結果 2534-2557
「律法でいわれている欲しがってはならないということばは、他人の物を手に入れたいというわたしたちの欲望を抑えなさいという意味なのです。富を愛する者は収益に満足しない(コヘレト5∙9)とあるとおり、他人の物を手に入れたいという欲望は非常に強く、際限なく、決して飽くことがないのです」270。
「商品が不足したり物価が高騰したりすることを望んだり、売買人が自分だけであれば商品を高く売ったり安く買ったりすることができるはずなのにと考えていらだったりする商人がいます。さらに、売買するときに自分が利益を得ることができるために、他人が物にこと欠くようになることを望むような商人もいますが、そのような人たちは罪を犯しているのです。……病人が出るのを望む医者や、重要な訴訟や裁判が行われるのを望む弁護士も同様です。」271
「わたしたちは互いに敵対しています。ねたみが相互に武器を取らせているのです。……わたしたち皆が〔キリストのからだを〕破壊するような行為を続けていれば、わたしたちの行き着く先はどういうものになるのでしょう。わたしたちはキリストのからだを死なせようとしています。……わたしたちは口では互いに同じ一つのからだの構成員であるといいながら、野獣のように互いを食い尽くそうとしているのです」274。
聖アウグスチヌスは、ねたみの中に「悪魔的な罪」275を見ていました。
「ねたみからは、憎しみや、悪口や中傷、他人の不幸を喜んだり他人の繁栄を見て不快に思ったりするような、さまざまな悪が生じてきます」276。
「わたしは、わたしを通して神が栄光をお受けになるように望めたらよいと思っています。だからあなたも、あなたの兄弟が光り輝くことを喜んでください。そうすれば、あなたを通して神は栄光をお受けになるのです。そしてすべての人は、ねたみに打ちかって、他人の功績を互いに喜び合うようなしもべを持っておられる『神はたたえられますように』というでしょう」277。
「みことばが心の貧しさと呼んでおられるのは、心からの謙遜のことだとわたしは思います。使徒パウロは神の貧しさについての例を挙げて、主は豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた(二コリント8∙9)と述べています」287。
「そこには真の栄光があるでしょう。そこではだれも、間違いやへつらいで誉められることはありません。真の名誉はそれに値する人々に拒絶されることはなく、値しない人々に与えられることもありません。もとより、ふさわしい人々だけが受け入れられる天の国に、ふさわしくない者はだれも入れるはずはありません。そこでは真の平和が支配し、だれも、自分自身の側からも他人の側からも反対を受けることはありません。徳に対する報いは神ご自身です。神ご自身が徳を与え、その徳に対して、ご自分こそが存在しうる最良の、また最大の報いであることを約束なさったのです。『わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる』(レビ26∙12)。……それはまた、『神がすべてにおいてすべてとなられるためです』(一コリント15∙28)という使徒パウロのことばの意味でもあります。神ご自身がわたしたちの望みを完全に満たしてくださり、わたしたちはいつまでも神を仰ぎ見、飽きることなく愛し、飽きることなく賛美するでしょう。しかも、このたまもの、この状態、この行為は、永遠のいのちと同じように、間違いなくすべての人にとって共通のものとなるでしょう。」293