[687]
「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(一コリント2∙11)。ところで、神を啓示する神の霊は、神のことば、生けるみことばであるキリストをわたしたちに知らせますが、ご自身のことについては話されません。「預言者を通して語られたかた」5は、御父のことばを聞かせますが、ご自分のことは聞かせてくださいません。わたしたちが聖霊について知るのは、ただ、聖霊がみことばを啓示し、信仰によって迎え入れる心構えをさせてくださる働きによってです。キリストを「明らかにする」真理の霊は、ご自分から語るのではないのです6。このような、ご自分を無にする神に固有の聖霊の態度は、なぜ「世は霊を受け入れることができない」かを説明するものです。それは、「世は、霊を見ようとも知ろうともしない」からです。これに反して、キリストを信じる人々は霊を知っています。それは、霊が彼らとともにおられるからです(ヨハネ14∙17)。
[688]
伝えられた使徒たちの信仰の交わりを生きる教会を通して、わたしたちは聖霊を知ることができます。すなわち、
⸺聖霊の霊感によって書かれた聖書、
⸺教会の教父たちがつねにあかししている聖伝、
⸺聖霊に支えられている教会の教導権、
⸺聖霊がことばとしるしとによってわたしたちをキリストに交わらせる、秘跡の典礼、
⸺聖霊がわたしたちのために執り成してくださる祈り、
⸺教会を築くカリスマと種々の奉仕、
⸺使徒的、宣教的生活のさまざまなしるし、
⸺聖霊がご自分の聖性を現し、救いのわざを続けられる聖人たちのあかし、を通して。
[689]
御父がわたしたちの心に遣わされた御子の霊は7、真の神です。御父や御子と同一実体のものであり、聖三位の隠されたいのちにおいても、世界に向けられた無償の愛においても、二者と切り離すことはできません。しかし、教会の信仰は、同一実体の分かつことのできない聖三位、いのちを与える聖三位を礼拝しながら、しかも三つのペルソナの区別を宣言します。御父が御子をお遣わしになるときは、つねに聖霊もお遣わしになります。御子と聖霊の派遣は共同のものです。両者は区別されますが、分離されえません。確かに、キリストは見えない神の見える姿であるということは明らかですが、そのキリストを啓示するのは、聖霊なのです。
[690]
イエスがキリスト、「油を注がれたかた」であるのは、聖霊によって塗油されたからであり、受肉後に起こったすべてのことは、この霊の充満に由来するものです
8。そして、キリストが栄光を受けられてからは
9、今度はキリストが、御父のもとからご自分を信じる人々に霊を遣わすことがおできになるのです。ご自分の栄光を彼らに与えるとは
10、ご自分に栄光を与える聖霊を与えてくださるということです
11。そのとき御父によって、御子のからだの肢体であるご自分の子とされた人々への、御子と聖霊の共同の派遣が展開されていきます。人々を神の子とする霊の派遣は、信じる人々をキリストに一致させ、キリストに結ばれて生きるようにするためなのです。
「塗油の概念から考えられることですが……御子と聖霊との間には何の隔たりもありません。事実、からだの表面と塗られた油との間には理性も感覚も中間物を認めないのと同じく、御子と聖霊との接触は直接的です。ですから、信仰によって御子のからだに触れようとする者は、まず、油に触れなければなりません。実際、御子のからだのいかなる部分も聖霊によって塗られていないところはないのです。それゆえ、御子が主であることを受け入れる人々の信仰告白は、聖霊によってなされます。聖霊は、信仰によって近づく人をどこからでも迎えに来られるからです」12。
[691]
「聖霊」、これが、御父と御子とともにわたしたちが礼拝しあがめるかたの固有の名です。教会はこの名をキリストから教えられ、教会の新しい子らが洗礼を受けるとき、これを宣言します
13。
「霊」とはヘブライ語ルアー(Ruah)の訳で、この語が本来意味するのは息、空気、風です。イエスはニコデモに、まさに風の表象を用いて、神の息であるかた、聖霊の超越的な新しさをほのめかしておられます14。他方、霊と聖とは三者の神に共通な属性です。聖書、典礼および神学用語はこの二つの語を合わせて、他の場合に使用される「霊」と「聖」ということばに込められているものとはまったく別の意味で、ことばではいい表せない聖霊の神的ペルソナを表現しています。
[692]
イエスは聖霊の到来を告げ、約束されるとき、このかたをパラクレートス(Παράκλητος)と呼んでおられます。この語の本来の意味は「そばに呼ばれた者」、弁護者です(ヨハネ14∙16,26、15∙26、16∙7 参照)。パラクレートスは「慰め主」と訳されることがありますが、イエスこそ最初の慰め主であられます15。イエスは、聖霊を「真理の霊」と呼ばれました16。
