたしたちがともに年老いていくことができるようにしてください。』二人は一緒に『アーメン、アーメン』といった。そしてその夜は眠りに就いた」(トビト8∙4-9)。
「創造主ご自身が、夫婦が性交の中で肉体と精神の楽しみと満足を覚えるように定められました。したがって、夫婦がこの楽しみを求め、享受することはいささかも悪いことではありません。夫婦は、創造主がお与えになったものをいただくのです。ただし、中庸を守ることを心得なければなりません」108。
聖ヨハネ・クリゾストモは若い夫たちに、自分の妻に次のような話をするように勧めています。「僕は君を僕の腕に抱いた。僕は君を愛し、自分のいのちよりも大切に思っている。現世はうたかたなのだ。僕が熱烈に希望していることは、あの世でも決して君と離れることなく一緒に生活できるように現世を過ごすことであり、そのためならば何でもする覚悟である。……僕は君が喜ぶことは何でもしたいと思っている。僕の考えが君の考えと違っているなら、これ以上に苦しいことはない」112。
「夫婦愛と生命伝達の責任との調和が問題となるときには、行為の倫理性は意向の純粋性や動機の評価だけに依存するのではありません。それは人間(ペルソナ)とその行為の本性から引き出された客観的基準、真の愛の連関において相互授与と人間繁殖の十全な意味を守る基準によって、定められるべきです。このことは夫婦間の貞潔の徳をまじめに実践することなしには実現できません」119。
「夫と妻が全面的に相互に自己を与え合うことを本来意味する人間の性という言語は、相手に自己を全面的に与えないことを意味する避妊とは客観的に矛盾し相いれないものです。避妊は生命に開かれていることへの積極的な否定であり、人格全体において与えるように呼ばれている夫婦愛の神からの真理を偽るものです。……避妊と周期のリズムを利用することの人間学的・倫理的な分岐点には、……人格と性に関する調和することのできない二つの考え方があります」123。