[385]
神は無限に善であり、そのすべてのわざはよいものです。ところが、苦しみや自然界の災害⸺被造物固有の限界に付随するものと思われる悪⸺を経験しない者、とくに道徳的悪の問題を抱えていない者はだれもありません。悪はどこから来るのでしょうか。「わたしは悪の由来を探しましたが、答えを得られませんでした」257と聖アウグスチヌスは述懐しています。そして、この悲痛な探求が解決を見たのは、ただ生ける神への回心によってでした。「不法の秘密〔悪の神秘〕」(二テサロニケ2∙7)は信心の秘められた真理258に照らして、初めて明らかになります。キリストにおける神の愛の啓示は、悪の広がりと同時に、恵みの満ちあふれる豊かさを明らかにしました259。したがって、悪の起源の問題を考察するにあたっては、悪に対する勝利者であるただ一人のかた、すなわち、キリストに信仰の目を注がなければなりません260。
[386]
罪は人間の歴史に現れています。それを無視し、この暗い現実に他の名を与えようとするのはむだなことです。罪とは何かを理解するためには、まず、人間が神に結ばれている深いきずなを認める必要があります。この関係を抜きにしては、人間の生活と歴史につねに重くのしかかっている罪の悪の正体が暴かれることはありません。なぜなら、罪とは、神を拒絶し、神に反対することにほかならないからです。
[387]
罪の現実、わけても原罪の現実は、神の啓示に照らしてしか明らかにされません。啓示が神についてわたしたちに与える知識なしには、罪を明確に認めることはできず、罪を単なる未成熟さ、心理的弱さ、間違い、不適切な社会構造の必然的結果などとみなしがちです。神は、人間がご自分を愛し、また人間相互が愛し合うために自由意志をお与えになりました。人間に対する神のこの意図を知って初めて、罪は与えられた自由の濫用であることが理解されてくるのです。
[388]
啓示の漸進的な進展とともに、罪の現実も明らかにされました。旧約時代の神の民は、人間の境遇の苦の問題を創世記の中で語られている堕罪の出来事に照らして理解しようとしましたが、この物語の究極の意味を把握することはできませんでした。それはただ、イエス・キリストの死と復活に照らしてのみ明らかにされます261。アダムを罪の源と認めるには、恵みの泉としてのキリストを知らなければなりません。復活したキリストによって遣わされた弁護者である聖霊は、罪をあがなうかたを啓示して、「罪について〔の〕世の誤り」(ヨハネ16∙8)を明らかにするために来られたのです。
[389]
原罪についての教えは、イエスがすべての人の救い主で、すべての人は救いを必要とし、その救いはキリストのおかげですべての人に差し出されているという福音の、いわば「裏」にあるものです。キリストの思い262を持つ教会は、原罪の啓示に異を唱えるならば、キリストの神秘が傷つけられてしまうことを知っています。
[390]
堕罪の物語(創世記3章参照)は比喩的なことばを用いていますが、原初の出来事、すなわち、人間の歴史の初めに起こった出来事を明言しています263。人間の全歴史が、人祖の自由意志に基づいて犯された原初の過ちの影響を受けているということは、信じなければならない確かなことである、と啓示は教えています264。
[391]
人祖の不従順な選択の背後には、神に反対する誘惑者の声があります265。この誘惑者は、羨望から人祖を死に追いやります266。聖書と聖伝とは、この者はサタンまたは悪魔と呼ばれる堕天使であると見ています267。教会の教えによれば、サタンは初め、神に造られたよい天使でした。「悪魔、およびその他の悪霊も、本性上はよいものとして神に造られましたが、自ら悪となりました」268。
[392]
聖書はこの天使たちの罪について述べています269。この「堕罪」は、被造の霊が自由な選択によって、神とその支配を徹底的に、また撤回できない方法で拒絶したことにあります。天使たちのこの反抗は、「神のようになる」(創世記3∙5)という人祖を誘惑した者のことばにうかがい知ることができます。「悪魔は初めから罪を犯している」(一ヨハネ3∙8)し、「偽り者であり、その父だから」(ヨハネ8∙44)です。
[393]
神の無量の慈悲に欠けるところがあるからではなく、天使たちの選択が撤回できないものであることこそ、その罪をゆるされえないものにします。「死後の人間に悔い改めの余地がないのと同様に、堕罪の後の天使たちには悔い改めの余地はありません」270。
[394]