[693]
使徒言行録や信徒への手紙の中でもっとも多く用いられた聖霊という固有の名のほかに、聖パウロは、約束された霊(エフェソ1∙13、ガラテヤ3∙14 参照)、神の子とする霊(ローマ8∙15、ガラテヤ4∙6 参照)、キリストの霊(ローマ8∙9 参照)、主の霊(二コリント3∙17 参照)、神の霊(ローマ8∙9,14、15∙19、一コリント6∙11、7∙40 参照)という呼び名を用いています。また聖ペトロは、「栄光の霊」(一ペトロ4∙14)という呼称を用いています。
[694]
水。水という象徴は洗礼における聖霊の働きを示します。すなわち、聖霊の助けが呼び求められると、水は新しい誕生をもたらす秘跡的しるしとなります。この世に初めて誕生するまでのわたしたちの成長が水の中で行われるように、洗礼水は神のいのちへの誕生が聖霊において行われることを、実際に示しています。ところが、「一つの霊によって、わたしたちは……洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」(一コリント12∙13)。したがって、霊ご自身が、十字架上のキリストから泉のようにほとばしり17、わたしたちのうちで永遠のいのちへ向けてわき出る生ける水なのです18。
[695]
塗油。塗油という象徴もまた聖霊を示すもので、聖霊と同義語となっているほどです19。キリスト者の入信式で、塗油は堅信の秘跡的しるしですが、これは東方教会において、いみじくも「博膏(ふこう)式」と呼ばれています。その意味内容を完全に把握するには、聖霊によって行われた最初の塗油、すなわち、イエスのそれに戻らなければなりません。キリスト(ヘブライ語で「メシア」)は、神の霊によって「油を注がれた者」を意味します。旧約時代でも、主の「油を注がれた者」20がいて、その中でも傑出しているのがダビデでした21。しかし、イエスは比類のないしかたで神の油を注がれたかたです。なぜなら、御子が取られた人性が、全面的に「聖霊によって油を注がれた」からです。イエスは聖霊によって「キリスト」とされました22。聖霊によっておとめマリアはキリストを懐妊しますが、その降誕の際に聖霊は天使を通してキリストであることを告げ23、主のキリストを神殿でお迎えするようシメオンに働きかけます24。聖霊こそキリストを満たすかたであり25、キリストが治癒と救いのわざをなされるときには26、聖霊の力がキリストから出るのです。イエスを死者の中から復活させたのも聖霊です27。そのとき、死に打ちかった人性をもって完全に「キリスト」とされた28イエスは、聖霊をあふれるほどに注がれ、「聖徒たち」が神の御子の人性に結ばれて、ついには「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(エフェソ4∙13)ようにはからわれます。聖アウグスチヌスは、キリストと結ばれて完全になったこの聖徒たちの総体を「全キリスト」29と表現しています。
[696]
火。水が聖霊において与えられたいのちの誕生と産む力とを意味するのに対して、火は聖霊の働きの変革的な活力を象徴します。預言者エリヤは、「火のよう〔に〕登場し」「彼のことばはたいまつのように燃えて」(シラ48∙1)いました。カルメル山上ではその祈りによって、いけにえの上に天上から火をくだらせます30。この火は、触れるものを変革する聖霊の象徴です。洗礼者ヨハネは、「エリヤの霊と力で」(ルカ1∙17)主に先だって行き、キリストが「聖霊と火で洗礼をお授けになる」(ルカ3∙16)かたであると知らせます。イエスはこの霊について、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12∙49)といわれました。また、聖霊は聖霊降臨の朝、「炎のような」舌の形で弟子たちの上にとどまり、彼らを満たしました31。霊性の伝統は、「〝霊〟の火を消してはいけません」(一テサロニケ5∙19)ということばで表されているこの火の象徴を、聖霊の働きをもっとも如実に表すものとして取り上げています32。
[697]
雲と光。この二つの象徴は、聖霊の現れに際して切り離すことはできません。旧約時代における神の顕現のときから、雲は、時には暗く、時には輝き、その栄光の超越した部分を覆いながらも、いのちある救い主である神ご自身を啓示しています。モーセの場合、雲はシナイ山上で33、集会の幕屋で34、荒れ野を通る間に35、またソロモンの場合、神殿の奉献に際して36現れ出ました。ところで、以上の予型は、キリストにより、聖霊において実現されます。この聖霊はおとめマリアに臨み、マリアが懐妊して幼子イエスを産むように、「その影で」お包みになります37。変容の山では聖霊が雲の形で現れ、イエス、モーセ、エリヤ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを覆い、「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえ」(ルカ9∙34-35)ました。また、昇天の日、イエスは同じ雲に覆われて、弟子たちの「目から見えなく」なられました38。この雲はまた、再臨の日に栄光に輝く人の子を示すことになるのです39。
