[2759]
「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』といった」(ルカ11∙1)。イエスはこの願いにこたえて、キリスト教の基本的な祈りを弟子たちと教会に授けられました。聖ルカによる福音書は短い文(五つの願い)n1を、聖マタイによる福音書はより長い文(七つの願い)n2を伝えています。教会の典礼伝承は聖マタイの文(マタイ6∙9-13)を踏襲しています。
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
[2760]
かなり早くから、典礼の場で唱えるときには主の祈りを栄唱で結んでいました。『ディダケー』には、「力と栄光とは永遠にあなたのものだからです」と記されていますn3。『使徒憲章』はこれに加えて、初めに「国」の語を置いていますがn4、この「国」を付け加えた形のものが、今日でもエキュメニカルな祈りの場でよく唱えられています。東方教会の伝承は、「栄光」という語の後に「父と子と聖霊に」ということばを付け加えます。ローマ・ミサ典礼書では、主の祈りの最後の願いを敷衍した副文の中でn5祝福に満ちた希望n6とわたしたちの主イエス・キリストの再臨とにふれた後で、会衆の応唱が続くか『使徒憲章』にある栄唱が繰り返されることになっています。
[2761]
「〔主の〕祈りは、全福音の要約そのもの」n7になっています。主は「祈るようにと教えられた後で、願いなさい。そうすれば与えられる(ヨハネ16∙24)といわれました。だから、それぞれの必要に応じて神に願うことができはしますが、やはり、つねに正式な〔主の〕祈りから始めるべきです。この祈りこそあらゆる願いが集約された基本的な祈りだからです」n8。
[2762]
聖アウグスチヌスは、詩編がいかにキリスト教の祈りにとってのすばらしい栄養となっており、「わたしたちの父よ」という祈りの願いに結びつくものであるかを示した後で、次のように結んでいます。
「あなたが聖なる嘆願のことばをすべて調べれば、主の祈りに含まれない嘆願はないことに気がつくと思います」n9。
[2763]
すべての聖書(律法と預言者の書と詩編)は、キリストにおいて完成されたものになりましたn10。福音とはこのことを伝える「よい知らせ」のことです。その最初の告知は、聖マタイによる福音書の山上の説教に要約されていますn11。だから、主の祈りはこの告知の核心なのです。このような背景を理解してこそ、主から授けられたこの祈りの一つ一つの願いの意味が明らかになるのです。
「主の祈りはもっとも完全な祈りです。……主の祈りにおいては人間として望むことができるすべてのことが願われているだけでなく、正しい順序をもって願われています。したがってこの祈りは、願うべきことを教えるだけでなく、わたしたちの情念全体を秩序づけるものでもあります」n12。
[2764]
山上の説教は生き方についての教えであり、「主の祈り」は懇願です。しかし、そのいずれにおいても、わたしたちのいのちを生かす内的な衝動であるわたしたちの願望に、主の霊が新しい形を与えてくださいます。イエスはご自分のことばによってこの新しい生き方をわたしたちに教え、そのように生きることをわたしたちが祈りを通して願うことができるように助けてくださいます。キリストにおけるわたしたちの生き方が正しいものであるかどうかは、わたしたちの祈りの正しさにかかってくるのです。
[2765]
「主の祈り」という伝統的な表現は、わたしたちの御父へ向けられたこの祈りが主イエスによって教えられ、授けられたものであることを表します。イエスからわたしたちに授けられたこの祈りは実に比類のない祈りで、まさに「主の」ものなのです。一方では、御ひとり子が、この祈りのことばを用いて御父からご自分に与えられたことばをわたしたちに授けられますn13。御子はわたしたちの祈りの師なのです。他方では、人となられたみことばが、人間の心をもってご自分の兄弟姉妹に必要なことを理解し、これをわたしたちに示されます。イエスはわたしたちの祈りの模範なのです。
[2766]
とはいえ、イエスはわたしたちに機械的に繰り返すだけの祈りを授けられたわけではありませんn14。すべての口禱のときもそうですが、聖霊は神の子らに神のことばを通して御父に祈るようにと教えられます。イエスはわたしたちに、子としての祈りだけではなく、ご自分の霊も与えられるので、この霊によって、祈りはわたしたちのうちで「霊といのち」(ヨハネ6∙63)になるのです。さらに、わたしたちの祈りが子供としての祈りとなりえるのは、御父が「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラテヤ4∙6)からなのです。祈りはわたしたちの望みを御父に伝えるものなので、「人の心を見抜くかた」であるその御父は、「〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます。〝霊〟は、神のみ心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」(ローマ8∙27)。わたしたちの御父への祈りは、御子と聖霊との神秘的な派遣の中に組み込まれています。
[2767]
教会は当初から、主のことばと、信じる者の心にいのちを与える聖霊という分離しがたいたまものをいただき、それを生活に生かしてきました。初期の教会共同体は、ユダヤ教信心の伝統であった「十八祝福」に替えて、主の祈りを「日に三回」n15唱えていました。
[2768]
使徒伝承によると、主の祈りは典礼の祈りの中心的な位置を占めることになります。
主は、「兄弟のために共同で祈ることを教えておられます。なぜなら、天におられるわたしの父よとはいわないで、わたしたちの父よといわれるからです。それは、わたしたちの祈りがただ一つの心で教会全体のためにささげられる祈りとなるためです」n16。
すべての典礼伝承で、主の祈りは「教会の祈り(時課の祈り)」の朝の祈りや晩の祈りの不可欠な要素となっています。しかしこの祈りの教会的特徴は、とくにキリスト教入信の三つの秘跡において明確に表されます。
[2769]
洗礼と堅信においては、主の祈りの伝授が神的いのちへの新たな誕生を意味します。キリスト教の祈りとは神のことばそのものによって神に語ることですから、「神の……生きたことばによって新たに生まれた」(一ペトロ1∙23)人々は、御父がつねに聞き入れてくださるみことばだけによって祈ることを学びます。そしてその後は、聖霊の塗油によって心と耳と唇、つまり、子供としての存在全体に消えない印章を刻まれているので、彼らは祈ることができるのです。したがって、教父たちによる「主の祈り」の解説の大部分は、洗礼志願者と新信者とに向けられたものとなっています。教会が主の祈りを唱えるときにはいつも、「生まれたばかりの乳飲み子のように」、祈ってあわれみを受ける民となるのですn17。
[2770]
エウカリスチアの典礼(感謝の祭儀)においては、主の祈りが全教会の祈りとなっています。ここでは、その完全な意味とその効果とが表されています。主の祈りは奉献文(感謝の祈り)と聖体拝領との間に置かれて、一方では、聖霊の働きを求める祈り(エピクレシス)の中で表されたすべての願いや執り成しの祈りを一つにまとめ、他方では、聖体拝領によって先取りされる神の国の会食への招きとなります。
[2771]
感謝の祭儀では、主の祈りは、この祈りに含まれている願いの終末的性格も明らかにします。それは「終わりの時」、すなわち聖霊の注ぎによって始まりキリストの再臨によって終わる、救いの時に固有な祈りです。御父への願いは旧約の祈りとは異なり、十字架につけられて復活されたキリストによってただ一度ですでに実現された救いの神秘をよりどころにしたものなのです。
[2772]
この固い信仰から、七つの願いの一つ一つを心を込めて表明させる希望がわき出ます。七つの願いは現在のうめき、すなわちこの忍耐の時、「自分がどのようになるかは、まだ示されていない」(一ヨハネ3∙2)待望の時のうめきを表していますn18。感謝の祭儀と「主の祈り」とは、「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)主の来臨を指向し続けるのです。
[2773]
「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11∙1)という弟子たちの願いにこたえて、イエスは「主の祈り」というキリスト教の基本的な祈りを授けられました。
