[2700]
神はご自分のことばを通して人間に語られます。わたしたちの祈りは、心のことば、あるいは声に出したことばによって深められます。ただし、もっとも重要なことは、祈りの中で話しているかたにわたしたちの心が集中していることです。「わたしたちの祈りが聞き入れられるのは、ことば数によってではなく、心の熱意によってなのです」聖ヨアンネス・クリュソストモス『アンナについて』 (S. Ioannes Chrysostomus, De Anna, sermo 2, 2: PG 54, 646)。。
[2701]
口禱は、キリスト教的生活には欠くことのできないものです。イエスの沈黙の祈りに引きつけられた弟子たちに、イエスは「主の祈り」という一つの口禱を教えられます。イエスはユダヤ教の典礼の際に用いられる祈りを唱えられただけではありません。福音書によれば、御父への喜びに満ちた賛美に始まりマタイ11・25-26参照。ゲツセマネの苦悩に至るまでマルコ14・36参照。の個人的な祈りをするために、イエスは声を上げて祈られたのです。
[2702]
心の祈りを感覚を用いて表現するのは、人間本性の要求にこたえるためには必要なことです。からだと精神とを兼ね備えているわたしたちは、思いを外面に表す必要を感じます。わたしたちの願いにできる限りの力を込めるためには、自分のすべてを挙げて祈らなければならないのです。
[2703]
その必要があるというのは、それが神の要求にこたえるものであるからです。神は霊と真理による礼拝者を、つまり、魂の奥底からほとばしる本物の祈りを求めておられます。また、からだを心の祈りに結びつける外的表現も望んでおられます。神には、このような全面的な崇敬をお受けになる権利があるからです。
[2704]
口禱は外的できわめて人間的なものですから、大勢で祈るときには最適です。とはいえ、もっとも内的な祈りであっても口禱をなおざりにすることはできません。祈りが内的なものとなるのは、「わたしたちが話している」かたを意識しているときですイエスの聖テレジア『完徳への道』 (S. Teresa de Jesus, Camino de perfeccion, 26 : Bibhoteca Mistica Carmehtana, v. 3 [Burgos 1916] 122)参照。。そのとき、口禱は念禱の最初の形を取ることになります。
[2705]
黙想は何よりも一つの探求です。わたしたちの精神はキリスト教的生活の理由とあり方を探し求め、主が求められることに同意し、こたえようとします。黙想をよく行うには注意を集中する必要がありますが、それは容易なことではありません。一般的には、助けとして書物を用いますが、その書物に不足することはありません。聖書、とくに福音書をはじめ、聖画像や当日ないし季節の典礼文、霊性に造詣が深い教父たちの著書、霊的生活に関する著作、神の「今日」が書き記されている被造界や歴史という偉大な書、などなど……。
[2706]
読んでいる内容を黙想して、これを自分自身に当てはめながら自分のものにしていきます。そのとき、もう一冊の書、生活の書が開かれます。すなわち、人は考えから現実へと進むのです。謙虚さと信仰とに応じて、そこで心を揺り動かすものを発見し、それらを識別できるのです。光に至るには、「主よ、わたしは何をしたらよいのでしょう」という、正しいことを行いたいという気持ちにならなければなりません。
[2707]
黙想の方法は霊性の師の数ほど多様です。キリスト者である限り、規則的に黙想する望みを持たなければなりません。そうでなければ、種をまく人のたとえに出てくる最初の三つの土壌のようなものになってしまいますマルコ4・4-7,15-19参照。。しかし、方法というものは手引きにすぎません。肝要なのは、イエス・キリストという祈りの唯一の道を、聖霊に導かれてたどることです。
[2708]
黙想をするときには、思考、想像、感情、および望みを働かせます。このようにあらゆる機能を働かせることは、信仰の確信を深め、回心を促し、キリストに従う意志を強めるために必要です。キリスト教的祈りというものは、聖書朗読やロザリオの祈りをするときのように、何よりも「キリストの諸神秘」の黙想に専念するものです。祈りながら考察をするということは非常に大切ですが、キリスト教的祈りはさらに一歩前進しなければなりません。つまり、主イエスについての愛に満ちた探求、主との一致に向かわなければならないのです。
