[50]
自然理性により、人間は神をそのみわざをもとにして確実に知ることができます。しかし、人間が自らの力によっては決して到達できない別の認識次元があります。すなわち、神の啓示による認識です1。神はまったく自由な決定によってご自分を人間に啓示し、お与えになります。ご自分の神秘、すべての人間のためにキリストにおいて立てられた永遠のいつくしみ深い計画を明らかにされたのです。最愛の御子、わたしたちの主イエス・キリストと聖霊を遣わされることによって、その計画を余すところなく啓示されます。
[51]
「神はその愛と英知によって、自分を啓示し、また、託身のみことばであるキリストにより、聖霊において、人々を父に近づかせ、神性にあずからせるみ旨の神秘を明らかにしようとなさいました」2。
[52]
「近寄りがたい光の中に住まわれる」(一テモテ6∙16)神は、お望みのままに造られた人間をご自分の神的生命にあずからせ、御ひとり子においてご自分の子らにしようとしておられます3。神はご自分を啓示しながら、人間が神に応答し、自分自身の能力の限界を超えて神を知り、愛することができるようになさいました。
[53]
この啓示の計画は、「互いに密接に関連し、照らし合う行いとことばによって」
4実現されます。これには、特殊な「神の教育法」が含まれています。すなわち、神は人間にご自分を徐々に伝え、超自然的啓示を受け入れるよう、段階的に人間を準備なさいます。御自ら行われるこの啓示の頂点は、人となられたみことばであるイエス・キリストそのものならびにその派遣です。
リヨンの聖イレネオはこの神の教育法について、しばしば、神と人間が相互に慣れていくという比喩を用いて語っています。「神のみことばは人間のうちに住まわれ、人の子となられました。こうして、御父のおぼしめしのままに、神を知ることを人間に慣れさせ、人間のうちに住むことを神に慣れさせたのです」5。
[54]
「神は、ことばによって万物を造り、かつ保ち、被造物の中に自らについての恒久の証明を与え、また至高の救いへの道を開く意図をもって、初めから人類の最初の親に自分を現しました」6。神は人間を輝かしい気品と正しさで覆いながら、ご自分との親密な交わりに招かれました。
[55]
この啓示は、人祖の罪によって中断されることはありませんでした。実際、神は、「堕落後は、あがないを約して、救いの希望を抱かせました。そして忍耐をもって善を行って救いを求めるすべての人に永遠の生命を与えるべく、つねに人類のことをおもんぱかりました」
7。
「人があなたに背いて親しい交わりを失ってからも、死の国に見捨てることなく、……たびたび人と契約を結ばれました」8。
[56]
ひとたび人類の一致が罪によって分断されると、神はまず、人類を各民族ごとに救おうとしておられます。大洪水後のノアとの契約は9「国々」、すなわち、「それぞれの地に、その言語、氏族に従って」(創世記10∙5)まとめられた人々に対する神の救いの計画の原理を表します10。
[57]
多様な諸民族のこの宇宙的、社会的、宗教的な状態は11、失墜した人類の傲慢を抑えるためでした。事実、人類はその邪悪さから12バベルの塔の建築に見られるように、自力で一つになることを図りました13。しかし、罪の結果14、諸民族とその君主たちが多神教と偶像崇拝に走ることによって、この暫定的な救済計画はたえず歪曲の危険にさらされました。
[58]
ノアとの契約は諸民族の時代が続く限り15、福音が全世界に告げられるまで効力を保ちます。聖書は、これら諸民族の若干の偉大な人物に敬意を表しています。たとえば、「正しい人アベル」、キリストの前兆であった16王である祭司メルキゼデク17、正しい人々「ノア、ダニエル、ヨブ」(エゼキエル14∙14)などです。こうして、聖書は、キリストが「散らされているすべての神の子たちを一つに集める」(ヨハネ11∙52)まで、ノアの契約に従って生きる人々がどれほど高度な聖徳に達しうるかを示しているのです。
[59]
四散した人類を集めるため、神はアブラムを選び、「生まれ故郷、父の家を離れ」(創世記12∙1)るよう促されました。そして、アブラハム、すなわち、「多くの国民の父」(創世記17∙5)としました。神はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12∙3)といわれました18。
[60]