[698]
証印は、塗油の象徴に近いものです。事実、「父である神が認証された」(ヨハネ6∙27)のはキリストであり、御父はまた、キリストにおいてわたしたちにも証印を押されます40。証印は洗礼、堅信、叙階にあたって聖霊の塗油の結果が消えないものであることを示します。そのため、証印という表象は、ただ一度しか受けられないこの三つの秘跡によって刻まれる消えない「霊印」を表すために、若干の神学的伝統の中で用いられています。
[699]
手。イエスは按手によって病人をいやし41、子供たちを祝福されました42。使徒たちもイエスのみ名において、同じようにしています43。それどころか、使徒たちの按手によって聖霊が与えられました44。ヘブライ人への手紙は、按手をこの手紙の教えの中でも「基本的な項目」としてあげています45。全能の聖霊が注がれることを表すこのしるしを、教会は秘跡の儀式の中での聖霊の働きを求める祈りの中で用いてきました。
[700]
指。「イエスは神の指によって悪魔を追い出されます」46。神の律法が「神の指で」(出エジプト31∙18)石板に書かれたのに対して、使徒たちの手にゆだねられた「キリストの手紙」は「生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた」(二コリント3∙3)ものです。「ヴェニ・クレアトル・スピリトゥス(創造主である聖霊、来てください)」の聖歌では、聖霊を「御父の右手の指」47と呼んでいます。
[701]
はと。大洪水(洗礼に関する象徴)の終わりに、ノアが放ったはとはくちばしにみずみずしいオリーブの小枝をくわえて戻ってきましたが、これは土地が再び住めるようになったしるしでした48。キリストが洗礼の水から上がられた後、聖霊ははとの形でキリストの上にくだってとどまりました49。霊は受洗者の清められた心にくだってとどまります。ある聖堂では、聖体が祭壇の上にっり下げられたはとの形の金属製聖櫃(columbarium)に安置されています。聖霊を表すはとの象徴は、キリスト教の聖画像では伝統的なものになっています。
[702]
初めから「時の満ちる」まで
50、みことばと御父の霊との共同の使命は
隠されてはいたものの、すでに行われていたのです。その間、神の霊はメシアの時代を準備され、両者ともまだ完全に明らかにされてはいませんでしたが、すでに、待望の的となり、両者が現れるとき受け入れられるよう、約束されていました。ですから、教会は旧約聖書を読むとき
51、「預言者たちを通して語られた」
52霊がキリストについて何を示されたのかを、その中に探し求めるのです
53。
ここで「預言者たち」といわれているのは、旧約時代であれ新約時代であれ、神のことばの告知や聖書の執筆に際して聖霊が霊感を与えたすべての人のことであると、教会は信じ考えています。ユダヤ人の伝統は、旧約聖書を、律法の書(モーセ五書)、預言者の書(キリスト教の用語で歴史書と預言書といわれるもの)、および諸書(とくに知恵文学に属するもの、わけても詩編)の三つに区別しています54。
[703]
すべての被造物の存在といのちの源は、神のことばとその息吹です
55。
「被造物を治め、聖化し、生かすことは、聖霊にふさわしい働きです。聖霊は御父および御子と同一実体の神だからです。……神として、すべての被造物を力づけ、それらを御父および御子のうちに保たれるのです」56。
[704]
「人間に関していえば、神はまさにご自分の両手(すなわち、御子と聖霊)をもって人間を造り上げられました。……見えるものもまた神の姿を現すように、造り上げた肉の上に、ご自分の姿を描かれました」57。
[705]
人間は罪と死によって醜く変貌しましたが、それでもなお「神にかたどられたもの」、御子にかたどられたものです。とはいえ、「神の栄光を受けられなくなり」58、神に「似たもの」ではなくなりました。アブラハムになされた約束で開始した救いのわざは、御子ご自身が「人間の姿」59を取ることにより、人間に栄光、すなわち「いのちを与える」霊を再び与えて、御父の「似姿」を取り戻させました。
[706]
