[2401]
第七のおきては、他人の財貨を不当に取ったり所有したりすること、また他人の財貨に何らかの形で損害を与えることを禁じています。この世の財貨や人間の労働の実りを正義と愛の心をもって管理するように命じており、財貨の普遍的使用目的や私的所有権を共通善という観点から尊重するよう求めています。キリスト者は生活の中で、この世の財貨を神のために、また兄弟愛のために用いるように努めます。
[2402]
初めに、神は地とその産物とを人類の共同の管理にゆだね、人類がそれに手を加え、労働によって支配し、その実りを得るようにはからわれました148。創造されたものは全人類のためのものです。けれども、土地は人々に分配されました。それは、欠乏や暴力の危険にさらされる生活の安全を保証するためです。財貨を私有することは、人間の尊厳と自由とを保証し、それぞれが自分自身にとって基本的に必要なものや自分が扶養する人々にとって必要なものを賄えるようにするためには、正当なことです。それは、人々の間にある本来の連帯性を表すためにゆるされるべきことです。
[2403]
正しい方法で取得したり受け取ったりした財貨の私的所有権は、地が初めから人類全体に与えられたものであるということと矛盾するものではありません。たとえ共通善の促進という目的のために私有財産やその権利、ならびにその行使の尊重が求められているとしても、つねに第一に優先されなければならないのは、財貨の普遍的使用目的だからです。
[2404]
「人間は財の使用に際して、自分が正当に所有している物件を自分のものとしてばかりでなく共同のものとしても考えなければなりません。すなわち、物件は自分のためばかりでなく、他人のためにも役立つようにという意味においてです」149。ある財貨を所有するということはその所有者が神の摂理の管理者にされるということであり、当人はその実を結ばせ、手にした利益を他の人々と、まず第一に隣人と分かち合うべきなのです。
[2405]
土地、工場、才能、技術などのような生産財⸺物質的なものであろうと非物質的なものであろうと⸺を所有する者は、それらの生産力ができるだけ多くの人に役立つように配慮すべきです。使用財や消費財の所有者は節度をもってこれを用い、最良のものは客や病人や貧しい人のために残しておかなければなりません。
[2406]
政治をつかさどる者は、所有権の正しい行使を共通善のために規制する権利や義務を持っています150。
[2407]
経済的なことがらに関しては、人間の品位を尊重するために、徳の実践が必要です。この世の財貨への執着を抑制するには節制の徳の、他の人の権利を守り、その人に当然帰すべきものを帰すためには正義の徳の黄金律に従い、また、豊かなかたであられたのに、ご自分の貧しさによってわたしたちを豊かにしてくださるために、わたしたちのために貧しい者となられたキリスト151の惜しみない心に従うには、連帯の徳の実践が必要になります。
[2408]
第七のおきては、盗み、すなわち所有者の道理にかなった意志に反して他人の財貨を横領することを禁じます。所有者の同意が予測されるか、所有者の拒否が道理にも財貨の普遍的使用目的にも反しているような場合には、盗みとはなりません。この原理が適用されるのは、緊急に必要となっている最低限のもの(食料、住居、衣類など)を取得する手段が他人の財貨を手に入れて使用する以外にはないという、緊急で明白な必要性に迫られているような場合です152。
[2409]
他人の財貨を不正に取ったり所有したりするのは、たとえ民法の規定には反していなくても、すべて第七のおきてに反する行為です。たとえば、借用物や遺失物を故意に返さないこと、商売でごまかすこと
153、不当な賃金を支払うこと
154、他人の無知あるいは窮状に乗じて物価を上げること
155などです。
また、以下のことがらも倫理的に容認することはできません。財物の評価を不自然に変えさせて他人に損害を与えることによって益を得る商売、法律に従って決定する立場にある者を正しい判断から踏みはずさせるわいろ、ある企業の財貨を私物化したり私用したりすること、手抜き工事、脱税、小切手や請求書の偽造、過剰な出費、浪費、私有物もしくは公有物を故意に損傷することなどは道徳律に背くもので、その賠償をしなければなりません。
[2410]
約束は守られるべきです。契約は、なされた誓約が道徳的に正当である限り厳密に守られなければなりません。経済生活や社会生活のかなりの部分は、個人や法人間で結ばれた契約、たとえば、売買の取引契約、小作契約、労働契約などが守られるか否かに左右されています。あらゆる契約は誠意をもって結ばれ、実行されるべきです。
[2411]
契約は、個人間および団体間の取引をそれぞれの権利を厳密に尊重して規制する、
交換的正義に基づいて行われるべきです。交換的正義の拘束は厳格であって、所有権の保護、負債の返済、自由意志をもって引き受けた義務の履行を要求します。交換的正義なしには、他のいかなる種類の正義も成り立ちません。
