[456]
ニケア・コンスタンチノープル信条に従い、わたしたちはこれに答えてこう公言します。「主は、わたしたち人類のため、また、わたしたちの救いのために天よりくだり、聖霊によって、おとめマリアより御からだを受け、人となられた」79と。
[457]
みことばが人となられたのは、
わたしたちを神と和解させて救うためでした。神は「わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(一ヨハネ4∙10)。「御父は御子を世の救い主として遣わされました」(一ヨハネ4∙14)。「御子は罪を除くために現れました」(一ヨハネ3∙5)。
「わたしたちの本性は、病んでいたのでいやしを、罪におちていたので再起を、死んでいたので復活を必要としていました。わたしたちは持っていた宝を失っていたので、これを取り戻す必要がありました。やみの中に閉じ込められていたので、光が必要でした。とりことなっていたので救い主を、囚人となっていたので助けを、奴隷であったので解放者を待ち望みました。このような重大な理由があったので、神は心を動かし、わたしたち人間の本性にまで下って、訪れてくださったのではないでしょうか。人間はそれほど惨めで、不幸な状態にあったのです」80。
[458]
みことばが人となられたのは、わたしたちが神の愛を知るためです。「神は、ひとり子を世にお遣わしになりました。そのかたによって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」(一ヨハネ4∙9)。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3∙16)。
[459]
みことばが人となられたのは、わたしたちの聖性の模範となるためです。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。……」(マタイ11∙29)。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14∙6)。また変容の山で、御父は「これに聞け」(マルコ9∙7)と命じておられます81。イエスは真福八端の模範、「わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネ15∙12)互いに愛し合いなさいという新しいおきての規範です。この愛は、キリストの後に従って自分を実際にささげることを含んでいます82。
[460]
みことばが人となられたのは、わたしたちを「神の本性にあずからせる」(二ペトロ1∙4)ためです。「みことばが人となられ、神の御子が人の子となられたのは、人がみことばに結合することで神と親子の縁を結び、神の子となるため」83であり、「神の子が人となられたのは、わたしたちを神とするためなのです」84。「神のひとり子は、わたしたちがご自分の神性にあずかることを望み、わたしたちの本性を受け入れて人となり、人間が神となるようになさいました」85。
[461]
「みことばは肉となられた」(ヨハネ1∙14)というヨハネの表現を踏襲して、教会は神の御子がわたしたちの救いを実現するために人性をとられたことを「受肉」と称しています。教会は、パウロが遺した賛歌の中で、受肉の神秘を次のように歌います。
「互いにこのことを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2∙5-8)86。
[462]
ヘブライ人への手紙も、同じ神秘についてこう述べています。
「それで、キリストは世に来られたときに、次のようにいわれたのです。『あなたは、いけにえやささげものを望まず、むしろ、わたしのためにからだを備えてくださいました。あなたは、焼き尽くすささげものや罪をあがなうためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしはいいました。「ごらんください。わたしは来ました。……神よ、み心を行うために」』」(ヘブライ10∙5-7、ギリシア語版詩編40∙7-9の引用を含む)。
[463]
神の御子が真に受肉されたと信じることは、キリスト教信仰の特徴的な点です。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公にいい表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(一ヨハネ4∙2)。これこそ、教会がその当初から、「キリストは肉において現れた」という「秘められた偉大な真理」(一テモテ3∙16)を奏でるときに持ち続けてきた喜ばしい確信なのです。
[464]
他に例を見ない神の御子の受肉という事実から導き出される唯一の結論は、イエス・キリストが一部分は神で一部分は人であるとか、神的なものと人間的なものとの雑然とした混合体であるなどというようなことではありません。神の御子は、真に神のままで、真に人となられました。イエス・キリストはまことの神、まことの人です。教会は最初の数世紀の間、この信仰の真理をゆがめた異端に対してこれを擁護し、その内容を明確にしなければなりませんでした。
[465]
初期の異端は、キリストの神性よりも人性のほうを否定するものでした(グノーシス派の仮現説)。すでに使徒時代から、キリスト教は「肉において来られた」神の御子が真に人となられたことを強調してきました87。しかし3世紀から教会は、サモサタのパウロに抗議してアンチオキアで教会会議を開催するなどして、イエス・キリストは神の養子ではなく、本性から神の御子であることを明言しなければなりませんでした。最初の公会議であるニケア会議は、325 年、その信条の中で、神の御子は「造られずして生まれ、父と同一実体のもの(homousios)」88であると公言し、「神の御子は無から造られた者であり」89、父とは「別の実体ないし本質から」造られたと主張した、アリウスを排斥しました90。
[466]
ネストリウス派の異端は、キリストにおいては人間としてのペルソナが神の御子の神的ペルソナに結合されていると考えました。これに対して、アレキサンドリアの聖チリロと第3番目の公会議である 431 年のエフェソ会議は、「みことばは、そのペルソナのうちに理性的魂によって生かされる肉体をご自分と一つに結び合わせて人となられた」91と公言しました。キリストの人性の主体は神の御子の神的ペルソナ以外になく、これが人性を受け、受胎のときから自分自身のものとしたのです。そのため、431 年にエフェソ公会議は、マリアは神のみ子を人として胎内に宿すことにより、正真正銘神の母となられたと宣言しました。「マリアが神の母であるのは、神のみことばがマリアから神性を受けたからではなく、神のみことばが、理性的魂を備えた聖なる肉体をマリアから受けたからです。みことばがそのペルソナにおいてこの肉体と結ばれているので、みことばは肉に従って生まれるといわれるのです」92。
[467]
キリスト単性論者たちは、キリストにおける人性は神の御子の神的ペルソナの性に高められ、もはや人性として存在しないと主張しました。この異端に対して、第4番目の公会議である 451 年のカルケドン会議は、次のように宣言しました。
「わたしたちは皆、教父たちに従って、心を一つにして次のように教え、宣言します。わたしたちの主イエス・キリストは唯一の同じ子です。彼は神性を完全に所有し、同時に人間性を完全に所有します。真に神であり、同時に理性的魂と肉体とから成る真の人間です。神性において父と同一実体であるとともに、人間性においてわたしたちと同一実体です。『罪を除いては、すべてにわたしたちと同じです』93。神性においてはこの世の前に父から生まれ、人間性においては、終わりの時代にわたしたちのため、またわたしたちの救いのために、神の母処女マリアから生まれました。
同じ唯一のキリスト、主なるひとり子であり、二つの本性において、混合、変化、分割、分離せずに存在します。この結合によって二つの本性の差が取り去られるのではなく、むしろおのおのの本性の特質は保存され、(両方の本性は)唯一のペルソナ(位格)、唯一のヒュポスタシス(自立存在)にともに含まれています」94。
[468]