[2774]
「〔主の〕祈りは、全福音の要約そのもの」n19になっており、「もっとも完全な」n20祈りです。主の祈りは聖書の核心です。
[2775]
それが「主の祈り」といわれるのは、わたしたちの祈りの師であり、模範でもある主イエスから授けられたものだからです。
[2776]
主の祈りは、比類のない教会の祈りです。「教会の祈り(時課の祈り)」の朝の祈りや晩の祈り、および洗礼・堅信・聖体というキリスト教入信の三秘跡の不可欠な要素となっています。感謝の祭儀の中に組み込まれた主の祈りは、「主が来られるときまで」(一コリント11∙26)、主の来臨の希望のうちに、その七つの願いの「終末的」性格を明らかにしてくれます。
[2777]
ローマ典礼では、エウカリスチアのために集まった会衆は子供としての大胆さをもって「主の祈り」を唱えるようにと促されます。東方の諸典礼は類似の表現を用いながら、さらにこれを拡大して、「まったく確信していますので」、「わたしたちを……にふさわしい者にしてください」と唱えます。燃える柴を前にしたモーセに対しては、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい」といわれています(出エジプト3∙5)。神聖な敷居を越えることができたのは、ただイエスお一人だけでした。そのイエスは「人々の罪を清められた後」(ヘブライ1∙3)、わたしたちを御父のみ前に導き、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブライ2∙13)といわれます。
「奴隷の状態にあることを意識しているわたしたちは、もし、御父ご自身の権威と御子の霊とによって、神を父とお呼びするようにと促されなかったなら、自分をちりに過ぎない地上の人間と考えるはずです。しかし聖パウロは、神は、アッバ、父よ、と叫ぶ御子の霊を送ってくださったといっています(ローマ8∙15)。……弱い人間は至高者の力によって生かされない限り、どうして神を父と呼ぶことができるでしょうか」n21。
[2778]
わたしたちに主の祈りを唱えるようにと促すこの霊の力は、東方・西方両典礼において、キリスト教に固有のパレシア(παρρησίᾳ)という美しい語で表現されています。この語には、二心のない単純さ、子としての信頼、喜びに満ちた確信、謙虚な大胆さ、愛されているという確信、などという意味がありますn22。
[2779]
わたしたちが主の祈りのこの最初の出だしのことばを自分のものにするためには、まずわたしたちの心を「この世的な」発想から生じるさまざまな誤ったイメージから謙虚に浄化する必要があるでしょう。
謙虚さがあればわたしたちは、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいない」(マタイ11∙27)ということを分かるようになります。その「子が示そうと思う者」とは、「幼子のような者」(マタイ11∙25)のことです。わたしたちが神に対して抱く父としてのイメージは、個人的経験ないし自分が属している文化的伝統に由来する父親・母親のイメージに左右されたものですが、そのイメージを
浄化することが大切です。なぜなら、神がわたしたちの父であるということは、被造界の範疇を超越するものだからです。被造界での経験を神に当てはめたり対立させたりすることは、偶像を造ってこれを礼拝したり破壊したりすることになるでしょう。御父に祈ることは、御父の神秘、御子が啓示されたかたの神秘に入ることなのです。
「父である神という呼び名は、かつてだれにも知らされませんでした。モーセが神の名を尋ねたとき、耳にしたのは別の名でした。御子においてはじめてこの名はわたしたちに明かされました。御子というかたがいなければ、御父という名も存在しないからです」n23。
[2780]
わたしたちが神を「父」とお呼びすることができるのは、人となられた御子を通して神ご自身のことがわたしたちに啓示され、また、御子の霊がわたしたちに御子ご自身のことを理解することができるようにしてくださったからです。御子の御父との位格的な関係n24については人知が及ばず天使すら知りえないことですが、御子の霊が、イエスはキリストであると信じまた自分が神から生まれたものであると信じるわたしたちをn25その関係にあずからせてくださるのです。
[2781]
御父に祈るとき、わたしたちは御父との交わり、ならびに御子イエス・キリストとの交わりに入っていますn26。そのとき、わたしたちはつねに新たな驚きをもって御父を知り、再確認します。主の祈りの最初のことばは、願いというよりも礼拝のための祝詞なのです。わたしたちが神を「御父」であり真の神であると認めることは、実は神に栄光をささげることです。わたしたちは、わたしたちにみ名を明かし、それを信じさせ、わたしたちをご自分とともに生活させてくださる御父に感謝をささげるのです。
[2782]
わたしたちが御父を礼拝できるのは、神がわたしたちを御ひとり子においてご自分の子として
認知し、ご自分のいのちに新しく生まれ変わらせてくださったからです。洗礼によって、御父はわたしたちをキリストのからだに合体させ、頭から全肢体に流れ出る聖霊の注ぎにより、わたしたちを「キリスト(油を注がれた者)」としてくださいます。
「わたしたちを養子とするようあらかじめ定めておられた神は、キリストの栄光のからだと一体にしてくださいました。ですから、皆さんはキリストにあずかる者として、当然『キリスト』と呼ばれるのです」n27。
「再び生まれ、自分の神のもとにその恵みによって取り戻された新しい人は、まず父よといいます。すでに神の子となりはじめたからです」n28。
[2783]
このように、主の祈りを通して、御父がわたしたちに示されると同時に、
わたしたち自身が何者であるかも明らかにされるのですn29。
「ああ、人よ、あなたはあえて顔を天に向けることができず、地面に伏せていたのに、突然、キリストの恵みを受け、あなたのあらゆる罪はゆるされました。悪いしもべから善良な子供となったのです。……だから、水の洗いを通してあなたを生み、御子を通してあなたをあがなわれた御父に目を上げ、『わたしたちの父よ』といいなさい。……しかし、何の特権も求めてはなりません。神は御子だけをお生みになり、わたしたちは無から造られたものなので、神はキリストお一人だけの本性上の御父であり、わたしたちにとっては共同の御父なのですから。そこで、神の子にふさわしい者となるために、あなたも恵みによって、『わたしたちの父』といいなさい」n30。
[2784]
わたしたちを御父の養子とするこの無償のたまものは、わたしたちに対しては絶え間ない回心と
新しい生き方とを求めます。御父に祈るならば、わたしたちのうちには次の二つの基本的な心構えが培われるはずです。
御父に似た者となりたいという望みと意志。御父にかたどって造られたわたしたちにその似姿が取り戻されるのは恵みによってであり、わたしたちはその恵みにこたえなければならないのです。
「わたしたちが神を父とお呼びするときには、神の子にふさわしい生き方をしなければなりません」n31。
「残酷で、思いやりのない心を持つ者は、いつくしみそのものである神を父と呼ぶことはできません。自分のうちに天の御父のいつくしみのしるしを持っていないからです」n32。
「たえず御父の美を観想し、その美がわたしたちの霊魂にしみわたっていくように努めなさい」n33。
[2785]
謙虚で信頼に満ちた心。このような心を持っていれば、わたしたちは回心して「子供のように」(マタイ18∙3)なることができます。御父はご自分を「幼子のような者に」(マタイ11∙25)お示しになるからです。
それは、「神のみを観想し、愛の炎に包まれた状態です。そのとき、精神は神への愛のうちに身を没し、この上なく敬謙な愛情を込めて、自分自身の御父と語るように、きわめて親密に神と語り合います」n34。
「わたしたちの父という呼び名は、わたしたちのうちに深い愛情をわき上がらせてくれます。子供たちにとっては父親よりも親しいものはないからです。……また、求めるものは得られるという希望も起こさせてくれます。……神は、すでにご自分の子としてしまった子供たちの祈りをどうして拒絶できるでしょうか」n35。
[2786]
「わたしたちの」父とは、神のことです。これは、わたしたちの側からの所有を表す形容詞ではなく、神へのまったく新しい関係を表すことばなのです。
[2787]
