[2663]
各教会はその信者たちに、祈りの生きた伝承の中で、それぞれの歴史的・社会的・文化的背景に基づいて、ことば、曲、動作、聖画像などを用いた祈りの表現法を提供しています。これらの祈りのしかたが使徒たちの信仰伝承に忠実であるか否かを識別するのは教導権の務めであり10、その意味をつねにイエス・キリストに関連させて説明するのは司牧者やカテキスタの役目です。
[2664]
キリスト教的祈りのしかたには、キリストを通して行う以外のものはありません。共同体の祈りであろうと個人の祈りであろうと、口禱であろうと念禱であろうと、イエスの「名によって」祈らないなら、御父のもとには届かないでしょう。つまり、イエスの聖なる人性が仲立ちとなってこそ、聖霊はわたしたちに父である神に祈ることを教えてくださるのです。
[2665]
神のことばと典礼とによって培われた「教会の祈り」は、主イエスに祈ることをわたしたちに教えてくれます。典礼の祈りはおもに御父に向けられたものですが、すべての典礼伝承には直接キリストに向けられた祈りも含まれています。「教会の祈り」に採用された若干の詩編や新約聖書の中には、キリストに呼びかける祈りをわたしたちの唇にのぼらせ、心に刻ませることばがあります。神の御子よ、神のことば、主、救い主、神の小羊、王、最愛の御子よ、おとめマリアからお生まれになられた御子、よき牧者、わたしたちのいのち、わたしたちの光、わたしたちの希望、わたしたちの復活、人々の友よ、……などという呼びかけのことばがそれに当たります。
[2666]
とはいえ、これらのすべての意味を包含するのは、神の御子が人となられたときにお受けになった、イエスという名だけです。神の名は言語では表現できないものですが11、神のことばは、人間性をとることにより、わたしたちにその名を示し、「イエス」、「主(YHWH)は救う」12という名を呼び求めることができるようにしてくださいました。イエスの名は、神と人、創造と救いのあらゆる営みを含むものです。「イエス」に祈ること、それはイエスを呼び求め、わたしたちのうちにお迎えすることにほかなりません。ただイエスの名だけが、その名が意味するかたを現存させる名前です。イエスは復活なさいました。イエスの名を呼ぶ者はだれであれ、その人を愛し、その人のためにご自分を渡された神の御子をお迎えするのです13。
[2667]
信仰によるまったく単純なこの呼びかけは、東西双方の祈りの伝承の中でさまざまな形に発展してきました。シナイ山、シリア、ならびにアトス山の修道者たちによって伝えられたもっとも一般的な形は、「イエス・キリスト、神の御子、主よ、罪びとであるわたしたちをあわれんでください」という呼びかけです。これは、フィリピの信徒への手紙2章の6から11節のキリスト賛歌に、徴税人および目が見えるようにと願った盲人の呼びかけを組み合わせたものです14。この呼びかけによって、人の心は人間の悲惨さと救い主のあわれみとに結ばれるのです。
[2668]
イエスの聖なるみ名を呼び求めるのが、絶え間ない祈りを続けるためのもっとも簡単な方法です。それはへりくだったひたむきな心が繰り返す祈りであり、「くどくどと」(マタイ6∙7)述べたてず、「みことばを守り、忍耐して実を結ぶ」祈りです15。それは、「いつでも」できる祈りです。なぜなら、他のことに心を奪われることなく、キリスト・イエスにおいて全行為を生かし、変容させてくれる、神を愛することにのみ心を集中させる祈りだからです。
[2669]
教会の祈りはイエスの至聖なるみ名を呼び求めるだけのものではなく、イエスのみ心を崇敬するものでもあります。人となられたみことばと、人間を愛するあまりわたしたちの罪によって刺し貫かれたそのみ心とを礼拝します。キリスト者は、救い主に倣って十字架の道をたどる祈りを好みます。法廷からゴルゴタや聖墳墓へと向かう十字架の道行の各留は、聖なる十字架によって世をあがなわれたイエスが歩まれた道程を浮き彫りにしてくれます。
[2670]
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえないのです」(一コリント12∙3)。わたしたちがイエスに祈り始めるときはいつも、聖霊が前もって恵みを与えてわたしたちを祈りへと誘っておられます。聖霊がわたしたちの心にキリストへの思いを起こさせながら祈らせてくださっているのであれば、どうして聖霊ご自身に祈らずにいられましょう。だから、教会はわたしたちに、毎日、とくに重要な行為の始めと終わりには必ず聖霊に祈るようにと勧めています。