カルケドン公会議の後、ある人々はキリストの人性を人格的主体として考えるようになりました。これに対して、第5番目の公会議である553 年のコンスタンチノープル会議は、「聖三位の一者であるわたしたちの主イエス・キリストには唯一の自立存在(またはペルソナ)だけが存在する」95と宣言しました。したがって、キリストの人性におけるすべては、単に奇跡にとどまらず、苦しみも96、死さえも、その固有の主体である神的ペルソナに帰すべきです97。「肉において十字架につけられたかた、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストは、真の神、栄光の主、聖三位の一者です」98。
[469]
教会はこのように、イエスはまことの神であり、同時にまことの人であると公言します。イエスは真に神の御子で、人となり、わたしたちの兄弟となられました。しかも、そうなられながら依然として神であり、わたしたちの主なのです。
ローマ典礼は、「キリストは神のままでありながら、神ではないものを担われた」99と歌います。また、聖ヨハネ・クリゾストモの典礼は次のように宣言し、歌っています。「ああ、神のひとり子、みことばよ。あなたは不死のかたでありながら、わたしたちの救いのため、聖なる神の母、終生おとめであるマリアによって人となられました。あなたは人となられても変わることなく、しかも、十字架につけられました。ああ、神なるキリスト、あなたは死によって死を打ち砕き、聖なる三位の一者として、父と聖霊とともに賛美されます。わたしたちをお救いください」100。
[470]
受肉の神秘な結合において、人間性は「取り上げられたのであって消滅したのではない」
101ので、教会は時代がたつにつれて、知性と意志の働きを備えたキリストの人間的魂と人間的肉体のまぎれもない現実を強調しなければなりませんでした。同時に、ことあるごとに、キリストの人性はそれを担われた神の御子の神的ペルソナに固有のものであることも指摘する必要がありました。キリストのすべて、人として行われたことのすべては「聖三位の一者」のものです。したがって、神の御子はご自分の人性に、聖三位の中のご自分に固有のペルソナの存在様式をお与えになります。こうして、魂においても肉体においても、キリストは聖三位の神的行動様式を人として表されます
102。
「神の御子は……人間の手をもって働き、人間の頭をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛しました。彼は処女マリアより生まれ、真実にわたしたちの一人となり、罪を除いては、すべてにおいてわたしたちと同じでした」103。
[471]
ラオディケアのアポリナリスは、キリストにおいて、みことばは人間的霊魂に取って代わったと主張しました。教会はこの誤謬に対して、永遠の御子は人間の理性的魂をも担われたと公言します104。
[472]
神の御子が担われたこの人間的魂は、真の人間としての知識を備えています。人間的なものであるこの知識には限界があり、時空の中で存在するものとして、具体的状況に従って機能しました。このため、神の御子は人間となって、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛され」(ルカ2∙52)ることを受け入れたばかりか、人間である以上、経験によって学ぶべきことを尋ねたりしなければならないという人間の条件に従いました105。このことは、自分を無にして「しもべの身分」(フィリピ2∙7)をとられた実情に対応していました106。
[473]
しかし同時に、神の御子のこの真に人間としての知識は、ご自分のペルソナの神的いのちを表していました107。「神の御子の人性は、それ自体によってではなく、みことばとの結合によって、神にふさわしいすべてのことを知り、自らのうちに表していました」108。何よりも、人となられた神の御子が御父について抱いておられた親密で直接的な知識がそうです109。御子はまた、ご自分の人間的知識の中に、人間の心の隠れた思いを見通す神の洞察力が含まれていることを示されました110。
[474]
キリストは、人となられたみことばのペルソナにおいて神の知恵と結合していましたから、ご自分が啓示しなければならなかった神の永遠の計画の知識を、人間として十分に持っておられました111。この分野で、何かを知らないといわれたことがありますが112、同じことについて、他の場合には、それを啓示する使命を受けていないと言明しておられます113。
[475]
教会はこれと並行して、第6回公会議で次のように公言しています。キリストは本性上二つの意志と二つの働き、すなわち、神としての本性と人としての本性によるそれぞれの意志と働きを持っていますが、いうまでもなく、二つの意志と働きは協調して、対立することはありません。したがって、人となられたみことばは、わたしたちの救いのために御父と聖霊とともに神として決定されたすべてのことを、御父への従順から人間としての意志によって受け入れられたのです114。キリストの人間としての意志は「神としての意志に従い、抵抗も反対もせず、かえって、この全能の意志に従属しています」115。
[476]
みことばは肉となって真の人性を担われましたから、キリストの肉体には限界がありました116。そのため、イエスの人間としての容貌を「描く」117ことができます。第7回公会議118で、教会はキリストが聖画像で表されるのが当然であると認めました。
[477]
また、教会は、イエスの肉体において「本来見えないかたである神がわたしたちの目に見えるものとなられた」119ことをつねに認めてきました。キリストの肉体の個人的特徴は神の御子の神的ペルソナを表しています。神の御子はご自分の人間としてのからだの特徴をまったくわがものとされたので、聖画像に表されたそれを崇敬の対象とすることができます。神の御子の聖画像を崇敬する信者は、「それに表現されているかたを崇敬している」120のです。
[478]
イエスはご生涯中、苦悩や受難の中にあってもわたしたち一人ひとりを思い、わたしたち各自のためにご自分を渡されました。神の御子は「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2∙20)のです。イエスはわたしたちの一人ひとりを、人間としての心で愛されました。そのために、わたしたちの罪によって、わたしたちの救いのために刺し貫かれたイエスのみ心は、121「神であるあがない主が永遠の御父とすべての人間にたえず寄せておられる愛の卓越したしるし、象徴とみなされています」122。
[479]
神によって定められた時に、御父のひとり子、永遠のみことば、御父の実体的な似姿が、人となられました。そのかたは、神性を失うことなく、人性を担われました。
[480]
イエス・キリストは、神としてのペルソナを備えた、真の神であり、真の人でもあるかたです。それゆえ、神と人間との唯一の仲介者なのです。
[481]
イエス・キリストは神性と人性という二つの本性を持っておられます。この二つの本性は混同することなく、神の御子の唯一のペルソナのうちに結合されています。
[482]
真の神、真の人であるキリストは、人間としての知性と意志とを持っておられますが、その知性と意志は、御父と聖霊と共同で持っておられる神的知性と意志とに完全に協調し、これに従属しています。
[483]
したがって、受肉は、みことばの唯一のペルソナにおける神性と人性との感嘆すべき結合の神秘です。
[484]
「時が満ちる」(ガラテヤ4∙4)こと、すなわち約束および準備段階の完了は、マリアへのお告げから始まります。マリアは、「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)いるかたを懐妊するように招かれます。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ1∙34)、とマリアは尋ねますが、「聖霊があなたにくだります」(ルカ1∙35)ということばで、それは霊の力によるものだという神からの答えがなされます。
[485]
聖霊の派遣はつねに御子の派遣と一体となっており、その派遣のわざと結ばれています123。聖霊はおとめマリアの胎内を聖化し、神の力によってマリアを懐妊させるために遣わされました。「いのちの与え主」である聖霊は、御父の永遠の御子をマリアと同じ人間性を持ったものとして宿すようにしたのです。
[486]