アブラハムから出た民族は族長たちになされた約束の継承者、選ばれた民19となり、いつの日か一つの教会のうちにすべての神の子が集められるまで、その準備をするよう召されました20。この民が根となり、後に信仰者となった異邦人がこれに接ぎ木されます21。
[61]
旧約時代の族長たち、預言者たちおよびその他の人物たちは、教会のすべての典礼伝統の中で聖者としてつねにあがめられてきましたし、また今後もあがめられていくはずです。
[62]
族長たちの時代の後、神はイスラエルをエジプトでの奴隷の状態から解放して、ご自分の民となさいました。神はシナイ山でこの民と契約を結び、モーセを通して、民に律法を与えられました。それは、この民がご自分を生きている真の唯一の神、摂理の父、公正な裁き主として認め、神に仕え、約束された救い主を待つようにさせるためでした22。
[63]
イスラエルは神の祭司的な民23、「主のみ名がつけられ」(申命記28∙10)た民です。「はじめに神の語りかけを受けた」24民、アブラハムの信仰に従う「兄」にあたる民です25。
[64]
預言者たちによって、神はその民のうちに救いの希望と、すべての人々にもたらされ26、心のうちに刻まれるはずの27、新しい永遠の契約への待望の心を培われます。預言者たちは神の民の根本的なあがない、民のあらゆる不忠実な行いの浄化28、すべての国の人々を含む救いを告げ知らせます29。この希望を担うのは、とくに主の貧しい人々と謙遜な人々です30。サラ、リベカ、ラケル、ミリヤム、デボラ、ハンナ、ユディト、エステルのような女性たちは、イスラエルの救いの生き生きとした希望を保ちとおしました。その中のもっとも清らかな人物がマリアです31。
[65]
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1∙1-2)。人となられた神の御子キリストは父の唯一の、完全な、決定的なことばです。キリストにおいて神はすべてを語られましたが、キリスト以後、そのほかのことばはありません。このことを、わけても十字架の聖ヨハネが、ヘブライ人への手紙1章の1から2節を注解しながら、明晰に語っています。
「神は唯一のみことばである御ひとり子をわたしたちに与えることにより、この唯一のみことばのうちにすべてを一度に話されたので、それ以上話すことはないのです。……それは、以前、預言者たちに部分的に話されたことを、ご自分のすべてである御子をわたしたちに与えることによって、神はことごとく語られたからです。したがって、今日になってもなお神に何かを尋ねたり、あるいは何かの示現や啓示を望むような人がいるなら、その人はキリストだけに目を注がず、他の何かを、また新奇なものを探すことによって、愚かじみたことをするだけではなく、神を傷つけることになるでしょう」33。
[66]
「したがってキリスト教的経綸は、新しい決定的な契約として、ついに過ぎ去ることなく、わたしたちの主イエス・キリストの栄光ある再現以前には、もはやいかなる新しい公的啓示も期待されるべきものではありません」34。しかし、たとえ啓示は完結したにしても、明白にし尽くされてはいないのです。キリスト者の信仰は、幾世紀にもわたって、それが含むすべての意義を徐々に把握していかなければなりません。
[67]
キリスト後の長い年月の間には、「私的な」といわれる啓示があって、その幾つかは教会権威から認められています。しかし、それらの啓示は、ゆだねられた信仰の遺産には属しません。それらの役割は、キリストの最終的啓示を「改善し」、「補足する」ことではなく、歴史のある時期に、キリストの啓示をより十全に生きるのを助けることにあります。信者は教会の教導権に導かれ、その信仰心によって、これらの啓示の中に、教会に向けられたキリストあるいは聖人たちの真正な呼びかけを識別し、受け入れることができます。
キリストによって完結された啓示を凌駕し、あるいは修正するものであると主張する「諸啓示」を、キリスト教信仰は承認することができません。たとえば、このような「啓示」を土台にしている幾つかのキリスト教以外の宗教、また、新興宗教の宗派がこれにあたります。
[68]
神は愛によって人間にご自分を啓示し、お与えになりました。こうして、人間が人生の意味と目的について投げかける問いに、あふれるばかりの決定的な回答を与えておられます。
[69]
神は人間に、ご自分の神秘をわざとことばを通して徐々に伝えながら、ご自分を啓示されました。
[70]
