[512]
信条がキリストの生涯に関して述べているのは、ただ受肉(受胎と誕生)と過越(受難、十字架刑、死、埋葬、死者のもとに下ったこと、復活、昇天)の神秘についてです。ナザレでのイエスの生活と宣教活動を開始されてからの生活の諸神秘については、明白には何も語っていません。しかし、イエスの受肉と過越に関する信仰箇条は、キリストの地上の生活のすべてを解明します。「イエスが行い、また教え始めてから、……天に上げられた日までのすべてのこと」(使徒言行録1∙1-2)は、降誕と過越との神秘に照らして見なければなりません。
[513]
カテケージスは、状況に従ってイエスの神秘のすべての富を展開します。ここでは、まずキリストの生涯のあらゆる神秘に共通な幾つかの要素(1)を示し、次に、イエスのナザレでの生活(2)と宣教活動が開始されてからの生活(3)におけるおもな神秘を概説するにとどめます。
[514]
福音書には、イエスについて人々の好奇心を満たすようなことがらは多く描かれてはいません。ナザレでの生活についてはほとんど何も語られていませんし、宣教活動が始まってからの生活の大部分すら伝えられていません186。福音書に書かれているのは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によりいのちを受けるため」(ヨハネ20∙31)に必要なことだけです。
[515]
福音書は、最初に信仰を持ち187、それを他の人々にも分かち与えたいと望んだ人々のうちの幾人かによって記されました。この人々はイエスがどのようなかたであるかを信仰によって知ったので、イエスの生活全体のひとこまひとこまにその神秘の痕跡を見、また人々に知らせることができたのです。誕生の際の産着188から受難の際の酢189、復活の際の亜麻布190に至るまで、イエスの生涯のすべてはその神秘のしるしです。イエスはご自分の態度、奇跡、ことばを通して、「〔ご自分〕のうちに」、「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)いることを明らかにされました。したがって、イエスの人性は「秘跡」として、すなわち、神性とご自分がもたらされる救いのしるし、および道具として現れています。この世のイエスの生涯において目にすることができたことがらは、イエスご自身が神の御子であり、あがないの使命をお持ちだという、見えない神秘に導くものでした。
[516]
キリストの全生涯は御父を啓示するものです。そのことば、行い、沈黙、苦しみ、生き方、話し方、すべてがそうです。イエスは「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14∙9)ということができました。そして御父は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9∙35)とおおせになりました。キリストは御父のみ旨を果たすために人となられたので191、その神秘のどんなにささいなものであっても、わたしたちへの神の愛192を表しているのです。
[517]
キリストの全生涯はあがないの神秘です。あがないはなによりもまず十字架の血によるものですが193、この神秘はキリストの全生涯において行われています。すなわち、すでに受肉に際しては自ら貧しい者となられ、その貧しさによってわたしたちを富める者となさいました194。ナザレでの生活の間にはその従順によって195わたしたちの不従順を償われ、ことばによって聴衆を清め196、治癒と悪魔払いによって「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担われ」(マタイ8∙17)197、復活によってわたしたちを義としてくださいました198。
[518]
キリストの全生涯は
統合の神秘です。イエスが行い、語り、苦しまれたことの一つ一つが、堕罪の人間を最初の状態に修復することを目的としていました。
「神の御子は、受肉し人となられたとき、ご自分のうちに人間の長い歴史を統合され、わたしたちの救いを成就されました。その結果、わたしたちがアダムにおいて失っていたもの、すなわち、神の似姿、神のかたどりであることも、キリスト・イエスによって回復されたのです」199。「キリストがご自分の人生のひとときひとときを通して生きられたのは、そのためでした。そうすることによって、キリストはすべての人間を神との交わりに戻してくださいました」200。
[519]
