[2372]
国には、国民の幸せについての責任があります。それゆえ、人口動態を方向づけるために介入するのは正しいことです。ただし、人間を尊重する客観的情報を提供するという形で介入することはできても、高圧的で強制的な手段を用いることはできません。夫婦の自発的考えを国が無理やりに自分に従わせようとすることはゆるされません。夫婦こそが、子供の出産や教育についての第一の責任者だからですパウルス6世『ポプロールム・プログレシオ』,第37項(loc. cit.,275-276)、同『フマーネ・ヴィテ』,第23項(loc. cit., 497-498)参照。。この分野においては、国には道徳律に反する手段を用いて介入する権利はありません。
[2373]
聖書も教会の伝統も、家族が多くの子供に恵まれていることを、神の祝福ならびに親の広い心のしるしだとみなしています『現代世界憲章』,第50項参照。。
[2374]
不妊を知った夫婦の苦しみは並大抵のものではありません。アブラハムは、「わが神、主よ、わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません……」(創世記15∙2)と神に詰問します。ラケルは夫のヤコブに、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」(創世記30∙1)と叫びます。
[2375]
人間の不妊を減じようとする研究は、それが「人間に奉仕し、人間の持つ譲りえない権利に奉仕し、神の計画と意志に従って、人間の真の全面的な善に奉仕するもの」教理省『生命のはじまりに関する教書』序文2(loc. cit., 73)。であれば、勧められるべきです。
[2376]
夫婦以外の者の介入(精液や卵母細胞の提供、母胎の貸与)によって親子関係の遊離を生じさせる技術は、きわめて不道徳です。子供は、自分が知っている、結婚によって結ばれた両親から産まれる権利を持っていますが、以上の技術(非配偶者間の人工授精ないし人工受胎)はこの権利を侵害するものです。またそれは、「結婚相手を通してしか父親や母親にはなれないという権利」同第2章1(loc. cit., 87)。を捨て去ることになります。
[2377]
これらの技術が夫婦間で活用される場合(配偶者間の人工授精や受胎)は有害度は減じるかもしれませんが、倫理的にはやはり容認できるものではありません。性行為と出産行為とを切り離しているからです。子供の誕生の原因となる行為は、もはや二人が相互に与え合う行為ではありません。それは「受精卵の生命とアイデンティティーを医師と生物学者の手にゆだね、人間の生命の始まりと運命を科学技術の支配下に置くものです。このような支配関係は、両親と子供が共通して持っている尊厳と平等に反します」同第2章5(loc. cit., 93)。。「夫婦の営みの結果として求められるのではないような生殖のあり方は、倫理的観点から見れば、本来の完全性を失ったものといわなければなりません。……夫婦の営みの二つの意味の間のつながりと、人間における肉体と精神の一体性の両方を尊重してはじめて、人間の尊厳にかなった生殖が可能となります」同第2章4(loc. cit., 91)。。
[2378]
子供は負い目ではなく、たまものです。「結婚のかけがえのないたまもの」は一人の人格です。子供を一個の所有物とみなすことはできません。「子供への権利」という考え方は、子供を所有物とみなすことにつながってきます。この分野では、子供だけが真の権利、すなわち、「両親の夫婦としての愛の営みの実りとして生まれる権利、また受精の瞬間から人間として尊重される権利」同第2章8(loc. cit., 97)。を持っているのです。
[2379]
福音書は、不妊は絶対悪ではないと教えています。医学上の手段を利用し尽くしても子供に恵まれずに苦しむ夫婦は、あらゆる霊的豊かさの源であるキリストの十字架にあずかるべきです。このような夫婦は、遺棄された子供を養子にしたり、他者への奉仕活動に献身したりすることで、その優しい心を表すことができます。