神は被造物のうちにご自分を示されますが、それ以外に、人祖にご自分を現されました。失墜の後も彼らに語り、救いを約束し35、契約を結ばれました。
[71]
神は、ご自分とすべての生きものとの間の永遠の契約をノアと結ばれました36。これは世界が存続する限り続きます。
[72]
神はアブラハムを選び、アブラハムおよびその子孫と契約を結ばれました。契約によりご自分の民を形づくり、モーセを通して律法を示し、また、預言者たちによって、全人類のための救いを受け入れる準備をさせました。
[73]
神はご自身の御子を遣わし、ご自分を余すところなく啓示され、御子のうちに永遠の契約を定められました。御子は御父の決定的なことばです。それゆえ、御子の後には、もはや他の啓示は与えられません。
[74]
神は、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2∙4)。その真理とは、キリスト・イエスのことです
37。したがって、キリストはすべての国民、すべての人に告げ知らされ、こうして、啓示が世界の隅々まで及ばなければなりません。
「神は、万民の救いのために啓示したそのことが、永久に、かつ完全に保たれ、あらゆる世代に伝えられるよう、いともやさしく取りはからわれました」38。
[75]
「主キリストは至高の神の全啓示が自らにおいて完了されるため、かつて預言者によって約束された福音を自ら実現し、かつご自分の口をもって宣布しましたが、これを救いに関するあらゆる真理と道徳の源として、すべての人にのべるよう、また彼らに神のたまものを与えるよう使徒たちに命じました」39。
[76]
主の命令に従い、福音の伝達は二つの方法で行われます。
⸺口述で。「キリストのことばを聞き、キリストとともに生活し、そのわざを目撃して知ったこと、あるいは聖霊の示唆から学んだことを説教と模範と制度をもって伝えた使徒たちによって」。
⸺書によって。「同じ聖霊の霊感により救いの知らせを書き物にした使徒たちとその周りの人たちによって上」40。
[77]
「使徒たちは、生きた完全な福音が、つねに教会に保存されるよう、司教たちを後継者として残し、彼らに『自分たちの教導職を与えました』」41。実際、「使徒的宣教は、霊感の書に特別に示されていますが、不断の継承によって世の終わりまで保たれねばなりませんでした」42。
[78]
聖霊のうちにあって遂行されるこの生きた伝達は、聖書とは異なるものとして聖伝と呼ばれます。いうまでもなく、この聖伝は聖書と密接に結びついています。この聖伝により、「教会は、その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままのすべてと、信じることのすべてを永続させ、あらゆる世代に伝えるのです」43。「聖なる教父たちのことばは、聖伝のこの活力的な現存を証明するもので、その富は信じかつ祈る教会の慣行と生活に注ぎ込まれています」44。
[79]
こうして、御父がみことばによって、聖霊のうちに、ご自分についてお知らせになったことは、教会の中に現存し、働き続けています。「かつて語った神は、不断に愛する御子の浄配と語らい、福音の生きた声は聖霊によって教会に、また教会によって世界に響き渡り、そして聖霊は、信じる者をすべての真理に導き、彼らのうちにキリストのことばを豊かに宿らせるのです」45。
[80]
「聖伝と聖書とは互いに固く結ばれ、互いに共通するものがあります。なぜならば、どちらも同一の神的起原を持ち、ある程度一体をなし、同一の目的を指している」46からです。どちらも、「世の終わりまで、いつも」(マタイ28∙20)弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるものです。
[81]
「聖書は、聖霊の霊感によって書かれたものとしての神のことばです」。「聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばを余すところなくその後継者に伝え、後継者たちは、真理の霊の導きのもとに、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものです」47。
[82]
したがって、啓示の伝達と解釈をゆだねられた教会が、「啓示されたすべてのことについて自分の確信を得るにあたって、聖書だけに頼らないのはそのためです。それゆえ、どちらも同じ敬謙と敬意をもって尊敬されるべきものです」48。
[83]
