[2360]
性的特質は夫と妻による夫婦愛のために向けられています。結婚における夫婦の肉体的交わりは、精神的交わりのしるしならびに保証となるものです。受洗者同士の結婚のきずなは、秘跡によって聖化されます。
[2361]
「男女が配偶者のみとの限られた固有の行為を通じて自分を互いに与え合う性は、決して生物学的なものではなく、まさに人間のもっとも深い存在そのものにかかわるものです。性というものが、死に至るまで男女が互いに自身のすべてをささげ合う愛の統合された部分であるなら、それはまことに人間らしいしかたで実現されているのです」
ヨハネ・パウロ2世『家庭』11(loc. cit., 92)。。
「トビアは寝床から起き上がり、サラにいった。『愛する者よ、起きなさい。二人で主に祈り、主がわたしたちをあわれんで救ってくださるように願い求めよう』。そこで彼女も起き上がり、二人は主の救いを求め始めた。トビアは祈っていった。『わたしたちの先祖の神よ、あなたは……たたえられますように。……あなたはアダムを造り、また、彼の助け手、支え手として妻エバをお造りになりました。そしてその二人から、人類が産まれて来たのです。そのとき、あなたは仰せられました。「人が一人でいるのはよくない。彼のために、彼と同じような助け手を造ろう。」今わたしは、この人を、情欲に駆られてではなく、み旨に従ってめとります。どうか、わたしとこの人をあわれみ、わたしたちがともに年老いていくことができるようにしてください。』二人は一緒に『アーメン、アーメン』といった。そしてその夜は眠りに就いた」(トビト8∙4-9)。
[2362]
「夫婦を親密に清く一致させる行為は正しく品位のある行為です。夫婦の行為が真に人間らしい方法で行われるならば、相互の与え合いを意味し、これをはぐくみます。夫婦はこの相互の与え合いによって、喜びと感謝のうちに互いを豊かにします」
『現代世界憲章』,第49項。。性は喜びと楽しみの泉です。
「創造主ご自身が、夫婦が性交の中で肉体と精神の楽しみと満足を覚えるように定められました。したがって、夫婦がこの楽しみを求め、享受することはいささかも悪いことではありません。夫婦は、創造主がお与えになったものをいただくのです。ただし、中庸を守ることを心得なければなりません」ピウス12世「イタリア・カトリック助産婦協会大会の参加者へのあいさつ(1951年10月29日)」 (AAS43 [1951] 851)。。
[2363]
夫婦の結合によって結婚の二つの目的、つまり、夫婦自身の幸せと生命の伝達という目的が達せられます。もし、結婚のこの二つの意味または価値を切り離すなら、夫婦の霊的生活をゆがめ、結婚の幸せと家族の将来とを危うくすることになります。
したがって、夫と妻による夫婦愛には忠実さと出産という二つのものが求められるのです。
[2364]
夫婦の双方によって、「創造主によって設立され、法則を与えられた」「生命と愛の深い共同体」が作り上げられます。「それは結婚契約すなわち本人自身の、撤回できない同意を基礎とする」『現代世界憲章』,第48項。ものです。双方が互いに自らを決定的に、余すところなく与え合います。もはや二人ではなく、ただ一つのからだとなります。夫婦が自由意志をもって結んだ契約が、両者にこれを唯一・不解消の契約として守る義務を課すのです 「新教会法典」第1056条参照。。イエスは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マルコ10∙9)マタイ19・1-12、1コリント7・10-11参照。と教えておられます。
[2365]
忠実とは、約束したことをあくまでも守り通すことです。神は忠実であられます。結婚の秘跡は、夫と妻をご自分の教会に対するキリストの忠実にあやからせてくれます。二人は夫婦間の貞潔を守ることを通して、人々の前でこの神秘の証人となるのです。
聖ヨハネ・クリゾストモは若い夫たちに、自分の妻に次のような話をするように勧めています。「僕は君を僕の腕に抱いた。僕は君を愛し、自分のいのちよりも大切に思っている。現世はうたかたなのだ。僕が熱烈に希望していることは、あの世でも決して君と離れることなく一緒に生活できるように現世を過ごすことであり、そのためならば何でもする覚悟である。……僕は君が喜ぶことは何でもしたいと思っている。僕の考えが君の考えと違っているなら、これ以上に苦しいことはない」聖ヨアンネス・クリュソストモス『エフェソの信徒への手紙講話』 (S. Ioannes Chrysostomus, In epistulam ad Ephesios, homilia 20, 8 : PG 62, 146-147)。。
