[2464]
第八のおきては、他人とのかかわりの中で真実を歪曲することを禁じます。この道徳的おきては、真理でありまた真理を望まれる神の証人となる聖なる民の召命に由来するものです。ことばもしくは行いによって真理にもとることは、道徳的正しさを守ることを拒否することです。これは神への完全な不忠実であり、その意味で、契約を根底から覆すものです。
[2465]
旧約聖書は、神はすべての真理の本源であると証言しています。神のことばは真理であり箴言8・7、サムエル下7・28参照。、その律法も真理です詩編119・142参照。。「あなたへの信仰は代々に続きます」(詩編119∙90)ルカ1・50参照。という信仰告白もなされています。神は「真実なかた」(ローマ3∙4)であられるので、神の民に属する者は真理のうちに生きるために召されているのです詩編119・30参照。。
[2466]
神の真理は、イエス・キリストのうちに余すところなく表されました。恵みと真理とに満ちておられるヨハネ1・14参照。イエス・キリストは、「世の光」(ヨハネ8∙12)であり、真理ですヨハネ14・6参照。。キリストを信じる者は、だれも暗やみの中にとどまることはありませんヨハネ12・46参照。。イエスの弟子はそのことばにとどまり、自由にする真理を知るようになりヨハネ8・31-32参照。、その真理によって聖なる者とされますヨハネ17・17参照。。イエスに従うこと、それは、イエスの名によって御父から遣わされヨハネ14・26参照。、弟子たちを導いて「真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16∙13)真理の霊に生かされることヨハネ14・17参照。です。イエスは真理を無条件に愛することを弟子たちに教えるために、「あなたがたは、『しかり、しかり』、『否、否』といいなさい」(マタイ5∙37)と諭しておられます。
[2467]
人間は本来、真理に向かって歩むように造られています。真理を敬い、あかしする義務があります。「すべての人間は、人格を備え、……自分の尊厳さのゆえに、本性的な真理、なかでも、宗教的真理を探究する衝動に駆られ、また道徳的に義務を負わされています。そして、いったん真理をとらえた上は、これを認め、真理の要求に従って自分の全生活を規正する必要があります」第2バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』,第2項 (Dignitatis humanae)。。
[2468]
人間の行いやことばの正しさという意味での真理は、真実、誠実、あるいは正直ということばでいい表されています。真理あるいは真実とは、行動するときには真理を表し、語るときには真実を口にし、陰ひなたや、見せかけ、偽善などを行わない強さのことです。
[2469]
「人間は相互信頼なしには、つまり、互いに真実を示し合わなければ、ともに生活することはできません」聖トマス・アクイナス『神学大全』 (Summa theologiae, 2-2, q. 109, a. 3, ad 1: Ed. Leon. 9, 418)。。真理に対する勇気を持っている人は、他の人のものであるはずのものを当然のこととしてその人に返します。真実とは、表すべきことと守るべき秘密との間の公正な中庸を堅持し、礼儀正しさと慎重さを伴うものです。正義という観点から、「一人ひとりの人間には、礼儀上他人に対して真実を示す義務があります」同(Ibid.,2-2, q. 109, a. 3, c:Ed. Leon. 9, 418)。。
[2470]
キリストの弟子は、「真理のうちに生きること」を受け入れます。すなわち、キリストに倣って飾り気のない生活を送り、キリストの真理にとどまります。「わたしたちが、神との交わりを持っているといいながら、やみの中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(一ヨハネ1∙6)。
[2471]
キリストはピラトの前で、ご自分は真理についてあかしをするためにこの世に来られたのだと宣言なさいますヨハネ18・37参照。。キリスト者は「主をあかしすること〔を〕恥じては」(二テモテ1∙8)なりません。キリスト者は信仰のあかしが必要なときには、裁判官たちを前にした聖パウロに倣い、明白に信仰を宣言すべきです。「神に対しても人に対しても、責められることのない良心をたえず保つ」(使徒言行録24∙16)必要があります。
[2472]
キリスト者には教会生活に参与する義務がありますが、そのことによってキリスト者は、
福音および福音に基づく責務について
の証人として行動するように促されます。そのあかしとは、ことばと行いとによって信仰を伝達することです。あかしとは、真理を明らかにしたり知らせたりする正義のわざのことです
マタイ18・16参照。。
「すべてのキリスト信者は、自分が生活している場所で、模範的生活とことばのあかしとをもって、受洗に際して身に着けた新しい人と、堅信によって強められた聖霊の力を現さなければなりません」第2バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』,第11項(Ad gentes)。。
