[502]
神は救いの計画の中で、なぜ御子がおとめから生まれるよう定められたのでしょう。信仰の目は、啓示全体と関係づけながら、この神秘の理由を見いだすことができるのです。これらの理由は、キリストご自身にも、そのあがないをもたらす派遣にも、また、マリアがすべての人のためにこのキリストの派遣を受諾したことにもかかわっています。
[503]
マリアの処女性は、神のみが御子を受肉させてくださったことを示します。イエスの父は神だけですルカ2・48-49参照。。イエスは「人性をとったからといって、決して御父から離れることはありませんでした。……神性においては本性上御父の御子であり、人性においては本性上その母の子ですが、二つの本性においてまさしく神の御子なのです」フリウリ教会会議(796年または797年)の信条(Symbolum : DS619)。。
[504]
イエスが聖霊によっておとめマリアの胎内に宿られたのは、新しい創造を始める新しいアダムだからです1コリント15・45参照。。「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です」(一コリント15∙47)。キリストの人性は、身ごもられたときから、聖霊に満たされていました。神がイエスに「霊を限りなくお与えになるから」(ヨハネ3∙34)です。わたしたちは、あがなわれた人類の頭であるかたコロサイ1・18参照。が持つ「満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1∙16)のです。
[505]
新しいアダムであるイエスは、処女受胎によって生まれることによって、信仰により聖霊において神の子らとされる人々の新しい誕生の発端となられます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ1∙34)ヨハネ3・9参照。。神のいのちにあずかることは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神による」(ヨハネ1∙13)ものです。このいのちは処女の状態で受け取ることになります。なぜなら、それはまったく霊によって人間に与えられるからです。人間が神に召されるのは、神の花嫁になるようなものです2コリント11・2参照。。このことはマリアがおとめのままで母となられたことにおいて完全に実現したのです。
[506]
マリアは、処女性のしるしである少しも疑いの曇りのない信仰『教会憲章』,第63項参照。と神のみ旨への純粋な自己奉献1コリント7・34-35参照。という特質を備えているという意味で、処女です。信仰によってこそ、マリアは救い主の母となることができました。「マリアが幸いなのは、キリストの肉体を宿したからよりも、キリストへの信仰を自分のものとしたからなのです」聖アウグスティヌス『聖なる処女性について』 (S. Augustinus, De sancta virginitate 3, 3: CSEL 41, 237 [PL 40, 398])。。
[507]
マリアはまた、教会の象徴であり、それを完璧に実現しているという意味で、処女でもあり、母でもあります『教会憲章』,第63項参照。。「教会は信仰をもって受け入れた神のことばを通して、自らもまた母となります。事実、教会は、宣教と洗礼をもって、聖霊によって懐胎されて神から生まれた子供たちを、新しい不死の生命に生むからです。教会はまた処女でもあります。すなわち花婿に誓った忠実を清く完全に守るからです」『教会憲章』,第64項。。