神は、あらゆる人間的な予想に反して、アブラハムに子孫を約束されますが、それは信仰と聖霊の力との実りでした60。彼の子孫において地上のすべての民は祝福されるでしょう61。この子孫とはキリストであり62、キリストによって聖霊が注がれ、散らされている神の子たちは一つに集められるのです63。神は、誓約によって自らに義務を負わせることによって64、最愛の御子65とご自分のものとされた民のあがないを準備される約束の霊とを与えるという義務も自らに負わせられたのです66。
[707]
族長たちからモーセやヨシュア、そして偉大な預言者たちの使命を開始させる神の幻視のときまで、神の顕現が約束の道を照らし続けます。これらの顕現において、神のみことば(御子)は聖霊の雲の中ですでに「覆われた」形で啓示されていたのだと、キリスト教の伝承はつねに認めてきました。
[708]
こうした神の教育法は、とくに律法の授与に表されています67。律法は、民をキリストに導く「養育係」のようなものとして与えられました68。しかし、神の「似姿」を失った人間を救うためには無力で、しかも、ますます罪を知らせるにすぎなかったため69、聖霊への待望をかきたてたのです。詩編のうめき声が、これをあかししています。
[709]
約束と契約のしるしである律法は、アブラハムの信仰から生まれた民の心と制度とを統御するはずでした。「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、……あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19∙5-6)70と神はいわれます。しかし、ダビデの後、イスラエル民族は誘惑に負け、他の国々のような王国になってしまいました。ところが、ダビデになされた約束の王国は71聖霊のわざとなります。すなわち霊によって貧しい人々のものとなるのです。
[710]
律法を無視することや契約への不忠実は死をもたらします。バビロン捕囚はこの死です。これは、約束の挫折に見えても、実際は救う神の神秘な忠実さを示し、約束された霊による再興の初めとなるものでした。神の民はこの浄化に耐えなければなりませんでした72。神の計画の中で、バビロン捕囚はすでに十字架の影に覆われています。そして、捕囚から帰還する貧しい残りの者は、きわめて明白に教会を示す予型の一つとなっているのです。
[711]
「見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ43∙19)。預言の二つの路線、すなわちメシアへの待望および新しい霊の告知の路線は、徐々に発展しながら、「イスラエルの慰め」と「エルサレムの救い」(ルカ2∙25,38)を待望する小さな「残りの者」、貧しい民に集中していきます
73。
イエスがご自分に関する預言をどのように成就されたかは、すでに説明しました。ここでは、メシアとその霊との関係がよりはっきりと表れている預言だけに限定して述べます。
[712]
待望の
メシアの姿の特徴は、(「イザヤは、〔キリストの〕栄光を見た」〈ヨハネ12∙41〉という)インマヌエルの書
74、とくにイザヤの 11 章1から2節で現れはじめます。
「エッサイの株からひとつの芽がもえいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、おそれ敬う霊」。
[713]
メシアの姿の特徴は、とくに主のしもべの歌の中に示されます75。これらの歌はイエスの受難の意味を告げ、また、イエスが多くの人を生かすためどのように聖霊を注ぐかを表しています。イエスがこれを成し遂げるのは、外部からの働きによってではなく、「しもべの身分」(フィリピ2∙7)になられることによってなのです。彼はわたしたちの死をご自分の身に受け、ご自分のいのちの霊をわたしたちに与えることができるのです。
[714]
そこでキリストは、イザヤの次のくだりをご自分に当てはめながら、福音を告げ知らせ始められます(ルカ4∙18-19 参照)
76。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである」。
[715]
聖霊の派遣に直接かかわりのある預言のくだりは、神が約束のことばを用いて、民の心にご自分の愛と忠実を表しながら77語られる神託の部分ですが、聖ペトロは聖霊降臨の朝に、これが成就したことを宣言することになります78。これらの約束によれば、「終わりの時に」、主の霊が人々の心を一新し、新しいおきてをそのうちに刻み、四散し分裂していた民を集め、和解させ、最初の被造界を新にしてくださるはずです。そして、神はそこで、人間とともに平和に住まわれます。
[716]
