[2673]
聖霊は祈りの中でわたしたちを、栄光を受けられたキリストの人性を通して、神の御ひとり子と一体にさせてくださいます。このキリストの人性を通して、その人性と結ばれて、子供としてのわたしたちの祈りは教会の中でイエスの御母と結ばれます21。
[2674]
マリアは信仰によってお告げを受諾し、十字架のもとでもひるむことなくそれを守り抜きました。マリアはそれ以来、まだこの世の旅路にあって危険や困難に直面している御子のすべての兄弟たちの母となっています22。唯一の仲介者であるイエスは、わたしたちの祈りを執り成してくださいます。イエスの御母であると同時にわたしたちの母でもあるマリアには、イエスの姿が曇りなく映っています。したがってマリアは、東西両教会の伝統的な聖画像では、「道を示す」かた(ホデゲトリアὉδηγήτρια)、その道の「目印」として描かれています。
[2675]
聖霊の働きに対するマリアのこの格別な協力ゆえに、各地の教会は神の母マリアへの祈りを発展させてきましたが、諸神秘のうちに示されているキリストご自身への祈りがその中心を占めています。この祈りを表す数多くの賛歌と交唱の中では、通常、二つの方向性を持った祈りが交錯します。一つは、主が身分の低いはしために、またはしためを通してすべての人間になされた「偉大なこと」のゆえに主を「たたえる」こと23、もう一つは、神の子らの懇願と賛美を神にささげてくださるようにとイエスの御母に願うことです。それは、神の御子がマリアにおいて人類をご自分の花嫁として受け入れてくださったことをマリアがご存じだからです。
[2676]
「聖母マリアへの祈り(アベ・マリア)」には、マリアへの祈りのこの二つの方向性が十分に表現されています。
「アベ・マリア(喜びなさい、マリア)」。この祈りは天使ガブリエルの「喜びなさい」というあいさつで始まります。神ご自身が天使を通してマリアにあいさつしておられるのです。わたしたちはこの祈りの中で、大胆にも、神が身分の低いはしために注がれたのと同じまなざしでマリアに向かってあいさつし24、神がマリアを喜びとしてくださるのと同じ喜びを表現するのです25。
「恵みあふれるかた、主はあなたとともにおられます」。この二つのことばは互いに関連し合っており、一方が他方の意味をより明らかにしています。マリアが恵みにあふれておられるのは、主がともにおられるからです。マリアに満ちあふれている恵みというのは、すべての恵みの泉であるかたの現存のことなのです。「娘エルサレムよ、喜び叫べ。……神なる主はお前の中におられる」(ゼファニヤ3∙14,17 参照)。主の住まいとなられたマリアの中に娘シオン、契約の櫃、主の栄光の座が現れます。マリアは「人の間にある神の幕屋」(黙示録21∙3 参照)です。「恵みあふれる」マリアは、自分のうちに住みに来られるかた、自分が産もうとするかたに自分のすべてをささげられます。
「主はあなたを選び、祝福し、あなたの子イエスも祝福されました」。天使のあいさつのあとに、わたしたちはエリサベトのあいさつを自分たちのあいさつとして付け加えます。エリサベトは、「聖霊に満たされて」(ルカ1∙41)、幾世代にも及ぶ長い歴史の中で、マリアは幸いだと宣言する最初の人間となります26。「信じたかたは、何と幸いでしょう」(ルカ1∙45)。マリアが「女のうちで祝福された」のは、主のおことばの成就を信じたからです。アブラハムはその信仰により、「地上の氏族がすべて祝福に入る」(創世記12∙3)ための源となりました。マリアはその信仰によって信じる者の母となり、マリアのおかげで地上の諸国民は、神の祝福そのものであるかた、「あなたの子イエスも祝福されました」といわれるかたをお受けするのです。
[2677]
「神の母聖マリア、……わたしたちのために……祈ってください」。わたしたちはエリサベトとともに、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(ルカ1∙43)と驚きの声を上げます。マリアはわたしたちに御子イエスを与えてくださるので、神の母であると同時にわたしたちの母なのです。わたしたちはあらゆる心配や願いごとをマリアにゆだねることができるし、マリアは、ご自分のために「おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1∙38)と祈られたように、わたしたちのために祈ってくださるのです。わたしたちはすべてをマリアの祈りにゆだねて、マリアとともに「み心が行われますように」と祈りながら、自分自身を神のみ旨におゆだねするのです。
「罪深いわたしたちのために、今も、死を迎えるときも祈ってください」。マリアがわたしたちのために祈ってくださるようにと願いながら、わたしたちは自分があわれな罪びとであることを認め、「あわれみの母」である聖なるかたを眺め、日々の営みの中の「今」をゆだねます。そして、すでに今から「死を迎えるとき」をおゆだねするほど、彼女に対するわたしたちの信頼は深まります。彼女が御子の十字架上の死に臨まれたのと同じようにわたしたちが死を迎えるときにもともにおられて、母としてわたしたちを迎え27、御子イエスのみもと、天国へと導いてくださるようにとお願いするのです。
[2678]
中世期の西方教会の信心は、時課に代わる大衆的な祈りとしてロザリオの祈りを発展させました。東方教会では、聖務日課の交唱に近い、アカティストスやパラクレシスのような連願形式の祈りがビザンチン教会に残っていますが、アルメニア、コプトおよびシリア教会の伝承はむしろ、神の御母への大衆的賛歌や賛美歌を好むものとなっています。いずれにしても、アベ・マリア、テオトキア、聖エフレムの賛歌、あるいはナレクの聖グレゴリオの賛歌のいずれを見ても、祈りの伝承は根本的に同じです。
[2679]
マリアは教会をかたどる完全な祈りの人です。マリアに祈るとき、わたしたちはすべての人間を救うために御子を遣わされた御父の計画に、マリアとともに身を任せます。イエスに愛された弟子のように、すべてのいのちあるものの母となられたイエスの御母を、わたしたちのところへお迎えします28。わたしたちはマリアとともに祈ることも、マリアに祈ることもできるのです。教会の祈りは、いわばマリアの祈りに支えられ、マリアの希望に結ばれています29。