ここで述べられている聖伝は使徒たちに由来するもので、使徒たちがイエスの教えと模範から受けたことと、聖霊によって学んだこととを伝えます。実際、初代のキリスト信者はまだ書としての新約聖書を持っていませんでしたし、新約聖書そのものが、生きた伝承の形成の次第を示しています。
地方教会では時とともに、神学、おきて、典礼、あるいは信心上の「諸伝承」が生まれました。これらと上述の聖伝とは区別されなければなりません。諸伝承は、個々の様式を持っているので、その中から、異なる場所、異なる時代にも適応した表現を大伝承(聖伝)が受け取ります。そしてその大伝承に照らし合わされ、教会の教導権の指導のもとで、諸伝承は維持されたり、修正または放棄されたりするのです。
[84]
聖伝と聖書の中に含まれるゆだねられた信仰の遺産49は、使徒たちによって教会全体に託されています。「この委託物によって、聖なる民全体が、その牧者を中心にして、使徒たちの教えと、信者の交わりと、パンを裂くことと、祈りとを不断に続けています。そのために、伝えられた信仰を守り、実践し、信奉するにあたって、司教と信者との特殊な一致が実現します」50。
[85]
「書きもの、あるいは口伝による神のことばを権威をもって解釈する役目は、キリストの名で権威を行使する教会の生きた教導権だけに任せられています」51。教会の教導権を持っているのはペトロの後継者、ローマ司教と結ばれた司教たちです。
[86]
「しかし、この教導権は神のことばの上にあるものではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教えるのです。すなわち、神の命令と聖霊の援助によって、神のことばを敬謙に聞き、清く保存し、忠実に説明し、そして信ずべき神の啓示として示すすべてのことを、信仰のこの唯一の委託物からくみ取るのです」52。
[87]
信徒は、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける」(ルカ10∙16)53とキリストが使徒たちにおおせになったことばを想起し、司牧者が多様な形で述べる教えと指針とを素直に受け入れます。
[88]
教会の教導権は、教義を決定的に宣言する場合、すなわち、キリストの民に信仰による決定的な同意を義務づける形で、神の啓示の中に含まれる諸真理を提示する場合や、これと不可分のつながりを持つ諸真理を決定的な形で提示したりする場合には、キリストから受けた権限を最高度に行使します。
[89]
わたしたちの霊的生活とこれらの教義の間には、有機的なつながりがあります。教義はわたしたちの信仰の道に設けられた灯火で、その道を照らし、確実なものとします。また、逆に、わたしたちの生活が正しければ、わたしたちの知性と心は素直に信仰の教義の光を受け入れるでしょう54。
[90]
各教義の相互関連と一貫性は、キリストの神秘の啓示全体の中に見いだすことができます55。「カトリック教義の諸真理とキリスト教信仰の基礎との関係は種々異なっているものですから、それらの諸真理の間に秩序、すなわち、『順位』が存在します」56。
[91]
すべての信者は、啓示された真理の理解と伝達に関与します。自分たちを教え57、自分たちに「真理をことごとく」(ヨハネ16∙13)悟らせる聖霊の塗油を受けているからです。
[92]
「信者の総体は、信仰において誤ることができないのであって、この特性は、『司教をはじめとして信徒の果てに至るまで』信者の総体が信仰と道徳のことがらについてあまねく賛同を示すとき、神の民全体の超自然的な信仰の心を通して現れます」58。
[93]
「事実、神の民は真理の霊によって起こされ、支えられているこの信仰の心によって、聖なる教職の指導のもとに、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰を損なうことなく固く守り、正しい判断をもってその信仰をいっそう深く掘りさげ、それを生活のうちにより完全に具体化していくのです」59。
[94]
ゆだねられた信仰の遺産の内容とことばの理解は、聖霊の助けにより、教会生活の中で発展することができます。それは次のことによってです。
⸺「それを心のなかで思いめぐらす信者たちの黙想と研究」60、とくに「啓示された真理についての神学的探究」61によって。
⸺「〔信者たちの〕体験する霊的な実在についての深い理解」62によって。「神のことばを読んで成長する」63ことによって。