[2473]
殉教とは信仰の真理を表すための最高のあかしであり、死ぬことさえも惜しまないあかしを意味します。殉教者は死んで復活されたキリストと愛によって結ばれ、そのキリストをあかしします。彼らは信仰の真理ならびにキリスト教の教えをあかしします。勇気ある行為をもって死を耐え忍ぶのです。「獣の餌食にならせてください。獣を通してこそ、わたしは神に達することができるのです」アンティオキアの聖イグナティオス『ローマの信徒への手紙』 (S. Ignatius Antiochenus, Eptstula ad Romanes, 4, 1 : SC 10bis, 110 [Funk 1, 256])。。
[2474]
教会は、信仰のあかしをするために生命をささげた人々についての記憶を入念に集めました。これが殉教録です。血の文字で記された真理の記録です。
「世の魅力も、この世の王国も、わたしの益になることはまったくないでしょう。わたしには、王として地の果てに至るまで支配するよりも、イエス・キリストに一致するために死ぬほうがよいのです。わたしが求めるのは、わたしたちのために死んでくださったキリストであり、わたしが望むのは、わたしたちのために復活してくださったキリストなのです。わたしには陣痛が差し迫っています……」同(Ibid., 6, 1: SC 10bis, 114 [Funk 1, 258-260])。。
「あなたがわたしを、この日、この時にふさわしい者、あなたの数多くの殉教者の一人となるにふさわしい者とお考えくださったことを感謝いたします。……忠実と真理の神よ、あなたは約束をお守りくださいました。だからわたしは、すべてのことについて、あなたの最愛の御子、永遠の天上の大祭司イエス・キリストを通して、あなたをたたえ、あなたに感謝し、あなたをあがめます。この御子とともに聖霊の交わりのうちにおられるあなたに、御子を通して、今も代々に至るまで栄光がありますように。アーメン」 『ポリュカルポスの殉教』 (Martyrium Polycarpi, 14, 2-3: SC 10bis, 228 [Funk 1, 330-332] ) 。。
[2475]
キリストの弟子は「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を」(エフェソ4∙24)送ります。「偽りを捨て」(エフェソ4∙25)、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな」(一ペトロ2∙1)捨て去らなければなりません。
[2476]
偽証と偽りの宣誓。真実に反することを公の場で表明すれば、特別に重大な罪となります。裁判所で行えば偽証となり箴言19・9参照。、宣誓のもとに行われれば偽りの宣誓となります。このような行為は、無実の者を有罪にしたり、犯罪者を無罪にしたり、被告の受ける罰を大きくしたりするような結果をもたらし箴言18・5参照。、正義の実行や裁判官による判決の公正さを非常に危うくさせてしまいます。
[2477]
他人に不当な損害を与える可能性がある態度を取ったりことばを使ったりすることは、人の名誉を守るために、すべて禁じられます「新教会法典」第220条参照。。
⸺たとえ口には出さなくても、十分な根拠もないのに隣人に道徳的欠陥が本当にあると考える者は、軽率な判断の罪を犯します。
⸺客観的に正当な理由もないのに、他人の欠点や過ちを当人を知らない人間に教える者は、悪口の罪を犯しますシラ21・28参照。。
⸺真実ではないことをいって、他人の評判を傷つけ、当人に対する誤った判断を抱かせるような情況を作り出す者は、中傷の罪を犯します。
[2478]
軽率な判断を下さないようにするためには、一人ひとりの者が、隣人の考えや、ことば、行いなどをできるだけよい意味に解釈するように心掛けるべきです。
「善良なキリスト者はだれでも、人の説くところを非とせず、むしろ、これを正しい意味に解釈していこうという心構えを持つべきです。また、もしそうできなければ、その人がどのように解釈しているかを尋ねてみて、万が一、解釈に誤りがある場合は、懇ろに正してやらなければなりません。それでもなお効果のないときには、当人がそれを正しい意味に解し、誤りから抜け出すことができるように、適切なあらゆる手段を講じる努力をすべきです」ロヨラの聖イグナティウス『霊操』 (S. Ignatius de Loyola, Exercttia spmtuaha, 22 : MHSI 100, 164)。。
[2479]
悪口や中傷は、隣人の評判や名誉を傷つけます。ところで、名誉とは人間の尊厳に対して払う社会的なあかしであり、一人ひとりの人間は自分の名誉や評判、および尊敬を傷つけられないという権利を生まれながらに持っているのです。したがって、悪口や中傷は正義と愛の徳に背くものです。
[2480]