おとめマリアの胎内で人となられた御父のひとり子は、人として存在したその初めから、「キリスト」、すなわち聖霊によって油を注がれたかたなのです124。もっとも、このことは、羊飼い125、占星術の学者たち126、洗礼者ヨハネ127、弟子たち128へと、漸進的に明らかにされていきます。つまり、イエス・キリストの全生涯は、どのようにして「神は聖霊と力によってこのかたを油注がれた者となさ〔った〕」(使徒言行録10∙38)かを明らかにしていくものです。
[487]
カトリック教会がマリアについて信じることは、キリストについて信じることに基づいていますが、また一方では、マリアについての教会の教えが、キリストへの教会の信仰を解明していきます。
[488]
「神は御子をお遣わしになりました」(ガラテヤ4∙4)。しかし、その「からだを備えるため」
129に、神は一人の女性の自由な協力を望まれました。そのため、永遠から、神は御子の母として一人のイスラエルの娘、ガリラヤのナザレに住む「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ、その名はマリア」(ルカ1∙26-27)というユダヤ人の娘を選んでおられました。
「あわれみの父は、女が死への役割を持ったと同様に女が生命への役割を持つようにと、母として予定された婦人の承諾が受肉に先だつことを望まれました」130。
[489]
旧約の時代を通して、マリアの使命は聖女たちの使命によって準備されていました。まず、エバがいます。不従順の罪を犯しはしましたが、悪魔に打ちかつ子孫の約束131と、生きとし生けるものの母となる約束132とを受けます。この約束のおかげで、サラは高齢にもかかわらず、一人の息子を宿します133。あらゆる人間的な期待に反して、神はご自分の約束に対する忠実さを示すため、無力で、弱者とみなされていた女たち、サムエルの母ハンナ134、デボラ、ルツ、ユディト、エステル、その他多くの女性を選ばれます135。マリアは、「主の謙虚な貧しい人々、すなわち信頼をもって主から救いを希望しそれを受ける人々の中で、……とくに秀でています。……ついにこの婦人すなわち卓越したシオンの娘とともに、約束に対する長い待望の時期が終わり、時が満ちて新しい計営(救いの営み)が始まります」136。
[490]
救い主の母となるため、マリアは「これほどの任務にふさわしいたまものを神からいただきました」137。天使ガブリエルはお告げのときに、「恵まれたかた」とあいさつしています138。マリアは、使命を告げられてこれに信仰によって自由に同意できるには、神の恵みに満たされていなければなりませんでした。
[491]
時の流れとともに、教会は神の「恵みに満たされた」
139マリアがその母の胎内に懐妊された瞬間からあがなわれていたことを明らかに知るようになりました。教皇ピオ9世によって 1854 年に宣言された無原罪の宿りについての教義が、これを告白しています。
「人類の救い主キリスト・イエスの功績を考慮して、処女マリアは、全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから、前もって保護されていました」140。
[492]
マリアが「ご自分の御やどりの最初の瞬間から」飾られていた「まったく特別な聖性の輝き」141は、全面的にキリストに由来するものです。マリアは「子の功徳が考慮されて格別崇高なるしかたであがなわれ」142たのです。御父は他のいかなる人間にもまして、マリアを「キリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(エフェソ1∙3)。「天地創造の前に」神は、マリアを「愛して、ご自分の前で」聖なる者、汚れない者にしようと、「キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1∙4)。
[493]
東方教会の教父たちは、神の母を「まったく聖なる者」(パナギアンΠαναγίαν)と呼び、「聖霊によって造られ、新しい被造物に形成された者、あらゆる罪の汚れを免れた者」143として祝います。神の恵みにより、マリアはその全生涯にわたって自分で罪を犯すことはまったくありませんでした。
[494]
男を知らずに聖霊の力によって「いと高きかたの子」を産むという告知を受けて
144、マリアは神にできないことは何一つないことを確信し、「信仰による従順」
145によって、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」と答えました(ルカ1∙37-38)。こうしてマリアは、神のことばに同意してイエスの母となり、いかなる罪にも妨げられることなく、神の救済のみ旨を心から受託し、神の恩恵によって、子から出て子とともにあるあがないの神秘に仕えるために、子とその働きに完全に自分をささげたのです
146。
「聖イレネオがいっているとおり、マリアは『従順によって、自分と全人類にとって救いの原因となった』147のです。このために少なからざる古代の教父は……、『エバの不従順のもつれがマリアの従順によって解かれ、処女エバが不信仰によって縛ったものを、処女マリアが信仰によって解いた』148と好んで説いています。そしてエバと比較して、マリアを『生ける者の母』と呼び、『エバによって死、マリアによって生命』としばしば述べています」149。
[495]
福音書で「イエスの母」(ヨハネ2∙1、19∙25)と呼ばれている150マリアは、その子の誕生前からすでに、聖霊に促されたエリザベトから、「わたしの主のお母さま」(ルカ1∙43)と呼ばれています。実に、聖霊によってマリアに宿り、肉によって真にマリアの子となられたかたは、ほかならぬ御父の永遠の御子、聖三位の第二のペルソナです。教会は、マリアが真に神の母(テオトコスΘεοτόκος)であると公言します151。
[496]
教会は、信条作成の当初から
152、イエスが聖霊の力のみによっておとめマリアの胎内に宿られたと公言し、この出来事の肉体的な面について言及して、イエスは「精子なしに、聖霊によって」
153身ごもられたと断言しています。教父たちは処女受胎を、まことに神の御子がわたしたちと同じ人間として来られたことのしるしとみなしています。
アンチオケの聖イグナチオ(2世紀初頭)は、こう述べています。「皆さんがわたしたちの主について深く確信しているように、主は肉によれば154、まことにダビデの子孫として生まれ、神の意志と力によれば155、神の御子であり、まことにおとめからお生まれ……になりました。主は、わたしたちのためにポンティオ・ピラト……のもとで、わたしたちのために肉においてまことに十字架につけられました。主はまことに苦しみを受け、まことに復活されました」156。
[497]
福音書の物語は157処女受胎を、人間のあらゆる理解、能力を超える神のわざとして158受け取っています。天使はヨセフに、そのいいなずけのマリアのことについて、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1∙20)と告げました。教会はこれを、預言者イザヤを通して与えられた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(イザヤ7∙14⸺マタイ1∙23に引用されているギリシア語訳による)という神の約束の実現とみなしています。
[498]
マルコ福音書と新約聖書の書簡とがマリアの処女受胎について語っていないのを見て、当惑する人がいました。また、もしかするとこれは、史実を主張することを意図しない伝説ないし神学的説明にすぎないのではないかと考える人もいました。この問題には次のように答えるべきです。イエスが処女受胎によって生まれたという信仰は、当時のユダヤ教徒や異教徒の側からの激しい反対、嘲笑、または無理解に出合いました159。この信仰は異教徒の神話に影響されたのでもなければ、時代の考えに順応して形づくられたものでもありません。この出来事の意味を把握するには、「諸神秘の相互関係」160の中での、つまり、受肉から復活に至るまでのキリストの諸神秘の全体の中での、この位置づけを眺める信仰が必要です。アンチオケの聖イグナチオは、すでにこの相互関係を明らかにしています。「この世の支配者は、マリアの処女性とその出産、また主の死を知りませんでした。これらは、神の沈黙のうちに実現された、高々と宣言すべき三つの神秘なのです」161。
