[279]
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)。聖書はこの荘重なことばで始まっています。信条はこのことばを踏襲して、全能の父である神を「天地の創造主」使徒信条(Symbolum apostolicum : DS30)。、「見ゆるもの、見えざるもの、すべての造り主」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150。と宣言します。ですから、まず創造主について、次に被造界について、最後に人祖の堕罪について述べることにしますが、神の御子イエス・キリストはこの堕罪からわたしたちを救いに来られたのです。
[280]
創造は「神の救いのすべての計画」の土台、キリストを頂点とする「救いの歴史の始まり」聖職者聖省『カテケージス一般指針』51 (loc. cit., 128),。です。逆に、キリストの神秘は創造の神秘を解く決定的な光となります。すなわち、何のために「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)のか、その目的を明らかにします。初めから、神はキリストにおける新たな創造の輝きを意図しておられましたローマ8・18-23参照。。
[281]
ですから、キリストにおける新たな創造を祝う復活徹夜祭の朗読は、創造の物語から始まります。ビザンチン典礼では、伝統的にこの物語が主の大祝日の徹夜典礼での第一朗読になっています。古代の史料によれば、洗礼志願者の教育も同じ順序で行われましたエゲリア『聖地巡礼記』 (Egeria, Itinerarium seu Peregrinatio ad loca sancta 46, 2: SC 296, 308; PLS 1, 1089-1090), 聖アウグスティヌス『教えの手ほどき』 (S. Augustinus, De catechizandis rudibus 3, 5: CCL 46, 124 [PL 40, 313])参照。。
[282]
創造についてのカテケージスはきわめて重要です。これは人間として、またキリスト者としての生活の根底にかかわっています。つまり、「わたしたちはどこから来たのか」「どこに行くのか」「わたしたちの起源は」「わたしたちの目的は」「万物はどこから出て、どこに向かうのか」という、あらゆる時代の人々が提起する基本的な問題に対して、キリスト者の信仰に基づく回答を明確にするものだからです。起源と究極目的に関する質問は不可分であり、また、その回答はわたしたちの生活と行為の意味、ならびに方向にとって決定的なものです。
[283]
宇宙と人間の起源に関する問いかけは数多くの科学的探求の対象となり、宇宙の年齢や大きさ、生物の生成、人間の出現に関する知識を驚くほど豊かにしました。これらの発見によってわたしたちは、創造主の偉大さを賛美し、そのあらゆるわざと学者や探求者に与えられている知恵や知識に対して神に感謝するよう促されます。これらの人々はソロモンとともに、こういえるはずです。「存在するものについての正しい知識を、神はわたしに授けられた。宇宙の秩序、元素の働きをわたしは知った。……万物の制作者、知恵に教えられたからである」(知恵7∙17-21)。
[284]
これらの探求に特別に寄せられる大きな関心というのは、自然科学の領域を超えた別の次元の問いかけのほうがもっと強いのです。ただ単に、宇宙が物質的にいつ、どのように生じたのか、人間はいつ出現したのかを知ることではなく、むしろ、その起源の意味を明らかにすることに関心があるのです。すなわち、起源は偶然なのか、盲目的な運命、あるいは何かの必然によるのか、それとも知性と善意を備えた超越的存在、神と呼ばれるかたによるのか。そして、もし、世界が神の英知と善に由来するなら、なぜ悪が存在するのか、悪はどこから来るのか、その責任はだれにあるのか、悪からの解放はあるのか、といった一連の問題が続出します。
[285]
キリスト者は当初から、起源の問題について、自分たちの信仰とは異なる回答と対決させられてきました。古代の宗教と文化の中には、起源に関する多くの神話が見られます。ある哲学者たちによれば、すべては神、世界が神、もしくは世界の生成がそのまま神の生成だということになります(汎神論)。他の人々によると、世界は神の必然的流出で、この泉から流れ出て、これに回帰します。また他の人たちは、永久に戦う二つの原理、善と悪、光とやみの存在を主張しました(二元論、マニ教)。こうした考えをする人々の中には、世界(少なくとも物質界)は失墜から生じた悪いものであって、拒絶するか超克すべきものだと主張するものもいます(グノーシス主義)。他の人々は世界は神に創造されたことを認めますが、神はあたかも時計の製造者のように、ひとたび造られた世界の動きを、それに内在する法則に任せたと主張します(理神論)。また、他の人々は世界がそれを超越する者に由来することを承認せず、つねに存在していた物質の働きのみの結果とみなします(唯物論)。以上の仮説は、起源の問題がいつどこにおいても提起されていることを示しています。この探求は人間につきものなのです。