キリストのあらゆる富は「すべての人間に提供され、すべての人間のものとなります」201。キリストはご自分の生涯を自らのためではなく、わたしたちのために生きられました。「わたしたち人間のため、わたしたちの救いのため」202に人となられたときから、「わたしたちの罪のために」(一コリント15∙3)死なれ、「わたしたちが義とされるために」(ローマ4∙25)復活されるまでそうだったのです。そして今もなお、キリストは「御父のもとで」(一ヨハネ2∙1)わたしたちの弁護者であり、「つねに生きていて」、わたしたちのために「執り成して」(ヘブライ7∙25)おられます。キリストは、永遠に価値あるものとしてその生涯中にわたしたちのためにただ一度行い、甘受したすべてのことがらを携えて、いつも「わたしたちのために神のみ前に」(ヘブライ9∙24)とどまっておられます。
[520]
イエスはご自分の全生涯をわたしたちの模範となさいました203。イエスは「完全な人間」204であり、わたしたちが弟子となり、ご自分の後に従うよう促しておられます。自ら身を低くされることによってわたしたちに倣うべき模範を示し205、その祈りによって祈りに招き206、貧しさによっては貧しさと迫害を自由に受け入れるように招いておられます207。
[521]
キリストの全生活は、わたしたちが
ご自分とともにそれを生き、ご自分が
わたしたちとともにそれを生きることができるようにするためのものでした。「神の子は受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」
208のです。わたしたちはキリストと一体となるように召されています。ですから、わたしたちのために模範として生きられたキリストの全生涯に、その肢体であるわたしたちは一致することができるのです。
「わたしたちは、イエスのさまざまな状態と神秘を自分のうちに継続し、成就し、また、イエスがこれらをわたしたちと教会全体のうちにあって完成し、成就してくださるよう祈らなければなりません。……神の御子はわたしたちと教会全体をご自分の神秘にあずからせ、これらを延長させ継続させる意図をお持ちですが、わたしたちに分け与えたいと望まれる恵みと、御子の神秘がわたしたちのうちに生じさせてくれる効果とによって、それが可能となります。イエスはこのようにして、わたしたちのうちにご自分の神秘を成就したいと望んでおられるのです」209。
[522]
神の御子が地上に来られたことは重大な出来事でしたので、神は幾世紀にもわたってそれを準備なさいました。「最初の契約」210に見られる祭儀とささげ物、前表と象徴などを、キリストへ向かうように仕向けられました。さらに神は、イスラエルに相次いで起こった預言者たちの口を通して、キリストを告げられました。そのうえ、異邦人の心のうちにもキリストの到来へのおぼろげな期待を抱かせました。
[523]
洗礼者聖ヨハネはキリストの直前の先駆者として211、道を備えるために神によって遣わされた者です212。「いと高き方の預言者」(ルカ1∙76)であるヨハネは、すべての預言者にまさる213、最後の預言者であり214、福音の端緒となり215、母の胎内ですでにキリストの到来を迎え216、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)と呼ぶ「花婿」(ヨハネ3∙29)であるイエスの「友」であることを喜んでいます。「エリヤの霊と力で」(ルカ1∙17)イエスに先だち、説教と悔い改めの洗礼、ついには、殉教によってイエスをあかししました217。
[524]
教会は毎年、待降節の典礼を行いながら、メシアへの待望を再現します。キリスト者は救い主の最初の来臨に向かう長期の準備に心を合わせながら、再臨への熱い待望を新たにするのです218。先駆者の誕生と殉教を祝うことで、教会は、「あのかたは栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3∙30)というヨハネの願望を自分のものとします。
[525]
イエスは貧しい家族の一員として、家畜小屋の貧しい環境の中でお生まれになりました
219。ただの羊飼いたちが、この出来事の最初の証人です。しかも、この貧しさのうちに、天の栄光が現れました
220。教会は、この夜の栄光を飽かずに歌い続けます。
「今日、おとめが永遠なるかたを産み
地は近づきがたいかたに洞穴をささげ
天使と羊飼いは彼をたたえ
博士たちは星を仰いで進む。
ああ、わたしたちのためにお生まれになった、
幼子よ、永遠の神よ」221。
[526]
神に対して「幼子のようになること」は、天の国に入る条件です
