[811]
「これこそキリストの唯一の教会です。わたしたちはこの教会を信条の中で、一、聖、公(普遍)、使徒継承であると宣言します」 『教会憲章』,第8項。。相互に不可分なこの四つの特質は検邪聖省『英国の司教にあてた書簡』(1864年9月14日) (DS2888)参照。、教会とその使命の本質的特徴です。教会はこれらを自ら得たわけではありません。聖霊を通して、ご自分の教会を一、聖、普遍、使徒継承の教会となさったのはキリストであり、またキリストが、この四つの特質のおのおのを実現するように教会を促しておられるのです。
[812]
教会が以上の特徴を神から受けていると認めるのは、信仰以外にありません。しかし、これらのしるしは歴史の中に現れ、人間理性にも明らかに語りかけています。第1バチカン公会議は、次のように述べています。「教会の特性として挙げることができる聖性、普遍的一致、揺るがない恒常性という事実を眺めただけでも、教会は信じるに値するのだという力強くてだれにでも通用する理由となり、教会は神から派遣されているのだという反論の余地のない証拠となります」第1バチカン公会議教義憲章『デイ・フィリウス』第3章(Dei Films: DS3013)。。
[813]
教会は、その源からして一つです。「この神秘の最高の範型および源泉は三つの位格における唯一の神の単一性、『父と・子と・聖霊において』の単一性です」
『エキュメニズムに関する教令』,第2項。。教会は、
その創立者からして一つです。「受肉された子は平和の君であり、自ら十字架によってすべての人を神に和解させ、一つの民、一つのからだのうちにすべての人の一致を再建した」
『現代世界憲章』,第78項。からです。教会は、
その「魂」からして一つです。「信じる者の中に住み、全教会を満たし治めておられる聖霊は、信者の感嘆すべき交わりを実現し、すべての人をキリストにおいて固く結び合わせて、教会の一致の源泉となっています」
『[エキュメニズムに関する教令』2。。したがって、一つであるということは、教会の本質そのものに属することです。
「何と驚嘆すべき神秘でしょうか。唯一の宇宙の御父、唯一の宇宙のみことば、さらに、唯一のどこにでも存在する聖霊がおられます。また、母となられたただ一人のおとめがおられますが、わたしは好んで、彼女を教会と呼んでいます。」アレクサンドリアのクレメンス『教育者』 (Paedagogus 1, 6, 42: GCS 12, 115 [PG 8, 3001)。
[814]
とはいえ、この一つである教会は、最初からかなりの多様性を表しています。それは神のたまものが多種多様であり、これをいただく人々が多数であることに由来します。さまざまな民族と文化とが神の民の一致の中に集められ、教会の成員の間には、多様なたまもの、任務、境遇、生活様式が見られます。「教会という共同体の中にも、独自の伝統を保つ諸部分教会が合法的に存在します」『教会憲章』,第13項。。このように多種多彩な様相は、教会が一つであるということに反するものではありません。しかし、罪とその重い結果とが、一致のたまものをたえず損なおうとしています。ですから、使徒パウロは「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4∙3)と励ましているのです。
[815]
一致のきずなとはどのようなものでしょうか。何よりも、「すべてを完成させるきずなである」(コロサイ3∙14)愛にほかなりません。しかし、旅する教会の一致はまた、共通の見えるきずなによっても保証されています。
⸺使徒伝来の唯一の信仰宣言によって、
⸺神への礼拝、とくに秘跡の共通の挙式によって、
⸺神の家族の兄弟的和合を維持する、叙階の秘跡による使徒継承によって『エキュメニズムに関する教令』,第2項、『教会憲章』,第14項参照。。
[816]
「これこそキリストの唯一の教会です。……わたしたちの救い主はご復活の後、この教会を牧するようにペトロに渡され、それを広め治めるようペトロと他の使徒たちにゆだねられました……。この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者と彼と交わりのある諸司教によって治められているカトリック教会のうちに存在します」
『教会憲章』,第8項。。
第2バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、次のように詳説しています。
「キリストのカトリック教会は救いの全般的な助けなのであって、この教会を通してのみ、救いの諸手段のすべての充満が得られます。主はペトロを頭とする唯一の使徒団に新約のすべての富をゆだねられたとわたしたちは信じます。それはキリストの唯一のからだを地上に造るためであり、すでに神の民にある程度属している人は皆、このキリストの唯一のからだに完全に合体しなければならないのです」『エキュメニズムに関する教令』,第3項。。
[817]
ところが、「神のこの単一唯一の教会の中に、すでに初期のころから、ある分裂が起こりました。それを断罪すべきものとして使徒は激しく非難しています。後代になってもっと重大な不一致が起こり、かなり大きな諸集団がカトリック教会の完全な交わりから分かれましたが、時には、双方の人々の過失がなかったわけではありません」
『エキュメニズムに関する教令』,第3項。。キリストのからだの一致を損なう決裂(異端、背教、離教に区分される)
「新教会法典」第751条参照。は、人間の罪なしには起こらないことです。