「貧しい人々」79、神の神秘な意図に完全に身をゆだねた謙虚で柔和な人々、人間の正義ではなくメシアの正義を待望する人々からなる民が存在し続けることができたのは、実は、約束の時代の間キリストの到来に備えるためになされた聖霊の隠れた偉大な働きだったのです。霊によって清められ、照らされたこの人たちの美しい心は、詩編の中に表されています。霊はこの貧しい人々のうちに、主のために「準備のできた民」80を用意しているのです。
[717]
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」(ヨハネ1∙6)。ヨハネは「母の胎にいるときから聖霊に満たされて」(ルカ1∙15)いました81。それは、おとめマリアが聖霊によって宿されたばかりのキリストご自身の力によるものです。こうして、マリアのエリサベト「訪問」は、神のその民への訪れとなりました82。
[718]
ヨハネは「来るはずのエリヤ」です83。霊の火がそのうちに住み、訪れようとしておられる主の先駆者として進ませます。先駆者ヨハネをもって、聖霊は、「準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1∙17)というわざを完了なさいます。
[719]
ヨハネは「預言者以上の者」です84。聖霊はヨハネをもって、「預言者たちを通して話される」ことを終了します。ヨハネは、エリヤによって始まった預言者たちの時代に終止符を打ちます85。彼は、イスラエルの慰めが近づいていることを告げる、慰め主そのものの「声」です86。真理の霊が行うように、ヨハネは「あかしをするため」「光についてあかしをするため」(ヨハネ1∙7)に来たのです87。このように、ヨハネにおいて、霊は「預言者たちが探求したこと」、天使たちが「願っていたこと」をまっとうされます88。「『〝霊〟がくだって、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』。わたしはそれを見た。だから、このかたこそ神の子であるとあかししたのである。……見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1∙33-36)。
[720]
聖霊は、人間を再び「神に似たもの」とするわざを、洗礼者ヨハネの働きによってあらかじめ示し始められます。そしてそれを、キリストとともにキリストにおいて実現されます。ヨハネの洗礼は人間を悔い改めさせるためのものでしたが、水と霊とによる洗礼は新しい誕生をもたらすものとなります89。
[721]
この上なく聖なる神の母、終生おとめであるマリアは、時が満ちた時点での御子と聖霊の派遣による何ものにも代えがたいすばらしい成果なのです。救いの計画の中で初めて、御父は御子と聖霊とが人間の間に住むことのおできになる住まいを見つけられます。ご自分の霊がこれを整えられたからです。この意味で、教会の伝承はしばしば、知恵に関するもっとも美しい聖書のテキストをマリアに当てはめて解釈しています90。マリアは、典礼の中で「英知の座」として示され、たたえられています。
マリアのうちに、霊がキリストと教会とにおいて成し遂げようとされる「神の偉大なわざ」が現れ始めたのです。
[722]
聖霊は、マリアを恵みによって準備されました。「神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサイ2∙9)いるキリストの母は、「恵みに満ちあふれたかた」でなければなりませんでした。マリアは、無償の恵みによって、人々の間でもっともつつましいかた、全能者のえもいわれぬたまものをもっとも素直に受け止めることができる者として、原罪の汚れなく宿られました。ですから、天使ガブリエルがマリアに、「シオンの娘」として、「喜びなさい」とあいさつしたのは、まことにふさわしいことでした91。マリアが、永遠の御子を懐妊したときに歌った賛歌の中で92、聖霊において御父にささげた感謝は、実は神の民全体、つまり全教会の感謝なのです。
[723]
聖霊はマリアにおいて、御父のいつくしみ深い計画を実現されます。マリアは聖霊によって神の御子を懐妊し、出産します。そして、おとめでありながら、聖霊と信仰との力によって比類のない母となります93。
[724]
聖霊はマリアにおいて、おとめの子となられた御父の御子を現されます。マリアは神の決定的な顕現の「燃える柴」なのです。聖霊に満たされたマリアは、みことばを自分のからだから生まれた人間として示し、「貧しい人々」94と諸国民の初穂となる人々95に御子を知らせます。
[725]
聖霊はマリアを通して、神の慈愛(神の「善意」)の的96である人々をキリストとの交わりに迎え入れ始められます。謙虚な人たちが、いつも真っ先にキリストを迎えています。羊飼い、占星術の学者たち、シメオン、アンナ、カナの夫婦、そして最初の弟子たちがそうです。