⸺「司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの説教」64によって。
[95]
「それで、聖伝と聖書と教会の教導権とは、神のきわめて賢明な配慮によって、一つは他のものから離れては成り立たず、全部が一緒に、そしておのおのが固有のしかたで、聖霊の働きのもとに、救霊に有効に寄与するように、互いに関連し、結合されていることは明らかです」65。
[96]
使徒たちはキリストからゆだねられたものを、聖霊の霊感のもとに、説教と書物とによって、キリストの栄光に輝く再臨の日まで、すべての世代に伝達しました。
[97]
「聖伝と聖書とは、神のことばの一つの聖なる委託物を形づくっています」66。旅する教会はこのゆだねられた遺産に、鏡の中で見るかのように、あらゆる富の泉である神を見つめます。
[98]
「教会は、その教義と生活と典礼とにおいて、自らあるがままのすべてと、信じることのすべてを永続させ、あらゆる世代に伝えるのです」67。
[99]
超自然的な信仰の感覚のおかげで、神の民の総体は神によって与えられた啓示のたまものをたえず受け入れ、それをより深く理解し、ますます完全に生活の中で実践していきます。
[100]
神のことばを権威をもって正しく解釈する任務は、教会の教導権、すなわち、教皇と教皇に結ばれた司教にのみゆだねられています。
[101]
神は、限りない慈悲によって人間にご自分を啓示するため、人間のことばで語られます。「実際、かつて永遠の父のみことばが、人間の弱い肉をつけて、人々に似たものとなったように、人間の用語で表された神のことばは、人間の話に酷似するものとなっています」68。
[102]
聖書のあらゆることばを通して、神はただ一つのことばを語られます。それは唯一のみことばであり、その中でご自分のすべてを説明なさいます
69。
「思い出してください。聖書の初めから終わりまで述べられているのは、神の一つの同じみことばです。すべての聖書記者の口から響き出るものは、一つの同じみことばです。そのみことばは、初めから神のもとにおられる神として時間的な存在ではないから、音節を必要となさいません」70。
[103]
それゆえ、教会は主のからだを崇敬するのと同じように、聖書をつねに敬ってきました。教会は、神のことばとキリストのからだの食卓から受ける生命のパンで、たえず信者を養っていきます71。
[104]
教会は聖書の中に、つねにその糧と力を見いだします72。なぜなら、聖書の中で、単なる人間のことばではなく、神のことばそのものを受け取っているからです73。「聖書において、天におられる父は、深い愛情をもって、つねにご自分の子供たちと会って、互いに語り合うのです」74。
[105]
神が、聖書の作者です。「聖書に含まれ、かつ、示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものです」。
「尊き母なる教会は、旧約および新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なるもの、正典であるとしています。なぜならそれらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会に伝えられているからです」75。
[106]
神は、人間である聖書記者に霊感を授けました。「神は、聖書の著作にあたって、固有の能力と素質を持った人間を選んで、これをお使いになりました。それは神が彼らの内に、また彼らによって働く間に、彼らが、神が望むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として書くためです」76。
[107]
霊感によって書かれた書は、真理を教えます。「それゆえ、霊感を受けた作者、つまり、聖書作者が断言していることは、聖霊から断言されたこととすべきであり、したがって、聖書は、神がわたしたちの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教えるものであるといわなければなりません」77。
[108]
とはいえ、キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「ことば」の宗教であって、そのことばは、「記されているだけの無言のことばではなく、受肉して生きているみことばです」78。聖書が死んだ文字となることのないように、生ける神の永遠のことばであるキリストが、「聖書を悟らせるために」聖霊によってわたしたちの「心の目を開いて」79くださることが不可欠です。