「罪のあるところ、そこには多くのものの分離があり、分裂があり、異端があり、紛争があります。逆に、徳のあるところ、そこには一致があり、この一致によってすべての信者はただ一つのからだ、ただ一つの魂を持っていたのです」オリゲネス『エゼキエル書講話』 (Origenes, In Ezechielem homilia 9. 1 : SC 352, 296 [PG 13, 732])。。
[818]
このような決裂に由来する種々の教団の中で現在生まれる人々、また「キリストの信仰に育てられた人々に、分離の責めを負わせることはできません。カトリック教会は彼らを兄弟に対する尊敬と愛をもって抱擁します。……信仰により洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、カトリック教会の子らから主における兄弟として当然に認められるのです」『エキュメニズムに関する教令』,第3項。。
[819]
さらに、カトリック教会の目に見える境界外には、「成聖と真理の要素が数多く」『教会憲章』,第8項。存在しています。「書き記された神のみことば、恩恵の生命、信仰、希望、愛、聖霊のその他の内的たまものや見える諸要素」 『エキュメニズムに関する教令』,第3項。『教会憲章』,第15項参照。などがそうです。キリストの霊は、これらの諸教会や諸教団を、キリストがカトリック教会におゆだねになった満ちあふれる恵みと真理とに由来する力を持った救いの手段として用いられます。こうしたすべての恵みは、キリストに由来し、キリストへ導くもので『エキュメニズムに関する教令』,第3項参照。、それ自体「カトリック的一致」『教会憲章』,第8項。へと招くものです。
[820]
一致は「キリストがご自分の教会に当初から与えられたものであり、わたしたちはそれが失われることのできないものとしてカトリック教会の中に存在していることを信じ、世の終わりまでそれが日々成長していくことを希望します」『エキュメニズムに関する教令』,第4項。。キリストはご自分の教会につねに一致のたまものをお与えになりますが、教会は、キリストが教会のために望まれる一致を維持し、強化し、完全にするため、たえず祈り、努力しなければなりません。ですから、キリストご自身、受難のときに、弟子たちの一致のため御父に祈り、またたえず祈り続けておられます。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17∙21)。すべてのキリスト者の一致を回復するとの望みは、キリストのたまもの、聖霊の呼びかけです『エキュメニズムに関する教令』,第1項参照。。
[821]
この呼びかけにふさわしく応じるには、次のことが必要です。
⸺自らの召命にいっそう忠実にこたえようとする教会の不断の刷新⸺この刷新は一致への動きの原動力です『エキュメニズムに関する教令』,第6項参照。。
⸺「福音に従ってより清い生活を送るように努力」『エキュメニズムに関する教令』,第7項。するための心からの回心一分裂を引き起こすのは、信者たちがキリストのたまものに不忠実だからです。
⸺共同の祈り一実際、「回心と聖なる生活とは、キリスト教徒の一致のために行われる私的および公的祈願とともに、全エキュメニカル運動の魂とみなすべきであり、霊的なエキュメニズムと正当に呼ぶことができます」『エキュメニズムに関する教令』,第8項。。
⸺兄弟的相互理解『エキュメニズムに関する教令』,第9項参照。。
⸺信者、とくに司祭のための教会一致についての教育『エキュメニズムに関する教令』,第10項参照。。
⸺神学者間の対話と、諸教会、諸教団のキリスト者間の会合『エキュメニズムに関する教令』,第4項,第9項,第11項参照。。
⸺人々への奉仕の異なる分野におけるキリスト者間の協力『エキュメニズムに関する教令』,第12項参照。。
[822]
「一致を回復しようとする配慮は信者も牧者も含む全教会にわたることです」『エキュメニズムに関する教令』,第5項。。しかしまた、「キリストの単一唯一の教会の中にすべてのキリスト教徒を和解させるというこの聖なる目標が人間の力と才能を超えるものであることを」知っておかなければなりません。したがってわたしたちは、「キリストの教会のための祈りと、父のわたしたちに対する愛と、聖霊の力とに」『エキュメニズムに関する教令』,第24項。全幅の信頼を寄せるのです。
[823]
「教会は聖であり、これを欠くことがないことを人は信仰によって信じています。事実、父と霊とともに『ただひとり聖なり』とたたえられる神の子キリストは、教会をご自分の花嫁として愛し、彼女を聖とするためおのれを彼女のために渡し、神の栄光のために彼女をご自分のからだとして自らに結び合わせ、聖霊のたまものをもって満たされました」『教会憲章』,第39項。。したがって、教会は「神の聖なる民」『教会憲章』,第12項。であり、その成員は「聖徒」と呼ばれます使徒言行録9・13、1コリント6・1,16・1参照。。
[824]
キリストに結ばれた教会は、キリストによって聖化されます。また、キリストによって、キリストにおいて人々を聖化します。「キリストにおける人間の聖化と……神の栄光こそ、教会の他のすべての働きが目的として目指していることなのです」『典礼憲章』,第10項。。教会を通してのみ、「救いの諸手段のすべての充満」 『エキュメニズムに関する教令』,第3項.が得られるのです。教会の中でこそ、わたしたちは「神の恩恵により聖性を獲得するのです」 『教会憲章』,第48項。。
[825]