[286]
確かに人間の知性は、万物の起源の問題に対する回答を見いだす能力をすでに持っています。実際、創造主である神の存在は、人間理性の光に照らし、そのわざを通して確実に知ることができます『デイ・フィリウス』禁止条令「2啓示について」 1(DS3026)参照。。しかし、この知識は誤謬によってしばしば不明瞭になり、ゆがめられてしまいます。そこで、このことを正しく理解するために、信仰が理性を強め照らします。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神のことばによって創造され、したがって見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ11∙3)。
[287]
創造の事実は人間生活全体にとってきわめて重要なことですから、神はご自分の民に、創造に関して知れば益になることをすべて、いつくしみ深く啓示されました。創造主についてあらゆる人間が持つことのできる自然の知識を超えて使徒言行録17・24-29、ローマ1・19-20参照。、神は徐々にイスラエルの民に創造の神秘を明かされました。族長たちを選び、イスラエルをエジプトから脱出させ、イスラエルを選んでご自分の民を生み、育てられた神はイザヤ43・1参照。、ご自分を、地のすべての民を所有し、全地を所有するかた、ひとり「天地を造られた」(詩編115∙15、124∙8、134∙3)かたとして示されます。
[288]
したがって創造の啓示は、唯一の神がその民と結ばれた契約の啓示とその実現から、切り離すことはできません。創造はこの契約に向かう第一歩として、神の全能の愛の最初の普遍的あかしとして啓示されました創世記15・5、エレミヤ33・19-26参照。。こうして、創造の教えは預言者たちの告知イザヤ44・24参照。、詩編詩編104参照。や典礼の祈り、選ばれた民の知恵の省察箴言8・22-31参照。の中で、ますます強く表されていきます。
[289]
創造について記された聖書のあらゆることばの中でも独自の地位を占めているのが、創世記の最初の三章です。文書資料として見れば、これらの章はおそらく源泉を異にしていると思われます。霊感を受けた記者はこの三つの章を聖書の冒頭に置くことによって、荘重に、創造の真実、被造界が神を起源とし目的としていること、その秩序と善性、人間の使命、罪の悲劇と救いの希望を述べようとしました。これらの章はキリストの光に照らし、聖書の一貫性と教会の生きた伝承に従って読むなら、「初め」の神秘、つまり、創造、堕罪、救いの約束に関するカテケージスの主要な源泉であり続けるのです。
[290]
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1∙1)、聖書のこの書き出しには三つのことが明言されています。永遠の神は、ご自分以外のすべてのものが存在し始めるようにしてくださいました。神だけが創造主です(「創造する」という動詞⸺ヘブライ語で bara⸺はいつも神を主語とします)。存在するすべてのもの(「天地」という語がそれを表しています)は、それに存在をお与えになった神に依存しています。
[291]
「初めにことばがあった。……ことばは神であった。……万物はことばによって成った。成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1∙1-3)。新約聖書は、神は万物を愛する御子である永遠のみことばによって造られたことを啓示しています。「天にあるものも地にあるものも……万物は御子において造られたのです。万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1∙16-17)。教会は、聖霊も創造のわざを行っていることを信じています。聖霊は「生命の与え主」ニケア・コンスタンティノポリス信条(DS150)。、「創造主である霊」(「創造主である聖霊、来てください〈Veni, Creator Spiritus〉」)、「あらゆる善の泉」ビザンチン典礼「聖霊降臨の主日の晩課の第2ステイケロン」 (2um Sticherum vesperarum Dominicae Pentecostes : Πεντηκοσταριον [Rome 1883] 408)。です。
[292]