[2709]
念禱とは何でしょうか。聖テレジアは次のように答えています。「念禱とは、わたしの考えでは、わたしを愛しておられる神としばしば語り合う、友愛の親密な交わりです。わたしたちはその神から愛されていることを知っているのです」イエスの聖テレジア『自叙伝』 (S. Teresa de Jesus, Libro de la vida, 8: Biblioteca Mfstica Carmelitana, v. 1 [Burgos 1915] 57)。。
念禱では、「恋い慕う人」(雅歌1∙7)を探し求めます雅歌3・1-4参照。。そのかたとはイエスであり、イエスの中においでになる御父のことです。イエスを探し求めるのは、イエスを慕い求めることがつねに愛の始まりだからです。そのかたは純粋な信仰をもって探し求められます。その信仰とは、わたしたちをイエスから生まれさせ、イエスのうちに生きることができるようにしてくれる信仰のことです。念禱の中でも黙想することはできますが、そのまなざしは主に向けられています。
[2710]
念禱の時や長さをどうするかについては、心の内奥を明らかにする断固とした意志が決めることです。暇があるときに念禱をするのではなく、主に心を向けて過ごすための時間を作るのです。そのときには、たとえ主との出会いを妨げるようなことがあったり、心が無味乾燥した状態にあったとしても、念禱中に主から一刻も気をそらさないという固い決心が要ります。わたしたちはいつでも黙想できるというわけにはいきませんが、念禱には、健康や仕事や気分とはかかわりなく、いつでも入ることができます。貧しさの中にありながら、信仰をもって神を探したり出会いを求めたりするのは、心だからです。
[2711]
念禱に入るのは、感謝の祭儀を始めるときと似ています。というのは、念禱とは、心を「集め」、聖霊に動かされて自分のすべてを集中させ、主の住みかであるわたしたち自身のうちにとどまり、わたしたちを待っておられる主のみ前に進み出るために信仰を目覚めさせ、かぶっている仮面を取り除き、わたしたちを愛してくださっている主に向かって心を転回させて、清め変容させていただくための供え物として自らを主にゆだねることだからです。
[2712]
念禱は、神の子供の祈りです。すなわち、自分を愛してくださるかたの愛を喜んで受け入れ、これまで以上に愛することによってその愛にこたえたいと望む、罪をゆるされた者の祈りですルカ7・36-50,19・1-10参照。。ただし、念禱を行っている人は、自分の愛が聖霊から自分の心に注がれた愛にこたえるものだということを知っています。すべては神の恵みだからです。念禱とは、最愛の御子にますます深く一致しながら、御父のいつくしみ深いみ旨に貧しい自分を謙虚に愛情を込めておゆだねすることです。
[2713]
このように、念禱とは祈りの神秘のもっとも単純な現れです。念禱はたまものであり、恵みです。謙虚で自分の貧しさを知っている者でなければいただくことができないものです。念禱は、わたしたちの存在の内奥で神によって結ばれた契約に基づいて可能となる関係でありエレミヤ31・33参照。、交わりなのです。聖三位は、念禱の中で神の似姿である人間を「ご自分に似たもの」にしてくださいます。
[2714]
念禱はまた、祈りの絶頂です。念禱において、御父はご自分の霊によってわたしたちのうちなる人を力強く固め、信仰によってわたしたちの心のうちにキリストを住まわせ、わたしたちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださいますエフェソ3・16-17参照。。
[2715]