「教会はすでに地上において、不完全ではあるが真の聖性で飾られています」『教会憲章』,第48項。。その成員が完全な聖性に至るのは、まだ先のことです。「これほど多くの優れた救いの手段に恵まれているキリスト信者はすべて、どのような生活条件と身分にあっても各自自分の道において、父ご自身が完全であるあの聖そのものの完成に達するよう主から招かれているのです」『教会憲章』,第11項。。
[826]
愛はすべての者が召されている聖性の魂です。愛は「成聖のすべての手段を支配し、生かし、目的に導きます」
『教会憲章』,第42項。。
「わたしは、もし教会がいろいろな異なる肢体から成り立っている一つのからだであるならば、あらゆる肢体の中でもいちばん必要で、もっとも高貴なものが欠けているはずはないと悟りました。教会にも一つの心臓があり、この心臓は愛に燃えていると悟ったのです。愛だけが教会の肢体を行動に駆り立てているのであって、万が一愛が消えるようなことがあれば、使徒たちは福音をのべるのをやめ、殉教者たちは自分の血を流すことを拒むであろうと悟りました。……わたしは悟ったのです。愛は、ありとあらゆる召命を含み、愛はすべてであり、あらゆる時代、あらゆる場所を包含する、一言でいえば、愛は永遠である、と」幼いイエスの聖テレジア『自叙伝』 (S. Therese de l'Enfant-Jesus, Manuscrit B, 3v : Manuscrits autobiographiques [Paris 1992] 299)。。
[827]
「キリストは『聖にして、罪なく、汚れなく』、罪を知らず、ただ人々の罪を償うためにのみ来られたのですが、教会は自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続けるのです」
『教会憲章』,第8項. 『エキュメニズムに関する教令』,第3項,第6項参照。。教会の成員は、聖職者も含めて皆、罪びとであることを認めなければなりません
1ヨハネ1・8-10参照。。世の終わりが来るまでは、すべての人の中で、罪の毒麦が福音のよい種に混じっています
マタイ13・24-30参照。。だから教会は、罪びとを集めているのです。この罪びとたちはキリストに救われてはいますが、つねに聖化の途上にあるのです。
「教会が自分のふところに罪びとを抱えているとはいえ聖であるのは、教会自身が恩恵の生命しか持たないからです。教会の民が聖とされるのは、その生命により生きることによってです。もしその教会から離れるならば、罪と汚れに覆われ、教会の聖性の輝きが妨げられます。教会はこれらの罪のために苦しみ、償いを行いますが、それは教会が、キリストの御血と聖霊のたまものを通してその罪から自分の子らをいやす権能を有しているからです」パウルス6世『神の民のクレド』,第19項(Sollemnis Professio fidei : AAS 60 [1968] 440)。。
[828]
教会は、ある信者たちを列聖することによって、つまり、彼らが諸徳を勇敢に実践し、神の恵みに忠実に生きたことを荘厳に宣言することによって、自分のうちにある聖化の霊の力を再認識し、聖人たちを模範ならびに取り次ぎ手として信者たちに示し、彼らの希望を支えます『教会憲章』,第40項,第48項〜第51項参照。。「聖人は、教会の歴史を通してもっとも困難な時期にあって、つねに刷新の源、始まりとなった人たちでした」ヨハネ・パウロ2世『信徒の召命と使命』16(loc. cit., 417)。。事実、「聖性は、使徒的活動と宣教の努力の隠れた源泉、および絶対確実な規範なのです」同17(loc. citリ419-420 。。
[829]
「教会は聖なる処女において、しみもしわもない完成にすでに到達しているのですが、キリスト者は罪を克服し聖性において成長するよう、まだ努力している段階にあります。したがってマリアに目を上げます」『教会憲章』,第65項。。マリアにおいて、教会はすでにまったく聖なるものなのです。
[830]
「カトリック」ということばは、「普遍」という意味です。これを文字どおり訳せば、「すべてに及ぶ」もしくは「すべてを含む」という意味になります。教会は次の二つの意味で普遍なのです。
まず、教会のうちにキリストが現存されるので、普遍です。「キリスト・イエスのおられるところ、そこに普遍教会があります」アンティオキアの聖イグナティオス『スミュルナの信徒への手紙』 (S. Ignatius Antiochenus, Epistula ad Smyrnaeos 8, 2 : SC 10bis, 138 [Funk 1, 282])。。教会はキリストのからだとして、その頭に結ばれて、すべてにおいてすべてを満たしているかたの満ちておられる場ですエフェソ1・22-23参照。。したがって、教会はキリストから、キリストが与えようとされた「救いの諸手段のすべての充満」『教会の宣教活動に関する教令』,第6項.を受けていることになります。その手段とは、正しく完全な信仰宣言、完全な秘跡生活、使徒継承による叙階された奉仕職です。この基本的意味で、教会は聖霊降臨の日から普遍なのです『教会の宣教活動に関する教令』,第4項参照。。またキリストの再臨の日まで、つねにそうであり続けるでしょう。
[831]
教会が普遍であるのはまた、キリストによって全人類に派遣されているからです
マタイ28・19参照。。
「人は皆神の新しい民に加わるように招かれています。そのためにこの民は、単一、唯一のものとして存続しながら、全世界に向かって、またあらゆる時代を通して広がるべきものです。それは、初めに人間性を一つのものとして造り、分散してしまったご自分の子らを、ついに一つに集めることを決定された神のご意向が成就されるためです。
