[26]
わたしたちは信仰を宣言するとき、「わたしは信じます」または「わたしたちは信じます」と言明することから始めます。ですから、信条をもって公言され、典礼の中で祝われ、おきての実践と祈りによってあかしされる教会の信仰を説明する前に、「信じる」とはどういうことかを取り上げます。信仰は、ご自分を啓示し、与えてくださる神への人間の応答です。しかも、神は同時に、人生の究極の意味を探し求める人間に、あふれるばかりの光を注がれるのです。したがって、まず、人間の探求(第1章)、次いで、人間にご自分を現される神の啓示(第2章)、最後に、信仰による応答(第3章)について考察していきます。
[27]
神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします。
「人間の尊厳のもっとも崇高な面は、人間が神と交わるように召命を受けているということです。人間はすでにその存在の初めから、神との対話に招かれています。事実、人間が存在するのは愛によって神に造られ、愛によって神からつねに支えられているからであって、神の愛を自由をもって認めて創造主に身を託するのでなければ、人間は真理に基づいて充実して生きていることにはなりません」1。
[28]
人間は人類史の中で今日まで、それぞれの信仰と宗教的行動(祈り、犠牲、礼拝、瞑想など)により、多様なしかたで神の探求を表してきました。これらにはあいまいなところがあっても、さまざまの宗教的表現形式はまったく普遍的なものですから、人間は
宗教的存在者といわれてよいほどです。
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられません。〔まことに、わたしたちは〕神の中に生き、動き、存在〔しているの〕です」(使徒言行録17∙26-28)。
[29]
しかし、「〔人間〕の神とのこのような生命的な深い結びつき」2は人間に忘れられ、軽視され、はっきりと拒否されることさえありえます。このような態度の原因はさまざまでしょう3。すなわち、世の悪に対する反発、宗教的無知または無関心、世の思い煩いや富の誘惑4、信者の悪い模範、反宗教的風潮、ついには、恐れのために神から隠れ5、神から逃れようとする6罪びととしての人間の姿勢です。
[30]
「主を求める人よ、心に喜びを抱け」(詩編105∙3)。人間が神を忘れ、あるいは拒絶したとしても、神は、人間が生き、幸せを見つけるためにご自分を求めるよう、すべての人間にたえず呼びかけておられます。しかし、この探求は人間の側に、知性の絶え間ない努力と意志の正しさ、「まっすぐな心」、また、神を求めることを教える他の人々のあかしを必要とします。
「偉大なるかな、主よ、まことにほむべきかな。あなたの力は大きく、その知恵ははかりしれない。しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一部として、あなたをたたえようとします。それは、自分の死すべき運命を身に負い、自分の罪のしるしと、あなたが高ぶる者を退けられることのしるしを身に負ってさまよう人間です。それにもかかわらず、人間は小さいながらも被造物の一つの分として、あなたをたたえようとするのです。喜んでたたえずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」7。
[31]
神の姿にかたどって造られ、神を知り、愛するように招かれている人間は、神を求めながら、神を知るための幾つかの「道」を発見します。これは「神の存在の証明」とも呼ばれていますが、この証明は自然科学が求めるような意味の証明ではなく、真の確実性に至ることを可能にする「同方向に向かわせ、説得力を持つ論証」なのです。神に近づくためのこのような「道」の出発点は被造界、すなわち、物的世界と人間です。
[32]
世界⸺世界の運動、生成、偶有性、秩序、美から出発して、宇宙の起源と目的としての神を知ることができます。
聖パウロは異教徒について次のように言明しています。「神について知りうることがらは、彼らにも明らかです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり、神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ1∙19-20)8。
聖アウグスチヌスは次のようにいっています。「陸の美を不思議に思い、海の美を不思議に思い、膨張し、流通する空気の美を不思議に思い、天の美を不思議に思い、……これらのすべてのことがらの原因を問いただしなさい。すべては、『ごらん、わたしたちは美しいのだ』とあなたに答えています。これらの美はこれらの事物の宣言なのです。変化するこれらの美は、変化することのない美しいかたでなければ、だれが造ったのしょうか」9。
[33]
人間⸺真理と美に向かって開かれた心、倫理的感覚、自由、良心の声、限りないものと幸福へのあこがれを持っている人間、この人間は神の存在について自問します。これらのすべてのものを通して、霊である自分の魂のしるしを認めます。「人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することはできないので」10、このような霊魂の起源はただ神のうちにしかありえません。
[34]
世界と人間は、第一原理でも究極目的でもないことを示します。両者は、初めも終わりもない存在そのものにあずかっています。ですから、これらの多様な「道」によって、人間は、いっさいのものの第一原因、究極目的である一つの実在が存在するということを知ることができます。すべての人は、この実在を「神」と呼んでいます11。
[35]
人間はその諸能力によって、人格神の存在を知ることはできます。しかし、人間が神と親密な交わりを結ぶことができるように、神は自由にご自分を人間に啓示し、信仰をもってこの啓示を受け入れることのできる恵みをお与えになりました。とはいえ、神の存在の証明は、信仰を受け入れるように人の心を整え、信仰が人間理性に対立するものではないことを悟らせる助けともなりうるのです。
[36]
「わたしたちの母である聖なる教会は、人間理性の自然の光によって、また被造物を通して、万物の起源と目的である神を確実に知ることができると考え、教えています」12。この能力なしに、人間は神の啓示を受け入れることはできません。人間がこの能力を持っているのは、「神にかたどって」(創世記1∙27)造られたからです。
[37]
それにもかかわらず、人間は自分が置かれている歴史的状況の中で、ただ理性の光だけで神を知ることに多くの困難を覚えます。
「人間の理性を抽象的に考え、その自然の力と自然の光だけによって、ある種の真理を把握することができます。同じ理性は、唯一の人格神、その計画によって世界を守り、支配している神、わたしたちの心に刻みつけられている自然法の存在について確実に知ることができます。しかし、この生まれつきの能力は効果的にそして有効に使われているでしょうか。数多くの障害が横たわっています。神について、神と人との関係について知らなければならない真理は、目に見える物の世界を完全に超越する真理です。この種類の真理を人間の行為に移し、人間の行為に影響するときには、自己服従と自己放棄を要求します。このような真理を把握するために、人間の知性は、感覚と想像や原罪の結果乱れた欲望に妨げられます。このような障害のため、自分が望まない、自分にとって疑わしいことや不確実な結論を、あまりにもたやすく、間違いであるとする人が多いのは当然です」13。
[38]
ですから人間は、ただ人間理性を超えることがらに関してだけではなく、「それ自体、理性によって把握できる宗教的、道徳的諸真理に関しても、神の啓示に照らされる必要があるのです。それは、これらの真理が人類の現状の中で、すべての人に、容易に、揺るぎない確実さをもって、誤りを含まず、知られうるためです」14。
[39]
教会は神を知る人間理性の能力を主張することにより、教会がすべての人に、またすべての人と、神について語りうる自信を表明しています。この確信が、他の宗教、哲学と科学、また無信仰者と無神論者との対話の出発点なのです。
[40]
わたしたちの神認識には限界があるので、神に関するわたしたちのことばにも限界があります。わたしたちは被造物に基づいてしか神について語ることができませんし、わたしたち人間の限られた知り方、考え方に沿ってしか、神について語ることができないのです。
