[402]
すべての人間はアダムの罪に巻き込まれています。聖パウロはこう断言しました。「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされた」(ローマ5∙19)、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5∙12)と。罪と死の普遍性に対して、使徒パウロはキリストによる救いの普遍性を説きます。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされていのちを得ることになったのです」(ローマ5∙18)。
[403]
教会は、聖パウロに続いて、つねに次のように教えてきました。人間を抑圧するはかりしれない悲惨と、人間の悪への傾き、死すべき運命の由来は、アダムの罪およびアダムがわたしたちすべてに罪を伝えたという事実との関連なしには理解できません。その罪とは、人が生まれながらに担っている罪、すなわち「霊魂の死」トリエント公会議第5総会『原罪についての教令』2(DS1512)参照。です。信仰に基づくこの確信によって、教会は、自分で罪を犯したことのない幼児にさえ、罪がゆるされるために洗礼を授けます同4(DS1514)参照。。
[404]
アダムの罪がどのようにしてすべての子孫の罪となったのでしょうか。人類全体はアダムのうちに、「ただひとりの人間の一つのからだのように」聖トマス・アクイナス『悪について』 (S. Thomas Aquinas, Questiones disputatae de malo, 4, 1, c.: Ed. Leon. 23, 105)。存在しているのです。この「人類はただ一つ」であることにより、すべての人間は、キリストの義に結ばれているのと同じように、アダムの罪に巻き込まれています。とはいえ、原罪が子孫に伝わっていくということは、わたしたちには十分に理解できない神秘です。しかし、わたしたちは、アダムが初の聖性と義を自分一人のためだけではなく、すべての人間のために受けたことを、啓示によって知っています。誘惑者に負けたアダムとエバは個人としての罪を犯しましたが、この罪は人間本性を傷つけ、その本性が堕罪の状態で子孫に伝わりますトリエント公会議第5総会『原罪についての教令』1-2(DS1511〜DS1512)参照。。この罪は生殖によってすべての人間に伝えられますが、それは、原初の義と聖性とを失った人間の本性が伝達されるということになります。このため、原罪は類比的な意味で「罪」と呼ばれているのです。それは「うつされた」罪であって犯した罪ではなく、状態であって行為ではありません。
[405]
原罪は、一人ひとりのものであるにもかかわらず同3(DS1513)参照。、アダムの子孫であるだれにとっても、その人が犯した過ちではありません。原罪は原初の義と聖性の欠如です。しかし、原罪によって人間本性が全面的に腐敗したわけではありません。人間本性の本来の固有な能力は傷つき、無知と苦と死に支配されるままになり、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。洗礼は、キリストの恵みのいのちを与えて原罪をぬぐい去り、人間を神に向けさせます。しかし、人間の本性を弱め、悪への傾きを持たせた原罪の影響は人間のうちに依然として存在し、霊的戦いを促します。
[406]
原罪が全人類に伝わるという教会の教えが明確にされたのは、とくに5世紀において、わけてもペラギウス説に対する聖アウグスチヌスの省察によってでしたが、さらに16世紀にプロテスタントの宗教改革に対抗した形でもなされました。ペラギウスは、人間は自由意志の自然の力によって、神の恵みの必要な助けなしに、道徳的によい生活を送ることができると主張しました。つまりペラギウスは、アダムの罪の影響を単なる悪い模範の影響にすぎないと考えました。逆に、初期のプロテスタント宗教改革者たちは、最初の罪によって人間は根底から堕落し、その自由意志は失われたと教えていました。そして一人ひとりの人間が受け継いだ罪を、克服できない悪への傾き(欲望)と同一視しました。教会が原罪に関する啓示の意味をとくに明らかにしたのは、529 年の第2オランジュ教会会議第2オランジュ教会会議「規定」 1-2 (DS371〜DS372)。と、1546 年のトリエント公会議トリエント公会議第5総会『原罪についての教令』 (DS1510〜DS1516)。においてです。