聖書は、「最初からの人殺し」(ヨハネ8∙44)とイエスから呼ばれ、御父から受けた使命に背かせようとあえてイエスさえも試みた者の、有害な影響を明らかにしています271。「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(一ヨハネ3∙8)。サタンのわざのうちでもっとも重大な結果をもたらしたものは、人間を神に背かせた欺瞞の誘惑でした。
[395]
とはいえ、サタンの力は無限ではありません。被造物にすぎないのです。純粋霊なので強力ではあっても、被造物であることに変わりはありません。神の国の建設を妨げることはできないのです。サタンは世にあって、憎悪により神とイエス・キリストによるみ国に抵抗し、その行動は人間各自と社会に⸺霊的に、間接的には身体的にも⸺重大な損害を与えはしますが、人間と世界の歴史を力と優しさをもって導いておられる神は、その摂理に基づいてそれをゆるしておられます。神が悪魔の行動を妨げておられないのは深い神秘ですが、「神を愛する者たちには、万事が益となるようにともに働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8∙28)。
[396]
神は人間をご自分にかたどって造り、親しい交わりを結ばれました。霊的被造物として、人間がこの親しい交わりを生きることができるのは、ただ、神に自由に服従することによってです。これを表しているのが、善悪の知識の木からは決して食べてはならない、という禁止です。「食べると必ず死んでしまう」(創世記2∙17)と、神はいっておられます。「善悪の知識」(創世記2∙17)の木は、被造物としての人間が信頼をもって自由に認め、尊重しなければならない超えがたい限界を、象徴的に表しています。人間は創造主に従属します。創造の法則と、自由意志の行使を規制する道徳的規範とに従うべきなのです。
[397]
悪魔に誘惑された人間は創造主への信頼を心の中で失い272、自由意志を濫用して神のおきてに背きました。これが、人間の最初の罪です273。その後のすべての罪は神への不従順、神のいつくしみへの信頼の欠如なのです。
[398]
この罪で、人間は自分自身を神に優先させ、まさにそのことによって、神を軽んじました。すなわち、人間は神に逆らい、被造物として要求されることに逆らい、したがって、自分自身の善に反して、自我を優先させたのです。聖性の状態に置かれた人間は、神によって栄光のうちに完全に「神化される」はずでした。しかし、人間は悪魔の誘惑に従って、「神なしに、神に先だち、神に従わずに」274、「神のようになろう」275としました。
[399]
聖書は、この最初の不従順の悲劇的な結末を示しています。アダムとエバは直ちに原初の聖性の恵みを失いました276。二人は、神が自分の特権だけを守ることに執着しておられるのだと誤解して277、神を恐れます278。
[400]
原初の義のおかげで維持されていた調和は破れ、肉体に対する霊魂の制御力は弱められました279。男と女の緊密な交わりには摩擦が生じ280、両者の関係は欲望と支配に左右されます281。被造界との調和も断ち切られ、見える被造界は人間にとってなじみのない、敵意あるものとなってしまいました282。人間の罪のゆえに、被造界は腐敗に隷属するようになります283。ついに、不従順の場合はこうなると明白に告げられた結末、すなわち、人間はそこから取られたちりに返るということが284現実のものとなります285。つまり、死が人類の歴史の中に入ります286。
[401]
この最初の罪以来、罪が世界中に「蔓延」します。カインによるアベルの兄弟殺し
287、罪に基づく全世界的な堕落
288などを挙げることができますが、イスラエルの歴史の中でも、罪は頻繁に、とくに契約の神への不忠実、モーセの律法に対する違反として現れ、キリストのあがないのわざの後でも、キリスト者の間で、数限りもなく現れています
289。聖書と伝承は、
人類史に見られる罪の存在と
普遍的広がりをたえず述べてやみません。
「神の啓示によって知らされるこれらのことは、人間の経験と一致します。すなわち、人間は自分の内心をふり返ってみれば、自分が悪に傾いていて、多種多様の悪の中に沈んでいることを発見します。それらの悪が、人間をつくった善なる神から来ることはありません。人間はしばしば神を自分の根源として認めることを拒否し、また自分の究極目的への秩序づけを壊し、自分自身と他人と全造物界とに対する調和を乱しました」290。
[402]