[2366]
夫婦愛は本来子供の出産に向けられているものなので、出産はいわばたまものであり、結婚の目的なのです。子供は、夫婦の相互愛に対して外部から付録として与えられるものではありません。夫婦相互の与え合う心の中から生まれ出るものであり、その実りであり成就なのです。したがって、「生命を守る」ヨハネ・パウロ2世『家庭』30(loc. cit., 116)。教会は、「夫婦行為の一つ一つが、それ自体、生命の産出に向けられていなければならない」パウルス6世回勅『フマーネ・ヴィテ』,第11項 (Humanae vitae : AAS 60 [1968] 488)。と教えています。「教会の教導職によってしばしば説かれてきたこの教えは、夫婦行為のうちに共存する一致の意義と産児の意義との間には、神によって定められ、人間が勝手に切り離すことのゆるされない不可分なつながりが存在することを前提としています」同12(loc. cit., 488)。ピウス11世『カスティ・コンヌビー』 (DS3717)参照。。
[2367]
いのちを与えるために召された夫婦は、神の創造の力と父性とにあずかりますエフェソ3・14-15、マタイ23・9参照。。「人間の生命を伝達し、人間を育てる任務(これは夫婦の固有の使命と考えるべきものです)において、夫婦は自分たちが創造主である神の愛の協力者であり、いわばその解釈者であることを知っています。したがって、人間として、またキリスト者としての責任をもって自分たちの務めを果たすべきです」 『現代世界憲章』,第50項。。
[2368]
この責任はとくに
計画出産の問題において重視される必要があります。正当な理由があれば
『現代世界憲章』,第50項参照。、夫婦は子供の出産に間隔をあけることができます。ただし、確認しておかなければならないのは、その決定は盲目的な自己愛(「利己主義」)に由来するものではなく、責任ある親としての正当な配慮によるものでなければならないということです。そのうえ、客観的な倫理基準に従って自分たちの行為を規定する必要があります。
「夫婦愛と生命伝達の責任との調和が問題となるときには、行為の倫理性は意向の純粋性や動機の評価だけに依存するのではありません。それは人間(ペルソナ)とその行為の本性から引き出された客観的基準、真の愛の連関において相互授与と人間繁殖の十全な意味を守る基準によって、定められるべきです。このことは夫婦間の貞潔の徳をまじめに実践することなしには実現できません」『現代世界憲章』,第51項。。
[2369]
「この一致と産児の本質的意義がともに守られるとき、はじめて夫婦行為は、相互の、真実な愛の意味を持ち、親となるという、人間に与えられたきわめて崇高な使命への秩序づけを保持するのです」パウルス6世『フマーネ・ヴィテ』,第12項(loc. cit., 489)。。
[2370]
定期的禁欲、自己観察に基づいた計画的出産法、ならびに不妊期間の利用などは
同16(loc. cit., 491-492)参照。、客観的倫理基準にかなったものです。以上のような方法を用いることは、夫婦のからだを尊重し、二人の間の思いやりをはぐくみ、正しい自由の教育に寄与することにもなります。これに反して、「夫婦行為が予見され、あるいは行われ、あるいはその自然的結果へ向かっているときに、達成すべき目的としてあるいは用いるべき手段として、出産をさまたげることを意図する行為」
同14(loc, cit., 490)。は、どのようなものであろうともそれ自体として悪いものです。
「夫と妻が全面的に相互に自己を与え合うことを本来意味する人間の性という言語は、相手に自己を全面的に与えないことを意味する避妊とは客観的に矛盾し相いれないものです。避妊は生命に開かれていることへの積極的な否定であり、人格全体において与えるように呼ばれている夫婦愛の神からの真理を偽るものです。……避妊と周期のリズムを利用することの人間学的・倫理的な分岐点には、……人格と性に関する調和することのできない二つの考え方があります」ヨハネ・パウロ2世『家庭』32(loc. cit., 119-120)。。