222。そのためには、へりくだって
223幼子となる必要があります。さらにまた、神の子となるには
224、神によって
225、「新たに生まれる」(ヨハネ3∙7)必要があるのです。降誕の神秘がわたしたちのうちに成就するのは、キリストがわたしたちのうちに形づくられるときです
226。降誕は、この「驚嘆すべき交換」の神秘です。
「ああ、驚嘆すべき交換よ!人類の創造主は生きた肉体をとっておとめから生まれ、男を介せずに人となり、わたしたちにその神性を贈られた。」227
[527]
イエスが誕生八日目に受けられた割礼は228、イエスがアブラハムの子孫、契約の民の一員となり、律法に従い229、イスラエルの民の礼拝を行うように派遣されたしるしです。イエスは実際に、生涯中この礼拝に加わられました。このしるしは、洗礼という「キリストの割礼」の前表です230。
[528]
公現は、イエスがイスラエルのメシア、神の御子、世の救い主であることを表すものです。公現の祝日は、イエスのヨルダン川での洗礼やカナの婚礼231という事実にも気をとめながら、占星術の学者たちが東方から訪れてイエスを礼拝したことを記念します232。周辺の異教徒たちを代表するこの「占星術の学者たち」のうちに、福音書は、受肉による救いの福音を歓迎する諸国民の初穂を見ています。占星術の学者たちはユダヤ人の王を拝むために233やって来ました。彼らのエルサレム訪問は、ダビデの星であるメシアの光に導かれて234、諸国の王となるかた235をイスラエルに求めていることを表しています。この訪問は、異教徒がユダヤ人に目を向け236、彼らから旧約聖書に記されたメシアについての約束を受け入れないかぎり、イエスを見いだし、彼を神の御子、世の救い主として礼拝できないことを示しています237。公現は、数多くの異教徒が族長たちの家族に加わり238、「アブラハムの子孫に約束された栄光」239をかちえることを表しているのです。
[529]
イエスの神殿での奉献は240、イエスが主に属する初子であることを示します241。シメオンとアンナは、全イスラエルの待望を込めて、ビザンチンの伝統がそう呼んできた救い主の出迎えを行っているのです。このときイエスは、待望のメシア、「異邦人を照らす光」、「イスラエルの誉れ」とたたえられ、同時に、「反対を受けるしるし」であると告げられました。マリアに予告された苦しみの剣は、神が「万民のために整えてくださった」救いをもたらす十字架の、もう一つの、完全で、比類のない奉献を告げるものです。
[530]
エジプトへの避難とえい児の殺害は242、光に逆らうやみの対立を表しています。「みことばはご自分の民のところへ来られたが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1∙11)のです。キリストの全生涯は迫害の連続でした。弟子たちもキリストとともに迫害を受けます243。イエスのエジプトからの帰国は244かつての「エジプト脱出」を想起させ245、イエスを決定的な解放者として表すものです。
[531]
イエスは生涯の大半を、大多数の人と同じ境遇を分かち合われました。平凡な日常生活、手仕事の生活、神の律法に従ったユダヤ人の宗教生活246、地域の人たちとの生活など。この時期の全体について、わたしたちに啓示されているのは、イエスが両親に仕え247、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2∙52)ということだけです。
[532]
イエスは母マリアと養父ヨセフとに服従することによって、十戒の第四戒をまっとうされました。これは、天の御父に対する子としての従順を地上で表すしるしです。イエスが毎日マリアとヨセフに仕えられたことは、ゲツセマネの園での「わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ22∙42)という祈りに見られる従順の前表であり、先取りなのです。キリストは、ナザレでの日常生活における従順により、アダムの不従順によって破壊されたものの再建をすでに始めておられたのです248。
[533]
ナザレでの生活は、だれもがきわめて日常的な道を通してイエスに結ばれることが可能であることを教えます。