御父の創造の働きと一つで切り離すことができない御子と聖霊の働きは、旧約聖書において暗示され詩編33・6,104・30、創世記1・2-3参照。、新約聖書のうちに啓示され、教会の信仰宣言で明言されています。「唯一の神が存在します。……このかたは父であり、神であり、創始者であり、実行者です。万物をご自分によって、すなわち、そのみことばと知恵とによって造られた創造主です」聖エイレナイオス『異端反駁』 (S. Irenaeus Lugdunensis, Adversus haereses, 2, 30, 9: SC 294, 318-320 [PG 7, 822])。。「み手」のように働かれる「御子と聖霊によって」同(Ibid., 4, 20, 1: SC 100, 626 [PG 7, 10321) 。造られました。創造は聖三位の共同のわざです。
[293]
「世界は神の栄光のために造られた」
『デイ・フィリウス』禁止条令「1万物の創造者である神」 5(DS3025)。、これは聖書と聖伝とがつねに教え、たたえている根本的な正しい教えです。聖ボナベントゥラは、神が万物を造られたのは「栄光を増大するためではなく、その栄光を現し、分かち合うためだ」
聖ボナベントゥラ『命題集注解』 (S. Bonaventura, In secundum librum Sententiarum, dist. 1, p. 2, a. 2, q・1, concl. : Opera omnia, v. 2 [Ad Claras Aquas 1885] 44)。と説明します。まことに、神が創造される理由は、ご自分の愛と善以外に何もありません。「被造物を造るためにみ手を開けたのは、愛のかぎです」
聖トマス・アクイナス『命題集注解』 (S. Thomas Aquinas, Commentum in secundum librum Sententiarum, prologus: Opera omnia, v. 8 [Paris 1873] 2)。。また、第1バチカン公会議は次のように説明しています。
「この唯一のまことの神は、自分の幸福を増し、または獲得するためではなく、被造物に与える善によって自分の完全さを表すために、自分の善と全能の力とによって、自由な計画をもって、時の始めから、霊的被造物と物質的被造物とを等しく無から創造されました」『デイ・フィリウス』第1章(DS3002)。。
[294]
神の栄光、それは神の善が表され、伝えられることにほかなりません。これこそ、世界が造られた目的です。神はわたしたちを「イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1∙5-6)。「実に、神の栄光とは生きている人間にあり、人間の生命とは神を見ることにあります。覆われた状態での神の現れが地上の生きものすべてに生命を与えるとすれば、みことばによる御父の顕現は、それにもまして、神を見る人々に生命を与えるはずです」聖エイレナイオス『異端反駁』 (Adversis haereses, 4, 20, 7: SC 100, 648 [PG7, 1037])。。創造の究極目的は、「万物を造られたかた(神)が、ご自分の栄光と同時にわたしたちの幸福をも配慮しつつ、ついに『すべてにおいてすべてとなられる』(一コリント15∙28)」『教会の宣教活動に関する教令』,第2項。ことなのです。
[295]
わたしたちは、神が英知をもって世界を造られたことを信じます知恵9・9参照。。世界は何かの必然、盲目的運命、または偶然によって現れたのではありません。世界は、ご自分の存在、英知、善に被造物をあずからせることを望まれた神の自由な意志から生じたことを、わたしたちは信じます。「あなたは万物を造られ、み心によって万物は存在し、また創造された」(黙示録4∙11)。「主よ、みわざはいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた」(詩編104∙24)。「主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものをあわれんでくださいます」(詩編145∙9)。
[296]
創造なさるために、神は前もって存在する何ものも、いかなる助けも必要とされないことをわたしたちは信じています
『デイ・フィリウス』第1章(DS3002)参照。。創造はまた、神の実体の必然的な流出でもありません
同禁止条令「1万物の創造者である神」1-4 (DS3023〜DS3024)参照。。神は「無から」
第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (DS800)、『デイ・フィリウス』禁止条令「1万物の創造者である神」 5(DS3025)。自由にお造りになられるのです。