すべての人間はアダムの罪に巻き込まれています。聖パウロはこう断言しました。「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされた」(ローマ5∙19)、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5∙12)と。罪と死の普遍性に対して、使徒パウロはキリストによる救いの普遍性を説きます。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされていのちを得ることになったのです」(ローマ5∙18)。
[403]
教会は、聖パウロに続いて、つねに次のように教えてきました。人間を抑圧するはかりしれない悲惨と、人間の悪への傾き、死すべき運命の由来は、アダムの罪およびアダムがわたしたちすべてに罪を伝えたという事実との関連なしには理解できません。その罪とは、人が生まれながらに担っている罪、すなわち「霊魂の死」291です。信仰に基づくこの確信によって、教会は、自分で罪を犯したことのない幼児にさえ、罪がゆるされるために洗礼を授けます292。
[404]
アダムの罪がどのようにしてすべての子孫の罪となったのでしょうか。人類全体はアダムのうちに、「ただひとりの人間の一つのからだのように」293存在しているのです。この「人類はただ一つ」であることにより、すべての人間は、キリストの義に結ばれているのと同じように、アダムの罪に巻き込まれています。とはいえ、原罪が子孫に伝わっていくということは、わたしたちには十分に理解できない神秘です。しかし、わたしたちは、アダムが初の聖性と義を自分一人のためだけではなく、すべての人間のために受けたことを、啓示によって知っています。誘惑者に負けたアダムとエバは個人としての罪を犯しましたが、この罪は人間本性を傷つけ、その本性が堕罪の状態で子孫に伝わります294。この罪は生殖によってすべての人間に伝えられますが、それは、原初の義と聖性とを失った人間の本性が伝達されるということになります。このため、原罪は類比的な意味で「罪」と呼ばれているのです。それは「うつされた」罪であって犯した罪ではなく、状態であって行為ではありません。
[405]
原罪は、一人ひとりのものであるにもかかわらず295、アダムの子孫であるだれにとっても、その人が犯した過ちではありません。原罪は原初の義と聖性の欠如です。しかし、原罪によって人間本性が全面的に腐敗したわけではありません。人間本性の本来の固有な能力は傷つき、無知と苦と死に支配されるままになり、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。洗礼は、キリストの恵みのいのちを与えて原罪をぬぐい去り、人間を神に向けさせます。しかし、人間の本性を弱め、悪への傾きを持たせた原罪の影響は人間のうちに依然として存在し、霊的戦いを促します。
[406]
原罪が全人類に伝わるという教会の教えが明確にされたのは、とくに5世紀において、わけてもペラギウス説に対する聖アウグスチヌスの省察によってでしたが、さらに16世紀にプロテスタントの宗教改革に対抗した形でもなされました。ペラギウスは、人間は自由意志の自然の力によって、神の恵みの必要な助けなしに、道徳的によい生活を送ることができると主張しました。つまりペラギウスは、アダムの罪の影響を単なる悪い模範の影響にすぎないと考えました。逆に、初期のプロテスタント宗教改革者たちは、最初の罪によって人間は根底から堕落し、その自由意志は失われたと教えていました。そして一人ひとりの人間が受け継いだ罪を、克服できない悪への傾き(欲望)と同一視しました。教会が原罪に関する啓示の意味をとくに明らかにしたのは、529 年の第2オランジュ教会会議296と、1546 年のトリエント公会議297においてです。
[407]
原罪の教え⸺キリストによる贖罪の教えと対をなすもの⸺は、人間の状況と世界における人間の行為とについての明晰な識別の目を与えます。人間は自由を失ってはいませんが、人祖の罪の結果、悪魔にある程度支配されるようになりました。原罪は「死の国を所有する悪魔の権力下に置かれた奴隷状態」298をもたらしました。人間本性が傷つき、悪に傾いている事実を無視することは、教育、政治、社会活動299、道徳の分野で重大な過ちを生じさせます。
[408]
原罪とすべての人が犯す罪の結果は、世界全体を罪の泥沼に陥れています。これが、聖ヨハネのいう「世の罪」(ヨハネ1∙29)です。世の罪というこのことばはまた、人間の罪の結実である社会状況と社会構造とが個人にもたらす悪い影響も指しています300。
[409]
「全体が悪い者の支配下にある」(一ヨハネ5∙19)という世界の悲劇的な状況は