[499]
教会は、処女である母への信仰を深めるにつれ、マリアは人となられた神の御子を産んだときをも含めて162、真に終生の処女性を保たれた163と公言するに至りました。事実、キリストの誕生は、「母の完全な処女性を傷つけることなくかえって聖化しました」164。教会の典礼は、マリアを「終生の処女(アエイパルテノスἀειπαρθένος)」としてたたえます165。
[500]
これに対し、聖書はイエスの兄弟姉妹について語っているではないか、という反対の声が上がります166。教会はつねに、このようなくだりはおとめマリアの他の子供を指しているのではない、と受け止めてきました。聖書によれば、「イエスの兄弟」(マタイ13∙55)と呼ばれるヤコブとヨセフは、明らかに「もう一人のマリア」(マタイ28∙1)と呼ばれているキリストの弟子マリアの息子たちです167。イエスの兄弟姉妹と呼ばれている人々は、イエスの近親なのです。旧約聖書では、近親はしばしば兄弟か姉妹と呼ばれています168。
[501]
イエスはマリアのひとり子です。しかし、マリアは霊的な意味で、イエスが救いに来られたすべての人の母です169。「マリアは子を生み、神はその子を多くの兄弟、すなわち信者たちの長子(ローマ8∙29)とされました。マリアはこの兄弟たちを生み育てるために母の愛をもって協力されます」170。
[502]
神は救いの計画の中で、なぜ御子がおとめから生まれるよう定められたのでしょう。信仰の目は、啓示全体と関係づけながら、この神秘の理由を見いだすことができるのです。これらの理由は、キリストご自身にも、そのあがないをもたらす派遣にも、また、マリアがすべての人のためにこのキリストの派遣を受諾したことにもかかわっています。
[503]
マリアの処女性は、神のみが御子を受肉させてくださったことを示します。イエスの父は神だけです171。イエスは「人性をとったからといって、決して御父から離れることはありませんでした。……神性においては本性上御父の御子であり、人性においては本性上その母の子ですが、二つの本性においてまさしく神の御子なのです」172。
[504]
イエスが聖霊によっておとめマリアの胎内に宿られたのは、新しい創造を始める新しいアダムだからです173。「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です」(一コリント15∙47)。キリストの人性は、身ごもられたときから、聖霊に満たされていました。神がイエスに「霊を限りなくお与えになるから」(ヨハネ3∙34)です。わたしたちは、あがなわれた人類の頭であるかた174が持つ「満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1∙16)のです。
[505]
新しいアダムであるイエスは、処女受胎によって生まれることによって、信仰により聖霊において神の子らとされる人々の新しい誕生の発端となられます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ1∙34)175。神のいのちにあずかることは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神による」(ヨハネ1∙13)ものです。このいのちは処女の状態で受け取ることになります。なぜなら、それはまったく霊によって人間に与えられるからです。人間が神に召されるのは、神の花嫁になるようなものです176。このことはマリアがおとめのままで母となられたことにおいて完全に実現したのです。
[506]
マリアは、処女性のしるしである少しも疑いの曇りのない信仰177と神のみ旨への純粋な自己奉献178という特質を備えているという意味で、処女です。信仰によってこそ、マリアは救い主の母となることができました。「マリアが幸いなのは、キリストの肉体を宿したからよりも、キリストへの信仰を自分のものとしたからなのです」179。
[507]
マリアはまた、教会の象徴であり、それを完璧に実現しているという意味で、処女でもあり、母でもあります180。「教会は信仰をもって受け入れた神のことばを通して、自らもまた母となります。事実、教会は、宣教と洗礼をもって、聖霊によって懐胎されて神から生まれた子供たちを、新しい不死の生命に生むからです。教会はまた処女でもあります。すなわち花婿に誓った忠実を清く完全に守るからです」181。
[508]
神はエバの子孫の中から、御子の母としておとめマリアを選ばれました。「恵みに満ちた」マリアは、「あがないのもっとも優れた実」です182。マリアは、母の胎内に宿った最初の瞬間から原罪のいささかの汚れも受けず、自分で罪を犯すことも生涯にわたってまったくありませんでした。
[509]
マリアは、まことに「神の母」です。人となられた神の永遠の御子の母だからです。この御子ご自身、神であられます。
[510]
マリアは「御子を懐妊したときも産んだときも処女であり、妊娠中もその乳房をもって育てたときも、終生処女のままでした」183。マリアの全存在が「主のはしため」(ルカ1∙38)なのです。
[511]
おとめマリアは「自由な信仰と従順をもって、人類の救いに協力しました」184。マリアは「全人類の名において」185同意しました。その従順によって、生けるものの母、新しいエバとなりました。
[512]
信条がキリストの生涯に関して述べているのは、ただ受肉(受胎と誕生)と過越(受難、十字架刑、死、埋葬、死者のもとに下ったこと、復活、昇天)の神秘についてです。ナザレでのイエスの生活と宣教活動を開始されてからの生活の諸神秘については、明白には何も語っていません。しかし、イエスの受肉と過越に関する信仰箇条は、キリストの地上の生活のすべてを解明します。「イエスが行い、また教え始めてから、……天に上げられた日までのすべてのこと」(使徒言行録1∙1-2)は、降誕と過越との神秘に照らして見なければなりません。
[513]
カテケージスは、状況に従ってイエスの神秘のすべての富を展開します。ここでは、まずキリストの生涯のあらゆる神秘に共通な幾つかの要素(1)を示し、次に、イエスのナザレでの生活(2)と宣教活動が開始されてからの生活(3)におけるおもな神秘を概説するにとどめます。
[514]
福音書には、イエスについて人々の好奇心を満たすようなことがらは多く描かれてはいません。ナザレでの生活についてはほとんど何も語られていませんし、宣教活動が始まってからの生活の大部分すら伝えられていません186。福音書に書かれているのは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によりいのちを受けるため」(ヨハネ20∙31)に必要なことだけです。
[515]
福音書は、最初に信仰を持ち187、それを他の人々にも分かち与えたいと望んだ人々のうちの幾人かによって記されました。この人々はイエスがどのようなかたであるかを信仰によって知ったので、イエスの生活全体のひとこまひとこまにその神秘の痕跡を見、また人々に知らせることができたのです。誕生の際の産着188から受難の際の酢189、復活の際の亜麻布190に至るまで、イエスの生涯のすべてはその神秘のしるしです。イエスはご自分の態度、奇跡、ことばを通して、「〔ご自分〕のうちに」、「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)いることを明らかにされました。したがって、イエスの人性は「秘跡」として、すなわち、神性とご自分がもたらされる救いのしるし、および道具として現れています。この世のイエスの生涯において目にすることができたことがらは、イエスご自身が神の御子であり、あがないの使命をお持ちだという、見えない神秘に導くものでした。
[516]
キリストの全生涯は御父を啓示するものです。そのことば、行い、沈黙、苦しみ、生き方、話し方、すべてがそうです。イエスは「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14∙9)ということができました。そして御父は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9∙35)とおおせになりました。キリストは御父のみ旨を果たすために人となられたので191、その神秘のどんなにささいなものであっても、わたしたちへの神の愛192を表しているのです。