[41]
被造物はすべて、神と何らかの類似を持っていますが、とくに神の似姿として、神に似せて造られた人間がそうです。したがって、被造物の多様な完全さ(真、善、美)は神の無限な完全さを反映するものです。ですから、わたしたちは被造物の完全さに基づいて神について語ることができます。「造られたものの偉大さと美しさから推し量り、それらを造ったかたを認めるはず」(知恵13∙5)なのですから。
[42]
神はすべての被造物を超越します。ですから、「えもいわれぬ、人知を超えた、見えざる、把握できない」15神を、人間的表象と混同しないために、わたしたちのことばに付きものである限られた、表象的で、不完全な点をたえず訂正しなければなりません。わたしたちの人間的なことばは、つねに神の神秘以下のものです。
[43]
神についてこのように話すとき、わたしたちのことばは人間的な表現であることは確かですが、実際に神ご自身に触れています。しかしながら、無限で純一の神をありのままに表すことはできないのです。事実、次のことを想起しなければなりません。「創造主と被造物の間には類似が認められても、それ以上に大きな相違が認められます」16。また、「わたしたちが神について知ることができるのは、神はこうであるということではなく、こうではないということであり、他の諸存在がどのように神に関連しているかということです」17。
[44]
人間は本来、また神の招きにより、宗教的存在です。神から出、神へ向かう者として、人間は神とのきずなを自由に生活に受け入れない限り、充実した人生を送ることはできません。
[45]
人間は神との交わりのうちに生きるために造られ、神のうちに幸福を見いだします。「わたしのすべてをささげてあなたに結ばれるとき、何の悲しみも苦しみもなくなることでしょう。そのとき、わたしの生はまったくあなたに満たされ、真に生きる者となることでしょう」18。
[46]
被造物の語りかけや良心の声を聞くとき、人間は万物の原因、目的である神の存在の確証をつかむことができます。
[47]
教会は、唯一の、真の、わたしたちの造り主であり、主である神を、人間理性の自然の光により、そのみわざを通して、確実に知ることができると教えます19。
[48]
わたしたちは、無限に完全な神に類似する被造物の多様な完全さに基づき、実際に神について語ることができます。しかし、わたしたちの限られたことばは、その神秘を完全に表し尽くすことはできません。
[49]
「創造主なくしては被造物は消え失せます」20。ですから、信者はキリストの愛に促されて、生きている神の光を、神を知らないか、または拒絶する人々に伝えなければならないことを自覚しています。
[50]
自然理性により、人間は神をそのみわざをもとにして確実に知ることができます。しかし、人間が自らの力によっては決して到達できない別の認識次元があります。すなわち、神の啓示による認識です1。神はまったく自由な決定によってご自分を人間に啓示し、お与えになります。ご自分の神秘、すべての人間のためにキリストにおいて立てられた永遠のいつくしみ深い計画を明らかにされたのです。最愛の御子、わたしたちの主イエス・キリストと聖霊を遣わされることによって、その計画を余すところなく啓示されます。
[51]
「神はその愛と英知によって、自分を啓示し、また、託身のみことばであるキリストにより、聖霊において、人々を父に近づかせ、神性にあずからせるみ旨の神秘を明らかにしようとなさいました」2。
[52]
「近寄りがたい光の中に住まわれる」(一テモテ6∙16)神は、お望みのままに造られた人間をご自分の神的生命にあずからせ、御ひとり子においてご自分の子らにしようとしておられます3。神はご自分を啓示しながら、人間が神に応答し、自分自身の能力の限界を超えて神を知り、愛することができるようになさいました。
[53]
この啓示の計画は、「互いに密接に関連し、照らし合う行いとことばによって」
4実現されます。これには、特殊な「神の教育法」が含まれています。すなわち、神は人間にご自分を徐々に伝え、超自然的啓示を受け入れるよう、段階的に人間を準備なさいます。御自ら行われるこの啓示の頂点は、人となられたみことばであるイエス・キリストそのものならびにその派遣です。
リヨンの聖イレネオはこの神の教育法について、しばしば、神と人間が相互に慣れていくという比喩を用いて語っています。「神のみことばは人間のうちに住まわれ、人の子となられました。こうして、御父のおぼしめしのままに、神を知ることを人間に慣れさせ、人間のうちに住むことを神に慣れさせたのです」5。
[54]
「神は、ことばによって万物を造り、かつ保ち、被造物の中に自らについての恒久の証明を与え、また至高の救いへの道を開く意図をもって、初めから人類の最初の親に自分を現しました」6。神は人間を輝かしい気品と正しさで覆いながら、ご自分との親密な交わりに招かれました。
[55]
この啓示は、人祖の罪によって中断されることはありませんでした。実際、神は、「堕落後は、あがないを約して、救いの希望を抱かせました。そして忍耐をもって善を行って救いを求めるすべての人に永遠の生命を与えるべく、つねに人類のことをおもんぱかりました」
7。
「人があなたに背いて親しい交わりを失ってからも、死の国に見捨てることなく、……たびたび人と契約を結ばれました」8。
[56]
ひとたび人類の一致が罪によって分断されると、神はまず、人類を各民族ごとに救おうとしておられます。大洪水後のノアとの契約は9「国々」、すなわち、「それぞれの地に、その言語、氏族に従って」(創世記10∙5)まとめられた人々に対する神の救いの計画の原理を表します10。
[57]
多様な諸民族のこの宇宙的、社会的、宗教的な状態は11、失墜した人類の傲慢を抑えるためでした。事実、人類はその邪悪さから12バベルの塔の建築に見られるように、自力で一つになることを図りました13。しかし、罪の結果14、諸民族とその君主たちが多神教と偶像崇拝に走ることによって、この暫定的な救済計画はたえず歪曲の危険にさらされました。
[58]
ノアとの契約は諸民族の時代が続く限り15、福音が全世界に告げられるまで効力を保ちます。聖書は、これら諸民族の若干の偉大な人物に敬意を表しています。たとえば、「正しい人アベル」、キリストの前兆であった16王である祭司メルキゼデク17、正しい人々「ノア、ダニエル、ヨブ」(エゼキエル14∙14)などです。こうして、聖書は、キリストが「散らされているすべての神の子たちを一つに集める」(ヨハネ11∙52)まで、ノアの契約に従って生きる人々がどれほど高度な聖徳に達しうるかを示しているのです。
[59]
四散した人類を集めるため、神はアブラムを選び、「生まれ故郷、父の家を離れ」(創世記12∙1)るよう促されました。そして、アブラハム、すなわち、「多くの国民の父」(創世記17∙5)としました。神はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12∙3)といわれました18。
[60]
アブラハムから出た民族は族長たちになされた約束の継承者、選ばれた民19となり、いつの日か一つの教会のうちにすべての神の子が集められるまで、その準備をするよう召されました20。この民が根となり、後に信仰者となった異邦人がこれに接ぎ木されます21。
[61]
旧約時代の族長たち、預言者たちおよびその他の人物たちは、教会のすべての典礼伝統の中で聖者としてつねにあがめられてきましたし、また今後もあがめられていくはずです。
[62]
族長たちの時代の後、神はイスラエルをエジプトでの奴隷の状態から解放して、ご自分の民となさいました。神はシナイ山でこの民と契約を結び、モーセを通して、民に律法を与えられました。それは、この民がご自分を生きている真の唯一の神、摂理の父、公正な裁き主として認め、神に仕え、約束された救い主を待つようにさせるためでした22。
[63]
イスラエルは神の祭司的な民23、「主のみ名がつけられ」(申命記28∙10)た民です。「はじめに神の語りかけを受けた」24民、アブラハムの信仰に従う「兄」にあたる民です25。
[64]
