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神のことばと典礼とによって培われた「教会の祈り」は、主イエスに祈ることをわたしたちに教えてくれます。典礼の祈りはおもに御父に向けられたものですが、すべての典礼伝承には直接キリストに向けられた祈りも含まれています。「教会の祈り」に採用された若干の詩編や新約聖書の中には、キリストに呼びかける祈りをわたしたちの唇にのぼらせ、心に刻ませることばがあります。神の御子よ、神のことば、主、救い主、神の小羊、王、最愛の御子よ、おとめマリアからお生まれになられた御子、よき牧者、わたしたちのいのち、わたしたちの光、わたしたちの希望、わたしたちの復活、人々の友よ、……などという呼びかけのことばがそれに当たります。
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とはいえ、これらのすべての意味を包含するのは、神の御子が人となられたときにお受けになった、イエスという名だけです。神の名は言語では表現できないものですが出エジプト3・14,33・19-23参照。、神のことばは、人間性をとることにより、わたしたちにその名を示し、「イエス」、「主(YHWH)は救う」マタイ1・21参照。という名を呼び求めることができるようにしてくださいました。イエスの名は、神と人、創造と救いのあらゆる営みを含むものです。「イエス」に祈ること、それはイエスを呼び求め、わたしたちのうちにお迎えすることにほかなりません。ただイエスの名だけが、その名が意味するかたを現存させる名前です。イエスは復活なさいました。イエスの名を呼ぶ者はだれであれ、その人を愛し、その人のためにご自分を渡された神の御子をお迎えするのですローマ10・13,使徒言行録2・21,3・15-16、ガラテヤ2・20参照。。
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信仰によるまったく単純なこの呼びかけは、東西双方の祈りの伝承の中でさまざまな形に発展してきました。シナイ山、シリア、ならびにアトス山の修道者たちによって伝えられたもっとも一般的な形は、「イエス・キリスト、神の御子、主よ、罪びとであるわたしたちをあわれんでください」という呼びかけです。これは、フィリピの信徒への手紙2章の6から11節のキリスト賛歌に、徴税人および目が見えるようにと願った盲人の呼びかけを組み合わせたものですルカ18・13、マルコ10・46-52参照。。この呼びかけによって、人の心は人間の悲惨さと救い主のあわれみとに結ばれるのです。
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イエスの聖なるみ名を呼び求めるのが、絶え間ない祈りを続けるためのもっとも簡単な方法です。それはへりくだったひたむきな心が繰り返す祈りであり、「くどくどと」(マタイ6∙7)述べたてず、「みことばを守り、忍耐して実を結ぶ」祈りですルカ8・15参照。。それは、「いつでも」できる祈りです。なぜなら、他のことに心を奪われることなく、キリスト・イエスにおいて全行為を生かし、変容させてくれる、神を愛することにのみ心を集中させる祈りだからです。
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教会の祈りはイエスの至聖なるみ名を呼び求めるだけのものではなく、イエスのみ心を崇敬するものでもあります。人となられたみことばと、人間を愛するあまりわたしたちの罪によって刺し貫かれたそのみ心とを礼拝します。キリスト者は、救い主に倣って十字架の道をたどる祈りを好みます。法廷からゴルゴタや聖墳墓へと向かう十字架の道行の各留は、聖なる十字架によって世をあがなわれたイエスが歩まれた道程を浮き彫りにしてくれます。