……神の民を飾るこの普遍性は、主ご自身からのたまものであって、カトリック教会はこのたまものによって、全人類をそのすべての富とともに、頭であるキリストのもとに、キリストの霊による一致において集中するよう、効果的に、たえず努力しているのです」 『教会憲章』,第13項,。
[832]
「キリストのこの教会は、信者の正当なすべての地方的集まりの中に真実に存在するのであって、その牧者たちに一致しているこれらの集まりそのものも、新約の中で教会と呼ばれています。……これらの教会の中で、キリストの福音の宣教によって信者が集められ、……主の晩さんの神秘が祝われます。これらの共同体の中に、たとえそれがしばしば小さく貧しく散在しているものであっても、キリストはそこに存在しておられ、キリストの力によって、一、聖、普遍、使徒継承の教会が集まるのです」『教会憲章』,第26項。。
[833]
部分教会とは、第一に教区(東方教会ではエパルキア)のことであり、使徒継承に従って叙階された司教と結ばれて、信仰と秘跡とに生きるキリスト信者の共同体を意味します第2バチカン公会議『教会における司教の司牧任務に関する教令』,第11項(Christus Dominus)、「新教会法典」第368-369条、「東方教会法典」第177条第1項、178条、311条第1項、312条参照。。部分教会は「全教会の像に似て形造られ、それらの中に、またそれらから、唯一単一のカトリック教会が存在します」『教会憲章』,第23項。。
[834]
諸部分教会は、その中の一つであり、「愛において首位を占める」アンティオキアの聖イグナティオス『ローマの信徒への手紙』 (S. Ignatius Antiochenus, Epistula ad Romanes, Inscr. : SC 10bis, 106 [Funk 1, 2521)。ローマ教会との交わりによって、完全に普遍教会となっています。「ローマの教会は、より優れた起源を持つので、各教会、すなわち、世界中のすべての信者は、当然、この教会と一致していなければなりません」聖エイレナイオス『異端反駁』 (Adversus haereses 3, 3, 2:SC211, 32 [PG7,849])。 第1バチカン公会議教義憲章『パストル・エテルヌス』第2章(Pastor aeternus : DS3057)参照。。「実際、人となられたみことばがわたしたちのもとにくだられてから、全世界にあるすべてのキリスト者たちの教会は当地(ローマ)の偉大な教会を唯一の礎、土台とみなしてきましたし、また今もそうです。なぜなら、主ご自身の約束に従えば、地獄の門は決してこの教会にまさったことがないからです」証聖者聖マクシモス『神学的・論争的論文集』 (S. Maximus Confessor, Opuscula theologica et polemica : PG 91, 137-140)。。
[835]
「普遍教会をそれぞれ異なった部分教会の総合体、あるいは連合体のごときものと考えてはなりません。主キリストのご意志によって、召命と使命において普遍的な教会、その同じ教会が、風土、文化、社会などを異にするところに根をおろすとき、それぞれの特徴や表現を帯びるのです」パウルス6世使徒的勧告『福音宣教』62 (Evangelii nuntiandi : AAS 68 [1976] 52。。それぞれの地方教会に固有の、きわめて多様な教会規律、典礼、神学的・霊的伝統は「一致の中にまとまっているので、分かたれない教会の普遍性(カトリック性)をいっそう輝かしく示しています」『教会憲章』,第23項。。
[836]
「すべての人が神の民の普遍的一致に招かれており、また、カトリック信者もキリストを信じる他の人々も、さらには、神の恩恵によって救いに招かれているすべての人々も、種々のしかたでこの一致に属しており、あるいは秩序づけられているのです」『教会憲章』,第13項。。
[837]
「キリストの霊を持ち、教会の制度の全体と教会に備えられたいっさいの救いの手段を受け入れ、また信仰宣言、秘跡、教会的統治および交わりのきずなによって、教皇と司教たちを通して教会を治めておられるキリストに、教会の見える組織の中で結ばれている人々は、教会の団体に完全に合体しています。しかし、たとえ教会に合体してはいても、終わりまで愛にとどまらず、『からだ』では教会のふところにとどまりながらも、『心』ではとどまっていない者は、救われないのです」『教会憲章』,第14項。。
[838]
「洗礼を受けて、キリスト信者の名をいただいてはいるが、信仰の全体を認めていないか、あるいはペトロの後継者のもとにおける交わりの一致を守らない人々については、教会は自分が多くの理由で彼らと結ばれていることを知っています」『教会憲章』,第15項。。「キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリック教会とのある交わりの中にいるのです」『エキュメニズムに関する教令』,第3項。。東方諸教会とのこのような交わりはとくに深く、「ごくわずかのことが、主のエウカリスチアの祭儀をともに挙行するのを妨げているにすぎません」パウルス6世「ローマ教会とコンスタンティノポリス教会間の相互破門の廃止から10年目に際してシスティナ礼拝堂で行ったあいさつ(1975年12月14日)」(AAS68 [1976] 121)。『エキュメニズムに関する教令』,第13項-第18項参照。。