お世辞、へつらい、愛想などによって他人に悪意の行為や堕落した行動をとるようそそのかしたり助長させたりすることばや態度は、すべて禁じられるべきです。重大な悪徳もしくは罪に加担するような場合のへつらいは、大罪となります。役に立ちたいという思いや友情によるものであっても、二枚舌が正当化されることはありません。単に気に入られたいためや、悪を避けるため、ある必要に備えるためや、正当な利益を得るためなどという理由でなされるへつらいであれば、小罪となります。
[2481]
過度の自慢あるいは大言を吐くことは、真実に背く罪です。当人をけなすために悪意をもって他人の行為をあれこれちゃかすような皮肉も、同じ罪になります。
[2482]
「うそとは、欺く意図をもって偽りを口にすることです」聖アウグスティヌス『嘘について』 (S. Augustinus, De mendacio, 4, 5 : CSEL 41, 491 [PL 40, 491])。。キリストは、うそを悪魔のわざとして告発しておられます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者である。……彼のうちには真理がない。悪魔が偽りをいうときは、その本性からいっている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8∙44)。
[2483]
うそは、真実にまっこうから背く罪です。うそをつくとは、人を誤りに陥れるために、真実ではないことを話したり行ったりすることです。うそは、人間の真実との関係ならびに隣人との関係を損ない、人間と神との関係ならびに人間のことばと神との関係を根底から覆します。
[2484]
うそがどのような重さの罪になるかについては、ゆがめる真実の内容、そのときの状況、うそをつく者の意向、うその犠牲となる人が被る損害の大きさなどによって変わってきます。うそは、それ自体としては小罪ですが、正義や愛の徳を甚だしく損なうような場合には大罪となります。
[2485]
うそそのものが非難されるべきものです。それは、知り得た真実を他人に伝えるためにあるはずのことばを冒瀆するものです。真実に反することばを口にして故意に他人を誤らせようとすることは、正義と愛とに反する行為です。真実を知らない人々を有害な結果が生じるような危険に陥れようという意図がうそをつく側にある場合には、その罪はいっそう重くなります。
[2486]
うそは(真実の徳の侵害なので)、他人に加えられるまぎれもない暴力です。すべての判断や決定を行う際の条件である知る能力を損なうものだからです。うそは、人々の間の精神的分裂やその分裂によって生じるあらゆる不幸の原因となるものです。うそは社会全体のために有害なもので、人々の間の信頼を失わせ、社会関係の織り目を引き裂きます。
[2487]
正義や真理に反して犯されたどんな過ちも、たとえそれを犯した本人の罪がゆるされたにしても、賠償の義務から免れることはありません。公に損害を償うことができないような場合には、人知れず行わなければなりません。損害を受けた人に直接に損害賠償をすることができないような場合は、愛の名においてその人のために精神的な償いをしなければなりません。他人の評判を損なった過ちの場合にも、賠償の義務があります。精神的、時として物的な賠償がどの程度のものでなければならないかについては、かけた損害の大きさで量られるべきです。それは良心上の義務となります。
[2488]
真実の伝達に関する権利というものは、無条件のものではありません。一人ひとりの人間がその生活を福音の兄弟愛のおきてにかなうものにしなければならないからです。だから、具体的な状況において、真実を求める人にそれを明かすのが適当であるか否かをこの兄弟愛のおきてに基づいて判断しなければなりません。
[2489]
情報あるいは伝達を求める人の願いに応じるか否かは、愛と真理への尊敬とをもって決定する必要があります。他人の善益や安全、プライバシーの尊重、共通善などのためであれば、知られてはならないことを伝えなかったり控え目に話したりしても差し支えありません。つまずきを避ける義務があるので、秘密を厳守することがしばしば必要になります。知る権利を持たない者に真実を明かす義務はだれにもありませんシラ27・17、箴言25・9-10参照。。
[2490]
ゆるしの秘跡の秘密は神聖なものであり、いかなる口実をもっても漏らされてはなりません。「秘跡上の秘密は不可侵です。したがって、聴罪司祭は、ことばまたは他のいかなる方法をもってしても、またいかなる理由に基づいてもゆるしの秘跡を受ける者を決して裏切ってはなりません」「新教会法典」第983条第1項。。
[2491]
政治家や、軍人、医者、法律家などのような特殊な職業に携わっている人たちに求められる職業上の秘密、あるいはだれにも口外しないという条件でなされた内輪話の秘密などは守らなければなりません。ただし、秘密を守れば、それを打ち明けた人やそれを聞いた人、あるいは第三者にきわめて重大な損害を与えることになるし、真実を公表することだけがその損害を回避できる唯一の方法であるような特別な場合には、例外となります。秘密を守るという条件で打ち明けられたものではなくても、他人に損害をかけるおそれのある私的な情報は、重大でそれ相応の理由がない限り公表してはなりません。