[726]
霊のこの働きの終わりに、マリアは、あの「婦人」、「すべていのちあるものの母」である新しいエバ、「全キリスト」の母97となります。マリアはまさにこのような資格で、聖霊降臨の朝、霊が教会の誕生とともに始めようとする「終わりの時代」の始まりに、「心を合わせて熱心に祈〔る〕」(使徒言行録1∙14)使徒たちの間にいるのです。
[727]
時が満ちて御子と聖霊とが果たされたすべての働きは、その受肉以来、御子が御父の霊によって油注がれたかたであるということにかかわるものです。イエスはキリスト、メシアなのです。
信条の第2章全体は、この光のもとで読まなければなりません。キリストのわざはすべて、御子と聖霊との共同の働きです。ここでは、イエスによる聖霊の約束と、栄光を受けたキリストが聖霊をお与えになったことについて述べるにとどめます。
[728]
イエスは、死と復活とによって栄光を受けるまでは、聖霊について完全には明かしておられません。とはいえ、たとえば群衆に教えながら、ご自分の肉が人々のいのちの糧であると明かされたとき98のように、少しずつ教えておられます。また、ニコデモ99、サマリアの女100、仮庵祭に加わった人たち101にも教えておられます。弟子たちには、祈りと102、弟子たちが立てるべきあかしに関する教えの中で103、公然と聖霊について語っておられます。
[729]
イエスは、栄光を受ける「時」が訪れたときに、はじめて聖霊の到来を約束されました。なぜなら、イエスの死と復活とは先祖たちになされた約束の成就だからです104。イエスの祈りに答えて、御父が真理の霊、別の弁護者をお与えになります。イエスの名によって、御父が聖霊をお遣わしになるのです。イエスは御父のもとから聖霊をお遣わしになります。それは、聖霊が御父から発出しているからです。聖霊がおいでになって、わたしたちは聖霊を知るでしょう。聖霊はいつまでもわたしたちとともにおり、わたしたちとともにとどまり、すべてを教え、キリストがわたしたちに話されたすべてを思い起こさせ、キリストをあかしし、わたしたちを真理のすべてに導き、キリストに栄光を帰されるでしょう。世に関していえば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにされるのです。
[730]
ついに、イエスの「時」が到来します105。イエスは死に直面して、ご自分の霊を御父の手におゆだねになります106。そのとき、イエスは死に打ちかたれました。「御父の栄光によって死者の中から復活させられ」(ローマ6∙4)るや、弟子たちに「息を吹きかけ」て、聖霊をお与えになります107。その「時」以来、キリストと聖霊との派遣は教会の派遣となるのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20∙21)108。
[731]
聖霊降臨の日(過越の七週間の終わりに当たる)に、キリストの過越は、聖霊の注ぎで完成します。そのとき、聖霊は神のペルソナとして現れ、与えられます。この日、主であるキリストはその満ちあふれるところから、霊をあふれるほどに注がれます109。
[732]
この日、聖三位が完全に啓示されます。この日から、キリストによって告げ知らせられた神の国は、キリストを信じる人々に開かれます。彼らは人間としての弱さを持ちながら、信仰によってすでに聖三位の交わりにあずかります。聖霊はたえず訪れ、世界を「終わりの時代」、教会の時代、神の国に導き入れます。その神の国はすでに始まっていますが、まだ完成したわけではありません。
「わたしたちは真の光を見、天上の霊を受け、真の信仰を見いだしました。そして、分かたれない聖三位を礼拝します。わたしたちを救ってくださったのは、聖三位だからです」110。
[733]
「神は愛です」(一ヨハネ4∙8,16)。神の愛は第一のたまものであり、この愛のうちに他のすべてのたまものが含まれています。この愛は「わたしたちに与えられた聖霊によって、わたしたちの心に注がれて」(ローマ5∙5)います。
[734]
わたしたちは罪によって死んでいるか、あるいは少なくとも傷ついているので、愛のたまものの第一の効果は、わたしたちの罪のゆるしです。教会の中での「聖霊の交わり」(二コリント13∙13)を通して、罪のためにそうではなくなっていたのに、再び神に似た者とされるのです。
[735]
そのとき、聖霊はゆだねられたわたしたちの遺産の「保証」あるいは「初穂」を与えてくださいます111。それは聖三位のいのちそのもの、イエスが「わたしたちを愛してくださったように」112愛し合ういのちです。この愛(一コリント13章参照)はキリストに結ばれた新しいいのちの原理であって、その愛に生きることができるのは、「聖霊がくだ〔って、わたしたちが〕力を」(使徒言行録1∙8)いただいたからです。