[839]
「福音をまだ受けなかった人々も、いろいろな意味で神の民へ秩序づけられています」『教会憲章』,第16項。。
教会のユダヤ人との関係。新しい契約における神の民である教会は、自分の神秘を深く探るとき、ユダヤ人とのつながりを見いだしています 『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』,第4項参照。。「この民に、神は最初に語りかけられたのです」『ローマ・ミサ典礼書』聖金曜日・主の受難の祭儀の盛式共同祈願6。。キリスト教ではない他の諸宗教とは違い、ユダヤ人の信仰はすでに古い契約における神の啓示にこたえるものです。「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によれば、キリストも彼らから出られたのです」(ローマ9∙4-5)。なぜなら、「神のたまものと招きとは取り消されないもの」(ローマ11∙29)だからです。
[840]
そのうえ、将来を考えるときには、旧約の神の民と新しい神の民とは、類似の目標、つまりメシアの到来(あるいは再臨)を志向しています。しかしそれは、一方が、死んで復活され、主、神の子と認められたメシアであるキリストの再臨への待望であるのに対して、他方は、世の終わりのメシア到来への待望なのです。ただし後者の待望のほうは、メシアの姿がはっきりせず、キリスト・イエスを知らないか認めないという悲しい状態を伴ったものなのです。
[841]
教会のイスラム教徒との関係。「救いの計画は創造主を認める人々をも包容するものであって、そのような人々のうちには第一に、アブラハムの信仰を保っていると主張し、最後の日に人々を審判される唯一にしてあわれみ深き神を、わたしたちとともに礼拝するイスラム教徒が含まれます」『教会憲章』,第16項。『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』,第3項参照。。
[842]
教会とキリスト教以外の諸宗教との結びつきは、まず、人類が共通の起源と目的とを持っているということです。
「神は全人類を地の全面に住まわせられたので、すべての民族は一つの共同体をなし、唯一の起源を有します。また、すべての民族は唯一の終極目的を持っており、それは神なのです。神の摂理といつくしみのあかし、さらに救いのはからいは、選ばれた者が聖なる都に集められる日が来るまで、すべての人に及びます」『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』,第1項。。
[843]
教会は他の諸宗教のうちに、「まだ影と像のもとで」求められる、知られざる神、しかし遠く離れてはおられない神の探求があることを認めています。なぜなら、神はすべての人にいのちと息とすべてをお与えになり、万人が救われるのを望んでおられるからです。したがって、教会は、諸宗教の中に見いだされるよいもの、真なるものはすべて福音への準備であって、「ついには生命を得るようにとすべての人を照らされるかたから与えられたもの」 『教会憲章』,第16項。 『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』,第2項、パウルス6世『福音宣教』53(loc. cit.. 41)参照。とみなしています。
[844]
しかし、人間の宗教的な実践には、自分の中の神の姿をゆがめる不完全さや誤謬も見られます。
「しばしば人々は、悪魔に欺かれて、自分たちの考えにむなしく迷い、神の真理を偽りと置き替えて、創造主よりも被造物に仕えたり、あるいは神なしにこの世に生きそして死んでゆくなど絶望の極みにさらされています」 『教会憲章』,第16項.。
[845]
罪によって四散し、道に迷うすべての子らを再び集めるためにこそ、御父は全人類を御子の教会に招集しようと望まれたのです。教会は、人類がその一致と救いとを見いだすはずの場です。教会は、「和解させられた世界」です聖アウグスティヌス『説教』 (Sermo96,7, 9: PL 38, 588)参照。。教会は、「聖霊の風にキリストの十字架の帆をいっぱいに張ってこの世を航海する」聖アンブロジウス『処女性論』 (S. Ambrosius, De virginitate 18, 119 : Sancti Ambrosii Episcopi Mediolanensis opera, v. 14/2 [Milano-Roma 1989] 96)。船です。教父たちが好んで用いる別のたとえによれば、大洪水から人々を救う唯一のものであったノアの箱船は教会の象徴だということになります1ペトロ3・20-21参照。。
[846]
教父たちがしばしば繰り返したこの主張を、どのように解釈すべきでしょうか。これを肯定形にすれば、救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します。
聖なる教会会議(公会議)は、「聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教えます。なぜならキリストのみが仲介者であり救いの道であって、そのキリストはご自分のからだすなわち教会の中で、わたしたちにとって現存するものとなるからです。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばをもって教えることによって、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中に入る教会の必要性をも同時に確認されました。したがって、カトリック教会が神によってイエス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否するとすれば、このような人々は救われることはないでしょう」『教会憲章』,第14項.。