[517]
キリストの全生涯はあがないの神秘です。あがないはなによりもまず十字架の血によるものですが193、この神秘はキリストの全生涯において行われています。すなわち、すでに受肉に際しては自ら貧しい者となられ、その貧しさによってわたしたちを富める者となさいました194。ナザレでの生活の間にはその従順によって195わたしたちの不従順を償われ、ことばによって聴衆を清め196、治癒と悪魔払いによって「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担われ」(マタイ8∙17)197、復活によってわたしたちを義としてくださいました198。
[518]
キリストの全生涯は
統合の神秘です。イエスが行い、語り、苦しまれたことの一つ一つが、堕罪の人間を最初の状態に修復することを目的としていました。
「神の御子は、受肉し人となられたとき、ご自分のうちに人間の長い歴史を統合され、わたしたちの救いを成就されました。その結果、わたしたちがアダムにおいて失っていたもの、すなわち、神の似姿、神のかたどりであることも、キリスト・イエスによって回復されたのです」199。「キリストがご自分の人生のひとときひとときを通して生きられたのは、そのためでした。そうすることによって、キリストはすべての人間を神との交わりに戻してくださいました」200。
[519]
キリストのあらゆる富は「すべての人間に提供され、すべての人間のものとなります」201。キリストはご自分の生涯を自らのためではなく、わたしたちのために生きられました。「わたしたち人間のため、わたしたちの救いのため」202に人となられたときから、「わたしたちの罪のために」(一コリント15∙3)死なれ、「わたしたちが義とされるために」(ローマ4∙25)復活されるまでそうだったのです。そして今もなお、キリストは「御父のもとで」(一ヨハネ2∙1)わたしたちの弁護者であり、「つねに生きていて」、わたしたちのために「執り成して」(ヘブライ7∙25)おられます。キリストは、永遠に価値あるものとしてその生涯中にわたしたちのためにただ一度行い、甘受したすべてのことがらを携えて、いつも「わたしたちのために神のみ前に」(ヘブライ9∙24)とどまっておられます。
[520]
イエスはご自分の全生涯をわたしたちの模範となさいました203。イエスは「完全な人間」204であり、わたしたちが弟子となり、ご自分の後に従うよう促しておられます。自ら身を低くされることによってわたしたちに倣うべき模範を示し205、その祈りによって祈りに招き206、貧しさによっては貧しさと迫害を自由に受け入れるように招いておられます207。
[521]
キリストの全生活は、わたしたちが
ご自分とともにそれを生き、ご自分が
わたしたちとともにそれを生きることができるようにするためのものでした。「神の子は受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」
208のです。わたしたちはキリストと一体となるように召されています。ですから、わたしたちのために模範として生きられたキリストの全生涯に、その肢体であるわたしたちは一致することができるのです。
「わたしたちは、イエスのさまざまな状態と神秘を自分のうちに継続し、成就し、また、イエスがこれらをわたしたちと教会全体のうちにあって完成し、成就してくださるよう祈らなければなりません。……神の御子はわたしたちと教会全体をご自分の神秘にあずからせ、これらを延長させ継続させる意図をお持ちですが、わたしたちに分け与えたいと望まれる恵みと、御子の神秘がわたしたちのうちに生じさせてくれる効果とによって、それが可能となります。イエスはこのようにして、わたしたちのうちにご自分の神秘を成就したいと望んでおられるのです」209。
[522]
神の御子が地上に来られたことは重大な出来事でしたので、神は幾世紀にもわたってそれを準備なさいました。「最初の契約」210に見られる祭儀とささげ物、前表と象徴などを、キリストへ向かうように仕向けられました。さらに神は、イスラエルに相次いで起こった預言者たちの口を通して、キリストを告げられました。そのうえ、異邦人の心のうちにもキリストの到来へのおぼろげな期待を抱かせました。
[523]
洗礼者聖ヨハネはキリストの直前の先駆者として211、道を備えるために神によって遣わされた者です212。「いと高き方の預言者」(ルカ1∙76)であるヨハネは、すべての預言者にまさる213、最後の預言者であり214、福音の端緒となり215、母の胎内ですでにキリストの到来を迎え216、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)と呼ぶ「花婿」(ヨハネ3∙29)であるイエスの「友」であることを喜んでいます。「エリヤの霊と力で」(ルカ1∙17)イエスに先だち、説教と悔い改めの洗礼、ついには、殉教によってイエスをあかししました217。
[524]
教会は毎年、待降節の典礼を行いながら、メシアへの待望を再現します。キリスト者は救い主の最初の来臨に向かう長期の準備に心を合わせながら、再臨への熱い待望を新たにするのです218。先駆者の誕生と殉教を祝うことで、教会は、「あのかたは栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3∙30)というヨハネの願望を自分のものとします。
[525]
イエスは貧しい家族の一員として、家畜小屋の貧しい環境の中でお生まれになりました
219。ただの羊飼いたちが、この出来事の最初の証人です。しかも、この貧しさのうちに、天の栄光が現れました
220。教会は、この夜の栄光を飽かずに歌い続けます。
「今日、おとめが永遠なるかたを産み
地は近づきがたいかたに洞穴をささげ
天使と羊飼いは彼をたたえ
博士たちは星を仰いで進む。
ああ、わたしたちのためにお生まれになった、
幼子よ、永遠の神よ」221。
[526]
神に対して「幼子のようになること」は、天の国に入る条件です
222。そのためには、へりくだって
223幼子となる必要があります。さらにまた、神の子となるには
224、神によって
225、「新たに生まれる」(ヨハネ3∙7)必要があるのです。降誕の神秘がわたしたちのうちに成就するのは、キリストがわたしたちのうちに形づくられるときです
226。降誕は、この「驚嘆すべき交換」の神秘です。
「ああ、驚嘆すべき交換よ!人類の創造主は生きた肉体をとっておとめから生まれ、男を介せずに人となり、わたしたちにその神性を贈られた。」227
[527]
イエスが誕生八日目に受けられた割礼は228、イエスがアブラハムの子孫、契約の民の一員となり、律法に従い229、イスラエルの民の礼拝を行うように派遣されたしるしです。イエスは実際に、生涯中この礼拝に加わられました。このしるしは、洗礼という「キリストの割礼」の前表です230。
[528]
公現は、イエスがイスラエルのメシア、神の御子、世の救い主であることを表すものです。公現の祝日は、イエスのヨルダン川での洗礼やカナの婚礼231という事実にも気をとめながら、占星術の学者たちが東方から訪れてイエスを礼拝したことを記念します232。周辺の異教徒たちを代表するこの「占星術の学者たち」のうちに、福音書は、受肉による救いの福音を歓迎する諸国民の初穂を見ています。占星術の学者たちはユダヤ人の王を拝むために233やって来ました。彼らのエルサレム訪問は、ダビデの星であるメシアの光に導かれて234、諸国の王となるかた235をイスラエルに求めていることを表しています。この訪問は、異教徒がユダヤ人に目を向け236、彼らから旧約聖書に記されたメシアについての約束を受け入れないかぎり、イエスを見いだし、彼を神の御子、世の救い主として礼拝できないことを示しています237。公現は、数多くの異教徒が族長たちの家族に加わり238、「アブラハムの子孫に約束された栄光」239をかちえることを表しているのです。
[529]