「ナザレは、わたしたちがイエスの生涯が初めてわかるようになる所です。福音を学ぶ所です。……まずそれは沈黙の教訓です。この大切な、欠いてはならない精神の状態、沈黙をもう一度評価し直したいものです。……第二は家庭生活の教訓です。このナザレが家庭、その愛の共同体、その簡潔で単純な美しさ、聖にして侵すことのできない家庭生活の特質を教えてくれますように。……第三は労働の教訓です。ナザレは大工の息子の家でした。ここでわたしは、労働が人間にとっては厳しくても、あがないの力を備えたおきてであることを理解し、ほめたたえたいのです。……終わりにあたり、このナザレから全世界の労働者の皆さんに挨拶を送るとともに、皆さんの偉大な模範であり兄弟であるかた、皆さんの正しい願望を宣言する預言者であるイエス・キリストの姿をお見せしたいと思います」249。
[534]
マリアとヨセフがエルサレムの神殿でイエスを見つけたという事件は250、福音書がイエスの少年時代について沈黙を破るただ一つの出来事です。ここでイエスは、ご自分が神の子であることから生じる使命に全面的にささげられているという神秘をかいま見せられました。マリアとヨセフは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」ということばの「意味が分からなかった」にもかかわらず、信仰によってこれを受け入れ、マリアはイエスが静かに平凡な生活にうずもれておられた間、片時も忘れることなく、「これらのことをすべて、大切に心に納めて」おられました。
[535]
イエスの公生活の始まりは251、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになったときです252。ヨハネは、「罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼」(ルカ3∙3)をのべ伝えていました。おびただしい罪びと、徴税人、兵士253、ファリサイ派、サドカイ派の人々254、娼婦たち255などがやって来て、ヨハネから洗礼を受けました。「そのとき、イエスが来られた」のです。洗礼者ヨハネはためらいますが、イエスは願い続けて、洗礼を受けられました。そのとき、聖霊がはとの形でイエスの上にくだり、「これはわたしの愛する子」(マタイ3∙13-17)と宣言する、天からの声がします。これはイエスを、イスラエルのメシア、神の御子として現す出来事(「公現」)でした。
[536]
イエスの側からすると、その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾であり、その開始でもあります。イエスは罪びとの列に加わります256。イエスはすでに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)であり、はや、流血の死の「洗礼」を先取りしておられます257。御父のみ旨に余すところなく従い、わたしたちの罪のゆるしのため死の洗礼に愛をもって同意することで258、すでに「正しいことをすべて」(マタイ3∙15)行っておられます。イエスの受諾にこたえて、御父からの声があり、御子がご自分の心にかなう者であることを示されます259。受胎のときからイエスを満たしていた聖霊が彼の上にくだり、「とどまります」260。イエスは全人類のために霊の泉となるのです。洗礼の際、アダムの罪が閉ざしていた「天がイエスに向かって開いた」(マタイ3∙16)のです。イエスが水に入り、霊がくだることによって水は聖化されます。これは新しい創造の前触れです。
[537]
イエスはご自分の洗礼において、その死と復活とを先取りされました。キリスト者は洗礼の秘跡によってこのイエスに同化されます。キリスト者はこのへりくだりと悔い改めの神秘にあずかり、イエスとともに水に下らなければなりません。それは、イエスとともに水から上がり、水と霊によって再生し、御子において神の愛する子となり、「新しいいのちに生きる」(ローマ6∙4)ためです。
「洗礼によってキリストとともに葬られましょう。キリストとともに復活するために。キリストとともに下りましょう。キリストとともに上げられるために。キリストとともに上がりましょう。キリストにおいて栄光を受けるために」261。
「キリストの上に起こったすべてのことは、洗礼の後に」わたしたちの上にも起こったのです。すなわち「聖霊が天からわたしたちの上にくだり、天の栄光の塗油が行われ、御父の声によって、神の子とされたのです」262。
[538]
福音書は、イエスはヨハネから洗礼を受けられた直後、一時、荒れ野で一人過ごされたといっています。「霊によって荒れ野に送り出された」イエスは、四十日間食を断ってそこにとどまります。その間、野獣とともに暮らし、天使たちはイエスに仕えました263。この期間の終わりに、サタンがイエスを三度試み、神への孝心を試練にかけようとします。それは、楽園でのアダム、荒れ野のイスラエルの民が受けたすべての誘惑を凝縮した攻撃でした。イエスが誘惑を退けられると、悪魔は「時が来るまで」(ルカ4∙13)イエスを離れます。