[109]
聖書の中では、神は人間的な表現で人間に話されます。したがって、聖書を正しく解釈するには、人間の著者たちが実際に主張しようと意図したことと、神が著者たちのことばを通してわたしたちに示そうとされたこととに留意しなければなりません80。
[110]
聖書記者たちの意図を発見するために、当時の状況と文化、当時使われていた「文学類型」、当時普通であった感じ方、話し方、物語り方を考慮する必要があります。「実際、種々の方式での歴史的な、あるいは預言的な、あるいは詩的な書において、またその他の表現形式において、真理は違った方法で語られ、かつ表現されています」81。
[111]
しかし、聖書は霊感によって記されたものですから、これを正しく解釈するには、前述のものに劣らず重要な、もう一つの解釈原理があります。それなしには、聖書は「死んだ文字」にとどまるでしょう。「聖書は、それが書かれたのと同じ霊の光のもとに読まれ、解釈されなければなりません」82。
第2バチカン公会議は、聖書を、霊感を与えた聖霊に忠実に解釈するため、三つの基準を示しています83。
[112]
①
「聖書全体の内容と一体性」に特別な注意を払うこと。なぜなら、聖書は異なる書から成り立っていても、神の計画の一貫性のゆえに一つだからです。その計画の中心とも心ともいうべきもの、それはイエス・キリストであり、イエスの死と復活以来、それが明らかにされたのです
84。
「キリストの心とは85キリストの心を知らせる聖書を指しています。この心は受難の前には閉じられていました。すなわち、聖書の意味は、明らかでなかったのです。しかし、聖書は受難後に開かれました。なぜなら、キリストの受難後、聖書の知識を持っている人々は預言をどのように解釈すべきかを考察し、識別できるからです」86。
[113]
②「教会全体の生きた伝承」に従って聖書を読むこと。教父たちの教えによると、聖書は、文字どおりに読むよりも、教会の心で読むほうがまさっています87。事実、教会はその伝承に神のことばを生き生きと保ち続けており、さらに、「霊が教会に与える霊的意味に従って」88聖書を霊的に解釈する力を聖霊が教会に与えるのです。
[114]
③信仰の類比89に留意すること。「信仰の類比」とは、信仰の諸真理が、それら相互においても、啓示の教え全体においても一貫している、という意味です。
[115]
古くからの一つの伝統に従えば、聖書のことばの意味は、文字どおりの意味と霊的意味との二つに区別することができます。後者は寓意的、道徳的、天上的意味とに細分されます。これら四つの意味は根本的には一致し、教会の中にあって聖書を読むとき、読書を豊かにするものです。
[116]
文字どおりの意味。これは聖書のことばが表している意味で、正しい解釈の規則に従う聖書解釈によって考案されます。「聖書のすべての意味は、文字どおりの意味を土台にしています」90。
[117]
霊的意味。神の計画の一貫性のおかげで、聖書の文だけではなく、また、文が語ることがらや出来事もまた、別のことを示すしるしでありえます。
①寓意的意味。わたしたちは、聖書に示されているさまざまな出来事がキリストに関連づけて何を意味しているかを認めることによって、これらの出来事の意味をより深く理解できます。たとえば、紅海の通過はキリストの勝利を意味し、またそのことから、洗礼を意味します91。
②道徳的意味。聖書に記されている出来事は、わたしたちを正しい行動に導くはずです。それらは「わたしたちに警告するため」(一コリント10∙11)に書かれました92。
③天上的意味。ことがらや出来事の永遠の意味を考えることもできます。それらの出来事は、わたしたちを天の「祖国」に導くもの(ギリシア語でアナゴゲーἀναγωγή)です。たとえば、地上の教会は天上のエルサレムのしるしです93。
[118]
中世のある二行詩は、これら四つの意味を次のように要約しています。
「字義は出来事を、寓意的意味は何を信じるべきかを、道徳的意味は何を行うべきかを、天上的意味はどこに向かうべきかを教える」94。
[119]
「このような諸原則に従って、聖書の意味を深く理解し、説明するために努力し、いわば、準備的な研究によって、教会の判断が熟するようにするのが聖書解釈者の任務です。実際、聖書解釈に関するこれらすべてのことは、結局は神のことばを保存し、解釈する神的命令と使命とを果たす教会の判断のもとにおかれています」