交換的正義のほかにも、国家に対して国民が公平に果たすべきことがらにかかわる法的正義や、その貢献度や必要度に比例した国家の国民への義務を規定する配分的正義などがあります。
[2412]
犯した
不義を償うためには、交換的正義に基づいて、所有者から奪ったものを返済しなければなりません。
イエスはザアカイが、「だれかからか何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19∙8)ということばで自分の決意を表明したとき、これをほめておられます。直接・間接に他人の財貨を奪った者には、奪ったものを返済するか、もしそれが手元にない場合には同種類のものあるいは金銭で等価のものを返済するかした上に、所有者がそれを所有し続けていたら正当に得たに違いない成果や利益分も返済する義務があります。同じく、何らかの方法で盗みに加担するか盗品だと知りつつ使用した者、たとえば、盗みを命じたり、助けたり、隠匿したりした者は、自分たちの責任やもうけに応じた返済をする義務があります。
[2413]
とばく(トランプなどによる)やかけごと自体は、正義に反するものではありません。しかし、自分や身内の者の生計を立てるために必要なものを失うような場合は、道徳的に容認できなくなります。かけごとに熱中すれば、そこから抜け切れない重大な羽目に陥ります。不当なかけごとやいかさまとばくなどは、重大な罪になります。ただし、与えた損害が些少で、損害を受けた者もそれを重視しているとは考えられない場合には、重大な罪にはなりません。
[2414]
第七のおきては、それが利己主義、イデオロギー、金もうけ主義、全体主義などのいずれに基づくものであっても、人間を奴隷化したり、人間の尊厳を無視したり、人間を商品として売買したり交換したりするようなことにつながる行為や事業を禁じます。暴力によって人間を単なる利用価値ないし利潤の手段にしてしまうことは、人間の尊厳とその基本的人権とに反する罪です。聖パウロはキリスト教徒の主人に、キリスト教徒の奴隷を「もはや奴隷としてではなく、……一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟」(フィレモン16)として取り扱うように命じています。
[2415]
第七のおきては、被造界の保全を尊重するように求めます。動物だけではなく植物や無生物さえも、本来は、過去・現在・未来の人類の共通善に向けて造られたものです156。世界の鉱物・植物・動物資源は、倫理的要求を尊重しながら利用しなければなりません。創造主は人間に無生物や人間以外の生物に対する支配権を与えてくださいましたが、この支配権は絶対的なものではありません。将来の世代も含めた人々の生活の質を考慮して節度を保ち、宗教心をもって被造界の保全の尊重を心掛ける必要があります157。
[2416]
動物は神によって造られたものです。神は動物に摂理的な思いやりを注いでおられます158。動物はただ存在するだけで神をたたえ、神に誉れを帰しているので159、人間も動物に対するいつくしみの心を持つべきなのです。アシジの聖フランシスコや聖フィリッポ・ネリのような聖人たちがどのように温かく動物に接したかを銘記すべきです。
[2417]
神は動物を、ご自分にかたどって造られた人間の管理にゆだねられました160。だから、動物を食糧や衣類として用いることは正当なことです。労働や娯楽などで人間の手助けをするために飼い馴らすこともゆるされています。医学的・科学的動物実験は、妥当な限度内にとどまり、人間の生命をいやしたり救ったりすることに役立つ限り、倫理的に容認できる行為です。
[2418]
動物に無益な苦痛を与えたり、みだりに殺害したりするのは、人間の品位に反することです。また、人間の悲惨事を和らげるために用いるべきはずの金額を、動物のために消費するのもふさわしいことではありません。動物を愛してもかまいませんが、人間だけが受けるにふさわしい愛情を動物に注いではなりません。
[2419]
「キリストの啓示は……社会生活の諸法則についてのいっそう深い理解にわたしたちを導きます」161。教会は人間の真理に関する完全な啓示を福音からくみ取ります。教会は福音をのべ伝えるという自分の使命を果たすとき、キリストの代理者として、人間には固有の尊厳が与えられており、自分たちは人間同士の交わりに召されているのだということを説明し、神の英知にかなった正義と平和を実現するためには何をなすべきなのかを教えます。
[2420]
教会は、「人間の基本的権利や霊魂の救いが要求するときには」162、経済的・社会的問題に関する倫理的判断を下します。教会は倫理の領域において、公権のそれとは異なる使命を持っています。教会は、地上的共通善はわたしたちの究極目的である最高善に向けられているものなので、そのための配慮をします。教会は、この世の善益に対して、また社会的・経済的関係において、正しい態度を取るようにとわたしたちを励まし続けています。
