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祈りの戦いにおいてわたしたちは、自分自身のうちでも、周りの人々に対しても、祈りについてのさまざまな誤解と対峙しなければなりません。祈りは単なる心理的操作に過ぎないものだとか、解脱に至る精神集中の努力のことだなどと思っている人々がいます。また、ある人々は、祈りを儀式上の態度やことばにすぎないものだと考えます。さらに、多くのキリスト者は無意識のうちに、祈りをするなどということはそもそも自分の務めとは両立できないものだと考えています。つまり、時間がないというのです。また、祈りによって神を探し求める人々であっても、祈りが自分の力だけではなく聖霊の助けによるものでもあるということを知らないので、早々に落胆してしまいます。
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わたしたちはまた「この世」の価値観とも衝突することになります。たえず警戒していなければ、それに負けてしまいます。その価値観とは、たとえば、理性や科学によって証明されたものだけが正しいものである(ところが、祈りとは神秘であり、わたしたちの意識やわたしたちの無意識な思いなどを超えたものなのです)とか、生産や効率向上だけが最高の価値である(祈りとは非生産的で非実用的なものです)とか、真善美の基準は官能的快感とか快適さである(祈りとは「最高の美を愛すること」〈フィロカリアφιλοκαλία〉であり、生きておられる真の神の栄光に没入することです)とか、祈りとは行動主義への反動であり、現実の世界からの逃避である(キリスト教的な祈りは歴史からの逃避でも、生活との断絶でもありません)などという考え方のことです。
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さらに、祈りの戦いとは祈りの中でわたしたちを襲う挫折感との戦いでもあります。それは、すさみからくる失望、「たくさんの財産」を持っているのですべてを主に差し出すことのできない悲しみ17、自分の望みどおりに願いが聞き入れられないという落胆、罪深さを考えてかたくなになる高慢の傷、祈りの無償性に対する反感などとの戦いです。祈って何の役に立つのか、と行きつくところはいつも同じです。これらの障害を克服するには、謙虚さと信頼と堅忍の精神をもって戦わなければなりません。