95。
「もし、カトリック教会の権威がわたしをそう促すのでなければ、わたしは福音を信じはしないでしょう」96。
[120]
どの書が聖書のリストのうちに入れられるべきかを教会に識別させたのは、使徒伝承です97。その完全なリストが聖書の「正典」と呼ばれます。それは旧約聖書四十六書(エレミヤ書と哀歌を一つに数えれば四十五)と新約聖書二十七書からなります98。
旧約聖書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記上・下、列王記上・下、歴代誌上・下、エズラ記、ネヘミヤ記、トビト記、ユディト記、エステル記、マカバイ記一・二、ヨブ記、詩編、歳言、コヘレトの言葉、雅歌、知恵の書、シラ書(集会の書)、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、バルク書、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。
新約聖書:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書、使徒言行録、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一・二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一・二、テモテへの手紙一・二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一・二・三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。
[121]
旧約聖書は、聖書の欠くことのできない部分を成しています。その諸書は霊感によって書かれ、永続する価値を持っています99。なぜなら、古い契約は決して無効になったわけではないからです。
[122]
実際、「旧約の経綸は何よりもまず、万物のあがない主キリストの到来を準備し、預言的に知らせるために立てられました」。「不完全かつ一時的なことも含んでいますが」、旧約聖書の諸書は人を救う神の愛の教育法をよく示しています。それらの書は、「神に関する崇高な教えと人間生活に関する有益な知恵と祈りのすばらしい宝を納め、かつまた、わたしたちの救いの神秘を秘めています」100。
[123]
キリスト者は旧約聖書を神の真のことばとして敬います。教会は、旧約聖書が新約聖書によって無効にされたとしてこれを退ける考え(マルキオン主義)を、いつも強硬に排斥してきました。
[124]
「神のことばは、すべての信じる者にとって救いのための神の力ですが、そのことばは、新約聖書においてとくに優れた方法で示され、そしてその力を発揮しています」101。新約聖書の諸書は神の啓示の決定的真理をわたしたちに伝えます。その中心的内容は、人となられた神の御子イエス・キリスト、そのわざ、教え、受難、栄光化、そして聖霊の働きに基づくキリストの教会の発足です102。
[125]
福音書は、「わたしたちの救い主である託身のみことばの生涯と教えとに関するおもな証言ですから」103、全聖書の中心となるものです。
[126]
福音書の成立には三つの段階を区別することができます。
①イエスの生涯と宣教。教会が断固として主張し続けることですが、「教会は四福音書の歴史性をためらわずに断言し、神の子イエスが人間の間で生を送り、彼らの永遠の救いのため天に上げられる日まで、実際に行いまた教えたことを、それらの福音書が忠実に伝えていることを主張します」。
②口伝。「使徒たちは、主の昇天後、キリストの栄えある出来事に教えられ、真理の霊の光に照らされる、確信を与えられて持っていたいっそう深い理解をもってキリストの言行を聴衆に伝えていました」。
③福音書。「聖書作者は四福音書を書くにあたって、口伝と書き物とによって伝えられていた多くのことがらの中から選択し、あることがらを総合し、あるいは教会の事情に留意しながら説明し、そして宣教の形式を保ちながら、イエスに関して、つねに真理と真実とをわたしたちに知らせるようにしました」104。
[127]
四福音書は教会の中で一つの卓越した位置を占めていますが、そのことは典礼が払う崇敬とそれがあらゆる時代に聖人たちに及ぼした比類のない影響力とによって示されています。