[2421]
教会の社会的教えが発展したのは19世紀です。そのとき福音は、近代工業社会、消費材生産を目指す新しい社会構造、社会・国家・権威についての新しい考え方、新しい労働や所有の形態と直面するようになりました。経済・社会問題に関する教会の教えの発展は、教会の教えの恒久的な価値と同時に、つねに生きており活力に満ちた聖伝の真の意味を示すものです163。
[2422]
教会の社会的教えは、教会が聖霊の助けのもとに、歴史的な出来事をキリスト・イエスによって啓示されたことばの全体と照合しながら解釈する度合いに応じて、体系化されていきます164。この教えは、信者がそれに従いたいと思うものであればあるほど、善意の人々に受け入れやすいものとなります。
[2423]
教会の社会的教えは反省するための原理を提示し、判断基準を明らかにし、行動するための指針を与えます。
社会的関係を経済的要因によってのみ決定するような体制はすべて、本来の人間ならびにその行為とは相対立するものです165。
[2424]
利潤を経済活動の唯一の規範、究極の目的とする理論は倫理的に容認できません。過度の金銭欲は不正な結果を生み出さずにはおきません。それは社会秩序を乱す多くの紛争を引き起こす原因の一つです166。
「生産の集団組織を個人と団体の基本的権利に優先させる」167体制は、人間の尊厳とは相対立するものです。人々をまったくの生産手段にしてしまうあらゆる行為は、人間を奴隷化し、拝金主義に導き、無神論の拡大に貢献します。イエスは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6∙24、ルカ16∙13)といっておられます。
[2425]
教会は、現代において「共産主義」ないし「社会主義」と結びついた、全体主義的、無神論的イデオロギーを排斥しました。さらに、「資本主義」構造の中での、個人主義と、人間の労働に対する市場法則至上主義とを排斥しました168。中央集権的な計画経済は、社会の成員たちを結ぶ諸関係を根本的に歪曲させるものです。他方、市場法則のみによる経済操作も社会正義に反します。というのは、「市場に位置づけられない人間的必要もたくさんある」169からです。正しい価値体系に基づき、共通善を目指して、市場を妥当に操作しながら経済的発意を奨励しなければなりません。
[2426]
経済活動の発展ならびに生産増大の目的は、人々の必要を満たすことです。経済生活が目指すべきものは、単に生産を増やしたり利潤ないし勢力を増大させたりすることではなく、何よりも一人ひとりの人間、またすべての善良な人間、そして人類共同体全体への奉仕なのです。固有の法則ならびに方法で行われる経済活動は、人間に対する神の計画と調和するために、社会正義に基づきながら倫理の範囲内で行われるべきです170。
[2427]
人間の労働というものは、神にかたどって造られ、地を支配しながら、人々とともにまた人々のために創造のわざを継続するようにと召されているおのおのの人格から直接に出てくるものです171。したがって、労働は義務なのです。聖パウロも、「働きたくない者は、食べてはならない」(二テサロニケ3∙10)172といっています。労働は創造主からのたまものと受けた才能とを大事に生かすことです。それはまた、あがないの価値を持つものともなります。人間は、ナザレの職人でありゴルゴタで十字架につけられたイエスと心を合わせて労働の労苦に耐えることによって173、何らかの形で神の御子のあがないのわざに協力するのです。人間は、自分が召された活動の中で日々十字架を担いながら、キリストの弟子であることを表します174。労働は、現世的事物を聖化する手段、この世の現実をキリストの霊において活性化するものとなりえるものなのです。
[2428]
人間は労働をしながら、自分の本性に刻まれた能力の一部を働かせ、完成させます。労働の第一の価値は、労働の主体であり目的である人間そのものにあります。労働は人間のためにあるもので、人間が労働のために存在するのではありません175。
一人ひとりの人間は労働に携わって自分と家族の生計を立て、人間共同体に奉仕することができるようにしなければなりません。
[2429]
一人ひとりの人間が経済上の創意を発揮する権利を持っています。各自が自分の才能を正しく用いてすべての人が豊かになるための貢献を行い、その努力の正当な実りを取得するのは正しいことです。ただし、共通善のために合法的権威によって定められた規則には従わなければなりません176。
[2430]