[847]
「救われない」というこの主張は、自分の過ちによらずにキリストやキリストの教会を知らない人々には当てはまりません。
「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができます」『教会憲章』,第16項。検邪聖省『ボストンの大司教にあてた書簡(1949年8月8日)』 (DS3866〜DS3872)参照。。
[848]
「本人の側に落ち度がないままに福音を知らないでいる人々を、神はご自分だけがご存じの道で信仰⸺それなしには神に喜ばれることはできないヘブライ11・6参照。⸺へ導くことがおできになるとはいえ、〔すべての人に〕福音をのべ伝えるという必須の義務と聖なる権利とを教会は持っています」『教会の宣教活動に関する教令』,第7項.。
[849]
宣教命令。「『救いの普遍的秘跡』となるようにと神から諸国民のもとへ派遣された教会は、教会独自の普遍的性格そのものに促され、また、自分の創立者の命令に従いつつ、すべての人に福音をのべ伝えようと心掛けます」『教会の宣教活動に関する教令』,第1項。。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28∙19-20)。
[850]
宣教の起源と目的。キリストによって与えられた宣教命令の本源は、聖三位の永遠の愛です。「旅する教会は、その本性上、宣教することを使命とします。なぜなら教会は、父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣とにその起源を持っているからです」『教会の宣教活動に関する教令』,第2項。。そして、この宣教の究極の目的は、人々を、愛の霊における父と子との交わりにあずからせることにありますヨハネ・パウロ2世回勅『救い主の使命』23(Redemptoris missio : AAS 83 [1991] 269-270)参照。。
[851]
宣教の動機。教会がいつの時代でも、やむにやまれぬ宣教活動の力をくみ取ったのは、万人に対する神の愛です。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(二コリント5∙14)第2バチカン公会議『信徒使徒職に関する教令』,第6項 (Apostolicam actuositatem) 、ヨハネ・パウロ2世『救い主の使命』11 doc. cit., 259-260)参照。。事実、神は「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(一テモテ2∙4)。神はあらゆる人が、真理を知ることによって救われることを望んでおられます。救いは真理のうちにあります。真理の霊の働きに従う人々はすでに救いの道の途上にあります。しかし、この真理をゆだねられている教会は、行って、これらの人々の願望にこたえ、真理をもたらさなければなりません。教会は、救いの普遍的計画を信じているからこそ、宣教しなければならないのです。
[852]
宣教の道。「聖霊は、教会のあらゆる使命の主要な働き手です」ヨハネ・パウロ2世『救い主の使命』21 (loc. cit., 268)。。宣教するようにと教会を導かれるのは聖霊です。「この使命は、貧しい人々に福音をのべ伝えるために派遣されたキリストご自身の使命を継承し、かつ歴史の流れを通してそれを展開させているものですから、教会も、キリストご自身が歩まれたそれと同じ道、すなわち貧しさ、従順、奉仕の道、そして死⸺キリストはこの死から、復活を通して勝利者として立ち上がられた⸺に至るまでの自己奉献の道を、キリストの霊に駆られて歩まなければなりません」『教会の宣教活動に関する教令』,第5項。。こうして、「殉教者の血はキリスト者の種」テルトゥリアヌス『護教論』(Tertullianus, Apologeticum 50. 13 : CCL 1, 171 [PL 1, 603])。となるのです。
[853]
しかし、旅する教会はまた、「教会の説く教えと福音を託された者の人間的弱さとの間に大きな隔たりがある」『現代世界憲章』,第43項。ことをも体験しています。神の民がキリストのみ国を広めるのは、ただ、「悔い改めと刷新」の道『教会憲章』,第8項。『教会憲章』,第15項参照。、「狭い十字架の道を進む」『教会の宣教活動に関する教令』,第1項.ことによってのみ可能ですヨハネ・パウロ2世『救い主の使命』12-20(loc. cit., 260-268)参照。。事実、「キリストが貧困と迫害のうちにあがないのわざを完成されたように、救いの成果を人々に分かつためには教会も同じ道を歩くよう招かれています」『教会憲章』,第8項。。
[854]