「わたしたちの」父というとき、わたしたちはすでに、預言者たちによって告げられた神のいつくしみ深い約束がキリストによる新しい永遠の契約によってことごとく成就された、ということを認識していることになります。すなわち、わたしたちが「神の」民としていただいたので神は「わたしたちの」神となっておられる、ということを認識しているのです。この新しい関係とは、無償で与えられた相互の所属関係です。だからわたしたちは、イエス・キリストによって与えられた「恵みと真理」n36に、愛と忠実をもってn37こたえなければなりません。
[2788]
主の祈りは、「終わりの時」の主の民の祈りです。だから、この「わたしたちの」ということばは、神の最終的な約束、すなわち、「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」(黙示録21∙7)と勝利を得る者に対して神が新しいエルサレムでいわれるという約束に確信を持っていることを表すものでもあります。
[2789]
「わたしたちの」父に祈るときには、わたしたちの主イエス・キリストの御父に向かって個人的に祈っているのです。御父は神性の「泉ならびに源」なので、わたしたちが神性を分割していることにはなりません。しかしこうお呼びすることによって、わたしたちは、永遠に御子が御父から生まれ、聖霊がその御父から発出されることを宣言しているのです。また、神の三つのペルソナを混同しているわけでもありません。なぜなら、わたしたちは御父および御子双方の唯一の聖霊のうちにあって御父およびその御子イエス・キリストと交わっているからです。聖三位の神は同一実体のものであり、分割することはできません。御父に祈るとき、わたしたちは御父を御子と聖霊とともにあがめ、たたえているのです。
[2790]
「わたしたちの」ということばは、文法的には多くの人に共通する何かを形容することばです。神は唯一であり、その神は、御ひとり子を信じて水と聖霊とによってご自身から新たに生まれる人々によって父として認識されますn38。教会とは神と人間とのこうした新しい交わりのことです。すなわち、「多くの兄弟の中で長子」(ローマ8∙29)となられた御ひとり子に結ばれた教会は、唯一の同じ聖霊における、唯一の同じ御父との交わりのうちにありますn39。「わたしたちの」父に祈るときには、受洗者一人ひとりはこの交わりの中で祈るのです。「信じた人々の群れは心も思いも一つ」(使徒言行録4∙32)にしていたとあるとおりです。
[2791]
したがって、たとえキリスト者たちが分裂していたとしても、「わたしたちの」父への祈りは、共通の善であり、すべてのキリスト者に対する差し迫った招きであることに変わりはありません。キリスト者たちは、キリストへの信仰と洗礼とに基づく交わりの中で、弟子たちの一致を願うキリストの祈りにともにあずからなければなりませんn40。
[2792]
また、「わたしたちの父よ」という祈りを心から唱えるならば、わたしたちは個人主義から脱却することができます。わたしたちが受け入れる愛が、個人主義からわたしたちを解放してくれるからです。主の祈りの冒頭の「わたしたちの」ということばは、最後の四つの願いの「わたしたち」ということばと同じように、だれ一人除外するものではありません。このことばが真実なものとして口にされるためにはn41、わたしたちの分裂や対立が克服されなければならないのです。
[2793]
受洗者が「わたしたちの」父ということばを使って祈るときには、必ず、神がすべての人の御父であることを認めていることになります。神はその最愛の御子をすべての人のために渡されたのですから。神の愛には境界がありません。わたしたちの祈りもまた、そうでなければなりませんn42。「わたしたちの」父に祈るならば、わたしたちの心はキリストのうちに現された神の愛の限りない広さに向けて解き放たれます。すべての人が一つに集められることを願ってn43、まだ御父を知らないすべての人とともに、またその人々のために祈るようになります。すべての人と全被造物とに対するこの神の思いが、あらゆる偉大な祈りの人たちの熱意を燃え立たせてきました。わたしたちが恐れずに「わたしたちの」父ということばを使って祈るならば、この神の思いがわたしたちの祈りに愛の大きな包容力を与えてくれるはずです。
[2794]
この聖書的ないい回しは、場所(「空間」)ではなく、存在様式を意味するためのものです。神とのへだたりではなく、神の偉大さを表しています。御父は「他の場所に」おられるのではなく、わたしたちがその聖性について考えることができる「すべてのことがらを超越して」おられるかたなのです。神はこの上なく聖なるかたですから、謙虚で打ち砕かれた心を持った人々のごく近くにおられます。
「天におられるわたしたちの父ということばを、正しい人々の心の中におられる御父と解釈することもできます。神はその人々の心に、神殿であるかのように住まわれるからです。また同時に、祈る者は呼び求めているかたに自分のうちに住んでいただきたいと思わなければならない、という意味にもなります」n44。
「天ということばはまた、神の似姿が刻み込まれている人間のことだと解釈することもできます。神はその人々のうちに住み、そぞろ歩きをしておられるのです」n45。
[2795]
わたしたちが御父に祈るとき、天という象徴は、わたしたちがそれに基づいて生かされている契約の神秘について考えさせてくれます。御父は天におられ、そこが御父の住まいなのですから、天にある御父の家がわたしたちの「祖国」なのです。罪によってわたしたちは契約の地から追放されましたn46。しかし回心すれば、御父のもとに、天に戻ることができるのですn47。「天よりくだった」のは御子だけであり、その御子がご自分の十字架や復活、および昇天を経ることによってわたしたちをご自分とともに天に戻らせてくださるのですからn48、天と地はキリストにおいてすでに和解させられているのですn49。
[2796]
「天におられるわたしたちの父よ」という祈りを唱えるとき、教会はわたしたちがすでにキリストとともに天の王座に着かせていただきn50、キリストとともに神のうちに隠されたn51神の民であり、同時に、「天から与えられる住みかを上に着たいとせつに願って……苦しみもだえて」(二コリント5∙2)いる者であることを宣言しているのですn52。
キリスト者は「肉体を持ってはいますが、肉に従って生きてはいません。地上で暮らしてはいますが、国籍は天にあります」n53。
[2797]
「主の祈り」を唱える者が持つべき心構えとは、素直で忠実な信頼、および謙虚で喜びに満ちた確信です。
[2798]
わたしたちが神を「父」とお呼びすることができるのは、神の御子がわたしたちに御父のことを啓示してくださったからです。わたしたちは洗礼によってこの御子に結ばれ、神の養子とされました。
[2799]
主の祈りを唱えることによって、わたしたちは御父との交わりならびに御子イエス・キリストとの交わりに入らせていただきます。主の祈りはまた、わたしたちに自分自身が何者であるかも明らかにしてくれますn54。
[2800]
御父に祈るならば、わたしたちのうちには御父に似た者になりたいという意志と、謙虚で信頼に満ちた心とが培われるはずです。
[2801]
「わたしたちの」父というとき、わたしたちはイエス・キリストによる新しい契約、聖三位との交わり、また教会を通して全被造物へと広げられる神の愛を思い起こすのです。
[2802]
「天におられる」ということばは、場所ではなく、神の偉大さや、神が正しい人々の心の中におられるということを表しています。御父の家である天というのは、わたしたちが目指している目的地であり、すでにその国籍をいただいている、わたしたちの真の祖国なのです。
[2803]
神を礼拝し、愛し、賛美するために父である神のみ前に立ったわたしたちは、子とする霊に助けられて心からの七つの願い、七つの賛美をささげます。最初の三つはいわば対神的なもので、そこでわたしたちは御父の栄光を祈り求め、御父のもとへわたしたちを導いてくれる後の四つでは、わたしたちの弱さを御父の恵みにゆだねます。「深淵は深淵に呼ばわ〔る〕」(詩編42∙8)のです。
[2804]
最初の波は、み名、み国、みこころという形となって、わたしたちを御父のほうへと向かわせます。まず自分が愛する者のことを思うのが愛の特性です。わたしたちはこれらの三つの願いのいずれでも、「わたしたち」とはいいません。わたしたちの心をとらえているのは、御父の栄光を思う最愛の御子の「熱烈な望み」であり、その「苦悩」なのですn55。この「……聖とされますように、……来ますように、……行われますように」という三つの願いは、救い主キリストの犠牲によってすでに聞き入れられてはいますが、今は、希望を抱いてその最終的成就を願い求めるのです。神はまだすべてにおいてすべてとなってはおられないからですn56。