預言者たちによって、神はその民のうちに救いの希望と、すべての人々にもたらされ26、心のうちに刻まれるはずの27、新しい永遠の契約への待望の心を培われます。預言者たちは神の民の根本的なあがない、民のあらゆる不忠実な行いの浄化28、すべての国の人々を含む救いを告げ知らせます29。この希望を担うのは、とくに主の貧しい人々と謙遜な人々です30。サラ、リベカ、ラケル、ミリヤム、デボラ、ハンナ、ユディト、エステルのような女性たちは、イスラエルの救いの生き生きとした希望を保ちとおしました。その中のもっとも清らかな人物がマリアです31。
[65]
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1∙1-2)。人となられた神の御子キリストは父の唯一の、完全な、決定的なことばです。キリストにおいて神はすべてを語られましたが、キリスト以後、そのほかのことばはありません。このことを、わけても十字架の聖ヨハネが、ヘブライ人への手紙1章の1から2節を注解しながら、明晰に語っています。
「神は唯一のみことばである御ひとり子をわたしたちに与えることにより、この唯一のみことばのうちにすべてを一度に話されたので、それ以上話すことはないのです。……それは、以前、預言者たちに部分的に話されたことを、ご自分のすべてである御子をわたしたちに与えることによって、神はことごとく語られたからです。したがって、今日になってもなお神に何かを尋ねたり、あるいは何かの示現や啓示を望むような人がいるなら、その人はキリストだけに目を注がず、他の何かを、また新奇なものを探すことによって、愚かじみたことをするだけではなく、神を傷つけることになるでしょう」33。
[66]
「したがってキリスト教的経綸は、新しい決定的な契約として、ついに過ぎ去ることなく、わたしたちの主イエス・キリストの栄光ある再現以前には、もはやいかなる新しい公的啓示も期待されるべきものではありません」34。しかし、たとえ啓示は完結したにしても、明白にし尽くされてはいないのです。キリスト者の信仰は、幾世紀にもわたって、それが含むすべての意義を徐々に把握していかなければなりません。
[67]
キリスト後の長い年月の間には、「私的な」といわれる啓示があって、その幾つかは教会権威から認められています。しかし、それらの啓示は、ゆだねられた信仰の遺産には属しません。それらの役割は、キリストの最終的啓示を「改善し」、「補足する」ことではなく、歴史のある時期に、キリストの啓示をより十全に生きるのを助けることにあります。信者は教会の教導権に導かれ、その信仰心によって、これらの啓示の中に、教会に向けられたキリストあるいは聖人たちの真正な呼びかけを識別し、受け入れることができます。
キリストによって完結された啓示を凌駕し、あるいは修正するものであると主張する「諸啓示」を、キリスト教信仰は承認することができません。たとえば、このような「啓示」を土台にしている幾つかのキリスト教以外の宗教、また、新興宗教の宗派がこれにあたります。
[68]
神は愛によって人間にご自分を啓示し、お与えになりました。こうして、人間が人生の意味と目的について投げかける問いに、あふれるばかりの決定的な回答を与えておられます。
[69]
神は人間に、ご自分の神秘をわざとことばを通して徐々に伝えながら、ご自分を啓示されました。
[70]
神は被造物のうちにご自分を示されますが、それ以外に、人祖にご自分を現されました。失墜の後も彼らに語り、救いを約束し35、契約を結ばれました。
[71]
神は、ご自分とすべての生きものとの間の永遠の契約をノアと結ばれました36。これは世界が存続する限り続きます。
[72]
神はアブラハムを選び、アブラハムおよびその子孫と契約を結ばれました。契約によりご自分の民を形づくり、モーセを通して律法を示し、また、預言者たちによって、全人類のための救いを受け入れる準備をさせました。
[73]
神はご自身の御子を遣わし、ご自分を余すところなく啓示され、御子のうちに永遠の契約を定められました。御子は御父の決定的なことばです。それゆえ、御子の後には、もはや他の啓示は与えられません。
[74]
神は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2∙4)。その真理とは、キリスト・イエスのことです
37。したがって、キリストはすべての国民、すべての人に告げ知らされ、こうして、啓示が世界の隅々まで及ばなければなりません。
「神は、万民の救いのために啓示したそのことが、永久に、かつ完全に保たれ、あらゆる世代に伝えられるよう、いともやさしく取りはからわれました」38。
[75]
「主キリストは至高の神の全啓示が自らにおいて完了されるため、かつて預言者によって約束された福音を自ら実現し、かつご自分の口をもって宣布しましたが、これを救いに関するあらゆる真理と道徳の源として、すべての人にのべるよう、また彼らに神のたまものを与えるよう使徒たちに命じました」39。
[76]
主の命令に従い、福音の伝達は二つの方法で行われます。
⸺口述で。「キリストのことばを聞き、キリストとともに生活し、そのわざを目撃して知ったこと、あるいは聖霊の示唆から学んだことを説教と模範と制度をもって伝えた使徒たちによって」。
⸺書によって。「同じ聖霊の霊感により救いの知らせを書き物にした使徒たちとその周りの人たちによって上」40。
[77]
「使徒たちは、生きた完全な福音が、つねに教会に保存されるよう、司教たちを後継者として残し、彼らに『自分たちの教導職を与えました』」41。実際、「使徒的宣教は、霊感の書に特別に示されていますが、不断の継承によって世の終わりまで保たれねばなりませんでした」42。
[78]
聖霊のうちにあって遂行されるこの生きた伝達は、聖書とは異なるものとして聖伝と呼ばれます。いうまでもなく、この聖伝は聖書と密接に結びついています。この聖伝により、「教会は、その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままのすべてと、信じることのすべてを永続させ、あらゆる世代に伝えるのです」43。「聖なる教父たちのことばは、聖伝のこの活力的な現存を証明するもので、その富は信じかつ祈る教会の慣行と生活に注ぎ込まれています」44。
[79]
こうして、御父がみことばによって、聖霊のうちに、ご自分についてお知らせになったことは、教会の中に現存し、働き続けています。「かつて語った神は、不断に愛する御子の浄配と語らい、福音の生きた声は聖霊によって教会に、また教会によって世界に響き渡り、そして聖霊は、信じる者をすべての真理に導き、彼らのうちにキリストのことばを豊かに宿らせるのです」45。
[80]
「聖伝と聖書とは互いに固く結ばれ、互いに共通するものがあります。なぜならば、どちらも同一の神的起原を持ち、ある程度一体をなし、同一の目的を指している」46からです。どちらも、「世の終わりまで、いつも」(マタイ28∙20)弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるものです。
[81]
「聖書は、聖霊の霊感によって書かれたものとしての神のことばです」。「聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばを余すところなくその後継者に伝え、後継者たちは、真理の霊の導きのもとに、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものです」47。
[82]
したがって、啓示の伝達と解釈をゆだねられた教会が、「啓示されたすべてのことについて自分の確信を得るにあたって、聖書だけに頼らないのはそのためです。それゆえ、どちらも同じ敬謙と敬意をもって尊敬されるべきものです」48。
[83]
ここで述べられている聖伝は使徒たちに由来するもので、使徒たちがイエスの教えと模範から受けたことと、聖霊によって学んだこととを伝えます。実際、初代のキリスト信者はまだ書としての新約聖書を持っていませんでしたし、新約聖書そのものが、生きた伝承の形成の次第を示しています。
地方教会では時とともに、神学、おきて、典礼、あるいは信心上の「諸伝承」が生まれました。これらと上述の聖伝とは区別されなければなりません。諸伝承は、個々の様式を持っているので、その中から、異なる場所、異なる時代にも適応した表現を大伝承(聖伝)が受け取ります。そしてその大伝承に照らし合わされ、教会の教導権の指導のもとで、諸伝承は維持されたり、修正または放棄されたりするのです。