「福音書以上に優れ、貴重で、光に満ちた教えはほかにありません。わたしたちの主であり師であるキリストが、そのことばによって教え、行いによって実現したことを見、心に銘記してください」105。
「念禱の間に、わたしの霊魂を養っているのは何よりも福音書です。その中に、わたしの哀れな霊魂に必要なすべてを見いだします。そこに新たな光、隠された、神秘的な意味をいつも発見します」106。
[128]
教会はすでに使徒時代から107、またその後の伝承の中でたえず、予型論を用いて二つの契約の間に見られる神の計画の一貫性を明らかにしてきました。この予型論は旧約時代の神のわざのうちに、時が満ちて人となられた御子において神が実現されたことの前表を見分けます。
[129]
したがって、キリスト者は旧約聖書を、死んで復活されたキリストに照らして読むのです。この予型論的な読み方によって、旧約聖書のくみ尽くすことのできない内容が明らかになります。しかし、旧約聖書は、主ご自身によってあらためて確認されたように108、それ自体で啓示としての価値を保っていることを忘れるべきではありません。実際、新約聖書もまた、旧約聖書に照らして読まれる必要があります。古代教会のカテケージスは、たえず旧約聖書を活用しています109。古くからいわれているように、「新約が旧約のうちに秘められ、旧約が新約のうちに明らかとなる」110ために、新約聖書は旧約聖書の中に隠され、旧約聖書は新約聖書の中で明らかにされるのです。
[130]
予型論は、「神がすべてにおいてすべてになられる」(一コリント15∙28)ときの、神の計画の完成に向かう力強い歩みを示すものです。ですから、たとえば、族長たちの召し出しやエジプト脱出は、神の計画の中のそれぞれの段階を示しているので、固有の価値を失ってはいません。
[131]
「神のことばは、教会にとっては支えと気力となり、教会の子供にとっては、信仰の力、魂の糧、霊的生命の清く尽きない泉となるような威力と性質を持っています」111。「キリスト信者には、聖書に近づく多くの機会が与えられなければなりません」112。
[132]
「したがって、聖書研究はあたかも神学の魂のようなものでなければなりません。ことばの奉仕職、すなわち、司牧的説教、要理教授、各種のキリスト教教育、この中で、典礼中の説教は特別の地位を占めるべきですが、これらは、聖書のことばによって、健全な栄養と聖なる活力を与えられます」113。
[133]
教会は「すべてのキリスト信者……に、しばしば聖書をひもといて、『イエス・キリストの崇高なる知識』(フィリピ3∙8)を学ぶよう、特別にまた強く勧めます。『実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことです』」114。
[134]
聖書全巻は、一冊の書です。この一冊の書、それはキリストなのです。「聖書全巻はキリストについて語り、聖書全巻はキリストにおいて完成するからです」115。
[135]
「聖書は神のことばを含んでおり、それは霊感によるので、真に神のことばなのです」116。
[136]
聖書の作者は神であり、聖書記者に霊感を与えながら、彼らのうちにあって、彼らを通して働かれます。こうして、神は彼らの書が救いの真理を誤りなく教えることを保証しておられます117。
[137]
霊感によって書かれた聖書を解釈するにあたっては、まず、神がわたしたちの救いのために聖書記者を通して啓示しようとされたことに留意しなければなりません。霊に由来するものは、霊の働きによってしか十分には理解されないのです118。
[138]
教会は、旧約聖書の四十六書と新約聖書の二十七書を、霊感によるものとして受け入れ、敬います。
[139]
四福音書が中心的位置を占めますが、それはイエス・キリストを中心としているからです。
[140]
新約・旧約聖書の一貫性は、神の計画と啓示との一貫性に由来します。旧約聖書は新約聖書を準備し、新約聖書は旧約聖書を成就します。両者は相互に照らし合います。両者とも、神の真のことばです。
[141]
「教会は主の聖体と同様に、聖書をつねに尊敬し……てきました」119。この二つはキリスト者の全生活の糧であり、規範です。「あなたのみことばは、むたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」(詩編119∙105)120。