[736]
この聖霊の力によってこそ、神の子らは実を結ぶことができます。わたしたちを真のぶどうの木に接いでくださった霊は、わたしたちに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5∙22-23)の実を結ばせてくださいます。霊はわたしたちのいのちです。わたしたちが自分を捨てる度合いに応じて
113、霊の導きに従って生きることになるのです
114。
「聖霊は、わたしたちを楽園に復帰させ、天の国へ昇らせ、神の子らの身分に戻させてくださいます。また、神を父と呼び、キリストの恵みにあずかり、光の子と呼ばれ、永遠の栄光にあずかる勇気を与えてくださいます」115。
[737]
キリストと聖霊との派遣は、キリストのからだであり、聖霊の神殿である教会において実現されます。このときから、両者の派遣はキリスト者を、聖霊において御父と交わっておられるキリストとの交わりにあずからせます。聖霊は人々をキリストに引き寄せるため、先に恵みを与えて彼らを準備してくださいます。聖霊は復活された主を示し、キリストのことばを思い起こさせ、キリストの死と復活の意味を悟らせてくださいます。また聖霊は、とくにエウカリスチア(感謝の祭儀)においてキリストの神秘を現在化し、それによって人々を和解させ、神との交わりに入れ、「多くの実を結ぶ」116ことができるようにしてくださいます。
[738]
したがって、教会の派遣はキリストと聖霊との派遣に追加されるものではなく、両者の派遣を表す秘跡なのです。つまり、教会はその全存在を挙げて、すべての成員とともに、聖三位の交わりの神秘を告げ知らせ、あかしし、現在化し、広めるために派遣されているのです(この問題については次の項で取り扱います)。
「わたしたちは皆、ただ一つの同じ霊、すなわち聖霊を受け、相互に、また神と混ぜ合わされた状態になっています。というのは、個別では大勢であっても、キリストが御父およびご自分の霊であるかたをわたしたち各自のうちに住まわせ、この唯一の、分かたれない霊が、互いに異なる者たちをご自分によって一致させ、……わたしたちが皆、ご自分においてただ一つのものであるかのようにしてくださるからです。思うに、キリストの聖なる人性の力がこれに結ばれているすべての人々をただ一つのからだに形づくられるのと同じように、わたしたちすべてのうちに住まわれる神の唯一の分かちえない霊が、すべての者を霊的一致に導かれるのです」117。
[739]
聖霊はキリストの塗油であるので、からだの頭であるキリストは、聖霊を肢体に注ぎ、これを養い、いやし、相互の機能を整え、生かし、派遣してあかしを立てさせ、ご自分の御父への奉献と、世界全体のための執り成しにあずからせてくださるのです。キリストは教会の諸秘跡を通して、ご自分のからだの肢体にご自分の聖なる聖化する霊をお与えになります(この問題は第2編で取り扱われます)。
[740]
教会の諸秘跡において信者に提供されている「神の偉大なわざ」は、キリストに結ばれた新しいいのちの中で、霊に従って実を結びます(この問題は第3編で取り扱われます)。
[741]
「霊は弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、ことばに表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8∙26)。神のわざを完成なさるかたである聖霊は、祈りの師なのです(この問題は第4編で取り扱われます)。
[742]
「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実からわかります」(ガラテヤ4∙6)。
[743]
世の初めから終わりまで、神が御子を遣わされるときにはいつも、ご自分の霊も遣わされます。御子と聖霊との派遣は共同で、分かつことができません。
[744]
時が満ちると、聖霊は、神の民の中でキリストを迎えるために行われていたすべての準備を、マリアにおいてまっとうされます。マリアのうちで行われた聖霊の働きによって、御父はインマヌエル、「わたしたちとともにおられる神」(マタイ1∙23 参照)を世にお与えになります。
[745]
神の御子は受肉に際して聖霊の塗油を受け、キリスト(メシア)として聖別されます118。
[746]
イエスはその死と復活とによって、栄光の主、栄光のキリストとされました119。そして、その満ちあふれるところから使徒たちと教会とに聖霊を注がれます。
[747]
頭であるキリストが肢体に注がれる聖霊は、教会を建て、生かし、聖化されます。教会は聖三位と人間との交わりの秘跡です。