経済生活にはしばしば、相互に相反する種々の利害が現れます。そのために、経済生活の特徴である争議が生じてくるわけです177。このような争議は、労使双方の権利や義務を守る交渉によって解決するよう努力しなければなりません。それは、企業の責任者と被雇用者の代表(たとえば、労働組合)との交渉、場合によっては政府との交渉という形を取ることになるでしょう。
[2431]
国の責任。「経済活動、ことに市場経済の活動は、制度的、法的、政治的空白の中で営まれることはできません。それどころか、市場経済は、個人の自由と私的所有の保障、そして安定した通貨と効果的な公共サービスを前提としています。こうして、労働と生産に携わる人々が自己の労働の成果を享受し、それによって有能かつ誠実に働こうと思えるように、このような諸条件の安定を保証することが国家の第一の任務となります。……国家のもう一つの任務は、経済部門における人権の行使を監視し、指導することです。しかしながら、この分野における第一の責任は、国家ではなく、社会を構成する個人、集団、団体にあります」178。
[2432]
企業の経営者は、その企業活動における経済ならびに環境問題に関する責任を社会に対して負っています179。利潤の増加だけではなく、人々の善益を考慮しなければなりません。とはいえ、利潤も必要です。利潤は企業の将来を保証する投資を可能にさせ、雇用を保証するからです。
[2433]
就労と就職の機会は男女、健常者と身体障害者、先住者と移住者の不当な差別なく、万人に与えられるべきです180。状況によっては、社会としても市民が仕事と雇用を得ることができるように助けなければなりません181。
[2434]
公正な賃金は、労働の当然な実りです。これを支払わなかったり支払いを延期したりすることは重大な不正となりえます182。公正な賃金を決めるには、各自の必需ならびに貢献度の双方を考慮しなければなりません。「労働の報酬は、各自の任務と生産性、企業の状況と共通善を考慮した上で、本人とその家族に物質的・社会的・文化的・精神的生活をふさわしく営むことのできる手段を保障するものでなければなりません」183。労使間の合意がなされたということだけでは、賃金額が倫理的に正当なものであるとするには不十分です。
[2435]
ストライキは、それが労働に見合った報酬を受けるためにはやむをえないか、むしろ必要でさえあるということが明らかな場合には、倫理的にゆるされる行為です。暴力を伴ったり、労働条件とは直接には結びつかない目的を持っていたり、共通善に反するような場合には、倫理的にゆるされるものではありません。
[2436]
合法的権威によって定められた負担金を社会保障機関に支払わないのは、不正なことです。
失業のために就業できないことによって、ほとんどの場合、その犠牲者となる人の尊厳が傷つけられ、安定した生活もできなくなります。本人が受ける損害だけではなく、家族にも多くの害悪が生じることになります184。
[2437]
国際的関係においては、資源や経済手段の不平等が国々の間に深い「溝」を生じさせるほどになっています185。一方には成長の手段を所有し発展させている国々があるかと思えば、他方には負債を増大する国々があるのです。
[2438]
宗教的・政治的・経済的・金融的なさまざまな原因によって、今日、「社会問題が世界的広がりを獲得するに至っています」186。国々は政治の面ですでに依存し合ってはいますが、国際間の連帯が必要なのです。発展途上国の発展を妨げる「あくらつな機構」を阻止しなければならないようなときには、連帯はよりいっそう不可欠なのです187。高利貸しとまではいわないにしても不当な金融制度188、国家間の不公平きわまる商取引関係、軍備拡張競争に代わって、「諸価値の優先順位や序列を見直して」189倫理的・文化的・経済的発展を目標にして資源を集中させる共同の努力が必要です。
[2439]
豊かな国々は、自らでは発展の手段を手に入れることができなかったり悲劇的な歴史的出来事によってそれが妨げられてきた国々に対する重大な倫理的責任を持っています。それは連帯と愛の義務です。また、豊かな国々の繁栄が不当に安価に購入された資源をもとに築かれているような場合には、それは正義の義務でもあります。
[2440]
直接援助は、天災や疫病などによって生じた臨時の緊急な必要に適切にこたえるものです。しかし、それだけでは貧しい情況にあるから抱えざるをえなくなる莫大な損害を埋め合わせるためにも、必需を持続的に補うためにも十分だとはいえません。さらに、国際的な経済・金融制度を改革して、発展途上国との公正な関係を促進させるようにはからわなければなりません190。自国の発展と解放のために行っている貧しい国々の努力を支える必要があります191。以上の教えをとくに農業の分野に当てはめなければなりません。農民、とくに第三世界の大多数の農民が、貧者の大半を占めているのです。
[2441]