[2805]
願いの第二の波は、幾つかのエウカリスチアのエピクレシス(聖霊の働きを願う祈り)へと展開されていきます。それは、わたしたちが期待していることを神に申し上げ、あわれみ深い御父のまなざしを引き寄せるものです。それはわたしたちからのぼっていくものであり、「……わたしたちにお与えください。……わたしたちをおゆるしください。わたしたちを……陥らせず、わたしたちを……お救いください」ということばでも分かるとおり、現に今この世に住んでいるわたしたちにかかわるものなのです。第四と第五の願いは、あるいは食べ物、あるいは罪からのいやしという内容の、わたしたちの生活そのものに関するものです。最後の二つは、いのちの勝利を得るための戦い、祈りの戦いに関する願いです。
[2806]
最初の三つの願いによって、わたしたちは信仰を強められ、希望に満たされ、愛の炎を燃え立たせていただきます。被造物である上に罪びとでもあるわたしたちは、自分自身のためにお願いしなければなりません。ここでいう「わたしたち」とは世界と歴史の全体を含むもので、そのすべてを神の限りない愛におゆだねするのです。神はキリストのみ名と聖霊の統治権とを通して、わたしたちと世界全体を救うというご自分の計画を実現してくださるからです。
[2807]
「聖とする」ということばは、第一義的には、能動因(神だけが聖化し、聖なるものにしてくださる)としての意味ではなく、むしろ、聖なるものとして認める、聖なるものとして取り扱う、という評価の意味で理解されるべきです。礼拝においては、この語は単に賛美と感謝を表すことばとして用いられることもありますn57。しかしイエスは、この願いを希求法の形で、つまり、神と人間との間で生じる願い、望み、期待という形で教えておられます。この祈りで御父への最初の願いをしたときから、わたしたちはいきなり御父の神性の奥深い神秘へ、また人類の救いのドラマへと入れていただきます。み名が聖とされますようにと祈ることによって、わたしたちは、「わたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと」(エフェソ1∙4)、「前もってキリストにおいてお決めになった神のみ心」(エフェソ1∙9)の中へと引き込まれることになります。
[2808]
神は救いのみわざの決定的時機が訪れるたびごとに、そのみわざを成し遂げながらご自分のみ名を明らかになさいます。ただし、そのみわざがわたしたちのためにわたしたちのうちで実現されるのは、神の名がわたしたちによってわたしたちのうちで聖とされる場合だけなのです。
[2809]
神の聖性とは神の永遠の神秘の近づきがたい深奥にあるものです。これを創造と歴史の中で表すものを、聖書は栄光、つまり、神の威厳の輝きと呼んでいますn58神はご自分に「かたどり、〔ご自分々こ〕似せて」(創世記1∙26)人を造り、栄光を冠としていただかせてくださいましたn59が、人は罪を犯して「神の栄光を受けられなくなっています」n60。そこで神は、「造り主の姿に倣う」(コロサイ3∙10)新しい者とするために、人にご自分のみ名を現し授けて、ご自分の聖性を現されます。
[2810]
神はアブラハムになされた約束やそれに伴う誓約の中ではn61、み名を明かさない状態で確約なさいました。神はモーセにはじめてみ名を明かされますがn62、「大いなる威光を現して」(出エジプト15∙1)イスラエルの民をエジプト人から救い出されたときには、この民全体の前でみ名を啓示なさいます。シナイの契約以後は、この民は「神ご自身のもの」であり「聖なる国民」(ヘブライ語では「聖別された国民」も同義)となるはずですn63。み名がそのうちに宿っているからです。
[2811]
ところが民は、聖なる神から聖なる律法を繰り返し与えられるにもかかわらずn64、また「ご自分の聖なる名のゆえに」主が忍耐強く導かれるにもかかわらず、イスラエルの聖なる神から離れ、「諸国民の目の前で聖なるみ名を汚しました」n65。だから、旧約時代の義人たちやバビロン捕囚から帰還した貧しい人々、および預言者たちは、み名に対する情熱に燃え立ったのです。
[2812]
最後には、救い主として人となられたイエスにおいて、神の聖なる名がわたしたちに明かされ、与えられましたn66。イエスの存在そのもの、そのことば、その犠牲によって明かされたのですn67。み名を明かすということが、「〔聖なる父よ、〕彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17∙19)というイエスの祭司的祈りの核心なのです。御父ご自身がイエスの名を「聖とされる」のでn68、イエスはわたしたちに御父の名を「現される」のですn69。御父は復活されたイエスにあらゆる名にまさる名をお与えになります。すなわちイエスは、すべてのものが父である神の栄光をたたえるための主なのですn70。
[2813]
わたしたちは洗礼の水によって「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされ」(一コリント6∙11)ました。御父はわたしたちに「聖なる生活をさせるため」(一テサロニケ4∙7)に、わたしたちを全生涯にわたって招き続けておられます。わたしたちは「わたしたちにとって……聖……となられた」(一コリント1∙30)イエス・キリストとは神の力で結ばれているのですから、神の栄光とわたしたちのいのちとは、み名がわたしたちのうちで、わたしたちによって聖とされるかどうかにかかっているのです。この第一の願いが最初に置かれている理由はここにあります。
「ご自分で他の者を聖とされる神が、だれか他の者によって聖なる者とされるということはありえません。しかし神は、『聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである』(レビ11∙44)といわれたのですから、洗礼によって聖とされたわたしたちは、存在しはじめた状態にいつまでもとどまるように願い求めるのです。このことを、わたしたちは毎日祈り求めています。毎日罪を犯しているわたしたちが、不断の聖化によって罪の汚れから清められるために、わたしたちにとって毎日の聖化が必要なのです。……この聖化がわたしたちの中にいつまでもとどまるように、わたしたちは祈るのです」n71。
[2814]
み名が諸国民の間で聖とされるということは、わたしたちの
生活と
祈りとに深くかかわっています。
「わたしたちは神がご自分の名を聖となさるようにとお願いします。神がすべての被造物を救い聖化なさるのは、ご自分の聖性によってだからです……。堕落した世界に救いをもたらしてくれるのはこのみ名ですが、わたしたちは神の名がわたしたちのうちで、わたしたちの行いを通して聖とされるようにと願います。わたしたちの行いが正しければみ名は賛美され、正しくなければ冒瀆されるからです。『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』(ローマ2∙24)と使徒パウロが語っているとおりですn72。したがって、わたしたちが祈り求めるのは、み名が聖なるものなので、わたしたちの生活も神の聖性にふさわしいものになれますように、ということです」n73。
「わたしたちが『み名が聖とされますように』と祈るときには、御父と結ばれているわたしたちの間だけではなく、神の恵みをまだ受け入れていない人々の間でも、み名が聖とされることを願っています。それは、すべての人のために、敵のためにも祈るようにというおきてに従うためです。だから、ことさらにわたしたちの間で聖とされますようにとはいいません。あらゆる人の間でそうであることを願っているからです」n74。
[2815]
この願いはすべての願いを含むもので、後に続く六つの願いと同じように、キリストの祈りによって聞き入れられます。御父への祈りは、イエスの名によって祈るとき、わたしたちの祈りとなりますn75。イエスはその祭司的祈りの中で、「聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守ってください」(ヨハネ17∙11)と願っておられます。
[2816]
新約聖書の
バシレイア(