「もし聖霊があがめられるべきかたではないとしたら、どうして洗礼によってわたしを神化させてくださることができるのでしょうか。もしあがめられるべきかたであるなら、崇敬の対象となるべきではないでしょうか」16。
[2671]
聖霊を求める伝統的な祈りは、慰め主である霊をわたしたちに与えてくださるよう、主キリストを通して御父に乞い求める形が取られています
17。イエスは、まさに真理の霊のたまものを約束されるそのとき、それをご自分の名によって願うようにと強調なさいます
18。しかし、もっとも簡単でもっとも直接的な、「聖霊、来てください」という祈りもまた、伝統的な祈りです。それぞれの典礼伝承はこれを、先唱句と賛歌の中で発展させてきました。
「聖霊来てください。信じる人の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしてください」19。
「天の王、慰めの霊、真理の霊、いずこにも在し、すべてを満たすかた、すべての善の宝庫、人生の援護者、来てください。わたしたちの心に住まい、わたしたちを清め、救ってください。ああ、いつくしみ深いかた!」20。
[2672]
その塗油によってわたしたちの存在全体を満たしておられる聖霊は、キリスト教的祈りを内面から支えてくださる教師であり、祈りの生きた伝承を作り上げてくださるかたです。事実、祈りのしかたは祈る人の数ほど違っています。しかし、すべての人のうちで、すべての人とともに働いておられるのは同じ霊なのです。聖霊と結ばれたキリスト教的祈りが、教会の祈りなのです。
[2673]
聖霊は祈りの中でわたしたちを、栄光を受けられたキリストの人性を通して、神の御ひとり子と一体にさせてくださいます。このキリストの人性を通して、その人性と結ばれて、子供としてのわたしたちの祈りは教会の中でイエスの御母と結ばれます21。
[2674]
マリアは信仰によってお告げを受諾し、十字架のもとでもひるむことなくそれを守り抜きました。マリアはそれ以来、まだこの世の旅路にあって危険や困難に直面している御子のすべての兄弟たちの母となっています22。唯一の仲介者であるイエスは、わたしたちの祈りを執り成してくださいます。イエスの御母であると同時にわたしたちの母でもあるマリアには、イエスの姿が曇りなく映っています。したがってマリアは、東西両教会の伝統的な聖画像では、「道を示す」かた(ホデゲトリアὉδηγήτρια)、その道の「目印」として描かれています。
[2675]
聖霊の働きに対するマリアのこの格別な協力ゆえに、各地の教会は神の母マリアへの祈りを発展させてきましたが、諸神秘のうちに示されているキリストご自身への祈りがその中心を占めています。この祈りを表す数多くの賛歌と交唱の中では、通常、二つの方向性を持った祈りが交錯します。一つは、主が身分の低いはしために、またはしためを通してすべての人間になされた「偉大なこと」のゆえに主を「たたえる」こと23、もう一つは、神の子らの懇願と賛美を神にささげてくださるようにとイエスの御母に願うことです。それは、神の御子がマリアにおいて人類をご自分の花嫁として受け入れてくださったことをマリアがご存じだからです。
[2676]
「聖母マリアへの祈り(アベ・マリア)」には、マリアへの祈りのこの二つの方向性が十分に表現されています。
「アベ・マリア(喜びなさい、マリア)」。この祈りは天使ガブリエルの「喜びなさい」というあいさつで始まります。神ご自身が天使を通してマリアにあいさつしておられるのです。わたしたちはこの祈りの中で、大胆にも、神が身分の低いはしために注がれたのと同じまなざしでマリアに向かってあいさつし24、神がマリアを喜びとしてくださるのと同じ喜びを表現するのです25。
「恵みあふれるかた、主はあなたとともにおられます」。この二つのことばは互いに関連し合っており、一方が他方の意味をより明らかにしています。マリアが恵みにあふれておられるのは、主がともにおられるからです。マリアに満ちあふれている恵みというのは、すべての恵みの泉であるかたの現存のことなのです。「娘エルサレムよ、喜び叫べ。……神なる主はお前の中におられる」(ゼファニヤ3∙14,17 参照)。主の住まいとなられたマリアの中に娘シオン、契約の櫃、主の栄光の座が現れます。マリアは「人の間にある神の幕屋」(黙示録21∙3 参照)です。「恵みあふれる」マリアは、自分のうちに住みに来られるかた、自分が産もうとするかたに自分のすべてをささげられます。