[84]
聖伝と聖書の中に含まれるゆだねられた信仰の遺産49は、使徒たちによって教会全体に託されています。「この委託物によって、聖なる民全体が、その牧者を中心にして、使徒たちの教えと、信者の交わりと、パンを裂くことと、祈りとを不断に続けています。そのために、伝えられた信仰を守り、実践し、信奉するにあたって、司教と信者との特殊な一致が実現します」50。
[85]
「書きもの、あるいは口伝による神のことばを権威をもって解釈する役目は、キリストの名で権威を行使する教会の生きた教導権だけに任せられています」51。教会の教導権を持っているのはペトロの後継者、ローマ司教と結ばれた司教たちです。
[86]
「しかし、この教導権は神のことばの上にあるものではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教えるのです。すなわち、神の命令と聖霊の援助によって、神のことばを敬謙に聞き、清く保存し、忠実に説明し、そして信ずべき神の啓示として示すすべてのことを、信仰のこの唯一の委託物からくみ取るのです」52。
[87]
信徒は、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける」(ルカ10∙16)53とキリストが使徒たちにおおせになったことばを想起し、司牧者が多様な形で述べる教えと指針とを素直に受け入れます。
[88]
教会の教導権は、教義を決定的に宣言する場合、すなわち、キリストの民に信仰による決定的な同意を義務づける形で、神の啓示の中に含まれる諸真理を提示する場合や、これと不可分のつながりを持つ諸真理を決定的な形で提示したりする場合には、キリストから受けた権限を最高度に行使します。
[89]
わたしたちの霊的生活とこれらの教義の間には、有機的なつながりがあります。教義はわたしたちの信仰の道に設けられた灯火で、その道を照らし、確実なものとします。また、逆に、わたしたちの生活が正しければ、わたしたちの知性と心は素直に信仰の教義の光を受け入れるでしょう54。
[90]
各教義の相互関連と一貫性は、キリストの神秘の啓示全体の中に見いだすことができます55。「カトリック教義の諸真理とキリスト教信仰の基礎との関係は種々異なっているものですから、それらの諸真理の間に秩序、すなわち、『順位』が存在します」56。
[91]
すべての信者は、啓示された真理の理解と伝達に関与します。自分たちを教え57、自分たちに「真理をことごとく」(ヨハネ16∙13)悟らせる聖霊の塗油を受けているからです。
[92]
「信者の総体は、信仰において誤ることができないのであって、この特性は、『司教をはじめとして信徒の果てに至るまで』信者の総体が信仰と道徳のことがらについてあまねく賛同を示すとき、神の民全体の超自然的な信仰の心を通して現れます」58。
[93]
「事実、神の民は真理の霊によって起こされ、支えられているこの信仰の心によって、聖なる教職の指導のもとに、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰を損なうことなく固く守り、正しい判断をもってその信仰をいっそう深く掘りさげ、それを生活のうちにより完全に具体化していくのです」59。
[94]
ゆだねられた信仰の遺産の内容とことばの理解は、聖霊の助けにより、教会生活の中で発展することができます。それは次のことによってです。
⸺「それを心のなかで思いめぐらす信者たちの黙想と研究」60、とくに「啓示された真理についての神学的探究」61によって。
⸺「〔信者たちの〕体験する霊的な実在についての深い理解」62によって。「神のことばを読んで成長する」63ことによって。
⸺「司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの説教」64によって。
[95]
「それで、聖伝と聖書と教会の教導権とは、神のきわめて賢明な配慮によって、一つは他のものから離れては成り立たず、全部が一緒に、そしておのおのが固有のしかたで、聖霊の働きのもとに、救霊に有効に寄与するように、互いに関連し、結合されていることは明らかです」65。
[96]
使徒たちはキリストからゆだねられたものを、聖霊の霊感のもとに、説教と書物とによって、キリストの栄光に輝く再臨の日まで、すべての世代に伝達しました。
[97]
「聖伝と聖書とは、神のことばの一つの聖なる委託物を形づくっています」66。旅する教会はこのゆだねられた遺産に、鏡の中で見るかのように、あらゆる富の泉である神を見つめます。
[98]
「教会は、その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままのすべてと、信じることのすべてを永続させ、あらゆる世代に伝えるのです」67。
[99]
超自然的な信仰の感覚のおかげで、神の民の総体は神によって与えられた啓示のたまものをたえず受け入れ、それをより深く理解し、ますます完全に生活の中で実践していきます。
[100]
神のことばを権威をもって正しく解釈する任務は、教会の教導権、すなわち、教皇と教皇に結ばれた司教にのみゆだねられています。
[101]
神は、限りない慈悲によって人間にご自分を啓示するため、人間のことばで語られます。「実際、かつて永遠の父のみことばが、人間の弱い肉をつけて、人々に似たものとなったように、人間の用語で表された神のことばは、人間の話に酷似するものとなっています」68。
[102]
聖書のあらゆることばを通して、神はただ一つのことばを語られます。それは唯一のみことばであり、その中でご自分のすべてを説明なさいます
69。
「思い出してください。聖書の初めから終わりまで述べられているのは、神の一つの同じみことばです。すべての聖書記者の口から響き出るものは、一つの同じみことばです。そのみことばは、初めから神のもとにおられる神として時間的な存在ではないから、音節を必要となさいません」70。
[103]
それゆえ、教会は主のからだを崇敬するのと同じように、聖書をつねに敬ってきました。教会は、神のことばとキリストのからだの食卓から受ける生命のパンで、たえず信者を養っていきます71。
[104]
教会は聖書の中に、つねにその糧と力を見いだします72。なぜなら、聖書の中で、単なる人間のことばではなく、神のことばそのものを受け取っているからです73。「聖書において、天におられる父は、深い愛情をもって、つねにご自分の子供たちと会って、互いに語り合うのです」74。
[105]
神が、聖書の作者です。「聖書に含まれ、かつ、示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものです」。
「尊き母なる教会は、旧約および新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なるもの、正典であるとしています。なぜならそれらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会に伝えられているからです」75。
[106]
神は、人間である聖書記者に霊感を授けました。「神は、聖書の著作にあたって、固有の能力と素質を持った人間を選んで、これをお使いになりました。それは神が彼らの内に、また彼らによって働く間に、彼らが、神が望むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として書くためです」76。
[107]
霊感によって書かれた書は、真理を教えます。「それゆえ、霊感を受けた作者、つまり、聖書作者が断言していることは、聖霊から断言されたこととすべきであり、したがって、聖書は、神がわたしたちの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教えるものであるといわなければなりません」77。
[108]
とはいえ、キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「ことば」の宗教であって、そのことばは、「記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです」78。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、「聖書を悟らせるために」聖霊によってわたしたちの「心の目を開いて」79くださることが不可欠です。