βασιλεία)ということばは、「王権」(抽象名詞)とも、「王国」(具象名詞)とも、「王による支配」(行為を示す名詞)とも翻訳することができます。神の国はわたしたちに先だってあり、人となられたみことばにあって近いものとなり、福音全体を通して告知され、キリストの死と復活によって到来しました。その神の国は、イエスの最後の晩さん以来感謝の祭儀の中でも到来しており、わたしたちのただ中にあります。神の国はまた、キリストが御父にこれをお返しになるときに栄光を帯びて到来するでしょう。
「わたしたちが毎日その到来を願っている神の国を、キリスト自身として解釈することもできます。そのように理解すると、キリストの到来が速やかにわたしたちに示されるようにという願いになります。事実、わたしたちはキリストのうちに復活するのですから、キリストご自身が復活であるのと同様に、わたしたちは将来キリストのうちにあって支配するのですから、神の支配する国もキリストであると解釈することができます」n76。
[2817]
この願いが「
マラナ・タ」であり、「主イエスよ、来てください」という霊と花嫁との叫びなのです。
「この祈りがたとえみ国の到来を願うことを義務づけるものではなかったにせよ、わたしたちは希望するものを急いで得るために、自分のほうからこの叫びを上げていたことでしょう。祭壇の下にいる殉教者たちの魂は、『主よ、いつまで……地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか』と、ねたみの心を持って主に向かって大声で叫んでいます(黙示録6∙10)。確かに、殉教者たちは世の終わりに正当な裁きを受けるはずです。ですから、主よ、み国の到来を早めてください」n77。
[2818]
主の祈りの中では、とくにキリストの再臨による神の国の最終的到来を祈り求めますn78。ただし、この願望は教会にこの世での使命をなおざりにさせるものではなく、むしろその使命にもっと熱心に取り組ませるものなのです。聖霊降臨以降は、神の国の到来については、「世にあってそのわざをまっとうし、すべてを尊いものに」なさる主の霊のみわざだからですn79。
[2819]
「神の国は、……聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14∙17)。わたしたちの時代は終わりの時代であり、聖霊の注ぎの時です。だから、「肉」と霊との間には最終の戦いが始まっていますn80。
「清い心の持ち主だけが、確信をもって『み国が来ますように』と唱えることができます。『したがって、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させてはなりません』(ローマ6∙12)というパウロのことばに耳を傾ける者は、行いや思いやことばにおいて清さを保つ必要があります。このような人が、神に向かって『み国が来ますように』といえるのです」n81。
[2820]
キリスト者は霊に基づく識別をしながら、神の国の成長と、自分がかかわりを持つ文化や社会の進歩とを区別すべきです。この区別は分離ではありません。人間は永遠のいのちへと召されていますが、その召命とは、この世における正義と平和とに役立たせるために創造主からいただいた力や手段を行使するという義務を免除するのではなく、かえって強化するものなのですn82。
[2821]
この願いは、イエスの祈りに支えられ、感謝の祭儀に現存するその効果的な祈りの中で聞き入れられn83、真福八端の精神に基づいた新しい生活の中で実を結びますn84。
[2822]
御父のみこころとは、「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(一テモテ2∙4)です。御父は、「一人も滅びない……ようにと、……忍耐しておられるのです」(二ペトロ3∙9)n85。他のあらゆるおきてを要約し、みこころのすべてをわたしたちに告げ知らせる神のおきてとは、神がわたしたちを愛してくださったようにわたしたちも互いに愛し合うというものですn86。
[2823]
神は、「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神のみ心によるもので、……あらゆるものが……キリストのもとに一つにまとめられます。……キリストにおいてわたしたちは、み心のままにすべてのことを行われるかたのご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(エフェソ1∙9-11)。わたしたちは、このいつくしみの計画がすでに天上で行われているのと同じように地上でも完全に実現されますように、と心からお願いするのです。
[2824]
御父のみこころは、キリストにおいて、またその人としての意思を通して、完全に、また決定的に成就されました。イエスはこの世においでになられたときに、「ご覧ください。わたしは来ました。……神よ、み心を行うために」(ヘブライ10∙7)n87といわれました。イエスだけが、「わたしは、いつもこのかたのみ心にかなうことを行う」(ヨハネ8∙29)、ということがおできになります。イエスは死を目前に控えた苦悩の祈りの中で、みこころに身をゆだね、「わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ22∙42)と祈られますn88。なぜイエスは、「み心に従い、……ご自身をわたしたちの罪のためにささげてくださった」(ガラテヤ1∙4)のでしょうか。「このみ心に基づいて……イエス・キリストのからだがささげられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ10∙10)。
[2825]
イエスは「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5∙8)。被造物であり、罪びとであり、しかもイエスに結ばれて神の子とされたわたしたちはなおさらのこと、そうでなければならないはずです。わたしたちは御父に、みこころ、すなわち、世にいのちを与えるという救いの計画が実現するために、わたしたちの望みを御子の望みに合わせてくださるようにとお願いします。わたしたちには、その力はまったくありません。しかし、イエスに結ばれ、聖霊の力に助けられるならば、自分の意思を神にゆだね、御子がつねに選ばれることを選んで、御父のみこころにかなうことを行うことn89ができるのです。
「わたしたちはキリストと一致することにより、キリストとただ一つの霊となって、キリストの心を心とすることができます。こうして、みこころが天に行われるとおり地にも行われることになるのです」n90。
「〔イエス・キリストが〕謙虚であるべきことをどうお教えになるかが分かりますか。わたしたちの徳は自分の努力だけではなく、神の恵みによるものでもあると示しておられるではありませんか。同時にキリストは、祈るわたしたち一人ひとりに、世界全体のことに思いを馳せるようにと命じておられます。また、わたしのうちに、あるいはあなたたちのうちに『みこころが行われますように』といわれたのではなく、全地に行われますようにといわれたのです。それは、地上の誤りが取り除かれて真理が全地を支配し、あらゆる悪が破壊されて再び徳が栄え、地上でも天上と同じようにいつまでも大切にされるためなのです」n91。
[2826]
わたしたちは祈りの中で、何が神のみこころであるかを判断しn92、みこころを行うための忍耐を得るn93ことができます。イエスは、わたしたちが天の国に入るのはことばによってではなく、「わたしの天の父のみ心を」(マタイ7∙21)行うことによってであると教えられます。
[2827]
「神は……み心を行う人のいうことは、お聞きになります」(ヨハネ9∙31)n94。主イエスのみ名によってささげられる教会の祈りには、大きな力があります。とくにエウカリスチアにおける祈りがそうです。エウカリスチアとは、聖母マリアn95やすべての聖人たちと心を合わせた執り成しのための交わりのことですが、その聖人たちは主のみこころを行うことだけを望む、主の「み心にかなう」かたがただったのです。
「『みこころが天に行われるとおり地にも行われますように』ということばを、わたしたちの主イエス・キリストご自身のうちに行われるように教会にも、御父のみこころを果たされた花婿のうちに行われるようにキリストの花嫁のうちにも行われますように、と理解しても、間違いではありません」n96。