[2371]
「人間の生命とそれを伝達する務めは、この世のみに限定された現実ではないし、この世の観点からのみ評価し理解しうるものでもなく、つねに人間の永遠の目的に関連して考えなければならないことを、すべての人が知るべきです」 『現代世界憲章』,第51項。。
[2372]
国には、国民の幸せについての責任があります。それゆえ、人口動態を方向づけるために介入するのは正しいことです。ただし、人間を尊重する客観的情報を提供するという形で介入することはできても、高圧的で強制的な手段を用いることはできません。夫婦の自発的考えを国が無理やりに自分に従わせようとすることはゆるされません。夫婦こそが、子供の出産や教育についての第一の責任者だからですパウルス6世『ポプロールム・プログレシオ』,第37項(loc. cit.,275-276)、同『フマーネ・ヴィテ』,第23項(loc. cit., 497-498)参照。。この分野においては、国には道徳律に反する手段を用いて介入する権利はありません。
[2373]
聖書も教会の伝統も、家族が多くの子供に恵まれていることを、神の祝福ならびに親の広い心のしるしだとみなしています『現代世界憲章』,第50項参照。。
[2374]
不妊を知った夫婦の苦しみは並大抵のものではありません。アブラハムは、「わが神、主よ、わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません……」(創世記15∙2)と神に詰問します。ラケルは夫のヤコブに、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」(創世記30∙1)と叫びます。
[2375]
人間の不妊を減じようとする研究は、それが「人間に奉仕し、人間の持つ譲りえない権利に奉仕し、神の計画と意志に従って、人間の真の全面的な善に奉仕するもの」教理省『生命のはじまりに関する教書』序文2(loc. cit., 73)。であれば、勧められるべきです。
[2376]
夫婦以外の者の介入(精液や卵母細胞の提供、母胎の貸与)によって親子関係の遊離を生じさせる技術は、きわめて不道徳です。子供は、自分が知っている、結婚によって結ばれた両親から産まれる権利を持っていますが、以上の技術(非配偶者間の人工授精ないし人工受胎)はこの権利を侵害するものです。またそれは、「結婚相手を通してしか父親や母親にはなれないという権利」同第2章1(loc. cit., 87)。を捨て去ることになります。
[2377]
これらの技術が夫婦間で活用される場合(配偶者間の人工授精や受胎)は有害度は減じるかもしれませんが、倫理的にはやはり容認できるものではありません。性行為と出産行為とを切り離しているからです。子供の誕生の原因となる行為は、もはや二人が相互に与え合う行為ではありません。それは「受精卵の生命とアイデンティティーを医師と生物学者の手にゆだね、人間の生命の始まりと運命を科学技術の支配下に置くものです。このような支配関係は、両親と子供が共通して持っている尊厳と平等に反します」同第2章5(loc. cit., 93)。。「夫婦の営みの結果として求められるのではないような生殖のあり方は、倫理的観点から見れば、本来の完全性を失ったものといわなければなりません。……夫婦の営みの二つの意味の間のつながりと、人間における肉体と精神の一体性の両方を尊重してはじめて、人間の尊厳にかなった生殖が可能となります」同第2章4(loc. cit., 91)。。
[2378]
子供は負い目ではなく、たまものです。「結婚のかけがえのないたまもの」は一人の人格です。子供を一個の所有物とみなすことはできません。「子供への権利」という考え方は、子供を所有物とみなすことにつながってきます。この分野では、子供だけが真の権利、すなわち、「両親の夫婦としての愛の営みの実りとして生まれる権利、また受精の瞬間から人間として尊重される権利」同第2章8(loc. cit., 97)。を持っているのです。
[2379]
福音書は、不妊は絶対悪ではないと教えています。医学上の手段を利用し尽くしても子供に恵まれずに苦しむ夫婦は、あらゆる霊的豊かさの源であるキリストの十字架にあずかるべきです。このような夫婦は、遺棄された子供を養子にしたり、他者への奉仕活動に献身したりすることで、その優しい心を表すことができます。