[109]
聖書の中では、神は人間的な表現で人間に話されます。したがって、聖書を正しく解釈するには、人間の著者たちが実際に主張しようと意図したことと、神が著者たちのことばを通してわたしたちに示そうとされたこととに留意しなければなりません80。
[110]
聖書記者たちの意図を発見するために、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時普通であった感じ方、話し方、物語り方を考慮する必要があります。「実際、種々の方式での歴史的な、あるいは預言的な、あるいは詩的な書において、またその他の表現形式において、真理は違った方法で語られ、かつ表現されています」81。
[111]
しかし、聖書は霊感によって記されたものですから、これを正しく解釈するには、前述のものに劣らず重要な、もう一つの解釈原理があります。それなしには、聖書は「死んだ文字」にとどまるでしょう。「聖書は、それが書かれたのと同じ霊の光のもとに読まれ、解釈されなければなりません」82。
第2バチカン公会議は、聖書を、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するため、三つの基準を示しています83。
[112]
①
「聖書全体の内容と一体性」に特別な注意を払うこと。なぜなら、聖書は異なる書から成り立っていても、神の計画の一貫性のゆえに一つだからです。その計画の中心とも心ともいうべきもの、それはイエス・キリストであり、イエスの死と復活以来、それが明らかにされたのです
84。
「キリストの心とは85キリストの心を知らせる聖書を指しています。この心は受難の前には閉じられていました。すなわち、聖書の意味は、明らかでなかったのです。しかし、聖書は受難後に開かれました。なぜなら、キリストの受難後、聖書の知識を持っている人々は預言をどのように解釈すべきかを考察し、識別できるからです」86。
[113]
②「教会全体の生きた伝承」に従って聖書を読むこと。教父たちの教えによると、聖書は、文字どおりに読むよりも、教会の心で読むほうがまさっています87。事実、教会はその伝承に神のことばを生き生きと保ち続けており、さらに、「霊が教会に与える霊的意味に従って」88聖書を霊的に解釈する力を聖霊が教会に与えるのです。
[114]
③信仰の類比89に留意すること。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。
[115]
古くからの一つの伝統に従えば、聖書のことばの意味は、文字どおりの意味と霊的意味との二つに区別することができます。後者は寓意的、道徳的、天上的意味とに細分されます。これら四つの意味は根本的には一致し、教会の中にあって聖書を読むとき、読書を豊かにするものです。
[116]
文字どおりの意味。これは聖書のことばが表している意味で、正しい解釈の規則に従う聖書解釈によって考案されます。「聖書のすべての意味は、文字どおりの意味を土台にしています」90。
[117]
霊的意味。神の計画の一貫性のおかげで、聖書の文だけではなく、また、文が語ることがらや出来事もまた、別のことを示すしるしでありえます。
①寓意的意味。わたしたちは、聖書に示されているさまざまな出来事がキリストに関連づけて何を意味しているかを認めることによって、これらの出来事の意味をより深く理解できます。たとえば、紅海の通過はキリストの勝利を意味し、またそのことから、洗礼を意味します91。
②道徳的意味。聖書に記されている出来事は、わたしたちを正しい行動に導くはずです。それらは「わたしたちに警告するため」(一コリント10∙11)に書かれました92。
③天上的意味。ことがらや出来事の永遠の意味を考えることもできます。それらの出来事は、わたしたちを天の「祖国」に導くもの(ギリシア語でアナゴゲーἀναγωγή)です。たとえば、地上の教会は天上のエルサレムのしるしです93。
[118]
中世のある二行詩は、これら四つの意味を次のように要約しています。
「字義は出来事を、寓意的意味は何を信じるべきかを、道徳的意味は何を行うべきかを、天上的意味はどこに向かうべきかを教える」94。
[119]
「このような諸原則に従って、聖書の意味を深く理解し、説明するために努力し、いわば、準備的な研究によって、教会の判断が熟するようにするのが聖書解釈者の任務です。実際、聖書解釈に関するこれらすべてのことは、結局は神のことばを保存し、解釈する神的命令と使命とを果たす教会の判断のもとにおかれています」
95。
「もし、カトリック教会の権威がわたしをそう促すのでなければ、わたしは福音を信じはしないでしょう」96。
[120]
どの書が聖書のリストのうちに入れられるべきかを教会に識別させたのは、使徒伝承です97。その完全なリストが聖書の「正典」と呼ばれます。それは旧約聖書四十六書(エレミヤ書と哀歌を一つに数えれば四十五)と新約聖書二十七書からなります98。
旧約聖書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記上・下、列王記上・下、歴代誌上・下、エズラ記、ネヘミヤ記、トビト記、ユディト記、エステル記、マカバイ記一・二、ヨブ記、詩編、歳言、コヘレトの言葉、雅歌、知恵の書、シラ書(集会の書)、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、バルク書、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。
新約聖書:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書、使徒言行録、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一・二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一・二、テモテへの手紙一・二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一・二・三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。
[121]
旧約聖書は、聖書の欠くことのできない部分を成しています。その諸書は霊感によって書かれ、永続する価値を持っています99。なぜなら、古い契約は決して無効になったわけではないからです。
[122]
実際、「旧約の経綸は何よりもまず、万物のあがない主キリストの到来を準備し、預言的に知らせるために立てられました」。「不完全かつ一時的なことも含んでいますが」、旧約聖書の諸書は人を救う神の愛の教育法をよく示しています。それらの書は、「神に関する崇高な教えと人間生活に関する有益な知恵と祈りのすばらしい宝を納め、かつまた、わたしたちの救いの神秘を秘めています」100。
[123]
キリスト者は旧約聖書を神の真のことばとして敬います。教会は、旧約聖書が新約聖書によって無効にされたとしてこれを退ける考え(マルキオン主義)を、いつも強硬に排斥してきました。
[124]
「神のことばは、すべての信じる者にとって救いのための神の力ですが、そのことばは、新約聖書においてとくに優れた方法で示され、そしてその力を発揮しています」101。新約聖書の諸書は神の啓示の決定的真理をわたしたちに伝えます。その中心的内容は、人となられた神の御子イエス・キリスト、そのわざ、教え、受難、栄光化、そして聖霊の働きに基づくキリストの教会の発足です102。
[125]
福音書は、「わたしたちの救い主である託身のみことばの生涯と教えとに関するおもな証言ですから」103、全聖書の中心となるものです。
[126]
福音書の成立には三つの段階を区別することができます。
①イエスの生涯と宣教。教会が断固として主張し続けることですが、「教会は四福音書の歴史性をためらわずに断言し、神の子イエスが人間の間で生を送り、彼らの永遠の救いのため天に上げられる日まで、実際に行いまた教えたことを、それらの福音書が忠実に伝えていることを主張します」。
②口伝。「使徒たちは、主の昇天後、キリストの栄えある出来事に教えられ、真理の霊の光に照らされる、確信を与えられて持っていたいっそう深い理解をもってキリストの言行を聴衆に伝えていました」。