301、人生を戦いにします。
「やみの権力に対する苦しい戦いは、人間の歴史全体に行きわたっています。それは世の初めから始まったものであって、主がいわれるように、最後の日まで続きます。人間はこの戦いに巻き込まれているので、善につくためにはつねに戦わなければならず、神の恩恵の助けと大きな努力なしには、自己の統一を確立することもできません」302。
[410]
堕罪の後、人間は神に見捨てられませんでした。かえって、神は人間を呼び303、悪に対する勝利と堕罪からの再起を神秘的に告げられます304。創世記のこのくだりは、「原福音」と呼ばれています。これが、あがない主メシアについての、蛇と「女」との間の戦い、および「女」の子孫の最終的な勝利についての、最初の告知であるからです。
[411]
キリスト教の伝承はこの部分に、「新しいアダム」305についての告知を見ています。この新しいアダムは「十字架の死に至るまで」(フィリピ2∙8)の従順によって、アダムの不従順を償って余りありました306。また、多くの教父と教会博士は、「原福音」の中で告げられた女性は「新しいエバ」としてのキリストの母マリアであると解釈しています。マリアは、罪に対するキリストの勝利の恵みを最初に、比類のないしかたで受けたかたです。マリアは原罪のすべての汚れから守られ307、生涯、神の特別な恵みによって、いかなる罪も犯しませんでした308。
[412]
しかし、神はなぜ、最初の人間が罪を犯すのを妨げなかったのでしょうか。大聖レオは、「キリストのえもいわれぬ恵みは、悪魔が羨望によってわたしたちから奪ったものよりも優れたたまものをわたしたちに与えました」309と答えています。また聖トマス・アクィナスは次のように答えました。「人間の本性は、罪の後により高い目的に向けられました。これに異議を申し立てるものは何もありません。まったくそのとおりで、神はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかったのです。聖パウロはこれを、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました亅(ローマ5∙20)といっています。そして、『復活賛歌』は歌います。『かくも偉大なるあがない主をいただくに値した罪は、何と幸いなことか(アダムの罪、キリストの死によってあがなわれた罪、栄光の救い主をもたらしたこの神秘よ)』と」310。
[413]
「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。……悪魔のねたみによって死がこの世に入〔った〕」(知恵1∙13、2∙24)。
[414]
サタンと呼ばれる悪魔や他の悪霊たちは、神とその意図に仕えることを自由意志を濫用して拒絶したために失墜した天使です。神に背いた彼らの選択は撤回できないものです。彼らは、神に対する自分たちの反抗に人間を加担させようと企てています。
[415]
「人間は神によって義の中に置かれたのですが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、その自由を濫用し、神に対立するものとなり、自分の完成を神のほかに求めました」311。
[416]
最初の人としてのアダムは、ただ自分のためだけでなく、すべての人間のために神から与えられた原初の聖性と義を、その罪によって失いました。
[417]
アダムとエバは子孫たちに、自分たちの最初の罪のゆえに傷つけられ原初の聖性と義を失った人間の本性を伝えました。この欠如の状態が「原罪」と呼ばれます。
[418]
原罪の結果、人間の本性は強さを失い、無知と苦と死に支配され、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。
[419]
「したがってわたしたちは、トリエント公会議の教えに従い、原罪は人間本性とともに『模倣によってではなく、生殖によって』伝えられたものなので、『一人ひとりの人間のものである』と主張します」312。
[420]
キリストがもたらした罪への勝利は、罪によって失ったものよりも優れたたまものをわたしたちに与えました。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5∙20)。
[421]
「この世界はキリスト者の信仰にとっては、創造主の愛によって造られ保たれており、罪の奴隷状態に陥りましたが、キリストの十字架の死と復活とによって、『悪しき者』の権力が破壊され、解放された世界です」313。