イエスの神殿での奉献は240、イエスが主に属する初子であることを示します241。シメオンとアンナは、全イスラエルの待望を込めて、ビザンチンの伝統がそう呼んできた救い主の出迎えを行っているのです。このときイエスは、待望のメシア、「異邦人を照らす光」、「イスラエルの誉れ」とたたえられ、同時に、「反対を受けるしるし」であると告げられました。マリアに予告された苦しみの剣は、神が「万民のために整えてくださった」救いをもたらす十字架の、もう一つの、完全で、比類のない奉献を告げるものです。
[530]
エジプトへの避難とえい児の殺害は242、光に逆らうやみの対立を表しています。「みことばはご自分の民のところへ来られたが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1∙11)のです。キリストの全生涯は迫害の連続でした。弟子たちもキリストとともに迫害を受けます243。イエスのエジプトからの帰国は244かつての「エジプト脱出」を想起させ245、イエスを決定的な解放者として表すものです。
[531]
イエスは生涯の大半を、大多数の人と同じ境遇を分かち合われました。平凡な日常生活、手仕事の生活、神の律法に従ったユダヤ人の宗教生活246、地域の人たちとの生活など。この時期の全体について、わたしたちに啓示されているのは、イエスが両親に仕え247、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2∙52)ということだけです。
[532]
イエスは母マリアと養父ヨセフとに服従することによって、十戒の第四戒をまっとうされました。これは、天の御父に対する子としての従順を地上で表すしるしです。イエスが毎日マリアとヨセフに仕えられたことは、ゲツセマネの園での「わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ22∙42)という祈りに見られる従順の前表であり、先取りなのです。キリストは、ナザレでの日常生活における従順により、アダムの不従順によって破壊されたものの再建をすでに始めておられたのです248。
[533]
ナザレでの生活は、だれもがきわめて日常的な道を通してイエスに結ばれることが可能であることを教えます。
「ナザレは、わたしたちがイエスの生涯が初めてわかるようになる所です。福音を学ぶ所です。……まずそれは沈黙の教訓です。この大切な、欠いてはならない精神の状態、沈黙をもう一度評価し直したいものです。……第二は家庭生活の教訓です。このナザレが家庭、その愛の共同体、その簡潔で単純な美しさ、聖にして侵すことのできない家庭生活の特質を教えてくれますように。……第三は労働の教訓です。ナザレは大工の息子の家でした。ここでわたしは、労働が人間にとっては厳しくても、あがないの力を備えたおきてであることを理解し、ほめたたえたいのです。……終わりにあたり、このナザレから全世界の労働者の皆さんに挨拶を送るとともに、皆さんの偉大な模範であり兄弟であるかた、皆さんの正しい願望を宣言する預言者であるイエス・キリストの姿をお見せしたいと思います」249。
[534]
マリアとヨセフがエルサレムの神殿でイエスを見つけたという事件は250、福音書がイエスの少年時代について沈黙を破るただ一つの出来事です。ここでイエスは、ご自分が神の子であることから生じる使命に全面的にささげられているという神秘をかいま見せられました。マリアとヨセフは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」ということばの「意味が分からなかった」にもかかわらず、信仰によってこれを受け入れ、マリアはイエスが静かに平凡な生活にうずもれておられた間、片時も忘れることなく、「これらのことをすべて、大切に心に納めて」おられました。
[535]
イエスの公生活の始まりは251、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになったときです252。ヨハネは、「罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼」(ルカ3∙3)をのべ伝えていました。おびただしい罪びと、徴税人、兵士253、ファリサイ派、サドカイ派の人々254、娼婦たち255などがやって来て、ヨハネから洗礼を受けました。「そのとき、イエスが来られた」のです。洗礼者ヨハネはためらいますが、イエスは願い続けて、洗礼を受けられました。そのとき、聖霊がはとの形でイエスの上にくだり、「これはわたしの愛する子」(マタイ3∙13-17)と宣言する、天からの声がします。これはイエスを、イスラエルのメシア、神の御子として現す出来事(「公現」)でした。
[536]
イエスの側からすると、その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾であり、その開始でもあります。イエスは罪びとの列に加わります256。イエスはすでに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)であり、はや、流血の死の「洗礼」を先取りしておられます257。御父のみ旨に余すところなく従い、わたしたちの罪のゆるしのため死の洗礼に愛をもって同意することで258、すでに「正しいことをすべて」(マタイ3∙15)行っておられます。イエスの受諾にこたえて、御父からの声があり、御子がご自分の心にかなう者であることを示されます259。受胎のときからイエスを満たしていた聖霊が彼の上にくだり、「とどまります」260。イエスは全人類のために霊の泉となるのです。洗礼の際、アダムの罪が閉ざしていた「天がイエスに向かって開いた」(マタイ3∙16)のです。イエスが水に入り、霊がくだることによって水は聖化されます。これは新しい創造の前触れです。
[537]
イエスはご自分の洗礼において、その死と復活とを先取りされました。キリスト者は洗礼の秘跡によってこのイエスに同化されます。キリスト者はこのへりくだりと悔い改めの神秘にあずかり、イエスとともに水に下らなければなりません。それは、イエスとともに水から上がり、水と霊によって再生し、御子において神の愛する子となり、「新しいいのちに生きる」(ローマ6∙4)ためです。
「洗礼によってキリストとともに葬られましょう。キリストとともに復活するために。キリストとともに下りましょう。キリストとともに上げられるために。キリストとともに上がりましょう。キリストにおいて栄光を受けるために」261。
「キリストの上に起こったすべてのことは、洗礼の後に」わたしたちの上にも起こったのです。すなわち「聖霊が天からわたしたちの上にくだり、天の栄光の塗油が行われ、御父の声によって、神の子とされたのです」262。
[538]
福音書は、イエスはヨハネから洗礼を受けられた直後、一時、荒れ野で一人過ごされたといっています。「霊によって荒れ野に送り出された」イエスは、四十日間食を断ってそこにとどまります。その間、野獣とともに暮らし、天使たちはイエスに仕えました263。この期間の終わりに、サタンがイエスを三度試み、神への孝心を試練にかけようとします。それは、楽園でのアダム、荒れ野のイスラエルの民が受けたすべての誘惑を凝縮した攻撃でした。イエスが誘惑を退けられると、悪魔は「時が来るまで」(ルカ4∙13)イエスを離れます。
[539]
福音記者は、この神秘な出来事の救済史的な意味を教えています。最初のアダムが誘惑に屈したのに対して、新しいアダムであるイエスは、最後まで忠実を貫きました。イエスはイスラエルの民の召命を完遂なさいます。かつて荒れ野で四十年の間神を挑発していた民264とは反対に、キリストはご自分が神のみ旨にまったく従順な神のしもべであることを表されました。こうして、イエスは悪魔に打ちかたれたのです。イエスは強い者を縛り上げて、彼が略奪したものを奪い返しました265。荒れ野での誘惑者に対するイエスの勝利は、御父への子としての愛による至高な従順の表れである受難の勝利を先取りするものです。
[540]
誘惑に対するイエスの対応は神の御子のメシアとしてのあり方を示していますが、それはサタンがイエスにもちかけたこと、人々がメシアに期待したこととは266正反対のものです。こうして、キリストはわたしたちのために誘惑者に対して勝利を収められたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4∙15)。教会は、毎年、四旬節の四十日間を通して、荒れ野でのイエスの神秘に心を合わせます。