③福音書。「聖書作者は四福音書を書くにあたって、口伝と書き物とによって伝えられていた多くのことがらの中から選択し、あることがらを総合し、あるいは教会の事情に留意しながら説明し、そして宣教の形式を保ちながら、イエスに関して、つねに真理と真実とをわたしたちに知らせるようにしました」104。
[127]
四福音書は教会の中で一つの卓越した位置を占めていますが、そのことは典礼が払う崇敬とそれがあらゆる時代に聖人たちに及ぼした比類のない影響力とによって示されています。
「福音書以上に優れ、貴重で、光に満ちた教えはほかにありません。わたしたちの主であり師であるキリストが、そのことばによって教え、行いによって実現したことを見、心に銘記してください」105。
「念禱の間に、わたしの霊魂を養っているのは何よりも福音書です。その中に、わたしの哀れな霊魂に必要なすべてを見いだします。そこに新たな光、隠された、神秘的な意味をいつも発見します」106。
[128]
教会はすでに使徒時代から107、またその後の伝承の中でたえず、予型論を用いて二つの契約の間に見られる神の計画の一貫性を明らかにしてきました。この予型論は旧約時代の神のわざのうちに、時が満ちて人となられた御子において神が実現されたことの前表を見分けます。
[129]
したがって、キリスト者は旧約聖書を、死んで復活されたキリストに照らして読むのです。この予型論的な読み方によって、旧約聖書のくみ尽くすことのできない内容が明らかになります。しかし、旧約聖書は、主ご自身によってあらためて確認されたように108、それ自体で啓示としての価値を保っていることを忘れるべきではありません。実際、新約聖書もまた、旧約聖書に照らして読まれる必要があります。古代教会のカテケージスは、たえず旧約聖書を活用しています109。古くからいわれているように、「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」110ために、新約聖書は旧約聖書の中に隠され、旧約聖書は新約聖書の中で明らかにされるのです。
[130]
予型論は、「神がすべてにおいてすべてになられる」(一コリント15∙28)ときの、神の計画の完成に向かう力強い歩みを示すものです。ですから、たとえば、族長たちの召し出しやエジプト脱出は、神の計画の中のそれぞれの段階を示しているので、固有の価値を失ってはいません。
[131]
「神のことばは、教会にとっては支えと気力となり、教会の子供にとっては、信仰の力、魂の糧、霊的生命の清く尽きない泉となるような威力と性質を持っています」111。「キリスト信者には、聖書に近づく多くの機会が与えられなければなりません」112。
[132]
「したがって、聖書研究はあたかも神学の魂のようなものでなければなりません。ことばの奉仕職、すなわち、司牧的説教、要理教授、各種のキリスト教教育、この中で、典礼中の説教は特別の地位を占めるべきですが、これらは、聖書のことばによって、健全な栄養と聖なる活力を与えられます」113。
[133]
教会は「すべてのキリスト信者……に、しばしば聖書をひもといて、『イエス・キリストの崇高なる知識』(フィリピ3∙8)を学ぶよう、特別にまた強く勧めます。『実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことです』」114。
[134]
聖書全巻は、一冊の書です。この一冊の書、それはキリストなのです。「聖書全巻はキリストについて語り、聖書全巻はキリストにおいて完成するからです」115。
[135]
「聖書は神のことばを含んでおり、それは霊感によるので、真に神のことばなのです」116。
[136]
聖書の作者は神であり、聖書記者に霊感を与えながら、彼らのうちにあって、彼らを通して働かれます。こうして、神は彼らの書が救いの真理を誤りなく教えることを保証しておられます117。
[137]
霊感によって書かれた聖書を解釈するにあたっては、まず、神がわたしたちの救いのために聖書記者を通して啓示しようとされたことに留意しなければなりません。霊に由来するものは、霊の働きによってしか十分には理解されないのです118。
[138]
教会は、旧約聖書の四十六書と新約聖書の二十七書を、霊感によるものとして受け入れ、敬います。
[139]
四福音書が中心的位置を占めますが、それはイエス・キリストを中心としているからです。
[140]
新約・旧約聖書の一貫性は、神の計画と啓示との一貫性に由来します。旧約聖書は新約聖書を準備し、新約聖書は旧約聖書を成就します。両者は相互に照らし合います。両者とも、神の真のことばです。
[141]
「教会は主の聖体と同様に、聖書をつねに尊敬し……てきました」119。この二つはキリスト者の全生活の糧であり、規範です。「あなたのみことばは、むたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」(詩編119∙105)120。
[142]
啓示によって、「見えざる神は、大きな愛によって、あたかも友に対するように、人間に話しかけ、彼らと住まいをともにしています。それは、彼らを自分との交わりに招き、これにあずからせるためです」1。この招きに対するふさわしい回答が信仰です。
[143]
信仰によって、人間は、その知性と意志とをまったく神に従わせます。人間は啓示する神に心底から同意します2。聖書は、啓示する神への人間のこの応答を「信仰による従順」と呼んでいます3。
[144]
信仰によって従う(「従う」oboedireは「傾聴する」ob-audireに由来)とは、聞いたことばに自由に自分をゆだねることにほかなりません。その真理が、真理そのものである神によって保証されているからです。アブラハムは、聖書が示しているこの従順の模範です。おとめマリアは、それをもっとも完全に具現したかたです。
[145]
ヘブライ人への手紙は、先祖たちの信仰をたたえる箇所で、とくにアブラハムの信仰を力説しています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11∙8)4。信仰によって、アブラハムは約束の地で寄留人、旅人として暮らしました5。信仰によって、サラは約束の子を懐胎することができました。信仰によって、アブラハムは一人息子を犠牲としてささげました6。
[146]
ヘブライ人への手紙には「信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11∙1)だと述べられていますが、アブラハムはこの信仰の定義を具現しています。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(ローマ4∙3)7。この「強い信仰」のおかげで、アブラハムは「信じるすべての人の父」(ローマ4∙11,18)となりました8。
[147]
旧約聖書では、この信仰をあかしする人の話を数多く読むことができます。ヘブライ人への手紙は、「神に認められ」(ヘブライ11∙2,39)るようにさせた昔の人々の模範的な信仰をたたえています。しかし、「神は、わたしたちのために、さらにまさったものを計画してくださった」(ヘブライ11∙40)のです。すなわち、「信仰の創始者また完成者である」(ヘブライ12∙2)御子イエスを信じる恵みです。
[148]
マリアは、信仰による従順をもっとも完全に具現します。信仰をもって、マリアは天使ガブリエルによるお告げと約束を受諾しました。「神にできないことは何一つない」(ルカ1∙37)9ということばを信じ、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように」(ルカ1∙38)と同意したのです。エリサベトはマリアに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」(ルカ1∙45)とあいさつしました。マリアはこの信仰のゆえに世の人からも幸いな者と宣言されるのです10。
[149]
マリアの信仰は生涯にわたって、ご自分の御子イエスが十字架上で死ぬという最後の試練に遭ったときですら11、揺らぐことはありませんでした。マリアは神のことばの「成就」をいつも信じていました。ですから教会は、マリアを信仰をもっとも純粋に生きたかたとして敬うのです。