教会はその使命上、「全人類とともに歩み、世と同じ地上的成り行きを経験します。教会は人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命をもっています」『現代世界憲章』,第40項。。したがって、宣教の努力は忍耐を必要とします。まず初めに、キリストをまだ信じていない人々あるいは集団に福音を告げ知らせますヨハネ・パウロ2世『救い主の使命』42-47(loc. cit., 289-295参照。。ついで、世における神の現存のしるしである『教会の宣教活動に関する教令』,第15項参照。キリスト者共同体を設立し、地方教会を創立しますヨハネ・パウロ2世『救い主の使命』48-49(foe. cit., 295-297)参照。。各民族の文化に福音を根づかせるため、インカルチュレーション(福音の文化内開花)の過程を進めます同52〜54(loc. cit., 299-302)参照。。宣教の努力を続けるとき、挫折を経験しないわけにはいきません。「人々、団体、国民に関しては、教会は漸進的に彼らに接触し、またその中に浸透していき、こうしてついには彼らをカトリック的豊かさの中に受け入れるのです」『教会の宣教活動に関する教令』,第6項。。
[855]
教会の宣教は、キリスト者の一致への努力を促しますヨハネ・パウロ2世『救い主の使命』50(loc. cit., 297-298)参照.。というのは、「キリスト教徒の分裂は、洗礼によって教会に属していながらも教会の完全な交わりから離れている子らの中に、教会が自分に固有の完全な普遍性(カトリック性)を実現することを妨げ、そればかりでなく教会自身にとっても、生活そのものの現実の中に完全な普遍性(カトリック性)をあらゆる面から表現することがいっそう困難になる」『エキュメニズムに関する教令』,第4項。からです。
[856]
宣教の任務には、まだ福音を受け入れていない人々との尊敬を込めた対話が含まれていますヨハネ・パウロ2世『救い主の使命』55 (loc. at., 302-304参照。。信者はこの対話によって、「いわば、神の隠れた現存のように、すでに諸民族のもとに存在した真理と恩恵のすべて」『教会の宣教活動に関する教令』,第9項。をいっそうよく理解できるようになるので、大いに益するところがあります。信者たちがまだ知らない人々に福音を告げ知らせるのは、個々人と民族の間に広まっている真理と善を固め、補完し、高めるためであり、「神の栄光をあげ、悪魔を恥じ入らせ、人間に幸せをもたらすことを目指して」『教会の宣教活動に関する教令』,第9項。、誤謬と悪から彼らを浄化するためです。
[857]
教会が使徒継承であるのは、使徒たちの上に建てられたからです。それには三つの意味があります。
⸺教会は「使徒という土台の上に」(エフェソ2∙20)建てられたものです
黙示録21・14参照。。使徒たちはキリストご自身によって選ばれ、宣教に派遣された証人です
マタイ18・16-20、使徒言行録1・8, 1コリント9・1,15-7,ガラテヤ1・1など参照。。
⸺教会は、自分のうちに住まわれる霊に助けられて、使徒の教え
使徒言行録2・42参照。、ゆだねられた善、使徒たちから聞いた健全なことば
2テモテ1・13-14参照。を守り、伝えます。
⸺教会は、キリストの再臨のときまで、使徒たちの司牧の任務を受け継8ぐ人々の働きを通して、使徒たち自身によって教え、聖化し、導かれます。その任務を受け継ぐ人々とは、「ペトロの後継者である教会の最高牧者と一致し、司祭たちに補佐される」司教団
『教会の宣教活動に関する教令』,第5項。のことです。
「永遠の牧者であるあなたは羊の群れをお見捨てにならず、使徒を通してたえず守り、御子の代理者と定められたこの牧者を通し、いつもわたしたちを治められます」 『ローマ・ミサ典礼書』使徒の叙唱1。。
[858]
イエスは御父から遣わされたかたです。宣教の初めから、イエスは「これと思う人々を呼び寄せられ、……十二人を任命〔されました〕。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ」(マルコ3∙13-14)るためでした。そのときから彼らは、イエスから「遣わされた者」(ギリシア語ではアポストロイἀπόστολοι、すなわち「使徒」)となりました。イエスはご自身の使命を使徒たちを通して続けられます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20∙21)ヨハネ13・20,17・18参照。。したがって、使徒たちの務めはイエスご自身の使命の継続です。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ」(マタイ10∙40)ると、イエスは十二使徒にいわれましたルカ10・16参照。。
[859]
イエスは使徒たちを、御父から受けたご自分の使命をともに果たす者となさいました。「子は自分からは何事もできない」(ヨハネ5∙19,30)のですが、ご自分を遣わされた御父からすべてを受けられました。これと同様に、イエスがお遣わしになる人たちも、宣教の命令とそれを果たす機能とを与えてくださったイエスなしには何事もできませんヨハネ15・5参照。。したがってキリストの使徒は、自分たちが神から「新しい契約に仕える者」(二コリント3∙6)、「神に仕える」(二コリント6∙4)者、「キリストの使者の務め」(二コリント5∙20)を果たす者、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(一コリント4∙1)にふさわしい者とされたことを知っているのです。
[860]
