[2839]
わたしたちは大胆な信頼を抱いて主の祈りを唱え始めました。み名が聖とされますようにと願いながら、自分たちがますます聖なる者にしていただけるようにと願いました。しかし、洗礼の白衣をまとってからも、わたしたちは罪を犯し、神に背き続けています。そこでこの第五の願いでは、放蕩息子のように御父のもとに戻りn117、徴税人のように自分が罪びとであることを認めるのですn118。わたしたちの願いは一種の「告白」で始まりますが、その中でわたしたちは自分の惨めさと御父のあわれみとを公言します。わたしたちの希望は揺るぎません。御子によって、「あがない、すなわち罪のゆるしを得ている」(コロサイ1∙14)からですn119。わたしたちは神のゆるしの効果的で疑うことのできないしるしを、教会の秘跡の中に見いだしていますn120。
[2840]
ところが恐ろしいことに、このあふれるあわれみというものは、わたしたちの感情を傷つけている人々をわたしたちがゆるさない限り、わたしたちの心に流れ込むことはできません。愛はキリストのからだと同じように、分割できないものなのです。見える兄弟姉妹を愛さないで、見えない神を愛することはできませんn121。わたしたちは自分の兄弟姉妹をゆるすことを拒んで心を閉ざし、そのかたくなさによって神の慈愛を心に入り込ませないようにします。これに反し、自分の罪を告白すれば、わたしたちの心は御父の恵みに開かれるのです。
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この願いはきわめて重要なので、イエスは山上の説教の中で詳しく説明しておられますn122。人間は契約の神秘のもっとも厳しい要求にこたえることは不可能ですが、「神は何でもできる」(マタイ19∙26)のです。