[539]
福音記者は、この神秘な出来事の救済史的な意味を教えています。最初のアダムが誘惑に屈したのに対して、新しいアダムであるイエスは、最後まで忠実を貫きました。イエスはイスラエルの民の召命を完遂なさいます。かつて荒れ野で四十年の間神を挑発していた民264とは反対に、キリストはご自分が神のみ旨にまったく従順な神のしもべであることを表されました。こうして、イエスは悪魔に打ちかたれたのです。イエスは強い者を縛り上げて、彼が略奪したものを奪い返しました265。荒れ野での誘惑者に対するイエスの勝利は、御父への子としての愛による至高な従順の表れである受難の勝利を先取りするものです。
[540]
誘惑に対するイエスの対応は神の御子のメシアとしてのあり方を示していますが、それはサタンがイエスにもちかけたこと、人々がメシアに期待したこととは266正反対のものです。こうして、キリストはわたしたちのために誘惑者に対して勝利を収められたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4∙15)。教会は、毎年、四旬節の四十日間を通して、荒れ野でのイエスの神秘に心を合わせます。
[541]
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』といわれた」(マルコ1∙14-15)。「キリストは父のみ旨を果たすために、地上に天の国を開始されました」267。ところで、御父のみ旨とは、「人々を神のいのちにあずかるよう高めること」268にあります。御父は御子イエス・キリストの周りに人々を集めて、これを実現されます。この集まりが教会であり、教会は地上における神の国の「芽生えと開始」269なのです。
[542]
キリストは「神の家族」として集う人々の中心を占めておられます。ことばと、神の支配を表す奇跡と、弟子たちの派遣とによって、人々をご自分の周りに招集されます。キリストは神の国の到来を、とくに、十字架上の死と復活という偉大な過越の神秘によって実現されました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12∙32)。すべての人はキリストと一つになるよう招かれています270。
[543]
あらゆる人が、神の国に入るように招かれています。このメシア的神の国は、まずイスラエルの民族に告げられましたが
271、すべての国の人を迎え入れるよう定められたものです
272。神の国に入るには、イエスのことばを受け入れなければなりません。
「主のおことばは、畑にまかれた種と比べられます。信仰をもって主のことばを聞き、キリストの小さな群れの中に数えられる者は、神の国そのものを受けたのです。それから種は自らの力で芽生え、収穫のときまで成長します」273。
[544]
神の国は貧しい人々と小さい人々、すなわち、謙虚な心でこれを迎える人たちのものです。イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4∙18)遣わされました274。イエスはこのような人々は幸いだと言明されます。「天の国はその人たちのもの」(マタイ5∙3)だからです。御父は、知恵ある者や賢い者には隠されていることを、これらの「小さな人々」にこそ示されるのです275。イエスは、ベツレヘムの飼い葉桶から十字架に至るまで、貧しい人々の生活を体験されました。飢え276、渇き277、貧窮278を経験されます。なおそのうえに、ご自分をすべての貧しい人々の立場に置き、こうした人たちへの積極的な愛を神の国に入るための条件となさいました279。
[545]
イエスは罪びとを神の国の食卓に招かれます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マルコ2∙17)280。イエスは罪びとに回心を促されますが、これなしには神の国に入ることができないからです。しかし、罪びとへの御父の限りない慈悲と281、「悔い改める一人の罪びとについて〔の〕天にある大きな喜び」(ルカ15∙7)をも、ことばと行いによって示されました。この愛の至高のあかしは、「罪がゆるされるように」(マタイ26∙28)ご自分のいのちを犠牲にされたことにあります。
[546]