[150]
信仰はまず、神に対する人間の人格的な帰依です。これは同時に、神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意を伴います。キリスト者の信仰は神への人格的な帰依と神が啓示された真理への同意ですから、だれか一人の人間を信じることとは違います。全面的に神に信頼し、神が語られることを固く信じるのは、正しく、よいことなのです。神でないものをこのように信じることはむなしく、誤っています12。
[151]
キリスト者にとって、神を信じることには必ず、神が遣わされたかた、すなわち、神のみ心にかなう「愛する御子」を信じることが伴います13。神は御子に聞くようにと、わたしたちに命じられました14。イエスご自身が弟子たちに、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14∙1)といわれたのです。わたしたちがイエス・キリストを信じることができるのは、このかたご自身が神であり、人となられたみことばだからです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいるひとり子である神、このかたが神を示されたのである」(ヨハネ1∙18)。御子は「父を見た」(ヨハネ6∙46)ので、彼だけが神を知らせ、示すことができるのです15。
[152]
イエスの霊を受けることなしに、イエス・キリストを信じることはできません。イエスとはどのようなかたであるかを人間に知らせるのは聖霊です。実際、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえないのです」(一コリント12∙3)。「霊はいっさいのことを、神の深みさえも究めます。……神の霊以外に神のことを知る者はいません」(一コリント2∙10-11)。神だけが、神のすべてをご存じです。わたしたちが聖霊を信じるのは、聖霊が神であるからです。
教会は唯一の神、父と子と聖霊への信仰をいつも公言します。
[153]
聖ペトロが、イエスはキリスト、生きている神の御子であると公言したとき、イエスはペトロに、このことを表したのは人間ではなく、イエスの「天の」(マタイ16∙17)父であると言明しておられます16。信仰は神のたまものです。神から授かった超自然的徳です。「このような信仰を起こすには、神の先行的かつ援助的恩恵と聖霊の内的助力が必要です。聖霊は、人の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、『すべての者に、真理を受け入れること、そして信じることの甘美さを』味わわせます」17。
[154]
信じることが可能なのは、ただ、神の恵みと聖霊の内的な助けによります。そうではあっても、信じることはまさに人間的な行為なのです。神に信頼し、神から啓示された真理に同意することは、人間の自由にも知性にも反することではありません。そもそも、人間関係の場合(たとえば男と女が結婚するようなとき)でも、相手が話してくれるその人自身のことやその考えなどを信じ、その約束に信頼してその人との関係を結ぶことは、人間の尊厳に背くことではありません。そうであればなおさらのこと、「ご自分を啓示される神に信仰によって知性と意志を全面的に服従させ」18、神との親しい交わりに入ることで、わたしたちの尊厳が傷つけられることはないのです。
[155]
信仰においては、人間の知性と意志は神の恵みに協力します。「信じるとは、恵みによって神に動かされた意志の命じるままに、神の真理に同意する知性の行為です」19。
[156]
啓示された真理がわたしたちの自然の理性にとって真実であり理解できるということが、信じる動機とはなりません。わたしたちが信じるのは、「欺くことも欺かれることもない啓示する神の権威のため」20です。「わたしたちの信仰が『道理にかなった供え物』となるように、神は聖霊の内的助けに天啓の外的証拠が結合されることを望みました」21。だから、キリストと聖人たちの奇跡22、成就した預言、教会の発展と聖性、その豊かさと安定が、「神の啓示のもっとも確実で、すべての人の理解力によく応じたしるし」23となり、また、信仰による同意が「決して精神の盲目的な動きではない」24ことを示す信憑性の動機となるのです。
[157]
信仰は確実、しかも、あらゆる人間の認識よりも確実なものなのです。なぜなら、それは偽ることのできない神のことばそのものに基づいているからです。確かに、啓示された真理は人間の理性や経験にとっては定かではないように思えることがあるでしょう。しかし、「神的光が与える確実性は、自然理性の光が与える確実性よりも強いのです」25。「たとえ理解できないことが無数にあっても、そのことが信仰の確実さを疑わせることにはなりません」26。
[158]
「理解することを求める信仰」27。信仰者が信じる神をもっとよく知り、啓示されたことをもっとよく理解したいと望むことは、信仰に付きものです。他方、知識が深まるにつれて信仰はより強まり、ますます愛に燃え立ちます。信仰の恵みは「心の目」(エフェソ1∙18)を開き、啓示の内容、すなわち、神の計画の全体、信仰の神秘、それらの間のつながり、また、啓示された神秘の中心であるキリストとその信仰の神秘との関係について、生き生きとした理解を持たせます。ところで、「聖霊は、啓示についての理解がますます深くなるように、不断にそのたまものをもって信仰を完全なものにします」28。ですから、聖アウグスチヌスのことばに従えば、「信じるために理解し、理解するために信じる」29ということになります。
[159]
信仰と学問。「信仰は理性を超えるものですが、両者間には決して真の対立はありえません。諸神秘を啓示し、信仰を授けてくださる神ご自身が、人間精神に理性の光を注がれたのです。神はご自分の示していることを否定することはおできになりませんし、真理が真理と対立することも決してありえません」30。「したがって、あらゆる知識の分野における学問的研究は、真実の学問的方法によるものであって、倫理の法則に従って行われるものであれば、決して信仰に対立することはないはずです。世俗の現実と信仰の現実とはともに同じ神に起源を持つものだからです。むしろ、謙虚と忍耐をもって事物の秘密を知ろうと努力する者は、万物を支えて、そのものとして存在せしめている神の手に知らずに導かれているようなものです」31。
[160]
人間らしくあるためには、「神に対する人間の信仰による応答は、自由意志によるものでなければなりません……。それで、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるように強制されてはなりません。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志によるものです」32。「神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々を招いています。それで、人間は良心において束縛されてはいますが、強制はされていません。……このことは、イエス・キリストにおいてもっともよく示されています」33。キリストは信仰と回心を促しはしましたが、決して強制はなさいませんでした。「真理に証明を与えはしましたが、それを反対者に力づくで押しつけることはしませんでした。その国は……十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展します」34。
[161]
イエス・キリストを信じ、また、イエスをわたしたちの救いのために遣わしてくださった神を信じることは、救いを得るために必要です35。「『信仰がなければ、神に喜ばれることはでき〔ず〕』(ヘブライ11∙6)、神の子らとしての身分にあずかることもできません。信仰なしにはだれも決して義とされることはなく、『最後まで信仰を保たない限り』(マタイ10∙22、24∙13)永遠の生命を得ることはないでしょう」36。
[162]
信仰は、神が人間に与えてくださった無償のたまものです。わたしたちには、このはかりしれない恵みを失うことがありうるのです。聖パウロはテモテに警告しました。「雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました」(一テモテ1∙18-19)。信仰に生き、信仰において成長し、最後まで信仰を貫くために、わたしたちは神のことばによって信仰を養わなければなりません。信仰を強めてくださるよう、主に願わなければなりません37。信仰は「愛の実践」(ガラテヤ5∙6)を伴い38、希望に支えられ39、教会の信仰の中に根を下ろさなければなりません。