[2492]
一人ひとりの人間が他人のプライバシーを尊重するよう心掛けるべきです。マスコミの責任者は共通善のために行うべきことと個人の権利を尊重するということとを念頭に置きながら、その双方の間の公平な均衡を守るべきです。政治的あるいは公的活動に従事する人々の私生活へのメディアの介入は、そのプライバシーや自由にまで踏み込むようなものであれば、不当とみなすべきです。
[2493]
現代社会では、社会的コミュニケーション・メディアは情報、文化の促進、教育のための重要な役割を担っています。この分野は、技術の進歩、伝えられるニュースの規模や多様性、世論に対する影響などのために拡大しています。
[2494]
メディアを用いて情報を伝達するのは、共通善に奉仕するためなのです
第2バチカン公会議『広報機関に関する教令』,第11項 (Inter mirifica)参照。。社会には真理、自由、正義、連帯に基づいた情報を得る権利があります。
「この権利が正しく行使されるためには、まず、その内容に関して、広報がつねに真実で、正義と愛とを損なわない限り、完全なものでなければならず、一方その方法に関しては、広報は公正で適切でなければなりません。いい換えれば、情報を求めるときにも、またそれを公表するときにも、倫理の規準と人間の正当な権利および品位とが尊重されなければならないのです」『広報機関に関する教令』,第5項。。
[2495]
「社会の構成員である者は皆、この分野においても正義と愛の義務を果たさなければなりません。それゆえ、また広報機関によって正しい世論をつくり、それを広めるように努力しなければなりません」『広報機関に関する教令』,第8項。。連帯というものは、真実で正しい情報交換と、他人を知り尊重するために役立つ思想の自由な交流との結果として生じるものです。
[2496]
社会的コミュニケーション・メディア(とりわけマスメディア)は、利用者を情報や映像に無警戒な消費者にして、受動的な心の持ち主にしてしまう恐れがあります。マスメディア を利用する者には節度と自制心とが必要です。いかがわしい影響に対して十分に抵抗できる、賢明で正しい良心を培いたいものです。
[2497]
報道を職業とする以上、ジャーナリストには、情報を流す際には真理に仕え、愛を損なわないという義務があります。彼らは、事実を正しく伝えるということと個人に対する批判的判断の限界を守るということとを等しく心掛け、そのための努力をする必要があります。中傷記事にかかわることは避けなければなりません。
[2498]
「政府は、これらの機関が秩序づけられている共通善のゆえに、この分野で特別な任務を課せられています。……報道の真にして正当な自由を……擁護すること……は政府の任務です」『広報機関に関する教令』,第12項。。政治をつかさどる者は法律を発布し、その実施を見守りながら、「広報機関の悪用によって国民道徳と社会の進歩に重大な危害が加えられることがないように」『広報機関に関する教令』,第12項。配慮しなければなりません。個人の名誉やプライバシーの権利侵害については、刑罰に処すべきです。共通善にかかわる情報ないし国民の根拠ある不安に答えるような情報は、適時に誠実に提供しなければなりません。メディアを用いて世論を操作するために偽りの情報を流すことは、どんな理由があってもゆるされません。個人や集団の自由を侵害するような介入を行うようなことがあってはなりません。
[2499]
全体主義的国家は真実を計画的に歪曲し、メディアを通して世論を政治的に支配し、公判の被告や証人を「操り」、「思想犯」の名のもとにあらゆる言論を抑圧したり弾圧したりすることで、自分たちの暴政を維持できると考えています。このような政治が倫理にもとることは明らかです。
[2500]
無償の精神的喜びや倫理的美しさにはよい行いが伴います。また、真理には精神的美の喜びや輝きがあります。真理とは、それ自体が美しいものです。知性を備えた人間には、神や被造物のあるがままについての認識を論理的に表現することば上の真理も必要ですが、真理にはまた、それを補うものとして、それとは別に、人間的な表現を用いて説明されるものもあります。とくに、ことばではいい表せないような内容を含むもの、人間の心の内奥、霊魂の高揚、神の神秘などを表そうとするときには、後者の表現が用いられます。神は真理のことばを使ってご自分を人間に啓示なさる前にも、ご自分のみことばのわざであり英知のわざである被造界の普遍的な言語を使って、ご自分を啓示なさいます。子供にも科学者にも見える宇宙の美と調和や「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造ったかたを認める」(知恵13∙5)ことができるのです。「美の創始者がそれらを造られたから」(知恵13∙3)です。