[541]
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』といわれた」(マルコ1∙14-15)。「キリストは父のみ旨を果たすために、地上に天の国を開始されました」267。ところで、御父のみ旨とは、「人々を神のいのちにあずかるよう高めること」268にあります。御父は御子イエス・キリストの周りに人々を集めて、これを実現されます。この集まりが教会であり、教会は地上における神の国の「芽生えと開始」269なのです。
[542]
キリストは「神の家族」として集う人々の中心を占めておられます。ことばと、神の支配を表す奇跡と、弟子たちの派遣とによって、人々をご自分の周りに招集されます。キリストは神の国の到来を、とくに、十字架上の死と復活という偉大な過越の神秘によって実現されました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12∙32)。すべての人はキリストと一つになるよう招かれています270。
[543]
あらゆる人が、神の国に入るように招かれています。このメシア的神の国は、まずイスラエルの民族に告げられましたが
271、すべての国の人を迎え入れるよう定められたものです
272。神の国に入るには、イエスのことばを受け入れなければなりません。
「主のおことばは、畑にまかれた種と比べられます。信仰をもって主のことばを聞き、キリストの小さな群れの中に数えられる者は、神の国そのものを受けたのです。それから種は自らの力で芽生え、収穫のときまで成長します」273。
[544]
神の国は貧しい人々と小さい人々、すなわち、謙虚な心でこれを迎える人たちのものです。イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4∙18)遣わされました274。イエスはこのような人々は幸いだと言明されます。「天の国はその人たちのもの」(マタイ5∙3)だからです。御父は、知恵ある者や賢い者には隠されていることを、これらの「小さな人々」にこそ示されるのです275。イエスは、ベツレヘムの飼い葉桶から十字架に至るまで、貧しい人々の生活を体験されました。飢え276、渇き277、貧窮278を経験されます。なおそのうえに、ご自分をすべての貧しい人々の立場に置き、こうした人たちへの積極的な愛を神の国に入るための条件となさいました279。
[545]
イエスは罪びとを神の国の食卓に招かれます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マルコ2∙17)280。イエスは罪びとに回心を促されますが、これなしには神の国に入ることができないからです。しかし、罪びとへの御父の限りない慈悲と281、「悔い改める一人の罪びとについて〔の〕天にある大きな喜び」(ルカ15∙7)をも、ことばと行いによって示されました。この愛の至高のあかしは、「罪がゆるされるように」(マタイ26∙28)ご自分のいのちを犠牲にされたことにあります。
[546]
イエスは、たとえ話を通して、神の国に入るよう促しておられます282。これはイエスの教えの特徴でした。たとえ話を用いて人々を神の国の祝宴に招き283、同時に、根源的な選択を迫ります。すなわち、み国を得るためには、すべてを捨てなければなりません284。ことばだけではなく、行動が要求されます285。イエスのたとえ話は、人間にとっては鏡のようなものです。人は、イエスのことばを固い土のように受け入れるか、それともよい土のように受け入れるか286、いただいたタラントンで何をするのか287、と問われます。イエスとこの世における神の国とが、それとなくたとえ話の核心に隠されています。「天の国の秘密」(マタイ13∙11)を悟るには、神の国に入ること、つまり、キリストの弟子となることが必要です。「外」にいる人々(マルコ4∙11)には、すべてがなぞのままです288。
[547]
イエスのことばには数多くの「奇跡と、不思議なわざと、しるし」(使徒言行録2∙22)が伴い、神の国がイエスのうちに到来していることを明らかにします。これらは、イエスが預言されたメシアであることを示します289。
[548]
イエスが行われた奇跡は、イエスが御父から遣わされたことを示し290、イエスを信じるよう促します291。イエスは信仰をもって訴える人々の願いをかなえられます292。そのとき、奇跡は御父のわざを行われるイエスへの信仰を強め、イエスが神の御子であることを明らかにします293。しかし、奇跡はまた、つまずきのもとともなりうるのです294。奇跡は、人々の好奇心や魔力を見たい望みを満たすものではありません。きわめて明白な奇跡を行っているにもかかわらず、イエスはある人たちから排斥され295、これらは悪魔によるものであるととがめられさえします296。
[549]
イエスは、ある人々を飢え297、不正義298、病気、死299など、この世の不幸から解放することによって、メシアとしてのしるしを示されました。しかし、イエスが来られたのはこの世のあらゆる不幸をなくすためではなく300、もっとも重大な隷属、すなわち、罪の奴隷の状態から人々を解放するためでした301。罪は神の子らとしての召命を妨げ、ありとあらゆる人間的束縛の原因となるのです。
[550]
神の国の到来はサタンの支配の破滅を意味します302。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(マタイ12∙28)。イエスの悪魔払いは、人々を悪霊の支配から解放します303。これは、「この世の支配者」304に対するイエスの大勝利を先取りするものでした。神の国はキリストの十字架によって決定的に打ち建てられます。「神は木の上から支配されました」305。
[551]
公生活の初めから、イエスはご自分のそばに置くため、また、ご自分の使命に参加させるために、十二人をお選びになりました
306。そして、ご自分の権限に参与させ、「神の国をのべ伝え、病人をいやすために遣わ」(ルカ9∙2)されます。彼らはいつまでも、キリストのみ国の協力者となります。キリストが彼らを通して教会を導かれるからです。
「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いをともにし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22∙29-30)。
[552]
十二人の使徒団の中で、シモン・ペトロが首位を占めます307。イエスはペトロに特別な使命をおゆだねになりました。御父からの啓示を受けて、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16∙16)と宣言しました。それで、キリストはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16∙18)と宣言されました。「生きた石」308であるキリストは、ペトロの上に建てられた教会に死の力に対する勝利を保証なさいます。ペトロは自ら告白した信仰のゆえに、教会の揺るがない岩となります。ペトロは、この信仰がなくならないように守り、兄弟たちの信仰を固める使命を受けます309。
[553]
イエスはペトロに、「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16∙19)といって、特別な権限をおゆだねになりました。「かぎの権能」は、教会という神の家を治めるための権威を意味します。「よい羊飼い」(ヨハネ10∙11)であるイエスは復活された後に、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21∙15-17)といって、ペトロのこの任務を追認されました。「つなぎ、解く」権能は、罪をゆるし、教義上の判断を下し、教会の規律に関する決定を行う権威を意味します。イエスはこの権威を、使徒たちの奉仕の務め310、とくに、ペトロの奉仕の務めを通して教会におゆだねになりました。そしてこのペトロだけには明白に天の国のかぎをゆだねられました。
[554]