イエスは、たとえ話を通して、神の国に入るよう促しておられます282。これはイエスの教えの特徴でした。たとえ話を用いて人々を神の国の祝宴に招き283、同時に、根源的な選択を迫ります。すなわち、み国を得るためには、すべてを捨てなければなりません284。ことばだけではなく、行動が要求されます285。イエスのたとえ話は、人間にとっては鏡のようなものです。人は、イエスのことばを固い土のように受け入れるか、それともよい土のように受け入れるか286、いただいたタラントンで何をするのか287、と問われます。イエスとこの世における神の国とが、それとなくたとえ話の核心に隠されています。「天の国の秘密」(マタイ13∙11)を悟るには、神の国に入ること、つまり、キリストの弟子となることが必要です。「外」にいる人々(マルコ4∙11)には、すべてがなぞのままです288。
[547]
イエスのことばには数多くの「奇跡と、不思議なわざと、しるし」(使徒言行録2∙22)が伴い、神の国がイエスのうちに到来していることを明らかにします。これらは、イエスが預言されたメシアであることを示します289。
[548]
イエスが行われた奇跡は、イエスが御父から遣わされたことを示し290、イエスを信じるよう促します291。イエスは信仰をもって訴える人々の願いをかなえられます292。そのとき、奇跡は御父のわざを行われるイエスへの信仰を強め、イエスが神の御子であることを明らかにします293。しかし、奇跡はまた、つまずきのもとともなりうるのです294。奇跡は、人々の好奇心や魔力を見たい望みを満たすものではありません。きわめて明白な奇跡を行っているにもかかわらず、イエスはある人たちから排斥され295、これらは悪魔によるものであるととがめられさえします296。
[549]
イエスは、ある人々を飢え297、不正義298、病気、死299など、この世の不幸から解放することによって、メシアとしてのしるしを示されました。しかし、イエスが来られたのはこの世のあらゆる不幸をなくすためではなく300、もっとも重大な隷属、すなわち、罪の奴隷の状態から人々を解放するためでした301。罪は神の子らとしての召命を妨げ、ありとあらゆる人間的束縛の原因となるのです。
[550]
神の国の到来はサタンの支配の破滅を意味します302。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(マタイ12∙28)。イエスの悪魔払いは、人々を悪霊の支配から解放します303。これは、「この世の支配者」304に対するイエスの大勝利を先取りするものでした。神の国はキリストの十字架によって決定的に打ち建てられます。「神は木の上から支配されました」305。
[551]
公生活の初めから、イエスはご自分のそばに置くため、また、ご自分の使命に参加させるために、十二人をお選びになりました
306。そして、ご自分の権限に参与させ、「神の国をのべ伝え、病人をいやすために遣わ」(ルカ9∙2)されます。彼らはいつまでも、キリストのみ国の協力者となります。キリストが彼らを通して教会を導かれるからです。
「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いをともにし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22∙29-30)。
[552]
十二人の使徒団の中で、シモン・ペトロが首位を占めます307。イエスはペトロに特別な使命をおゆだねになりました。御父からの啓示を受けて、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16∙16)と宣言しました。それで、キリストはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16∙18)と宣言されました。「生きた石」308であるキリストは、ペトロの上に建てられた教会に死の力に対する勝利を保証なさいます。ペトロは自ら告白した信仰のゆえに、教会の揺るがない岩となります。ペトロは、この信仰がなくならないように守り、兄弟たちの信仰を固める使命を受けます309。
[553]
イエスはペトロに、「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16∙19)といって、特別な権限をおゆだねになりました。「かぎの権能」は、教会という神の家を治めるための権威を意味します。「よい羊飼い」(ヨハネ10∙11)であるイエスは復活された後に、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21∙15-17)といって、ペトロのこの任務を追認されました。「つなぎ、解く」権能は、罪をゆるし、教義上の判断を下し、教会の規律に関する決定を行う権威を意味します。イエスはこの権威を、使徒たちの奉仕の務め310、とくに、ペトロの奉仕の務めを通して教会におゆだねになりました。そしてこのペトロだけには明白に天の国のかぎをゆだねられました。