「知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝きであるから、汚れたものは何一つその中に入り込まない。知恵は永遠の光の反映、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である」(知恵7∙25-26)。「知恵は太陽よりも美しく、すべての星座にまさり、光よりもはるかに輝かしい。光の後には夜が来る。しかし、知恵が悪に打ち負かされることはない」(知恵7∙29-30)。「わたしはその美しさのとりこになった」(知恵8∙2)。
[2501]
「神にかたどられて造られた」創世記1・26参照。人間は、創造主である神とのかかわりという真理を芸術作品の美しさを通しても表現します。芸術は、とりもなおさず、人間固有の表現形式です。それはすべての生き物に共通の生きるために必要なものを得ようとする努力を超えたものであり、人間の内的豊かさからおのずとあふれ出るものです。芸術とは創造主から与えられた才能と人間の努力とによって生まれたものであり、実際に存在するものの中にある真理に形を与えるために、目と耳で把握できる表現方法で人間の知識と技能とを結集して造り出される知恵7・17参照。、一種の実践的知恵なのです。したがって芸術は、存在するものの真理と愛とを着想の因とするという意味で、神の創造のわざとある程度の類似点を持っています。芸術は、人間の他の活動と同じように、それ自体が目的として追求されることによってではなく、人間の究極目的を目指すことによって崇高なものとなるのですピウス12世「ラジオ・メッセージ(1955年12月24日)」 (AAS48 [1956] 26-41)、同「カトリック青年労働者連盟の会員に対するラジオ・メッセージ(1950年9月3日)」 (AAS 42 [1950] 639-642)参照。。
[2502]
宗教芸術は、信仰と礼拝とによって神の超越的な神秘を表現し、ほめたたえる使命を持っていますが、この固有な使命にそれぞれの表現形式をもってこたえるとき、真の芸術、美しい芸術となります。神は目には見えない真理と愛という美しさに卓越したかたですが、その美しさはキリストにおいて現されました。キリストは「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ1∙3)であって、そのうちには「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)います。その霊的な美しさは、聖母マリア、天使や聖人たちのうちで光り輝いています。真の宗教芸術とは、一人間が創造主であると同時に救い主であり、聖なるかたであると同時に聖化してくださるかたである神を礼拝し、祈りをささげ、その神を愛することができるように助けてくれるものなのです。
[2503]
したがって、司教は自ら、あるいは代理者を通して、あらゆる様式の新旧宗教芸術を促進させるよう、また同じ宗教的配慮をもって、信仰の真理や宗教芸術の真正な美とは相いれないあらゆるものを典礼や礼拝堂から遠ざけるよう目を配っていなければなりません第2バチカン公会議『典礼憲章』,第122項-第127項 (Sacrosanctum Concilium)参照。。
[2504]
「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト20∙16)。キリストの弟子は、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4∙24)。
[2505]
真理あるいは真実とは、行動するときには真理を表し、語るときには真実を口にし、陰ひなたや、見せかけ、偽善などを行わない強さのことです。
[2506]
キリスト者は、行いとことばで「主をあかしすること〔を〕恥じては」(二テモテ1∙8)なりません。殉教とは信仰の真理を表すための最高のあかしです。
[2507]
人の評判や名誉を守るために、悪口や中傷につながる態度やことばはどのようなものであっても禁じられます。
[2508]
うそとは、隣人を欺く意図をもって偽りを口にすることです。
[2509]
真理に反して犯した過ちについては、賠償しなければなりません。
[2510]
黄金律は、具体的な状況において、真実を求める人にそれを明かすのが適当であるか否かを判断するのを助けてくれます。
[2511]
「秘跡上の秘密は不可侵です」「新教会法典」第983条第1項。。職業上の秘密は守らなければなりません。他人に損害をかけるような秘密の情報は公表してはなりません。
[2512]
社会には真理、自由、正義に基づいた情報を得る権利があります。社会的コミュニケーション・メディアの利用に際しては、節度と自制心とが必要です。
[2513]
芸術、とりわけ宗教芸術は、「本質的に、人間の作品をもって神の無限の美をいわば表現しようとするもので、それがいっそう神に奉仕し、神と神の賛美と栄光を高めることになるのは、その作品が人々の心を敬謙に神に向けるために、もっとも役立つこと以外に何ものをも目的としないときです」 『典礼憲章』,第122項。。