[2559]
「祈りとは心を神に上げること、あるいはふさわしい善を神に願うことです」2。わたしたちは祈るときにはどこから話しているのでしょうか。思い上がった高慢や自我からでしょうか、それとも謙虚で打ち砕かれた心の「深いふちの底」(詩編130∙1)からでしょうか。へりくだる者は高められるのです3。祈りの基本は謙虚さです。「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」(ローマ8∙26)。謙虚さこそが、祈りのたまものを無償でいただくために必要な心構えなのです。人間は神の物乞いなのです4。
[2560]
「もしあなたが、神のたまものを知っていたならば」(ヨハネ4∙10)。祈りのすばらしさは、わたしたちが水を求めてやって来る井戸のほとりで明らかになります。そこに、わたしたちに会いにキリストは来られます。キリストがまずわたしたちを捜しに来て、水を願われます。イエスは渇いておられ、その願いはわたしたちを慕っておられる神の心の奥底から出てきているのです。祈りとは、わたしたちが気づこうと気づくまいと、神の渇きとわたしたちの渇きとの出会いなのです。神は、わたしたちがご自身を渇望することに渇いておられます5。
[2561]
「あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(ヨハネ4∙10)。逆説的なことですが、わたしたちの懇願の祈りは、実際は一つの応答なのです。すなわち、「わが民は……生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った」(エレミヤ2∙13)と嘆かれる生きておられる神への応答、救いの無償の約束への信仰の応答6、御ひとり子の渇きへの愛の応答7にほかなりません。
[2562]
人間の祈りはどこから出てくるのでしょうか。祈りの表現(動作やことば)がどのようなものであろうと、祈っているのはその人そのものです。しかし聖書は、祈りがほとばしり出る場として、魂や精神、そしてもっとも頻繁に(千回以上)心を挙げています。祈るのは心です。心が神から離れているならば、祈りのことばはむなしいものです。
[2563]
心とは、わたしが常駐するところ、わたしが住まう住宅(聖書のヘブライ語的な表現に従えば、「わたしが戻ってくる」ところ)です。それは、自分の理性にも他人の理性にも把握しがたい、わたしたちの秘められた中心です。ただ神の霊だけが、それを探り知ることがおできになります。心は、わたしたちの心理的な傾向よりももっと深いところにある決断の場、生か死かを決めるぎりぎりの場なのです。神の似姿である人間が神と真正面から見つめ合う場、つまり、契約を交わす場です。
[2564]
キリスト教的祈りとは、神と人間とがキリストにおいて契約を結ぶことです。それは、聖霊とわたしたちから出て、人となられた神の御子の人間としての意志に結ばれ、そっくりそのまま御父へと向けられる、神と人間との行為です。
[2565]
新約の祈りとは、神の子らと、限りなくいつくしみ深い御父、その御子イエス・キリスト、そして聖霊との、いのちに満ちた交わりのことです。神の国の恵みとは、「人間の全精神が三位一体とまったく一つに結ばれること」8です。だから祈りの生活とは、至聖なる神の前につねにとどまり、その交わりを深めることです。このいのちの交わりはつねに可能です。洗礼によってわたしたちがキリストと一体となっているからです9。わたしたちの祈りは、キリストとの交わりにある限りキリスト教の祈りであり、そのからだである教会の中で広がっていきます。その祈りは、キリストの愛の広さと同じ広がりを持つものなのです10。