[2828]
「わたしたちにお与えください」ということばは、すべてのものを御父がお与えくださるはずだと信じ切っている子供たちのすばらしい信頼心を表すものです。御父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて」(マタイ5∙45)くださり、すべての生き物に「ときに応じて食べ物を」(詩編104∙27)お与えになります。イエスはわたしたちにこのように祈るようにと教えておられますが、それは御父の限りないいつくしみを認めることなので、結局は御父に栄光を帰すことになるのです。
[2829]
「わたしたちにお与えください」ということばはまた、契約を表すことばでもあります。わたしたちは御父のものであり、御父はわたしたちのもの、わたしたちのためのものなのです。しかし、この「わたしたち」ということばはまた、御父がすべての人の父であることを認めることばでもあります。したがってわたしたちは、すべての人のために、またすべての人の必要事や苦しみなどを包含しながら御父に祈っているのです。
[2830]
「
わたしたちの糧を」。わたしたちにいのちをお与えになる御父は、生きるために必要な糧や「時機に応じた」物的・霊的善をすべてお与えにならないはずはありません。イエスは山上の説教で、御父の摂理に協力する子供としてのこの信頼について力説しておられますn97。イエスは決して受動的になるようにと勧めておられるのではなくn98、尽きないさまざまな不安や心配からわたしたちを解放したいと望んでおられるのです。これが、神の子らにふさわしい一切放棄の姿です。
「〔イエスは〕神の国とその義を求める人々には、加えてすべてのものが与えられると約束しておられます。すべては神のものなので、もしも神をないがしろにするようなことさえなければ、神とともに生きている者には、何も欠けることはないのです」n99。
[2831]
ところが、食べ物がなくて飢えている人たちの存在が、この願いのもう一つの深い意味を明らかにしてくれます。世界の飢餓という悲しい現実は、真心から祈るキリスト者に、個人的な行動においても、人類家族との連帯という観点においても、自分たちの兄弟に対する実際的な責任ある行動をとるようにと促します。主の祈りのこの願いは、貧しいラザロn100や最後の審判n101のたとえとは切り離すことができません。
[2832]
ねり粉の中のパン種のように、神の国の新しさがこの世界をキリストの霊によって変革させる力を持っているはずですn102。このことを、個人的・社会的・経済的・国際的関係の中で正義を確立することによって表す必要があります。そのためには、正しさを守ろうとする人々なしには公正な社会構造はありえないことを念頭に置かなければなりません。
[2833]
「わたしたちの」糧とは、「多くの人の」ための「一つの」糧という意味です。真福八端がいう貧しさとは、分かち合いの徳のことです。それは、ある人々の豊かさが他の人々の窮乏に役立つために、強制によってではなく愛によって、物的・霊的善を分かち合うようにという呼びかけなのですn103。
[2834]
「祈り、働きなさい」n104。「すべては神のおかげであるかのように祈り、すべてはあなたがたの責任であるかのように働きなさい」n105。たとえわたしたちの労働によって手にした糧であっても、御父のたまものであることに変わりはありません。だから、御父に糧を願い、いただいた糧のために感謝をするのは正しいことです。これがキリスト者の家庭で行う食前・食後の祈りの意味なのです。
[2835]
以上の願いとその願いに伴う責務とは、人間の生命力を衰えさせているもう一つの飢餓にも当てはまります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4∙4)n106、つまり、神のことばとその霊とによって生きています。キリスト者は全力を挙げて、「貧しい人々に福音を告げ知らせ」なければなりません。地上には、「パンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主のことばを聞くことのできぬ」(アモス8∙11)飢えと渇きとを持った人々がいます。ですから、この第四の願いのキリスト教特有の意味とは、いのちのパン、すなわち、信仰のうちに受け入れる神のことば、エウカリスチアにおいていただくキリストのからだに関するものなのですn107。
[2836]
「
今日」ということばも、信頼を表すものです。イエスがわたしたちにこのことばを用いるようにと教えておられるのであってn108、わたしたちのほうからこのことばを思いつくことなどできるはずはありません。糧ということばはとくに神のことばと御子のからだとを指しているのですから、この「今日」ということばは、単にわたしたちの現世のそれを指しているだけではなく、神の「今日」を指しているのです。
「あなたが毎日糧を受けるとすれば、あなたにとって、その毎日とは今日のことです。キリストが今日あなたとともにおられるのであれば、あなたにとって、キリストは毎日復活しておられるのです。どうしてでしょう。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ』(詩編2∙7)とあるからです。今日とは、キリストが復活するときのことです」n109。
[2837]
「
日ごとの」。このエピウーシオス(ἐπιούσιος)ということばは、新約聖書ではここだけに用いられています。時間的な意味にとれば、それは、わたしたちの「無条件の」信頼を強める目的で、「今日」ということばの意味を分かりやすくするためにもう一度繰り返しているということになりますn110。質的な意味にとれば、この語は生きるために必要なもの、より広い意味では、生活のために十分なすべてのものを意味することになりますn111。字義的にとれば(エピウーシオス、「超実体的」)、直接的にはいのちのパン、キリストのからだ、わたしたちの霊的いのちに絶対に必要なn112「不死の妙薬」n113という意味になります。もしもこの意味で解釈するならば、このことばには天上的な意味があることは明らかです。ここでいう「日」とは、主の日、来るべき神の国の前味であるエウカリスチアの中ですでに先取りされている、神の国の会食の日のことです。ですから、感謝の典礼は「日ごとに」行われるのです。
「だから、エウカリスチアはわたしたちの日ごとの糧です。……そこにあるのは一致の力です。その力がわたしたちを救い主のからだに一致させ、その一部とし、わたしたちはいただくものに同化されるのです。……皆さんが日ごと教会で傾聴している聖書の朗読も、耳にしたり口にしたりしている賛歌も、すべて日ごとの糧であり、わたしたちの旅路に必要なものなのです」n114。
天の父は、天の子らのようにわたしたちがいのちのパンを求めるようにと促しておられますn115。キリストは「聖母マリアのうちに種まかれ、そのからだの中で発酵し、受難によってこねられ、墓の炉で焼かれ、教会の中に保存され、祭壇に運ばれるパンであり、信者たちに日ごと天上の食べ物を与えてくださいます」n116。
[2838]
この願いは意外な感じがするものです。もしも「わたしたちの罪をおゆるしください」という最初の部分だけであったなら、それは主の祈りの最初の三つの願いの中に暗に含まれていることになるでしょう。キリストの犠牲は「罪のゆるしを得させるためのもの」だからです。しかし、その後に続く文章に基づけば、わたしたちの願いは先に一つの要求に応じなければ聞き入れられないことになります。願いは未来に向けられており、わたしたちが人をゆるすことが前提条件となっているのです。願いとゆるしとを結びつけるのが、「ように」(新しい口語訳の祈りでは、「も」という語の中にその意味が込められています)ということばなのです。
[2839]
わたしたちは大胆な信頼を抱いて主の祈りを唱え始めました。み名が聖とされますようにと願いながら、自分たちがますます聖なる者にしていただけるようにと願いました。しかし、洗礼の白衣をまとってからも、わたしたちは罪を犯し、神に背き続けています。そこでこの第五の願いでは、放蕩息子のように御父のもとに戻りn117、徴税人のように自分が罪びとであることを認めるのですn118。わたしたちの願いは一種の「告白」で始まりますが、その中でわたしたちは自分の惨めさと御父のあわれみとを公言します。わたしたちの希望は揺るぎません。御子によって、「あがない、すなわち罪のゆるしを得ている」(コロサイ1∙14)からですn119。わたしたちは神のゆるしの効果的で疑うことのできないしるしを、教会の秘跡の中に見いだしていますn120。