念禱とは、イエスへと注ぐ信仰のまなざしです。聖なる主任司祭がいたころ、聖櫃の前で祈っていたアルスの農夫は、「わたしはあのかたを見つめ、あのかたはわたしを見つめておられます」と話していましたF・トロクー『アルスの司祭聖ジャン・マリー・ヴィアンネ』 (F. Trochu, Le Cure d'Ars Saint Jean-Marie Vianney [Lyon-Paris 1927] 223-224)参照。。イエスを注視することは「自己」を捨てることです。イエスのまなざしが心を清めてくれます。イエスのまなざしの光はわたしたちの心の目を照らし、あらゆることをご自分の真理とすべての人に対するご自分のあわれみとに照らして眺めるようにと教えてくれます。念禱はまた、キリストの人生の諸神秘にもまなざしを向けさせてくれます。こうしてわたしたちは、「キリストの内的知識」を培い、よりいっそうキリストを愛し、キリストに従うようになるのですロヨラの聖イグナティウス『霊操』 (S. Ignatius de Loyola, Exercitia spirintuaha, 104 : MHSI 100, 224)参照。。
[2716]
念禱とは神のことばに耳を傾けることです。この傾聴は、単なる受動的なものではありません。信仰による従順、しもべの無条件の受諾、子供の素直な同意なのです。しもべとなられた御子の「はい」、そして、そのつつましいはしための「おことばどおりになりますように」という意思表示にあずかることなのです。
[2717]
念禱は「来るべき世を象徴する」ニネベの聖イサク『神秘論』 (S. Isaac Ninivensis, Tractatus mysttci. 66 : ed. A. J. Wensinck [Amsterdam 1923] 315 ; ed. P. Bedjan [Paris-Lipsia 1909] 470)。沈黙であり、「ことばを超越した愛の語らい」十字架の聖ヨハネ『手記』 (S. Juandela Cruz, Carta, 6 : Biblioteca Mistica Carmelitana, v. 13 [Burgos 1931] 262)。です。念禱の中でのことばは論議のためのものではなく、愛に点火する小枝です。「外面的な」人間には耐えられないこの沈黙の中で、御父はわたしたちに、人となり、苦しみ、死んで復活されたご自分のみことばについてお話しくださり、養子とする霊はわたしたちをイエスの祈りにあずからせてくださいます。
[2718]
キリストの神秘にあずからせてくれるものであれば、念禱はキリストの祈りと一つになります。キリストの神秘は教会では感謝の祭儀の中で祝われますが、聖霊は念禱の中で、わたしたちがその神秘に生かされ、その神秘を愛の実践という形で表すことができるようにしてくださいます。
[2719]
信仰の暗やみにとどまることを受け入れている念禱であれば、それは多くの人にいのちをもたらす愛の交わりとなります。復活徹夜祭の夜は、死の苦悩の夜と墓に埋葬された夜とを経た上で過ぎていきます。イエスの霊(「弱い肉体」ではありません)は念禱の中で、イエスのこの三つの力強い時間を体験させてくださいます。ですから、ひとときをイエスとともに目覚めていることに同意しなければならないのですマタイ26・40-41参照。。
[2720]
教会は信者に、日常の祈り、「教会の祈り」、主日の感謝の祭儀、典礼暦上の祝日などを中心とする、定期的な祈りを勧めます。
[2721]
キリスト教の伝統には、口禱、黙想、念禱という、祈りの生活における三つの主要な形があります。この三つに共通している特徴は、潜心です。
[2722]
人間とはからだと精神とを兼ね備えているものなので、わたしたちは口禱をすることによって、自分のからだを心の内的祈りに結び合わせ、御父に祈ったり弟子たちに「主の祈り」を教えたりしておられるキリストの模範に倣うのです。
[2723]
黙想とは、思考、想像、感情、および望みを働かせて、祈りながら行う探求です。その目的は、考察した主題を生活の現実と結びつけながら、信仰をもって自分に適応させることにあります。
[2724]
念禱とは、祈りの神秘の単純な現れです。イエスに注がれた信仰のまなざし、神のことばに耳を傾けること、ことばを超越した沈黙の愛です。キリストの神秘にわたしたちをあずからせてくれるものであれば、念禱はキリストの祈りと一つになります。