使徒たちの任務のうちには、他人に譲ることのできない領域があります。それは、キリストの復活の選ばれた証人、教会の土台であるということです。しかし、その任務にはいつまでも続けなければならない他の領域もあります。キリストは世の終わりまで、使徒たちとともにおられることを約束なさいましたマタイ28・20参照。。「キリストから使徒たちにゆだねられたこの神的使命は、世の終わりまで続きます。なぜなら、彼らが伝えるべき福音は教会にとって、あらゆる時代を通して全生活の源泉であるからです。このために使徒たちは、……後継者を定めるよう配慮しました」 『教会憲章』,第20項。。
[861]
使徒たちは、「自分たちにゆだねられた使命が自分たちの死後にも続けられるように、その直接の協力者たちに、いわば遺言の形で、自分たちによって始められた仕事を完成し堅固にする任務を課し、神の教会を牧するものとして聖霊が彼らを群れの中に置かれたその群れ全体に気を配るよう、彼らに勧めました。そこで使徒たちはこのような人々を立て、なおこの人々が死去したときには、その役職を試練を乗り越えた他の人々が受け継いでゆくように命じました」『教会憲章』,第20項。聖クレメンス1世『コリントの信徒への手紙』 (S. Clemens Romanus, Eptstula ad Corinthios, 42, 4 ; 44, 2 : SC 167, 168-170 [Funk 1, 152] ; SC 167, 172 [Funk 1, 154-156])参照。。
[862]
「使徒たちの頭であるペトロー人に主から授けられたものであり、そしてその後継者に伝えられてゆくべきものである任務が永続するのと同じように、教会を司牧するという使徒の職務も永続するのであって、司教の聖なる任位によっていつまでも行使されるべきものです」。したがって教会は、「司教が教会の牧者として使徒の位置を継承したのであり、彼らに聞く人はキリストに聞き、彼らをさげすむ人はキリストと、キリストを遣わされたかたをさげすむものである」『教会憲章』,第20項。と教えるのです。
[863]
教会全体は、ペトロと使徒たちの後継者を通して信仰と生活とがその起源とつながっているという意味で、使徒的です。また、教会全体が全世界に「遣わされている」という意味で、使徒的です。教会のすべての成員は、それぞれが異なった方法でこの使命に参加します。「キリスト者としての召し出しは、そのまま使徒職への召し出しでもあります」。「キリストの王国を全地に」広める目的に向けられた「神秘体の活動はすべて」「使徒職」 『信徒使徒職に関する教令』,第2項。と呼ばれます。
[864]
「父から遣わされたキリストは教会の全使徒職の源泉であるから」、司祭や信徒の「使徒職の実りがキリストとの生きた一致にかかっていることは明白です」『信徒使徒職に関する教令』,第4項。ヨハネ15・5参照。。召命、時代の要請、聖霊の多様なたまものに応じて、使徒的活動はきわめて多様な形を取ります。しかしどんなときも、とくにエウカリスチア(聖体)からいただく愛が、「全使徒職の魂ともいうべき」『信徒使徒職に関する教令』,第3項。ものとなるのです。
[865]
教会はその根源とそもそもの成り立ちから、一、聖、普遍、使徒継承です。なぜなら、教会においてこそ、「天の国」、「神の支配」黙示録19・6参照。がすでに存在し、また、世の終わりに完成されるからです。それはキリストにおいて到来し、キリストに合体された人々の心の中で神秘的に成長し、世の終わりについに完全に現れるものです。そのとき、キリストにあがなわれ、キリストの中で「愛において神のみ前で聖なる者、汚れのない者」エフェソ1・4参照。とされたすべての人間は一つに集められ、神のただ一つの民、「小羊の花嫁」黙示録21・9参照。、「天から、神のもとからくだり、神の栄光に輝く都」黙示録21・10-11参照。となります。そして「都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけて」(黙示録21∙14)あります。
[866]
教会は一つです。ただ一人の主を持ち、ただ一つの信仰を公言し、ただ一つの洗礼から生まれているからです。教会はただ一つの霊によって生かされた、ただ一つのからだを成しています。そして、ただ一つの希望にあずかりエフェソ4・3-5参照。、終わりにはすべての分裂が克服されるでしょう。
[867]
教会は聖です。至聖なる神が創立者だからです。その花婿であるキリストは、教会を聖化しようとして教会のためにご自分のいのちをささげられ、聖性の霊が教会にいのちをお与えになります。罪びとを抱えてはいますが、教会そのものは罪びとからなる罪なきものです。教会の聖性は聖人たちのうちに輝き出ます。マリアにおいて、教会はすでにまったく聖なるものなのです。
[868]
教会は普遍です。信仰の全体を告げ、そのうちに救いのあらゆる手段を持ち、分かち与えるからです。教会はすべての民に遣わされて、すべての人に呼びかけます。あらゆる時代において、教会は「その本性上、宣教することを使命とします」『教会の宣教活動に関する教令』,第2項.。
[869]
教会は使徒継承です。恒久的な土台、すなわち、小羊の十二使徒黙示録21・14参照。の上に建てられているからです。教会は破壊されないものですマタイ16・18参照。。神は真理を誤りなく保つように教会を支えておられます。それぞれの後継者である教皇と司教団のうちにいるペトロと使徒たちとを通して、キリストが教会を治めておられます。
[870]
「わたしたちが信条の中で、一、聖、公(普遍)、使徒継承であると宣言するキリストの唯一の教会は、……ペトロの後継者と彼と交わりのある諸司教によって治められているカトリック教会のうちに存在します。しかし、この教会の組織の外にも成聖と真理の要素が数多く見いだされます」 『教会憲章』,第8項。。