[2746]
ご自分の「時」が到来すると、イエスは御父にお祈りになります37。福音書が伝えるこのもっとも長いイエスの祈りは、ご自分の死と復活とを含んだ、創造と救いの営み全体を包括するものとなっています。「ただ一度だけ」行われたキリストの過越が教会の典礼で現在化されるのと同じように、イエスの「時」の祈りはつねにイエスご自身の祈りであり続けます。
[2747]
キリスト教の伝統によれば、この祈りにはイエスの「祭司的」祈りという適格な呼称がつけられています。それはわたしたちの大祭司の祈りであって、イエスご自身の犠牲、およびご自分のすべてを完全に御父に「ささげて」御父のもとへお帰りになったこと(「過越」)、とは切り離せないものなのです38。
[2748]
このいけにえとしての過越の祈りの中で、神とこの世、みことばと人間、永遠のいのちと時間、与える者の愛と裏切る者の罪、現在の弟子とその弟子たちのことばを聞いてイエスを信じるようになる人々、自己を無にすることと栄光、これらのすべてがイエスのうちに「一つにまとめられる」のです39。それは、一致を願う祈りです。
[2749]
イエスが御父のわざをすべて成就されたので、その祈りも、その犠牲も、時が完成するまでずっと影響力を持ち続けることになります。イエスの「時」の祈りは最終の時を満たし、それを完成に導きます。御父からすべてを与えられた御子はご自分のすべてを御父にゆだね、同時に、御父から与えられたあらゆる人を治める権能をもって、まったく自由にご自身を表されます40。しもべとなられた神の御子は主であり、全能者(パントクラトールΠαντοκράτωρ)なのです。わたしたちのために祈られるわたしたちの大祭司は、わたしたちのうちで祈ってくださるかたでも、わたしたちの願いを聞き入れてくださる神でもあるのです。
[2750]
主イエスの聖なるみ名と結ばれてこそ、わたしたちはイエスから教えられた「わたしたちの父よ」という祈りを心底から受けとめ、自分のものにすることができます。イエスの祭司的祈りは、「主の祈り」の主要な願い、つまり、御父のみ名を現し41、み国(栄光42)を切望し、御父のみ旨と救いの計画43が成就され、わたしたちが悪から解放されること44などを心から祈り求めるものです。
[2751]
この祈りの中でこそ、イエスはわたしたちに、御父を知り御子を知るという唯一最高の「知識」45を明らかになさいます。これこそ祈りの生活の神秘です。
[2752]
祈りには、努力と、わたしたち自身や悪魔の策略に対する戦いとが伴います。祈りの戦いは、つねにキリストの霊に従って行動するために必要な「霊的戦い」でもあります。祈りと生き方とは一体です。人は自分の祈りの内容に相応した生き方をするからです。
[2753]
祈りの戦いにおいてわたしたちは、祈りについての誤解、さまざまな価値観、挫折の体験などと対峙しなければなりません。祈りの効果や可能性さえも疑わせるような誘惑には、謙虚さと信頼と堅忍の精神をもって対応しなければなりません。
[2754]
祈る際にとくに難題となるのは、散漫と、心の潤いがなくなることです。それをいやすのは、信仰と回心と心の目覚めです。
[2755]
祈りをしばしば妨げる誘惑の中に、信仰の欠如と倦怠感の二つがあります。後者は気の緩みからくる一種の精神的落ち込みの状態で、失望をもたらします。
[2756]
子供としての信頼が揺らぐのは、祈りがつねに聞き入れられるわけではないと感じるときです。福音書は、わたしたちの祈りが聖霊の望みに合致しているかどうかを自問するよう促しています。
[2757]
「たえず祈りなさい」(一テサロニケ5∙17)。祈りはどんなときでもすることができます。生きていくためには不可欠でさえあります。祈りとキリスト教的生活とは切り離すことができません。
[2758]
イエスの「時」の祈りは「祭司的祈り」とも呼ばれるもので46、創造と救いの営み全体を要約しています。また、「主の祈り」の主要な願いを心から祈り求めるものです。