[2840]
ところが恐ろしいことに、このあふれるあわれみというものは、わたしたちの感情を傷つけている人々をわたしたちがゆるさない限り、わたしたちの心に流れ込むことはできません。愛はキリストのからだと同じように、分割できないものなのです。見える兄弟姉妹を愛さないで、見えない神を愛することはできませんn121。わたしたちは自分の兄弟姉妹をゆるすことを拒んで心を閉ざし、そのかたくなさによって神の慈愛を心に入り込ませないようにします。これに反し、自分の罪を告白すれば、わたしたちの心は御父の恵みに開かれるのです。
[2841]
この願いはきわめて重要なので、イエスは山上の説教の中で詳しく説明しておられますn122。人間は契約の神秘のもっとも厳しい要求にこたえることは不可能ですが、「神は何でもできる」(マタイ19∙26)のです。
[2842]
この「ように」ということばは、イエスの教えの中でここだけに見られるものではありません。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5∙48)、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6∙36)、「あなたがたに新しいおきてを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13∙34)、などという箇所にも出てきます。神の模範にただ外面的に従おうとするだけでは、主のおきてを守ることはできません。おきてを守るためには、神の聖性、あわれみ、愛に、「心底から」、いのちがけであずかるべきです。わたしたちがその導きに従って「生きている」(ガラテヤ5∙25)霊だけが、キリスト・イエスのうちにある思いを「わたしたちのもの」にすることがおできになりますn123。そのとき、「神がキリストによって〔わたしたちを〕ゆるしてくださったように、ゆるし合〔って〕」(エフェソ4∙32)、ゆるしが一つのものになることができるのです。
[2843]
こうして、極限まで愛し抜く愛n124というゆるしについてのイエスのことばが生きたものとなります。教会共同体に関するイエスの教えを具体的に示す情け容赦のない家来についてのたとえ話n125は、「あなたがたの一人ひとりが心から兄弟をゆるさないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」ということばで終わっています。実に、ゆるすかゆるさないかはすべて「心の奥底」で決められるのです。侮辱をまったく意に介さず、忘れてしまうなどということはわたしたちの力だけではできません。しかし、すべてを聖霊にゆだねた心であれば、受けた傷をあわれみに転じ、侮辱を執り成しに変えて記憶を清めることができるのです。
[2844]
キリスト教の祈りは敵をゆるすほどに徹底したものとなりますn126。この祈りによって弟子は師に似た者となり、変容させられます。ゆるしはキリスト教の祈りのいわば頂点です。祈りのたまものは、神のあわれみに感応した心の持ち主でなければ受け取ることはできません。ゆるしはまた、愛が罪よりも強いものであることもこの世で証明します。あらゆる時代の殉教者が、このイエスの愛をあかししています。ゆるしこそが神の子らと御父との、また人間相互のn127和解の基本的な条件なのですn128。
[2845]
本質的に神のものであるこのゆるしには、限界も度合いもありませんn129。「加害」(ルカ11章4節では「罪」、マタイ6章12節では「負い目」となっています)という点では、わたしたちは皆つねに負い目を持つ者なのです。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(ローマ13∙8)。聖三位の交わりが、あらゆる関係の正しさの源であり、基準ですn130。それは祈りの中で、とくにエウカリスチアの中ではっきりと表されますn131。
「神は不和な者のささげものを受け入れられず、まず祭壇から退いて兄弟と仲直りをすることを命じられています。それは、平和な心でささげられた祈りによって神をなだめることができるようにするためです。神にもっともよみされるささげものは、わたしたちの平和であり、兄弟としての同心一致であり、父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民なのです」n132。
[2846]
この願いは、前の願いの根底に触れるものです。というのは、わたしたちの罪というものは誘惑に同意した結果だからです。わたしたちは御父に、誘惑に「陥らせ」ないようにとお願します。原文のギリシア語を一語で翻訳するのは困難ですが、「陥ることをおゆるしにならないでください」n133、「わたしたちが誘惑に負けるままにさせておかないでください」という意味になります。「神は、悪の誘惑を受けるようなかたではなく、また、ご自分でも人を誘惑したりなさ〔いません〕」(ヤコブ1∙13)。かえって、わたしたちを誘惑から解放したいと望んでおられます。わたしたちは御父に、わたしたちが罪に導く道に足を踏み入れるのを放置なさらないようにとお願いします。わたしたちの心は「肉と霊」との戦いへと傾いていきます。この願いは、識別と力との霊を嘆願するものです。
[2847]
聖霊はわたしたちに、内的人間の成長に必要であるn134上に「練達」のためにもなるn135試練と、罪と死に導く誘惑n136との違いを
識別することができるようにしてくださいます。わたしたちはまた、「誘惑されること」と誘惑に「同意すること」とを識別しなければなりません。つまり、識別によって誘惑の虚偽の仮面をはぎ取るのです。見た目には「おいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように」(創世記3∙6)見えるものであっても、実際にはその実は死なのです。
「神は、強制されてではなく、自由意志をもって善を行うことを望まれます……。それは誘惑にも役に立つ面があります。わたしたちの霊魂が神からいただいたものがどんなものなのかを知る者は、神以外にはだれもいません。わたしたち自身ですら、それを知りません。そのことが誘惑によって明らかにされ、わたしたちはそれまでとは違って自分自身が何者であるかを認識し、自分自身の悪への傾きを発見して、誘惑のおかげで明らかになった善について感謝しないではいられないようになるのです」n137。
[2848]
「誘惑に陥らない」ためには、心からの決意が必要です。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。……だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6∙21,24)、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(ガラテヤ5∙25)とあるとおりです。わたしたちが聖霊に「同意すること」によって、御父は力を与えてくださいます。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実なかたです。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練とともに、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(一コリント10∙13)。
[2849]
ところで、このような戦いや勝利は、祈りによってはじめて可能になります。誘惑者に対してイエスは、初めからn138、また死の苦悩の中での最後の戦いにおいてもn139、祈りによって勝利を収められました。わたしたちがこの御父への願いを口にするとき、キリストはわたしたちをご自分の戦いと苦悩とに一致させてくださいます。イエスはご自分の警戒と結びつけて、心の警戒をしきりに力説しておられますn140。警戒とは「心を守ること」であって、イエスはみ名によってわたしたちを守ってくださるようにと御父に願っておられますn141。聖霊は、わたしたちが目を覚ましてたえず警戒するようにと戒めておられますn142。この主の祈りの願いは、とくに地上におけるわたしたちの戦いにおける最後の誘惑とのかかわりにおいて、その劇的な意味を持つようになります。つまり、人生の最後まで忠実に耐え忍べることを願っているのです。聖書にも、「見よ、わたしは盗人のように来る。目を覚ましている人は幸い」(黙示録16∙15)ということばがあるのですから。