神の感覚と自己認識とを増大させることは、人間社会の健全な発展全体の土台となるものです。この発展は物的財を増加させ、それを人間およびその自由のために役立たせ、貧困や経済的搾取を減らすものであり、さらに、それぞれの文化の独自性をますます尊重するように導き、超越するものを受け入れるように心を開かせるものなのです192。
[2442]
政治体制の構築や社会生活の組織づくりに直接に介入することは、教会の司牧者の任務ではありません。この任務は信徒の召命の分野であり、信徒は他の一般市民と力を合わせながら自らの発意でそれを果たさなければなりません。社会活動には具体的にはさまざまな形がありえますが、どんな形のものであっても、それはつねに共通善を目指し、福音と教会の教えに従って行われなければなりません。「キリスト教的関心に基づいてこの世の現実に活力を吹き込むのは、信徒の役割です。そしてそのことによって信徒は、平和と正義の証人となり、担い手となるのです」193。
[2443]
神は貧しい人々を助ける人々を祝福し、ないがしろにする人々を排斥なさいます。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ5∙42)。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10∙8)。イエス・キリストは、貧しい人々を助ける人をご自分の選ばれた者としてお認めになります194。「貧しい人に福音が告げ知らされる」(マタイ11∙5)195ことが、キリストの現存のしるしなのです。
[2444]
「貧しい人々に対する教会の愛は、……教会の不変の伝統の一部となっています」196。これは、真福八端の教え197やイエスの貧しさ198、および貧しい人々へのイエスの思いやりなどに基づいた考え方です199。働く義務があるという理由の中には、貧しい人々への愛というものも含まれています。つまり、困っている人々に必要なものを分け与えることができるための収入を得る200ために働かなければならない、ということです。この貧しさというものには、単に物質的貧しさだけではなく、種々の形の文化的・宗教的貧しさも含んでいるのです201。
[2445]
貧しい人々への愛と、富への過度の愛着ないしその利己的な使用とは、相いれないものです。
「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫がつき、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。ごらんなさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、ほふられる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません」(ヤコブ5∙1-6)。
[2446]
聖ヨハネ・クリゾストモは、このことを厳しいことばで次のように述べています。「自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々のものです」
202。第2バチカン公会議の『信徒使徒職に関する教令』では、「正義の立場からなすべきことはまずなし、かりにも正義の立場からすでに与えなければならなかったものを、愛の贈り物として与えるようなことはあってはならない」
203という説明がなされています。
「貧しい人々に何か必要な物を与えるとき、わたしたちは自分のものを寛大に与えているわけではありません。彼ら自身のものを彼らに返しているだけです。そのときには、愛の行為を果たしているというよりも、正義の義務を果たしているのです」204。
[2447]
慈善のわざとは、身体的・精神的に困っている人々を助ける愛の行為です
205。教え、助言し、慰め、励ますことなどは、ゆるし、耐え忍ぶことなどと同じように、精神的な慈善のわざです。とくに飢えている人に食べさせ、宿のない人に宿を提供し、着る物を持たない人に衣服を与え、病人や受刑者を訪問し、死者を埋葬することなどは、身体的な慈善のわざです
206。以上のわざの中で、貧しい人への施しは
207兄弟愛のあかしの代表的なものの一つです。それはまた、神に喜ばれる正義の実践でもあります
208。
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ3∙11)。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」(ルカ11∙41)。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』というだけで、からだに必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(ヤコブ2∙15-16)209。
[2448]