「神が、世界をそれ以前に存在する素材から造り出されたのでしたら、何の不思議もありません。人間である職人でさえ、素材を与えられるならば、すべて望むままにそれを細工することができます。ところが、神の力が現れるのは、お望みになるすべてのものを無からお造りになるというところなのです」アンティオキアの聖テオフィロ『アウトリュコスに送る』 (S. Theophilus Antiochenus, Ad Autolycum, 2, 4 : SC 20, 102 [PG 6, 10521)。。
[297]
聖書において、「無から」創造されるという信仰は、約束と希望を豊かに含む教えとして示されています。たとえば、七人の息子の母親はその子らの殉教を励まし、こう語ったのでした。
「わたしは、お前たちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。お前たちに霊といのちを恵んだのでもなく、わたしがお前たち一人ひとりの肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、あわれみをもって、霊といのちを再びお前たちに与えてくださる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには、いのちをも惜しまないからだ。……子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものをすでに在ったものから造られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知っておくれ」(二マカバイ7∙22-23,28)。
[298]
無から創造することができる神は、聖霊によって罪びとたちのうちに清い心を造りながら詩編51・12参照。、魂のいのちを与え、復活によって、死者たちにはからだのいのちを与えることがおできになります。神は「死者にいのちを与え、存在していないものを呼び出して存在させる」(ローマ4∙17)かたなのです。また、みことばによってやみに光を輝かせ創世記1・3参照。ることのできた神は、ご自分を知らない人々に信仰の光を与えることもおできになります2コリント4・6参照。。
[299]
もし神が英知をもって創造なさるのであれば、被造物には秩序があるはずです。「あなたは、長さや、数や、重さにおいて、すべてに均衡がとれるようにはからわれた」(知恵11∙20)。それらのものは、「見えない神の姿」(コロサイ1∙15)である永遠のみことばのうちに、みことばによって造られたので、神の似姿として創世記1・26参照。神との親しい交わりに召されている人間の用に供されています。神の知性の光にあやかる人間の知性は、神が被造物を通してわたしたちに語られることを理解することができます詩編19・2-5参照。。いうまでもなく、それにはかなりの努力と、創造主とそのわざとを前にした謙虚さ、ならびに畏敬の精神を必要としますヨブ42・3参照。。神の善から生まれた被造物はその善にあやかります(「神は見て、よし、きわめてよしとされた」〈創世記 1∙4,10,12,18,21,31〉)。神は、被造物が人間のための贈り物、人間にゆだねられた遺産となることをお望みになりました。教会は、物質界のすばらしさをも含めて、被造物がよいものであることを、反対者に対して幾度も繰り返し弁護しなければなりませんでした聖レオ1世書簡『クアム・ラウダビリテル』 (DS286)、第1ブラガ教会会議『異端者、特にプリスキリアヌス派の排斥』(Anathematismi praesertim contra Priscillianistas, 5-13 : DS455〜DS463)、第4ラテラノ公会議決議第1章「カトリックの信仰について」 (DS800)、フィレンツェ公会議『ヤコブ派に対する教令』(DS1333)、『デイ・フィリウス』第1章(DS3002)参照。。
[300]
神はご自分のすべてのわざより無限に偉大なかたですシラ43・30参照。。その「威光は天よりも高く」(詩編8∙2 参照)、「大きなみわざは究めることもできません」(詩編145∙3)。しかし、神は最高の、自由な創造主、存在するすべてのものの第一原因ですから、被造物のもっとも奥深いところに内在しておられます。「〔わたしたち〕は神の中に生き、動き、存在します」(使徒言行録、17∙28)。聖アウグスチヌスのことばによれば、神は「わたしのもっとも奥深いところよりも奥深く、わたしのもっとも高いところよりも高く」聖アウグスティヌス『告白録』 (S. Augustinus, Confessiones, 3, 6, 11 : CCL 27, 33 [PL 32, 688])。おいでになるのです。