[2850]
主の祈りの最後の願いは、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ17∙15)というイエスの祈りにも含まれています。この願いは個人としてのわたしたち一人ひとりにかかわるものですが、祈っているのはつねに「わたしたち」であって、全教会との交わりの中で、全人類の解放のためになされるものなのです。主の祈りは、わたしたちの心をたえず救いのみわざの次元へと開かせてくれます。罪と死の悲劇の中でのわたしたちの相互依存は、キリストのからだにおける連帯、「聖徒の交わり」へと変えていただけるのですn143。
[2851]
この願いでいう悪とは単に抽象的なものではなく、ペルソナ的存在者、サタン、悪い者、神に逆らう天使のことです。「悪魔(ディアーボロスδιά-βολος)」とは、神の計画とキリストにおいて成就した「救いのわざ」とに「逆らう」者のことです。
[2852]
「最初から人殺し、……偽り者……、〔偽りの〕父」(ヨハネ8∙44)であり、「全人類を惑わす者であるサタン」(黙示録12∙9 参照)によって罪と死が世に入ったのであり、その決定的敗北によって宇宙万物は「罪と死の腐敗から解放される」n144のです。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになったかたが、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」(一ヨハネ5∙18-19)。
「皆さんの罪を取り除き、皆さんの過ちをゆるされた主は、戦いをいどむ悪魔の策略から皆さんを守り、助けることができる力強いかたです。だから、過ちを生み出すことをつねとしている敵も、皆さんを不意打ちできなくなるのです。神に信頼する者は悪魔を恐れません。聖パウロも、『もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか』(ローマ8∙31)といっています」n145。
[2853]
「〔この〕世の支配者」n146に対する勝利は、イエスがわたしたちにご自分のいのちを与えるために進んで自らを死に渡されたそのとき、決定的なものとなりました。それがこの世が裁かれ、この世の支配者が「追放される」n147ときなのです。竜は「女の後を追いました」n148が、手を触れることができません。聖霊の「恵みに満ちた」新しいエバであるマリアは、罪と死の腐敗から解放されます(これは、終生おとめで、神のいと聖なる御母マリアの無原罪と被昇天のことです)。「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち……と戦おうとして出て行った」(黙示録12∙17)のです。したがって、霊と教会とは「主イエスよ、来てください」(黙示録22∙17,20)と祈ります。主キリストの到来が、わたしたちを悪(魔)から救ってくれるからです。
[2854]
悪(魔)から解放されるようにと願いながら、わたしたちはまた、悪(魔)がその支配者でも扇動者でもある現在、過去、未来のあらゆる悪から解放されるようにとも願っています。教会はこの最後の願いの中で、御父のみ前に世のすべての苦しみを提示するのです。人類を抑圧する諸悪からの解放だけではなく、平和の貴重なたまものやキリストの再臨を辛抱強く待望する恵みも請い求めます。このように祈りながら、教会は「死と陰府のかぎ」(黙示録1∙18)を持っておられるかた、「今おられ、かつておられ、やがて来られる全能者」(黙示録1∙8)n149のうちにすべての人とすべてのものとが一つにまとめられるという希望を、信仰に満ちた謙虚さのうちに表しているのです。
「〔いつくしみ深い父よ、〕すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ちかつことができますように。わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」n150。
[2855]
「国と力と栄光は、あなたのもの〔だから〕です」という結びの栄唱(聖公会では「頌栄」という訳語を用いています)は、御父に向かって、み名が聖とされること、み国が到来すること、万物救済というみこころが実現されることを祈り求めている、初めの三つの願いを、包括的に繰り返すものです。この繰り返しは、天上の典礼と同じように礼拝と感謝の形で行われますn151。この世の支配者は、この国と力と栄光という三つの称号を偽って自分のものにしていましたn152。しかし主キリストは、救いの神秘が最終的に完成され、神がすべてにおいてすべてとなられて、み国を御父に引き渡されるときまでn153、これらの称号をご自分の父、わたしたちの御父に返しておられます。
[2856]
「祈りの終わりに、あなたは『アーメン』といいます。『そのとおりに成りますように』n154という意味のこのアーメンをいうことによって、あなたは神がこの祈りの中で求めておられるあらゆることに対して義務を負わされることになります」n155。
[2857]
「主の祈り」の最初の三つの願いは、御父の栄光、すなわちみ名が聖とされること、み国が到来すること、みこころが成就されることを願うものです。他の四つはわたしたちの望みを神に申し上げるもので、その中には、あるいは食べ物、あるいは罪からのいやしという内容の、わたしたちの生活に関する願いと、善が悪に勝利を収めるための戦いに関する願いとがあります。
[2858]
「み名が聖とされますように」と願うとき、わたしたちは神の計画にあずからせていただきます。それは、モーセに、ついでイエスにおいて啓示された神の名が、わたしたちによって、わたしたちのうちで、さらにまた、すべての国民や人間一人ひとりのうちでも聖とされることなのです。
[2859]
第二の願いによって、教会はとくにキリストの再臨と神の国の最終的到来とを祈り求めます。教会はまた、わたしたちの生活の「今日」の中で、神の国が成長するようにとも祈ります。
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第三の願いでは、この世の生活の中で御父の救いの計画が実現できるために、わたしたちの望みを御子の望みに合わせてくださるようにと御父に祈ります。
[2861]
第四の願いで「わたしたちにお与えください」ということによって、わたしたちは、自分たちと同じ心を持つ人々と心を一つにしながら、天の御父に対する子供としての信頼を表します。「わたしたちの糧」とは、生存するために必要な食べ物を意味します。また、いのちのパンである、神のことばやキリストのからだという意味でもあります。それは、神の「今日」の中で行われている神の国の会食でいただく、欠くことのできない(超)実体的な食べ物です。エウカリスチアはその先取りなのです。
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第五の願いは、わたしたちの罪がゆるしていただけるように神のあわれみを請い求めるものです。神のあわれみは、キリストに倣い、キリストに助けられながら、敵をゆるす努力をしていない限り、わたしたちの心に届くことはありえません。
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「わたしたちを誘惑におちいらせず」と唱えるとき、わたしたちは自分たちが罪に導く道に足を踏み入れるのをおゆるしにならないようにと神にお願いします。この願いは、識別と力との霊を嘆願し、警戒するための恵みや、人生の最後まで忠実に耐え忍べることを切願するものです。
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「悪からお救いください」という最後の願いで、キリスト者は教会とともに、すでにキリストによって獲得されている勝利が「この世の支配者」、神と神の救いの計画とに意識的に逆らう天使であるサタンに対して現されるようにと神に祈ります。
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最後の「アーメン」ということばで、わたしたちは、七つの願いに込められている「そのとおりに成りますように」という自分たちの「依託の心」を表現します。