「貧困、不正な抑圧、肉体あるいは精神の病気、そして最終的には死、というように、人間の惨めさは、原罪以来自覚されるようになった、人間の生来的な弱さのはっきりとした証拠であり、人間が救いを必要としていることのしるしです。それが、救い主キリストのいつくしみを呼び、その惨めさをわが身に受け、ご自分を『〔その〕兄弟であるもっとも小さい者の一人』(マタイ25∙40,45)と同一視させることになったのです。それ以来、貧しさにうちひしがれている人々は、とくに教会にとっても優先的な愛の対象となっています。信者たちが皆そうしたわけではありませんが、教会設立の当初から、彼らの救済、擁護、解放のための働きは絶えたことがありません。教会は、いつの時代にも、どんなところでも欠かせない慈善の事業を通じてこれを実践してきました」210。
[2449]
旧約時代から、さまざまな法的対策(赦免の年、利息つき貸与と担保保有の禁止、十分の一税の義務、日雇い人への日当支払い、摘み残された作物や落ち穂に対する権利)が講じられてきましたが、それは、申命記の次の要求に応じるためのものでした。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15∙11)。イエスはこのことばを踏襲して、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(ヨハネ12∙8)といわれますが、このようにいうことで、イエスは、昔の預言者たちの痛烈なことば、たとえばアモス書の「弱い者を金で、貧しい者を靴一足の価で……売ろう」(アモス8∙6)ということばを時代後れのものとなさっておられるのではなく、ご自分の兄弟である貧しい人々のうちにご自分が実在しておられることを認めるようにと、わたしたちを促しておられるのです
211。
リマの聖ローザは、ある日、貧しい人々や身体障害者を家に招待しているのを母親にとがめられて、こう答えました。「わたしたちが病人のお世話をしているときには、わたしたちはイエス様のすばらしい香りを放っているのです」212。
[2450]
「盗んではならない」(申命記5∙19)。「どろぼう、強欲な者、……人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(一コリント6∙10)。
[2451]
第七のおきては、この世の財貨や人間の労働の実りを、正義と愛の心をもって管理するようにと命じています。
[2452]
創造されたものは、全人類のためのものです。財貨の私的所有権は、財貨の普遍的使用目的と矛盾するものではありません。
[2453]
第七のおきては盗みを禁じます。盗みとは、所有者の道理にかなった意志に反して他人の財貨を横領することです。
[2454]
他人の財貨を不正に取ったり使用したりするのは、すべて第七のおきてに反する行為です。正義に反する行為には賠償が求められます。交換的正義は、盗まれた財貨の返済を要求します。
[2455]
道徳律は、もうけ主義あるいは全体主義的目的のために人間を奴隷化したり、商品として売買したり交換したりするような行為を禁じます。
[2456]
創造主から与えられた世界の鉱物・植物・動物資源を支配する権利というものは、将来の世代への義務を含めた、倫理的な義務を尊重することと切り離すことはできません。
[2457]
動物は人間の管理にゆだねられていますが、人間は動物に対するいつくしみの心を持つべきです。人間の必需に動物をふさわしい形で活用しても差し支えありません。
[2458]
教会は、人間の基本的人権ないし救霊のために必要であれば、経済的・社会的問題に関する判断を下します。教会が人間の地上的共通善について配慮するのは、これらがわたしたちの究極目的である最高善に向けられているからです。
[2459]
人間そのものが、すべての経済的・社会的生活の築き手であり、中心であり、目的なのです。社会問題の解決のかぎは、神によって万人のために造られたものが、正義に基づき、愛の助けのもとに、実際に万人に与えられるという点にあります。
[2460]
労働の第一の価値は、労働の主体であり目的である人間そのものにあります。人間は労働を通して創造のわざに参与します。キリストに結ばれたものであれば、労働はあがないの価値を持つのです。
[2461]
真の発展とは、人間全体が健全に発展することです。すなわち、各自が自分の召命、つまり、神のお召しにこたえる能力を増大させることです213。
[2462]
貧しい人々への施しは兄弟愛のあかしであり、神に喜ばれる正義の実現でもあります。
[2463]
衣食住に事欠く多くの人々の中で、どうしてたとえ話に登場する飢えた物乞いのラザロを見つけられないようなことがあるでしょうか214。「(このもっとも小さい者の一人にしなかったのは、)わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイ25∙45)といわれるイエスのことばを、どうして聞かずにいられるでしょうか。