福音書の叙述に見られるように、イエスの裁判は歴史的には複雑な出来事でした。したがって、神だけがご存じである裁判の当事者たち(ユダ、最高法院、ピラト)個人の罪がどうであろうと、また、操られた群衆が死刑にすべきだと叫んだり
マルコ15・11参照。、聖霊降臨の後に使徒たちが回心を促しながらユダヤ人たちの態度を非難したとしても、イエスの死の責任をエルサレムのユダヤ人全体に帰すことはできません
使徒言行録2・23,36,3・13-14,4・10,5・30,7・52,10・39,13・27-28、1テサロニケ2・14-15参照。。ご自分を殺す人たちを十字架上でゆるされたイエスも
ルカ23・34参照。、イエスの考えに従って語ったペトロも、指導者を含むエルサレムのユダヤ人が「無知」のためにイエスを殺したことを認めました
使徒言行録3・17参照。。ましてや、「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ27∙25)と全群衆が叫んだからといって
使徒言行録5・28,18・6参照。、イエスの死の責任をあらゆる時代の、あらゆる場所のユダヤ人にまで及ぼすことはできません。
教会は第2バチカン公会議で、次のように宣言しました。「キリストの受難の際に犯されたことの責任を、その当時のユダヤ人すべてに無差別に負わせたり、今日のユダヤ人に負わせることはできません。……ユダヤ人は神から排斥された者とか、のろわれた者とか、あたかも聖書から結論されるかのようにいってはなりません」第2バチカン公会議『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』,第4項(Nostra aetate).。