「主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました」。天使のあいさつのあとに、わたしたちはエリサベトのあいさつを自分たちのあいさつとして付け加えます。エリサベトは、「聖霊に満たされて」(ルカ1∙41)、幾世代にも及ぶ長い歴史の中で、マリアは幸いだと宣言する最初の人間となります26。「信じたかたは、何と幸いでしょう」(ルカ1∙45)。マリアが「女のうちで祝福された」のは、主のおことばの成就を信じたからです。アブラハムはその信仰により、「地上の氏族がすべて祝福に入る」(創世記12∙3)ための源となりました。マリアはその信仰によって信じる者の母となり、マリアのおかげで地上の諸国民は、神の祝福そのものであるかた、「あなたの子イエスも祝福されました」といわれるかたをお受けするのです。
[2677]
「神の母聖マリア、……わたしたちのために……祈ってください」。わたしたちはエリサベトとともに、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(ルカ1∙43)と驚きの声を上げます。マリアはわたしたちに御子イエスを与えてくださるので、神の母であると同時にわたしたちの母なのです。わたしたちはあらゆる心配や願いごとをマリアにゆだねることができるし、マリアは、ご自分のために「おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1∙38)と祈られたように、わたしたちのために祈ってくださるのです。わたしたちはすべてをマリアの祈りにゆだねて、マリアとともに「み心が行われますように」と祈りながら、自分自身を神のみ旨におゆだねするのです。
「罪深いわたしたちのために、今も、死を迎えるときも祈ってください」。マリアがわたしたちのために祈ってくださるようにと願いながら、わたしたちは自分があわれな罪びとであることを認め、「あわれみの母」である聖なるかたを眺め、日々の営みの中の「今」をゆだねます。そして、すでに今から「死を迎えるとき」をおゆだねするほど、彼女に対するわたしたちの信頼は深まります。彼女が御子の十字架上の死に臨まれたのと同じようにわたしたちが死を迎えるときにもともにおられて、母としてわたしたちを迎え27、御子イエスのみもと、天国へと導いてくださるようにとお願いするのです。
[2678]
中世期の西方教会の信心は、時課に代わる大衆的な祈りとしてロザリオの祈りを発展させました。東方教会では、聖務日課の交唱に近い、アカティストスやパラクレシスのような連願形式の祈りがビザンチン教会に残っていますが、アルメニア、コプトおよびシリア教会の伝承はむしろ、神の御母への大衆的賛歌や賛美歌を好むものとなっています。いずれにしても、アベ・マリア、テオトキア、聖エフレムの賛歌、あるいはナレクの聖グレゴリオの賛歌のいずれを見ても、祈りの伝承は根本的に同じです。
[2679]
マリアは教会をかたどる完全な祈りの人です。マリアに祈るとき、わたしたちはすべての人間を救うために御子を遣わされた御父の計画に、マリアとともに身を任せます。イエスに愛された弟子のように、すべてのいのちあるものの母となられたイエスの御母を、わたしたちのところへお迎えします28。わたしたちはマリアとともに祈ることも、マリアに祈ることもできるのです。教会の祈りは、いわばマリアの祈りに支えられ、マリアの希望に結ばれています29。
[2680]
祈りとはおもに御父に向けられるものですが、イエスに向けられるものもあります。その代表的なものとして、「イエス・キリスト、神の御子、主よ、罪びとであるわたしたちをあわれんでください」という、イエスの名を呼び求める祈りを挙げることができます。
[2681]
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえないのです」(一コリント12∙3)。教会はわたしたちに、キリスト教の祈りを内面から支えてくれる教師である聖霊に祈るようにと勧めています。
[2682]
聖霊の働きに対して聖母マリアが格別な協力をしておられるので、教会はマリアと心を合わせて祈ることを好み、神が彼女のうちに行われた偉大な出来事をたたえ、懇願と賛美を神にささげてくださるようにと、マリアに願います。