[163]
信仰は、地上の歩みが目指す至福直観の喜びと光を、いわば前もって味わわせます。その日、わたしたちは神を「顔と顔とを合わせて」(一コリント13∙12)、「ありのままに」(一ヨハネ3∙2)見るでしょう。したがって、信仰はすでにこの永遠のいのちの始まりです。
「わたしたちは、すでに今から、信仰によって得られる神の祝福を鏡に映るもののように眺めています。それは、いつか享受できると信仰によって保証されているすばらしいものを、すでに所有しているといえるのです」40。
[164]
けれども、今は、「〔わたしたちは〕目に見えるものによらず、信仰によって歩んで」(二コリント5∙7)いて、神を「鏡におぼろに映ったもの〔のように〕一部しか」(一コリント13∙12)知らないのです。信じる神に照らされてはいても、信仰はしばしばやみを経験します。試練に遭いかねません。わたしたちが生きている世界は、信仰がわたしたちに教えることからしばしばかけ離れているように見え、悪、苦しみ、不正、そして死の体験は、福音と矛盾するように思えます。このようなことは、信仰を揺るがせ、失わせる誘惑にもなりかねません。
[165]
そのときこそ、信仰の証人に目を向ける必要があります。「希望するすべもなかったときに」(ローマ4∙18)信じたアブラハム、「信仰の旅路」41にあって、御子の苦しみとその墓のやみをともにしながら42、「信仰の暗夜」43に入った聖母マリア、その他多くの証人がいます。「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12∙1-2)。
[166]
信仰は人格的な行為、つまり、ご自分を啓示する神の呼びかけに対する人間の自由な応答です。しかし、信仰は孤立した行為ではありません。一人で生きることができないように、だれも一人で信じることはできません。自分で自分に生命を与えることができないように、だれも自分に信仰を与えることはできません。信仰者は、信仰を他の人から受け取りました。それを他の人に伝えなければなりません。わたしたちのイエスと人々への愛は、他の人に自分の信仰について話すように駆り立てます。信者一人ひとりは、信仰者たちの大きな鎖の一つ一つの輪のようなものです。わたしは他の人々の信仰に支えられることなしに信じることはできませんし、また、自分の信仰によって、わたしは他の人々の信仰を支えることに貢献しているのです。
[167]
「わたしは信じます」44⸺これは、主として洗礼のとき、信じる者の一人ひとりによって個々に宣言される教会の信仰を表します。「わたしたちは信じます」45⸺これは、公会議に集まった司教たち、あるいはもっと一般的に、典礼祭儀に集まった信者たちが公言する教会の信仰を表します。「わたしは信じます」⸺これはまた、その信仰によって神に答え、「わたしは信じます」、「わたしたちは信じます」と告白するようわたしたちに教える、わたしたちの母である教会自身の信仰告白でもあります。
[168]
まず教会が信じて、わたしの信仰を支え、養い、助けます。至るところで主を公言するのは、まず教会です(わたしたちは「テ・デウム」の中で、「世界に広がる聖なる教会はあなたをたたえます」と歌います)。そして、わたしたちもまた、教会とともに、教会に結ばれて、やむにやまれず「わたしは信じます」、「わたしたちは信じます」と公言するのです。わたしたちが信仰およびキリストのうちにある新しいいのちを洗礼によって授かるのは、教会を通してです。「ローマ儀式書」では、洗礼の司式者は「あなたは神の教会に何を求めますか」と尋ね、洗礼志願者はまず「信仰を求めます」と答えることになっています。そしてさらに「信仰によって何が与えられますか」、「永遠のいのちが与えられます」との問答が続きます46。
[169]
救いは、ただ神のみから来ます。しかし、わたしたちは教会を通して信仰のいのちをいただくわけですから、教会はわたしたちの母です。「わたしたちは教会を、わたしたちの新しいいのちの母であると信じているのであって、わたしたちの救いの創始者として信じているのではありません」47。教会は、わたしたちの母ですから、またわたしたちの信仰の養育者でもあります。
[170]
わたしたちは信仰を伝える文言を信じるのではなく、それが表す現実、信仰によって「触れる」ことのできる現実を信じるのです。「信仰者の(信仰の)行為の対象は文言ではなく、文言が表している現実です」48。しかし、この現実に近づくために、わたしたちは信仰を表明する文言を用います。これらは信仰を表現し、伝え、共同で祝い、自分のものにし、信仰にいっそう深く生きることを可能にします。
[171]
「真理の柱であり土台である」(一テモテ3∙15)教会は、聖なる者たちにひとたび伝えられた信仰49を忠実に守ります。キリストのことばを保ち続けるのは教会です。使徒たちの信仰告白を代々に伝えるのは教会です。母親が子供たちにことばを習わせ、それによって理解し、伝えることを教えるように、母なる教会はわたしたちに信仰のことばを学ばせ、信仰を理解し、それを生活に取り入れるように導いていきます。
[172]
教会は昔から、多くの言語、文化、民族、国の中にあって、唯一の信仰をたえず公言してきました。唯一の主から授けられ、唯一の洗礼によって伝えられ、すべての人間には唯一の神・唯一の父が存在するだけであるとの確信となって定着した信仰です50。この信仰の証人であるリヨンの聖イレネオは次のように言明しています。
[173]
「教会は、地の果てに至るまで全世界に散らされてはいても、使徒たちとその弟子たちから信仰を受け取り、……この使信とこの信仰とをただ一つの家に住むかのように注意深く守り、一つの魂、一つの心であるかのように等しく信じ、一つの口しか持たないかのように、声を合わせてこれらのことをのべ伝え、教え、伝達しています」51。
[174]
「たとえことばは地方ごとに異なっていても、伝承の内容は一つで同じだからです。ゲルマニアに設立されている諸教会が違う信仰や伝承を持っているわけではなく、イベリア人の所にある諸教会も、ケルト人の所にある諸教会も、さらに東方、エジプト、リビア、そして世界の中央に設立されている諸教会も同様です」52。「実に、教会の使信は真実で、確かなものです。教会においてこそ、全世界における唯一の同じ救いの道が見いだされるのです」53。
[175]
「わたしたちは、教会から受けたこの信仰を注意深く守ります。なぜなら、信仰はすばらしい器に納められたきわめて高価な預かり物のように、神の霊の働きのもとにたえず若返り、またそれを納めている器をも若返らせているからです」54。
[176]
信仰は、ご自分を啓示される神に、人間が自分のすべてをあげて人格的に帰依することです。信仰は、神がご自分の行いとことばによって、ご自分についてなされた啓示に対する知性と意志の同意を伴います。
[177]
したがって、「信じる」とは、二つのことにかかわっています。神と真理です。すなわち、真理を証言する神を信頼して、真理を受け入れるのです。
[178]
わたしたちは、父と子と聖霊である神のみを信じなければなりません。
[179]
信仰は神の超自然的なたまものです。信じるために、人間は聖霊の内的な助けを必要とします。
[180]
「信じる」とは、意識した、自由な人間的な行為で、人間の尊厳に相応するものです。
[181]
「信じる」とは、教会の行為です。まず、教会の信仰があり、これがわたしたちの信仰を生み、支え、養います。教会は、信じる者すべての母です。「教会を母として持たない者は、だれも神を父として持つことはできません」55。
[182]
「わたしたちは、書かれた、あるいは伝えられた神のことばに含まれ、教会が神から啓示されたものとして信じるように提示するすべてのことを信じます」56。
[183]
信仰は救いに必要です。キリストご自身、これを言明しておられます。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ16∙16)。
[184]
「信仰とは、来世でわたしたちに至福をもたらす認識を前もって味わわせることです」57。