ペトロが、イエスをメシア、生ける神の子であると告白したときから、イエスは「ご自分が必ずエルサレムに行って、……苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められ」(マタイ16∙21)ました。ペトロはこのことばを受け入れず311、他の弟子たちもこのことばを理解できませんでした312。これを背景にして、イエスの変容という神秘的な出来事が語られています313。変容はある高い山の上で、イエスが選んだ三人の目撃者、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの前で行われました。イエスの顔と衣服はまばゆいばかりに輝き、モーセとエリヤが現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話して」(ルカ9∙31)いました。三人は雲に覆われ、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9∙35)という声が天から聞こえました。
[555]
つかの間、イエスは神的栄光を示し、ペトロの信仰告白を裏づけられました。イエスはまた、「栄光に入る」(ルカ24∙26)には、エルサレムで十字架を経なければならないことを示されます。かつて、モーセとエリヤは山上で神の栄光を見、律法と預言者たちはメシアの苦しみを予告しました
314。イエスの受難は御父のみ心によるものであり、御子は神のしもべとして行動なさいます
315。雲は聖霊が臨んでおられることを示します。「聖三位の三者がそろって現れました。御父は声のうちに、御子は人間のうちに、聖霊は輝く雲のうちに」
316。
「あなたは山上で変容なさいました。弟子たちは可能な限り、神であるキリスト、あなたの栄光を見つめました。それは、弟子たちが十字架につけられたあなたを見たとき、あなたが進んで苦しみを受けられたことを悟り、あなたが真に御父の輝きであることを世に告げ知らせることができるようになるためでした」317。
[556]
公生活の始めには洗礼があり、キリストの過越の始めには変容がありました。イエスの洗礼によって、「わたしたちの第一の再生の神秘が明らかにされました」。これはわたしたちの洗礼です。変容は、わたしたちの復活である「第二の再生を示す秘跡です」
318。わたしたちはすでに今、キリストのからだの諸秘跡のうちで働かれる聖霊によって、主の復活にあずかります。変容は「わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださる」(フィリピ3∙21)キリストの栄光の再臨を、前もってわたしたちに味わわせます。しかし、それはまた、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒言行録14∙22)ことをわたしたちに想起させるものでもあります。
「ペトロは、山上でキリストとともに暮らそうと望んだときには、そのことをまだ理解していませんでした319。ペトロよ、キリストはあなたの死後のために、これをあなたにとっておかれたのです。今、キリストはこういわれます。地上で労苦し、仕え、軽蔑され、十字架につけられるために下りなさい。いのちであるかたが殺されるために下り、糧であるかたが飢えるために下り、道であるかたが途上で疲れるために下り、泉であるかたが渇くために下られました。それにもかかわらず、あなたは労苦することを拒むのですか」320。
[557]
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9∙51)321。この決断は、イエスが死を覚悟してエルサレムに上られたことを物語っています。イエスは、すでに三度、ご自分の受難と復活について予告しておられました322。そしてエルサレムに向かう途中では、「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことは、ありえない」(ルカ13∙33)と語られます。
[558]
イエスは、かつてエルサレムで殺された預言者たちの殉教のことを思い起こされます323。それにもかかわらず、「めん鳥がひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23∙37b)といって、エルサレムの人々がご自分のもとに集まるように呼び続けられるのです。エルサレムを目前にしたときには、エルサレムのために泣き324、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」(ルカ19∙42)といって、再びご自分の心の願いを表されました。
[559]
エルサレムは自分のメシアをどのように迎えたのでしょうか。いつもはご自分を王として担ぎ出そうとする民衆の手から逃れておられたイエスは325、時を選び、「〔ご自分〕の父ダビデ」(ルカ1∙32)の町にメシアとして入城する準備をこと細かになさっておられます326。イエスはダビデの子、救いをもたらす者として、歓呼の声に迎えられます(ホサナは「まず救ってください」という意味です)。「栄光に輝く王」(詩編24∙7-10)であるイエスは、「ろばに乗って」(ゼカリヤ9∙9)入城なさいます。すなわち、教会の予型であるシオンの娘エルサレムの心を、策略や暴力によってではなく、真理をあかしする謙虚さによってかちとられるのです327。ですから、この日にイエスの王権を認めるのは、子供たちや328「神における貧しい者たち」です。彼らは、天使がイエスの誕生を羊飼いたちに告げたときのように329、歓呼の声でイエスを迎えるのです。そして教会は、「祝福あれ、主の御名によって来る人に」(詩編118∙26)というこの歓呼を、キリストの過越の記念祭である感謝の祭儀の「感謝の賛歌(聖なるかな)」の中で今でも繰り返しています。
[560]
イエスのエルサレム入城は、メシアである王がその死と復活による過越を通して実現しようとなさっているみ国の到来を表します。教会はこれを枝の主日の典礼で記念し、聖週間を開始します。
[561]
まさに、「キリストの生活全体が不断の教えでした。つまり、その沈黙、奇跡、わざ、祈り、人間への愛、弱い者と貧しい者への特別な愛、人々のあがないのために引き受けた十字架上の犠牲、さらに復活そのものが、ことばの遂行であり、啓示そのものの成就です」330。
[562]
キリストの弟子たちは、自分のうちにキリストが形づくられるように、キリストに似たものとならなければなりません331。「わたしたちがキリストの生命の諸神秘のうちに摂取されるのは、わたしたちがキリストに似た姿になり、キリストとともに死に、ともに復活し、ついにはキリストとともに支配するに至るためです」332。
[563]
羊飼いや占星術の学者のように、ベツレヘムの飼い葉桶の前にひざまずき、か弱い幼子の姿に隠れた神を拝むことによって、わたしたちはこの世で神に近づくことができます。
[564]
イエスは、マリアとヨセフとに対する従順や、ナザレでの長い年月のつつましい労働を通して、家庭と労働とによって織り成される日常生活における聖性の模範を示されます。
[565]
イエスは、公生活の始めである洗礼のときから、受難の「洗礼」によって成就されるあがないのわざのために完全に奉献された「神のしもべ」です。
[566]
荒れ野での誘惑は、謙虚なメシアであるイエスが、御父の望まれる救いの計画に全面的に従われることによってサタンに打ちかたれたことを示します。
[567]
天の国は、キリストによって地上で開始されました。「この国は、キリストのことばとわざと現存によって人々の前に現れます」333。教会はその天の国の芽生え、始まりです。そのかぎはペトロにゆだねられています。
[568]
キリストの変容の目的は、受難を前にして使徒たちの信仰を強めることにありました。「高い山」に登られたのは、ゴルゴタの丘に登るための準備でした。教会の頭であるキリストは、そのからだである教会が保有し、諸秘跡の中で輝いている「栄光の希望」(コロサイ1∙27)を表されます334。
[569]
イエスは、罪びとたちの反対によって非業の死を遂げることを知りながら、進んでエルサレムに向かわれました335。
[570]
イエスのエルサレム入城は、神の国の到来を明らかにします。子供たちや謙虚な人々からご自分の町に迎えられる王であるメシアは、その死と復活という過越を通してその到来を実現されるのです。