[301]
神が、創造の後、被造物を放棄することはありません。初めに存在を与えるだけではなく、一瞬一瞬その「存在」を支え、動く能力を与え、目的に導かれます。創造主に対するこの全面的な依存を認めることは、英知と自由、喜びと信頼の源となります。
「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。いのちを愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」(知恵11∙24-26)。
[302]
被造界は固有の善と価値とを備えていますが、創造主からまったく完成したものとして造られたものではありません。神が定めた、これから到達しなければならない究極の完成に「
向かう途上」にあるものとして造られました。神がご自分の被造物をこの完成に向かって導かれるはからいのことを、摂理と呼びます。
「神は、ご自分が造られたすべてのものを摂理によって保ち、治められます。『この世の果てから果てまでその力を及ぼし、すべてのものを巧みにつかさどり』(知恵8∙1 参照)、また被造物の自由な行動をも含めて、『神の前に隠れることができるものは何一つない』(ヘブライ4∙13)のです」『デイ・フィリウス』第1章(DS3003)。。
[303]
聖書の教えは異口同音に、摂理のはからいは具体的・直接的であり、ささいなことがらから世界と歴史の大きな出来事に至るまで、すべてを配慮すると述べています。聖書は、出来事が進行する過程で神が絶対の主権を持っておられることを断固主張します。「わたしたちの神は天にいまし、み旨のままにすべてを行われる」(詩編115∙3)。そして、キリストについては、「このかたが開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙示録3∙7)と述べています。「人の心には多くのはからいがある〔が、〕主のみ旨のみが実現する」(箴言19∙21)。
[304]
ですから、聖書の第一の作者である聖霊は、第二原因について触れることなく、さまざまの行為をしばしば神に帰しています。それは原始的な「話し方」ではなく、神の首位、歴史と世界に対する主権を想起させるものでありイザヤ10・5-15,45・5-7、申命記32・39,シラ11・14参照。、神への信頼を培う奥深い方法なのです。詩編の祈りはこの信頼の偉大な学びやです詩編22、詩編32、詩編35、詩編103、詩編138、その他参照。。
[305]
イエスは、子らのささいな必要にも心を配られる天の御父の摂理に対して、子としての信頼を寄せるように求めておられます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』……といって、思い悩むな。……あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる」(マタイ6∙31-33)マタイ10・29-31参照。。
[306]
神は、ご自分の計画を実現する最高の主です。しかし、その実現のために、被造物の協力もお求めになります。それは弱さのしるしではなく、全能の神の偉大さといつくしみのしるしです。実際、神は被造物に存在を与えられるだけではなく、被造物が自ら行動し、互いに原因および出発点となり合って、ご自分の計画の達成に協力する資格をお与えになるのです。
[307]
神は人間に地を従わせ、支配する創世記1・26-28参照。責任をゆだね、摂理に自由に参与できるようになさいます。そのために神は、人間を、創造のわざを発展させ、自分たちと隣人の益のためにそのわざの調和を完成させるための要因、知性と自由を備えた原因となさるのです。人間はしばしば無意識のうちに神のみ旨に協力していますが、意識的にも、行為と祈りとによって、また、苦しみによっても、神の計画に進んで加わることができますコロサイ1・24参照。。そのとき人間は、完全に「神の協力者」(一コリント3∙9) 1テサロニケ3・2参照。、神の国の協力者となるのですコロサイ4・11参照。。
[308]
神は被造物のすべての行為のうちで働いておられます。これは、創造主である神への信仰と切り離すことのできない真理です。第二原因の中で、また、それらを通して働くのは第一原因です。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2∙13) 1コリント12・6参照。。この真理は被造物の尊さを減じるどころか、いっそう高めます。神の力と英知と善とによって無から引き出された被造物は、その存在の起源となるものから切り離されるなら何もできません。「創造主なくしては被造物は消えうせる」第2バチカン公会議『現代世界憲章』,第36項 (Gaudium et Spes)。からです。ましてや、恵みの助けなしには、その究極の目的に到達するすべもありませんマタイ19・26、ヨハネ15・5、フィリピ4・13参照。。