[554]
ペトロが、イエスをメシア、生ける神の子であると告白したときから、イエスは「ご自分が必ずエルサレムに行って、……苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められ」(マタイ16∙21)ました。ペトロはこのことばを受け入れず311、他の弟子たちもこのことばを理解できませんでした312。これを背景にして、イエスの変容という神秘的な出来事が語られています313。変容はある高い山の上で、イエスが選んだ三人の目撃者、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの前で行われました。イエスの顔と衣服はまばゆいばかりに輝き、モーセとエリヤが現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話して」(ルカ9∙31)いました。三人は雲に覆われ、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9∙35)という声が天から聞こえました。
[555]
つかの間、イエスは神的栄光を示し、ペトロの信仰告白を裏づけられました。イエスはまた、「栄光に入る」(ルカ24∙26)には、エルサレムで十字架を経なければならないことを示されます。かつて、モーセとエリヤは山上で神の栄光を見、律法と預言者たちはメシアの苦しみを予告しました
314。イエスの受難は御父のみ心によるものであり、御子は神のしもべとして行動なさいます
315。雲は聖霊が臨んでおられることを示します。「聖三位の三者がそろって現れました。御父は声のうちに、御子は人間のうちに、聖霊は輝く雲のうちに」
316。
「あなたは山上で変容なさいました。弟子たちは可能な限り、神であるキリスト、あなたの栄光を見つめました。それは、弟子たちが十字架につけられたあなたを見たとき、あなたが進んで苦しみを受けられたことを悟り、あなたが真に御父の輝きであることを世に告げ知らせることができるようになるためでした」317。
[556]
公生活の始めには洗礼があり、キリストの過越の始めには変容がありました。イエスの洗礼によって、「わたしたちの第一の再生の神秘が明らかにされました」。これはわたしたちの洗礼です。変容は、わたしたちの復活である「第二の再生を示す秘跡です」
318。わたしたちはすでに今、キリストのからだの諸秘跡のうちで働かれる聖霊によって、主の復活にあずかります。変容は「わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださる」(フィリピ3∙21)キリストの栄光の再臨を、前もってわたしたちに味わわせます。しかし、それはまた、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒言行録14∙22)ことをわたしたちに想起させるものでもあります。
「ペトロは、山上でキリストとともに暮らそうと望んだときには、そのことをまだ理解していませんでした319。ペトロよ、キリストはあなたの死後のために、これをあなたにとっておかれたのです。今、キリストはこういわれます。地上で労苦し、仕え、軽蔑され、十字架につけられるために下りなさい。いのちであるかたが殺されるために下り、糧であるかたが飢えるために下り、道であるかたが途上で疲れるために下り、泉であるかたが渇くために下られました。それにもかかわらず、あなたは労苦することを拒むのですか」320。
[557]
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9∙51)321。この決断は、イエスが死を覚悟してエルサレムに上られたことを物語っています。イエスは、すでに三度、ご自分の受難と復活について予告しておられました322。そしてエルサレムに向かう途中では、「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことは、ありえない」(ルカ13∙33)と語られます。
[558]
イエスは、かつてエルサレムで殺された預言者たちの殉教のことを思い起こされます323。それにもかかわらず、「めん鳥がひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23∙37b)といって、エルサレムの人々がご自分のもとに集まるように呼び続けられるのです。エルサレムを目前にしたときには、エルサレムのために泣き324、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」(ルカ19∙42)といって、再びご自分の心の願いを表されました。
[559]
エルサレムは自分のメシアをどのように迎えたのでしょうか。いつもはご自分を王として担ぎ出そうとする民衆の手から逃れておられたイエスは325、時を選び、「〔ご自分〕の父ダビデ」(ルカ1∙32)の町にメシアとして入城する準備をこと細かになさっておられます326。イエスはダビデの子、救いをもたらす者として、歓呼の声に迎えられます(ホサナは「まず救ってください」という意味です)。「栄光に輝く王」(詩編24∙7-10)であるイエスは、「ろばに乗って」(ゼカリヤ9∙9)入城なさいます。すなわち、教会の予型であるシオンの娘エルサレムの心を、策略や暴力によってではなく、真理をあかしする謙虚さによってかちとられるのです327。ですから、この日にイエスの王権を認めるのは、子供たちや328「神における貧しい者たち」です。彼らは、天使がイエスの誕生を羊飼いたちに告げたときのように329、歓呼の声でイエスを迎えるのです。そして教会は、「祝福あれ、主の御名によって来る人に」(詩編118∙26)というこの歓呼を、キリストの過越の記念祭である感謝の祭儀の「感謝の賛歌(聖なるかな)」の中で今でも繰り返しています。
[560]
イエスのエルサレム入城は、メシアである王がその死と復活による過越を通して実現しようとなさっているみ国の到来を表します。教会はこれを枝の主日の典礼で記念し、聖週間を開始します。
[561]
まさに、「キリストの生活全体が不断の教えでした。つまり、その沈黙、奇跡、わざ、祈り、人間への愛、弱い者と貧しい者への特別な愛、人々のあがないのために引き受けた十字架上の犠牲、さらに復活そのものが、ことばの遂行であり、啓示そのものの成就です」330。
[562]
キリストの弟子たちは、自分のうちにキリストが形づくられるように、キリストに似たものとならなければなりません331。「わたしたちがキリストの生命の諸神秘のうちに摂取されるのは、わたしたちがキリストに似た姿になり、キリストとともに死に、ともに復活し、ついにはキリストとともに支配するに至るためです」332。
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羊飼いや占星術の学者のように、ベツレヘムの飼い葉桶の前にひざまずき、か弱い幼子の姿に隠れた神を拝むことによって、わたしたちはこの世で神に近づくことができます。
[564]
イエスは、マリアとヨセフとに対する従順や、ナザレでの長い年月のつつましい労働を通して、家庭と労働とによって織り成される日常生活における聖性の模範を示されます。
[565]
イエスは、公生活の始めである洗礼のときから、受難の「洗礼」によって成就されるあがないのわざのために完全に奉献された「神のしもべ」です。
[566]
荒れ野での誘惑は、謙虚なメシアであるイエスが、御父の望まれる救いの計画に全面的に従われることによってサタンに打ちかたれたことを示します。
[567]
天の国は、キリストによって地上で開始されました。「この国は、キリストのことばとわざと現存によって人々の前に現れます」333。教会はその天の国の芽生え、始まりです。そのかぎはペトロにゆだねられています。
[568]
キリストの変容の目的は、受難を前にして使徒たちの信仰を強めることにありました。「高い山」に登られたのは、ゴルゴタの丘に登るための準備でした。教会の頭であるキリストは、そのからだである教会が保有し、諸秘跡の中で輝いている「栄光の希望」(コロサイ1∙27)を表されます334。
[569]
イエスは、罪びとたちの反対によって非業の死を遂げることを知りながら、進んでエルサレムに向かわれました335。
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イエスのエルサレム入城は、神の国の到来を明らかにします。子供たちや謙虚な人々からご自分の町に迎えられる王であるメシアは、その死と復活という過越を通してその到来を実現されるのです。