[309]
全能の父であり、秩序あるよい世界の創造主である神が全被造物を配慮しておられるなら、なぜ悪が存在するのでしょうか。この避けがたい、緊急の、神秘で、悲痛な問題には、どのような即答も満足がいかないでしょう。この問題に答えうるのは、キリスト教の教えの全体です。そしてそれは、以下のような内容となります。被造物はよいものであり、罪は悲劇的な出来事です。神は忍耐強い愛から、契約により、あがないをもたらす御子の受肉により、聖霊を与えることにより、人々を教会に集めることにより、秘跡の力により、至福ないのちへの招きにより、人間を迎えに来ておられます。そして、自由意志を持つ被造物がこれに同意するよう呼びかけておられます。しかしまた、恐るべき神秘ですが、それに逆らうこともできるのです。キリスト教の教えの全体が、悪の問題に対する回答となっています。
[310]
神は、なぜ、何の悪も存在しないほどの完全な世界を造られなかったのでしょうか。神は無限の力を持っておられるので、つねによいものを造ることがおできになれるはずです聖トマス・アクイナス『神学大全』 (Summa theologiae, 1, q. 25, a. 6 : Ed. Leon. 4, 298-299)参照。。しかし、神は無限の英知と善とをもって、世界を究極の目的に「向かう途上」のものとして創造することを自由にお望みになりました。神の計画によって、この生成には、ある存在が出現すれば他のものが消滅し、より完全なものがあればより不完全なものも存在し、自然的な形成もあれば破壊もあることになっています。したがって、被造物が完成に至らない限り、物理的善と物理的悪とが共存するのです聖トマス・アクイナス『対異教徒大全』 (S. Thomas Aquinas, Summa contra gentiles, 3, 71 : Ed. Leon. 14, 209-211) 参照。。
[311]
理性的で自由意志を備えている被造物である天使と人間は、自由に選択し愛を優先させることによって究極目的に向かって進まなければなりません。ここで、正道を踏み外すこともありえます。実際、彼らは罪を犯しました。こうして、
道徳的悪が世界に入りましたが、これは物理的悪とは比較にならないほど重大なものです。神は直接にも、間接にも、いかなる意味においても、道徳的悪の原因ではありません
聖アウグスティヌス『自由意志論』(S. Augustinus, De libero arbitrio, 1, 1, 1 : CCL29, 211 [PL32, 1221-1223])、聖トマス・アクイナス『神学大全』 (Summa rzae, 1-2, q. 79, a. 1: Ed. Leon. 7, 76-77)参照。。それにもかかわらず、神は被造物の自由を尊重して、道徳的悪を妨げません。また、神秘としかいえませんが、そこから善を引き出すことがおできになるのです。
「全能の神は……、最高に善であられるので、悪からでも善を引き出すほどに力あるよいかたでなかったとしたら、そのわざのうちに何らの悪の存在もゆるさなかったはずです」聖アウグスティヌス『信仰、希望、愛(エンキリディオン)』 (S. Augustinus, Enchiridion de fide, spees et caritate, 3, 11 : CCL 46. 53 [PL 40, 236])。。
[312]
このように、神がその全能の摂理により、被造物によって作られた悪、たとえそれが道徳的悪であっても、その悪の結果から善を引き出すことがおできになることを、人々は時とともに理解することができるのです。ヨセフは兄弟たちに次のように語っています。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。……あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記45∙8、50∙20)トビト2・12-18(ウルガタ訳)参照。。これまでに行われた最大の道徳的悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。これはあらゆる人間の罪が原因ですが、神は満ちあふれる恵みによってローマ5・20参照。、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。とはいえ、悪が善になるわけではありません。
[313]
「神を愛する者たちには、万事が益となる」(ローマ8∙28)。聖人たちの証言がこの真理を確認し続けています。
たとえば、シエナの聖カタリナは「自分たちに起こることがらにつまずき、反抗する人々」に語っています。「すべては愛から生じます。すべては人間の救いに向けられています。神が行われるのは、ただこの目的のためです」シエナの聖カタリナ『神の摂理についての対話』 (S. Caterina da Siena, II dialogo della Divma Provvidenza 138 : ed. G. Cavallini [Rome 1995] 441)。。
また、聖トマス・モアは殉教を間近にして、娘にこう書いています。「起こることは何であれ、神様のお望みなのだ。ところで、神様が望まれることはすべて、たとえわたしたちには最悪に見えても、最善のものなのだよ」マーガレット・ロウパー『アリシア・アリントンへの書簡(1534年8月)』 Margarett Roper, Epistula ad Aliciam Alington : The Correspondence of Sir Thomas More, ed. E. F. Rogers [Princeton 1947] 531-532。。
ノリッジのジュリアンはこういっています。「神様のお恵みによって学んだことですが、わたしは信仰をしっかり守り、すべてがよくなることを同様に固く信じなければなりません……あなたは、すべてがよくなることが分かるでしょう」ノリッジのジュリアン『神の愛の啓示』 (Julian of Norwich, Revelations of Divine Love 13, 32 : A Book of Showings to the Anchoress Julian of Norwicn, ed. E. Colledge-J. Walsh, vol. 2 [Toronto 1978] 426, 422)。。
[314]
わたしたちは、神が世界と歴史の主宰者であることを固く信じています。しかし、多くの場合、摂理によって敷かれた道を知りません。ただ、道の終わりに至り、完全な知識を得て、「顔と顔を合わせて」(一コリント13∙12)神を見るとき、初めて摂理の道を十分に知ることができます。神はその道を通して、被造物に悪と罪の悲劇を踏み越えさせながら、天地を造られた目的である最終の安息の日創世記2・2参照。の休息へと導いておられるのです。
[315]
神は世界と人間の創造により、ご自分の全能の愛と英知とを最初に普遍的に示し、その「いつくしみ深い計画」を初めて告げられました。この計画の目的は、キリストにおける新しい創造です。
[316]
創造のわざはとくに御父に帰せられますが、父と子と聖霊が創造の唯一の、不可分の根源であることもまた信仰の真理です。
[317]
神だけが世界を自由に、直接に、いかなる助けもなしに創造されました。
[318]
いかなる被造物も、厳密な意味で「創造する」ために要する能力、つまり、かつてまったく存在しなかったものを生じさせ、存在させる(「無から」存在に招く)無限の能力を持ってはいません研学聖省『教令(1914年7月27日)』 (Decretum : DS3624)参照。。
[319]
神はご自分の栄光を現し、また、分かち与えるために世界を創造されました。神がご自分の被造物を創造された目的である栄光とは、被造物が神の真、善、美にあずかることです。
[320]
宇宙を造られた神は、「万物をご自分の力あることばによって」(ヘブライ1∙3)支えておられる御子であるみことばと、いのちを与える創造主である聖霊とを通して、宇宙を存在させ続けておられます。
[321]
神の摂理とは、全被造物を英知と愛をもって究極の目的に導かれる、神のはからいです。
[322]
キリストは、わたしたちの天の御父の摂理に子としての全幅の信頼を寄せるよう、わたしたちを促しておられますマタイ6・26-34参照。。また使徒ペトロも、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5∙7)といって、同じことを勧めています詩編55・23参照。。
[323]
神の摂理は、被造物の行為を通しても働きます。神は人間を、ご自分の計画に自由に協力させてくださいます。
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神が物理的悪や道徳的悪の存在をおゆるしになっているということは神秘であり、神はその神秘を、悪に打ちかつために死んで復活された御子イエス・キリストによって明らかにされました。なぜそうなのかということについては、わたしたちは永遠の生命のうちにおいてしか完全に知ることはできません。もし悪からさえも善を生じさせえないのであれば、神は悪の存在をゆるされなかったでしょう。わたしたちは信仰によって、これを確信しています。